サクリファイス・マイ・メシア 袷(上)

1

 言葉を選ばずに言えば、俺は彼の事が怖かった。


「それでは、我が部署に入社してくれた新卒達に期待を込めて……乾杯!」


 たしか、3年ほど前の新人歓迎会。強制参加だったため断る事もできずに、俺は自分自身を浮いた存在だと認識しながらその場にいた。誰よりもお荷物な自分が新卒の子と喋る事なんて一つもない。

 新卒が入社して1週間ほどが経ったが、最初の挨拶以降、俺は新卒の子達の誰一人として会話をした事がなかった。


「おい求、先輩なんだから新卒ともっとコミュニケーション取れよ」

「あ、は……はい」

「高見なんて凄いぞ、あいつ自分からガツガツ先輩に話しかけてる」


 自分の横にいた先輩に至極真っ当な事を言われて曖昧な返事をしていると、その先輩は目線を遠くにやった。その先には、今年入った新卒の男__高見くんがいる。


「こいつ本当に才能あるんですよ!初同行させた時、ちゃっかり相手の社長と雑談盛り上げてて。肝座りすぎ!」

「あはは、あざっす!でもいい人だったんで、俺も喋りやすかったです!」

「期待の新人だな〜」


 高見くんはジョッキを片手に、課長や主任と楽しそうに会話していた。俺ですら、あの中に入っていく勇気はない。


「高見、すげえ売れそうだな。求も頑張れよ」


 俺は無責任に頷くこともできず、ただ苦笑いを溢して目線の先、盛り上がっているその場所を眺めていた。


 最初から持っているものが違う。俺は誰かから期待された事なんてあったのだろうか。きっと、俺と彼とは全く違う人生を歩んできたのだろう。

 多分すぐにでもあの子に抜かされる。上司に囲まれて楽しそうに酒をあおる高見くんを見て、直感的に確信してしまった。




「三次会行く人ー!俺についてきてくださーい!」


 後輩が向こうで号令をかけていた。

 二次会までは抗えない空気感で着いて行ったが、流石に三次会まで行く気力なんてなかった。気付かれないようにこそっと帰ろうと振り返ると、目の前には電柱にもたれ掛かって目を瞑っている高見くんがいた。周りの人は気付いていないのか、三次会に向かう人やタクシーを拾う人の目には止まっていない。

 そのまま放っておく事もできず、俺はおずおずと話しかけた。


「あ、あの……大丈夫……かな」

「ん〜〜〜……、えー?」

「三次会……は、行けなさそうだね。か、帰った方がいいよ。タクシー乗せてあげるくらいは手伝えるし……」

「……」


 高見くんはかなり酔っているようで、半目で俺の顔をじっと見つめたまま口を開いた。


「誰ぇ?」


 酔っているから認識できない、とかではないのだろう。多分、本当に俺の事が分からないのだ。


「求、です……」

「誰〜!」

「知らないよね……。あの、とりあえずタクシー拾うから。……失礼します」


 俺は高見くんの腕を自分の肩に回し、大通りに出る。金曜夜の繁華街はすぐにタクシーが拾えた。


「えっと……ご、ごめんね。免許証見るね。すみません運転手さん、ここまで……」


 俺は歩いて帰れる距離だったので、少し不安ではあったが高見くんを一人後部座席に座らせ、左手に千円札を数枚持たせた。


「じゃあ気をつけてね」

「ねえ、待って」


 タクシーから離れようとした瞬間、高見くんに腕を掴まれてしまった。高見くんはまるで挑発するかのような目つきで俺を見る。


「誰だか知らないけど、俺、絶対一番になるから!あんたを抜かす」


 ぱっと手が離され、数秒たってからタクシーのドアは閉まった。その姿が見えなくなるまで、俺はタクシーをその場で見送った。


 凄い野心だ。俺には到底真似できない。酔っている時は本心が出やすいと言うが、そうだとしたら見上げた根性だ。


 高見くんはこの日の俺との会話は一切覚えていないようで、次の出社の時は顔を合わせても一言たりとも話題を出してこなかった。

 そして高見くんは宣言通りに俺なんかの営業成績は早いとこ抜かし、一番になる勢いで活躍していった。

 その向上心と実行力に俺は劣等感を抱き、勝手に高見くんに対して苦手意識を持つようになった。そして彼もきっと俺の仕事への態度が癪に障ったのだろう。あからさまに俺に嫌悪の感情を向けてきた。

 俺はそんな高見くんに怯え、高見くんは俺を白い目で見る。俺と高見くんの人生が交差する事なんて、一生ないと思っていた。





2

「今日から求の住む家はここだよ」


 他人の家の香りで目が覚める。気付いたら俺は王野の家にいて、王野のベッドの上で寝かされていた。


「住むって……。お、俺、帰るよ。自分の家……」

「駄目だよ。俺から離れないで、ね?」


 王野はうっすらと笑いながら俺にスマホの画面を見せつけてきた。そこに写っているのは、あの日王野が撮った俺の写真だった。俺が、王野のものを咥えこんでいる写真。

 きっと、逆らったらこの写真をバラまく気なのだろう。俺は怖くなって何も言い返せずに俯いた。


「大丈夫、何も不自由させないよ。俺の言う事さえ聞いていれば、ずっとずっと優しくしてあげられる」

「いうこと……」

「うん。勝手に外に出ない事、俺以外と仲良くしない事。簡単だよね」


 簡単に言ってのけるが、この男はとんでもない要求をしている。唇を震わせながら固まっていると、王野は優しく俺の頭を撫でた。


「いい子にできるよね?ねえ、求」


 うっそりと笑う。瞳の奥の狂気が見えて、俺は静かに頷いた。


「可愛いね」


 王野は満足そうにそう言って、俺の唇に口付けを落とした。ちゅ、と控えめな音が部屋に響く。驚いて咄嗟に顔を離すと、目の前には頬を赤らめて笑っている王野がいた。


「……っえ」

「ふふ、凄い顔。こういうのも慣れていこうね」


 慣れていく、という言葉の意味を理解したのは、その日の夜の事だった。




「求……はぁ、もとむ……」

「あ、ハァ、あっ……」

「可愛い、可愛い……ん、ちゅ……」


 お風呂から上がった俺は王野にベッドまで連れて行かれ、数えるのも辞めてしまうほど長い時間咥内を犯されていた。抵抗しようにも、あの画像がバラまかれるかもしれないという恐怖がチラついてしまい、王野のされるがままだった。


 動き回る舌が俺の上顎を撫で、物色するみたいに口の中を一周する。そしてまた俺の舌に這わせ、お互いの唾液を交換する。酸欠気味の脳は、意識を飛ばさないようにするので精一杯だった。離れたと思ったらまた合わさり、舐られる。合間合間に聞こえる王野の言葉も、意味のあるものとして認識ができなかった。


「は……求が俺のベッドにいるってだけでどうにかなりそう」

「ふ、は、はぁ、はぁ……」

「求は彼女いた事あるんだっけ?」

「……う、うん」

「ここ、触られた事ある?」


 王野の手が俺の中心に伸びた。やんわりと掴まれて肩が震える。昨日王野に犯された事を思い出す。


「な、ない」

「ないの?求は純潔なんだ」

「じゅ……」

「キスしながら扱かれたら、どんだけ気持ちいいんだろうね」


 嫌な予感を感じ取る前に、王野の手が下着の中に潜り込んできた。やめて、と言う隙もなくその手は俺のものを直接握り、緩く上下に動かす。生理現象だ。否応なしに熱が上を向く。


「まっ、……ッ、は、ァ、アッ!」

「ふふ……。昨日はごめんね、手荒だったよね。今日はちゃんとゆっくりしてあげるから」


 そう言って、また口を塞がれた。咥内からぐちゅぐちゅと下品な水音が漏れる。唾液がぽたりと口の端から零れ落ち、首筋を伝う感覚が気持ち悪かった。そして下の方は絶えず王野に扱かれ続ける。決定打なんてない、ゆっくりと、俺の理性をぐずぐずに溶かすように、優しく優しく撫でられた。


「ああ、っ、ん、ン、ハァっ、あう、ゥゥ、い、ッ、ッう、うう、んん〜〜〜っ」

「ん……♡あは、どうしたの?そんなに見つめて」

「あっ!う〜〜〜ッ、ふっ、ふ、んんんッ」

「言ってくれないと分かんないよ」


 自分で触ってなくてもドロドロだと感じ取れるほど、下着の中は先走りでいっぱいになっていた。限界、なのに、この熱を解放させてくれない。口元に王野の吐息がかかる。口を歪ませて俺を見るだけで、手の動かす速度は変わらない。口からは意味のない母音と、勝手に溢れ出る唾液が漏れる。


「あ〜〜〜ッ、ああ、あう、うううッ」

「どうしてほしいの?言って、求」


 カタカタと腰が震えた。言いたくないのに、流されちゃいけないのに。気付けば俺は、理性を捨てて本能的に口を動かしていた。


「つよ、つよく、や、やって、ぇ」

「……はぁ……」


 一つ息を吐き、王野は美しく、凶悪そうに笑った。それを皮切りに、王野の手に力が入り、先程の緩やかな動きとは打って変わって確実に快感を与える強さで扱かれる。我慢していた分、脳内に溢れる快楽物質が尋常じゃない。


「あ"ああッ!?あっ!ああっ!は、あああっ!」

「気持ちいいね、キスもしてあげる」

「ァ、ン、ん"ん"んんっ!ん"ぅーーーっ!!」


 目がぐらっと上に向く。苦しい。苦しいはずだ。気持ちいいなんて思ってはいけない。だって、こんなの合意の上じゃない。俺は無理やりこんな事させられてて、脅されてるから、仕方なくやってて、仕方なく、


「ッ、ッ〜〜〜〜〜ッ……ハッ、アっ、ゥ……」

「ん、ハァ……。はは、いっぱい出せたね」


 口を強引に塞がれたまま、俺は王野の手の中で果ててしまった。射精した後も震えが止まらず、腰が不規則に跳ねる。王野は俺の顔をうっそりと眺め、毛づくろいをするかのように俺の唇をぺろりと舐めた。


「あーーー……。求、求……。可愛い、ずっと俺と一緒にいて……ずっと」

「ハッ、ハァッ……」


 ずっとって、いつまで?ずっとって、一生のこと?

 俺達はこういう方法でしか一緒にいられないのだろうか。なんで、王野は俺を軟禁したのだろうか。

 なんで王野は、俺を。


 俺が王野の事を本当に理解できる日は来るのだろうか。





3

 ゆらゆらと揺れる車内で俺は窓の外をぼーっと眺めていた。俺の意識とは真逆に、この車はオフィスへと向かっていた。


「今日は体ならすための出社だからね、事務作業だけで大丈夫だから」

「でも、俺の仕事は」

「大丈夫、代わりに俺やるし、課長の許可も取ったし」


 右横で王野が車を運転しながら朗らかに笑った。

 暫くぶりの出勤に、俺の心は重くなった。どうやら俺は、私生活だけでなく仕事の行き帰りまでも王野と共にしなければいけないようだ。この狭い空間がまるで牢のようで、どこまで行っても俺の逃げ場なんてなかった。


 職場の駐車場に着き、車を降りた。王野はぴったりと俺にくっついて歩く。あ、と何かに気付き、俺に声を掛けた。


「求、ネクタイ」


 俺のネクタイのノットの部分が緩んでいたようで、王野は手を伸ばしてきた。反射的に、体を震わせる。王野はふっと笑ってその部分を締め上げた。


「新しいの買ってあげるね」


 首元が絞まる感覚に、息苦しさを感じた。

 俺は力なく首を横に振る。王野は光のささない瞳で俺を見ていた。


 それが俺の首に回る時、王野が俺のネクタイを締めた時、きっと俺は本当にこの男のものになってしまうのだろう。鎖で繋がれた首輪と変わらない。




 数日休んだからといって俺の仕事に対する意欲が生まれる訳もなく、久しぶりのこのオフィスはやっぱり憂鬱で仕方がなかった。それもそうだ。もともと適応障害で会社を休んで、それも禄に治らないままなのだから。

 オフィスに入る前、俺の足はピタリと止まって、呼吸が浅くなり手が微かに震えた。

 すると横から不意に手を握られ、それをあやす様に王野は微笑んだ。


「大丈夫だよ。俺が全部どうにかしてあげる」


 俺は王野に連れられるがまま中に入った。


 随分久しぶりなように感じるが、社員は変わらず俺に話しかけてくれた。もう平気なの、と心配される言葉にぺこぺこと頭を下げながら自分の席に向かった。

 そして、いち早く俺の元へ駆けつけてくれる後輩が1人。


「求さん……」


 高見くんが俺の顔を見てくしゃっと表情を歪めた。他の人とは明らかに違う態度に、俺は目を丸くした。


「あ、えっと、たて続けにいっぱい休んでごめんね」

「……」


 高見くんは俺の言葉なんか目もくれず、微かに唇を震わせながら俺の手をぎゅっと握った。


「……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 手に力が込められる。俺は高見くんの顔をただ眺めるしかなかった。なんで、高見くんが謝るのだろう。高見くんが謝るような事なんてなにもないのに。

 なんで、そんな泣きそうな顔をしているんだろう。


「求、引き継ぐ仕事どれかな?教えてもらっていい?」


 水を打ったみたいに、王野が間に入ってきた。

 高見くんは俺から手を離し、何かを堪えるように王野の方を見た。


「えっと、どれ、だったかな……ごめん、久しぶりで何が途中だったか忘れちゃって」

「ゆっくりでいいよ。急ぎの仕事はなさそう?」

「う、うん。多分」


 俺が慌ててパソコンの電源を入れると、王野は安心させるように俺の肩を撫でた。また来るね、と言って最後に高見くんの方をじっと見つめ、自分のデスクに戻って行った。

 俺は側に立っている高見くんを見上げた。王野の背中を追うように、先をねめつけていた。


「高見くん?」

「……」


 高見くんは視線を戻して俺の方を見て、取り繕うみたいに優しく笑った。


「今日何曜日か分かります?」

「え、えっと、何曜日だっけ。木曜かな……あっ」

「うん。後で一緒にランチ行きましょ」

「う、……」


 木曜は一緒に社食を食べるという約束をしてから、1週間が経ってしまっていた。

 素直にうん、と言ってしまいたい。行きたい、高見くんと一緒にお昼ご飯を食べたい、と思うけれど、どうしても王野の事が頭をよぎる。__王野以外と、仲良くしてはいけない。


 俺が口を開けたまま黙っていると、高見くんが慌てたように俺の手を掴んできた。


「行くから!絶対連れてくからね!」


 それがあまりにも必死だったので、俺は呆気に取られたまま頷いてしまった。それを見て高見くんはほっと安堵し、仕事に戻って行った。


 その後は王野に仕事の引き継ぎをして、自分も仕事に取り掛かった。ただいつもと変わらない、誰でも穴を埋められるような仕事をする、この場所で。それが不思議で仕方がなかった。少し前まではこの場所から離れられるかもしれないという一縷の期待を寄せていたのに、今ではそんな希望も失われてしまった。

 最初から狭かった俺の世界は、更に窮屈になった。俺と、王野と、仕事。結局俺が頼れる人は王野ただ一人しかいない。


 俺は、王野が創り上げたこの国で生かされる他ないのだ。





4

「求さん、食堂行きましょ」

「あ、うん」


 お昼の時間帯になり、頃合いを見て高見くんが俺に声を掛けてくれた。チラッと王野のデスクを見ると王野はいなくて、どうやら席を外しているようだった。少し息苦しいのがなくなって、俺は席を立ち、高見くんと食堂に向かった。


「求さん、好きな食べ物ある?」

「えっ……と、なんだろう。………………」


 道中、高見くんからの何気ない質問に、俺は全く返す事が出来なかった。


「……え、ないの!?」

「た、多分あるんだけど、出てこないね。そういうの、あんまり考えた事なかった」

「嫌いな食べ物は?」

「あんまり、ないかも」

「……普段何食べてんの?」

「……何食べてるんだろうね。普通にコンビニとかで、適当に、なんか食べてたと思う」


 本当は、最近は王野が作ったものしか食べさせてくれないのだけれど。前まではかなり意識の低い食生活を送っていた。だからこそ、何を食べていたのか禄に思い出せない。


「嘘でしょ!?だからそんなに不健康そうなんだよ……コンビニばっかで飽きないの」

「飽きるとか、考えた事もなかった」

「ええ……」

「俺、多分苦手なんだよね。自分で何食べたいとか、何作るとか、好きな物食べるとか、そういうのを考えるの。決めるの、苦手なんだ」


 食堂の列に並び、高見くんが話していた木曜限定のハンバーグ定食を頼む。今日はちゃんとハンバーグ定食を頼むという目的があるが、きっと他の曜日だったら自分では何を食べればいいか決められず、結局高見くんと一緒のものを頼むんだろうなと想像した。

 プレートに調理員から渡してもらったご飯を乗せ、食堂の空いている席に座った。

 

「だから、好き嫌いとかあんまりないかも……」


 一口、ハンバーグを口に入れる。とはいえ、美味しいものを美味しいと感じる心はある。高見くんが言ったとおり、ここのハンバーグ定食はとても美味しかった。

 そんな高見くんは目の前にいる俺をじっと見つめて、口を開いた。


「そういうとこが、求さんの駄目な所だよ」

「……え」


 俺はぴたっと手を止めた。


「え、えっと、不摂生すぎるよね。もっとちゃんと栄養とか考えなきゃって思うんだけど」

「そうじゃなくて、その、なんでもいいやって思う所。自分の意思で決められない所」

「……」


 俺が何も返せないでいると、高見くんはハッとして、気まずそうに視線を下げた。


「すみません、人格否定とかじゃないんす」

「いや、ううん、本当にその通りだよ」


 薄く笑って首を横に振った。高見くんは、本当に人の事を良く見ている。だからこそ、ここまで売れるのだろう。


 高見くんはテーブルの上に乗せていた手をきゅっと握りしめた。


「……なんでもいいって、思わないで。諦めないでよ、絶対……」

「え……?」


 声が震えていた。高見くんはまた顔を上げ、苦しげな表情で俺を見た。


「求さん、俺っ__」


 何かを言いかけ、口を開閉させて、そしてまた何かを堪えるように口を閉じた。心配して高見くんを見ていると、彼は軽く頭を左右に振って顔を上げた。まるで、言いかけた言葉を払拭するみたいに。


「……求さん、俺といっぱいいろんな所食べに行こ」

「え……」

「そんで、好きな食べ物なにって聞かれたら、これ!ってすぐ答えられるの、一緒に見つけよ。約束」

「……」


 高見くんの優しさが、今は苦しかった。

 ここで頷いてしまうと、俺はどうなるんだろう。高見くんは、王野にどうされてしまうんだろう。実現できない約束に頷くこともできず、俺は手を止めたまま黙ってしまった。

 すると、高見くんがぎゅっと握った俺の拳に手を添えた。


「大丈夫だから。ね?」


 __あ、駄目だ。なんだか泣きそう。


 高見くんが俺の状況をどこまで知っているのかは分からない。それでも、大丈夫だと添えてくれた手が温かくて、それだけで込み上げてくるものがあった。俺は俯き、声を震わせた。


「うん。ありがとう……」




「求、こんなとこにいたんだ」


 生理的なもので、瞬間的にゾワッと体が疼いた。

 声がした方向に顔を向けると、王野がそこに立っていた。


「あ……」

「探したんだよ。なんだ、もう食べてんだ」

「あの、あ、え」

「……珍しいね、高見くんと?」


 王野はいつもの笑みを浮かべながら、ゆっくり高見くんの方を見た。俺は何も動くことができず、体を震わせた。高見くんは立ち上がって王野を睨みつける。


「……昼休みまで監視ですか」

「人聞き悪いなぁ。ただ求とご飯食べたかっただけなのに」

「自由を奪わないでください。おかしいですよ、あんた」

「なんで君がそんな事言うの?高見くんには関係ないよね」


 場所が場所なのもあり大きい騒ぎにはせず、お互いが静かに睨み合っていた。


「関係ない?俺は前から約束してましたからね。そっちこそ、求さんがどこで誰と食べてようが関係ないですよね。不都合あるんすか?」


 ぴくり、と王野はこめかみを震わせた。俺は口を挟む事も出来ないまま、唖然と2人のやり取りを眺めていた。


「……求、引き継いだ資料の中で聞きたい事あるから、後でね」


 ピリついたのはたった一瞬で、また普段通りの温厚そうな顔に戻り、王野はこの場所から離れて行った。入口付近にいた女性社員が黄色い声を上げて挨拶をしている。


 早まった鼓動はその後も落ち着く事はなかった。高見くんは入り口の方へ顔をやり、王野の背中をじっと見つめていた。





5

 その日の仕事終わり、俺は王野に連れられて帰宅した。王野の家に帰ることを帰宅と言っていいのだろうか。皮肉にもあんなに嫌いな職場に唯一王野と離れられる隙があるなんて笑えない。


 高見くんと食事をしたことに対してなにか言及があるのでは、と思いビクビクしていたけれど、案外なにもなかった。帰り道の社内では、まるで何もなかったかのように今日はこんなことがあったとか、今日の晩ご飯はこうだよとか、何気ない話をしてくれた。それが妙に心地悪くて、ずっと心臓が浮いているような、気持ちの悪さを感じた。


「ご飯作るから待っててね。リビングにいる?俺の部屋にいる?」

「……へ、部屋、に……」

「分かった。出来たら呼ぶね」


 この家にいる限り逃げ場なんてないけれど、今日はなるべく王野から離れた場所にいたかった。王野はあ、と呟き、歩きだそうとした俺を引き止めた。


「部屋、あんまり物色しないでね。求はそんなことしないと思うけど」


 温度のない目が俺を見据えた。俺が首を縦に振ると、王野はにこっと笑って空気を和らげた。


「恥ずかしいしね、昔の思い出の物とか出てきたりしたら」


 俺は逃げるようにリビングから去って行った。




 王野の部屋に入り、俺はその場でしゃがみこんで息を吐いた。心労が癒えない。王野の意図や核心が掴めないまま、一生こんな生活を続けなければいけないのだろうか。

 仕事が上手くいかない時に俺を助けてくれた王野と、今の王野と、一緒の人物なのだろうかと時々疑ってしまいそうになる。俺が見てきた王野はスマートで誰からも慕われていて、俺なんかにも気をかけてくれる優しい人間だった。だから時折見せるあの冷たい目や、俺に有無を言わせない空気感が今でも信じられない。

 きっと、王野はどこかがおかしい。それは俺がこの会社を辞めようとしたからで、俺は知らなかったけれど、王野にとっての俺の存在が普通じゃなかったからで__


(……あ)


 ふと視線の先、クローゼットの扉が目に止まった。少しだけ、隙間が空いている。

 昔からこういう隙間が苦手だった。なにか、その間から見られているような気がして。ちゃんと閉めようと思い立ち上がって手を伸ばした。


 王野の言葉がよぎる。物色しないでね。

 中を見るつもりなんてない。俺は扉を閉めようとしているだけだ。だけど、なぜか心臓がばくばくと鳴る。伸ばした手が微かに震える。




 __プルルルルッ


 不意にスマホの着信音が鳴り、俺は盛大に戦慄かせた。スマホを手に取ると、高見くんからの着信だと分かった。俺は胸をなでおろして電話に出た。


「は、はい、もしもし」

『あっ、もしもし!求さん?よかったー』

「どう、どうしたの?急用?」

『違うよ!じゃなくて、求さんのスマホにかけても現在使われてませんって言われて、俺驚きすぎて社用携帯にかけたんだよ!』

「あっ、ご、ごめん。言ってなかった」


 王野の家に軟禁されてから、俺が元々持っていたスマホは王野に捨てられてしまった。今持っているのは王野の連絡先しか入っていない新品のものと、社用携帯だけだった。


『どうしたの?新しいのに変えたの?』

「あ、……うん、えっと……。そう、だね」

『……?じゃあまた連絡先交換しましょ!』

「……うん」


 きっとそれはできない。新しいスマホだって王野に監視されているのだろう。でも俺は高見くんの発言にただ肯定するしかなかった。


「あの、なんの電話かな」

『あー、えっとね。土曜日空いてます?』

「土曜?」

『うん。お昼話してたやつ。どっか、一緒にご飯食べに行こ!』

「あ……」

『求さん、仕事終わったらすぐ帰っちゃったから。あのね、俺行きたいとこあるんだ。桃がまるまる乗った、でっかいパフェが有名なお店があってね、期間限定なんだよ。求さん、甘いの好き?』

「甘いのは好き、だけど……」

『ならよかった。ね、一緒に行こ?』


 俺はぐっと唇を噛み締めた。

 こんなこと、王野は駄目だと言うのだろう。

 でも、王野は今日のお昼、俺が高見くんと一緒にいたことに対して何も言ってこなかった。もしかしたら、ちゃんと話をすれば許可してくれるかもしれない。俺が王野と理解し合うことを諦めなければ、許してくれるかもしれない。

 自分の意志で、ちゃんと動かないと。


「うん、分かった。一緒にい__」


 ガチャ、と音がした。咄嗟に体が凍りつく。

 恐る恐る振り返ると、薄ぼんやりと笑いながら俺を見て立っている王野がいた。


「……っあ、あ……」


 引き攣った喉から乾いた音が漏れる。

 俺が体を震わせていると、王野はこちらまで歩いてきて、空いている方の俺の耳に口を近付けた。


「駄目だよ、約束守れないの?」

「……!」

「悲しいな、俺……」


 王野の顔なんて見れるはずもなかった。心拍数が上がり、浅い呼吸を繰り返し、視界が歪む。

 電話口からは、もしもし、求さん?と問いかける高見くんの声が聞こえる。

 無駄だ。俺は、俺なんかの度胸では、王野に歯向かうこともできない。


「……ご、ごめん、なさい、やっぱり、行けない……」

『……え』

「お、おれ、俺、一緒に出かけられない」

『……』


 スマホを耳から離そうとした瞬間、ねえ、と呼び止める声が聞こえた。


『求さん、いいの、それで。本当に__』


 俺が何かを答えようとする前に、そのスマホは王野に取り上げられてしまった。画面に映る高見くんの名前をじとっと見つめ、そしてなんの感情も無さそうに通話を切った。そして、俺の顔を片手で持ち上げる。


「……あのさあ」

「……ッあ、ひ、」

「俺の気分が悪くなるようなこと、一日に何回もしないでほしいな」

「は、は……」

「俺の言うこと聞けない?……それとも、あの写真バラしてほしい?」

「い、い、いや」

「そうだよね。じゃあなんで高見と仲良くするの?」

「っ……」

「酷いことされたくないでしょ」


 俺は目に涙をためながら必死に頷いた。王野はそんな俺を見て広角を上げた。

 

「俺以外と仲良くしない。約束守れるよね?」

「う、うん、うんっ」

「……あはっ」


 無邪気に笑って、唇が重なった。微かに開いていた口の隙間から、生温い体温の舌が潜り込んでくる。神経を甘く撫でるように、咥内が掻き回される。なんで俺、何も抵抗しないんだろう。


「ん、あ、ッ、はぁ……、ンうっ」


 頬に添えられていた王野の両手はゆっくりと上っていき、俺の耳を塞いだ。部屋に響いていた水音が俺の体と頭の中だけにこだまする。それは俺の意識や理性をじんわりと蝕んでいった。


「んん、んっ、……っ、ハァ、ッ、〜〜ッんん」


 あ、なんか、これ駄目だ。

 前王野に口を塞がれながら達してしまった事を思い出す。ゆっくり触られて、どこにもいけない熱がくすぶって、全然イかせてくれなくて、おかしくなりそうな時に思いっきり強くされて、今みたいにキスされて__


「ふっ、ふぅ、ん"っ!んう、ンンンぅ、〜〜〜ッ!ッ、う、!」


 ガクッと腰が大きく浮いて、俺は王野の胸を強く叩いた。それに気付いた王野は口を離し、俺の下半身を見下ろした。


「……イッたの?キスだけで」

「は、は、はぁ、う……」

「ねえ?」

「!!う"ぁっ……!い、イッ!い、いったから!」


 射精した直後の中心が力強く掴まれて、俺は身体を跳ねさせた。ぐちゃり、と不快な感触が下半身を伝う。王野はそんな俺を見て、普段からは想像もできないくらい不気味に笑った。


「はぁっ……。可愛いねぇ。もっと俺の行動一つで欲情するようになればいいのに」

「や……」

「パブロフの犬の実験、知ってる?」

「……」

「求もさ、俺がキスするだけで、……俺がこうやって頬に手を添えるだけで、耳を塞ぐだけで、」

「は……ぁ」

「感じて、どうしようもなくなればいいんだよ。そうすれば、俺がずっと優しく飼ってあげられるのに。俺だけに靡く、どこでも連れていける、俺の、……はは、可愛い犬、みたいに」

「い……」

「求、」


 俺の顔を持ち上げたその手つきは優しかった。俺の瞳の先を見ているみたいに、真っ直ぐな目。そうやって見られると、俺はなにも抵抗できなくなる。

 王野は何を見ているんだろう。


「ネクタイ、何色がいい?」





6

 ゆらゆらと、車の中で揺れていた。

 平日の朝はいつだって憂鬱だ。


「最近どう?仕事の調子は」

「ど、どう、って……」

「しんどくない?大変だったりしない?」


 運転席の王野がそう聞いてきた。


 この仕事をしている限りしんどいに決まっている。でもどうせ辞めさせてくれないんだろう。結局何を言ったって一緒だ。


「大丈夫だよ」

「そう?無理そうだったら言ってね。本当は俺の係入れてあげたいんだけど……中途の子俺の係に入って来たから、暫くは係編成ないかも」

「ううん、気にしないで。ありがとう」


 きっと王野の係に入ったら、王野は俺の仕事をなんでも手伝ってくれるのだろう。俺の成績がちゃんと奮うように。もしそうなったら俺は誰かに褒められるのだろうか。それとも、王野に頼らないと仕事ができないやつだと思われるのだろうか。いや、言うまでもない。

 王野が俺の仕事を手伝って、ほとんど王野の手柄になって、俺はまた後ろめたくなって。そんなの、俺がこの会社にいる意味なんて無い。王野が俺をこの会社に留めようとする意味が分からない。

 俺はもうこの会社のために働こうとも思えないし、俺が力になれることなんて一つもないのに。




 今日は外回りがない日だったので、精神的にはまだマシだったかもしれない。

 キーボードを打っていると、手前のデスクから視線を感じた。きっと高見くんだろう。あの電話以降、俺は高見くんとまともに話せていない。申し訳なくて、きりっと胃が痛くなった。


「高見、ちょっと」

「?……はい」


 思考を飛ばしていると、高見くんが席を立った。課長に呼び出されたみたいだ。明るい雰囲気ではないのが気になって、こっそり目で追った。


「タイミング悪いって。ちょっとクレームみたいになってたし。前も訪問の時期おかしかっただろ。どっかと間違えた?」

「はい、多分……。すみません、スケジュール管理できてなかったです」

「あと持ってく資料、これちがうとこのだろ。また計算もミスってるし。大丈夫か?」

「え、……本当だ!あー、すみません!」

「再訪になったからよかったけどさあ……。ちゃんとリスケして資料見直して。今月数字悪いぞ。しっかりしろ」

「はい……」


 珍しく高見くんは注意を受けていた。高見くんからいつもの飄々とした態度は消え、ひたすら頭を下げていた。それに少しドキッとしてしまう。だって、高見くんは俺と一緒の係だ。見過ごせすこともできず席を立ち、俺は緊張しながら課長と高見くんの間に入った。


「っあ、あのっ」

「……え」

「求?」

「お、俺のせい、です。俺が訪問計画立てたんです。あと、資料の最終チェック、ちゃんとできてなかったです。俺が休んでる間に高見くんに引き渡した俺の仕事だったから、あの、高見くんが失敗したとかじゃなくて、俺のせいなんです」 

「……!」


 課長は目をまんまるにして俺を見ていた。俺が自らこんなに自分の意志を伝える事が珍しいのだろう。こんな事、あんまり普段やらないから動悸が止まらない。俺は震える拳を握り締めた。

 高見くんも課長と同じように唖然として俺を見ている。


「ち……違う、違います。俺が引き受けたんだし、それに俺が一人でやった事だから、求さんのせいじゃない……」

「い、いや、引き継ぎもろくにしなかったのに、全部任せちゃった俺が悪いんです」

「いや!だから求さん、」


 俺と高見くんがある意味で責任の取り合いをしていると、それを見た課長が雰囲気を変えるように声を出して笑った。


「ははは!お前ら仲良しかよ!」

「へ……」

「あー、分かった分かった。まあ、情報共有不足だな。今度からちゃんと気をつけろよ。次おんなじような事起きたら説教だからな!」

「あ、は、はい!」

「はい、ほんとすみませんでした!」


 課長は高見の肩をぽんと叩き、デスクを離れて行った。俺は安堵し、胸をなでおろして高見くんを見た。高見くんはなんとも微妙そうな顔をしている。


「あ〜……もう、なんで……。はあ、変にかっこつけないでくださいよ……」

「えっ、か、かっこつけてないよ……」

「そうじゃなかったとしても、相対的に俺がかっこ悪くみえるでしょ」

「そんな事ないよ!あの、ごめん、俺の引き継ぎが雑だったから、俺が怒られなきゃいけないのに……」

「はいはい、もういいですって!俺のせいだし、求さんのせいなんでしょ!ぶり返さなくてもいいじゃん!」

「な、なんでそんなキレてんの」

「キレてねえよ!」

「キレてるじゃん!」

「キレてねえって……ああもう……」


 高見くんは大きくため息を吐き、ぐしゃっと頭をかいた。よく見ると、ほんのりと耳が赤い。そしてぽつりと言葉が呟かれる。


「ありがとうございました……」


 その顔を見て、俺は手にしていた資料を床にぶちまけてしまった。


「わ、ご、ごめん」

「もー……。なにやってんすか」

「うん、ごめん……」

「なにに謝ってんの……」


 なぜか分からないけど、体の力が一気に抜けた。言葉にできない不安とか靄が少しだけ消えたような気がした。

 資料を拾う俺と高見くんの手が、ぴとっと触れ合った。

 高見くんは咄嗟に手を振り上げ、スミマセン、と言って俺に資料を押し付けて去ってしまった。

 ほんのちょっと、心臓がドキドキと音を立てた。




「俺は何を見せられてたのかな?」

「ごめっ、ごめんなさいっ」

「ハァ……。求は俺との約束破るの上手だね。あんなに周りに人いたのに、堂々と高見と仲良くするんだからさぁ。俺がいるの忘れてた?高見と喋れたの、楽しかった?」

「た、た、楽しくない!」

「嘘だぁ。求の顔、楽しそうだったよ」


 王野に掴まれている肩が重い。痛くない、はずなのに痛いような気がした。


 資料を拾い終えた後、飲み物でも買おうかとオフィスを出たら王野にトイレの個室まで無理やり連れて行かれてしまった。ただただ無言で俺の腕を掴んでいて怖かった。

 激昂する訳でもなく、淡々と喋りながら俺を見下ろしている。俺は凍りついたかのようにぴくりとも動けない。


「いい子にできないかな?求言ったよね、約束守れるって。……守れてないよね」

「ひっ」

「もうしないよね?俺以外と仲良くしない、できるよね?」

「でっ、できる、できる」

「高見と関わらないでね。次やったら、俺、何するか分かんないよ」

「しないから、仲良くしないっ」

「うん、そうだよね」


 なにがそんなに楽しいのか、王野は俺の怯えきった顔を見て笑っている。


「求、口開けて」


 命じられて震える口をそっと開くと、王野の顔が近付いてきて舌がぬるっと潜り込んできた。抵抗する力なんてないし、そもそも抵抗しようという気も起きなかった。

 王野の熱を口内の神経で感じ取っているうちに、下半身がずくりと重くなるのを感じた。


「ン、ふ、ん"んッ、うぅっ〜〜〜」


 王野の腕を強く掴むと、顔が離された。王野の右手はそっと俺の腰を抱き寄せる。


「俺の言う事ちゃんと聞けるんなら、いっぱい可愛がってあげるよ。俺、賢くて優しい子が大好きなんだ」


 ああ、まただ。

 王野は俺を見てるようで、どこかを見ている。

 きっとどこかにやるはずの感情を俺に向けている。

 分からない。分からないから、俺は王野の手を握り返せない。





7

 随分昔の話だ。


 俺はクラスメイトからいじめられていた。ナヨナヨしてるし、暗いし、喋るのが下手だったから。何年間か我慢したけど、父親の転勤もあり結局俺はその学校から離れる事になった。

 辛い毎日だったけど、引っ越す前の半年間くらいは楽しそうだった、らしい。母親はそう言っていた。引っ越す直前で嫌な事が重なり、俺自身はあまり記憶していない。


 小学生の事だ。何して遊んだかとか、何が好きだったかとか、何を学校で習ったかとか、そんなのいちいち覚えていないし、嫌な記憶とともに忘れてしまったのだろう。


 ほんの少しだけ覚えているのは、うさぎが温かかったこと、犬が温かかったこと、秋と冬の間が寒かったこと、冬はもっと寒かったこと、それとランドセルに付けたペンギンと犬のキーホルダー。 

 ペンギンのキーホルダーは両親と水族館に行った時に買ってもらったもので、もう1つのキーホルダーは。


 どうしてだろう、よく思い出せない。





8

「……む、求」

「う……」

「求」

「……あ」

「大丈夫?うなされてたけど」


 王野に揺さぶられ、目を覚ました。

 ぐるりと辺りを見渡す。もう見慣れてしまった、王野の部屋だった。

 夢を見た後の寝起き特有の感覚にぼーっとしていると、王野は俺のおでこにそっと手をかざした。


「熱はないね。仕事の疲れでも溜まってたのかな?昨日も倒れるみたいにリビングで寝てたし」

「……え、え?そうなの」

「覚えてない?」

「うん……。あの、運んでくれたの?ありがとう」

「ううん。それより、求軽すぎるよ。ちゃんとご飯食べれてる?」


 俺はあんまり、と呟いた。


「もっとカロリー摂取増やそう。俺もレシピ練らなきゃ。ちゃんと俺のご飯で体重増やしてね」


 それが当たり前かのように、王野は言った。俺はもう以前の感覚が無くなっていたので、その発言をなんとも思う事はなかった。俺はベッドの上でこくりと頷いた。


 そして、王野を見ると休日にも関わらずスーツを着ている事が分かった。


「スーツ着てる……」

「そう。急に仕事入っちゃって」


 王野はスマホを見て軽くため息をついた。それを鞄にしまい、俺の髪を優しく撫でて眉を下げた。


「お留守番出来る?」

「うん」

「いい子に待っててね」

「うん」


 王野はその場で身支度を整え、最後にぎゅっと俺に抱き着いてから部屋を出て行った。


 俺は喉の渇きを感じで、部屋を出てキッチンに向かった。コップに水を汲み、少し飲んで机の上に置いた。


(なんか、懐かしい変な夢……)


 正直いじめられていた頃の記憶は無に等しい。防衛本能が働いて、記憶に残っていないのかもしれない。だからその期間の前後の事はあまり覚えていない。それでも時々、懐かしいと感じる映像が脳内に流れ込んでくる時がある。きっかけをつかめず、思い出す事はできないけれど。


 夢の内容を反芻するようにぼーっとしていると、テーブルに置いたコップがカタカタと揺れた。後に自分も揺れているのを感じる。少し大きめの地震だ。情けなくも、俺はその場から何も動けずに揺れがおさまるのを待った。

 速まった鼓動を落ち着かせるように息を吐く。この部屋はマンションのかなり高い所に位置するので、揺れもその分大きかったのだろう。

 王野からもらったスマホから着信音が聞こえる。画面を確認すると、「大丈夫だった?揺れ、大きかったね。怪我はない?」とメッセージが届いていたので、大丈夫だと返す。

 そういえば揺れている最中に王野の部屋からドサリと音が聞こえた気がした。何かが落ちたのかもしれないと思い、確認しに行く事にした。


 扉を開けて中に入ると、特に変化は見られなかった。ただ一つ、クローゼットの中だけが気になる。王野には物色するなと言われていたけど、もし大事な物が落ちていたら大変だ。駄目だと思いつつも、何かおかしい物があったら俺は全力で見ないふりをしよう、と決意し恐る恐るクローゼットの扉を開けた。

 すると開いた隙間からがちゃん!と音を立てて1つの小さな箱が落ちて来た。これはクッキーのブリキ缶だろうか。なんとなくどこかで見た覚えのあるお店の名前が書いてある。古い物なのか、少しさびついている。高い所から落ちた反動で蓋が開いてしまっていた。


 見るつもりなんてなかった。蓋を閉じようと思い、そっと手に取ると箱の中身が見えてしまったのだ。故意ではない。

 中には1冊の小さなノートが入っていた。タイトルもなにもない、小さなノート。使い古したのか、西日に当たったのか、少し黄ばんでいる。

 そして人として最低な行いだとは思うが、興味を抑える事ができず、俺はその表紙をぺらっとめくってしまった。

 中には日付と、短い文章が羅列してある。


(これは……日記?)


 随分と幼くて拙い字だった。

 数ページだけ、と自分の中で約束をしてその日記を読む事にした。




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7月1日(月)

字がへたって言われました。 

だから練習で日記を書きます。

字がきれいに書けたらお父さんもほめてくれるかな。



7月2日(火)

今日はきゅう食でカレーが出ました。

家のカレーは少しからいので苦手です。

学校のはあまくておいしいです。



7月3日(水)

この日記は持って帰れないから、じゅ業がおわってから学校で書いてます。

教科書とノートは学校においていったらおこられるけど、日記はだいじょうぶかな。


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 幼い頃の王野が書いたものだろう。

 今の姿からは想像できないが、子どもらしい文章にふと笑みが溢れた。次のページをめくる。これで本当に最後にしよう。




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7月4日(木)

きのうの夜の事を書こうと思ったけど、わすれました。

今日は理科の実けんで、虫めがねを使って紙をもやしました。

おれのまわりが虫めがねだらけじゃなくてよかったです。



7月5日(金)

きのうの夜の事またわすれた。

うでのいたい所、ナナがなめてきました。

ナナはビーグルの女の子です。

かしこくて、ビーグルの中では小さいです。

かわいいから、ずっと生きてほしいです。


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 ここまで読んで、ふと疑問に思った。

 王野、犬飼ってたんだ。たしか王野は動物が苦手と言っていたはずなのに。この日記を見る限りは、飼っていた犬の事は好きそうだけれど。


 この先も気になるが、バレてしまっては自分の身が恐ろしいので、そっと箱の中に日記をしまってクローゼットの上の棚に乗せ直した。


 あのブリキ缶、やっぱりどこかで見た事があるような気がする。






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