9
お腹が減ったと思い、オフィス内の時計を見ると既に13時を超えていた。休憩にしようと腰を上げると、入り口付近から賑やかな声が聞こえた。
「戻りましたー、お疲れ様です」
「おー、お疲れ。どうだった?」
「なかなかいい感じっす」
外回りから帰ってきた高見くんが笑って先輩に報告をしていた。彼がいると雰囲気が明るくなるのは立派な長所だろう。
財布を持ってその場から離れる。すると高見くんが足早にこちらまで来て慌てたように話しかけてきた。
「求さん!木曜日ですよ!」
「あ……」
「ご飯食べに行きましょ。俺お腹空いたよ」
「あ、う……」
高見くんにちゃんと話しかけてもらったのが久々で、喉が引きつってしまった。俺はあれ以来高見くんを避けてしまっている。高見くんだけでなく、周りの人達も。
うん、行こうって、言ってあげたい。パフェのお店も一緒に行ってみたいって言いたいのに。
「ご、ごめん。やっぱり、あの、人多い所で食べるの、苦手で」
「え……」
「高見くん、だけで行った方がいいよ……。そ、それか、他の人、誘って……」
「は……?……え、そんなの……じゃあ場所変えよ。人少なそうなとこ行けばいいよ」
「あっ、あの、そうじゃなくて……」
「なに?何が駄目なの?」
高見くんは少しイライラしているように感じた。こんな事言いたくなかった。高見くんを傷付けたくなかったけど、もしも王野に高見くんと食事をとった事が知られたら、高見くんが何されるか分からない。もしも高見くんに何かあったら、俺は今度こそ本当に気をやってしまう。
「おれっ……た、高見くん、と、ごはん、食べちゃいけない……」
「は。……は?」
「……もともと釣り合うような人間じゃないし……俺、みたいなのと、一緒にいちゃ駄目だから、……ごめんなさい」
「……なんで、そんな事、言うの……」
肺が痛くて、心臓が痛くて上手に息が吸えない。高見くんの表情を伺うのさえままならない。
前方からは苦しそうな声が聞こえる。
「俺が嫌な後輩だったから?今までの全部、鬱陶しかった?……俺と一緒にいるの、嫌だったの?」
「ちがっ……」
「違うんなら、ちゃんと教えてよ!何がそんなに怖いんだよ!」
なんだ、と周りがざわついてきた。でも、そんな喧騒なんて耳に入らない。ただ高見くんの言葉だけが、俺の心臓に針のように突き刺さる。__それでも俺は何も言えなかった。
「ごめん……お、俺と、もう関わんない方がいいよ……」
顔を合わせず、俺は高見くんの横を通り抜けて行った。
ごめんなさいとただひたすら心の中で唱えるしかなかった。
10
それから俺は、仕事で必要な時以外は誰とも喋らなくなった。もともと積極的に先輩や後輩と喋るタイプではなかったけれど、尚更口を開く場面が無くなっていった。唯一喋ってもいいのは王野だけ。
王野は常に俺を見張るような視線を送ってくるし、暇さえあれば俺を連れ出して二人きりになろうとしてきた。お昼休み、今日も出入りの少ない資料保管室に連れて行かれた。
「求、あんまりご飯食べなかった?」
「たべ、食べたよ……」
「嘘でしょ。目泳いでる」
「……食べたよ、ゼリーの」
「それは食事って言わないよ。食欲ない?」
俺はこくりと頷いた。適応障害になった後仕事復帰してから、ずっと食欲なんてない。でも最近はそれに拍車が掛かっている気がする。
「仕事しんどい?大変なら俺が手伝うよ」
「いや、いいよ」
「本当に?求には無理してほしくないんだよ」
「っ……」
俺は拳を握り締めて静かに震わせた。
どの口がそれを言ってるんだよ。
じゃあ俺を解放してくれよ。俺の自由を奪わないでくれよ。
俺を無理させてんのは、他でもなく王野だろ。
「大丈夫だから。気にしないで……」
なんて、言えるはずもない。
「……帰ったら今日は一緒にお風呂入ろう。寝る前に映画見て、ゆっくり寝よう。ね?」
王野は俺を優しく抱き締めた。
俺にそれを拒否する力は残っていない。それに何故かは分からないけれど、最近の王野は何かに怯えているような気がする。いっぱい俺を束縛して、俺の血が止まりそうになったら少し緩めて謝って優しくしてくる。まるで必死に俺を繋ぎとめようとしているみたいだ。それを感じると、情なのか自分の中の偽善なのか、何も拒否出来なくなってしまう。
弱い俺は、王野の手を振り払う事も繋ぐ事も出来ない。
昼休みが明け、俺は再びデスクに戻った。ああ、もうすぐしたら先方に電話しないと。嫌だな。明日は別の会社に営業しに行かないといけない。嫌だな。資料まとめてロープレして準備しないと。嫌だな、どうせ何をやってもうまくいかないのに。やりたくないけど、やらないと。嫌だな、いつまでこんな気持ちで働かないといけないんだろう。俺はいつまで__
「求さん」
声がして、ハッと顔を上げる。高見くんがいた。俺にファイルを差し出している。
「これ、前言ってた報告書です」
「あ、ああ……。ありがとう」
「……」
ファイルを受け取り、すぐに顔を逸らす。キーボードの上に置いていた手を動かし始めたが、高見くんはその場から去ろうとはしなかった。俺は気付かないフリをして作業をし続ける。心臓が痛い。早く、頼むから、俺の事は放っておいてほしいのに。
「……なんで」
空気に溶けるような言葉はすぐに消えていった。思わず手を止める。視線は文字列に固定したまま、動かせない。
「なんで、俺の事避けるの」
「……」
避けてないよ、と喋ろうとした口は開く事もなかった。高見くんはきっと俺の事を睨んでいるだろう。その気配を感じながら、俺は唇を噛み締めた。
「なんで、俺さあ、今日頑張ったんだよ、おっきいとこの契約取ったんだよ、なんで、ちょっとでも褒めてくれないの?」
「……っお、お、俺じゃなくても、俺じゃない人に、いっぱい褒めてもらってたじゃん」
「そんなの意味ない!」
ぐっと肩が掴まれる。俺と高見くんの視線が交差した。ブレて、絡まって、覚束ない。彼の純朴さを感じる瞳が、時々嫌になる。そんな事を思う自分はもっと嫌いだ。
「意味ないよ、求さんに褒めてほしいんだよ!なんで分かんなの?」
「……」
「……すみません、迷惑ならもう関わらないんで」
高見くんは手を離して踵を返そうとした。中途半端な俺は高見くんを完全に拒絶する事も出来なかった。思わずその腕を掴んでしまう。
「っ、ちがっ、う、」
視界がぐらっと傾く。思うように力が入らない。受け身をとる事もできずに俺の体は床に吸い込まれる。
じんわりと薄れていく意識の中で、高見くんが俺の名前を呼ぶ声だけが頭に響いた。
11
「俺、あの人苦手」
「え、なんで?害があるような人じゃないじゃん」
「だってあの人__」
今年の新卒はレベルが高いな、と持て囃された代だった。高見くんは今や社内でもトップレベルの成績を誇る実力者だけど、高見くんの同期の子達も、グループ会社内で行われる営業成績を競うコンテストで入賞するくらい成績が良かった。
今はもう吸っていないけれど、高見くんは以前は喫煙者だった。喫煙所で先輩とコミュニケーションを取りたかったから、らしい。喫煙が良い悪いとかではないけれど、そういう繋がりのためにタバコを吸い始められる勇気があるのが羨ましかった。
本当にたまたまだった。喫煙所の隣には自動販売機がある。そこで飲み物を買って、すぐに仕事に戻ろうとしていた時だった。タバコの匂いがするな、と思って喫煙所を見ると扉が少し開いていた。閉まりが甘かったのだろう。社内の喫煙所は磨りガラスになっていて、俺には中の様子を知る機会はさっぱりなかった。
その喫煙所の中からふと会話が聞こえてくる。声でなんとなく、高見くんとその同期の子達だなと分かった。会話を盗み聞きするつもりなんてなかったけど、強制的に意識を向けてしまう単語が出てきたのだ。
「ああ、求さんね」
「やっぱり一番じゃない?珍しい苗字って言うと。王野主任もまあ聞いたことないけど」
なるほど、珍しい苗字の話だ。なんとなく続きが気になって、足を止めてしまった。
「あの人ね、すっげー優しいんだよ。優しい?っていうか、まあ、なんか……損な役回りな気がするけど」
「なんとなく分かるな」
「ゴミ集めんのとか、シュレッダーの屑まとめんのとか、順番狂ったファイル並べ直すのとか、ウォーターサーバーの水変えんのとか、全部やってんの。誰にもなんにも言われてないのに。新卒に任せればいいのに、何も言わずやってんだよ」
「いい人じゃん」
なんとなくむず痒い感じがして、頬が緩んだ。別に誰かに褒めてほしくてやっていた訳ではないけれど、影でそう言ってくれると少しだけ報われる気がした。ただ、俺の浮かれてしまった気分も一気に落とされる事になる。
「俺、あの人苦手」
ぎくっとした。その声は高見くんのものだった。好かれてはないと思っていたが、直接明言された事はなかった。聞かなくてもいいのに、聞いたら確実にダメージを受けるのに、俺の足は動かなかった。
「え、なんで?害があるような人じゃないじゃん」
「だってあの人__」
じわっと手に汗が広がるのを感じる。言ってほしくない。なのに、俺はその先の言葉をずっと待っている気がした。
「いっつも助けてほしい、みたいな顔してんのになんも言わないし。そのくせ大量にできない仕事抱えてくるし、見ててイライラする」
心臓を抉り取るような鋭さだった。何一つ間違っていない。誰にも何も言われてこなかったけど、数個下のこの後輩はハッキリと俺の欠点を言葉にしている。
「そんなんで水面下の誰にも知られないようなちっせえ奉仕やってくれてもさ、あーまたなんか一人で頑張ってんな、くらいにしか思わないんだよ。あれは優しさからくるもんじゃなくて、上手に仕事ができないからせめてこれだけは、みたいな罪悪感からやってるんじゃないの?」
「うわ……高見怖ぁ〜……」
「分析エグいな」
「お前の先輩じゃなくて本当に良かったわ」
「そんな目で見んなよ!」
喫煙所内は盛り上がりを見せているが、俺は意識を保つので精一杯だった。
彼の言っている事は全部本当なのだ。だからこそ言われた言葉一つ一つが俺の心臓に突き刺さる。
「もうお前それ苦手とかじゃないじゃん。嫌いだろ」
「……嫌いじゃねえって」
「嘘つけよ。お前求さんにやたらと当たりキツイし。嫌いなんだろ?」
「だから、嫌いじゃねえって」
どう違うの?嫌いと、苦手って。
人間関係を築くのが絶望的なまでに下手な俺には違いが分からない。どちらもマイナスである事には変わりない。
「もっと、周りの人に助けてって言えばいいのに」
言えないんだよ。それを言って誰かから嫌われるのが怖いんだよ。
「まあ間違ってもお前には頼らねえだろうな。先輩からしたらお前なんて怖い存在だろうし」
「口悪いし、敬語も禄に使えないしな」
「うるさいな。別にどうでもいいです〜」
温かい缶コーヒーだけが唯一感じる温度だった。それをぎゅっと握り締めて、俺は重たい足を引きずりながら仕事に戻って行った。
12
目を覚ますと真っ白い空間だった。
右腕には管が通っている。血液の中になにか分からないものが流れ込んでいた。
「求さん、起きた!?」
視線を動かすと、高見くんが泣きそうな顔で俺を見ていた。周りの設備で気付く。多分ここは病院で、俺はベッドの上で寝ている。俺は体を起こして高見くんを見上げる。
そっか、俺、倒れたんだった。
「栄養失調と、睡眠不足だって……。求さん、ご飯ちゃんと食べてなかったの?寝れなかった?なんで?」
「……高見くん、会社……仕事は。あっ、ごめん、俺のせいで、つ、付き添い?ごめん、仕事あるのに、」
「俺の事聞いてんじゃないの、求さんの事聞いてんだよ」
「ああ……うん、ごめん……」
「だから、ああもう、なにに謝ってんの……。ねえ、そんなんになるくらい何が嫌だったの?」
「……俺、は、……」
言ってしまいたくなる。この子に、この年下の子に縋ってしまいたくなる。この空間には俺と高見くんの二人しかいない。今なら言える。言えるのに、開いた口は震えるだけでなにも出てこない。
高見くんはそんな俺を見て表情を険しくした。
「俺?それとも、__王野主任?」
「!」
「……ごめんなさい、俺、知ってるんです。求さんが王野主任に脅されてるの」
「な、なん、……え、なんで……」
「……」
高見くんは唇を噛んで目を潤ませながら、もう一度謝罪した。
「見ました。あの日の夜、求さんの退職願が破かれて、脅されて、……お、犯されて、んの、すみません、俺、なんもできなかった」
「うそ……」
「……知ってるんです、あれから求さんがずっとおかしいのも、王野主任がおかしいのも、求さんがもう全部限界なのも。だから俺、ずっと待ってるんです」
「ま、待つ、なにを」
「求さんが、俺に助けてって言ってくれるの」
窓から西日が射す。眩しいのだろうか。それとも、なにかを堪えているのだろうか。高見くんの目にぎゅっと力が入る。
俺はなにも言えない。高見くんの勇気と俺の勇気は釣り合わない。こんなに素直で優しい子は巻き込みたくない。
「言えない、言えないよ……。知ってるでしょ、王野、怖いんだよ。一人の人生なんて簡単に狂わせられる。……いいよ、俺が王野といれば、それで全部収まるんだよ。俺、一人くらい、だ、だい、大丈、夫だ、だか」
言い切る前に、俺の顔は無理やり持ち上げられた。至近距離に熱を感じる。俺の頬にぽたりと水滴が垂れる。
「頼れよ、俺を!!」
病室内に高見くんの声が響く。ぽたり、ぽたりとまた涙が落ちて来た。潤んだ瞳は曇りなんてなくて、キラキラと光っていた。
俺は唖然としたまま高見くんを見る。心臓が、じんと震えている気がする。
「求さんが前助けてくれたの、本当はすげー嬉しかった。褒めてくれたのも、俺、なんでか知らないけど、誰に褒めらたのよりも一番嬉しかったんだよ。ほんとう、本当だよ」
高見くんの手の震えがこちらまで伝わってくる。上手に呼吸ができない。なんで俺、そんな大それた事なんてしてないのに。
「求さんが俺を避けてんの、きっと俺を守るためなんでしょ」
「……!」
「……分かるよ。求さん、嘘下手、だから……」
高見くんの涙で頬が冷えていく。気付いたら俺も泣いていて、もうどっちの涙なのか分からない。
「求さんが俺を守ってくれるんなら、助けてくれるんなら、お、俺も、求さん、助けさせてよ…」
「あ、う……」
箍が外れたみたいに涙が止まらない。高見くんの緊張が俺にまで伝わる距離で、すうっと息を吸う音が聞こえた。
「求さん、好きです」
「っ、え……」
「俺、分かってます。王野主任に勝てないのも、求さんの一番になれないのも。……求さんの一番の人、他にいるのも」
「……」
それは、叶う事のなかった新しい居場所を与えてくれようとした人だろうか。
高見くんの口がふるっと震える。
「こんな時に言うのもズルいって分かってます。でも、好きなんです……。今は一番じゃないけど、絶対一番になるから、だから、俺、求さんと一緒にいたい。俺が助けるから、求さん、お願い……」
「俺は……」
その瞬間、突然病室の扉が勢い良く開いた。
いつもそうだ。いつも、一番大事なタイミングで、俺の意思を奪う。
「随分元気そうだね。医師にもう大丈夫そうですって言ってこようか?」
「あ、お、っ、王野……」
「……」
いつから俺達の会話を聞いていたんだろう。王野は開けた時の勢いとは正反対にゆっくりと扉を閉め、俺の方に近付いてきた。高見くんが王野の前に阻むが、王野はたった一言呟いた。
「邪魔」
高見くんの体をぐいっと押しのけた。高見くんも王野の底知れぬ雰囲気に気圧されているのか、ただ体を震わせて顔を青くしていた。
「求」
「ヒッ、い、うう」
「なんでかなあ……」
王野は俺の側まで近寄り、怯えきった顔を掴んだ。そしてそのまま強引に口を寄せる。頑なに口を結んでいると、この場の雰囲気に似合わないくらい優しい声色で呟く。
「口、開けるでしょ」
「……っ、は、ァ」
王野の指示は絶対だという事が体に刷り込まれている。ここが病室だとか、高見くんが見てるだろうとか、何もかもを忘れてただ王野の言う事を聞いた。
「あ、あ、ッ、ふ……」
わざと水音を鳴らすように口内をぐちゅぐちゅと蹂躙し、溢れきった唾液はぼたっと顎先を伝って服に落ちていった。嫌なのに、こんな、最悪な状況なのに、なんで。
「っ、おい!なにすんだよ、やめろ!!」
高見くんの荒い声が響き、王野の顔は離れていった。王野は俺の顔を見て破顔する。
「あははっ!いい顔するね!」
「は……」
「バレてるよ」
弱い力で握っていた掛け布団が王野の手によってめくられ、体が外気に晒される。俺は顔色を変えて必死に前屈みになった。
「求ね、俺とキスしただけでこんなんになるんだよ。可愛いでしょ?」
「……や、ちが、ちがう、うう……」
言葉では否定しても、体は言う事を聞かない。俺の中心は熱を持って上を向く。こんな浅ましい体、高見くんに見られたくなかった。
「……あんた、本当に……クソ野郎だな」
「なんとでも言えばいいよ」
王野は高見くんに笑いかけ、そしてそのままの顔でもう一度俺に向き合った。
「求、俺言ったよね。覚えてられなかった?本当に聞き覚えが悪いなあ」
「……っ!あっ……、あ、ごめっ、ごめんなさいっ」
「……求さん?」
「王野、ごめんなさい、もっ、もう、関わらないからっ」
「何回同じ事言うの?流石にもう信じられないかな」
高見くんに関わるなと言われたのに、こんな事になって、挙句王野には全てを見られていた。高見くんがこの先王野に何をされるか分からない。俺は恐怖でガクガクと体を震わせた。
「た、高見くんには、なにもしないで!俺がちゃんと言う事聞くから、俺なんでもするから、王野、ごめんなさい」
「庇うの?高見の事。……優しいね」
「求さん、待って、なんで……」
「求は俺の事選んでくれるよね?」
「……う、う……」
「……ふざけんな、無理やり言わせんなよ」
「無理やりじゃないよ。ねえ、求」
「ひ……」
「……求さん、選んで。俺か、王野主任か」
二人が俺を見る。
どちらを選んでも、結局俺は誰かを傷付けてしまう。
「ちゃんと、自分の意志で。……求さん」
なんでもいいやって思う所。自分の意思で決められない所。高見くんに言われた俺の駄目な部分がぐるぐると渦を巻く。
「俺、おれっ……お……」
歯がカタカタと音を鳴らす。どちらを選んでも、誰かを傷付ける。そんな怖い事俺にはできない。自分の意志で選ぶって、怖い事だ。全部自分で背負わないといけない。俺は無責任だから、弱い人間だから、二つに一つが怖くて選べない。
「俺、は……」
怖くて、一度止まったはずの涙がまたボロボロと零れ落ちた。喉が引き攣り視界がぼやけて、俺はまた意識を失ってしまった。
俺は結局、その一つを選ぶ事ができなかった。
13
あれから数日で退院をして、俺はまた会社に戻る事になった。
王野はあれ以降何も言ってこない。俺から話題を持ち出す事もない。それが怖かった。
何も食べたくないと王野に言うと、どうして入院したか覚えてないの?と呆れられ、朝無理やり食卓に座らせられた。そんな中の、本当に何気ない会話だった。
「求はさ、将来どこに住みたい?」
「どこって……どこでもいいよ」
「そう?」
どこに行ったって逃げ道はなく、王野と一緒にいるしかない。それならもうどこに行ったっていい。
「俺、海の近くがいい」
「海……」
「うん。海好きなんだ」
すっと、遠い所を見た。まただ、この目。俺を見ているようで、違う所を見ている。
「……もしも俺が会社を辞めたとして」
「………………え?」
「もしもね」
「う、うん」
「そしたらね、求は……自由だね。本当の意味で」
「……」
「縛られるものがなくなったら、求はどうする?」
「どう、って……」
「俺の側にいてくれる?」
カチ、カチ、と秒針が時間を刻む音だけがこの場に存在する。俺は、なんて返せばいいのだろう。肯定すればいいのだろうか。そうすれば、王野は満足する?そんな言葉だけで__
『今日は冬型の気圧配置となっています。最低気温は例年を上回り、かなり冷え込みますので、外出の際は十分な寒さ対策をしてください』
天気予報のキャスターが元気に今日の天気を知らせてくれた。王野は視線をテレビの方に向け、じっと見つめる。
「……冬嫌い。冬も、寒いのも、12月も」
「……?」
「あったかいものが冷たくなるの、ほんと、嫌になるよね」
「う、……うん、そうだね……?」
「……さ、ご飯食べよっか」
最近仄かに見せる王野の薄暗い核心となる部分を、俺は見つけられないままでいる。
会社に行くと高見くんはいなかった。ホワイトボードを見ると高見くんの名前の枠には朝から先方に直訪と書いてあった。最近大きな案件を良く任されるようになり、毎日が大変そうだ。
そして、王野も課長に呼び出されてデスクを空けている。王野も最近はよく上司と面談のようなものをしている。
俺だけ取り残されたような気がするけど、そんなの今更だった。
俺の大切な同期__斜森がいなくなってからは、どこにも行けないのにどこかに行かなきゃいけないような、自分でもよく分からない焦燥感に追われている。でも俺は動けないまま、ここにいる。
「求」
「あ、はい」
「ごめん、これ資料室に片付けといてくれない?」
先輩が俺にダンボールに入った資料を渡してきた。昔後輩に言われた、損な役回りという言葉を思い出す。損?そうなのだろうか。俺が役に立てるのなんて、これくらいしかない。
「分かりました」
「ごめんな、助かるわ」
どうやら今日は多くの人がこのオフィスから離れているらしい。少しガランとしていて、なんとなく寂しい感じがする。
資料保管室に入り、棚の扉を開けてファイルを順番に挟んでいく。
(……俺は、どうすればよかったんだろう)
何も考えなくてもいい時ほど、本当に考えなければいけない事が頭をよぎる。
王野か、高見くんか。
選べないまま、またいつもと同じ毎日が始まってしまう。本当にこれでいいのだろうか。
俺は、こうやってずっと選べないまま。
「あっ」
手を滑らせ、ファイリングされた資料が床に散らばった。随分昔のものだ。なんでこれが必要だったのか分からないが、昔の日報が集められていた。その中に、数年前の自分の日報がある。その日の数字と、反省が書かれている。この時は全部アナログで紙に書き出していて大変だった。
反省の欄を見た。どうやらその日は王野の営業に同行させてもらっていたらしい。きっと、契約が取れない日が続いたからだろう。
王野の良かった所、自分ができていない所が箇条書きでずらっと並んでいる。できていない所、今となんにも変わっていない。
そして次の紙を見ると、それは王野の日報だった。そうだ。たしかこの頃は王野もまだ主任じゃなくて、俺と王野は一緒の係だった。
王野の日報の反省欄には良い所も悪い所もびっしり書いてある。自己分析がとても上手だ。王野の書く文字は王野の雰囲気に合っている。丁寧で、見やすくて、誰が見ても綺麗と思える字だ。
前に見た王野の昔の日記には、お父さんに褒められたくて字を練習すると書いてあった。これは、そのおかげなのだろうか。
資料を片付けて日常業務をこなし、電話対応をしているうちに随分時間がたってしまった。いつの間にか王野は面談を終えていて、席に座っていた。高見くんがオフィスにいないからか、俺を監視する視線もあまりない気がする。と、
集中力が切れてぼーっとしている入り口の近くがなんだか騒がしい気がしてそちらを見た。その噂話はだんだんと広がり、俺の近くにいた社員も集まって話し出す。
俺は聞き耳を立てる。なんだか嫌な予感がした。
「……落ちたって。可哀想だね」
「どこから?ここの?」
「そう。この階の階段から、どんって」
「嘘ー。いきなり?」
「うん。なんか救急の人に運ばれてたって言ってたよ。事務の人達」
「大きな怪我にならないといいけどね、
高見くん」
ドクン、と心臓が大きく脈打った。
今、なんて。
「いや、どうだろうね。凄い落ち方してたらしいよ。躓いて転げるような感じじゃなかったって」
「え……?もしかして、誰かが……?」
「やめてよー。怖いじゃんそんなの」
一気に体の体温が下がった。
俺はゆっくりと王野の顔を見る。
それに気付いた王野もゆっくりと俺の方に顔を向け、目を弓なり歪ませた。
呼吸が浅くなる。うまく息ができない。
どうしよう。俺のせいだ。どうしよう。
「高見くん……」
そう呟けたのか分からない。
俺が曖昧な態度を取ったから。選ばないという選択をしてしまったから、高見くんは。
最低だ、俺。
14
高見くんは左腕を骨折し、全治1ヶ月と診断されたらしい。これは人伝で聞いた情報なので、本当かどうかは分からない。でも今こんな生活を続けていて御見舞に行けるはずもないし、スマホはほぼ王野に管理されているから連絡も取れなかった。高見くんが入院してから既に2週間は経ってしまった。
高見くんに謝る事もできなければ、安否を確認する事もできない。毎日が不安で不安でたまらなかった。
王野は何も言わないけど、きっと王野がやったのだろう。直接確認する事すら怖くて、王野ともまともに口を聞けていない。王野は、俺が誰かと親しくすれば本気で危害を加えるつもりだ。まるで躊躇がない。次の被害が怖くて、俺は本格的に誰とも関わらないようになってしまった。
「王野主任、ちょっといいか」
「はい」
王野は今日も課長から呼ばれて席を離れている。ここにいるのは俺と、俺が関わるのを辞めた他の人達だけ。
「求、ここ数字ずれてる」
「えっ、あっ……」
「あとここの後追いは?電話かけてる?」
「ま、まだ、です。すみません、今から……」
「はあ、あのなあ……」
同じ係のチーフが俺にミスを指摘してくれた。高見くんがいなくなってからまともに集中できず、疎かになってしまった作業を見て呆れるように呟く。
「もっとちゃんとしろ。散々言われてるだろ。病み上がりなのは分かるけどさ、自分のためにもそろそろ結果出してこい」
「はい……すみません」
チーフから受け取った報告書をぎゅっと握り締め、俯いて顔に力を入れる。嫌なものが全部口から出てしまいそうだった。
『__申し訳ないですけど、今回は一旦見送らせていただいてもいいですか?興味が無いわけではないので、また機会があったらご連絡差し上げても大丈夫でしょうか』
「はい、……いえ、こちらこそ。ご検討ありがとうございます。また機会があれば、はい……」
先日営業に行った会社からお断りの電話がかかってきた。ここ最近ずっと契約が取れていない。原因は自分でも分かっている。
成績表のグラフを眺める。もう随分と自分の名前の所にマーカーを引けていない。後輩はとっくに俺の成績を超えている。今月だけじゃない、もうずっとだ。
自分のためにも結果を出せ?
結果を出せば、俺のためになるの?王野に脅されて、無理やり働かされて、高見くんを傷付けて、そんな俺が今何をできるって言うんだ。
こんなのただの言い訳でしかないという事も分かっている。でも、今の俺に一体何ができるんだ。
時刻は既に定時を超えていて、人もまばらだった。俺は片付けられなかった仕事をやるため、未だパソコンと向き合っていた。近くにいた女性社員がこれから彼氏とご飯食べに行くんだ、と楽しそうに語っている。椅子に背中を預け、それをぼんやりと聞き心の片隅でいいなと思ってしまう。
結局俺はたったの一度も高見くんとご飯を食べに行けなかった。いや、唯一一回だけ、社食のハンバーグ定食を食べに行ったんだ。
『そういうとこが、求さんの駄目な所だよ』
『なんでもいいやって思う所。自分の意思で決められない所』
高見くんの言葉がぐるぐると頭を巡る。
何も決められないから、こうなってしまったんだ。俺が決められなかったから、高見くんは何もしていないのに大怪我を負ってしまった。
「最低だ」
誰もいなくなってしまったオフィスに、俺の声が静かに消えていった。
最低だ。合わせる顔もない。
「最低だ……」
このままだと自分の人生も、誰かの人生もめちゃくちゃにしてしまう。それでも、この期に及んでなんで俺、何もできないんだろう。
「っ……俺、おれっ……最低だ……」
最低だ。
なんで俺、あの時食べたハンバーグの味思い出せないんだろう。
なんで、ちゃんと大切にできなかったんだろう。
文字が上手く打てない。
明日はミーティングして、明後日は営業しに行って、その次は。
嫌だな、もうやりたくないのに。
努力をすれば報われるなんて嘘だ。やってもやっても追いつけない世界はある。無理やり相手に合わせて、上手くいかなくて、精神をすり減らして、またミスをして、ここから逃れられなくて、こんなのいつまで続ければいいんだろう。
「ああ……」
フリーズしてしまった画面を見て呟く。顔を両手で覆い、視界を消した。本当に、何も上手くいかなくて笑えてくる。笑えてくる?笑えてるんだろうか。笑うってどうだっけ。
「なにやってんすか求さん」
高見くんならそう言って、仕方ないとでも言うように手伝ってくれるのだろう。
怖くて、自分とは真逆の存在で、よく分からない後輩だと思っていた。
俺の事を苦手だと言っていた。嫌いじゃないとも。俺にはその違いがいまいち分からなかった。だから俺は高見くんの事を恐れていたけど、高見くんは悪態をつきながらもよく俺に話しかけてくれていた。王野と、高見くんだけかもしれない、俺の存在を視野に入れてくれていたのは。
「求さん、またなんかやらかしたんすか?キャパ以上の仕事しすぎなんだって」
そんな事ない。俺は容量が悪いから、みんなと同じ量の仕事を同じタイミングでできないだけだ。だから大丈夫。
「もー、イライラするな。みんなに言えばいいのに」
言えばいいのにって、一体何を。
「助けてって、一言だけでも」
言えないよ。俺の問題だもん。
「言えばいいんだって。なんで言えないの?」
言って、誰かの負担になるのも、嫌われるのも、怖いんだよ……。だから言えない。
「別にそんな事思わないけどなー。少なくとも俺は」
なんで、そんな優しい事言うの。俺はあの時、高見くんを選べなかった。なにも、ちゃんと、自分の意志で、決められなかったのに。なんでそんなに、なんで?
「だって」
不意に、腕を持ち上げられて体が揺れる。視界が傾いた。包帯で固定された左手、少し汗ばんだ右手、眉を下げながら笑う表情。
「俺、求さん好きだし」
目の前がじわっと滲んだ気がした。
15
「え、た……。え?高見くん、なんで……え、なんでここにいるの」
「……えっ!今更!?」
「お、俺の妄想じゃなかったの」
「えっ!?幻聴だと思って話してたんすか!?」
「う、うん……」
「ヤバイって!俺に飢えすぎ」
目の前に存在する高見くんは、目を白黒させている俺を見てケタケタと笑った。
俺は高見くんの左腕に巻かれている包帯を見て顔を青くした。
「けっ、怪我っ!高見くん、怪我はっ」
「ん、ダイジョーブ!医者が治るの早いって言ってた。健康体だったみたい」
高見くんは笑ってブイサインを作る。それを聞いてほっとし、一気に肩の力を抜いた。
高見くんの顔を見たのは2週間ぶりだろうか。それ以上に俺達は会っていない気がする。なんだか未だに目の前にいる高見くんが信じられないでいた。
「なんで、高見くんここにいるの……。安静にしてないと。何か用事、かな」
「助けに来たんだって」
「え?」
「求さんが助けてって言わないから、助けに来た」
口をぱかりと開けた。多分俺は相当おかしな顔をしているのだろう。
「たすっ……助けるって、なに、何を」
「全部。なんか悩んでんの全部」
「は……」
高見くんはその場で膝をつき、椅子に座っている俺を見上げた。高見くんの右手が俺の手に添えられた。少し湿っていて、温かい。
「求さん、会社辞めよう」
その言葉を聞いて、何故か目の奥が熱くなった。誰にも言えなかったのに。後ろめたい感情を高見くんに肯定された気がした。
「でも、そんな事したら、お、俺」
俺だけじゃない。きっと高見くんまで酷い目に合ってしまう。彼は__王野は狂っている。容赦なく他人を不幸にできる人間だ。
カタ、と震えた俺の手を高見くんは力強く握った。
「俺が守るよ、大丈夫」
「守るって、どうやって……」
「分かんないけど、守る」
高見くんは生意気そうに笑う。いつもの顔だ。怖かったはずなのに、その顔を見るとなんだかどうしようもなく、堪らない気持ちでいっぱいになる。
「王野、何するか分かんないよ。た、高見くん、だって、怪我して、次はもっと酷い事されるよ、そんな、そんな片腕の怪我だけじゃ済まされないような、もっと大きい怪我、するかもしれないよ……」
「うん、そうかもね」
「だから__」
「怖いけど、別にいいよ」
ずるい。なんで、今はそんなに優しそうに笑うんだ。
「求さんを救えない方がよっぽど怖い」
高見くんの右手に、ぽたりぽたりと涙が落ちる。下から見上げている高見くんには、俺のみっともない顔は全部見られているのだろう。
「う、う……。み、見ないでよ……」
「今更でしょ、前も見たよ。あの時も俺が慰めてあげたなあ」
「あ、あは、そうだっけ……。ごめん……」
「だから何に謝ってんの!」
「うん、ご、ごめん……ふふ」
何も上手くいかなくて笑えてくる。俺はちゃんと笑えてるんだろうか。よく分からないけど、でも、泣いてるのに広角が上がるのが止まらない。
高見くんはそんな俺を見て仕方がなさそうに笑う。
「求さん、俺__」
「高見、お前本当に目障りだね」
高見くんの背後からこえがする。
足音も無く近付いていたその男は、俺の手に添えられていた高見くんの右手を音が出るくらいの力で掴み上げた。
「こっちの手もいらない?」
「ヒッ……」
そう声を漏らしたのは俺の方だった。
高見くんは微かに震えながらもその男__王野を睨みつけている。
「そうしたら俺はあんたを噛んでやりますけど」
「……」
王野は舌打ちをして、力強く高見くんの右手を振り下ろした。そしてこの場に不自然なほど優しく、丁寧に俺の頭を撫でた。
「求は優しいよね。人を傷付けたくないし、自分のせいで人が傷付く所を見たくないよね。……本当に、自己犠牲の塊だよ」
「っあ、ひ……」
「ああ、別に悪い事言ってるんじゃないよ。俺は求のそういう所が好きなんだよ。優しくて可哀想で大好きだよ」
「っ……」
俺の頭皮の温度を確かめるように、俺と王野の温度を混じり合わせるように、ゆっくりと手が左右に動く。このまま力を入れられたら、頭の中が壊されてしまう気がした。
「……だからさあ、求は見たくないよね?高見が俺のせいでぐちゃぐちゃになる所。不幸になっちゃう所」
「は、は、はっ……」
「ねえ、俺を選んでくれるよね?」
「あっあっ、う、……」
王野は座っている俺の顔を覗き込んで、その視線で俺を捉えた。
俺は、また何も言えない。
どちらを取っても怖くて、先の事を考えて震え上がってしまう。
何も分からなくなってぐるぐると考えていると、高見くんの声が響いた。
「自信ないんですか?」
「は……」
「求さんに選んでもらえる自信ないんでしょ」
震えていた高見くんの顔は今はしっかりと王野を見据えていた。俺に宣戦布告をしてきた時と同じ、はっきりした声で。
「そんなやり方で求さんがあんたの事選ぶと思う?今まで何回選択の余地を与えたんすか?そんだけ求さんを脅して、不自由にして、あんたしか選べないようにしたのに、それでも求さんはあんたを選べなかった。……なんでですかね」
「!」
「……そんなんじゃ選ばれないよ、王野主任」
誰かが息を呑む音と、拳が強く握られる音が聞こえる。俺の頭からは手が離れていき、横にいた影がゆらっと動く。
「……お前になにが分かるんだよ、求を知ってたった数年の、お前に……」
「……あんたは出会って何年も経ってても、そんなやり方でしか求さんと一緒にいられないの?」
「ッ、クソ、黙れよ!!うるせえな!!!」
声を荒げた王野の拳が高見くんの方に飛ぶ。
なんだかスローで再生したみたいにじんわりと時が流れ、俺は考える隙も無く咄嗟に体を動かしていた。高見くんの前に立ち、反射的に身構える。
高見くんが俺を守るって言ってくれた時も、これくらい怖かったのだろうか。
グシャッ!!と潰れたような音がする。
頬と、鼻がじんじんと熱を孕む。呼吸がうまくいかず、口からは不規則に息が漏れる。鼻から血が垂れる感覚がした。それと同時に、口の中に鉄臭い味が広がる。高見くんが大きな声で俺を呼ぶ声が聞こえる。
数秒経って、自分はちゃんと殴られたのだと理解できた。
「あ………………」
「お、王野、もうやめて、ほしい」
「あ、あ……」
王野は俺を殴った拳と俺の顔を見比べて顔色を変えた。尋常ではないくらいに王野の体が震えている。まるで別人のようだった。
「ご、ごめん、求、ちがう、俺、そうじゃない、俺、ちがうくて、俺は違う、おれは、あ、あ、あいつと違う、おれっ、こ、こんなこと、しないっ」
「王野」
俺は王野の側に寄り、震えている拳を掴んだ。言い聞かせるように、ちゃんと届くように王野の顔を見て口を開く。
「王野、俺、会社辞める」
「あ、い、いやだ……」
「もうお前の言いなりになりたくない。俺、ちゃんと……自分も、高見くんも守りたい」
「い、いや、いや……」
「俺、高見くんと一緒にいたいよ……」
「……っは、え、求さん……」
背後にいる高見くんの表情は分からない。それでも、なんだか泣きそうな声色だったのだけは分かった。
「人を傷付ける人と、俺は一緒にいられない。俺は、王野と一緒にいられない」
「嫌だ、求、い、嫌だ」
「王野、頼むから……諦めて」
王野は震えたまま何も返さない。歪んだ瞳がゆらっと揺れた。それでも王野は涙を流さない。
高見くんは俺の横に立って口を開く。
「……妙に焦ってんなって思ったんですよ。王野主任、本社に転勤持ちかけられてるんでしょ?」
「! え……そう、だったの」
「課長と会話してるの聞こえたんです。おめでとうございます、栄転ですね」
「……」
王野は俯いてどこかをぼんやりと見つめたままだった。否定しないという事は、本当なんだろう。
「求さんは一緒の転勤先に連れていけないから、無理やり自分のモノにしようとしたんですよね?」
「……」
高見くんは俺を王野の側から退け、そして王野のネクタイを強く掴んで顔を近付けた。
「……諦めてください。今のあんたじゃ求さんは幸せにできない。私欲のために他人を傷付けんなよ」
まるで放り投げるように、高見くんの手からネクタイが離れていく。王野は下を見たまま動く事も喋る事もしない。ただそこに佇んでいる。王野は今、何を考えているんだろう。
俺はそんな王野を見て、途轍もなく悲しい気持ちで襲われた。
俺が契約を全く取れない期間、同行させてもらってアドバイスをもらったこと、残業で一人夜遅く会社に残っている時に仕事を手伝ってもらったこと、俺のために飲み物を差し入れしてくれたこと、どの時の王野も確かに王野だった。どの時も全部、王野は優しかった。
「王野」
呼びかけても反応はない。俺の顔を見る事もしない。なんで、ほんと、なんでこうなったんだろう。
「仕事助けてくれた時は、嬉しかった。些細な話したのも。俺、昔から人付き合い苦手だから、王野が喋ってくれたの嬉しかったんだよ。たまに話して、仕事手伝ってくれて、同期だからって言って優しくしてくれて。俺は、それがよかった。それだけで……」
堪えていたはずのものは、一つ飛び出すと簡単に流れ続けていく。
「……それだけで、よかったのに。なんで……?」
涙が顎先を伝う。血と混じった色は汚かった。
もう自分が何で泣いているのかも分からない。
王野は俺も、高見くんも傷付けたけど、それでも、確かに優しかった。なにもかも不安定な俺を見守ってくれていた。
微かな音がする。王野は呟く、まるで誰にも聞かれたくないみたいに。
「……俺は、それだけじゃ駄目だった。それだけじゃ、求は離れていくでしょ」
「なんで、なんでそこまで、俺なの。なんでそこまでするの……」
「……大事だったから。求が、俺の__」
王野は顔を手で覆った。何も見えない。顔も、王野の本当の気持ちも、俺は結局何一つも分からなかった。
「…………ごめん、出て行ってくれないかなあ。……俺、今なんにも考えられない……」
絞り出すような、か細い声だった。
王野にかける言葉も見つけられない。そっと一歩踏み出そうとした。
高見くんはそんな王野をもう一度睨み付けた。
「ちゃんと謝ってください。求さんと、俺に。自分が何したか分かってないんですか」
「いいよ、高見くん」
「……」
王野はやっぱり何も言わなかった。
「……もう行こう」
俺は高見くんの手を取って出口に向かった。
決別できたはずなのに、俺の人生をめちゃくちゃにしようとしてきた人間なはずなのに、なんでだろう。
「ふ、ぅ……」
分からないけど、涙が止まらない。
16
顔の怪我や有給消化で数日休んでいるうちに、王野の転勤の話は着々と進んでいたようで、俺が復帰した頃には王野はもう既にこのオフィスにはいなかった。
こんな別れ方をして餞の言葉を送るつもりなんてなかったけど、それでもやっぱり心に歪な穴が空いたような感覚だった。
そして空いた王野のデスクには、今高見くんが座っている。
「高見くん昇進おめでとう。……あ、高見、……主任?」
「恥ずかしいな……あざす。でも別にそんなん付けないでくださいよ。もう求さん会社辞めるんだし」
「あ、そっか。……でも一回くらい言いたいよ。高見主任って」
「……っあー、……ちょっと……もう一回言って……」
「え……た、高見、主任……?」
「……スゥーーーッ……キますわ……」
「?」
高見くんが昇進して主任になるのと、俺が会社を辞める日は同じ日だった。
俺がデスク周りを片付けていると、外回りに行く前の高見くんが足を止め、俺のお祝いと求さんのお疲れ様会しましょー!と言ってくれた。
数分経つと、新しく買い直したスマホに高見くんからメッセージが届く。
『俺の家ね』
高見くんの家、と少し考えてドキリとする。
『あ、俺の家の場所わかんないか。住所送ればいい?』
『ううん、大丈夫。高見くんの家の場所なんとなく分かるよ』
『え!なんで!』
『秘密』
俺はふふっと笑った。高見くんはやっぱりあの日の事を覚えていないのだろう。実はあの日高見くんを介抱したのは俺だよ、と言ったらいろいろと後悔して懺悔する高見くんの姿が目に浮かぶので、今はまだ内緒にしておこう。
社員達から簡単なお別れの言葉を貰い、高見くんの家に向かった。インターホンを押すと既に高見くんの方が先に帰宅していて、普段見ない部屋着で中に迎え入れてくれた。
「あれ、求さんビール飲めないっけ」
「うん、チューハイとか、カクテルしか……」
「へー、可愛……」
言い切る前に、高見くんは顔を逸して微かに耳を赤くした。
なんとなく気まずくなり、俺はおずおずと乾杯しよ、と缶チューハイを握り締めた。高見くんはなんだか不服そうに顔を上げ、誤魔化すように乾杯!と口にした。
「主任になって最初の仕事はどうだった?」
「んー、なんかやる事多くてびっくりした。みんなの数字見なきゃいけないし大変だね。でもお金いっぱいもらえるから頑張るよ」
高見くんはビールを一口飲み、幸せそうに息を漏らした。
「凄いよね、今までで一番早く主任になったんでしょ?チーフの期間も短かったし……」
「そうらしいっすね。俺も自分の有能具合が怖い〜」
「ん、あはは、高見くんがちゃんと評価されてるんだね。凄いね、俺も嬉しい」
「……はい、あの……あざす……」
高見くんはいろんな人から褒められるから褒められ慣れしているはずなのに、俺が少し褒めると急に語彙を失ったように素直に照れる。それが可愛くて俺も楽しくなってしまう。
「求さんこそ仕事どうなんすか?休んでる時にお試しで働いたんですよね?」
「あ、うん」
仕事を辞める決心をしたその日に、俺は殴られる覚悟で斜森に電話をした。連絡先は事務の人から秘密で教えてもらったので、罪悪感が凄かったけど斜森には流石に言えなかった。
斜森には持てる全ての言葉で謝罪し、誠心誠意に働かせてくださいと言ったら一言、
「別にそれはいいけど、一回殴らせてほしい」
と言われた。
殴られる覚悟で連絡したけど、まさか本当にそんな事言われるとは思っていなかった。
王野に自分のスマホを捨てられた後、斜森は必死に俺と連絡を取ろうと動いてくれたらしい。結局直接会った時も「マジで心配したからな」と、デコピンを一発くらっただけだった。斜森の優しさや懐の大きさに時々脱帽してしまう。
その後斜森の会社で一日だけ働かせてもらったけど、びっくりするくらい居心地がよかった。
「えっと、うん。楽しかったよ。仕事が楽しいって思えたの、初めて……」
単純に嬉しかったのだ。俺を望んでくれる人がいること、俺でもちゃんとできる仕事があること、できたら褒めてくれる人がいること。ここなら働けると思えたことが嬉しかった。
一生懸命仕事内容を伝える俺を見て、高見くんの顔はどんどん曇っていき、俺は目をぱちくりと見開いた。
「え、え……俺、なんかダメ、だった?」
「いや、そーじゃないけど……」
「……けど?」
高見くんはビールの缶を机に置き、はあ、とため息をついた。
「悔しいな〜……。ほんと。求さんの同期の人の会社でしょ?仲いいんだよね、その人と」
「え、うん」
「……そんな顔見せないでよ」
「え?顔……」
「そんな、か、……可愛い顔」
効果音が出るくらい、一気に顔が熱くなる。それは高見くんも一緒だった。酔いだけでは誤魔化しきれないくらい顔が赤くなっている。
なんだかいたたまれない空気が流れた時、高見くんは意を決したように呟いた。
「ねえ、俺の言ったこと、無かったことになってない?」
「……え、ど、どれかな……」
「……一世一代の告白だったんだけど」
高見くんが顔を赤くしながら俺をじっと見つめる。数秒後、俺はそれを理解して自分の考えとの相違に大きな声を出した。
「えっ!!」
「わっ!」
「あの、俺、へ、返事、したつ、つもり……」
「嘘ォ!?いつ、いつ!?」
ああ、やっぱり!
だから妙に変な距離感があったんだ。紛れもなく俺が悪いけど。
「え、え、高見くんと、い、一緒にいたいって、言った、の……」
高見くんは目を見開き、そして口もあんぐりと開けた。構えていた姿勢を崩し、背中が丸まる。思っていた返事とは違う斜め方向の答えが返ってきたのだろう。拍子抜けしたような顔だ。
横にいた高見くんは赤い顔のまま俺にゆっくりと体を寄せる。何をそんなに気を遣っているのか、不安げな表情をしていた。
「いいの?俺で……」
「いいよ、高見くんがいい」
高見くんの目にぐっと力が入る。
「俺、最初求さんに酷い事いっぱい言ったよ?怖かったでしょ?俺。いいの、俺で……」
昔の高見くんからは想像もつかない発言で、俺はくすくすと笑った。
「いいよ、そんなのもう忘れちゃった」
笑いながら言うと、高見くんは腕を大きく広げて、俺にぎゅっと抱き着いた。高見くんを遠くから見ていた時には気付かなかったけど、思ったよりも体が大きい。耳元に高見くんの吐息がかかる。そっと俺も腕を回した。
「あーーー……。なんかね、もう……はあ、……めっちゃ嬉しい……」
「うん、俺も」
「可愛い……ありがとうござます……」
高見くんは俺の肩口から顔を離し、今度は俺のおでこに自分のおでこをコツンと重ねた。子犬みたいな顔だ。ゆっくりと、緊張が伝わるくらいたどたどしく呟かれる。
「あ、あの……俺、ちゅーしたい、……ダメ?」
「ん"っ」
可愛い。可愛いのは高見くんの方だよ!と叫びたくなる。俺は笑って、唇を寄せていいよと口を開いた。
最初は拙く、まるでその感覚を確かめるみたいに唇が触れる。熱っぽい息が小さく開いた口の隙間から伝わり、俺もつられて口を開いた。
緊張しているのか、なかなかその先に進まない高見くんにまた可愛いなと思い、俺は舌先を高見くんの舌先にちらっとくっつけた。
「!!」
驚いた高見くんがばっと体を離した。
「ま、待って……」
「う、あ、ごめん、い、嫌だった?」
「ちがっ……違う、そこまでしたら、俺止まんなくなるから……」
赤い顔で、ぎゅっと眉間に皺をよせている。ちょっと泣きそうだ。こんな可愛いのに、駄目なんて言えない。
「い、いい、よ」
高見くんの肩に手を置き、身を乗り出してもう一度キスをした。高見くんは何かを堪えるように口を戦慄かせた。
「っ、……」
「……ごめん、お、俺も、止められない、から」
なんだか酷く恥ずかしい事を言ってしまった、と思っていると、突然床に押し倒された。ラグはひいてあるものの、少し背中が痛い。
逆光に照らされた高見くんは汗をたらりと流して目をギラギラとさせている。
「本当にヤバくなったら殴って止めてください」
「う、うん。でも大丈夫、だと思う……高見くんだから……」
「……ああもう、っホント、そういう事軽率に言わないで……」
悔しげに表情を歪ませて、高見くんは俺に口付けを落とした。
17
高見くんは意外と気遣いの子だ。打ち解けてからは俺が嫌がる事をしないし、凄く優しいし、意地悪な事もしない。だからだろうか。
「あっ……も、もぅいい、ッ、いっ……は、あっ、あっ!」
「まだ……もうちょっとほぐそ……」
「〜〜〜ッ、ぅ、う、うううっ」
「あっごめん、痛い?」
「い、いたくない、けど……」
「ん、じゃあもう少し……」
そう言って顔を蕩けさせて、ちゅっと可愛くキスをした。
俺の中に高見くんの指が入って慣らされてから多分30分くらい経過した。痛いか痛くないかと言われればそう答えるしかない。全く痛くない。痛いと言えば辞めてくれるんだろうけど、そうじゃないから余計拒否しずらい。
若干快感を拾い始めたせいで、重だるい熱がぐるぐると下腹部を巡る。30分?いや、もっとかもしれない。気が遠くなるくらい慣らされて、解されて、もう泣いてしまいそうだった。
「高見くんっ、ま、前っ、つらいっ、あ、ぅ」
高見くんはんー?と言いながら緩く勃ってしまった俺の中心に手を伸ばした。直接的な快感に体が震えて喜ぶ。
「あぁっ、あっ、あっ!」
「……求さん、どこが好き?俺はここ」
「ひぅっ!ひ!ああっ!まっ、まって、ぇ」
「出口のとこカリッてすんの、たまんない」
「あ"ッ!は、あぁぁっ!う、う、あっ、んんん」
「気持ちいー?」
コクコクと必死で頷いた。
高見くんは器用にも中を解しながら俺の中心を的確に気持ちよくしてくる。快感で余裕がなくなっている俺の顔を見て高見くんは満足気な表情をし、中の違和感を感じてしまうポイントをぐっと押し込んできた。
「! ッ、ッ、ゥ、お……、っ、う、あ、あ!ああっ、そ、それっ、た、ぅ、高見く、ん!」
「いや?これ」
「あ、ううう、いや、じゃ、あっ、は、ぅ、じゃない、けどぉ」
「ヘンになる?」
「うんっ、うんっ、前、出したいっ」
「求さん可愛い、どうしよ、はあ、可愛いね……」
口癖みたいに可愛いと言いながら俺の体にキスを降らす。その刺激だけでも体は反応してしまう。この甘くてくどい雰囲気に体の神経もつられてしまっているようだ。
高見くんは俺の中心をぎゅっと強く握り、今までよりも早い速度で手を動かした。望んだ快感に、思わず腰を浮かせてしまう。
「ん"あああッ!あっ!ああっ!んんぅぅぅ!」
「きもちい?いきそ?」
「んっ、んっ!ん!」
「可愛い」
もう限界、と思った直後、高見くんはあっと言って手を離した。俺は目を点にして荒い呼吸を繰り返しながら高見くんを見た。絶頂を迎えられなかった俺の中心は可哀想なくらい震えていて、逃せない熱をどうにかしようと腰が無作為に跳ねてしまう。本当に泣きそうだ。なんでなんでと頭の中でぐるぐる回る。
「はぁ、たかみくん、なんでえ」
「出す前に挿れた方が気持ちいいんだって」
「はっ、はっ……」
「だからごめん、もうちょっと我慢して」
「あ……、ッ、……〜〜〜ッ!!あっ!うぅっ!」
そう言って、高見くんは決定的な快感は与えてくれないまま、また中に入れている指の動きを再開させた。
狂いそうだ。腰の動きもおかしい。ガクガクと上下し、もう自分では制御できない。
「たかみく、も、ぅ……いつ、あっ!ッいつまで……っ!」
「もうちょっと。痛くさせたくないもん……」
「っ、う、う、ううっ!!!」
馬鹿、優しすぎる、もうやめて、なんて言えない。高見くんは初めての行いに慎重なだけだ。それが仇となって甘い地獄から出られない。もうこのままだといつか高見くんに暴言を投げつけてしまいそうだ。
もう耐えられない、流石にもう限界だと思い、俺は無理やり体を起こして高見くんにキスをして、そのまま彼を押し倒した。形勢逆転だ。
「んんっ、ふっ、ん、ちゅっ……ぁ、んんっ」
「!?ふ……んっ、ん!ま、まっ、へ、ふっ」
下で焦っている高見くんを他所に、俺は高見くんの履いているスウェットと下着をずらし、中に手を入れた。熱くて大きい高見くんのものを逆手で擦り上げる。高見くんは大げさなくらいびくっと体を震わせた。既にお腹に当たるほどそそり立っていて、高見くんの方も我慢してるんだなと胸がいっぱいになった。でも、いくらなんでも丁寧すぎておかしくなる。
「なんで、もうはいる、はいるよ」
「……うぅ"〜〜〜っ、でも、……まださぁ……」
「っなんで、俺もう限界」
「俺もずっと前から限界だよ!」
「じゃあなんで!」
「〜〜〜っ、だって!!」
高見くんは泣くのを我慢する子どもみたいに表情を歪ませた。
「俺、王野主任より絶対気持ちよくさせたいもん、求さんのこと……」
「!」
「も、求さんは慣れてるかもしんないけど、俺は男とすんの初めてだから、絶対無理させたくないし」
そしてまたうう、と一人で唸り出した高見くんを見て、俺は思わず抱き着いてしまった。なんだもう、死ぬほど可愛い。
「大丈夫、俺い、入れられたことない、から……」
「…………はえ」
「高見くんが初めてだから、比べないよ」
「……ま、マジで?……あ、……うそ、求さん、しょ、……処女、っすか」
「しょ……う、うん」
「……」
高見くんは俺の発言を聞いて、背中に腕を回しぎゅっと力を込めて長く息を吐いた。
「っはぁ〜〜〜〜〜……。嬉しい、俺が初めてとか……」
安心したように呟く。だからこんなに丁寧だったんだ。高見くんが愛おしくて、俺はまた高見くんの口を塞いだ。お互いの息や体液を交換するみたいに、燻るようにじっくりと舌を合わせる。
自分がこんなに積極的なタイプだとは思わなかった。でも高見くんがあまりにも可愛すぎるから、いっぱい気持ち良くしてあげたいと思ってしまう。
優しく這わせる高見くんの舌を歯で甘噛みすると、ぴくっと体が反応した。目を開けて高見くんを盗み見ると、眉をひそめて快感に耐えている。調子に乗ってはむはむと噛み続けていると、仕返しと言わんばかりに俺の舌にも高見くんの歯が立てられた。刺激がぞくぞくと体中を覆う。とびっきり優しいからか、高見くんに少しでも強く出られると体が喜んでしまう。高見くんのせいで俺の体はおかしくなったのかもしれない。
自分からしかけたものの、長いキスのせいで酸欠のようにクラクラとした。口を離すと透明な糸が引いて、お互いの顔を汚した。背徳感や興奮で目の前がチカチカと点滅する。
そのまま本能的に高見くんの中心に手を這わす。緩く扱くと高見くんの体がふるっと震えた。高見くんは目に涙を溜めて懇願するように俺を見る。
「もっ、ぅ、求さんっ、だめだって、は、ァ、も、もうちょっと、ならそ」
「いやだ、もういや、お願いだから、も、もうほしい、はやく」
「〜〜〜〜〜ッ!あーーーっ!もう!求さんのせいだから!」
高見くんは自分の性器を持って俺のじゅうぶんに解れた穴にぴとっと当て、そして俺の腰をぎゅっと掴んでそのまま下から勢い良く押し上げた。
「ッ___、ッ"、……ッお、ッ……ぁ"……」
ずっと欲しかった衝撃を受け、あまりの気持ちよさに高見くんのお腹に両手を置いて喉を仰け反らせた。声もまともに出せない。中の熱がびくんと脈が打つのを感じる。高見くんもふぅ、と必死に耐えているような息が聞こえた。
「は、……っ、ヤバ、い……中、とろとろ」
「はぁ、はぁっ!あ、あ、ぅ……」
「うごいてもい?」
高見くんの目を見て、がくがくと首を振った。だって、高見くんの気持ちよさそうな顔がとても可愛かったのだ。もっと気持ちよくさせてあげたい。もっと、もっと。
俺が頷いたのを見て、高見くんはガツガツと腰を打ち付けた。許容範囲外の快感に耐えきれず、俺はへろへろと高見くんの体に覆い被さった。
「はぁーっ!はぁーっ!あ"、は、ああっ!ン"ああああっ!!」
「も、ちょ、っ、……っはぁ、耳元で喘ぐの、やばっ」
「たか、たかみくんっ、どうしよ、んっ!は、ぁ、あああっ!きもちい、きもちい、へんっに、なる、う、うぅ」
「!!う……ッ!も、ぅ、そんなこと、言わないで、出るから……!」
「ん、んっ!!」
何かに縋りたくて、俺は高見くんを抱き締めた。高見くんは動きづらそうだったけど、そんなのもう構ってられない。
高見くんの耳が目の前にある。耳の縁が異常に赤い。もしかして耳が弱いのだろうか。もう理性がほぼ残っていない俺は舌をぺちゃっと高見くんの耳に這わせた。途端に中のものが大きくなる。まだ拡張するんだと驚いてしまった。
「あっ!待って、待って!ぇ、えっ!求さんっ!?」
「あ、ハ、ぁ、あ!んっ、んん、はぁっ」
「っ、やばい!ほんと、い、イく、から!」
「んっ、いっ、いっへ、いいよ、ぉ」
「だ、駄目だって、ゴムつけてない、」
「いい、いい、ぉ……ッ、んっ、ぅ」
「ッ、は、あっ!」
高見くんはぶるっと震え、俺の腰を掴み直してガツガツと挿入した。ぎゅぽ、ぐぽっと信じられないような音が聞こえる。ただ内臓を熱が行き来しているだけなのに、頭が馬鹿になるくらい気持ちがいい。
「ア"ッ!ア"ッ!!んアアッ!たかみくんっ、たかみくんっ、おれ、いっ、イッ!!」
「はぁっ、俺も、う、イくかも」
高見くんの顔を見る。気持ちよさに顔を歪めていて、可愛くて、俺は嬉しくなってまたキスをした。
「んふ、ふっ、ふっ!う、う、う、ンンンン〜〜〜ッ!!」
「ん、は、ちゅ、んん、んっ!!」
俺が舌を絡めると、高見くんはびくっと大きく震えた。衝撃で俺も中を締め付ける。その瞬間にお腹の中にじわっと温かい液体が広がるのが分かって、俺も前を触らずにイってしまった。
「あっ、あっ、ひっ、ひ、なか、なかぁ」
「はあ、はあ……、やば、ごめん、めっちゃ出た」
「ん、い、いいよ、ぉ」
気持ちよさそうに惚けて謝る高見くんを見て、涙も汗も唾液も流しながら力なく笑って呟いた。出したばかりなのに、中に埋まったままの高見くんの中心はまた熱を持った。無理させるかも、とか言ってたのに俺のためにまだ我慢してくれてるんだろう。
「可愛い、は、ぁ、たかみくん、かわいい」
「……え、おれ、俺の事?」
「うん、うん……」
「……さいですか」
複雑そうに笑う高見くんは俺の体を抱いたまま体を起こし、所謂対面座位の体勢で戯れるように俺の全身に口付けを降らす。俺が高見くんに回した腕にぎゅっと力を込めると、高見くんも同じように抱き締め返してくれた。ありがとうの言葉の代わりに、高見くんの唇をぺろっと舐めた。
「ちょ……もー、なんで……」
「……?」
「ずるいじゃん、だってこんなエロくて可愛いなんて想定外……」
高見くんははぁ、と深呼吸をして愛おしそうに俺の頬に手を当てた。
「……ありがとうございます、俺のとこ来てくれて」
「うん……俺も、ありがとう」
高見くんが俺を救ってくれたこと、俺が高見くんを救えたこと、全部が不思議だった。
「なんか変だね、最初はお互い距離を取ってたのに。俺達、全然違うのにね」
高見くんは片方の広角を上げて得意気に言う。
「全然違うから、お互いの穴を埋める事ができるんです」
高見くんの発言にハッとする。数秒後、高見くんはほのかに顔を赤くした。
「アッ……俺今、恥ずかしい事言った?」
「ううん、ほんとそうだね」
高見くんはどこまでも純粋で曇りがない。だから怖くても惹かれたのかもしれない。
「高見くん、俺を救ってくれてありがとう」
俺がそう言うと、高見くんはあっと口を開く。
「俺も言おうと思ってた。求さん、俺を救ってくれてありがとう」
そしてお互いの顔が真っ赤に染まった。傍から見ても赤面モノだ。
「なんか、……恥ずかしい事言った?」
「いや、……うん、はは。これはちょっと恥ずかしいかも」
俺達は笑った。なんだかむず痒い。
「……高見くん、まだしたい?」
「何でそんな事言うの……」
「お、俺はしたい、よ……。だめ?」
「やめてよ!すげー可愛いじゃん!俺もしたいけど!」
「ん、ふふ、ッ、は、さっきから中、ずっと熱いから……」
「……ごめん、もー、しんどくなったらマジで俺殴って……」
「ふふ、殴んないよ。大好き」
「ッ、ちょ、マジで……勘弁して……俺も大好きですが……」
「ん……」
ああなんか幸せだな、と思って、俺は高見くんに今日何度目か分からないキスをした。
18
休日、俺達は小洒落たカフェに来ていた。男二人でこんな所、なんだか場違いな気がするけど、それでも俺は嬉しかった。今日俺は高見くんと初めて外食をする。
「季節限定のやつ、今の時期はりんごだって」
「りんごかぁ」
「嫌いじゃない?」
「うん」
俺が頷くと、高見くんは店員さんを呼んでメニュー表を指し、これ二つでと頼んだ。
「全部食べられるかな……」
「求さんが食べられなかったら俺が食べるよ」
「うん、ありがとう」
高見くんは甘いものが好きみたいだ。とっても可愛い。
「桃まるまる乗ったやつはやっぱ夏限定みたい。来年行こーね」
高見くんはにっと笑って俺を見た。
来年も高見くんと一緒にいられるんだ。凄く幸せだ。
「季節の丸ごとフルーツパフェです」
厨房からやって来た店員さんが俺と高見くんの前にどんとグラスを置いた。スイーツなんて普段コンビニの陳列棚でしか見ない俺にとっては、そのパフェはあまりにも綺麗すぎた。
「わっ、え、すご……」
「でけ〜!求さん絶対一人で完食できないじゃん!」
けたけたと笑いながら高見くんはスマホを俺に向け、シャッターを切った。
「え?なんで……」
「斜森さんに送れって言われてるから」
「もー……やめてよ……」
どういう経緯で、どんな会話があったのかは知らないけれど、高見くんと斜森は仲良くなって連絡先を交換したらしい。高見くんの爆発的なコミュ力に驚く。まあ確かに、もしも斜森があのまま会社にいたら高見くんは絶対に慕っていたタイプだろうなと思う。
「んじゃ、いただきまーす!」
「いただきます」
高見くんがそそくさと先割れスプーンをりんごとクリームに刺し、大きな口でぱくっと食べた。
「んー!んまいよ!いいやつ!」
「そっか」
子どもみたいにニコニコしながら食べる高見くんを見て、俺も表情を緩ませた。パフェ、いつぶりだろうか。二十年以上食べていない気がする。俺も高見くんの真似をするようにりんごをすくい取って口に入れた。
「ん!」
「どう?」
「……おいしい……」
俺は感動で目を輝かせた。パフェがこんなに美味しいものだとは思わなかった。止まらなくなった手を見て、高見くんも嬉しそうに食べ進めた。
「美味しいね、これ」
「うん、美味しいね。これ好き?」
「うん。好き」
「フーーーン」
なにやら含みのある言い方で、高見くんはニヤニヤとしながらこちらを見た。
「ん、なに……?」
「いや、別に」
俺の容器には半分くらいまだ残っているのに、高見くんはもう完食しようとしていた。ゆっくりでいいよ、と高見くんは言ってくれた。
「今度はどこ行こっか。行きたいとこある?」
「……あっ、あのね、前テレビでやってたんだけど、分厚いお好み焼きがあるの、パンケーキみたいに分厚いんだよ、そこ行ってみたい」
「うん、ははっ!いいよ、行こ」
高見くんは笑って、俺も笑った。
「俺ハンバーグ定食食べたいからね、求さんに作ってほしいな」
「ええ……俺料理できないよ……できるかな」
「できるよ!俺と一緒に作ろう」
高見くんが眩しい。眩しくて、あとなんだかちょっと泣きそうになって、俺は目をぎゅっと閉じた。
どうしたのと心配する声が聞こえる。
どうしよう、ずっと幸せだ。グラスももう底を尽きる。この甘さはずっと忘れない。
高見くんと一緒にいられるなら、全部が大切だ。
王野√↓
0コメント