コードペンデンシー駆け込み


お題:生真面目な優等生×鈍感で怠惰な劣等生




1


「杭田くん、朝ですよ」

「……」

「く、い、だ、くーん、起きてください」

「……」

「杭田くん、杭田くん、杭田くん、朝」

「ッあああああもうッマジッッッでウザい勘弁しろよ!!」

「あ、おはようございます」


 梯子から顔をひょっこり覗かせている大槌(おおづち)にめがけて枕を投げたが、見事にかわされてしまった。まるで動じていない表情にも腹が立つ。カーテンが全開で朝日が部屋にちゃんと差しているのにも重ねて腹が立つ。


「俺が、朝に、弱いの、分かってるよ、な」

「でも6時半ですから。朝ご飯の時間に間に合うようにしなくては」

「朝食の時間は7時から8時半までってのを、大槌は知らないか」

「だから6時半に起こしてるんですが」

「7時から8時半までってのは、その間に食堂に行ってご飯食べてくださいねの時間なんだよ。だから8時に起きて8時半までに食べ終わればいいんだよ。俺はそれでいいんだよ。お前の後期高齢者タイムスケジュールに俺を巻き込むな。ってか仮に朝食の時間が始まる7時から行くにしても俺を6時半に起こすな。どんだけ支度の時間いると思ってんだよ。俺のこと女子だと思ってる?」

「杭田くんって朝からそんなに喋れて凄いですよね」

「殴るぞ」

「6時に起こすのは僕が杭田くんの準備を手伝わなきゃいけないからです。杭田くんがなかなか思うように動いてくれないからこの時間なんです」

「……はぁ」


 もうヤダ。こいつと会話したくない。朝から脳の血管が切れそうだ。

 

「どけ、降りるから」


 大槌と喋り続けてもイライラが増すだけなのは、約一年半ほど相部屋で過ごしてきたせいで学習している。

 大槌は静かに梯子から降りたので、仕方なく俺もベッドから降りる。そして大槌はいつの間にかタオルを用意していた。


「はい」

「……」


 俺は大槌からそのタオルをはぎ取った。

 通常ありがとうと言わないといけないところだけど、おせっかいが度をすぎると感謝すらしたくなくなる。

 顔を洗うために共同の洗面所へ向かったが、成長期の男子高校生がこんな早くに起きるはずもなく。7時台からはここは混むらしいが、今は俺しかいなかった。

 少しでも目が覚めるように冷水で顔を洗い、大槌から受け取ったタオルで拭きながら鏡を見た。どう見ても機嫌が悪く血圧も低そうな顔をしている。大槌は鬼だ。他人の睡眠時間を削って何が楽しいんだ。


 部屋へ戻ると、大槌が俺の制服を手にしていた。ワイシャツを広げ、俺の腕が袖に通るのを待ち構えている。


「俺のことなんだと思ってる? お着替えできるかなのコーナー?」

「こうでもしないと、杭田くんなかなか着替えないので」

「分かった、優しく言ってやる。俺は、朝ご飯を食べてから制服を着る派です。今着たくないです」

「知っていますか? 食堂は制服もしくは学校指定のジャージまたは部活着以外での入室はしてはいけない規則があるんです。みなさん何故かルールを守っていませんが」

「先生も寮母さんも先輩もみんなそれくらいどーでもいいやって思ってんだよ」

「それなら校則に残す必要ないですよね。ちゃんとあるんですよ、ほら、生徒手帳の34ページ……」

「ああああああもう分かった、分かったから、着るから」


 ……こうして、俺はいつも大槌に負けてしまう。勝負をしているわけではないが、いつだってこいつのフィールドの中に無理矢理入れられて、このザマとなる。

 暴れ出したい気持ちをぐっと抑え、着ていたスウェットを脱ぎ大槌が広げているシャツの袖に腕を通した。

 すると、背後から大槌の腕が首元にまわってきた。このままシャツのボタンを止めようとしている。


「……おい! 自分でやるから!」

「いやいや、杭田くんに任せると掛け違っちゃいます」

「しねえよ! お前マジで俺のことなんだと思ってるんだって!」


 大槌の手を叩いて払っても、どうしてもボタンを止めたいらしく元の位置に戻る。だからまた大槌の手を叩く。これを何度も繰り返した。そして俺の方が根負けして、結局大槌が俺のシャツのボタンを全部止めた。

 朝だというのにもう既に疲れた。この外的要因のせいで。


「早く下も脱いでください」

「……流石にこっちは自分でやらせて……お願い……」


 大槌が制服のスラックスまでも履きやすいように準備し始めたので、俺はもう怒りを通り越して懇願するしかなかった。

 たかが俺が制服に着替えるだけで、トータル20分。ふざけんなよ。

 大槌は俺の制服姿を見て、満足そうに笑った。


「ね、準備に時間掛かるでしょう」

「お前それ本気で言ってる?」


 本気で殴ってやろうかこいつ。

 そんな俺のイライラなんかまるで気にしない。気にしないというか、気付いていない。

 気付いていない大槌は俺の前で手を組み、目を瞑った。


「では……。今日も変わらぬ生活を送れますように」


 これだ。

 毎朝、毎晩、俺の目の前でこれをされる。

 例えるなら、信仰対象に祈る信者のようだ。

 これになんの意味があるのかが分からない。

 ただ分かるのは、大槌が生真面目を通り越して奇人であると言うこと。






2


 低血圧朝弱いあるある、朝ご飯全然食べられない。

 そもそも俺はこの寮に入る前、実家ではいつも朝ご飯を食べずに学校に行っていた。朝からご飯を食べる元気がない。胃に入れようとも思わなかった。

 この寮の朝ご飯はバイキンスタイルになっている。自分で食べる量を決められるのだけはありがたい。

 俺はロールパンとコーンスープだけをトレーに置き、席に着いた。横には畑中がいる。


「おはよ。今日早くない?」

「おはよー。完徹したせいでお腹空いちゃって」

「寝てないの?」

「うん。ランキング上げないと」


 畑中は俺と同じクラスの友達だ。

 寝間着というか、部屋着というか、よれよれのダル着をだらしなく着ている。背が高いのに細いせいで妙にオーバーサイズな気がする。

 畑中はスマホを傍らに置いてそれを操作しながら食パンを食べている。ランキングとは、ソシャゲのことだろう。


「……畑中、パンくずが……」

「んー」


 気の抜けた返事をし、ゲームをする片手間で机の上に散らばったパンくずを無造作に払った。

 俺レベルにズボラな男もいるもんだ。


「てか杭田はいっつもこの時間なんだよね。早すぎ」

「それアイツに言ってやってくれよ」


 噂をしていると、アイツ、もとい大槌がトレーにたくさんの小鉢を乗せてこちらにやってきた。勘弁してくれ、とつっこむ間もなく、俺のトレーの上にその小鉢たちを乗せ出した。なんか、全部じいちゃんが食べそうなやつ。

 

「栄養が足りていません。これも食べてください。全部です」

「うるせーよマジでお前は俺のカーチャンかよカーチャンじゃないなお前もはや研究員だろ、俺のこと実験体だと思ってるよな」

「朝ご飯をしっかり食べる人と食べない人とでは学力や体力に差が付くという統計はもう取れているんです。僕が実験せずとも、すで」

「はい、もう、はい、分かりました」


 どっちのが朝から口が回るんだよ。マジでムカつくな。

 俺が渋々追加された小鉢に箸をつけるのを確認すると、大槌は認めるように小さく頷いた。ウザい。


「つかいろいろ言うんなら畑中に言えよ。見ろよこれ」


 畑中のトレーを指差す。小さい食パン1枚、ベーコン5枚、オレンジジュース、おまけに机の上にはパンくずが散らばっている。そしてながらスマホ。

 俺がこれをやっていたら確実に大槌に咎められる。

 流れで畑中と大槌の目が合う。が、畑中は陰キャ特有の視線の動きで目を逸らした。


「畑中くんは同室者じゃないので。監督責任はないです」

「同室の俺にも監督責任なんてねえよ」


 大槌は何も言わず、俺がちゃんとご飯を食べるのを確認して去って行った。大槌にはお気に入りの席があるらしい。窓際の朝日がよく当たる所。

 一連の流れを横で見て、畑中は小さく呟く。


「杭田は大変だね」

「いいよな、お前のとこの同室者はさ……」


 チラッと斜向かいの席を見る。

 美しく箸を持ち、周りの人達と爽やかな表情で談笑する超絶優男。男しかいないこんなところに放り込まれるのが可哀想なほど、いい男だ。俺も時々授業中とかに目で追ってしまう。


「田上?」

「うん。干渉してこないだろ」

「そうだね。全然、全く」

「いいなー……」


 この寮の相部屋制度は、どうやら各部屋の平均偏差値か平均成績かが大体どこも同じになるように人を組み合わせている、らしい。これは昔の無駄に頭がいい先輩たちが見つけ出したと言われている、まことしやかな噂だ。

 だから俺は成績のいい大槌と相部屋だし、畑中も成績のいい田上と相部屋になっている。

 俺達ははっきり言って出来損ないだ。






3


 俺達の通うこの高校は、全寮制の男子校で、一応エリート校と言われている。未来の官僚や学者や良き経営者を育てるための高校。共同生活で調教性やリーダーシップを学ぶため、全寮制になっている。

 俺は別にこんなところに来たくはなかった。

 中学の中ではそこそこ勉強ができていたかもしれない。それに親が気を良くして、俺をここに入学させようと躍起になった。俺は必死に勉強をして、なんとか受験は乗り切ったけど、ただ受験を頑張っただけで、いざエリートの中に紛れてしまったら一気にド底辺になってしまった。

 そもそもここに入学してくるほとんどの人間が受験を受験だとも思っていない。ただの学力確認の通過点だと思っている。ここに受かるために生活の全てを投げ売って勉強して、やっとギリギリで合格した俺みたいな人間とは根本的に頭のつくりが違う。


 どれくらい俺が底辺かと言うと、まず授業の内容が一切分からない。問題が難しくて躓くとか、そういうレベルではない。教師の言っている言葉と意味が分からない。言葉を調べるうちに、次々と授業は進んでいく。そしてノートは取れないまま、プリントも解けないまま授業が終わる。これの繰り返し。小学生が大学の講義を受けている感じだ。そんなの、もう、授業を受ける気すら起きないだろう。

 俺があまりにも授業を理解していないせいで、教師達は俺を当てることを辞めた。どうせなにも答えられないから。日にちで出席番号の人を当てるような時でも、教師はわざわざ俺を飛ばして次の出席番号の人を呼ぶ。そのレベルだ。

 だから、俺はもう座学のほとんどを諦めている。


「……杭田くん」

「ん……」


 軽く肩を揺すられ、目を覚ます。

 堂々と机に突っ伏して寝てしまっていた。

 顔を上げると大槌がいた。周りにいる人はまばらで、既に昼休みに入ったことが分かった。


「杭田くん、食堂に行きましょう」

「……いい、行かない。お腹空いてないし」

「そんなこと言って、食べなかったらまた頭働かなくなりますよ。行きましょう」

「頭なんてずっと働いてねえよ」


 このままここで粘っても大槌に無理矢理連れて行かれるだけだと思い、俺は走って教室を出た。途中自販機でミックスジュースだけ買って、体育館へ向かった。

 中学の頃は、昼休みになれば男子がこぞって体育館に集まってバスケとかしていたイメージだけど、この学校は違うみたいだ。いつも空いている。昼休み、大槌から逃げるのにはうってつけの場所だ。


 体育館に入ると、先客が一人いた。バスケットゴールを前にシュート練習をしている。

 田上だった。

 田上は俺に気付き動きを止め、こちらを向いた。


「あれ、珍しいね」


 相変わらず爽やかな笑顔だ。韓国の俳優みたい。

 珍しいと言うのは、ここに人が来ること自体を指す。俺はここで時々田上がバスケットボールと戯れているのを知っていた。田上は中学の時バスケ部だったらしい。


「大槌から逃げてきた」

「ああ」


 察するように肩をすくめる田上。

 俺がステージに背を預けてミックスジュースを飲むと、田上は手を止めて俺と同じようにして俺の側に座った。シュート練習してるとこ見たかったのに。


「田上バスケ部入らないの?」

「それもちょっと考えたけど、ここのバスケ部強くないし。どうせやるんなら強いとこ入りたいし」

「ふーん。なんでこの学校入学したの?」

「まあ、親が行けって言うから。どこでも良かったんだけどね」


 どこでも良かったで、ここに行こうと思う人は少ない。まずここに入学すること自体が難しいから。その後の勉強も大変なのはみんな分かっているし。

 田上はこんななりをして、あっさり勉強ができてしまう人間だ。神様は不平等だと思う。


「……田上って綺麗好きだろ。畑中ってめちゃくちゃズボラだし部屋散らかすのうまいじゃん。同室なの嫌じゃないの?」

「うーん……。俺は自分のスペースさえ守れていればいいから」

「畑中とどんなこと喋る?」

「ええ? 唐突だな。なんだろ、授業のこととか家のこととか? 普通だよ」

「畑中のことウザいとか思わない?」

「ん、なんで?」

「ゲーム音うるさいだろ。通話対戦とかしだしたら最悪」

「あんまり気にしたことないかな」

「え、マジで? 同室者じゃない俺ですら思うのに」

「なんというか、俺、そこまで他人に興味が……。耳をすり抜けるというか」

「へぇ、便利ー」


 俺もその機能ほしい。大槌の言葉全部頭を通さず耳をすり抜けていってほしい。


「いいな。どうせ優等生と組まされるんなら、俺も田上と同室が良かったなー」


 田上は俺を見て固まった。

 目をぱちくり開いている。

 え、地雷踏んだ?


「……来年度の部屋割り先生に打診してみたら? 一応クレームとか聞き入れてくれるし」

「俺それ1年のときやったのに、2年もこれだからな」


 大槌は学年主席だ。文句のつけようがないくらい、ダントツでトップ。勉強ができるだけではなく、運動もできて生活態度も申し分ない。実行委員とかも進んでやる。

 だから、大槌と相部屋になるのは、学力も成績もド底辺の俺というわけで。

 俺と畑中の成績や学力は大体同じと踏んでいたのに、かたや相方が田上で、かたや相方が大槌。

 どこで差がついてしまったんだ。


「田上、今から頑張って大槌の成績抜かしてよ」

「無理だって! 俺だって杭田のために頑張ってやりたいけど、流石にそれは無理」

「……はぁ。先生、クレーム聞き入れてくれるかな……」


 厄介なのが、先生に俺のストレスを伝えてもそれがクレームと捉えられないこと。傍から見ても、大槌は俺みたいな劣等生を更生させようと苦心してるとしか思われない。

 田上は俺を見て微妙そうな目をして笑った。




「どこに行っていたんですか」


 昼休みが終わる前に教室に戻ったせいで、大槌に絡まれてしまった。これならチャイムが鳴ると同時くらいに教室に入ればよかった。


「体育館」

「ずっとですか?」

「そうだよ」

「ご飯を食べていないのですか?」

「……栄養補給はした」

「体育館は飲食禁止です。運動をした時のみ水分補給が許されます。体育館では駄目です」

「うるっせえなマジでさ……」

「明日は一緒に食堂に行きましょう。どうせ碌なもの食べてないんでしょう」

「食べたましたー」

「ジュース1本は食事と言わないです」

「なんで知ってんだよ」

「知っていますか、あのミックスジュースは約250キロカロリーです。午後からの授業を受けるにしてはエネルギーが足りないです。栄養も偏っています。やはりジュース1本というのは」

「ううううあああっもうっ分かったから! 明日! 分かったから!!」


 俺のストレス源、どこまでもしつこい。






4


 大槌って変だ。それは今更ではあるんだけど。

 頭がいい人ほど変人が多いというのは事実で、この学校にはそこそこに俺目線で変人だと思う人はいる。でも、大槌はマジで変。学年で一番頭がいいし、一番変。一見奇人には見えない。俺も相部屋になって初めて顔合わせした時は、顔が良い首席なんて漫画みたいな人間もいるもんだなと思ったくらい雰囲気は良かった。しかし、そんな特徴は大槌のただの表面的な一部でしかなかった。

 大槌ほどの優等生が、どうしようもない、学校を舐め腐った俺みたいな人間をどうにかしようとするのは分かる。先生から頼まれているのかもしれないし、ご家庭がそういう教育方針なのかもしれないし。

 でも、俺レベルで出来が悪くて言うことを聞かなかったら絶対どこかで諦めると思う。なにやっても意味ないし、何一つ自分の得にならない。なにより、身内でもなんでもないのにそこまで責任を持てない。

 それでも大槌は、俺と同室になった1年の4月から今までずっと、俺の面倒を見ようとしている。諦めない、前向き、正義感が強い、とか、そういうレベルではない。本当に「この生活が正解」だと思って、甲斐甲斐しく俺の面倒を見ていそうな気がする。変だ。

 俺はその得体の知れなさが怖くて、大槌が苦手だ。


「杭田くん、大浴場行きませんか?」

「勘弁してって……それは本当に一人で行かせて」


 夜、寮の部屋にて。

 今まで提出していなかった課題を大槌のサポート(笑)によって全て済ませてしまったため、お互いの空いた時間が被ってしまった。俺はこれを避けるために、普段は畑中に会いに行ったり無意味に寮内を歩き回ったりしている。今回は逃れられなかった。


「でもどうせ誰かはいますよ。僕がいても変わらないです」

「そういう問題じゃねえの」

「どういう問題ですか」

「……」


 だって、お前と風呂入ると洗い方湯船の浸かり方まで指摘されそうで本当に嫌だ。

 とは言わなかった。


「……ちょっと、家族に電話しないといけないから。ほっといて」

「そうですか」


 これくらい現実味のあるの嘘をつかないと大槌は撒けない。

 大槌は自分の寝間着とタオルを持って、静かに部屋を出た。

 扉が閉まったのを確認して、俺は小さく息を吐いた。


 俺はこれだけ疲れる生活を1年半以上も続けているんだ。最終学年の1年間くらいは大槌と離れたい。

 先生は俺の希望に聞く耳を持たない。それなら、大槌の弱みでも握れば、大槌の方から先生に俺のクレームを入れ、結果来年度の部屋割りでは別れることができるのではないか。

 というわけで、大槌が風呂から帰ってくるまでのこの時間、大槌の机周辺を漁ってみることにした。

 因みに、各部屋に机とベッドがそれぞれ2つずつ置いてある。セパレートではなく、二段ベッドの一段目の部分が机のような構造だ。机とベッドが縦に連結している。机がベッド分の長さなので広々と使える。

 まずは机の上を物色。卓上の本棚には教科書や参考書やノート、あとは学習とは無関係そうな小説や新書が置いてある。栄養学の本もある。あいつ、だからあんなに食に対して小うるさいのか。

 机の上はシンプルすぎて収穫は何も無し。なんの面白味も無い。

 それではと、机の下の引き出しを見てみた。3段構造なので、上から探ってみる。

 1段目、筆記用具や事務用品。2段目、生き物の写真が何枚か。猫、犬、兎、鳥、魚……。そして3段目、まとめられたプリントやテスト。

 

 ……つまんねー!

 こいつ、隙ナシかよ。弱みもなにも、無駄な物が無さすぎ。生き物の写真くらい。

 普段何して生きてるんだ。スマホを長く触ってる感じもしないし、ずっと勉強しているわけでもない。こいつの人生は楽しいのか。こんな地獄みたいな生活を送っている俺が言えたことではないけど。


 大槌の弱みを握ることは今のところ不可能そうだ。何か他に方法はないのかと半ば諦めモードで天を仰いだ。

 すると、天井──つまりベッドの床部分にでかでかと横長い半紙が貼られていてぎょっとした。今まで全く気が付かなかった。

 半紙には、筆で字が書かれていた。大槌が書いたのだろうか。


『出る杭は、打って元の場所に整える』


 ……。


 あ、ヤバいんだな。

 こいつって本当にヤバいんだ。

 出る杭って、絶対俺のことだろ。

 この学校において、はみ出し者の俺をどうにかして矯正しようとしているんだ。

 こんなに大きな字で掲げて。


 一体何がこいつをここまで駆り立てるんだ……。






5


 とある日の放課後、教室に残って畑中と外泊届けを書いていた。

 もうすぐ冬休みだ。長期休みは実家に帰らなければいけない。そしてその前にテストを受けなければならない。二重苦。


「成績表渡したくねー……」

「……俺らはさー、学力は仕方ないにしても、生活態度まで評価低いからねー」

「……どうにかできたって言いたいの?」

「どうにかできたんじゃない? 俺は別にいいけど、杭田は親うるさそうじゃん」

「俺の親、頭が良いか悪いかしか見てないから」

「じゃあ……駄目だ」

「駄目なんだよ。お母さん、気分の落差クソ激しいし。成績表渡すのも機嫌悪かったらマジで終わり。人間の尊厳破壊される」

「そんなに毒系なんだ」

「うん」


 親が絶対に行けと言った学校に入れたものの、学年で一番の落ちこぼれ、親は俺がやればできる頭のつくりがいい人間だと思ってるなんて、笑い話にもならない。そもそもアホ親から産まれた遺伝子だ。ここの学習についていけるほどの頭を持っているわけがない。なんで自分たちが出来なかったことを子どもに押し付けようとするんだ。

 早くこの生活から抜け出したい。両親からも逃げたいし、この学校からも、大槌からも逃げたい。俺の安息所はどこにもない。


「……畑中はなんでこの学校入ったの」

「俺の親、俺に関心無さすぎて、入学して卒業できればどこでもいいって」

「わざわざここじゃなくても良くない? もっと授業簡単なとこも寮で暮らさなくていいところもあるだろ」

「成績悪くても、卒業さえしてれば履歴書に書けるじゃん。ここ卒業したって一つのブランドだし。だから、卒業できればあとはどうでもいいや」

「親なんにも言わない?」

「言わない」

「いいよな、俺んちもそんな感じだったら良かったのに」


 こんなこと話せるのは畑中くらいだ。

 いい意味で同情しすぎてくれない。

 畑中がいなかったら、俺はこの学校でとっくにやっていけなかったかもしれない。


「冬休み嫌だ……」


 外泊届けを書き終えてしまった。こんな紙破ってしまいたい。

 視線を落としてため息を溢すと、畑中が口を開いた。


「そんなに嫌ならさー、俺のとこ逃げる?」

「え?」

「冬休み俺んち来なよ」


 いつになく真剣そうな顔だった。

 畑中、ちゃんとしてればかっこいいのに。


「……さすがに、親に超キレられそうだから遠慮しとく。ありがとな」


 畑中って意外といいやつ。

 畑中はまだ何かいいたげだったので、俺がもう一度ありがとうと言うと、あ、うん、と曖昧に返事をした。




 ……というやり取りを、いつの間にか大槌に見られていたらしく。

 職員室に外泊届けを提出した後、廊下で大槌に捕まってしまった。こいつは、一体、いつどこで、どこまで、俺の行動を見張っているんだ。


「一緒に寮に帰りましょう」

「断ってもお前が勝手に着いてくるだろ」

「冬休みはちゃんとご実家に帰ってください」

「あーうるさいなー……なんだよお前になんか関係あるのかよ」

「関係あります」

「は?」


 力強い声だった。俺の目をしっかり見ている。この視線が苦手だ。


「ただでさえ僕の目が届かなくなるんですから、それならせめてご実家にいてもらわないと」

「はあ……? だからさ、いっつも言ってるけど、お前は俺のなんなんだよ……」

「杭田くんのご実家は家事をご両親がしてくれますか?」

「……は? まあ……」

「朝無理矢理起こされたり、お風呂入れと言われたりしますか」

「言われるけど……本当に何……?」

「ならいいんです」

「はぁ…………………………??」

「それでは、冬休み中はなるべく家の中にいてくださいね」

「あの家にずっといろって? 地獄かよ」

「外は寒いです。風邪をひいてしまいます。年末年始は人が多いのでインフルエンザにでも罹ったら大変ですので。家にいるのが一番です」

「お前さ……」


 何がしたいんだ。何を言いたいんだ。どこまでも他人の行動を決めつけやがって。

 いろいろ言ってやりたかったが、大槌のあまりにもまっすぐな瞳を見て何も言葉が出てこなかった。






6


 大槌からの連れ風呂の誘いを断り、畑中と時間を潰していたら入浴時間ギリギリになっていた。入浴時間を過ぎても大浴場にいると寮母さんにめちゃくちゃ叱られるので、急いで向かうことにした。こんな時間に入るのは久しぶりだ。

 脱衣場にはたくさんの生徒がいたが、全員が入浴を終えたばかりだった。焦って大浴場に入り、入り口すぐ側のシャワーで簡単に洗い終える。自分の風呂の早さに感心しながら共用の湯船に向かうと、田上が入浴していた。


「えっ、田上」

「……あっ、……おー……」


 少し驚いた。田上とは風呂の時間が被ったことが無かった。いつもこんなギリギリに入浴していたんだ。

 田上の方も俺に驚いた様子で、何故かぎこちなく視線を逸した。


「湯船浸かるの嫌いなんだけどさ、冬は流石に入らないと寒すぎる」

「あー、えー、うん、だな」

「……?」


 田上の反応が鈍い。まるで壁打ちするかのように、どこか遠くを見ながら答えた。


「え、のぼせてる?」

「いやいや、いや、入ったばっかだから、大丈夫だよ」

「あ、そう」


 のぼせてないにしても、田上が微動だにしない。横にいる俺をちらりとも見ない。が、口元が微かに動いている。


 ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそうぎゃーてい……。


「……えっ、100数えるまで上がれないのレベルマックス?」

「えっ」

「般若心経言い終わるまで湯船から上がっちゃいけない人初めて見た。そういう教育だった?」

「えっ、俺、般若心経唱えてた!?」

「え!? 唱えてたよ!?」

「そ、そうか……」


 は? 自覚ナシ。怖い。無意識で般若心経を唱える男。


「大丈夫? やっぱりもう上がったほうがいいんじゃない?」

「あ、うん、ありがとう、でもあの、いいよ、俺最後で」

「最後……いや、俺しかいないけど」

「あ、うん、だから、杭田の後でいいから、ありがとう」

「うん……?」


 遠回しに早く出ろと言われてる?

 俺も長風呂は得意ではないので、頭がおかしくなっている田上のために先に上がろうと移動しかけた時、ふと田上の首筋にから大胸筋にかけてが目に止まった。


「田上さー、鍛えてる?」

「え?」

「めっちゃいい体してるから」


 この筋肉は高校生ではなかなか身につけられるものではない。ましてや、田上は部活にも入っていないのに。勉強もちゃんとしながら自らトレーニングまでしているのだろうか。根性というか、精神力が違いすぎる。

 田上の体があまりにも魅力的すぎたので、胸板に軽く触れてみた。


「うおっ!?」

「んッ!?」


 田上があまりにも過剰に反応するもんだから、俺までビビってしまった。田上、溺れかけたぞ。


「あ……ごめん。不躾で……」

「……っう、ううん……、いや、大丈夫……はは……」

「ははは……」

「……あー、特に、鍛えてるってほどでは……昔やってた部活のトレーニングメニューちょっとやってるだけ」

「へー。そんだけでそんなになれるんだ。俺も鍛えようかな。やっぱり部活入ってないと二の腕とかお腹とかぷよってきてさ」

「杭田はそのままでいいと思う。かわっ………………」

「……かわ……?」

「……」

「……?」

「……かわっ、……変らない、良さも、ありますし」

「なにその口調」

「うん、あの、はは……」


 田上は苦笑いを浮かべたまま、今度は本当に黙ってしまった。田上の顔が真っ赤で不安になる。のぼせすぎだ。絶対俺が途中で般若心経を止めたせいだ。

 田上の体が心配になり、俺はさっさと田上よりも先に大浴場を出ることにした。


 頭がいい人って、やっぱり全員変なのかもしれない。




 部屋に戻ると、部屋の電気は消えていた。消灯の時間になると個室まで電気が消される仕組みだ。

 大槌はベッドの上で横になっていた。大きなシルエットが見える。大体いつもこの時間には寝ている。大槌が夜更ししているところを見たことがない。徹夜を「悪」だと思っているそうだ。


 スマホのライトだけ点けて移動することにした。その拍子に、大槌の机を照らしてみる。……机、というか、天井を。


『出る杭は、打って元の場所に整える』


 何回見ても大槌の字だ。

 いつからここに貼っていたのだろう。

 大槌は勉強の手が止まった時に、この社訓のようなものを見上げて何を思っているんだ。

 俺はいつか、大槌によってあるべき場所に整えられてしまうのだろうか。


「……杭田くん、戻ったんですか」

「! あ、ああ」


 上から声がして、慌ててこの場所から退避する。何故か、俺がこの言葉を見ているのを大槌に見られたくなかった。

 寝ていた大槌は、いそいそと梯子を降りてきた。


「すみません、僕、寝てましたか」

「いや謝られることないんだけど。勝手に寝てくれという感じで」

「いえ、杭田くんがちゃんと寝るのを確認しないと」

「……確認して何になるんだよ……」

「寝ない人より寝る人の方がストレス値は減りますので。杭田くんのためにも」

「じゃあ俺はお前のおかげで毎日毎日毎日毎日早く寝てるのにお前にこんなにイライラしてんのはなんでだろうな」

「杭田くん、静かにしないと苦情きますよ」

「クッッッソ……」


 子どもに諭すように、大槌は自分の口に人差し指を当てた。う、うぜー……。男子高校生が男子高校生にやっててもキモいだけだろ。


「寝るよ、寝ますから。お前ももう寝ろ」

「はい。杭田くん、おやすみなさい」


 大槌の手が俺の首元に伸びる。何かと身構えていると、どうやらインナーが見えていたらしく、スウェットの中に仕舞われた。こういうのにも鳥肌が立つ。

 そして、大槌は俺の目の前で手を組んで目を閉じた。


「明日も変わらぬ生活を送れますように」


 俺は大槌に祈られる。

 祈られている俺は、何を祈られているのか分からないまま。






7


 最悪。

 もう最悪だ。

 俺はなんであんな両親から生まれてきたんだ。俺の親はなんであんな人間なんだ。

 たかが血の繋がっただけの他人のくせに、一体なんの権利があって俺の人格を否定するんだ。俺はあいつらの所有物なんかじゃない。


 冬休みに入る前日のことだった。

 期末テストの結果が出て、成績表も渡された。

 実家に帰って親に成績表を渡す前に、お母さんの方から電話が入った。本当に出たくなかった。でも出なかったら、今度は実家で電話を出なかったことについて詰められるのだろう。

 俺のテストの結果を待ちきれなかったお母さんは、俺の口から散々だったテストの結果を聞いて、俺に罵詈雑言を浴びせた。いつもより酷かった。きっと、お父さんと喧嘩した後だったのだろう。とにかく気が立っていた。


 思い出すだけでも怒りがこみ上げてくる。手の震えも止まらない。言っていることがめちゃくちゃで説得力なんて皆無なのに、何も言い出せず謝るしかない俺の無力さにも腹が立つ。

 感情が抑えられず、俺は放課後のトイレの洗面所の前で声を押し殺して泣いていた。


 あんなの親じゃない。


「……杭田?」

「!」


 突然声を掛けられ、慌てて反対側を向いて顔を隠した。

 声で畑中だと分かったが、こんな恥ずかしいところ見られたくない。顔が上げられなかった。

 でも、畑中は流石に見て見ぬふりはしなかった。


「大丈夫……?」

「……」

「大丈夫……じゃ、ないよね」

「……」

「とりあえずさ、寮帰ろ。ここ寒いでしょ」

「いやだ……」


 今俺のこの精神状態で絶対に大槌に会いたくない。大槌じゃなくとも、とにかく人に見られたくなかった。


「……じゃあ、秘密の場所行く?」

「なにそれ」


 前々から畑中には絶好のサボりスポットがあると知っていたが、そこだろうか。

 興味が勝って顔を上げると、畑中は眉を下げて笑った。


「行く?」


 もう一度聞かれ、小さく頷いた。泣いていることに言及してこなかったのが良かった。

 畑中が歩き出したので、その背中を追う。


「なんで俺あそこにいるって分かったの?」

「さっき杭田が電話してるのちょっと聞こえて……。ごめん、跡つけた」

「……畑中ならいいや」

「俺だったらいいの?」

「うん」

「えー、あ、じゃあ、杭田も、盗み聞きされたのが俺でよかったね」

「はは……うん」


 畑中と話していると気が抜ける。喋り方のせいだろうか。


 畑中が向かった場所は、学校の裏口から一番近い部屋だった。大抵の生徒はここに滅多に来ない。用務室と書かれている。


「ここ?」

「うん」

「……入っていいの?」

「入っていいよ」

「お前になんの権限があって……」


 畑中は俺の言葉を無視し、堂々と扉を開けた。電気がついているし、普通に用務員さんもいた。入っちゃだめだろ。


「やっほー」

「おい、俺ゴミ出したらもう帰るぞ」

「んじゃその間だけでいいから」


 畑中が用務員のおじさんと気兼ねなく喋ってる。何者だ。


「帰る時にちゃんとお前らも出ていけよ」

「はーい」


 用務員のおじさんはこの部屋を俺達に任せて、普通に出て行った。


「……え?」

「あ、あの人俺の親戚。秘密ね」

「へ、へぇ……」


 親戚だった。じゃあ畑中がサボる時はこの部屋にいたのか。ズルい。

 畑中に手を引かれ部屋の中に入る。冷えきった体に暖かい空気がまとい、思わず感嘆の息が漏れる。


「あったかいでしょ。なんなら寮の部屋より」

「うん。石油ストーブだからかな」

「これいいよねー。中学の時まではこれだったんだけどね」

「俺の学校も冬場は石油ストーブだった」


 石油ストーブの前という絶好の場所にソファーが置かれていた。畑中は遠慮なしにそこに座った。隣の空いたスペースを手でトントンと叩いたので、俺も座らせてもらうことにした。


「……あ、お茶飲む?」

「持ってんの?」

「いや、今淹れるけど」

「じゃあいいよ。私物化しすぎ」

「俺のオリジナルブレンド、美味しいよ」

「何と何?」

「緑茶とダージリンとウーロン茶」

「和と洋と中が……」


 どこにこだわりをもってるんだ。

 いらないと言ったけど、畑中は慣れたように流し台に移動しかけたので強く止めた。どうせすぐ用務員さんも帰ってくるだろうし。


「……畑中はこんなとこいていいの?」

「ん?」

「いや、一応、点呼とかあるし。明日から冬休みだから、帰省の用意もしなきゃだし」

「そんなのさ、今更じゃない?」

「まあそうか……」

「俺、泣いてる杭田ほっとけるほど薄情な男だと思う?」

「それは……ごめん」

「……結構、さ、俺、杭田が大事だし。そう見えないかもしれない、けど」


 間延びしがちな畑中には珍しく、言葉が詰まっていた。こんなの、可愛くて笑ってしまう。


「見えるよ。知ってたし、俺も畑中が大事。この学校で一番……かも」

「……うわ」

「うわってなんだよ……」

「いや……」


 なんとも言えない反応。俺が畑中を肘で小突くと、畑中も軽く叩き返してきた。そして意味もなく笑い合う。


「ねー、やっぱり冬休み俺んち来ない?」

「俺も行きたいんだけどさ……。そんなことしたら今後が怖いし」

「どうしても家に帰らなきゃいけないならさ、例えば……空いた時間に通話とかしようよ」

「……許してくれるかな。勉強するフリでもし続けないといけないかも」

「そっかー……」


 畑中は視線を下げ、足をゆらゆらと動かした。


「俺ができることってないね」

「なくていいんだよ。十分してもらったし」

「んー……」


 納得がいってなさそうな返事。

 それから数分後、まるで俺達の会話を見透かされているのかのように、母親から明日は何時に帰ってくるんだとのメッセージが届いた。




 用務員のおじさんが帰ってきたのは、19時を回っていた。

 もともと俺達がこの部屋に来た時間も遅かったけど、用務員さんがゴミ出し途中で仲のいい校長と遭遇して、長話をしていたらこんな時間になってしまったらしい。俺達も時間は気にせず長居させてもらった。

 ところで、うちの寮の夜ご飯の時間は早く切り上げられる。それが19時なので、俺達は夜ご飯を食いっぱぐれてしまった。


「ごめん、俺のせいだな」

「ううん。俺1日に2食抜かすとかザラにあるから大丈夫」

「もっと食えって。そんなんだから細いんだよ」

「でも杭田俺より小さいよね」

「今そんな話してないだろ。矛先をこっちに向けるな」


 悪く言えば不健康そう、良く言えばモデル体型。

 畑中は雰囲気もあるので、もし就職に失敗してもそういう系の被写体としてなら稼いでいけそうな気がする。


「てかさー、点呼にもいなくて、夜ご飯も食べれなかったって、大槌くんにいろいろ言われるんじゃない?」

「言われるだろうな……」


 そうなったらフル無視だ。

 今の俺の精神状態は、畑中の言葉しか受け付けられない。

 大槌に「正しいこと」を言われても、いつもよりイライラしてしまいそう。


 寮に入り、渋々畑中と別れる。

 自室に進む速度が遅い。

 帰りたくない。

 帰って、大槌にいろいろ言われて、それで、実家に帰っても親からいろいろ言われる。

 おかしいよな。

 この学校に合格した時は、一瞬でも実家から離れられることを喜んだのに、実際は、俺の頭を支配するものが一つ増えただけ。

 大槌は、一体なんなんだ。


 ゆっくりと自室の扉を開けると、大槌が扉の前で仁王立ちで待ち構えていた。


「ヒッ」

「どこに行ってたんですか」

「……学校にいた」

「なんでこんなに帰りが遅くなったんですか」


 いつもより視線が冷たい。声も低いし、怒っているのが手に取るように分かる。

 が、俺は今大槌と会話をしたくなかった。

 無視して入浴の準備をする。


「聞いてますか」

「……」

「なんで、帰りが遅くなったんですか。どこにいたんですか」

「……」

「僕がどれだけいろんなところを探したか分かりますか?」

「……」

「無視ですか」

「……」

「無視ですか? 答えるまで聞きますよ」

「……今お前と喋ると、ぜっっっ……たいにキレるから、俺は喋らない」

「ああ、そうですか。勝手にどうぞ。こんな時間までどこにいたんで」

「っうあ゛あ゛あ゛ー!! だから!! もう!! うるさい!!」


 根負けした。

 無理だ。こいつをフル無視するなんて無理ゲーすぎる。その前にストレスで倒れてしまう。


「なんなんだよ!? いっつもいっつも! ここに連帯責任の制度はあるか!? なあ、ないよな!? ずっとうるさいんだよ! ずっと!! お前は俺のなんなんだよ!? ほっとけよ!!」


 一度は我慢しようと考えていたなんて、もう既に思い出せないほど口が止まらなかった。

 いつも、ずっと言い続けてきたことだ。

 でも、何回言っても大槌は折れない。折れてくれなかった。


「もう、誰かに監視されたり、決められたりすんの、散々、なんだよ」


 止められない。全部出てしまう。

 覆うべきは口なのに、俺は目を手のひらで覆っていた。

 絶対、こいつの前で泣くのだけは嫌だったのに。


「こういうのも、言いたくて言ってるわけじゃない……」


 大槌が、しつこく俺の面倒を見ようとするから。

 俺は大槌に対してだけ、怒るという感情が止められない。


「もうさ、ほっといてくれよ……」


 最悪だ。結局また泣いてしまった。一番見られたくない相手の前で。


 でも、大槌は、言い返すでも俺を叱るでもなく、正面から俺を抱きしめた。


「ぅえ」

「大事なんです。僕は、杭田くんが大事だから、いなくなったら心配なんです」

「……うぅ〜……」


 気持ち悪いって、大槌を剥がさなきゃいけないのに。

 拒めず、受け入れてしまった。

 それどころか、足りない何かを満たしたくて、大槌の背中に腕を回してしまった。

 大槌は笑い、俺の背中をあやすように叩く。


「どこにいたんですか?」

「……用務員室。どこも行きたくなくて、いさせてもらってた」

「そんな抜け道が……。ご飯は食べれてないですか?」


 小さく首を振る。

 大槌は自分の机に向かい、何かを手にした。そしてそれを俺に差し出す。

 購買に売っているパンとペットボトルのお茶だった。


「え……」

「食堂で残った分が売っていたので。食べてください」

「……いいの?」

「はい。本当はちゃんと栄養バランスの取れたものを食べてほしいんですけど……。今日だけ特別ですよ」


 大槌がいつになく優しく喋るから、俺はまた泣きそうになった。


「……ありがとう」


 パンとお茶を受け取って、本当はお腹が空いていた胃袋に流し込んだ。


 初めて大槌にちゃんとありがとうと言ったかもしれない。






8


 冬休みになった。

 今日は朝から多くの生徒がぞろぞろと帰省に向け学校を去っていた。

 大体の生徒は、学校から出るバスに乗って最寄り駅まで行き、そこから電車で帰る。このルートで帰らない生徒はごく一部の限られた家庭だけ。例えば大槌とか。

 大槌は一応おぼっちゃんなので、朝早くから迎えの車が来校していた。今日の朝、俺にくどくどと冬休み中の過ごし方について説いた後、颯爽と寮を出ていた。

 そういえば昨日の夜の大槌はキモかった。

 ちょっとくらい大槌のことを見直したあの後、俺が入浴をしている間に、大槌は俺のキャリーバッグを広げて俺の荷物をパッキングしていた。意味が分からない。お風呂から上がって部屋に戻り、大槌から「荷物まとめておいたんで」と言われた時の恐怖。上がった好感度を容赦なく戻してくれた。

 やっぱり大槌って頭おかしい。ここまでくると、もはやプライバシーの侵害の域だろ。


 そして畑中は、ここから随分と遠いところに家がある。一番楽な交通手段だと、飛行機を使わないといけない。なので、始発のバスで帰っていた。流石に挨拶はできなかった。


 田上とは最寄り駅まで一緒なので、駅に向かうバスでは隣に座った。別に話を合わせていたわけではないけど、たまたま待機列で上下の並びになったので、そのままバスでも横並びになった。

 イケメンに季節なんて関係ないけど、年末の田上は一段と輝いていた。田上って地元に帰るとどれだけモテるんだろう。


 一方、俺はバスの中で、実家のことを考えて気分が悪くなっていた。バスの窓に頭を預けながら重い表情をしていると、田上が心配そうに話し掛けてきた。


「あの……大丈夫?」

「ん?」

「ごめん、畑中からなんとなく話聞いてるから」

「ああ……うん」


 なんと言おう。

 全く大丈夫ではないんだけど、だからと言って田上を心配させたいわけではない。一応家庭の文句を喋るのは畑中だけと決めているので、気丈に振る舞うしかなかった。


「大丈夫。どうせもう成績バレてるし」

「なんか、その、殴られたりとかは」

「あ、しないしない! うちの親はそこまでの度胸ないよ。ただ、ちょっと、感情的なだけで」

「そう……」


 物は投げてくるけど。とは言えなかった。


「……なんかあったら、すぐ杭田のとこ行くし」

「え?」

「だから、すぐ連絡して」


 田上がそんなことを言うもんだから驚いた。

 田上とは友達だし、校舎内とか寮内で会えば喋るけど、そこまでの深い関係ではない。ここまでしてもらう義理も正直ないっちゃない。このイケメンは懐まで広いのか。


「いや、でも、結構な距離あるだろ。俺んとこローカル線乗らないと行けないよ?」

「それは……そうかもだけど」

「それに、大槌に冬休み中は人に会うなって言われたし」

「は?」

「え?」


 え、怖。声色がいつもと違う。田上ってそんな声出すんだ。


「……大槌、そんなことまで言ってんの?」

「あ、うん。インフル流行ってるとかなんとか」

「それはそうだけど。でも会うなってのは極端すぎる考えだろ」

「俺もそう思うんだけど……。でも、これでマジでインフルに罹って学校行けなくなったら、大槌に何言われるか分からないし。年明けから説教聞きたくない」

「……いや、それ……おかしいって。……どこまで……」


 田上はこめかみを抑えて項垂れた。

 そして、この田上の反応を見て俺はようやく自分がおかしいことに気付いた。

 ヤバい。俺、自覚ないうちに大槌のルールを守ろうとしていた。こんなのもう洗脳じゃん。


「……やっぱり俺、ある程度は人と会う……」

「それがいい。大槌の言うこととか、あんまり気にしなくていいから。なんかあったらすぐ連絡して」

「う、うん」


 多分俺、昨日のせいでちょっとおかしくなってた。

 大槌が思ったより優しかったから、ちょっとくらいは許容してしまっている。

 早く、早く自立しないと。






9


 冬休み中、田上の言う「なんかあったら」の状況にはならなかった。

 俺が実家で勉強する素振りをずっと見せ続けていたからだろうか。両親の機嫌はそこまで悪くなかった。

 それどころか、俺にとっては嬉しいビックニュースを仕入れて今回の帰省は終了した。


 冬休み最終日には寮に戻った。

 案の定大槌から課題は全部やったのかとか荷解きは終わらせたのかとかいろいろ聞かれたが、ちゃんと課題は全てやっていたし、荷解きも終わっていた。

 よほど珍しかったのか、大槌は目を丸くしていた。


 なんせ、俺は冬休みの間に決心したのだ。

 生活態度からでもちゃんとしようと。


 登校日の朝、俺は大槌に起こされる前に自分で起きた。大槌が6時半に起こすのなら、俺はその10分前には起きた。本当に辛かったけど、なるべく大槌には頼りたくない。

 俺が起きた頃にはもう大槌も起きていたけど、俺が自分から起きて支度を始めたのを見て、おはようとも言わず言葉を失っていた。いや、確かに珍しいけどさ。


「く、杭田くん」

「なんだよ」

「熱とか、ですか。やはりインフル……」

「ちげーよ。頑張って起きたんだよ」


 あんぐりと口を開けられた。

 そこまで?

 俺、大槌のそんな顔初めて見たんだけど。


 その後、朝食の時間も大槌が何か言う前に、大槌が普段から用意しそうなメニューを組み合わせて食べたり、授業中も一睡もせず勉強した。これがみんなの当たり前だし、授業内容は全く分からなかったけど。それでも、板書をちゃんとしたり配られたプリントも空欄を埋める努力はした。

 放課後は寄り道せずさっさと寮に帰った。これには畑中すら驚いていた。

 あまりにも俺が無駄な行動をカットしたため、大槌よりも早く自室に帰れてしまった。

 なんならこの調子で今日出た課題でもやってみようかと机に向かうと、大槌が凄い勢いで扉を開けて入室した。


「……い、いま、なにをやっているんですか」

「え、課題を……」

「とうとう先生に脅迫されましたか? 留年するとか……」

「い、いやいや、そんなんじゃないけど」

「じゃあ何故」


 大槌はつかつかと俺に迫ってきて、俺が机の上に広げたプリントを見下ろして顔を歪めた。

 は?


「なんで、何があったんですか」

「何がって……」

「何故、そんな、更生しようと」


 俺の行動があまりにも理解不能なのだろうか。

 まあでも、そりゃそうか。

 1年半以上隣で生活を見てきた劣等性が突然ちゃんとしだしたら怖いか。


「実は、4月から甥がこの学校に入学してくることになって」

「は、甥……? 2つ下の甥、ですか」

「まあ、いろいろあるんだよ」


 珍しいかもしれないけど、世の中にいないわけでもない。歳が近い叔父と甥の関係なんて。

 冬休みの帰省中、俺はお母さんから甥がこの学校にやってくるという話を聞いたのだ。しかも、俺に憧れて、ここに入学するのをずっと夢見ていたらしい。


「俺甥大好きだから、今までみたいな姿見せたくなくて」


 甥は可愛い。大好きだ。腐った俺の親族の中で、唯一俺が心を許している存在。甥の方も俺を慕ってくれている。

 こんな出来損ないの俺が憧れとまで言ってくれた甥をがっかりさせたくない。


「だから、今からでもちゃんとしようと思って。勉強の方は全然だけど、生活態度くらいは変えられるから……」


 今日一日ちゃんと生活してみて気付いた。

 やろうと思えば案外できるってことを。

 授業だって、もしかしたら気持ち次第で追いつけるかもしれない。

 今からでも遅くない。俺は甥のためにも努力してみたい。


「お前も俺の面倒見なくていいし楽になるだろ。だから、」

「はあ?」

「え」


 座って課題と向き合っていた俺の頭上から、信じられないほど冷たい声が降ってきた。

 まさか、大槌がそんなことを言ったのか。

 驚いて顔を上げると、俺を見下ろす大槌と目が合う。顔面蒼白で、目に光がない。


「いや……。いやいやいやいやいやいや……」

「……え?」

「考え直してください」

「はっ……? 考え直すって、何を」

「今更更生してどうするんですか。どうするというか、一体なんの得があります?」

「お前、何言ってんの」


 ──大槌は、いつも正論じみたことしか言わない。

 だけど、これは一体何が言いたいんだ。

 馬鹿な俺でも、大槌の言っていることが滅茶苦茶で筋が通っていないと分かる。


「お前だって、ずっと俺にちゃんとしろって言ってただろうが」

「僕そんなこと今まで1回も言ったことないです」

「え……そうだっけ」


 大槌にそう言われ、今までの言動を思い返す。

 確かに、言われていなかったかも。

 大槌があまりにも優等生然とした態度を取るもんだから、俺にいちいち指摘しているんだと思い込んでいたかもしれない。


「本当に……その……甥、とやらにいい格好つけるためだけに、ぼ、僕から、自立しようと、しているんですか」

「は、はい」

「心変わりはしないんですか」

「多分……。いや、分かんないけどさ、頑張ってみる。新年度まであと3ヶ月しかないし」


 こんなに前向きな俺、大槌に見せたことがない。

 俺は、俺が生活を改善すれば、勉強へのやる気を見せれば、大槌は少なくとも喜ぶんじゃないかと思っていた。

 でも違った。

 そんなことは全く無く。

 大槌は俺の決意を聞いてわなわなと口元を震わせ、そして大きくため息を吐いた。

 次に出てきたのは、諦めたような声色の言葉だった。


「じゃ、もう、いいです」

「……え?」

「解散です。終わりです僕達は」

「は、」

「ちゃんとしてる杭田くんなんて意味ない」

「……はあ!?」


 大槌の言っている意味が分からず、俺は思わず声を荒げてしまった。


「なんで、どういうこと、分かんない、説明しろ」


 椅子から立ち上がって大槌を睨んだ。いや、睨めていないかもしれない。胸ぐらだって掴みたかったけど、怒りともまた違う感情だった。

 殺伐とした空気に、大槌の声が小さく響く。


「……僕の生きがいなんです。生きがいというか、もはや、三大欲求くらい欠けてはいけない僕の要素……」

「な、なに……?」

「僕、とにかく誰かの世話をしてないと駄目なんです」

「え」

「それも、人間を四六時中世話してやっと解消できるくらいの、強い欲求を持ってるんです」

「……!?」


 怖い。目が据わっている。

 ……なんだこいつ、怖い!


「杭田くん、僕の世話がなかったら絶対に留年とかしてたじゃないですか。生活だって僕がいなかったら確実に廃人になってたのに。不登校になってたのに。絶対に僕がいないと駄目だったのに。酷い、なんでですか、やればできる子だって隠してたんですか」

「べ、別にいいじゃん……。やればできるかもしれないけど、でも、分かるだろ。やったところで、俺、いろいろとまだまだなの」

「それじゃ意味がない。僕は、やろうともしない、やろうとしてもできない子の世話がしたいんです。しないといけないんです。じゃないと、僕、ストレスで爆発する」

「……」


 唖然とした。

 ストレスで爆発するだと。

 いや、それ、俺だから。俺がお前にされてきたことだから。


「お、俺の成績とか学校生活とかを気にして、それでお前、俺にいろいろ言ってたんじゃないの」

「そんなのどうでもいいです」

「は、はあ!?」

「僕は僕のために、杭田くんの世話をしてたんです」


 俺のためとかじゃなくて、大槌自分自身のため?

 大槌がストレス爆発しないようにした結果、俺がストレス値ギリギリの生活を送ることになって、それでも大槌はそれで良かったって?

 なんて傲慢なんだ。とんだエゴイストだ。


「お、お前、怖いよ」

「普通の人になっちゃった杭田くんなんて、どう思われてもいいです……。ああ、どうして、今まで杭田くんが何も出来ないままでいられるように頑張ったのに……」

「……。……あっ」


 頭を抱えて苦悩する大槌越しに、大槌のベッドが目に止まって、俺はふとあの言葉を思い出した。


『出る杭は、打って元の場所に整える』


 この、出る杭を打つって、はみ出した俺を更生させてみんなと同じようなレベルにするって意味じゃなくて、もしかして。


「お……、俺が、今の、この……大槌から世話される環境から、抜け出すのを、許さないってこと……?」

「……はい、許したくないですよ。というか、許す許さないの前に、杭田くんは、今まで僕に怒りつつも僕から自立しようとしたことなんてなかったじゃないですか。甘んじて僕の世話を享受していた……」


 それなのに……。と、大槌はため息を吐き、今にも崩れ落ちそうだった。

 俺はただ、この状況の異様さに打ちのめされ、何も考えられなかった。

 そんな中、大槌がぽつりと呟く。


「杭田くんがちゃんとするなら、僕もう杭田くんと一緒に生活する意味ないです。来年度の部屋割り異議申し立てします」

「はっ……?」

「畑中くんとかがいいです」

「はあ!?」

「まだ間に合うでしょうか……」


 大槌は人として最低な提案をして、フラフラと歩いて扉へ向かった。

 このままこいつは、先生に打診しに行くんだろうか。

 こいつこそ、俺との相部屋が嫌だというクレームはまかり通ってしまうだろう。大槌は優等生で、俺は素行不良な劣等性。成績優秀な学生の言うことなんか信頼度が高すぎる。


 それでいいよな。

 だって俺は、1年の4月からそれをずっと望んでいた。

 ずっとずっと、大槌から離れられる方法ばかり考えていた。

 何度も先生に部屋割りを変えてほしいと頼んだ。


 だから、これでいいじゃん。

 結果オーライだ。


「いや……え、……ま、待って」


 なのに、俺は、大槌を引き止めていた。

 シャツの背を摘んで、大槌の動きを止めてしまった。


 心臓が警鐘を鳴らしいている。

 俺は、絶対に言うべきでない言葉を言おうとしている。


「ちょ、ちょっと、待って、あの、さ」

「……はい」

「……しない」


 大槌は背を向けたままだった。何故か途端に、果てしない焦燥にかられる。

 だってもう、大槌がこの部屋を出たら、大槌は4月からいなくなってしまう。

 大槌は、俺じゃない誰かと、もしかしたら畑中と一緒になって、俺以外の人の世話を一日中するんだ。

 そしたら、俺は……?

 俺は……。

 ……。


「……ちゃんとしない、から……」

「……」

「だ、だから、さ、やめろよ……。4月からも、別に、こ、このままで、いいじゃん……」


 俺、なんてことを言っているんだ。

 そう頭では思っているのに、口を止められなかった。

 言い切ってからも、後悔よりもまず大槌の反応が気になって唾を飲み込んだ。


 すると、大槌は勢い良く俺の方を振り向く。


「本当ですか!?」


 先程とは打って変わって、顔色を良くして。そして、あの時みたいに俺を抱きしめた。


「ぅえ」

「今まで通りですか!?」

「……は、はい……」

「よかっ、……よかったぁ……」


 こんなに感情的な大槌は見たことがない。

 大槌はもっと理性的で、冷静なはず。

 今は俺の言葉を聞いてへろへろになっていた。


「やっぱり、杭田くんが一番なんです。絶対に」

「え……?」

「僕が入学前に先生方にお願いしていたんです。一番生活態度が悪そうな人と相部屋にしてくださいって」

「は!?」

「だから、僕にとって杭田くん以上の人間なんていないんです」

「……っ」


 いろいろ言いたいことはあった。

 こいつ、頭おかしい。狂ってる。

 どこまでも傲慢でエゴイストで、俺の気持ちなんてまるで考えてない。

 それなのに、大槌に強く抱きしめられて、俺は何も言い返せなかった。


「ね、もう二度とやめてくださいね、ちゃんとしようとするなんて。僕にずっと世話されてください。高校3年間と言わず」

「……お、大槌は、さ、」


 それって、つまり、俺がちゃんとしない限りは、一生俺の生活に大槌が侵食するってこと?

 俺を毎朝起こして、俺を着替えさせて、朝ご飯も昼ご飯も夜ご飯も選んで、風呂誘ってきて、そして、毎晩毎朝俺に祈るんだ。

 今日も明日も変わらぬ生活を送れますように、と。

 俺のためじゃなくて、大槌自身のため。

 俺のためじゃなくて……。


「ん?」


 大槌は俺の顔を伺い、微笑んだ。

 やめろよ。

 どうして、今、そんな顔で笑うんだ。

 どうしてこんなにも強く抱きしめてくるんだ。


「い、いや……、なんでもない……」


 俺は、それでも、言葉を返せなかった。

 否定できなかった。意見することもできなかった。

 理由は分かっている。

 分かっているけど、今はまだ暴きたくない。

 自分で自分の心を認めたくない。


「さあ、課題やりましょうか。あ、さっきから気になってたんですけど、その問題式違いますよ」

「え、あ」

「課題が終わったら大浴場に行きましょう。どうせ杭田くんのことだから、毎回丁寧に洗ってないですよね? 僕が頭洗ってあげますから」

「いや、待って、風呂はほんとに、自分で」

「あ、そうですか。じゃあいいです」

「……っ、や、……やっぱり、あの、一緒に行く、から……」

「あ、本当ですか!? 僕、ずっと杭田くんとお風呂に入りたかったんですよね。本当は、他の生徒がいなかったら全身くまなく洗ってあげたいんですけど。流石にここではやめておきましょうか」


 ……俺は、もう、何も否定できなくなってしまった。

 変わらぬ生活を望んだのは、俺の方だった。








◎杭田

無意識のうちに洗脳された人。

でも別に大槌は洗脳しようとも思っていない。

杭田が勝手にハマっているだけ。


◎大槌

特大のエゴイスト。

誰かを世話できないと発狂する。

写真に写っていた猫、犬、兎、鳥、魚は実家で世話していたペット。それでも全然満足できなかった。


◎畑中

杭田から信頼を置かれている人。

本気出せばなんでもできるけど、杭田のためにも力は抑えている優しい人。本当は優しくない。


◎田上

好きな人と入浴時間が被らないようにする紳士。

うっかり邂逅しても理性的でいられる紳士。

大槌のことはシンプルに気持ち悪いと思っているけど顔には出したことがない。


◎甥

親族間で揉め事の板挟みに合いながらも自分の前では叔父面してくれる叔父がだ〜いすき。



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