サクリファイス・マイ・メシア 紲

1

「これ、なんて読むの?」

「あ、へ……」

「これ」


 彼は、社会的に丁寧な人間か失礼な人間かと問われれば確実に失礼な人間の部類だっただろう。


 トントン、と机の左上に置かれた俺の名前と支社名が書かれた紙を指で叩いて斜森は俺の顔を見た。


「も、もとむ」

「へー。すげー苗字。名前呼ばれるたびに求められるじゃん」

「は、はは……」


 全国の支社の新入社員が一同に介して行われた新人研修で、配属先が一緒の俺達は隣の席同士になった。この時がほぼ初対面だったが、彼は人見知りとか遠慮とかを一切見せず俺に話しかけてきた。対して俺は場所見知り人見知りが激しく、更には和気藹々と話していい雰囲気も感じられなかったので、まともな返しも出来なかった。それ以降は会話する事もなく、研修が始まってしまった。


「__つまり、サスティナブルな社会の実現。ただ売上を伸ばせばいいというものでもないのです。こういった取り組みは今各企業で注目されていますが弊社としては……」


 手元にある資料に大事そうな所を書き込んでいく。果たしてこれはどこかで役に立つのだろうか。でも書かないと周りからどう思われるか分からない。

 チラッと横を見ると、隣の男は手に一切何も持たず、話を聞いているのかも分からないような顔で前を向き、ゆっくりと視線を動かして会場中を見回していた。


(凄い、メモするフリすらしてない……)


 よく見ればスーツも軽く着崩している。かなり上の立場の人も周りにいるのに堂々とした態度だ。俺にはとてもマネ出来ない。

 結局その後の研修もその男は一切メモをとらず、退屈そうに時間が流れるのを待っていた。そのくせ、レポートは今までの研修の言葉を全部噛み砕いて自分のものにしたかのような早さで即刻書いて提出し、研修会場を出て行った。


 俺にはそれがなんだかとても格好良く見えた。俺とは真逆の人間。今まで狭い世界しか知らなかったけれど、俺はこれからこんな同期と一緒に仕事をしていくんだ。

 何事にも消極的な俺だけど、この男の事だけは何故か最初から心を掴まれてしょうがなかった。


(あ……)


 隣の席に、ボールペンが1つ置いてある。きっと忘れて行ったのだろう。今ならまだ間に合うはずだと自分もレポートを必死に終わらせ、会場を出て彼の後を追った。


「あ、あ、あの!」


 息を荒げながらその背中に声をかけた。彼はこちらを振り向き俺を見て、おー、と呟いた。


「モトムくんじゃん」

「あの、は、はい。忘れてた」


 ボールペンを差し出す。彼はきょとんとした顔で俺を見た。


「はぁ……、え、これのために?」

「え、あ、うん……」


 すると彼は破顔させて、盛大に笑った。


「こんな安モンのために!」

「あ、ごめん、迷惑だった?」


 彼はボールペンを受け取り、首を振った。


「いーや。ありがと、モトムくん」


 俺は、昔から自分の名前が嫌いだった。特になんの特技もない、誰の力にもなれないしょうもない人間なのに、そんな大層な名前なんて。


 でも何故か、彼の口から出てくるその名前はなんの違和感もなかった。


「その、君の名前も、なんて読むの?本当はさっき聞きたかったんだけど、ごめん、緊張してて」

「ああ、だからキョドってたのか。俺こんなんだから怖がられたのかと」

「ち、ちがう。怖くないよ」


 俺は必死に両手をパタパタと振った。彼は見た目にそぐわず優しく笑う。


「ななもり。変な名前同士よろしく。ボールペン、ありがとな」


 隣に立つと、ふわっとムスクの香りが漂った。ずっと嗅いでいたくなる香りだ。


 本当はボールペンを渡すのなんて建前だった。多分、きっと、俺は斜森と仲良くなりたかったんだ。





2

(あ……夢……)


 だんだん覚醒した脳はさっきまで再生していた過去の映像に靄を掛け始めた。随分昔の事を夢見ていた気がする。あれ、なんの夢だったっけ。誰の夢を見てたんだっけ。


 いつもと違う感覚に体を起こすと、そこは見知らぬ場所だった。訳が分からず、忙しなく辺りを見渡す。


(ここどこ?あれ、俺、どうして、こんな所に……。俺、昨日何した?)


 昨日は、久しぶりに出社して、退職届を提出しようとして、なかなかタイミングが掴めなくて、定時になっちゃって、それから。


「……っ!あ、あ……」


 __王野に、酷い事をされた。


 あの後俺は、泣きはらしてそのまま気を失った。じゃあ、ここは、もしかして。




「おはよう。体調は悪くない?」

「!」


 扉の方に目をやると、王野がご飯を乗せたトレーを持って立っていた。そのままこちらに近付いてくる王野に、俺の体の震えは大きくなる。


「や、やだ、こないで」

「駄目だって、ベッドから出ないで」

「いや、いやだ、やだ!!」


 どうにか王野から逃げようと足を動かしたが、体が言う事を聞かず無様にベッドから転げ落ちてしまった。なんとか立ち上がろうとしたが、手足が震えて思うように動かない。


「あ、う、う……」

「もう、だから言ったのに」


 王野はトレーを机の上に置き、俺の背中と膝裏に手を回して持ち上げ、また俺をベッドの上に戻した。王野の体を押しやってみたが、全く力が入らなかった。


「熱あるの、自分で分からない?」

「え……」

「疲れが出たかな」


 手のひらをぴとっとおでこに当て、検温される。うん、と一人呟きいそいそと布団を上からかけられた。

 発熱を自覚した途端、急に体が重くなり視界がぐるぐるしだした。


「ご飯食べられる?」


 枕に頭を乗せたまま、ふるふると首を横に振った。とても食べる気になれない。体調もそうだが、あんな事をしてきた男の作った物なんか、食べられるか。

 王野は少ししゅん、と顔を下げ、トレーの乗った机をベッドの近くに寄せた。


「会社休む事は俺から言っとくから。薬も置いとくし、安静にね」


 王野はそう言って部屋を出て行った。


 しん、と部屋が静まる。悔しくて涙が出そうだった。

 あたかも、昨日の事なんてまるでなかったかのようだ。当たり前のように俺があの会社に籍を置いている前提で話すのもそうだし、俺に無体を働いた事に対する詫びの一つもない。

 そのくせ、今までみたいに優しく俺を介抱してくれる。


(駄目だ、ぐらぐらする……)


 気持ち悪い。体が動かない。

 王野の事が、全く分からない。


 俺は目を瞑った。


 ああ、なんか昨日、凄く心が痛くなった気がする。斜森を裏切ったから、斜森の手を取れなかったから。なんでこんな事になったんだろう。


「斜森、ごめん……」


 ぐるぐると回る意識は、またゆっくりと遠のいていった。





3

 次に目を覚ました時には空腹を感じていた。ベッド横のテーブルに目を向ける。冷めきったお粥と薬が置いてあった。


「っ、痛……」


 頭が痛い。熱もまだ引いていないのだろう。

 電気のついていない部屋は既に暗くなっていて、あれから一日中寝ていた事が分かった。


 ガチャと扉が開き、体を震わせる。

 王野がスーツ姿のまま、部屋に入って来た。俺の顔を見て、どこかほっとした表情を見せた。


「お粥、食べられなかった?新しいの持ってきたよ」


 王野は新しく作ってくれたお粥を机に置き、スプーンで救って俺の口元まで運んだ。俺は首を横に振る。


「食べないと薬飲めないよ。ずっとそのままでもいいの?」


 頑なに口を開けずに待っていると、王野は眉を下げた。


「……何も入ってないよ。大丈夫だから」


 その顔をされると俺も悪いような気がしてきて、恐る恐る口を開けた。そのまま俺のペースに合わせてスプーンが運ばれる。なんだかんだお腹が空いていたので、完食までしてしまった。

 本当はこんなやつの言う事なんて聞きたくないのに。どうしても空腹には勝てない。


「薬、飲める?飲ませてあげようか?」

「……いい」


 俺は王野から薬と水を受け取り、よろよろと覚束ない手つきで薬を飲んだ。王野と喋りたくなくて、そのまま布団に潜り込もうとしたら腕を掴まれた。


「汗で気持ち悪いでしょ。体拭いてあげる」

「……!や、いい、いらない!」


 王野は言う事を聞かず、俺の着ていた服を捲り、上半身を濡れたタオルで拭き出した。俺はその手に寒気を感じ、必死に体をよじる。


「いやだ!!いいから!やめて!」

「求」

「触らないで!!いや、いや!!」

「求!!」


 肩をがっしりと掴まれて、動きが止まる。王野は苦しそうな顔で俺を見ていた。


 __なんで、お前がそんな顔をするんだよ。


「……大丈夫だから、もう何もしないから……」

「……」

「ごめんね」


 俺は呼吸を落ち着かせ、体の力を抜いた。なんだかぼーっとしてきて、王野にされるがまま体を綺麗にしてもらった。




 全てが嫌だった。何もかも、意図が分からない王野の事も、全てを受け入れている自分の事も。


 せめて、少しでも悪意を感じられたら、責める事が出来るのに。いっそ責めれたほうが楽だ。謝るなんて、辞めてほしい。俺はこの男をどうする事も出来ない。





4

 次の日には体調は良くなっていた。明るい光が窓から射していたので、きっと朝なのだろう。もう俺には時間も曜日も感覚が狂っていて、今がいつなのかが分からなかった。俺はベッドから起き上がって部屋の扉を開け、廊下に出た。


 広く、整然と片付けられている部屋だ。

 同い年で、同じ会社に勤めているのに俺とはまるでランクの違う部屋に住んでいる。まざまざと俺と王野の違いを見せつけられる。


 そのまま玄関に向かう。もう熱もひいたし、俺がここにいなければいけない理由なんてないだろう。


「……え」


 当たり障りないドアだった。ただ一つ、内鍵の他に南京錠が付いている事を除いては。

 それはぴくりとも動かず、いくら内鍵を回しても扉が開くことはなかった。心臓が音をたてる。目の前が白んだ。


「なにしてんの?」


 声がして、後ろを振り返る。廊下の先には王野が立っていた。普段と変わらない、穏やかな表情で。


「病み上がりでしょ、こっちおいで」


 足がすくんで、一歩も動かせなかった。意味のない息ばかりが口から漏れる。

 ただ佇むだけの俺を見かねてか、王野からこちらに近寄って来た。もう、抵抗する気も起きなかった。

 王野はゆっくりと歩いてきて、俺を抱きしめた。


「勝手に出ないでね。そんな事したら、俺どうするか分かんないよ」


 よく言う。これじゃあ一歩も外に出られないというのに。


「あ、あと、はい、これね」


 王野はそう言ってポケットから新品のスマホを取り出し俺に渡してきた。


「求の前のスマホ、捨てたから」

「………………は」

「でも流石に社用携帯だけで過ごすのも無理あるしね。俺とも連絡取れた方がいいでしょ?」


 王野の言っている事が信じられず、俺は体を震わせた。そのスマホを受け取る事が出来なかった。

 持ち主の許可無しで勝手にスマホを捨てるなんて、おかしすぎる。

 王野は俺を見て微笑んだ。


「これで誰とも繋がれなくなったね。……あいつとも」

「!!」

「ね、受け取ってよ。俺が全部お金出すよ。あ、これだけじゃない。生活費も、趣味に使うお金も、なんなら保険とかも全部、全部払ってあげる」


 俺は唖然と口を開けた。狂っている。この男は、きっとどこかがおかしいんだ。


「な、なんで、そこまで、お前、……おかしいよ」

「おかしい?そう?じゃあどうやって求を引き止めればいい?」


 王野は何が悪いかが分からないというような顔で俺を見た。まるで善悪の判断が分からない子どものように純粋な目をしていて、それが俺は怖かった。


「俺、求がいないと駄目だから。大好きなんだよ、求のこと。だから、いなくなったら駄目になる。駄目になるって意味、分かる?」


 完全に血の気を失った俺の顔を持ち上げて、王野はうっそりと笑いかけた。そしてそのまま猫のように俺の顔に頬ずりをして、耳元で囁いた。


「ぜーんぶ、どうでもよくなる。穴があくの、心に」


 まあもともと求以外はどうでもいいんだけどね、と王野は笑った。笑っているのに、ゾッとするくらい暗い。


「おれ、俺は、どうすれば、いい」


 締まった喉からは引き攣った声しか出ない。俺の声は冷たい。王野の体と言葉からも、温度を感じない。この空間に、温かさなんてまるでなかった。


「ずっと、一緒にいて。仕事も辞めないで」





5

 ゆらゆらと揺れる車内で俺は窓の外をぼーっと眺めていた。俺の意識とは真逆に、この車はオフィスへと向かっていた。


「今日は体ならすための出社だからね、事務作業だけで大丈夫だから」

「でも、俺の仕事は」

「大丈夫、代わりに俺やるし、課長の許可も取ったし」


 右横で王野が車を運転しながら朗らかに笑った。

 暫くぶりの出勤に、俺の心は重くなった。どうやら俺は、私生活だけでなく仕事の行き帰りまでも王野と共にしなければいけないようだ。この狭い空間がまるで牢のようで、どこまで行っても俺の逃げ場なんてなかった。


 職場の駐車場に着き、車を降りた。王野はぴったりと俺にくっついて歩く。あ、と何かに気付き、俺に声を掛けた。


「求、ネクタイ」


 俺のネクタイのノットの部分が緩んでいたようで、王野は手を伸ばしてきた。反射的に、体を震わせる。王野はふっと笑ってその部分を締め上げた。


「新しいの買ってあげるね」


 首元が絞まる感覚に、息苦しさを感じた。

 俺は力なく首を横に振る。王野は光のささない瞳で俺を見ていた。


 それが俺の首に回る時、王野が俺のネクタイを締めた時、きっと俺は本当にこの男のものになってしまうのだろう。鎖で繋がれた首輪と変わらない。




 数日休んだからといって俺の仕事に対する意欲が生まれる訳もなく、久しぶりのこのオフィスはやっぱり憂鬱で仕方がなかった。それもそうだ。もともと適応障害で会社を休んで、それも禄に治らないままなのだから。

 オフィスに入る前、俺の足はピタリと止まって、呼吸が浅くなり手が微かに震えた。

 すると横から不意に手を握られ、それをあやす様に王野は微笑んだ。


「大丈夫だよ。俺が全部どうにかしてあげる」


 俺は王野に連れられるがまま中に入った。


 随分久しぶりなように感じるが、社員は変わらず俺に話しかけてくれた。もう平気なの、と心配される言葉にぺこぺこと頭を下げながら自分の席に向かった。

 そして、いち早く俺の元へ駆けつけてくれる後輩が1人。


「求さん……」


 高見くんが俺の顔を見てくしゃっと表情を歪めた。他の人とは明らかに違う態度に、俺は目を丸くした。


「あ、えっと、たて続けにいっぱい休んでごめんね」

「……」


 高見くんは俺の言葉なんか目もくれず、微かに唇を震わせながら俺の手をぎゅっと握った。


「……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 手に力が込められる。俺は高見くんの顔をただ眺めるしかなかった。なんで、高見くんが謝るのだろう。高見くんが謝るような事なんてなにもないのに。

 なんで、そんな泣きそうな顔をしているんだろう。


「求、引き継ぐ仕事どれかな?教えてもらっていい?」


 水を打ったみたいに、王野が間に入ってきた。

 高見くんは俺から手を離し、何かを堪えるように王野の方を見た。


「えっと、どれ、だったかな……ごめん、久しぶりで何が途中だったか忘れちゃって」

「ゆっくりでいいよ。急ぎの仕事はなさそう?」

「う、うん。多分」


 俺が慌ててパソコンの電源を入れると、王野は安心させるように俺の肩を撫でた。また来るね、と言って最後に高見くんの方をじっと見つめ、自分のデスクに戻って行った。

 俺は側に立っている高見くんを見上げた。王野の背中を追うように、先をねめつけていた。


「高見くん?」

「……」


 高見くんは視線を戻して俺の方を見て、取り繕うみたいに優しく笑った。


「今日何曜日か分かります?」

「え、えっと、何曜日だっけ。木曜かな……あっ」

「うん。後で一緒にランチ行きましょ」

「うん、分かった」


 木曜は一緒に社食を食べるという約束をしてから、1週間が経ってしまっていた。高見くんはちゃんと覚えていたようで、俺がそれに頷くとほっと安堵し、仕事に戻って行った。


 その後は王野に仕事の引き継ぎをして、自分も仕事に取り掛かった。ただいつもと変わらない、誰でも穴を埋められるような仕事をする、この場所で。それが不思議で仕方がなかった。少し前まではこの場所から離れられるかもしれないという一縷の期待を寄せていたのに、今ではそんな希望も失われてしまった。

 最初から狭かった俺の世界は、更に窮屈になった。俺と、王野と、仕事。結局俺が頼れる人は王野ただ一人しかいない。


 俺は、王野が創り上げたこの国で生かされる他ないのだ。





6

「求さん、食堂行きましょ」

「あ、うん」


 お昼の時間帯になり、頃合いを見て高見くんが俺に声を掛けてくれた。チラッと王野のデスクを見ると王野はいなくて、どうやら席を外しているようだった。少し息苦しいのがなくなって、俺は席を立ち、高見くんと食堂に向かった。


「求さん、好きな食べ物ある?」

「えっ……と、なんだろう。………………」


 道中、高見くんからの何気ない質問に、俺は全く返す事が出来なかった。


「……え、ないの!?」

「た、多分あるんだけど、出てこないね。そういうの、あんまり考えた事なかった」

「嫌いな食べ物は?」

「あんまり、ないかも」

「……普段何食べてんの?」

「……何食べてるんだろうね。普通にコンビニとかで、適当に、なんか食べてたと思う」


 本当は、最近は王野が作ったものしか食べさせてくれないのだけれど。前まではかなり意識の低い食生活を送っていた。だからこそ、何を食べていたのか禄に思い出せない。


「嘘でしょ!?だからそんなに不健康そうなんだよ……コンビニばっかで飽きないの」

「飽きるとか、考えた事もなかった」

「ええ……」

「俺、多分苦手なんだよね。自分で何食べたいとか、何作るとか、好きな物食べるとか、そういうのを考えるの。決めるの、苦手なんだ」


 食堂の列に並び、高見くんが話していた木曜限定のハンバーグ定食を頼む。今日はちゃんとハンバーグ定食を頼むという目的があるが、きっと他の曜日だったら自分では何を食べればいいか決められず、結局高見くんと一緒のものを頼むんだろうなと想像した。

 プレートに調理員から渡してもらったご飯を乗せ、食堂の空いている席に座った。

 

「だから、好き嫌いとかあんまりないかも……」


 一口、ハンバーグを口に入れる。とはいえ、美味しいものを美味しいと感じる心はある。高見くんが言ったとおり、ここのハンバーグ定食はとても美味しかった。

 そんな高見くんは目の前にいる俺をじっと見つめて、口を開いた。


「そういうとこが、求さんの駄目な所だよ」

「……え」


 俺はぴたっと手を止めた。


「え、えっと、不摂生すぎるよね。もっとちゃんと栄養とか考えなきゃって思うんだけど」

「そうじゃなくて、その、なんでもいいやって思う所。自分の意思で決められない所」

「……」


 俺が何も返せないでいると、高見くんはハッとして、気まずそうに視線を下げた。


「すみません、人格否定とかじゃないんす」

「いや、ううん、本当にその通りだよ」


 薄く笑って首を横に振った。高見くんは、本当に人の事を良く見ている。だからこそ、ここまで売れるのだろう。


 高見くんはテーブルの上に乗せていた手をきゅっと握りしめた。


「……なんでもいいって、思わないで。諦めないでよ、絶対……」

「え……?」


 声が震えていた。高見くんはまた顔を上げ、苦しげな表情で俺を見た。


「求さん、俺っ__」


「求、こんなとこにいたんだ」


 生理的なもので、瞬間的にゾワッと体が疼いた。

 声がした方向に顔を向けると、王野がそこに立っていた。


「あ……」

「探したんだよ。なんだ、もう食べてんだ」

「あの、あ、え」

「……珍しいね、高見くんと?」


 王野はいつもの笑みを浮かべながら、ゆっくり高見くんの方を見た。高見くんは立ち上がって王野を睨みつける。


「……昼休みまで監視ですか」

「人聞き悪いなぁ。ただ求とご飯食べたかっただけなのに」


 俺は目を見開いて高見くんを見た。監視?なんで、何をどこまで知っているんだ。


「自由を奪わないでください。おかしいですよ、あんた」

「なんで君がそんな事言うの?高見くんには関係ないよね」


 場所が場所なのもあり大きい騒ぎにはせず、お互いが静かに睨み合っていた。


「関係ない?俺は前から約束してましたからね。そっちこそ、求さんがどこで誰と食べてようが関係ないですよね。不都合あるんすか?」


 ぴくり、と王野はこめかみを震わせた。俺は口を挟む事も出来ないまま、唖然と2人のやり取りを眺めていた。


「……求、引き継いだ資料の中で聞きたい事あるから、後でね」


 ピリついたのはたった一瞬で、また普段通りの温厚そうな顔に戻り、王野はこの場所から離れて行った。入口付近にいた女性社員が黄色い声を上げて挨拶をしている。


 早まった鼓動はその後も落ち着く事はなかった。高見くんは何かを考え込むように無言になってしまい、俺は高見くんに何をどこまで知っているのか、容易に聞く事が出来なかった。





7

 それからは、緩やかに時が流れて行った。

 朝、王野の部屋のベッドで起きて、王野が用意したご飯を食べて、王野と一緒に職場に向かって、仕事して、時々高見くんとご飯を食べて、また王野と一緒に王野の家に帰る。

 何一つ不自由はないけれど、自由もなかった。最初はいろいろ抵抗していたけれど、こんな生活も1ヶ月経てば順応せざるを得なかった。徐々に麻痺していった脳は、この非日常を日常だと勘違いしかけていた。


 王野はあの日みたいな__俺を犯すような真似をする事は一切なく、軟禁をしている事以外は俺に優しくしてくれた。だからこそ、俺もだんだんとこの状況を諦観してしまっていた。


「求、こっちへおいで」


 夜、お風呂上がりにリビングに行くと王野がソファに座ってこちらへ手を広げていた。その場所に行くのは普通の事だと思っている俺は、なんの疑問も抱く事なく、王野の脚の間に座った。そのまま待っていると、背後からぎゅっと手を回された。体温が密着する。お風呂上がりの俺の熱は、常にすこし冷たい王野の体に少しずつ奪われていった。

 王野の顔が埋まった首元で、すうっと深呼吸する音が聞こえる。


「嬉しいね、俺と一緒の香りになるの」

「う、ん」

「ふふ、安心するんだ、こうやって求にくっつくと」


 ゆっくりとした心音が背中越しに伝わってきた。変な話だけれど、こうしている瞬間だけ何も分からない王野の事が少しだけ分かる気がする。


「求は好きな香りある?次のシャンプーはそれにしようかな」


 王野にそう聞かれ、俺は咄嗟にあの匂いを思い出した。少し甘くて、溶けるような、ずっと包まれていたくなるような、あの匂い。


 俺はその香りを言おうとして、口をつぐんだ。


 だってそれは、王野には似合わない。


「なんでもいいよ。王野が好きなので」


 そう言って、俺はハッとした。

 

『そういうとこが、求さんの駄目な所だよ』

『なんでもいいやって思う所。自分の意思で決められない所』


 __それは、重々分かっていた。


 この状況を甘んじて受け入れたのは、俺に自分の意志が殆ど無い、怠惰な人間だから。


「そう?じゃあ次もおんなじのにしようかな」


 王野は腕の力を緩めて、顔を上げた。


「こっち向いて」


 俺はそれに従い、体を動かして王野と対面するように座り直した。少し高い位置に、王野の顔がある。

 さっきまで俺を抱きしめていた腕はゆっくりと移動し、まるで宝物を触るみたいに俺の頬を撫でた。そして、愛おしそうに俺を見て呟く。


「本当は俺、別に今の仕事好きじゃない」

「……え」

「やりたい事が他にあったんだ、昔」

「そうだったんだ……」


 意外だった。王野は仕事面で一切弱みを見せない。新卒の頃こそ失敗はあっただろうが、今や主任の立場でみんなを引っ張っている王野から、そんな言葉を聞くなんて思いもしなかった。

 やりたい事じゃなくても、王野はここまで上り詰めたのだから、きっと相当努力したのだろう。


「……もっと稼いで暫く休んでも自由に暮らせるくらいになって、ここじゃない所に引っ越してさ」


 頬を伝う手の動きが止まった。王野の瞳がゆらっと揺れる。俺を見ているようで、見ていないようで、きっとその奥を見ている。


「海が見える所で、静かに求と一緒に暮らしたいな」


 王野はまた俺の首元に顔を埋めた。腕は俺の体に周り、緩く抱きついていた。程なくして、首元から穏やかな寝息が聞こえてきた。


「……」


 王野の瞳の先に、自分自身を見た。ゆらゆらと揺れるそれに、まるで俺の心臓も動かされたようだった。

 俺はその場から動けず、王野と抱き合ったまま眠りについた。





8

 王野の家に軟禁されてからどれくらい経ったのだろうか。あの日の事をもう思い出せない。

 

 その日、俺は王野がお風呂に入っている間にテレビを見ていた。なんてことのない、普通の番組。海外の珍事件やニュースを再現VTRで放送したものだった。

 スタジオにいたゲストの芸能人がMCと会話をする。


「どうですか?重い男の人は」

「うーん、そうですね。でも私も重めなんで、重い人の方が釣り合っていいかもしれないです。きっと束縛のしあいみたいになるんでしょうね」

「えーっ、もっとドライな感じだと思っていました」


 話の流れで、そのまま今回の事件のテーマが出てきた。


『ストックホルム症候群の由来となった事件』


 俺は閉じそうだった瞼を開き、前屈みになって画面を見た。


 1973年、ストックホルムにある銀行で銀行強盗による人質立てこもり事件が発生した。事件後、人質は警察に非協力的な態度を取ったり、警察に銃を向けたりした。それは、犯人と協力関係にあったから。それが由来となった、ストックホルム症候群。誘拐や監禁の元に置かれた被害者が加害者と行動を共にするうちに、好意を抱くようになる事を指すらしい。


 再現VTRの後、日本での事件に移った。次は、軟禁生活を送っていた女性の、夫から逃れるまでの数年間の話だった。


 俺は冷や汗をかきながらその番組を見ていた。

 つまり、俺って、これと変わらない。


 第三者視点で同じ状況を見た事で、俺の麻痺していた感覚はゆっくりと覚醒していった。


『軟禁しようとする__つまり、束縛の激しすぎる人の心理として、いくつか挙げられますね。自分に自信が無いから誰かに取られないように、自分のもとに置いておきたい、或いは、過去になにかしらのトラウマがあり、それを相手に投影してしまう。それが裏切られないか見張るように、閉じ込めておく。そういった心理でしょうか』


 俺はその言葉を聞き、じっと考えていた。


 自信が無い? トラウマ?

 どうにも、王野と結びつかない。心理学を疑う訳ではないが、王野のそんな性格や過去は、一切想像出来なかった。


 夢中になって番組を見ていると、お風呂場の方から物音が聞こえた。きっともうそろそろ王野がリビングにやって来るだろう。

 俺は何故だかこの番組を王野の前で見続けてはいけない気がして、咄嗟にチャンネルを変えた。


「あれ、まだ起きてたの?」

「う、うん。あの、眠れなくて」


 お風呂から上がった王野は濡れた髪のまま、俺の横に座った。

 いつもより表情が柔らかい。そういえば、金曜日だからとさっきお酒を飲んでいたのを思い出した。

 上機嫌な口ぶりで王野は喋る。


「もうすぐ係編成あるでしょ?俺の係に求をいれてくれるように、課長にお願いしておいたから」


 きっと昔の俺なら、ここで否定の言葉を発していたのだろうけど、今の俺にはそれをする力がなかった。


「……うん、ありがとう」


 王野はにこっと笑って俺の肩に頭を乗せた。水滴が布にじわっと染みる。俺と同じ匂いがしてなんとなく心が焦る。


 このまま王野と一緒の係になって、俺の仕事も王野に管理されるようになったら、それこそ本当に王野のものになってしまうような気がした。

 それを受け入れようとする自分と、逃げ出したくなる自分がいる。王野から優しさを享受するたびに、心の裏側で思い出すのはあの香りだった。





9

「で、そこの社長がオススメしてた店が凄くよかったんすよ、でっけぇパフェがあるの。桃まるまる入ってて……」

「……」

「……求さん、聞いてる?」

「……え?……あ、うん」


 高見くんにじっと見つめられ、どこかに飛ばしていた意識を徐々に戻した。

 食堂で高見くんとご飯を食べていたけれど、食欲もなければ誰かの話を集中して聞く体力もまともになかった。


「大丈夫?しんどい?またなんかミスした?」

「あの、だ、大丈夫」

「……ほんと?」


 高見くんは心配そうに俺を見た。安心させるように、俺は笑って頷いた。それでも、高見くんは何か言いたげにしていた。


 大丈夫、と言ったのは口癖みたいなもので、きっと俺は大丈夫ではなかった。


 午前中に伺った営業先の会社で上手く喋れなかった事をぐるぐると考えていたのだ。心配だから、という理由で無理矢理予定を空けて着いてきてくれた王野が横にいたため、俺が言葉に詰まった後は王野が全てカバーをしてくれた。

 結局、俺は大した力にもなれないまま__寧ろ足を引っ張る事しか出来なかった。


 先方のビルに踏み込む時も心臓がバクバクと鳴って怖かったし、終わってからも失敗した事ばかりを考えて何も手につかなかった。

 それも、今日だけの話ではない。職場復帰をしてから、ずっとずっと同じような状態が続いていた。


 でも、俺は逃げられない。あと何千回と同じ事を繰り返さないといけない。王野は守るように俺を囲うけど、助けられる度に自分の存在意義や価値が分からなくなってしまう。


 それでも、逃げられないから、俺はもう諦めるしかない。


「木曜日だからかな、ちょっと疲れただけだよ」


 食堂のメニューに書かれている、ハンバーグ定食で木曜日を乗り切ろう、というポップをぼんやりと眺めた。


 カタン、と前方から音が聞こえた。

 高見くんは持っていた箸をトレーの上に置いて、ねえ、と俺を呼んだ。


「求さん、本当にこれでいいの?」

「……え」

「今動けなかったら、本当に、ずっとそのままだよ。しんどい、辛い、嫌だって思いながら働いてるんでしょ」


 俺は何も言い返せず、ただ高見くんを見つめた。後輩からこんな事を言われるなんて、と思う矜持なんてもう俺にはなかった。

 高見くんは言葉を続ける。


「いいの?ずっと、ずーっとそれが続くんだよ。ご飯も、何が好きとか、嫌いとか、まともに考えられないんでしょ。今までは考えた事なかった、だったけど、違う、今は考えてもいられない……王野主任が決めたのを、ただ機械みたいに貰ってさ、仕事も……辛いって思っても逃げられなくて」


 ぴたり、と身体が固まった。体温が、急激に下がるのを感じた。王野の名前が出てきたからだ。高見くんはきっと、俺の全てを王野に管理されている事を知っているのだ。それが何故なのかは、俺には分からない。

 

「……求さん、このままじゃ本当におかしくなっちゃうよ。今だって、求さんの姿した、違う人みたい。……嫌だよ、俺、せっかく……」


 はく、と息が詰まる。どちらのものか分からない。周りの雑音なんて何も耳に入らなかった。高見くんは、掠れた声を発した。


「……ちゃんと、求さんの事、分かりたいって思ってるのに」


 俺は、答えられなかった。何も言葉が出ない。

 高見くんは席を立ち、食堂から出て行った。


 随分力の弱くなった拳をぐっと握った。そうしないと、自分の中の何かが駄目になりそうな気がした。


「ごめんなさい……」


 自分の事、自分が1番分からないのに。それなのに、誰が分かってくれるのだろうか。


 1人呟いた言葉は、誰の耳に入る事もなく宙に消えていった。





10

 今の内はフレッシュさや愛嬌でちょっとの失敗は許されるんだから、なんとかなる。大きな声で、ハキハキと、笑顔で。

 そう先輩に言われて行った初めての営業で、俺は1mmたりともうまくいかなかった。勿論最初の商談だったので、隣にいた先輩がすぐさま助け舟を出しくれどうにかなったのだけれど、成功体験を掴むべき最初の営業で大失態を犯した俺は、それがトラウマになってしまった。


 社会人ってこうなのかな、働くってこんなに嫌な事が続くのかな、と思うとこれから先が嫌になった。最初から、俺の仕事への意識はそういうものだった。


 先輩達には大丈夫と励まされたが、典型的にネガティブな俺はそれだけで立ち直れるはずもなく、失敗した場面を脳内で再生しながらとぼとぼと会社を出た。すると、下ばかり見ていたせいで、入口前にいた人物にぶつかってしまった。


「あ、ごめんなさ……」

「うお、なんだ、求くんか」

「斜森くん……」


 俺がぶつかった人__斜森は、手にしていたスマホをさっとスラックスのポケットにしまった。


「ごめん、あの、前見てなくて」

「いーや、俺も見てなかったし、おあいこ」


 そう言うと、斜森は俺の肩に手を回して歩き出した。予想していなかった行動に、俺の足は縺れてしまった。


「え、え?」

「仕事終わった?この後暇?」

「あ、う、うん」

「ちょっと付き合ってよ」


 こうして、オフィスの中ではチラチラとその姿を盗み見るしか出来なかった斜森に半ば強制的に拉致られ、初めて2人で居酒屋に行く事になった。


 ドキドキするような、ワクワクするような、それでいてちょっと怖いような。

 既に当時から斜森に対しては憧れのようなものを抱いていたので、組まれた肩から伝わる熱にすらどぎまぎとした。


「あー、とりあえずビールで……2つ?」

「あ……あの、俺は……レモンサワー」

「じゃあビール1つ」


 席に着くなり斜森にさっさと店員を呼ばれ、俺も慌てて飲み物を決めた。


「求くん、ビール飲めねえの?」

「うん、えっと、苦くて」


 広げたおしぼりをいじいじとたたむ俺の手元に視線を移しながら、斜森はふっと笑った。妙に緊張している俺に気を遣ってか、はたまた彼の天性の対人能力によるものか、飲み物やご飯が来るまでの微妙な間を上手く埋めてくれた。


「俺スーツ似合わねえよな」

「え、そんな事ないよ」

「そうかあ?今すぐにでも脱ぎたいんだけど」


 本当に、そんな事はなかった。確かに斜森はスーツを着そうな雰囲気ではないが、独特の雰囲気があり、格好良くて様になっている。


 斜森は他愛もない話題をポンポンと出してくれて、でも俺のペースに合わせてくれて、それが俺には心地がよかった。それでも、目的の分からないこの会に俺はそわそわとしていた。


「あの……なんで、俺誘ってくれたの?」


 俺がそう言うと、斜森は黙って俺を見た。何を考えているか分からず、俺が頭の中で疑問符を浮かべていると、飲み物が運ばれてきた。


「まーとりあえず、お疲れさん」


 カン、とジョッキがぶつかる音が鳴った。斜森は、それをぐいっと傾けて一気に喉を通した。それを見て、俺も急いでレモンサワーを流し込む。

 ジョッキを机の上に置いた斜森は、あー、と意味の無い声を漏らし、そしてスマホの画面を見せてくれた。


「愚痴、聞く?」

「愚痴……斜森くんの?」

「そ。めんどくせぇ〜って話」


 その画面に写っていたのは、トーク画面だった。雰囲気からして、女性が相手だという事は分かった。斜森はゆっくりと画面をスクロールさせた。


「俺悪くなくない?あっちが誘ってこなかったから、特に俺も何も言わなかっただけなのにさ、『なんでもっとデート誘ってくれないの?』ってさ、……知るかよ!そんなの。そう思ってんなら動けよ、そっちから」

「えっと……彼女さん?」

「まあ、そうだな。正しくはもう別れたから彼女じゃないけど」


 かっこいいなと思っていたけれど、実際に斜森はモテるようだった。でも、あまり執着がないみたいだ。


「ま、別れて正解かも。自由が1番」

「そうだね。価値観が合わないまま付き合ってても、多分どこかで駄目になるだろうし……」

「だよな。求くんは?」

「え」

「彼女いる?」

「……えっと、俺も最近別れたよ」

「へえ。一緒じゃん、傷心仲間」

「ふふ、傷心してないでしょ」

「全然」


 斜森は、思ってもない事を言ったり書いたりするのが大得意のようだ。その調子の良さに、俺はクスリと笑った。


「あ、ついでに連絡先交換しようぜ。ちなみに俺、今時珍しく電話番号も交換するタイプなんだけど」

「……いる?俺の電話番号なんて……」

「連絡先にさあ、いろんな人の名前がズラって並んでんの良くない?」

「そ、そう?じゃあ俺も斜森くんの電話番号登録しとこっかな……」

「ん、そうして。はい、これ俺の番号」


 俺は斜森のスマホの画面に写る電話番号を見て、少し驚いた。


「え、すごい。俺の生年月日」

「嘘、マジで」

「うん。1993-1201、1993年の、12月1日生まれだよ、俺」

「すげー、そんな事ってあるんだ。運命じゃん」

「……うん、そうかも」

「じゃあ覚えやすいな。俺通音知切ってる時あるから、通話繋がらない時はこっちの番号に掛けて」

「うん、わかっ……え、俺、斜森くんに電話する事あるかな……」

「おい!思っても言うなよそういう事は」


 軽く俺の額を小突く斜森に俺はくすりと笑った。

 そして、なんとなく気持ちが軽くなって気付いた。落ち込んでいた事が、斜森と話している間は1つも思い浮かばなかった。


「……」


 せっかく忘れていたのに自分の失敗を少し思い出し、また脳内でぐるぐると考えてしまった。

 そんな俺を見て、斜森はトントンと机を軽く指で叩いた。


「なーんて、俺の傷心した話とか連絡先の事とかはどうでもいいんだけどな。求くん、嫌な事あった?」

「あ、え?」

「まあ普通に働く事が嫌だよな。俺も昨日初めて営業行ってさ、あの造り物みたいな空間が嫌で何回出て行きたくなったか分かんねえや」


 俺はびっくりして斜森の顔を見た。きっと斜森は俺がどういう気持ちで、何で悩んでいるのかを全て分かっていたのだろう。あの会話の切り出しも、俺をリラックスさせる前座に過ぎなかったのだ。

 今思うと、俺をご飯に誘ってくれた意味は俺の悩みを聞くためだったのだろう。


「俺、『そうなんっすか』とか言っちゃったし。相手の社長に」

「え、ええ、凄いね」

「この会社に適合してねえな。会社じゃねえか、社会に。って事で、求くんはこうなるなよ」


 斜森はケラケラと笑った。俺も釣られて笑う。すると、自然と自分の口から俺も、と言葉が零れた。何も考えていないのに一度出た言葉は止まらず、そのまま斜森は俺の失敗談を聞いてくれた。咎めるでもなく、励ますでもなく、ただ聞いて頷いて共感して笑ってくれた。


 それが、俺にとってどれだけ気持ちを軽くしてくれていたのか、計り知れない。気付けば俺は自分の悩みが小さい事のように思え、アルコールの力も借りて斜森とずっと笑っていた。


「あは、斜森くんってもっと怖い人かと思ってた」

「ハァー?お前、最初に話した時怖くないって言ってたくせに」

「嘘、ほんとは怖かった、ちょっと」

「今は?」

「全然、怖くない!凄いね」

「凄い?なにが、ギャップが?」

「えー、んー?」


 俺のまぶたは既に落ちかけていて、気持ちのいい酩酊感を覚えながら、机に頬づえをついた。会社でずっと張っていた気と表情をだるだるに緩め、笑いながら斜森を眺めた。酒豪なのだろうか。全く酔った素振りを見せない斜森は、俺を真似するかのように頬づえをつき、俺を見て笑った。


「あはは」

「あははじゃないの。結構酔ったなぁ?」

「凄いねえ」

「いや、だからなにが」

「ん〜」


 回らない頭で考えて出た言葉は、紛れもなく本心だった。


「全部!かっこいいし、楽しいし、大好き!」

「は……え、俺の事?」

「ん!」


 俺はへへ、と笑いながらジョッキを握った。つもりだった。俺の方は相当酔が回っていたようで、ジョッキを上手く掴めず、何もない空間をにぎにぎと握っていたらしい。

 それを見て、斜森はあーあー、と笑いながら眉を下げる。


「帰るか。送ってくから……求くん、家どこ?」

「んんん」

「オイ、言わないと帰れねえぞ」

「いいよー」

「いいよじゃねえの。このままだと持って帰んぞ、俺んちに」


 このあたりの会話はあやふやだが、何故かその言葉だけはちゃんと耳に入った俺は斜森の首に腕をがしっと巻きつけた。


「よし、行こお!」

「いや、お前さぁ……まあいいけど」


 こうして斜森の家に連れて行かれ、意外にも面倒見のいい斜森にしっかりと介抱され、朝を迎えた。

 斜森に恥ずかしい姿を見せた事だけは朧気に覚えていた俺は、顔を真っ赤にしながら昨日の事を謝罪した。斜森は俺の慌てぶりに快活に笑い、また行こうな、と言ってくれた。




 だから、俺にとって斜森は特別な存在だった。1番俺の側にいてくれたし、1番俺が側にいたかった。


 かっこいいし、楽しいし、大好き。

 紛れもなく、本心だ。


 もっと、ちゃんと伝えていたらよかったのだろうか。

 斜森の側にいる事が出来たのだろうか。





11

「……む、求」

「う……」

「求」

「……あ」

「大丈夫?うなされてたけど」


 王野に揺さぶられ、目を覚ました。

 ぐるりと辺りを見渡す。もう見慣れてしまった、王野の部屋だった。

 夢を見た後の寝起き特有の感覚にぼーっとしていると、王野は俺のおでこにそっと手をかざした。


「熱はないね。仕事の疲れでも溜まってたのかな?昨日も倒れるみたいにリビングで寝てたし」

「……え、え?そうなの」

「覚えてない?」

「うん……。あの、運んでくれたの?ありがとう」

「ううん。それより、求軽すぎるよ。ちゃんとお昼食べれてる?」


 俺はあんまり、と呟いた。


「もっとカロリー摂取増やそう。俺もレシピ練らなきゃ。ちゃんと俺のご飯で体重増やしてね」


 それが当たり前かのように、王野は言った。俺はもう以前の感覚が無くなっていたので、その発言をなんとも思う事はなかった。俺はベッドの上でこくりと頷いた。


 そして、王野を見ると休日にも関わらずスーツを着ている事が分かった。


「スーツ着てる……」

「そう。急に仕事入っちゃって」


 王野はスマホを見て軽くため息をついた。それを鞄にしまい、俺の髪を優しく撫でて眉を下げた。


「お留守番出来る?」

「うん」

「いい子に待っててね」

「うん」


 王野はその場で身支度を整え、最後にぎゅっと俺に抱き着いてから部屋を出て行った。


 この家に閉じ込められて2ヶ月程経つが、日に日に全ての能力や気力が無くなっているような気がする。今だって、別に体調は悪くないのにベッドから降りるので精一杯だった。喉の渇きには耐えられず、俺は部屋を出てリビングに向かった。

 コップに水を汲み、ちまちまとそれを飲み干す。横目でテーブルを見ると、その上にはラップがかかったチャーハンが置いてあった。


 食べないと。でも、食欲無い。でも、食べないと王野にいろいろ言われるし。少し強く言う王野は怖いから、食べないと。

 と、俺の思考や行動は完全に王野が中心になっていた。流石に起き抜け早朝に食べられないと思い、もう一眠りしようかと寝室に向かおうとした。


 廊下を出て、俺はふと足を止める。視線の先には扉がある。扉、玄関の。

 ここから出られないと知って絶望したのが、遠い昔のように感じる。


 なんとなく視線の先に足を運んだ。考えなんて何もなかった。ただ、そう__その時は何か導かれるみたいに、勝手に足がそこに向っていた。

 そして、俺はその扉を見てハッと気付いた。


「……あ」


 驚きとか、嬉しさとか、そういう感情はその時は何もなく、あ、と、ただそれだけ声が出た。




 内鍵とは別で取り付けられていた扉をロックするもの__南京錠が取り外されて、下駄箱の上に乗っていた。


 それもそうだ。外に出た王野は内側にある南京錠の鍵を掛けることが出来ない。今までずっと王野と行動を共にしていたので、この南京錠が取り外されているのを初めて見た。


 そして、なかなか回らなかった俺の頭はそれを漸く理解した。この空間にいるのは俺1人だけれど、言葉を発さずにはいられなかった。


「え、で、出られる?……ここから、外、外に」


 俺がここに連れて来られ、どこにも逃げる事が出来ないと諦めた日。それは、この南京錠を見たから。鍵は王野が管理していて、それがどこにあるのかも分からなかった。だから、逃げるのを諦めた。王野が創る国で、俺は思考を放棄して生活するしかなかった。


 でも今は、その南京錠が機能していない。


 だから、つまり、それは、今ならここから逃げられるという事だ。


「ど、う、どうしよ」


 バクバクと鳴りだした心臓に急かされるかのよう、俺はせかせかと足を不格好に動かして寝室へ向かった。そして、手にしたのはベッド横のサイドテーブルに置いてある、王野から貰ったスマホだった。

 普段は仕事中以外は王野に取り上げられていた。唯一使用出来る仕事中だって、俺の休憩時間や王野の監視下に俺がいない時は没収される。俺は真に外の世界と交流できる手段をシャットアウトされていた。でも、今日に限っては何かあったらこれで俺に連絡して、と王野がこのスマホを置いていってくれたのだ。

 それをポケットに入れ、また玄関へと向かう。


 靴を履き、内鍵を回しドアノブに手を掛けた。


 手がカタカタと震えた。いや、手だけじゃない。脚も震え、どうにかなりそうだった。


「あ、ハア、ア……」


 呼吸が乱れる。ただ、このドアノブを下げて扉に体重を掛ければいい。たったそれだけのはずなのに、怖くて仕方がなかった。


(俺は、ここから出たらどうなる?)


 どうなるのだろう。何もわからなかった。外は暗くて、怖いのだろうか。それとも、明るくて、幸せなのだろうか。分からない。でも、


『今動けなかったら、本当に、ずっとそのままだよ』

『なんでもいいって、思わないで。諦めないでよ、絶対』


 本当に、その通りだ。

 俺は高見くんの顔を思い浮かべる。

 麻痺していた脳は、やっと呼吸を始めたみたいだった。


 右手にぐっと力を込める。


「嫌だよ、俺だって……」


 見た目よりもずっと重いその扉に体重を、俺の思いを掛ける。


「うんざりだよ、訳分かんないこの生活も、嫌いな仕事も、……自分自身も」


 目の奥が熱くなる。隙間から、空気が流れ込んだ。それは嫌になるほど蒸し暑く、でも、だからこそ吹き抜ける風は涼しかった。


 俺は、一歩外に踏み出した。




 目的地も無いまま、必死に走った。計画も、算段も、何もなかった。ただ逃げ出したかった。

 蝉が鳴き、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。


「ハア、ハア、……っあ、ああ、あ」


 禄に動いていなかった身体はすぐに悲鳴をあげ、肺が痛かった。痛いからなのだろうか。それとも、こみ上げる感情か。涙が溢れて止まらなかった。


 無我夢中で町を走り抜けた。ここがどこかも分からない。馬鹿な俺は、目的地がない俺は、途端にあの人に会いたくなった。


 大好きな、特別な、俺を救ってくれた、あの人に。


 人気の無い道でズルズルとしゃがみこむ。そう、どこまでも俺は馬鹿だった。こんなに会いたいのに、ずっと会いたいと思っていたのに、斜森の家の場所も連絡先すらも分からない。

 結局俺は、逃げてもどこにも行けないんだ。

 そう思うと自分が惨めに思えてしまった。しとどに涙が頬を伝う。


 考えも無しに持ち出したスマホを握り締めた。

 せめて、斜森の声が聞けたら。

 意味もなく、受話器のマークを指で押した。俺はそこに存在しない斜森の名前を探した。勿論、あるはずもない。


 でも、俺の震える指は自然とダイヤルキーへと伸びていた。

 そして、電撃が走るみたいにあの言葉を思い出す。


『はい、これ俺の番号』


『え、すごい。俺の生年月日』


『嘘、マジで』




(そう、そうだ、そうだよ、俺の……)


 1、9、9、3、と、震える指はその数字を辿った。ぽたり、と涙が液晶に落ちて文字が滲む。最後に1を押し、深く呼吸をしながら通話ボタンを押した。


 1コール、出ない。

 期待しても、意味なんてない。社会人になって、それは散々経験した。


 2コール、出ない。

 思った通りに転じた事なんて、1度たりともなかった。


 3コール、出ない。

 でも、それでも、この繋がりだけは、やっぱり諦められなかった。


 4コール、出ない。

 期待しても意味なんてない。そんなの、散々経験した。


 でも。




 本当は俺だって、好きなものくらいはちゃんと好きでいたいんだ。




 5コール目が鳴った。


 俺は着ていた服の胸元をぐしゃぐしゃに握り締める。




『はい、斜森です』





12

 この声を聞いたのは、2ヶ月ぶりだった。


 たった2ヶ月。それだけのはずなのに、俺の鼓膜を揺さぶるその声に、苦しくなるくらい心臓が動いた。


「あ……」


 肝心な時に限って機能しないこの口は、ただ意味の無い言葉しか発しない。スピーカー越しのその声は、誰かもわからない相手に困惑していた。


『あの、どちら様ですか』


 汗と涙が滴り落ち、目の前がぼやける。斜森は相手の言葉を待っている。早く、早くしないと、斜森に、伝えないと。

 引きつる喉にやっと呼吸を送り込んだ。言え、言えよ、早く!


『あの__』


「たすけてっ……なな、斜森、助けて!!」


『え……』


 俺は必死に叫んだ。段々とまともに使わなくなった声帯は、それだけで悲鳴をあげる。苦しくなり、ごほごほと咳込んだ。

 呼吸が少し落ち着いた所で、またスピーカーから声が流れてくる。


『求か……?』


 斜森が、そう言ってくれた。


 俺は、昔から自分の名前が嫌いだった。特になんの特技もない、誰の力にもなれないしょうもない人間なのに、そんな大層な名前なんて。


 でも何故か、彼の口から出てくるその名前はなんの違和感もなかった。


 違う、違和感がないんじゃない。

 俺は、斜森に名前を呼ばれて嬉しいんだ。


「うんっ……。うん、そう……」


 どうしようもなく切なくなって、また涙が溢れた。斜森は、大きな声を出して喋っていた。


『ハ……ハァ!?おま、急に……いや、っていうか、いきなり連絡取れなくなったからすげえ心配したんだぞ!?俺の会社で働けないって、……いや、……ああもう、聞きたい事山ほどあるんだけど!!』

「うん、うん……」

『……訳わかんねえよ、何で泣いてんだよ』

「あ、はは、なんでだろ、分かんない……」


 苦しかったからか、悲しかったからか、それとも、今、嬉しいからなのか。自分でも分からなかった。上手く喋れない俺に痺れを切らせて

たのか、斜森はああーっ!と叫んだ。


『とりあえずまあ、助けてやるから。安心しろ』


 本当に、この男は。


 要件も聞いていない。どう助けてほしいのか聞いてもいないのに、自信満々にそう言ってのけるのだ。なんだか本当に安心出来た気がして、すうっと呼吸を整えた。


「……俺、今、王野に軟禁されてるんだ」

『……え』

「今日は、たまたま逃げれたんだけど、もう、次は無いかもしれないんだ。このスマホだって、普段は一切使えない。もし斜森がこのスマホに電話を掛けたら、絶対に王野に見つかって……酷い事になると思うんだ」

『……』


 冷静に考えるとありえない状況すぎて、普通は信じないだろう。いたずら電話だと切られるかもしれない。でも斜森は、何も言わずに黙って俺の話を聞いていた。


「……俺、斜森に電話した日……会社で、王野に……ご、ご強姦、され、て」

『……………………ハ』

「嫌な写真、撮られて、それで、脅されて……それからなんだ、軟禁、されてるの」

『……今どこにいる』

「場所、場所……わか、わかんない。ここ、どこだろう」

『電話繋がるってことは、電波は入ってんだろ。マップ見て今いる場所確認しろ』

「う、うん」


 俺は咄嗟にアプリに入っていたマップを起動した。近くに名称のある公園とコンビニがある。

 俺は逸る気持ちのまま、もう一度スマホを耳に当てた。


 きっと、もうすぐ斜森が助けてくれる。抜け出せるんだ、やっと、こんな生活から。

 

「えっと、近くに公園が……名前が__」






「見つけたぁ」




 数秒後、俺の手から奪われたそれは勢い良く地面に叩きつけられた。ヒビが入って粉々になった画面を、俺は唖然と見つめた。

 そして、この状況を理解した途端、俺は顔を真っ青にしてゆっくりと顔を持ち上げた。




 __本当に、俺の人生は期待なんてしても意味がない。




「お留守番出来なかった?いい子にしててねって言ったよね、俺」

「あ、あ……」

「勝手に出ないでねって、あれ、覚えてなかった?本当に悪い子だなあ、求は」

「なん、な、な、なんで、ここ……」

「俺があげたスマホだよ?場所くらい分かるよ」


 王野は、床に落ちている、もう機械として機能しなくなったそのスマホを持ち上げた。そして、いつしか見た光が全くささない瞳で俺を見つめた。


「よりにもよってさ、……本当に目障りな男だな、あいつ」

「!」

「……やっばり、どこかで潰しておけばよかった」

「……は、」


 この男は、今なんて。


「ねえ求。選んでよ」


 王野は薄っすらと笑み、しゃがみこんでいる俺を引っ張り上げた。乱暴な力加減に、思わず顔を歪めた。

 そして、俺は王野の言葉に、すっかり忘れてしまっていたあの日の事を思い出した。思い出してしまった。


「ここで犯されるのと、家で犯されるの、どっちがいい?」


 何も言えず、固まった。

 王野に掴まれている腕がガクガクと震える。


「何も言わないんなら、帰ろうね。外でやるのなんて野蛮だし……。あ、もしかしてそっちのがよかった?」


 あはははっ!と笑った。いや、笑っていない。笑えていないのだ、目も口も。


 俺はあまりの怖さに震えるばかりで何も言えず、気が付けば王野に連れられ車に乗せられていた。


 車が発進する。

 そして、向かうのだろう。あの牢獄に。





13

 バタン、とゆっくり扉が閉まった。

 俺は玄関先で王野に押し倒され、身動きが取れなかった。呼吸もまともに出来ない。覆い被さる王野を映した視界がぐにゃりと歪む。いや、俺の視界なのか、王野自身が歪んでいるのか、もう分からない。


「……ちょっとはね、信じてたんだよ。逃げられる隙があるけど、今の求なら逃げないかなって。でも違ったね」


 王野は俺の手首を掴む手に力を込めた。指の先が冷たくなる。


「いるかなって、求、ちゃんといい子でお留守番してるかなって。そしたらさ、鍵空いてるし……、部屋、どこにもいないし、テーブルの上のご飯は置いたままだし。俺、悲しかったなぁ」


 身体がピクリとも動かない。歯がカチカチと細かく震えた。


「ああ、どれが不満だった?仕事?ご飯?退屈?欲求不満?なんでも言ってよ。求は控えめだからさ、恥ずかしがらずになんでも教えてほしいな。言って?なんでも」

「あ、う、おれ、おれ、あ、は、ぁ」

「ふふ、なんで上手く喋れないの?息、ちゃんと吸えない?」


 そう言って、王野は俺の震えている唇にぺろりと舌を這わせた。


「ヒッ……」

「優しくしたらいいのかな。でも優しくしてても求は逃げちゃうね。乱暴な方がいい?怖い方がいい?俺はどうすればいいのかな」


 俺は必死に首を横に振った。肺が引き攣り、不規則にしか呼吸が出来ない。


「ははっ!可愛いね、求。ちょっと身体を暴かれただけでこんなんになってさぁ……。どうするの?たったあれだけの事で怖がってたら、この先の事、耐えられるのかな」

「さ、さき、先って」

「分からない?求のここに、」


 王野の右手が手首から離れていき、俺の下腹部に移動した。そして、そこを執拗に撫で、ぐっと圧迫する。


「っ……ぁ……ハ」

「入れるの、俺の」

「……い、いや、いや、いや」


「じゃあ、どうすればいいの?」


 ゆっくりと、着ていたシャツのボタンが外される。震える手で王野の腕を掴んだが、力なんて入るはずもなく、ただ添えるだけになってしまった。俺は力なく首を横に振るしかない。


「身体で繋いでも駄目?不自由なく暮らせても駄目?仕事が楽になっても駄目?なんで?俺が1番求の事考えてるよ。何も不安になる事ないよ。俺が全部、全部面倒見てあげるよ。嫌な事あるんなら俺が消してあげるし、俺が守ってあげる。だから、俺だけでいいよね。俺がいれば絶対だよ。俺はずっと側にいてあげられるし、しんどいなら、俺がいっぱい助けてあげるし、頑張ったねって、慰めてあげられるよ。休みの日だって……あ、そっか。暇すぎても駄目だったかなあ。まだだったね、2人で遊びに行くって約束。どこがいいかな。俺、海好きなんだよね。今度行こっか。求はどこがいい?どこに行きたい?2人で、どこに行きたい?どこでもいいよ、連れて行ってあげる。俺と一緒なら、どこへでも連れて行ってあげるよ。ずっと部屋にいるの、退屈だったかな。じゃあ、これからたくさん、2人で思い出作ろうね。だから、退屈なのも、つまらないのも、全部俺が無くしてあげる。……え?なんでそんな顔するの。ああ、寂しかった?1人でいるの。だから逃げたくなったのかな。大丈夫、俺、求から離れないよ。寂しいならさ、俺がいっぱい、寂しいの埋めてあげる。どうすればいいかな。ぎゅってする?手繋ぐ?もっと触れ合いたい?この先の事、する?求がうんって言えば、すぐ、優しくしてあげるのに。俺、本当になんでもしてあげるよ。俺、求になら全部あげられるよ?全部、言葉も、物も、心も、体も、全部。全部だよ、本当に。求は俺の全部だから、だから、俺も全部、求にあげる。それでも駄目なの?求、ねえ、求、求……」


 頬がひんやりとしたのは、ぽたりと何かが落ちたのは、気のせいだったのだろう。

 王野は泣いてなんかない。その瞳が揺らぐ事はない。顔だって、いつも通りだ。


 でも、


「……どうしたら、俺のものになってくれる?」


 どうして、王野がそんなに苦しそうなの?




 俺が王野を見上げて何も言えずにいると、外気に晒されてしまった俺の上体に王野の手が這った。それは俺の胸郭の左側__心臓のある位置に移動し、カリ、と人差し指でそこを削るように引っ掻いた。


「ぅ、あ……」

「欲しいなあ」


 王野は顔をゆっくりと俺の心臓のあたりまで持っていき、そこに耳を寄せた。すぅ、っと息を吸う音が聞こえる。


「ふふ、早いね。心臓の音」


 そしてまた手のひらをかざし、軽く押さえつけるみたいに心臓を圧迫した。


「いい?」


 何を、とは言わなかった。俺も、王野も。


 俺は恐怖で身体がガタガタと震えた。


「わかっ、わ、分かんない、なんで、なんで、こんな事するの。おれ、王野の事、わか、分か、んない」


 王野は俺を見てふっと笑った。


「分かんなくていいよ、俺の事」


 だから、なんでそんなに苦しそうなの。

 なんで何も教えてくれないの?俺は、王野とこうなりたいんじゃない。分からないから、教えてほしいのに。


『……ちゃんと、求さんの事、分かりたいって思ってるのに』


 困惑する頭の中で思い浮かんだのは、高見くんの言葉だった。


 俺の側にいてくれた彼は、俺を分かろうとして、でも俺はそれに応えられなかった。何も言えない俺の元から、彼は立ち去ってしまった。


 ああ、高見くんもこういう気分だったのだろうか。


 王野の手がゆっくりと下に伸びる。俺は自分を叱責し、震える手で王野の手首を掴んだ。


「分かろうと、しないのに、そ、側に、いられないよ……。俺も、王野も」


 結局俺は、なんで王野がこんな事をするのか、王野が俺に向けている感情は何なのかを知らない。それは俺が王野を分かろうとしなかったからだし、王野も俺に教えてくれなかったから。


 俺達は、お互いを分かろうとしなかった。

 側にいても、本当の意味では寄り添えなかった。


「だから、やめて、王野……。俺、こんな事、したくない。……王野は、俺に何も出来ないし、俺は……王野のものなんかじゃ、ない……!!」


 国が、王野の創り上げた国が、崩壊する音が聞こえる。


 俺は王野を睨む。

 王野は瞳孔を開いて俺を見た。


 その瞬間、先程とは比べ物にならない握力で王野は俺の肩を掴んだ。その衝撃に、俺は持ち上げていた頭を勢い良く床にぶつけた。


 王野の顔色が、表情が変わる。


「なんで……なんで!?どうすればいいの、なあ!?」

「……」

「なんのために……なんのために、俺は……」

「お、おう、の」

「……だめだよ、求。……絶対離さないから」


 そう言うと、王野は俺が身にまとっていた服を無理矢理全部剥がそうとした。俺の必死の抵抗は、王野の前ではなんの役にもたたない。


「いや……いやっ!!やめて、やめて!!助けてっ」

「誰に言ってんの?俺に?……助けなんて、誰も来ないよ」

「っ……」


 じわっと視界が滲む。

 助けてやるって、安心しろって言ってくれたあの声が、ふと脳内に響いた。


 結局、期待しても意味なんてない。社会人になってから、思った通りに転じた事なんて1度たりともなかった。だから、いつからか期待するのも、努力するのも諦めてしまった。


 それでも、俺は、


「助けて……斜森……!!」


 この繋がりだけは、いつまでたっても諦められない。






「よぉ」





14

 キィ、と開いた扉の隙間から、光が射す。薄暗い空間に1つ、光が落ちた。


「随分不用心に開けてるなァ」


 そこにいるはずのない男は、こちらにスマホを向け、パシャリと音を鳴らした。


 それに反応した王野は、顔をそちらに向けた。俺を掴んでいる手が震え出した。


「お、まえ……なんで、ここに」

「俺の人脈なめんなよ。お前の家くらいすぐ割り出せるわ」


 は、と笑ってスマホの画面を王野に見せた。


「この写真、お前の会社に送りつけてもいいんだぜ。抵抗するんなら警察呼ぶ」


 ピタッ、と王野の身体が固まった。


 皮肉にも、王野が俺を脅した時と同じやり方で。


 上体を持ち上げられない俺の視点からは、その光景を、その人物をぼんやりとしか見つめる事が出来ない。

 俺は震える声でその名前を呼んだ。


「ななもり」


「おー、なんだ」


「斜森……斜森」


 堪えていた涙が頬を伝った。

 俺が諦められなかった、唯一の人。


 俺は息を目一杯吸って、声帯を震わせた。


「助けて、斜森!!」


 それを聞くと、斜森は土足のまま廊下に乗り上げてきた。ギギ、と音がしそうな挙動で、斜森の方を向いていた王野の顔がこちらに向き直った。

 全てが抜け落ちたような、そんな顔をしていた。


「求」


 その言葉を最後に、王野の口が開くことは無かった。


 こちらに近付いてきた斜森が、俺に覆い被さっている王野の身体を掴み上げ、そして胸ぐらを掴む。


「お前、やっぱりとんでもねぇ奴だったな」


 何かを知っている口ぶりだった。きっと、2人の間に何かがあったのだろう。


「キレイな顔して汚い事すんなよ。……そんな事してもな」


 斜森の顔に力が入る。王野の表情は、よく見えなかった。


「心は手に入んねえよ」


 斜森は胸ぐらを掴んでいた手を勢いをつけて離した。王野はふらつきながら、その場に佇んだ。


「求、行くぞ」


 斜森は俺の手を握り、引っ張り上げた。そのまま玄関まで連れられる。

 早くここから出たいはずなのに、俺は後ろ髪を引かれるように王野の方を振り向いた。


「王野」


 返事はなかった。


「……もっと、違う形で気持ちを教えてほしかった。そしたら……」


 そしたら。


 いくら考えても、この未来になんの意味もない。

 過ぎた事は、行動も、言葉も、気持ちももう戻らない。


 俺は空いている方の拳をぐっと握った。


「俺、信じてたのに」


 王野は最後まで下を向いていて、どんな表情をしているのかが分からなかった。


 前を向き、扉に手をかける。

 斜森に繋がれた手に力を込めた。


 1歩外に踏み出す。


 夕方の空気が、俺の熱を奪った。





15

 次の日、会社に行くと王野はいなかった。


 休んだのか、辞めたのか、俺には分からなかった。王野はあれからずっと会社に来ていない。


 そして俺は、漸く退職願を提出した。

 既に体調不良で休みがちだった俺はその申し出をすんなりと受け入れられ、消化してなかった有給の事もあり、1週間後にはこの場所から去る事になった。

 引き継ぎ準備を進めていく内、あっという間に退職日になっていた。特になんの貢献もしていない上、仲が良かった先輩や後輩、同期も特にいなかったので、別れの挨拶や餞別もあっさりしたものだった。でも、俺には丁度いいのかもしれない。


 ただ、高見くんだけは最後の最後まで俺との別れを惜しんでくれた。

 定時になり、オフィスを出ようとしたら高見くんに呼び止められた。


「求さん、本当に、明日からいないの」


 俺は黙って頷いた。高見くんは、顔をぐしゃっと歪め、今にも泣き出しそうだった。


「求さん、俺、……俺」


 そう言って、何度も口を開閉させる。前にもおんなじような事があったのを思い出した。あの時は結局、高見くんが何を言いたかったのか聞けずじまいだった。

 俺は先の言葉を待った。


「……やっぱり、なんでもないです……」


 高見くんはそう言って、ポロポロと涙を零した。隠すように、すぐさま袖で涙を拭う。

 そんな高見くんを見て、つられて俺も泣いてしまった。


「あの、ありがとう、高見くん。いっぱい……ありがとう」


 ぐしぐしと目をこすっていると、高見くんの笑い声が聞こえた。


「いーえ。こちらこそ、ありがとうございました。俺、頑張るね。俺が昇進したら、お祝いしてください」

「うん、待ってるね」


 最後に握手を交して、今度こそ俺は本当に、この場所から去って行った。






「よっ、お疲れさん」

「あ、ありがとう。待たせてごめん、先に飲んでて良かったのに」

「アホか、そんな薄情じゃねえよ」


 その日の夜、俺は斜森と居酒屋に来ていた。いつも俺は斜森を待たせてしまう。

 俺が席に着くと、斜森は店員を呼んだ。


「ビールと、……レモンサワー?」

「あ、……うん」

「じゃ、それで」


 店員さんが元気よく返事をして、厨房に戻って行く。俺はにやっと笑った。斜森は俺を見て、訝しげな表情をした。


「……何」

「ううん、別に」


 程なくして、飲み物が運ばれた。ジョッキを手に取り、乾杯をする。


「じゃ、退職おめでとう、7年間よく頑張りましたって事で、乾杯」

「あ、ありがとうございます……乾杯」


 斜森が、ビールをごくごくと飲み干す。それを見て、俺も負けじとサワーをあおる。


 それからは、俺が退職したからといって特別な話をする事もなく、ただいつもみたいに他愛のない話ばかりをした。今日は斜森とたくさん話したい気分だったので、俺はお酒もほどほどに、アルコールの力をあまり借りる事なく会話をした。

 でも、なんでか、いつもよりずっとずっと楽しかった。


「斜森」

「んー?」

「ありがとう、助けてくれて」


 斜森は箸を持っていた手を止め、俺を見た。なんだ、斜森もニヤついてるじゃん。


「いいって事よ。あんな声でけえ求、初めて見れたし」

「いや……恥ずかしいからやめてよ……」


 斜森はひとしきり笑うと、微笑みながらじっと俺を見つめた。俺も手を止め、斜森を見る。妙に緊張して、口を結んだ。


「求」

「は、はい」

「俺の会社の社員になってくれる?」


 斜森にしては、それが目一杯の丁寧な言い方だったのだろう。俺はそれがなんだかおかしくて、ふっと笑った。


「はい、不束者ですが、よろしくお願いします」





16

 二軒目行く?と聞かれ、俺は首を横に振った。代わりに、斜森の家に行きたい、と呟くと、少し間を置いて、分かったと返ってきた。

 タクシーで移動している間、俺達は言葉数も少なくなり、なんとなくそわそわと落ち着かない雰囲気のまま斜森の住むマンションに到着した。

 無言で進む斜森に着いていく。

 斜森の部屋には行ったことがあるが、頻繁ではないので、妙に緊張した。


 斜森が扉を開け、それに続いて中に入った。リビングまで移動すると、斜森は俺の方を振り向いた。目線が交差し、ドキッとする。


「なあに固まってんの」

「いや、あの……はは、緊張して」

「なんで」


 斜森は俺を見て笑った。なんだか落ち着かずに自分の体を触っていると、斜森はソファに座ってぽん、と空いている横のスペースを叩いた。

 俺はそこにおずおずと移動する。


 そして、斜森は横目で俺を見た。


「なにがしたい?俺に、なにしてほしい?」


 ドキドキと心臓が高鳴る。俺がなかなか言えずにまごついていると、斜森は、ん?と首を傾けて意地悪そうに笑った。


「……だ、抱きしめてほしい」


 そう言うと、長い腕が俺の背中に回った。

 ああ、この匂い、この温かさ、斜森だ。

 俺は嬉しくなって、自分の腕も斜森の背中に回した。少し甘くて溶けそうな香りを感じたくて、俺は目一杯息を吸った。

 すると、斜森は対照的に大きく息を吐いて俺の肩に額を乗せた。


「はあ、よかった……」

「え?なにが?」

「んー?いろいろ……。お前が無事なのと、一緒に働いてくれるの」

「……」

「……俺と働けないって言われた瞬間、頭真っ白になったしその後も……お前、2ヶ月も連絡つかないし、家にいないし。ほんと、生きた心地しなかった」

「……うん」

「王野にお前が襲われてんの見て、血登りすぎて正直殴って暴れそうだった。もうちょい遅かったら、俺が捕まってたかもな」


 斜森はハハ、と笑った。


「だから、今お前がいてくれて嬉しいんだよ。__おかえり」

「……!うん、ただいま……」


 張っていた心の糸が、一気に解けた気がした。


 きっと、いくらでも手段はあったはずだ。

 逃げ出す隙だって、どこかに助けを求める隙だって、今思い返すとたくさんあっただろう。俺は思考を放棄して自分を諦めてしまったが故に、結局、自分も王野の事も傷付けてしまった。


 それでも、斜森だけは諦められなかったから、最後の最後までその名前に縋ってしまった。そして、俺を助けてくれた。


 俺を、救ってくれたんだ。 


 俺は心がいっぱいになり、斜森の背中に回した手に力を込めた。

 それに気付いた斜森が、顔を離して俺を見る。斜森は、雰囲気や態度に似合わず優しい笑い方をする。


「……俺にしてほしいの、これだけ?」

「!」

「ずっと、何か言いたそう」

「……おれ、は、これだけで……十分」

「嘘つけよ。じゃあなんでそんな顔してんの」

「っ……」


 これだけで十分と思いながら、斜森にそう言われてしまうと欲が出てきてしまう。その目に見つめられると、クラクラしてどんどん欲深くなる。

 俺は微かに唇を震わせた。


「まえ……前、やってくれた、やつ」

「ん?」

「き、き、き、キス、あの、あ、あれ」

「ああ」


 斜森が優しく笑った。


 2か月たっても、あの感触が忘れられなかった。おでこに触れた淡い熱は、今でもこの心臓を揺さぶっていた。


 斜森の顔が近付く。俺はおでこを差し出すみたいに前に突きつけ、目をキュッと瞑った。


 そして、ちゅ、と音がなる。


「……っえ、……え、え、え?」

「なに」

「え、だって、え、おでこ……じゃないの、え、え?くち、口に……」

「ああ悪い、そんな事言われなかったから」

「__!!」


 俺は顔を真っ赤にさせた。

 キス、してしまった、斜森と。

 その事実に、どうしようもないほどバクバクと心臓が音をたてた。


 斜森は笑っていた。心なしか、斜森の顔も少し赤い。


「嬉しい?」

「あ、う……」


 視線を逸したいのに、逸らせない。俺は斜森にじっと見つめられたまま、ぎこちなく頷いた。斜森は笑みを深める。


「求はさ、俺の事どう思ってんの」

「え……」

「教えてほしい、全部。分かりたいから」


 息が詰まるようだった。


 側にいたいから、分かろうとする。分かろうとするから、側にいて寄り添い合えるんだ。


 気持ちを伝える事に慣れていない俺の口は、何度も何度もかたかたと震え、そしてやっとの思いで言葉が出た。


「かっこいいし、楽しいし、……だ、大好き……」

「ふ、大好きなの」

「う、うん、うん……」

「……それは、どういう意味の?」

「う……」


 意地悪だ!いつも斜森は俺の言葉が少なくても全部を察知してくれるのに。今に限っては、諦め悪くニヤニヤと笑って俺を見ている。


 俺はぷるぷると震え、燃えそうなほど顔を赤くして小さく呟いた。


「わ、分かんない。全部……全部。全部の好き。友達の好きも、憧れの好きも、う、う……ぁ……れん、恋愛の、好きも、全部……」


 ああ、なんだか涙が出そうだ。

 好きを伝えるのって、こんなにも苦しいんだ。


 俺は下を向いて体を縮こまらせた。

 すると、顔を持ち上げられてもう一度唇に熱が落とされた。触れ合うだけの、長いキスだった。

 そしてそれが離れていき斜森は、はァ、と息を吐く。

 俺はまるで心臓を握り締められたみたいに、何も動けずただ斜森を見た。


 斜森は溶けそうに笑った。


「俺も。求の事、全部好き」





17

 次は、どちらともなく唇を合わせた。少し開いた隙間から斜森の舌が入ってくる。期待、しなかった訳ではない。だから、ちょっと口を開けた。それでも全く慣れない感覚に、俺はいっぱいいっぱいになった。


「ん、あ、ぁ……ふ……」


 斜森の肩に置いた手を震わせる。それを合図に、斜森は離れていった。みっともなく呼吸を整える俺を見て、斜森は目を細めて笑った。


「真っ赤」

「み、見ないで……」

「はいはい」


 斜森は笑いながら視線を下に向け、俺の服を脱がしていく。ボタンが外れる度に俺の鼓動は速まった。もしかしたらこの心臓の音は聞こえているかもれない。

 斜森に軽く上体を押し倒され、そのまま斜森の手がゆっくりと俺の身体に触れる。腹から胸元へ、それは焦らすみたいに移動した。期待か興奮か、浅くて早い呼吸が口から漏れた。じっくり観察するみたいに手が動く。それがじれったくて俺は唇を噛み締めた。


「うう……」


 駄目だ。その手の動きを目で追うほど、その先を期待しておかしくなりそうだ。俺は目をきゅっと瞑った。クスクスと笑う声が聞こえる。


「なに」

「も、なんで、そんな……」

「何?どうしてほしいの」


 どこまでも意地悪な斜森に俺はうーっと唸った。


「さわっ、て……」

「触ってんじゃん」

「ちが……そこじゃなくて、ぇ」

「ここ?」

「あうっ!」


 散々焦らされた胸の飾りをきゅっと摘まれ、反射的に大きな声が出てしまった。俺はぱっと口元に手を当てた。


「かーわい……。隠すなよ」


 そのまま手を絡みとられ、無防備になった口にまた斜森がキスをした。お互いの熱と唾液が混ざり合って、溶けてしまいそうだった。

 俺だけが余裕がないみたいで恥ずかしくなり、弱々しく斜森を睨んだ。


「な、斜森も……服、ぬ、脱いで」


 くしゃっと笑って、斜森は着ていたTシャツを脱いだ。程よく鍛えられていて、うっすらと腹筋が浮かび上がっている。あ、駄目だ、と思い、俺はまた目を瞑った。見ているだけで気持ちが昂って神経が疼く気がしたからだ。

 そして、斜森は体を伏せて顔を俺の胸に寄せた。開いた口から舌が見える。ゆっくりと胸の飾りに近付いた。呼吸が荒くなる。


「あ、あ、まって……アッ、ふ、う、うぅぅ」


 ぺろりと何度もゆっくりとねぶられ、時折歯で噛まれ、片方は指で嬲られて、声なんて我慢できなかった。自分でもおかしいと思った。こんなところ、気持ちいいはずがないのに。


「気持ちいい?」


 俺はカクカクと頷いた。


「自分で触ってた?」

「は、あ、あ、う……さわって、な、……」

「なんでこんなに感じてんの」

「わか、んな……い、あ、ンンッ、斜森がさわるとこ、全部、きもちくて……は、ぅ……」

「……あーーー、そういう事言うんだ……」


 斜森は片方の手を徐々に下に移動させ、ゆっくりと下腹部を撫で、そしてベルトを通り、俺の中心を軽く押した。


「んアッ!」

「すげー。こんだけで、もうこんなんになってる」

「ハ、ハ、ハァ、あっ、うう……」

「求もちゃんと男なんだなぁ」


 そのままスラックスの上から撫でられ、押され、掴まれ、不完全な快感に無意識のうちに腰が動いた。こら、と斜森が俺の腰を押さえつける。でも手は止まってくれなかった。俺は顔を真っ赤にして首を横に振った。


「も、も、う、ぅぅ、あっ、ふぅ、触ってよぉ……」

「だから、触ってんじゃん」

「ううううっ、ちがう、ンッ、脱がせて、ちょくせつ、アッ、ちゃ、ちゃんと、触ってよ、ばかぁ」

「ハハハッ、ごめん」


 やっと斜森の手が止まり、俺のベルトを抜き取った。スラックスのボタンが外され、ジッパーが下りる。そして、ゆっくりと、ゆっくりと下着ごとスラックスが斜森の手に下ろされていった。痛いくらい心臓が鳴る。俺の中心は、既にドロドロと濡れていた。


「求、やらしいなァ」

「あ、あ……」

「こんなんでさ、直接触られたら……どうなんの?」

「ぅ……は、ァ……」


 斜森が人差し指をそれに近付けた。触るか、触らないかの、ギリギリの所に。俺は恥ずかしさや期待や興奮で身体が熱くなり、いろいろ耐えようとして必死だった。

 あまりにも焦らされすぎて、もう泣いてしまおうかと思った時、それはいきなり俺の中心をツーっと直接撫でた。


「アアっ!?」


 それだけなのに。


「……え」

「ぅア……」


 俺と斜森は目をパチクリと見開いた。白い液体が、自分のお腹にパタッとかかった。

 数秒の無言の後、斜森がくつくつと笑った。


「は、はや……フフ……」

「うううう……!!バカ、バカ!!もう、斜森がっ……斜森のせいっ……」

「ごめんごめん、俺のせいだな」


 恥ずかしすぎて、俺は斜森を足でげしげしと叩いた。


「俺、いっつも、こんなんじゃないからっ」

「はいはい、ごめんって」


 斜森は俺をあやすように笑って頭を撫でた。そのまま、ちゅっと、髪の毛に口付ける。


「可愛いな、求」

「っ……」


 そう言って、どこからか取り出したローションを手に垂らし、混ぜ合わせてその指を俺の後孔に添えた。


「あ……」

「入れてもいい?」


 俺はぎゅっと口元に力を入れて頷いた。

 斜森はもう一度俺の頭を撫で、指をゆっくりと奥に進めた。

 細くて、でも男らしい綺麗な指が俺の内臓を少しずつ解す。多分、まだ気持ち良くはないのだろう。でも俺はこの光景にどうしようもないほど興奮し、変な気持ちになった。1度射精したからといって、かなり不完全燃焼なまま終わってしまった俺のものは、また上向きに兆していた。


「痛くない?」


 こくりと頷いた。斜森は、意地悪だけどとことん俺に優しい。完全に脱力してされるがままになっていると、斜森にぐっと押されたある部分に違和感を覚えた。


「ゥ、あ……?」

「ここ?」

「あ、ン……そこ、な、なに……」

「前立腺、気持ちいい?」

「わか、わかんない……」

「まぁ初めてだしな。これから気持ちいいの覚えていこうな」


 ここが気持ち良くなれるところなのだろう。そう思うと、なんとなく下腹部の内側がむずむずとしてくる気がした。

 ぐぽぐぽと音がなるその穴はだんだんと緩んでいき、斜森の言葉で3本も指が入っている事が分かった。随分長らく解されている気がする。どれだけの時間がたったのだろうか、執拗にその部分を柔らかくする斜森に痺れを切らせてしまいそうだった。時々俺の中心に触れては達する直前に手を離され、胸の飾りを舐められ、噛まれ、恨みがましく口を開けば斜森の舌が入ってきて、本当に狂ってしまいそうだった。

 そして気が付けば俺は恥も外聞も泣く涙を流しながら斜森に強請っていた。


「は、ァ、アアっ!もうっもう!!んぅっン!アッ!いいからぁっ、もういいっ、いれて、いれてほし、い、あンッ、や、やぁ」

「ええ、どうしようかな」

「ヒッ、うあ、アッ!あ!うう、いれてよ、いれてよぉ、なんで、ハ、ハ、ァ、あうっ!もう、おねがい、おねがいします」

「ははは、可愛すぎるな」


 斜森はやっと手を止め、自分のベルトを抜き取り、履いていたもの全てを下げ、兆していた中心に、慣れた手つきでゴムを被せた。俺はどぎまぎとしながらそれを見た。あの大きいものがこれから俺の中に入るんだと思うと、身体が熱くなった。


「余裕ぶってたけど、俺も限界……」


 その熱が、ぴとっと俺の後孔にあてがわれた。は、は、と獣みたいに息を吐く。十分に解れたそこを、ゆっくりと熱が通過する。滑りがいいせいで、ぐぷ、という艶めかしい音が耳に入ってきた。


「あ、は、あ、あ、はいっ……たァ……」

「ハァ……やば……」


 ぽたりと汗が腹部に落ちた。斜森の汗だ。顔を見ると、何かに耐えるように眉に皺を寄せている。斜森の綺麗な目が、ギラギラと光った。それだけで、俺はもう達してしまいそうだった。


「動いて、斜森……」


 俺が呟くと、斜森は俺の腰をがしっと掴み、今までの焦らしっぷりなんてまるでなかったみたいに激しく熱を打ち付けられた。


「アッ!?アッ、アッ、アゥっ、う、ああっ!!」

「は、ァ、ごめん、っ、優しくできない」

「い、いいっ、よ、はぁ、あっ、あっ、うれ、嬉しッ……」

「__!!クソ、ああ、もう!」


 最初に違和感を感じたその部分を擦られるたび、そして引き抜かれるたび、俺は快感に身体を震わせた。それだけでも堪らなく気持ちいいのに、普段見ないような斜森の余裕の無い顔を見て、また更に快感を拾った。

 だんだんとスピードが早くなり、お互いの呼吸が乱れ、交差する。斜森は身体を倒し、俺に抱きついてきた。重いけど、その重さすら嬉しい。心臓がぎゅうっと締め付けられ、俺も斜森を抱き返した。


「な、ななもり、ィ、も、は、あっ、い、いく、イク……」

「ふ、は……ん、俺もっ……」


 お互い限界が近いのが分かると、斜森は口をかぱりと開けて俺の口に噛み付いた。舌と舌が混ざり合って、熱い呼吸が乱れ合って、口の端からたらりと唾液が垂れた。気持良すぎて、どうにかなりそうだった。


「ンンンゥ〜〜〜ッ!!ハぁっ!!あ、あ、ああ!!いく、いく、いぐぅ、イッ………………!」

「う、ハ、ぁ……」

「……は、ハァ、ハァ、あ、あ……」


 俺が達した衝撃で中を締め付けてしまい、それと同時に斜森も達したらしい。俺は余韻でビクビクと身体を震わせ、もう一度斜森に抱きついた。気持ち良くて、幸せで、涙が出そうだ。


「斜森、好き、大好き……」

「そんな事言うなよ……またやりたくなる」

「い、いいよ、もっかい……」

「……求がこんなに小悪魔だったとは……」


 未だに中に入っていた斜森のものが少し大きくなった。俺はそれを感じて、思わず笑ってしまった。


「俺、今凄く幸せ……死んじゃいそう」

「馬鹿、満足してんなよ」


 斜森は目を細め、ニヤリと笑った。


「もっと幸せにしてやるから」





18

「はぁ、出荷、間に合った……!」

「あー……焦った……こんなに注文くるなんてな……」

「絶対人手増やした方がいいよ……。結局入荷したやつ殆ど捌けてないし」

「やっぱそうだよな、考えとくわ」


 斜森の会社が立ち上げられて1ヶ月、売上は順調どころか忙しくて人員の少なさに困っていた。アパレル系の、ネットショップの運営。入荷も出荷もサイトの運営も全て自分達でやっているので、入荷や出荷が多い時は仕事が追いつかない程だった。


 斜森はバイトの子数名にお疲れ、と言って飲み物を差し入れした。みんな、目を輝かせて斜森を見ている。分かる、そういう所がかっこいいんだよな。

 定時になったので斜森はバイトの子達を帰らせ、残った俺と斜森はパソコンに向かって事務作業をしていた。


「……おっ、なあ求、こっち来て」

「ん?」


 斜森に手招かれ、そのパソコンの画面を見た。そこにはショップのレビュー一覧が写っていた。斜森は、その1番上を指差した。


「よかったな」


 俺は何事かと、そのレビューを読んだ。


『以前電話対応していただいた方が非常に丁寧で親切でした。おかげで欲しかった希望日に無事に商品を受け取る事が出来ました。ありがとうございます。これからも利用させていただきます。』


「これ……」

「絶対求だろ、これ」


 確かに、お客さんの電話対応は基本的に俺一人でやっている。なのできっとこの人の電話は俺が取ったのだろう。


 こんなに目に見える形で褒められた事なんて殆どなかったので、俺は思わず頬を緩め、だらしなく笑う。


「ど、どうしよう、褒められちゃった……」


 そんな俺を見て、斜森は力強く俺を抱きしめた。


「!?ちょっと……!」

「あー、可愛すぎ、無理」

「ここ、会社だから……!」

「誰もいねえしいいだろ別に」


 斜森はふん、と自慢気に笑った。


「求がいてくれてよかったよ、本当に」

「……!」

「ありがとう、これからもよろしくな」


 初めて認められたような気がした。俺の居場所はここなんだと、ひしひしと感じる。


 嬉しくて嬉しくて、俺はとびっきり笑った。




「うん、ずっと一緒だよ!」





高見√↓

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