サクリファイス・マイ・メシア 丞(上)

1

 今でこそかなり人数は減ってしまったが、新卒の頃俺の同期は20人ほどいた。その年は採用人数を例年より大幅に増やしたらしい。キラキラして若々しいパワーに囲まれながら、俺はなんて場違いな職場に就職してしまったのだろうと後悔していた。

 俺は就活がうまくいかなかった。だから、手当り次第いろんな会社の面接を受け、何度もお祈りメールを見てきて、やっとの思いで奇跡的に受かった会社だったから俺の方が選り好む余裕なんてなかった。


 入社初日、先輩達の前で自己紹介をした。俺は緊張とたくさんの人の目でどうにかなってしまいそうだった。昔から、注目される場面が苦手だった。言葉を詰まらせながら、当たり障りのない挨拶をする。両隣どころか、俺以外の人からはやる気や明るさやこれからの抱負が伝わってきて、劣等感と孤独感で俺はなんだか泣いてしまいそうだった。

 こんなところで躓いてこの先やっていけるのかと、向かいの壁に飾られた社訓を眺めながらぼんやり考えていた。

 新卒社員の挨拶がどんどん終わっていき、最後の1人が言葉を発した瞬間、なんとなく空気が変わったような気がした。


「オウノ__です。K大出身です。まだ分からない事だらけでみなさんにご迷惑をおかけしてしまうとは思いますが、会社に貢献できるように精一杯頑張りますので、よろしくお願いいたします」


 挨拶自体は特に目立つところはなかった。変わった名前だな、と思ったくらい。後で知ったけれど、彼の苗字は大野ではなく、王野だった。下の名前だけでなく、苗字も珍しかった。

 王野って、あの漢字、もしかして。と、周りが少しざわついたのは珍しい名前のせいかと思ったけれど、理由は他にあったようだった。その時の俺は何も知らなかった。


 とても、鮮明に覚えている。

 俺と同じ年にこの会社に入り俺の同期となった王野は、にこやかに笑いながら、でも全てを諦めたかのような目をして列の終わりに立っていた。





2

 大丈夫、と穏やかに声をかけられてぼんやりと意識を覚醒させる。視界に映った男と知らない部屋を把握した途端、訳も分からずベッドから転がり落ちるように逃げ出そうとした。


「っあ、ひ、なん、な、ひぃっ……」

「おっと」


 うまく体が動かせずに上体から床に落ちそうだったところを、王野はすぐに掴んでまた俺をベッドに戻した。その手の力が強くてあの時を思い出し、カタカタと体が震えた。


「いや、いやっ、離して、いやだっ」

「求、大丈夫だから、安静にして」

「離して!なんでっ……う、ぅ、お、っぷ……」


 王野に抵抗しようともがいたが、急に胃が気持ち悪くなって咄嗟に口元を手で覆った。内側からせり上がってくるものは止められず、指の隙間から液体になって溢れ出した。ぼた、ぼた、と下敷きになった布団に落ちていく。飲み込めず、断続的に吐き出した。定まらない焦点で他人事のように吐瀉物を眺めていた。


「求、熱あるんだよ。服と布団変えよっか」

「いやだ、近寄らないで……」


 浅く呼吸をしながら、全く力の入らない汚れた手で王野を押しのけようとした。その手は王野に取られ、怖いくらい優しく握られた。


「……もう何もしないよ」

「……」

「ごめんね。体調治そう」

「……」

「ごめん……」


 何も言わなかった。言いたい事はあったのに、どうしてか何も出てこない。王野は握った俺の手を見つめていた。王野の謝罪の言葉は、いったい何に対するものなのか分からなかった。


「立てる?」


 一度騒いだせいか吐いたせいか、力が全く入らない。力なく首を横に振ると、王野は俺をおぶって脱衣場まで連れて行ってくれた。


「よご、汚れるよ……」

「気にしないよ」


 王野は会社にいた時と同じワイシャツを着ていた。いつもシワがなくて綺麗だなと思っていた。汚してしまった事に罪悪感はあったけれど、飛び降りて自力で歩く元気もなかった。

 脱衣場に俺を降ろされ、替えの服と濡れたタオルを受け取る。


「1人で大丈夫?手伝う?」

「いい……」


 距離をとってじっと待っていると、王野は少し悲しそうに笑いながら扉を閉めて出て行った。


 その場にしゃがみ込んで、空っぽになった体から息を吐き出した。王野が分からない。あの時俺に乱暴をした王野と、弱々しく謝る王野と、そして今まで俺を助けてくれた王野。王野は1人しかいないのに、全部が違う人みたいに見えて、それが怖かった。

 少し冷静になった頭であの時の事を考え、悔しくて涙が出た。俺は斜森を裏切ってしまった。顔向けが出来ない。俺と斜森は恐らく、前のような関係に戻れないだろう。王野が、俺を脅してくる限り。


「う……ぅ、あ……」


 ぐしゃぐじゃになったスラックスに涙が吸われていく。心の中で何度も斜森に謝ったけど、そんなの、なんの意味も無い。





3

 次の日には体調は良くなっていた。明るい光が窓から射していたので、きっと朝なのだろう。もう俺には時間も曜日も感覚が狂っていて、今がいつなのかが分からなかった。俺はベッドから起き上がって部屋の扉を開け、廊下に出た。


 広く、整然と片付けられている部屋だ。

 同い年で、同じ会社に勤めているのに俺とはまるでランクの違う部屋に住んでいる。まざまざと俺と王野の違いを見せつけられる。


 そのまま玄関に向かう。もう熱もひいたし、俺がここにいなければいけない理由なんてないだろう。


「……え」


 当たり障りないドアだった。ただ一つ、内鍵の他に南京錠が付いている事を除いては。

 それはぴくりとも動かず、いくら内鍵を回しても扉が開くことはなかった。心臓が音をたてる。目の前が白んだ。


「なにしてんの?」


 声がして、後ろを振り返る。廊下の先には王野が立っていた。普段と変わらない、穏やかな表情で。


「病み上がりでしょ、こっちおいで」


 足がすくんで、一歩も動かせなかった。意味のない息ばかりが口から漏れる。

 ただ佇むだけの俺を見かねてか、王野からこちらに近寄って来た。もう、抵抗する気も起きなかった。

 王野はゆっくりと歩いてきて、俺を抱きしめた。


「勝手に出ないでね。そんな事したら、俺どうするか分かんないよ」


 よく言う。これじゃあ一歩も外に出られないというのに。


「あ、あと、はい、これね」


 王野はそう言ってポケットから新品のスマホを取り出し俺に渡してきた。


「求の前のスマホ、捨てたから」

「………………は」

「でも流石に社用携帯だけで過ごすのも無理あるしね。俺とも連絡取れた方がいいでしょ?」


 王野の言っている事が信じられず、俺は体を震わせた。そのスマホを受け取る事が出来なかった。

 持ち主の許可無しで勝手にスマホを捨てるなんて、おかしすぎる。

 王野は俺を見て微笑んだ。


「これで誰とも繋がれなくなったね。……あいつとも」

「!!」

「ね、受け取ってよ。俺が全部お金出すよ。あ、これだけじゃない。生活費も、趣味に使うお金も、なんなら保険とかも全部、全部払ってあげる」


 俺は唖然と口を開けた。狂っている。この男は、きっとどこかがおかしいんだ。


「な、なんで、そこまで、お前、……おかしいよ」

「おかしい?そう?じゃあどうやって求を引き止めればいい?」


 王野は何が悪いかが分からないというような顔で俺を見た。まるで善悪の判断が分からない子どものように純粋な目をしていて、それが俺は怖かった。


「俺、求がいないと駄目だから。大好きなんだよ、求のこと。だから、いなくなったら駄目になる。駄目になるって意味、分かる?」


 完全に血の気を失った俺の顔を持ち上げて、王野はうっそりと笑いかけた。そしてそのまま猫のように俺の顔に頬ずりをして、耳元で囁いた。


「ぜーんぶ、どうでもよくなる。穴があくの、心に」


 まあもともと求以外はどうでもいいんだけどね、と王野は笑った。笑っているのに、ゾッとするくらい暗い。


「おれ、俺は、どうすれば、いい」


 締まった喉からは引き攣った声しか出ない。俺の声は冷たい。王野の体と言葉からも、温度を感じない。この空間に、温かさなんてまるでなかった。


「ずっと、一緒にいて。仕事も辞めないで」


 なんで、と口にできたか分からない。

 意味が分からないのだ。仕事が嫌で体調を崩した事を知っていて、俺に休むように背中を押してくれたのに、そんなの、あんまりだ。王野が何を考えているのかが分からない。


「いや、いやだよ……俺、もうあの仕事したくないんだよ」

「俺だって求があの場所からいなくなるの嫌なんだよ」


 なんて独善的な考えだ。本当は、王野はこんな人間だったのだろうか。


「ずっと一緒って、同じ仕事してなくても会えるよ」

「それじゃ駄目だよ」

「な、なんで……」

「だから、求があの場所にいてくれないと駄目なんだよ」

「違う、それがなんでかって、俺は……」

「求」


 王野はまた俺を抱きしめなおして、俺の肩口に顔を置く。緊張か恐怖か、体が萎縮する。呪いみたいな言葉が俺の鼓膜を揺らした。


「俺を救ってよ」





4

 ゆらゆらと揺れる車内で俺は窓の外をぼーっと眺めていた。俺の意識とは真逆に、この車はオフィスへと向かっていた。


「今日は体ならすための出社だからね、事務作業だけで大丈夫だから」

「でも、俺の仕事は」

「大丈夫、代わりに俺やるし、課長の許可も取ったし」


 右横で王野が車を運転しながら朗らかに笑った。

 暫くぶりの出勤に、俺の心は重くなった。どうやら俺は、私生活だけでなく仕事の行き帰りまでも王野と共にしなければいけないようだ。この狭い空間がまるで牢のようで、どこまで行っても俺の逃げ場なんてなかった。


 職場の駐車場に着き、車を降りた。王野はぴったりと俺にくっついて歩く。あ、と何かに気付き、俺に声を掛けた。


「求、ネクタイ」


 俺のネクタイのノットの部分が緩んでいたようで、王野は手を伸ばしてきた。反射的に、体を震わせる。王野はふっと笑ってその部分を締め上げた。


「新しいの買ってあげるね」


 首元が絞まる感覚に、息苦しさを感じた。

 俺は力なく首を横に振る。王野は光のささない瞳で俺を見ていた。


 それが俺の首に回る時、王野が俺のネクタイを締めた時、きっと俺は本当にこの男のものになってしまうのだろう。鎖で繋がれた首輪と変わらない。




 数日休んだからといって俺の仕事に対する意欲が生まれる訳もなく、久しぶりのこのオフィスはやっぱり憂鬱で仕方がなかった。それもそうだ。もともと適応障害で会社を休んで、それも禄に治らないままなのだから。

 オフィスに入る前、俺の足はピタリと止まって、呼吸が浅くなり手が微かに震えた。

 すると横から不意に手を握られ、それをあやす様に王野は微笑んだ。


「大丈夫だよ。俺が全部どうにかしてあげる」


 俺は王野に連れられるがまま中に入った。


 随分久しぶりなように感じるが、社員は変わらず俺に話しかけてくれた。もう平気なの、と心配される言葉にぺこぺこと頭を下げながら自分の席に向かった。

 そして、いち早く俺の元へ駆けつけてくれる後輩が1人。


「求さん……」


 高見くんが俺の顔を見てくしゃっと表情を歪めた。他の人とは明らかに違う態度に、俺は目を丸くした。


「あ、えっと、たて続けにいっぱい休んでごめんね」

「……」


 高見くんは俺の言葉なんか目もくれず、微かに唇を震わせながら俺の手をぎゅっと握った。


「……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 手に力が込められる。俺は高見くんの顔をただ眺めるしかなかった。なんで、高見くんが謝るのだろう。高見くんが謝るような事なんてなにもないのに。

 なんで、そんな泣きそうな顔をしているんだろう。


「求、引き継ぐ仕事どれかな?教えてもらっていい?」


 水を打ったみたいに、王野が間に入ってきた。

 高見くんは俺から手を離し、何かを堪えるように王野の方を見た。


「えっと、どれ、だったかな……ごめん、久しぶりで何が途中だったか忘れちゃって」

「ゆっくりでいいよ。急ぎの仕事はなさそう?」

「う、うん。多分」


 俺が慌ててパソコンの電源を入れると、王野は安心させるように俺の肩を撫でた。また来るね、と言って最後に高見くんの方をじっと見つめ、自分のデスクに戻って行った。

 俺は側に立っている高見くんを見上げた。王野の背中を追うように、先をねめつけていた。


「高見くん?」

「……」


 高見くんは視線を戻して俺の方を見て、取り繕うみたいに優しく笑った。


「今日何曜日か分かります?」

「え、えっと、何曜日だっけ。木曜かな……あっ」

「うん。後で一緒にランチ行きましょ」

「うん、分かった」


 木曜は一緒に社食を食べるという約束をしてから、1週間が経ってしまっていた。高見くんはちゃんと覚えていたようで、俺がそれに頷くとほっと安堵し、仕事に戻って行った。


 その後は王野に仕事の引き継ぎをして、自分も仕事に取り掛かった。ただいつもと変わらない、誰でも穴を埋められるような仕事をする、この場所で。それが不思議で仕方がなかった。少し前まではこの場所から離れられるかもしれないという一縷の期待を寄せていたのに、今ではそんな希望も失われてしまった。

 最初から狭かった俺の世界は、更に窮屈になった。俺と、王野と、仕事。結局俺が頼れる人は王野ただ1人しかいない。


 俺は、王野が創り上げたこの国で生かされる他ないのだ。





5

「求さん、食堂行きましょ」

「あ、うん」


 お昼の時間帯になり、頃合いを見て高見くんが俺に声を掛けてくれた。チラッと王野のデスクを見ると王野はいなくて、どうやら席を外しているようだった。少し息苦しいのがなくなって、俺は席を立ち、高見くんと食堂に向かった。


「求さん、好きな食べ物ある?」

「えっ……と、なんだろう。………………」


 道中、高見くんからの何気ない質問に、俺は全く返す事が出来なかった。


「……え、ないの!?」

「た、多分あるんだけど、出てこないね。そういうの、あんまり考えた事なかった」

「嫌いな食べ物は?」

「あんまり、ないかも」

「……普段何食べてんの?」

「……何食べてるんだろうね。普通にコンビニとかで、適当に、なんか食べてたと思う」


 本当は、最近は王野が作ったものしか食べさせてくれないのだけれど。前まではかなり意識の低い食生活を送っていた。だからこそ、何を食べていたのか禄に思い出せない。


「嘘でしょ!?だからそんなに不健康そうなんだよ……コンビニばっかで飽きないの」

「飽きるとか、考えた事もなかった」

「ええ……」


 食堂の列に並び、高見くんが話していた木曜限定のハンバーグ定食を頼む。今日はちゃんとハンバーグ定食を頼むという目的があるが、きっと他の曜日だったら自分では何を食べればいいか決められず、結局高見くんと一緒のものを頼むんだろうなと想像した。

 プレートに調理員から渡してもらったご飯を乗せ、食堂の空いている席に座った。


 食べている最中、高見くんはいろいろ話してくれた。俺がいなかった間にあった仕事の事とか、最近できた近くのお店が美味しいとか。

 日常になった非日常の中で、普段と変わらない素振りをしてくれる高見くんに安心した。仕事中と王野の家にいる以外の時間くらいは、何も考えたくなかった。


「求さん、手止まってるよ」

「あ……」

「食べられない?」

「ううん、食べるよ」


 そう言ったものの、なかなか箸が進まなかった。美味しいのに、食べられない。高見くんはもうとっくに食べ終わっていた。


「無理して食べなくていいよ。食欲ない?」

「うん……。せっかく誘ってくれたのにごめんね」

「いや、病み上がりの人にこんな重いの食べさせる俺も悪いから」

「そんな事ないよ、俺、高見くんとご飯食べるの楽しみにしてたから」

「……ほんと?」


 俺が頷くと、高見くんは嬉しそうに笑った。心が綻ぶ気がする。


「でもちょっとまだ食欲ないみたいだから、暫くはこういうのは食べられないかも」

「じゃあ、俺が作ってこようか?」

「え?」

「お弁当。求さんが食べられそうなやつで」

「えっ……、高見くん自炊するの?」

「並にね!だからそんな大したの作れないけど」

「お弁当、高見くんの……」

「余計なお世話っすかね」


 必死に首を横に振った。そんなわけない。そんな事、思うはずがない。


「嬉しい、ありがとう」


 自然と口角が上がった。久々にちゃんと笑えたかもしれない。 高見くんはそんな俺をまじまじと見ていた。ソースがついているのかと思って、慌てて口元を拭う。


「あ、な、なに?」

「いや、別に……」


 そう言って、高見くんは気まずそうにコップの水を一気に煽った。





6

 病み上がりの自分が大した仕事もできる訳がなく、禄に結果も残さないまま定時になった。

 王野は外回りから帰ってきてそのまま俺のデスクに向かい、肩を叩いて帰ろう、と言ってきた。


「求さん、また明日」

「あ……うん。お疲れ様」


 高見くんが俺を見て静かに笑う。高見くんはまだやる事があるようだ。俺が挨拶を返すと、王野は促すように俺の手を引いてオフィスを出て行った。

 駐車場に着き、車のドアを開けて助手席に座る。オフィスを出てからも、走行中も、王野は何も喋らなかった。横目で王野を見ても、ただ前を見ていて何を考えているのかは分からなかった。


 王野の自宅に着いてからも、彼は無言だった。俺はただその背中を追う。玄関に入り王野は扉を閉め、2つの鍵をかけ、オフィスにいた時とは違う強さで俺の手を引いて王野の部屋まで連れて行った。何が起こるか分からず、怖くて口を開けない。頭でぐるぐると考えていると、俺はベッドの上に押し倒されていた。カーテンは閉まっていて、僅かに開いた隙間から薄暗くなった外光が射す。壁に掛けられた時計の秒針の音がいやに響いていた。


「なんか楽しそうにしてたね」

「え……」


 楽しそう、とは、高見くんと交した挨拶の事だろうか。


「え、え、あの、挨拶、しただけ」

「お昼ご飯一緒に食べてたよね」

「……!」


 まさか、あの時食堂に王野もいたのだろうか。なにも気付かなかった。なんとなく王野の目を避けながら移動していたから、あの空間に王野がいるとは思いもしなかった。


「食べてた、けど、それだけだよ……」

「今までそんな事無かったよね」

「え?」

「下に見てるくらいで丁度よかったのに」

「お、王野?」

「……やっぱり絆されんだ、高見も……。うざいなあ、あいつがいなくなって清々してたのに……」

「……は」


 あいつ……あいつって。高見くんではない。だとしたら。


「求、もう俺以外と仲良くしないで」

「っひッ」


 王野の顔が首筋に寄り、輪郭を確かめるみたいに唇がそっと這う。ゆっくりと吐かれる息が生々しく、頭皮に触れる手が冷たくてゾワゾワした。官能的だろうか、違う、俺にとってはただ恐怖でしかなかった。


「な、で、べつに、なかよく、って」

「うんって言って」


 ネクタイの根本を持ち上げられ、すんでのところまで王野の顔が近付いた。黒い目が俺を見つめる。他を呟くと、飲み込まれてしまいそうだった。


「……うん」

「ん」


 そのまま数センチ顔が動き、唇同士が触れ合った。俺はこんなの望んでいない。でも何度も角度を変えて同じようにされていると、息が上手くできなくてクラクラとしてきた。ぼやっとした頭のまま本能で口を開けると、ゆっくりと王野の舌が挿入された。びくっと肩が震える。握った拳を弱々しく王野の胸元に当てていると、抵抗とみなされたのか、俺のネクタイの根本を持ち上げていた王野の手が開かれ、そのままゆっくりと俺の首にまわった。あやすくらいの力加減で、頸動脈を圧迫される。


「……ッ、ぁ"、ッ、ッ、お"っ……」

「ん、はぁ……」


 だんだん意識がぼーっとしてきて、閉じられない口からは唾液が溢れてくる。あれ、呼吸ってどうだっけ、どうやって酸素を取り込めばいいんだっけ、と心の端で考えていると、ようやく王野の顔と手が離れ、思い出したかのように反射的に咳き込んだ。呆然としたまま呼吸を整えていると、王野は汚れた俺の口元をぺろっと舐めた。気力がないのか、抵抗した後の報復が怖いのか、俺はただそれを享受していた。


「求はいい子だね」

「……」

「俺、賢くて優しい子が大好きなんだ」


 そう言って、王野は俺の頭を撫でた。王野の黒い瞳は俺を見ているようで、きっと他のどこかを見ていた。





7

 その後体を起こす気力も起きず、そのままベッドに横たわっていた。王野はスーツのジャケットを脱いでハンガーに掛けると、クローゼットには入れずにその前に置かれているハンガーラックに吊した。


「ご飯作るから待っててね。リビングにいる?このまま俺の部屋にいる?」

「……へ、部屋、に……」

「分かった。出来たら呼ぶね」


 この家にいる限り逃げ場なんてないけれど、今日はなるべく王野から離れた場所にいたかった。王野はあ、と呟き、歩きだそうとした足を止めた。


「部屋、あんまり物色しないでね。求はそんなことしないと思うけど」


 温度のない目が俺を見据えた。俺が首を縦に振ると、王野はにこっと笑って空気を和らげた。


「恥ずかしいしね、昔の思い出の物とか出てきたりしたら」

「……うん」


 王野は部屋を出て、扉を閉めた。

 俺はようやく深く息を吐けた。先が見通せない事が怖かった。俺はこの先どうなってしまうのだろうか。こんな軟禁生活、いつまで続くのだろうか。俺はあの仕事を、いつまで続けなければいけないのだろうか。そもそも、王野は、なんで俺を。

 王野は俺に救えと呟いていた。こんな無力な俺になにかができるはずもない。俺は王野の事を何も知らない。それなのに、王野はまるで俺の全部を知っているみたいだった。王野は俺に何を求めているんだろう。


 ふと、顔をクローゼットの方に向けた。僅かに隙間が開いていて、暗闇の線一本が縦に引かれている。本能的にゾクッとした。


 俺は昔クラスの子からいじめられていた。ナヨナヨしてるし、暗いし、喋るのが下手だったから。小学生の頃だった。いろいろと事故が重なって、その時の事はあまり記憶していない。でも、教室に備え付けられていた掃除用具を入れるロッカーに閉じ込められて、外から鍵を掛けられた事は覚えている。立て付けが悪く、扉にはほんの少し隙間が開いていた。泣いても叫んでも叩いても誰も開けてくれなくて、それが本当に怖かった。心底面白そうに笑う声と、掃除用具の黴びた臭いと、外とは遮断された空間。それを思い出すから、こういう中途半端に開いた隙間が今でも苦手だ。


 クローゼットをちゃんと閉めようと思ったけれど、やっぱり体を動かす気になれず、俺はベッドに伏せたまま目を閉じた。

 俺を犯した人間の匂いに包まれても眠れるなんて、おかしな話だ。





8

 薄ぼんやりとした、靄がかかったような空間に俺が1人佇んでいる。

 少し涼しくなった空気、カラスの鳴き声、あまり数の多くない電柱。下校する時のありふれた景色だ。履きつぶしたスニーカーと、動くたびにカコカコと音がする、コップと歯ブラシの入った給食袋。肩にはずっしりとした重み。革でできた肩のベルトを握りしめて、ゆっくりと歩いていた。__これは、小学生の頃の俺だ。


 膝にはたくさん絆創膏が貼ってあるけど、お母さんやお父さんに心配されても「体育でこけただけ」と言っていた。本当は嘘だった。でも、心配をかけたくなかった。昔から、言いたい事はなかなか言えない子どもだった。

 その日もいじめられたのか、服が砂で汚れていた。それでも、足取りはしっかりとある場所に向う。

 泣きたかったんだろう。でも俺は泣くのを我慢していた。きっと、その先を想像して泣かなくてもいいと感じていたから。


 よたよたと、不安定な足取り。ランドセルの側面に付けた2つのキーホールダーが、かちゃかちゃと音を鳴らす。家族で水族館に行った時に買ったペンギンのキーホルダーと、そして犬のキーホルダー。とても大事な物だった。でも俺は、その時の記憶とともにそれを捨ててしまった。大事な物だったから、それを見ると悲しくなったから、捨てて決別をしようと思ったのだ。





9

 お昼時にさしかかり、オフィスにいた社員の人数もまばらになっていた。そもそも今、大きめの企画が動いているのでそれぞれの部署の選りすぐりの人達が慌ただしく動いていていて、多くの人が席を外していた。王野と高見くんもそのメンバーに選ばれていた。王野は朝一の会議が終わってからも他部署の人に呼び出されているようで、その姿はここにはなかった。それにほっとして席を外そうとすると、高見くんが慌ただしそうに俺の側にやって来た。


「ちょっと!1人でどっか行こうとしないでくださいよ」

「えっ」

「約束、嘘じゃないですから」


 そう言って、高見くんはぎこちなく右手を持ち上げた。手には紙袋が提げられていた。


「あ……え……?」

「作ってきたんだけど、お弁当」

「え!」


 俺はびっくりして高見くんをじっと見つめた。恥ずかしいのか、口元がもぞもぞと動いている。


「あの、あっ、ありがとう!本当に作ってくれるとは思わなかったから、嬉しい……!」

「信じてなかったんすか!」

「いやっ、あの……う、うん……」

「なんで、俺実行力の塊だけど!」


 顔を赤くする高見くんにつられて自分も恥ずかしくなってきた。


「ありがとう、俺がもらってもいいの?」

「だから、そのために作ったんだって。食堂行こ」


 腕を軽く引っ張られ、高見くんに着いていく。高見くんの耳の縁が赤くなっている事に気付いて、なんだかむずがゆい。


 食堂に着き、今日は列に並ばず、空いている席にそのまま座った。高見くんはきょろきょろと周りを見て、人が少なそうな空間を選んでいた。

 机に置かれたビニール袋から使い捨てのプラスチックの容器が2つ出てきた。


「お弁当箱とか持ってないから、これでごめんなさい」

「ううん、全然いいよ」


 はい、とそれを手渡され、中を開ける。中身を見て思わず固まった。


「え……ちょっと、なに……」

「いや、これ全部高見くんが作ったの?」

「うん、そうだけど……」

「凄い……。こんなの作れるの?この、卵焼きとかも、全部?」

「いや、そんな大したもんじゃないでしょ」

「凄いよ!だって俺作れないもん。高見くん、料理ちゃんと出来るんだね……。本当に凄い……」

「だから大したもん作ってないって!恥ずかしいからやめて……!」


 容器の中には、食欲のない俺でも食べやすそうなおかずが入っていた。きっといろいろ配慮して作ってくれたのだろう。

 本当に失礼だけど、高見くんはそんなに料理をしない方だと思っていたので、普通にびっくりしてしまった。


「食べていい?」

「いいよ。ってか求さんのために作ったんだから早く食べて」


 高見くんはやっぱりどことなく恥ずかしそうにしていた。俺のために、って。なんでそこまでしてくれるんだろう。嬉しいな。

 食べるのが勿体なく感じたけど、このまま食べないのも申し訳ないので、いただきますと呟いて箸を手に取った。黄色く、綺麗に巻いてある卵焼きを取る。凄い、俺は絶対に作れない。高見くんに見つめられながら口に入れると、なんだか懐かしいような甘さが広がった。


「甘いの」

「あ、じゃない方がよかった?」

「ううん、美味しい、美味しい……」

「……本当に?」

「うん。本当に美味しいよ。凄いね、高見くん、ありがとう」

「……あー、いや……そんくらい……」

「そんくらいとか、そんなことないよ、本当に凄いよ。朝早く起きて作ったんでしょ?それだけでも凄いのに、こんなに美味しそうだし、ちゃんと美味しいし」

「や……はい……分かったから、もうやめて……」

「あっ、え、ごめん、いや、嫌だった?」

「いや、そうじゃなくて、思ったより……あー、ハイ……」


 言い淀んだまま、高見くんは何も言わずにお弁当に箸を付けた。


「普通ですけどね……。求さんが普段自炊しなさすぎなんじゃ……、いや、もうこの話やめよ。求さん、体調は大丈夫になった?」

「あ、えっと……。うん」

「……絶対嘘じゃん」


 もう体調がいい時を思い出せなくなってしまった。俺は王野と一緒に暮らすようになってから、ずっと本調子じゃない気がする。いや、もうこの仕事に嫌気が差してから、ずっと。

 何も言えずに黙っていると、高見くんはおず、と言い辛そうに口を開いた。


「体調悪いのって、やっぱり仕事のせい?」

「!」

「……ごめんなさい、俺、求さんが仕事辞めたがってたの知ってた」

「え、え……なんっ……なんで……」

「……」


 どうして、高見くんが知っているのだろう。俺が退職願を出そうとしていたのを知っているのは、あの時居合わせた王野だけのはずなのに。


「そんなに顔に出てたかな……」

「そうじゃなくて……。俺……おれ……」


 はあ、と息を吐く音が聞こえた。分からないけど、でもなぜか嫌な予感がした。


「求さん、王野主任に__」




「なに?俺の話?」


 俺と、高見くんの体が一瞬で凍りついた。顔を上げられなかった。箸を持つ右手がカタカタと震える。


「……高見、企画部の人が呼んでた。お前が担当してたとこの資料、訂正入るって。急用らしいし、行った方がいい」

「えっ、本当ですか……うわ、マジだ」


 高見くんはポケットから社用携帯を取り出して顔を顰めた。急いでお弁当に蓋をし、袋に戻した。


「すみません求さん、ちょっと行ってきます」

「あ……う、ん……」

「……求さん、あの……」


 視線が、俺の右手に移動する。震えを見て、高見くんは手を伸ばした。


「なに?」


 ぱしっ、と音がする。その手は遮られてしまった。


「早く行った方がいいよ、高見」

「……はい」


 高見くんは何かをこらえて食堂を出て行った。

 周りの喧騒も、人の気配も、なにも感じない。ただ1人、そこに立っている存在に怯えるしかなかった。


「__求」

「ヒッ……」

「俺が言った事忘れた?」


 俺の横に立っている彼__王野は、椅子に座っている俺と目線を合わせるように屈んだ。震えは止まらず、そのままカタリと箸を落とす。


「忘れたかな。昨日約束した事だよ」

「ちが、ち、ち、ちがう」

「じゃあこれはなに?」


 目線を一瞬だけお弁当の方に向け、すぐに俺の目を見た。ピクリとも笑っていない、冷たい表情をしている。喋る言葉がなにも出てこず、俺はひたすらに首を横に振った。

 王野は無言でそのプラスチックの容器をおもむろに掴み、そして、厨房近くのゴミ箱まで歩いて行った。呼吸が早まるばかりで、なにも叫べない。1文字も伝えられないまま、お弁当はゴミ箱の中に吸い込まれていってしまった。


「あ……」


 何が起きたか理解してから、やっと意味の無い言葉が口から溢れた。王野は戻って来ると、優しい手つきで俺の頭を撫でた。なんで、ここでそんな事が出来るんだ。

 王野はそのまま、俺の耳に口を寄せた。


「物でよかったね」

「っ、え、……」

「次はないよ」


 ぐる、と、頭と、目が回る。全部が白くなった気がして、手に力が入らない。暫く放心していると、遠くから走る足音が聞こえた。


「はぁっ、アレ、王野主任帰った?」

「……」

「しょーもない訂正だった!こんなんならお昼休憩終わってから行けばよかった。急いで損したー。……あれ、求さんもう食べ終わった?」

「……」

「……求さん?」


 駄目だ、今高見くんの顔をまともに見られない。最悪だ、俺、あの時なにも出来なかった。


「あ、う、うううぅぅ、ひっ、ぃ……」

「え……」

「たか、みくん、ごめん、ごめんなさい……」

「ちょ、求さん……」


 突然泣き出した俺を見て、高見くんが慌てて駆け寄った。訳も分からず背中をさすってくれる高見くんに、更に罪悪感を抱いた。


「ごめんなさい……」


 ただ謝るしかなかった。そういえば俺が休みから復帰して出社した時、高見くんも同じように俺に謝っていた。どうして謝っていたのだろうか。それは未だに分からない。どうして、こんな事になったんだろうか。分からないけど、高見くんを巻き込んでいいはずなんてない。





10

 俺は昔から本当に仕事が出来なかった。そもそも、営業向きの性格ではない。苦手な人間はその分いっぱいロールプレイングを積んで練習しろと言われたけど、どうやったってこのネガティブな感情が消える事はなかった。

 俺は他の同期に遅れを取っていたから、周りが既に1人で動く事もある中、俺はまだ先輩に同行させてもらっていた。早く1人立ちしろよ、と急かされていたけど、そんな勇気なんてまだ持ち合わせていない。このまま一生同行でいいと思っていたくらいだ。でもなんの売上も出さない人間を会社は許すはずもなく、そろそろ自分も1人で営業に回らないといけないんだろうなと感じていた頃だった。


 1人、また1人と手柄を上げる同期の報告を受けて、ふらふらと自動販売機に向かっていた。焦りと、自分の不甲斐なさがしんどかった。何か甘いものが飲みたいと思い、アイスココアを選ぶと、下のモニターに7777と4つ数字が揃った。運良く当たったので、本当に何も考えずにもう1本同じものを選ぶ。それを取り出し、俺は2本の缶を手にした。少し嬉しかった。そして戻ろうと思い振り向くと、待機している人がいたので驚いてココアを1本落としてしまった。その人は何も言わず、足元に落ちた缶を拾った。


「はい」

「あ、ありがとう……」


 緊張気味にそれを受け取る。今までまともに話した事もない同期の人だった。そもそも、その時の俺は普段斜森以外とはあまり喋らなかった。でも滅多にない機会だと思って、頑張って話しかけてみようとした。


「あっ、あのっ、これ、よかったらあげる」


 そっと、落ちなかった方のココアを差し出す。彼は、その缶をじっと見つめて、そしてすぐに自動販売機の方に視線をずらした。


「いい。俺、甘いの嫌い」


 そう言って、無表情で缶コーヒーを選んでいた。

 彼は取り出し口からコーヒーを取ると、プルタブを開けてそれを一気に煽った。俺も横でココアをちまちまと飲む。彼は、上司や取引先の人と話す時と、俺達同期と話す時と雰囲気がだいぶ違う。それが怖かったけど、何故かその場を離れようとは思わなかった。


「あの、す、凄いね、コンテストの……。多分、入賞圏内じゃない?」

「……どうも」

「……」


 頑張って話しかけたものの、やっぱり冷たくあしらわれた。俺は彼を見ているのに、彼は前を向いていた。早々にコーヒーを飲み終えると、すぐにゴミ箱に缶を捨て、オフィスに戻って行った。俺はなんだか全部を取り残されたような気がして、暫くその場に佇んでいた。


 彼__王野との最初の会話だった。あの頃は、王野は本当に誰にも関心を寄せていなかった。ただ何かのために働いていたけど、彼を満たすものはなにもなかった。





11

 走行中、バババ、と音がする風を感じて身をよじった。晩秋にさしかかり、外気は冷たくなってきている。車窓の開いた隙間から入り込んでくる風は、俺の鼻をツンと刺激した。


「ああ、ごめん、寒いよね」


 そう言って、王野は両サイドの窓を閉じた。


「窓、開けるの好き?」

「風が好きなんだ。昔住んでた所、海が近かったから、よく海に行ってた。すぐ錆になる海風を周りの人達は嫌ってたけど、俺は好きだった。こんな都会の風じゃ全然似ないけど、雰囲気で」


 王野は俺を車に乗せる時、よく車窓を開けて外の風を中に取り入れていた。王野はあまり昔話をしない。昔住んでいた場所について話してくれたのは初めてだった。


「でも寒いのは嫌だね。ごめん」

「あ、う、ううん、大丈夫」

「もう11月だもんね」


 朝流れていたニュースをぼんやりと見ていたら、今年の冬は寒冬だとキャスターが言っていた。


 王野に軟禁されて、数ヶ月が経った。季節は移り変わろうとしている。俺は何も動けないまま、惰性で生きるような毎日を過ごしていた。


「ほんと、嫌だね。寒くなるのも、12月も」

「え?」

「……嫌だな、12月」

「……冬が嫌いなの?」


 王野はハンドルを握ったまま、真っ直ぐ前を見ていた。カチ、カチ、とウインカーの音が微かに響く。


「求は冬は好き?」


 信号が青になり、緩やかに発信する。体が僅かに傾いた。


「俺……そんなに好きじゃないかな」

「そっか」


 王野の左手は暖房のスイッチに伸び、生温い風が送られてきた。人工的なあたたかさが首元を掠める。俺達はそれ以降なにも喋らなかった。




 出社すると、王野や他の役職持ちの人達が課長に呼び出された。朝礼には全員が戻り、そして課長から新しく係編成をすると報告された。なんの前触れもなく突然係が変わる事はよくある事だった。

 新しい係の組み合わせを言われ、俺と王野は同じ係になった。普通だったら俺みたいな中堅は王野みたいに仕事の出来る人と一緒にはならない。多分、王野が課長に頼んでくれたのだろう。とうとう仕事の中までも王野から離れられないようになってしまった。


 デスクが新しくなるので、今いる机の上を急いで片付けた。引き出しからファイルを取り出して整理していると、向かいにいる高見くんと目が合った。

 高見くんとは、違う係になってしまった。きっと、高見くんはもうすぐ昇進して主任にでもなるだろう。それくらい彼の営業成績は良い。


 交差した視線をすぐに外し、俺は机の上の荷物を両手に抱え、慌てて席を移動しようとした。高見くんの横を通る瞬間、控えめに声を掛けられる。


「求さん」

「……」

「……ごめんなさい」

「っ……」


 俺の目を見て、くしゃっと顔を歪める。俺はもうそれを見ていられず、何も返せないまま新しい席に向かった。

 あれ以来、俺は極力高見くんと関わらないようにしていた。お昼ご飯を一緒にする事もなかったし、プライベートな会話もしていない。悲しかったけど、高見くんに被害が及ぶよりずっとマシだった。


 俺の新しいデスクの横__誕生席のような1つ飛び出た席には、王野が座っていた。俺が荷物を机の上に置くと、王野は俺を見てにこっと笑った。


「今日、俺と求で外回りね」

「う、うん」


 本来、王野くらいの役職なら同行させるべきは新卒の子や結果が出ない若い子なのだろう。俺みたいな王野と同期なお荷物が、こんな事いいのだろうか。

 今更ながら自分の不甲斐なさに落ち込んでいると、王野は俺の肩をぽんと叩いた。


「大丈夫、求はなんにもしなくていいよ」


 王野は課長に呼ばれ、席を外した。

 叫びたい気持ちでいっぱいだった。必死にそれを喉元でせき止める。

 別にこの仕事をしたいわけではない。今更会社の役に立ちたいなんて気概も、もっと成績を伸ばしたいなんて向上心も持ち合わせていない。でも、じゃあ、なんで俺はこんなところに繋ぎ止められているんだ。何もしなくていいのなら、なんで俺をこの場所で働かせるんだ。


 拳を握り締めて俯いた。薄れていくだけの俺の存在を踏み付けて呪縛しているみたいだ。王野は一体、俺をどうしたいのだろう。





12

 王野と回った営業が終わり、俺達は会社に戻らずそのまま直帰した。揺れる車内で、数時間前の事を反芻していた。

 凄い手腕だった。取引先の担当の人と話す王野は、本当に舌を巻くほど上手だった。きっと、俺とは比べ物にならない程営業先でいろいろな経験をしてきたのだろう。俺はたまに王野から振られる、社内の人間なら誰でも答えられるような言葉を喋っただけで、順調に取引は進んでいった。流石の俺でも、王野は本当に凄い人間なんだと思った。


 王野の自宅に近付いた時、スマホの着信音が鳴った。聴いたことのない着信音だった。きっと王野のスマホからだろう。王野はそれに不自然にびくっと反応し、俺に見えないくらい細やかにため息を吐いて、近くのコンビニに車を停めて外に出た。車から離れたところで俺に背を向け、誰かと通話をしている。

 直視はしなかったけど、横目で王野を見た。通話を終えて運転席に戻ってくる王野の表情は暗く、少し怖かった。シフトレバーを下げ、車を動かす王野は無理やり作ったように俺に笑いかけた。


「今日のご飯、好きなの作ろうか。何が食べたい?なんでもいいよ」


 そう言われて暫く考えたが、何も出てこない。俺は自分の好きなものをいまいち把握していない。


「あの、なんでも……」

「ふふ、困ったな。なんでもか」

「ご、ごめん」

「ううん、いいよ。求はそう言うと思った」




 その日の夜ご飯はカレーだった。俺が辛いものが苦手だから、気を遣って甘口にしてくれたらしい。王野は何も言わなかったけど、食べた瞬間にきっとそうだろうなと思った。

 王野はあの通話以降、なんだかぼーっとする瞬間が多いように感じた。疲れているのだろうかと思い食器を洗おうとすると、俺がやるから先にお風呂入ってきなと促された。


 浴槽に浸かって、目を閉じてみても王野の事が頭から離れない。

 王野は最低で、容赦なく人の気持ちを踏みにじる事が出来る。こんな状況にさせられて、憎いと感じる自分もいる。でも、それと同時に、どうしようもない程優しさを感じる。王野は自分の事をほとんど喋ってくれない。独りよがりで自分勝手なくせに、俺の事は大事にしようとする。きっと表現の方法が歪んでいるだけだ。

 俺は既に、この軟禁されている状況を諦めつつも、王野に対し一種の情が湧いていた。


(こういうのなんて言うんだっけ……)


 お風呂から上がり、タオルで髪の毛を拭きながらリビングに戻った。王野はソファに座ったままうたた寝をしていて、やっぱり疲れていたんだろうなと思った。食事の準備も片付けも、お荷物みたいな自分の仕事の世話も全部やってくれている事に罪悪感を抱き、王野の隣の空いているスペースにゆっくりと座った。その微かな動きに反応したのか、王野は目を覚ましてしまった。俺の顔を見て、ぼやけたように笑う。


「あ……ごめん」

「ううん、髪の毛乾かそうか?」

「いいよ、自分でやるよ」

「俺にやらせて」


 王野は近くのボックスにしまっていたドライヤーを取り出し、俺の髪の毛を乾かした。王野はよく俺の髪を乾かしてくれる。申し訳ないと思いつつも、俺はそれを享受していた。

 髪の毛を手で梳きながら、王野はふふ、と笑った。


「求、可愛いね」

「な……そんなこと無い……」

「ううん、一番可愛い」


 ドライヤーを止め、王野は俺の頭に顔を寄せてすん、と鼻で息を吸った。数秒後、長くて深い息が吐かれ、俺の項にかかった。びくっと反応すると、王野の笑い声がまた聞こえた。


「求、こっち向いて」


 上体を王野の方に向けると、王野の顔がゆっくりと近付いて、触れるだけのキスをされた。驚いて反射的に目を瞑ると、それはすぐ離れて、そしてまた同じように口付けをした。俺が身を縮こまらせていると、王野はまるで宝物を触るみたいに俺の頬を撫でた。そして、愛おしそうに俺を見て呟く。


「本当は俺、別に今の仕事好きじゃない」

「……え」

「やりたい事が他にあったんだ、昔」

「そうだったんだ……」


 意外だった。王野は仕事面で一切弱みを見せない。新卒の頃こそ失敗はあっただろうが、今や主任の立場でみんなを引っ張っている王野から、そんな言葉を聞くなんて思いもしなかった。

 やりたい事じゃなくても、王野はここまで上り詰めたのだから、きっと相当努力したのだろう。


「……もっと稼いで暫く休んでも自由に暮らせるくらいになって、ここじゃない所に引っ越してさ」


 頬を伝う手の動きが止まった。王野の瞳がゆらっと揺れる。俺を見ているようで、見ていないようで、きっとその奥を見ている。


「海が見える所で、静かに求と一緒に暮らしたいな」


 王野は俺の首元に顔を埋めた。腕は俺の体に周り、緩く抱きついていた。程なくして、首元から穏やかな寝息が聞こえてきた。


「……」


 王野の瞳の先に、自分自身を見た。ゆらゆらと揺れるそれに、まるで俺の心臓も動かされたようだった。


 思い出した。ストックホルム症候群だ。

 前にやっていた番組で、犯罪心理学の教授が言っていた事が頭をよぎった。


『軟禁しようとする__つまり、束縛の激しすぎる人の心理として、いくつか挙げられますね。自分に自信が無いから誰かに取られないように、自分のもとに置いておきたい、或いは、過去になにかしらのトラウマがあり、それを相手に投影してしまう。それが裏切られないか見張るように、閉じ込めておく。そういった心理でしょうか』


 俺はその場から動けず、王野と抱き合ったまま眠りについた。


次↓

0コメント

  • 1000 / 1000