サクリファイス・マイ・メシア 丞(中)


13

「はいみんなお疲れ様〜!上半期は売上も大幅達成して、よく頑張ってくれました。コンテストの方もうちの支社から入賞者が複数人出てくれて、嬉しい限りです。えー、まだ新卒と十分に交流出来ていないメンバーもいると思うので、この会で思う存分話してください!今日は無礼講で!では、乾杯!」


 俺が初めてボーナスを貰った月に、グループ会社内で行われていたコンテストの打ち上げと銘打って飲み会が開かれた。

 正直、本当に行きたくなかった。入社したての歓迎会では苦手なビールを半ば強制的に飲まされたし、雰囲気が怖い上司からはもっと気合を入れろとどやされるし、いい思い出がなかったからだ。

 ただ、その時マシだったのが、俺の横に斜森がいた事だった。あの頃はまだ斜森も嫌々ながら仕事を続けていた。 


「求、ビール貸せ」

「え」

「飲めねえんだろ?レモンサワー頼んだから、交換な」


 今回も無理やり飲まされていたビールを、斜森がこっそりすり替えてくれた。本当に気が利く男だった。斜森と仲良くなれた事はこの会社に入って唯一の良いところだったかもしれない。


「おい斜森ー!女子がお前と喋りたいって!」

「ちょっと!やめてよ恥ずかしい!」


 遠くの席から、既に酔っている先輩が斜森に向かって大きな声を上げていた。斜森は面倒くさそうに顔をしかめ、後で行きますー!と返していた。


「いいの?行かなくて」

「いいよ。どうせ酔って忘れんだろ」


 きっと飲み会のマナーとして駄目なんだろうけど、俺達2人は先輩達と進んで交流をしようとも思わず、その場から動く事はなかった。


「えっ!王野くんその顔で田舎出身なの?」

「はは、はい」

「原石か〜」


 俺達の前の席にいた女性の先輩が、その横にいた後輩__王野に話し掛けていた。

 斜森はハ、と鼻で笑い、ビールを飲んだ。会場に到着した順の流れで俺達と王野の席は近くなったが、正直斜森と王野の相性はよくなさそうだった。お互い気に入らないところがあるのだろう。

 その後も王野に興味がありそうな先輩は、ぐいぐいといろんな事を聞いていた。王野は表情を変えずに笑顔を貼り付けて答えていたが、心底俺があのポジションじゃなくて良かったと思った。 


「求は?もともと東京の人じゃないんだっけ」

「ああ、うん。小さい頃に引っ越ししてこっちに来たけど、俺ももともとは田舎で生まれたよ」

「いいじゃん田舎。俺、将来山奥で自給自足したい」

「はは、斜森ならやりそう」


 小学校3年生の時に東京に引っ越したけど、俺は遠く離れた田舎出身だった。斜森は俺の昔の話に興味を持ったようで、いろんな事を聞いてきた。


「今度求の故郷行ってみようぜ」

「ええ……期待するようなものなにもないよ」

「母校とか、昔遊んでたとことか、思い出の場所とかあんだろ」

「……あー」


 そう言われ、記憶を辿ってみたけどやっぱり思うようにいかなかった。


「ごめん、思い出せない」

「あ、そんなに小さい頃だった?」

「ううん。小3だから、そんなに……。俺、いろいろあってその時の記憶はっきりしてないんだ」


 東京に引っ越してからの学校生活は思い出せる事も多い。友達は多いわけじゃないけど、普通の学生らしく、普通に過ごしていた。でも、やっぱりそれ以前の事は思い出せない事が多い。


「俺、歩き方ちょっとおかしいでしょ?」

「……ああ。……いや、別に、そう?」

「いいよ、事実だし、今は気にしてないから」


 俺は左膝がうまく曲がらず、上手に歩けない。若干庇うような歩き方になるので、速く歩いたり走ったりがあまり得意ではなかった。


「俺昔、事故に遭ったんだ。交通事故で、その時に脚がこうなっちゃって……。本当はもっと酷い怪我だったんだけど、ほとんどはちゃんと治ってくれた。でも、頭は治んなかったみたいで」

「……頭?」

「うん。高次脳機能障害らしくて、それ以前の記憶があんまり思い出せないんだ。倒れた時に頭を強く打ったみたい」


 斜森は黙ったまま、俺の話を聞いていた。俺はまた昔を思い出そうとしたけど、場面や物や人がぼんやりと浮かんでくるだけだった。それでも、覚えている事がある。


「……ひとつだけ、ちゃんと覚えてる」

「なに?」

「変わった子が」

「……?」


 斜森は不思議そうに俺を見ていたが、俺はどこかをぼーっと見ながら、その子の事を思い浮かべた。


「1人だけ友達がいて……。俺、その時いじめられてたから、学校に友達はいなかったんだけど、その子は違う学校だった。なにかで……なんだろう、多分、放課後どこかの公園で出会って、それで仲良くなったんだと思う。うさぎとか、犬とかと遊んで、……ああ、そうだ、パーティー。クリスマスパーティーがあったんだ。俺の家で、俺と、俺の家族と、その子とクリスマスパーティーしようって約束して、プレゼントも用意した。俺はその子しか友達がいなかったから、本当に楽しみで、浮かれて、でも、」


 カシャン、とどこかで箸が落ちる音がした。すみません、と店員を呼ぶ声。笑い声が聞こえる。

 辛かったけど楽しかったあの頃は、一瞬で過ぎていった。靄がかかった空間に2人、俺と、その子が対面している。


「__でも?」

「……でも、来てくれなかった。それ以降、会えなかった。どこに行ったかも、なんで会えなくなったのかも分からなかった」

「……」

「公園で待ち合わせをしていて、でも、待っても待っても来なくて、もう日が落ちる時に諦めて泣きながら帰ったんだ、凄く悲しくて。……それが駄目だったのかも。泣いて周りが見えてなかったから、飛び出してきた車とぶつかって、それで事故に」


 斜森は目線を俺の左脚に向け、痛ましそうに見ていた。


「……そいつとは、会えてないのか?」

「うん。リハビリで大きい病院に移って、それで東京に引っ越してきたから、全然。今はもうなにしてるのか分かんない」

「会いたい?」

「……どうだろう。会いたくないかもしれない。クリスマスパーティーに来てくれなかったのは、嫌われたからかなって思ってるから。俺、鈍くさくてつまんない子どもだったし。それに、会おうにもその子のいる場所も、名前も知らないんだ」

「名前、思い出せない?」

「1回聞いただけで、それ以降は忘れちゃった。俺も自分の名前嫌いだから言わなかったけど……」

「どうやって遊んでたんだよ」


 ふ、と微かに笑われた。名前もお互いの事もよく知らなかった。でも、あの時俺達はちゃんと友達だった。心の中でその子の名前を呟く。懐かしい響きだった。


「あいちゃん」

「……?」

「あいちゃんって呼んでって。だから、その子の事あいちゃんって呼んでた。俺はまいごって呼ばれて__」


 ガシャン!!


 と、すぐ近くで大きな音が響いた。机には液体が広がり、側には横たわるグラスが。


「酔っちゃった?大丈夫?」


 前にいた先輩が心配そうに伺っていた。周りの人達がおしぼりを持ってかけつける。

 そのグラスの持ち主__王野は顔を青白くさせながら、目を見開いて俺を見ていた。

 俺も驚いてそのまま王野を見つめる。周りは慌ただしく動いているのに、俺と王野の間だけ時が止まっているようだった。


 そうだった。きっと、あの時から。

 王野はあれから、俺に対して不自然なほど優しく接してくれるようになった。





14

「……む、求」

「う……」

「求」

「……あ」

「大丈夫?うなされてたけど」


 王野に揺さぶられ、目を覚ました。

 ぐるりと辺りを見渡す。もう見慣れてしまった、王野の部屋だった。

 夢を見た後の寝起き特有の感覚にぼーっとしていると、王野は俺のおでこにそっと手をかざした。


「熱はないね。仕事の疲れでも溜まってたのかな?昨日も倒れるみたいにリビングで寝てたし」

「……え、え?そうなの」

「覚えてない?」

「うん……。あの、運んでくれたの?ありがとう」

「ううん。それより、求軽すぎるよ。ちゃんとご飯食べれてる?」


 俺はあんまり、と呟いた。


「もっとカロリー摂取増やそう。俺もレシピ練らなきゃ。ちゃんと俺のご飯で体重増やしてね」


 それが当たり前かのように、王野は言った。俺はもう以前の感覚が無くなっていたので、その発言をなんとも思う事はなかった。俺はベッドの上でこくりと頷いた。


 そして、王野を見ると休日にも関わらずスーツを着ている事が分かった。


「スーツ着てる……」

「そう。急に仕事入っちゃって」


 王野はスマホを見て軽くため息をついた。それを鞄にしまい、俺の髪を優しく撫でて眉を下げた。


「お留守番出来る?」

「うん」

「いい子に待っててね」

「うん」


 王野はその場で身支度を整え、最後にぎゅっと俺に抱き着いてから部屋を出て行った。


 俺は喉の渇きを感じで、部屋を出てキッチンに向かった。コップに水を汲み、少し飲んで机の上に置いた。


(なんか、懐かしい変な夢……)


 新卒の頃なんて、もう何年も前の出来事だ。王野はあれからよく俺に話しかけてくれるようになった。それと同時に、斜森は王野とよく言い合いをするようにもなった。俺はその時はなにも思わなかったけど、当時の斜森は王野の事を「腹のうちが分からないヤツ」と言っていた。斜森は昔から人を見る目があった。


 夢の内容を反芻するようにぼーっとしていると、テーブルに置いたコップがカタカタと揺れた。後に自分も揺れているのを感じる。少し大きめの地震だ。情けなくも、俺はその場から何も動けずに揺れがおさまるのを待った。

 速まった鼓動を落ち着かせるように息を吐く。この部屋はマンションのかなり高い所に位置するので、揺れもその分大きかったのだろう。

 王野からもらったスマホから着信音が聞こえる。画面を確認すると、「大丈夫だった?揺れ、大きかったね。怪我はない?」とメッセージが届いていたので、大丈夫だと返す。

 そういえば揺れている最中に王野の部屋からドサリと音が聞こえた気がした。何かが落ちたのかもしれないと思い、確認しに行く事にした。


 扉を開けて中に入ると、特に変化は見られなかった。ただ一つ、クローゼットの中だけが気になる。王野には物色するなと言われていたけど、もし大事な物が落ちていたら大変だ。駄目だと思いつつも、何かおかしい物があったら俺は全力で見ないふりをしよう、と決意し恐る恐るクローゼットの扉を開けた。

 すると開いた隙間からがちゃん!と音を立てて1つの小さな箱が落ちて来た。これはクッキーのブリキ缶だろうか。なんとなくどこかで見た覚えのあるお店の名前が書いてある。古い物なのか、少しさびついている。高い所から落ちた反動で蓋が開いてしまっていた。


 見るつもりなんてなかった。蓋を閉じようと思い、そっと手に取ると箱の中身が見えてしまったのだ。故意ではない。

 中には1冊の小さなノートが入っていた。タイトルもなにもない、小さなノート。使い古したのか、西日に当たったのか、少し黄ばんでいる。

 そして人として最低な行いだとは思うが、興味を抑える事ができず、俺はその表紙をぺらっとめくってしまった。

 中には日付と、短い文章が羅列してある。


(これは……日記?)


 随分と幼くて拙い字だった。

 数ページだけ、と自分の中で約束をしてその日記を読む事にした。




_____


7月1日(月)

字がへたって言われました。 

だから練習で日記を書きます。

字がきれいに書けたらお父さんもほめてくれるかな。



7月2日(火)

今日はきゅう食でカレーが出ました。

家のカレーは少しからいので苦手です。

学校のはあまくておいしいです。



7月3日(水)

この日記は持って帰れないから、じゅ業がおわってから学校で書いてます。

教科書とノートは学校においていったらおこられるけど、日記はだいじょうぶかな。


_____




 幼い頃の王野が書いたものだろう。

 今の姿からは想像できないが、子どもらしい文章にふと笑みが溢れた。次のページをめくる。これで本当に最後にしよう。




_____


7月4日(木)

きのうの夜の事を書こうと思ったけど、わすれました。

今日は理科の実けんで、虫めがねを使って紙をもやしました。

おれのまわりが虫めがねだらけじゃなくてよかったです。



7月5日(金)

きのうの夜の事またわすれた。

うでのいたい所、ナナがなめてきました。

ナナはビーグルの女の子です。

かしこくて、ビーグルの中では小さいです。

かわいいから、ずっと生きてほしいです。


_____



 ここまで読んで、ふと疑問に思った。

 王野、犬飼ってたんだ。たしか王野は動物が苦手と言っていたはずなのに。この日記を見る限りは、飼っていた犬の事は好きそうだけれど。


 この先も気になるが、バレてしまっては自分の身が恐ろしいので、そっと箱の中に日記をしまってクローゼットの上の棚に乗せ直した。


 あのブリキ缶、やっぱりどこかで見た事があるような気がする。





15

 週明けにはもう熱は下がっていたので、通常通り出社する事になった。

 出社して早々王野は課長に呼び出され、長いこと席を外していた。王野は最近よく上司と面談のようなものをしている。

 王野は自分の仕事の事を一切話してくれないので、一体何を話しているのかは分からなかった。

 俺が席に着くと、違う係の先輩が俺に話しかけてきた。


「求」

「あ、はい」

「ごめん、これ資料室に片付けといてくれない?」


 申し訳なさそうに、資料の入ったダンボールが渡された。特にする事が無さそうに見えたのだろう。

 昔後輩に言われた、損な役回りという言葉を思い出す。損?そうなのだろうか。俺が役に立てるのなんて、これくらいしかない。


「分かりました」

「ごめんな、助かるわ」


 どうやら今日は多くの人がこのオフィスから離れているらしい。少しガランとしていて、なんとなく寂しい感じがする。

 資料保管室に入り、棚の扉を開けてファイルを順番に挟んでいく。


(……俺は、どうすればいいんだろう)


 何も考えなくてもいい時ほど、本当に考えなければいけない事が頭をよぎる。


 今のままでは絶対に駄目な事は分かっている。俺にとっても、王野にとっても。でも、弱い俺はどうすればいいのか決める事が出来ない。


「あっ」


 手を滑らせ、ファイリングされた資料が床に散らばった。随分昔のものだ。なんでこれが必要だったのか分からないが、昔の日報が集められていた。その中に、数年前の自分の日報がある。その日の数字と、反省が書かれている。この時は全部アナログで紙に書き出していて大変だった。

 反省の欄を見た。どうやらその日は王野の営業に同行させてもらっていたらしい。きっと、契約が取れない日が続いたからだろう。

 王野の良かった所、自分ができていない所が箇条書きでずらっと並んでいる。できていない所、今となんにも変わっていない。

 そして次の紙を見ると、それは王野の日報だった。そうだ。たしかこの頃は王野もまだ主任じゃなくて、俺と王野は一緒の係だった。

 王野の日報の反省欄には良い所も悪い所もびっしり書いてある。自己分析がとても上手だ。王野の書く文字は王野の雰囲気に合っている。丁寧で、見やすくて、誰が見ても綺麗と思える字だ。

 前に見た王野の昔の日記には、お父さんに褒められたくて字を練習すると書いてあった。これは、そのおかげなのだろうか。


 そして、棚の中に並べられていたグループ会社の紹介冊子が目に止まり、それを手に取ってパラっとページを捲った。数年前、俺がまだ大学生くらいだった頃に発行されたものだ。


「……え」


 とあるページで動きを止めた。

 威厳のある男の人が写っている。会社を立ち上げた理由や、これからの社会についてが書かれている。その人物の下には、代表取締役という肩書きと、そして『王野 寿光』という名前が書かれていた。

 どうしても気になったのでそれを手に取り、オフィスに持って行った。王野の姿はまだ無い。俺は先輩にこれ、とそのページを見せた。


「ああ、王野会長」

「王野、会長?」

「王野会長……前は代表取締役だったけど、今は退任して会長だよ」

「王野、って……」

「ああ。王野のお父さんね。え、もしかして知らなかった?」

「は、はい」

「……まー、あいつ自分から言わないしな。しかも会長はもう表舞台に立たないから、今は知らない人も多いかもな」

「……」


 何かが繋がったような気がした。

 王野は昔やりたい事があり、今のこの仕事は好きではないと言っていた。それと、王野のお父さんがこのグループ会社の会長である事は、何か関係があるのだろうか。





16

「求、ここ数字ずれてる」

「えっ、あっ……」

「あとここの後追いは?電話かけてる?」

「ま、まだ、です。すみません、今から……」

「はあ、あのなあ……」


 前の係の時の仕事がまだ残っていて、その時のチーフに注意されてしまった。チーフは曖昧な態度の俺を見て呆れるように呟く。


「もっとちゃんとしろ。散々言われてるだろ。病み上がりなのは分かるけどさ、自分のためにもそろそろ結果出してこい」

「はい……すみません」


 チーフから受け取った報告書をぎゅっと握り締め、俯いて顔に力を入れる。嫌なものが全部口から出てしまいそうだった。




『__申し訳ないですけど、今回は一旦見送らせていただいてもいいですか?興味が無いわけではないので、また機会があったらご連絡差し上げても大丈夫でしょうか』

「はい、……いえ、こちらこそ。ご検討ありがとうございます。また機会があれば、はい……」


 先日営業に行った会社からお断りの電話がかかってきた。ここ最近ずっと契約が取れていない。原因は自分でも分かっている。


 成績表のグラフを眺める。もう随分と自分の名前の所にマーカーを引けていない。後輩はとっくに俺の成績を超えている。今月だけじゃない、もうずっとだ。


 気分が完全に落ちてしまって、その場から逃げるように自動販売機のある場所に移動した。


「っは、ぁ……」


 壁にもたれ掛かり、俯いて息を吐いた。いやに緊張していると思い、ペットボトルを持つ手を見ると微かに震えていた。まだ電話をかけなければいけない営業先の会社が何件かある。それを考えると酷く憂鬱になった。


「また怒られてたよ、何回おんなじ怒られ方されるんだろ」


 突然声が聞こえてぎくりと体が固まる。隣の喫煙スペースから、後輩と思われる人達の声が聞こえた。俺は息を呑んだ。


「何年目だっけ……でもあの人ももうすぐ30とかでしょ、あれでよく仕事続けてこれたよな」

「あそこまで成績悪くても給料もらえるんなら楽な仕事だよ」

「王野主任もなんであんなに面倒みてるんだろうな……絶対時間無駄だって」

「だよなあ。あれ以上のびしろないだろ。ずるいわマジで、俺の方が絶対王野主任に教えてもらった方がいいのに」

「お前は王野主任の人脈にあやかりたいだけだろ」

「んなことねえって!ていうかさ、昨日の試合観た?マジで面白かったな、あれ__」


 俺は走っていた。どこでもよかった。走って、階段を登って、気が付いたらビルの屋上で息を荒げて佇んでいた。


「ハァッ、……ハァ、ハァ、う、ぁ……」


 喉がひきつって上手く呼吸が出来ない。無理をした左の膝がカクカクとブレている。冬を控えた外の空気は冷たく、鼻先がツンと冷えた。


 誰が、なんて言われなくても分かってしまった。全て分かっている。俺もそうだって、ずっとずっと、ずっと前から思っていた。


「そうだけどさ、ぁ……じゃあ、どうすればいいんだよ……」


 ぼた、ぼた、とコンクリートの床に涙が落ちる。広がって、滲んで色が濃くなった。頬を撫でるビル風は冷たく無機質で、なんだかもう全てがどうでも良くなった。





17

「今年の冬は初雪の観測が早いみたい」

「……そうなんだ」

「北海道とか、東北の方ではもう雪が降ったって」

「そっか」

「雪、そんなに好きじゃないけど、求と一緒なら見に行きたいね」

「……」


 王野の家に戻る車の中で、俺は決意していた。

 全部が嫌になってしまったのだ。


「ほら、前さ、求と一緒にどこか出掛けたいって言ったでしょ。なんだかんだ、ちゃんとどこにも行けてないから」

「うん」

「雪見に行くのもいいかもね。ここらへんじゃ滅多に降らないし。あ、その前に、もっと寒くなる前に海に行きたいかも」


 どうしてだろう。なんだか、王野の口数がいつもより多い。もしかして、本能的に何か勘付いているのだろうか。


 車が駐車場に停められ、俺達は外に出た。エレベーターに乗り、靴音を響かせて移動し王野の部屋の手前で止まった。王野が鍵を回して扉を開けたけど、俺は遠くでじっと止まったままだった。不自然な距離感を不審に思ったのだろう、王野が俺をじっと見る。


「……求、寒いから中入ろう」


 動かない。俺は震える口を開いて呟いた。


「……王野、やめたい」


 ドアノブを掴む手がピクリと動いた。静寂を破るのは怖かったけど、一度開いた口は止まらなかった。


「仕事、辞めたいんだ。……俺、もう無理だよ。ずっと働いてもなんにもなれなかったし、今更頑張ろうとも思えないし、好きになれないし。俺がいる意味なんてない……。もうしんどいのも、恥ずかしいのも、頑張れないのも嫌なんだよ」


 バタン、とドアが閉まる。王野はゆっくりと俺に近づいてきた。表情は変わらない。だからこそ、何も読めなくて怖い。


「俺、あの写真バラまくって言ったよね。忘れちゃった?」

「もういいよ」

「……は?」


 震える腕を片手で抑えて、俺は王野を見上げた。


「……もういい。どうにでもすればいいよ。もう、俺を解放してよ、王野……」


 その瞬間、強い力で手首をガッと掴まれた。無理やり引っ張られ、王野の部屋へと強制的に吸い込まれていく。


「いた、痛い、王野!離して!」

「離したら離れていくんでしょ?」

「い、痛いっ!」


 うっ血しそうな程強く握られ、痛みに顔が歪んだ。王野は俺の方を見る事なくそのまま寝室に向かった。普段は見せない粗暴さだった。まるで退職願を王野に破られたあの時みたいだ。俺を力づくでベッドに投げ捨て、自分のネクタイを解いて俺の両手をベッドフレームに拘束した。やめて、と叫んで抵抗したけど、向けられるのは王野の冷たい視線だけだった。


「求はよく分かんないね、ずっと大人しくしてくれてると思ったらいきなり吠えるんだから」

「王野、やめて、これ取って」

「大人しくて賢いままでいてよ、頼むから」


 王野が俺に覆い被さり、そして乱暴な手つきで俺が来ていたワイシャツのボタンを外した。今更急に襲われているという事実を実感し、奥歯がカタカタと鳴った。脚を懸命に動かしたてみたけど、王野に押さえつけられた体はピクリとも動かなかった。


「何か吹き込まれた?誰のせい?高見か、斜森か?」

「っ、違う!違う……」

「どうすれば働きやすくなる?誰が嫌い?誰に嫌なこと言われるの?俺は誰を消せばいい?」

「……」

「嫌なのは全部俺がどうにかするって言ったよね。何が嫌だった?なんでも言って」

「……」

「……なんでなにも言わないの?」


 青白い胸板に王野の手のひらが這った。怖くて何もできなくて、心臓が跳ねる。その心臓の部分で手は止まり、カリッと爪を立てた。


「い、い、いたい……」

「なんで、辞めたいとか言うの、俺がいるのに」

「……違う、お、王野がいるとかいないとかじゃない。どうしようもないよ……」

「……なに?」

「お、お、王野がなにしたって、俺はもう、あの場所にいたくな__ァ、あ……?」


 言い終わる前に、突然視界がぐらっと傾いた。抵抗しようと持ち上げていた頭はぽすんと枕の上に落ち、虚ろな目で視線を動かすので精一杯だった。かろうじて動かせていた脚も思うように動かず、無様に投げ出した。酷く酔った時みたいに、力が全く入らない。


「な、に、こっ、これ、王野、」

「ん、ふふ」

「こわい、こわいっ」

「求が車の中で飲んでた水、変な味しなかった?」

「……!」

「しなかったかな。出来がいいんだ」

「なに、い、入れたの……」

「秘密」


 王野は美しく不気味に笑い、俺が身に着けていたベルトを腰から抜き取った。視線だけそちらに動かして、俺は呼吸を荒くした。


「やだ、やだ、やだ、やめて!」

「元気だね。眠くはない?意識飛ばさないでね、ちゃんと覚えててほしいから」

「な……」


 ハッ、ハッ、と短い呼吸を繰り返す。言いたい事は山ほどあるのに、力づくで抵抗したいのに、摂取してしまったなにかのせいか、何もできない。怖いのに、何故か心と体が切り離されているようだ。体は脱力しきって王野に操作されるがままだった。

 俺が履いていたスラックスと下着は王野の手によって乱雑に脱がされ、そしてその手で秘部をそっと撫でられた。思わず息を呑む。


「ひ、ひっ、やだ、やだぁ、やだぁ!ごめっ、ごめ、なさいっ」

「……何に謝ってんの?」

「ごえ、ら、ッ、さっ……こわっ、こわいっ」

「別に謝ってほしいんじゃないんだよ」

「アッ、あ"っ!!」


 頭を上手く動かせないせいで自分の下半身がよく見えない。でも、後孔に他人の温度があてがわれたのが分かった。王野の冷たい指先じゃない。それよりももっと熱くて大きくて、もっと怖かった。


「弛緩作用もあるから……俺なりの優しさだよ」

「い"やぁ、や"っ、あぁ!」

「……っはは!慣らしてないと、入れる方も痛いな」

「あ"あ"あ"ああぁぁっ!!」


 そのまま王野のものがゆっくりと奥に進んでいく。俺の悲鳴に合わせて、見せつけるかのようにゆっくりと。まるでなにをやっても無駄だと言われているみたいだった。

 みち……と下から音がする。本当なのか、気のせいなのか、朧気な思考回路では何も分からない。ただ、怒張が埋まった孔の周りが燃えるように熱くて痛い事だけは感じた。


「あ"ーーーッ!いたいっ!いたい、いたい!!」

「ハ……うん、俺も」

「やめて、ぬいて!やだ、いやだぁ!」

「俺もいやだよ」


 何を叫んでも王野に届かない。混乱して馬鹿みたいに口をぱくぱくと開閉していると、王野は俺の腰を両手で力強く掴んで、中の一点をめがけてグッと擦りつけた。俺の意志とは無関係に、ガクッ!と体が震える。虚ろな目はその一瞬で火花が散ったようにぱちりと開いた。


「__あ"、ッ!?」


 これは悲鳴ではなかった。さっきまでと違う。痛いはず、なのに、そうではない感覚が下半身を襲った。俺の声を聞いて、王野の動きはピタッと止まり、薄気味悪く息を吐く音が聞こえた。


「偉いね、ちゃんと体は覚えてるんだ」


 ぐ、ぐ、と一定のリズムでその一点を押し込まれる。潤滑剤なんて使わなかったのに、どんどん滑りが良くなっていくのが分かってしまって、それが気持ち悪くて涙が出た。泣いてストッパーが外れ、更に体の機能を制御出来なくなったのか、嬌声が止まらない。


「あ"、ぉあ"、あぇっ、はぁ、あ"あぁ!」

「ふ……、目ぇ、ぐるぐるしてる……」

「なぁ"、あ"ッ、なんっ!ん、あアッ!」

「夜さ、求が寝た後に……はは、ちょっとずつ慣らしておいたから」

「あ"、あ、ああァ……!」

「気持ちいいでしょ?」


 どんどんピストンが早くなる。容赦なんて全く無い。気が狂いそうなほどその一点を何度も何度も突かれ、未知の感覚がただただ怖くて、俺は泣きじゃくりながらひたすらに謝罪を口にしていた。


「ごめぇ、らっ、さいっ、!ア"っ!ごぇ、あ、ご、ごえ、ら"、さ、あ、あ"あ!」

「だから、何に謝ってんの?」

「うあ"あ"あぁぁぁ」


王野の顔がちゃんと見れない。それどころか、自分が今どこを見ているかもよく分からない。酩酊した頭で、とにかく頭に浮かんでくる言葉を口に出すだけだった。

 それでも王野は動くのをやめてくれなくて、本当に怖くて声の限り泣き喚いた。するとだんだんと腰の動きがゆっくりになり、王野の顔が俺の顔に近付いた。体勢が変わってまた呻くような声が出る。王野は俺の汗ばんだおでこに張り付いた前髪を撫でつけた。あやされているようで、でもやっぱり何を考えているか分からない目の前の王野が怖くて、必死に呼吸をしながら訴えた。


「も、もぉ、おうのと一緒のへや、ずっ、ずっと、す、すむから、しご、しごとっ、やっ、やめても、おっ、王野と、一緒にいる、いる、からっ、ごめんなさいっ……」


 こんなの本望じゃない。でも、混乱した脳ではこれを言うので精一杯だった。

 そんな俺の言葉を聞いて、王野は俺の髪の毛を撫でる手を止め、薄く笑った。


「それだけじゃ駄目だよ。一緒にあの場所で働いてくれないと」

「……」

「最初はね、一緒に働けるだけでよかったんだ。でも求が辞めるなんて言うから。どうすれば辞めないかなっていろいろ考えたんだけど、……これでも駄目だったら、俺は次に何をすればいい?」

「ひッ……」

「求、俺の言う事聞けない?」


 ぐ、と顔が近寄る。真っ黒な瞳は俺の身体も意志も何もかも持って行きそうで、歯がカチカチと鳴った。じわりと滲んだ視界では、王野の顔をちゃんと捉えられない。


「なん、なんで……なんで、お、おれ、俺なの……」


 ずっと考えていた。なんで俺なのか。でも、何を考えても答えは出なかった。


 王野は俺の言葉を聞き、俺の体の中に埋めていたものをズルリと抜いた。それすらも快感に変わり、声を漏らす自分が嫌になった。


「……」


 王野は俺の質問に答えない。

 カーテンが閉まりきった部屋は暗く、夕日すらも射さない。もともと分からなかった王野の表情は、何も読み取る事が出来ない。


「……大事にしたい。求の事が一番大事だから、大事にしたい。一番大事……、俺の人生のなによりも」


 寒々しい部屋に響く声は酷く寂しかった。何故だか心臓が苦しくて、俺は唇を噛んだ。


「だから、ずっと俺の近くにいて、一番近くにいて、俺と一緒の事をしてて。一緒に住むだけじゃ足りない。俺の一番近くで俺を見てて、ずっと俺だけ見てて」

「……」

「……ねぇ、うんって言って……。こんなんじゃなくて、一番大事にするから、一番大事にしたいから、求が一番大事だからさぁ……」


 ぽろ、と、既に乾いた涙の筋にまた涙が伝った。王野は泣いていない。王野は絶対に泣かない。俺は、自分がなんで泣いているのかも分からなかった。


「大事にするんなら、したいなら、こん、こんなこと、やめて、おれっ……俺を、解放、して……」

「……」

「こんなんじゃ、王野は俺を絶対大事にできないし、おれ、俺は、王野を、……救えない。救えないよ、絶対に」

「__!!」


 瞬間、ヒュッと空間を裂くような音が聞こえた。気配で王野が手を上げたのが分かった。微かな自然光で王野の表情を見ると、瞳孔は開いて、ただ俺を見据えていた。あまりにも恐ろしくてゾッとした。そして手が振り下ろされる。恐怖からか、一連の動作はまるでスローモーションのように感じた。俺は反射的に肩を縮こまらせ、次に来るであろう衝撃に備えて俯き、固く目を瞑った。


 でも、一向にその衝撃はやってこなかった。俺は体を震わせながら、恐る恐る顔を上げた。

 そこにいたのは、虚脱しきった王野の姿だった。

 唖然とし、俺は浅く呼吸を続けながら、無言で王野を見た。


「……」


 王野は先程まで振りかざしていた右手をじっと見つめていた。その目の膜は、ゆらっと光ったような気がする。


「……俺、なにやってんだろ」


 ぽつり、と小さな声で呟いた。本当に小さな声だった。まるで、誰にも聞かれたくないかのように。

 

 暫くすると王野は自分と俺の服を整え、そして俺を拘束していたネクタイを解いた。王野が俺に触れる度に怖くて戦慄いたけれど、王野は何も言わなかった。そして静かに立ち上がって、扉の方に向かって行った。

 部屋を出る直前、ずっと無言だった王野は俺の方を振り向かずに一言だけ口にした。


「ごめん」


 パタン、と扉が閉まる。

 俺はなにか喋る事も、その場から動く事も出来なかった。


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