サクリファイス・マイ・メシア

1

 どく、と心臓が鳴った。


 一度朧気に呼吸をするも、俺の脳と心は正常に戻る事は無かった。

 このドアを開けてしまえば、また生きながら死んでいるような1日が始まってしまう。かと言って、このまま引き返してしまう程の勇気なんて持ち合わせていなかった。

 ドアノブの手前で手を止めてしまった俺の背後から、朝にぴったりの清々しい声が聞こえた。


「おはよ、[[rb:求 > もとむ]]。入んないの?」


 俺の同期である、[[rb:王野 > おうの]]が笑顔を向けてきた。


「お、おはよう。入るよ」


 俺の言葉を確認すると王野はドアノブに手を掛け、おはようございます、と言ってその空間に入って行った。入り口で立ち止まった彼が振り返り、俺に視線で訴える。入らないの?と。

 すうっと静かにもう一呼吸し、俺は何度呪ったか分からないこの場所へと一歩足を踏み入れた。


 俺はうだつの上がらない、仕事が嫌で嫌で堪らない普通の社会人だ。





2

「求、この前提出した報告書、数字おかしかったぞ」

「あ……」

「1個ずつズレてるし、日付も違う。こんな初歩的なミスいい加減気をつけろよ」

「あ、はい、すみません……」


 情けなく、ヘラっと笑いながら課長に頭を下げた。こうやってヘラヘラ笑ってその場を凌ぐことが癖になってしまった。課長は呆れたように直しとけ、と一言言い、その場から離れていった。書類を見返したが、自分でも失笑してしまうようなミスだった。いい加減気をつけろと言った課長の言葉が心に突き刺さる。29にもなってなにをしているんだろう、俺は。


 自分のデスクに戻ると、向かいの席でのやり取りが視界に入ってきた。課長と、後輩である高見くんが会話をしていた。


「高見!よくあの契約取ってきたな!」

「あはは、あざす!いやー、担当の奥田さん、怖くてめっちゃ緊張しましたけどね」

「そんな中でよくやったな。今月の成績かなりいいとこまでいくんじゃないか?」

「そうなんすよ!今月調子いいんです。トップ目指しちゃいますね!」


 そう言って高見くんは笑って、課長も嬉しそうにしていた。課長は俺の前であんなに喜んでくれたことなんか一度もない。高見くんは意気揚々とホワイトボードに貼ってある営業成績グラフを塗りに行った。高見くんのグラフはもう俺のグラフとは比べ物にならないくらい縦に伸びていて、見るのすら嫌になってしまった。

 自分の不甲斐なさを実感し、手元にあるミスした書類に視線を落としていたら高見くんが俺の側まで来ていて、慌てて書類を高見くんに見えないように隠した。

 そんな俺を見て、高見くんはにやりと笑う。


「またしょーもないミスしたんすか、求さん」

「や……」


 隠した書類を高見くんに取り上げられ、それを一瞥された。そして嘲笑する。


「こーゆー報告書、新卒の頃よくやらされましたよね。誰でもできるから」

「……!」


 高見くんはわざわざそれだけを言いに来て、向かいにある自分のデスクに戻って行った。

 よくあの一瞬であそこまでの皮肉を思いつける。高見くんに怒りの感情を抱いたのは一瞬で、でもそう言われても仕方ない、と何度思ったか分からない諦めの言葉を心の中で呟いた。


 高見くんはまだ若くて、入社3年目くらいだ。それなのに彼は新卒の頃からいろんな所から契約をもぎ取ってきて、今ではすっかりこの会社の柱となっている。

 対して俺は入社してからずっと鳴かず飛ばず、寧ろこうやって上司の足を引っ張ることもざらにあるような、会社のお荷物だ。高見くんをはじめとする後輩に舐められるのも、もう慣れたものだった。


 俺が虚ろな目でパソコンに向かい、ミスしたデータを修正していると違う係のエリアにいた王野が俺の元までやってきた。


「求、大丈夫?」

「ああ、うん。凡ミスしただけ。ごめん」

「なんで謝んの。課長、今日ちょっと機嫌悪そうだったから、言われたことあんま気にすんなよ」

「うん……」


 そんなことはない。そんなことを言ってしまったら、課長はいつだって俺に対してだけ不機嫌だ。それでも、わざわざ違う係の王野が俺を気にかけてくれたことをありがたく感じたので、情けなく笑った。


「ありがとう、王野」

「……困ったことがあったらなんでも言ってよ。仕事、手に負えなかったら手伝うし」

「そんなことさせらんないよ。お前は主任なんだし」

「主任の前に、求の同期なんだから」


 そう笑って、王野は去って行った。戻るやいなや自分の係の後輩に話しかけられた王野はすぐに仕事モードに戻っていた。

 俺はそんな王野を遠くからぼんやりと眺めていた。


 同期である王野は、最初こそは同じスタートラインから踏み出したというのに、今ではすっかり主任という立場で会社を支えている。昔は自分と王野を比較して劣等感を抱いたりもしたが、もうそんな感情すらない。王野は変わらず俺のことを大事な同期として扱ってくれるが、俺はもう昔のように軽々しく王野に話かけれられない。

 王野はかっこよくて話も上手で仕事も出来るので、上司後輩関係なく人気者だ。それに、俺より立場が上だから、変に馴れ合っていると王野のことを狙っている周りの人間から刺すような視線を向けられる。俺はそれが何よりも嫌だった。


 そんなことを考えてぼーっとしてしまい、バックスペースキーを上手く押せていなかった。パソコンの画面には意味のない文字が並ぶ。この歳になってもキーボードすらまともに打てない。


(早く辞めたいな……)


 そう、何度願ったか分からない。いつまでも眠気が取れない眼は、ゆっくりと画面に映し出された文字列を追った。





3

「あ、あの、課長、少しお時間いいですか」

「ん、なんだ?」


 昼休憩の時間になり、俺は課長のデスクに向かった。何も後ろめたい話ではないけれど、緊張する。


「前言った、部署異動の話って……」

「……ああ」


 俺は今営業部にいて、新卒からずっと営業をやっている。入社後半年はどんな社員でも営業を経験しなければいけない。半年後、上の人達がそれぞれに見合った部署に社員を配属させる。

 俺は入社してすぐに自分には営業は合わないと悟り、部署異動できる半年後をずっと心待ちにしていたが、結局俺が上司に言い渡された部署は変わらず営業部だった。絶望でしかなかった。最初のうちは上司に掛け合ってみたが、人数の関係でどうにもならなかった。俺より各部署に向いている同期なんていくらでもいたのだろう。

 営業部に残った同期は王野だったりその他の営業向きな人だったりしたので、その中でなんの能力も高くない俺はみんなに付いていくのに必死で、うまくいかず何度涙を流したか分からない。


 新卒の研修期間も終わり、本格的に始まった、営業といういつまでたっても慣れない仕事に忙殺されるうち、もうこんな歳になってしまった。

 最近今年の新卒も入ってきて、その子達に自分の情けない姿を見せてしまう度に心の中で決意したことがあった。部署異動願いを出そう、と。


 別に新卒の頃の配属以降、部署異動が出来ない訳ではない。タイミングと評価さえクリアすれば異動ができるという噂を聞いた。俺は所長に前々から広報部に部署異動したいとお願いしていた。

 俺はもう、営業なんかやりたくないと思っていた。


 しかし、課長は顔をしかめて俺を見た。


「……お前の成績じゃ、まだ無理だと広報部長が言ってたぞ」

「え……」

「求、お前もう中堅も中堅だろ。いつまでもヘラヘラしてないで、もっと自分と向き合え。営業なんて気の持ちようでだいぶ成績変わるんだから、シャキッとしろ。俺だってお前にインセンティブちゃんと付けさせたいんだよ」

「……は、い、すみません……」

「……異動したいお前の気持ちは覚えておくから、もっと頑張れ」

「はい……」


 ちょっとでも希望を抱いた俺が馬鹿だった。営業成績が良くないと異動できないなんて、分かっているはずなのに。少しの望みにかけて逃げることを考えてしまっていた。でもやっぱり、当分は叶わないみたいだ。

 営業で評価されないと部署異動できないのに、もう営業をしたくない。悪循環を断ち切ることが出来なかった。


 俺はまたこの終わりの見えない地獄を歩き続けなければいけないようだ。





4

 定時もとっくに過ぎてしまった21時、俺は未だオフィスに残って終わらない仕事を片付けていた。通常業務に加え、ミスしたデータの修正と最近辞めてしまった人の引き継ぎデータの整理が全く終わらなかった。

 みなし残業代は予め給料に入っているから、残業なんてしない方が絶対にいい。容量良く仕事をやって、定時でしっかり帰る人の方が多い。でも俺は容量が悪い上に修正がめんどくさいミスばかり重ねるから、残業なんて当たり前だった。夜遅くに寝るためだけに帰って、また起きて仕事に行く。その繰り返しの日々だった。

 しんと静まり返った空間で、俺は思わず一人呟いた。


「はぁ、もう嫌だ……。しんどい、嫌だ……」


 何をやっても評価されず、後輩には馬鹿にされ、上司にも顔向け出来ない。なんのために俺はここにいるのだろうと考えると、とっくに乾いているはずの目の奥がじわっと潤んだ気がした。

 そして、背後から声が聞こえた。


「しんどいの?」

「っ!!」


 もうオフィスには誰もいないと思っていたのに、そこには王野がいた。俺はびっくりしすぎて、声も出さず体をびくつかせた。


「え、王野?なんで?」

「タイムカード切るの忘れて、戻ってきた」

「あ、ああ……」

「……手伝うよ、まだ終わってないんでしょ」


 ソレ、と言って王野は机に乱雑に広げた資料を指差した。俺はそんな王野を見て、ぶんぶんと首を横に振った。


「いっ、いい!いいよ、俺のミスだし、夜遅いし、タイムカード切った人にこんなの手伝わせられないよ」

「残念、俺まだタイムカード切ってないから」


 べ、と舌を出し、タイムカード代わりになる社員証を俺に見せてきた。俺が二度目の断りを入れる前に、王野は引き継ぎ資料を手に取り、それをペラペラと捲った。

 

「うわ、何これ、順番バラバラだし納期も分かんなくて最悪じゃん」

「はは……。中野さん、退職日までに纏めるのが終わらなかったらしいよ」

「なんでこういうのばっか求に任せるかな。求の方が先輩なんだし、同じ係のもっと若い人……高見とかに頼めばいいのに」

「中野さんが辞めた時、高見くんおっきな案件抱えてて忙しそうだったからね。ほら、今日の朝契約出来たって言ってた会社」

「……それでも、この量を一人でやるのは大変だろ」


 王野は資料を机の上でトントンと整理し、その手を伸ばし、俺の目元を人差し指で優しくなぞった。あまりに自然な動作だったので何も反応が出来なかった。


「隈、できてる」

「ね、寝付き、悪くて」

「……心配なの。俺のためだと思って、手伝わせて」


 そんなことを言われたら、断れるはずもない。若くして主任という肩書を得た王野は、やはり評価されるべき人間だった。


「ごめん、ありがとう……」

「謝んないでよ。やりたくてやってるだけだから」


 王野はにこっと笑って、自分のデスクへと向かって行った。あまりのスマートさに、俺は暫く感動していた。





5

「はい、お疲れ様」

「えっ、あっ、ごめん!ありがとう!」


 全ての仕事が終わったのは、もう23時を回っていた。帰る支度をしていたら、王野はいつの間にか自販機で買って来た飲み物を俺に渡してくれた。王野はそんな俺を見てふっと笑う。


「ごめん、って言うの、癖?」

「あ、う……。分かんない。そんなに言ってる?」

「うん。気付かないの?」

「う、うん。ごめん、分かんない……あっ」

「ね、ほら」


 俺は恥ずかしくなって、俯いてしまった。多分、入社当時はこんな口癖無かったのに。


「求はなんにも悪い事してないよ。……求、優しいからなあ」

「……俺、優しくなんかないよ。気が弱いだけで……。取引先の人にも、顔色伺ってばっかで全然うまくいかないし」

「……」


 俺自身、自分の営業成績が伸びない理由はよく分かっている。相手の顔を伺い過ぎて、最後のひと押しが出来ない。相手が嫌な顔をしたら、自分の采配ですぐに引き下がってしまう。会社がおすすめしているものなのに、まるで悪いものを押し付けているような気がしてきて、心が痛くなってしまうのだ。だから、俺はいつまでたっても伸びない。


「……俺も、もっと自分に自信持てたら良かったらかな……」


 そしたら、もしかしたら、うまくいっていたかもしれない。ちょっとでも成功体験を掴んだら、少しは仕事を楽しいと思えていたかもしれない。そんなたらればばかりを繰り返してしまう。でも、数年間培ってしまったこの負の感情はどうにもできなかった。


 疲れで憔悴しきっていた俺は、二人きりの空間ということもあって王野に弱音を吐いてしまった。

 俺の話を真剣に聞いていた王野は、労るように俺の頭をそっと撫でた。


「!」

「課長に、求を俺の係に入れてもらうように掛け合ってみるよ。求、俺と仕事した方が絶対伸びると思うし」

「え、でも、駄目だよそんなの、王野の係なんて、入りたい人もっといるよ。俺みたいなやつ、勿体無いよ……」

「なんで?俺が求を入れてほしいって言ってるんだよ?」


 王野はそう言って、頭を撫でていた手を俺の首に回した。いつになく光の射さない瞳は、有無を言わさないようで鳥肌が立ってしまった。


「……それでも、無理だよ、俺、何年間もずっとダメダメだったもん。今更変わんないよ」

「……」

「でも、ありがとう。王野がこうやって気にかけてくれるから、ちょっとは頑張れるかも」


 首に回っていた手の力が抜けたのを感じ、俺は急いで身支度をした。なんとなく気まずくなり、俺は足早にその場を去ろうとした。


「王野も帰ろ。あ、仕事、手伝ってくれてありがとう。飲み物まで貰って、ほんと頭上がんないよ。またお礼させて……」

「俺、本気だから」

「えっ?」


 腕を掴まれ、王野の方を振り返った。

 思いの他王野は近くにいて、文字通り、俺の目と鼻の先に王野の端正な顔があった。視界いっぱいに、先程の光の宿らない瞳が写る。俺は指の先すらも動かすことが出来なかった。


「お、王野……?」

「絶対俺の元につかせてあげるから」


 数秒間、目と目を合わせ、瞬きも許されなかった。暫くすると王野も満足したようで、一転しにこっと笑って、出口に向かって行った。


 王野は、「王野の係に入ると訳も分からない内に成績が伸びている」という噂が立っていたのをふと思い出した。





6

 労働はクソだが、働く上で一番好きな曜日がある。それは、勿論金曜日だ。しかも今日にいたっては特別な用事があるため、いつも以上に気分も高揚していた。

 そして、無理やり仕事を切り上げて定時で帰ろうと急いでデスク周りを整理していたら、近くを通りかかった高見くんに声を掛けられた。


「求さん、もう仕事終わったんすか?珍し」

「あ、いや……う、うん」


 定時で終わるのが珍しいと堂々と言うなんて、どう考えても挑発しているようにしか思えないが、事実なので何も言い返せない。それに俺は、後輩の中でも特に高見くんが苦手だった。理由は、俺を見下したような態度が怖いし嫌なのに、こうやって何故か絡んでくるから。


 すると、高見くんは俺のデスクの上に乗っていた紙を指差した。


「社内チャット、見てないんですか?これの提出まだの人早く出せって名指しで言われてたよ、求さん」

「え、えっ、嘘」


 慌ててその用紙を見ると、見事に全ての枠が空白だった。俺は顔を青くさせ、急いで椅子に座り直した。


「あははっ!求さん、本当にドジっすね」

「う、うるさい。仕事終わったんなら、高見くんもう帰ったら」

「はいはーい。それもとっくに提出して残業も無い俺はさっさと帰りまーす」


 最後の最後まで俺を馬鹿にした態度だった高見くんは、帰る直前にもう一度俺に嫌味をお見舞いしてきた。


「せっかく久々に定時で上がれたかもしれないのにね。残念っすね」


 お疲れ様でーすと周りの人に挨拶をして、今度こそ高見くんは帰って行った。俺はもう高見くんに対してイライラするという感情も持ち合わせていなかった。だって、高見くんの方がうんと成績がいいし、みんなから愛されている。俺が勝っている所なんて入社歴くらいだろう。だから、文句なんて言えるはずもなかった。


 ため息をついた俺は直ぐにスマホを取り出し、遅刻確定の謝罪文を相手に送った。





7

 金曜夜の繁華街は、いつも以上の賑わいを見せていた。俺は人混みの中を走り抜け、待ち合わせしていた居酒屋を目指した。中に入ると既に彼は席に着いていて、よっと手を上げて招いてくれた。


「[[rb:斜森 > ななもり]]、ごめん!遅くなっちゃった……」

「いーや、全然。おつかれさん」


 俺が座ると、気配り上手な斜森は何飲む?とメニュー表を渡してくれた。


「あ、ビール無理だっけ?」

「うん……ビールとか日本酒とか苦いのが無理なだけで……レモンサワーにしようかな」

「あー。昔歓迎会かなんかで飲まされてすげえ顔してたもんな」


 彼はかつて俺達同期と一緒に働いていた斜森という男だ。1年くらいで早々に会社を辞めたが、その後も彼とはちょくちょく会っている。6年来の付き合いだ。


「あは……歳とったらビール美味しく感じるって言うけど、アラサーになっても駄目だったよ」

「昔からスイーツとか子どもみてえなメシばっか好んで食ってたしな、お前」

「うん……俺、変わってなくて恥ずかしいね」

「別にいいんじゃない、求はそのままでも」


 少し待つとジョッキが運ばれ、軽く乾杯をした。斜森はビールを美味しそうに飲んでいる。見る分にはいいなと思うのに、あの苦くて酒臭い味はいつまでたっても慣れることは出来なかった。

 ゴトン、とジョッキを置いた斜森が俺の事を見た。


「仕事多かったのか?」

「あ、いや……頑張って切り上げたんだけど、ほら、社内アンケート、提出今日までなの忘れてて……帰る間際に気付いて、それで遅れちゃった、ごめんね」

「ああ、あったなそんなん。大量にファックスで本社に送んの、超ダルかったな」

「うん。でも今日送ったの俺の紙1枚ぶんだったから、まだ楽だったよ」

「は!?まだ紙使ってやってんの?あんなのフォーム作っちゃえばデータで送信できて楽なのに。あんくらいなら誰でも作れんだろ」

「変なとこ時代錯誤だよね……。斜森は昔から効率重視だったから、信じられないかもね」


 斜森は俺や王野と共に営業部に残り、申し分ない成績を残して新卒を迎え入れる前にスパッと辞めていった。俺はそれが悲しくてしょうがなかった。だって斜森は、俺にとっての心の拠り所だったから。ぱっと見俺と斜森のタイプは全く違うが、斜森はよく俺の面倒を見て相談にもたくさん乗ってくれた。


「お前も俺と一緒に辞めれば良かったんだよ。辞めちまえばどうとでもなるし」

「……でも、一気に同じタイミングで辞めるのなんて、申し訳なかったし、まともな成績も残せないまま辞めるのも、どう言われるか分かんないし……」

「……はあ、本当にお前はいい子ちゃんだよなあ」

「そう、かな」

「あ、褒めてねえからな。その周りばっか気にすんの辞めろって言ってんの」


 斜森は2杯目のビールを飲み干し、店員さんを呼んだ。ラフな格好がビールにも、彼にもよく似合っていた。スーツをしっかり着ている俺とは真逆だ。斜森の男にしては長く伸ばされたカールがかった髪が、顔を動かす度にふわふわと揺れる。

 お門違いだけど、見た目や仕事のやり方に囚われないこの男を正直いいな、と思ったりもする。


「……そうだよね。だから俺、この歳になっても全然成績よくならないんだ。インセンティブなんてついたの数える程だよ……。殆ど凡給だから周りのみんなみたいに高い買い物もできないし」

「あの会社、年功序列とかでもないしな。いつまでたっても凡給のままじゃ辛いだろ。もし家庭持ってたら尚更しんどかったな。……あれ、求、彼女いたっけ?」

「いや、そんなの……。新卒の頃にとっくに別れて以来だよ」

「あー……。可哀想にな、あんな会社に囚われたままな上、彼女の一人も出来ないなんて」

「はは……」


 俺はただヘラヘラと笑うしかなかった。こういう話はなかなかしないから、上手な切り返し方が分からない。でも普段あまり飲まないアルコールのせいか、俺はいつもより口が回った。


「斜森は、彼女いないの?」

「いねえよ。今はそれどころじゃねえしな」

「ああ、起業するもんね。順調?」

「まあな。今頑張って人員確保してるとこ」

「そうなんだ。斜森だったら顔広いし、直ぐみんな集まりそうだね」

「そうでもねーよ。この歳になって不安定なベンチャーに転職してくれる人、あんまいないんだよ」

「そっかあ……」

「だから、彼女なんて作ってる暇ねえの」


 斜森は俺と一緒に仕事していた時、よく彼女が出来ては別れ、またすぐ彼女が出来て、を繰り返していた。いろいろな事に縛られない男なので、来る者拒まず、去る者追わずの精神で誰でも受け入れていた。だから、そんな斜森が彼女も作らず仕事に一途なのがなんだか新鮮だった。


「でもさ、仕事が軌道に乗ったらすぐ彼女できるだろうね」

「なんで?」

「だってさぁ……、斜森ただでさえかっこいいのに、会社の社長になっちゃったら……めっちゃ、かっこいいじゃん……」

「!」

「斜森が社長になって彼女作ったら、俺、斜森と会えなくなるかな……」


 たった3杯のチューハイでほろ酔いになってしまった俺は、今はもう遠くの存在になってしまった斜森を羨望のような、哀愁のような眼差しで見つめた。キリッと整った顔が俺を見る。


「……求、酔ってる?」

「俺なんかさ……本当に駄目なやつで……。昨日だって、俺の仕事、遅くまで王野に手伝って貰って……碌なお礼も出来なかったし」

「王野って……ああ、あいつか」


 斜森がげっと顔をしかめた。なんせ、新卒の頃から王野と斜森は相性が悪く、よく対立していた。あの二人が競い合っていた時期は会社の売上が凄く良くなったくらいだ。

 普段の俺なら斜森の前で王野の話題は出さないが、酔いのおかげで気が緩み、つい王野の話をしてしまった。


「王野ね、凄いんだよ。もうとっくの前に主任になって、多分もうすぐ係長になるかもね」

「ふーん。それは嬉しいことで」

「……俺はさ、ずっとヒラで、営業全然駄目で、後輩にも舐められて、部署異動もさせてもらえなくて、くすぶったままだから……。王野、優しいからキューサイソチを、俺に」

「救済措置?」

「うん。俺を、王野の係に入れてくれるように上に掛け合うって。王野の係の子、みんな成績よくなってるし」

「……フーン」

「おれ、もう29だよ?こんな歳だけとったお荷物、もうすぐで係長クラスのやつが面倒見てくれるのかなあ?でも多分だめだよ、だっておれ、営業きらいだもん……」

「……」

「……もう、はたらきたくないなあ……」

「……求?」

「ううー、もういやだよお。ばくはつしないかな、かいしゃ……」


 疲れたせいもあって、すっかり酔ってしまった俺はダラダラと愚痴を溢しながら斜森に抱えられて店を出た。





8

 その日は出社して直後に課長から呼び出され、また何かやらかしたのかと怯えながら課長に着いていった。

 不安を滲ませる俺を見て、課長は苦笑いした。

 

「ああ、別に怒るような事じゃない。新しくアプローチをかける織本社あるだろ、あれのプロジェクトチームに入ってもらおうと思って」

「えっ……!?俺、俺がですか」

「そうだ。求、部署異動したいんだろ。いい結果残せば、近道になるから。とりあえず下調べと資料作成、任せるから。頑張れよ」

「は、はい!ありがとうございます!!」


 俺は信じられない気持ちでいっぱいだった。織本社、大手企業だ。うまく行けば大きな利益につながる。こんな事って、今までにない。課長は厳しいが、俺みたいな末端社員を今まで見切らずにずっと雇ってくれた人だから、とても情に厚いいい人なんだと思う。

 すると、課長は遠くから高見くんを呼んでこっちに手招きした。高見くんはなんすか?と軽い口調で課長に話しかけた。


「織本社のチーム、高見にも入ってもらうから」

「お、マジっすか。ありがとうございます!」

「だから求と高見、若いもん同士で仲良くな」

「え」

「あ、……えっと、よろしく……」

「……マジ?」


 言うだけ言って、課長は去って行った。

 高見くんがぽかんした顔で俺を見た。だいたいこの先の言葉は予想できる。


「……裏金使ったんすか?」

「そっ……そんなこと、するわけないよ……」

「……なんで求さん?王野主任なら分かるけど……」

「課長が、俺を気遣ってくれたんだよ、多分」

「ええーっ。俺への気遣いはゼロじゃん」


 一応先輩である俺への気遣いもゼロだった。多分これが俺以外の先輩なら確実に殴られている。でも俺はヘラっと笑うしかなかった。そんな俺を見て、高見くんは酷く嫌そうな顔をした。


「……足ひっぱんないでくださいね」


 そう言うと、高見くんは自分の席に戻って行った。これではどちらが先輩か分からない。でも俺は本当にその通りだ、と一人で頷いて早速業務に取り掛かった。





9

 今回のプロジェクトは、通常業務と並行しながらだったので、容量の悪い俺はいっぱいいっぱいだった。俺だけでなく、チームの他の人__高見くんなんかも夜遅くまで残って作業しているようだった。

 主な資料作成は俺だけど、先方にプレゼンするのは若くて明るくて感じのいい高見くんに決まった。なので、俺は高見くんと会話することも多くなった。

 そんな高見くんが俺の元までやってきて、パソコンの画面を指差す。


「求さん、このデータ古いやつっすよ。共有フォルダの方に新しいやつ入ってます」

「あれ……そうなんだ。ありがとう、高見くん」

「……」


 単純なミスに、癖になってしまったヘラヘラとした笑いが溢れてしまった。高見くんはまた嫌そうな顔をした。彼はもしかしたら俺がヘラヘラ笑うのが気に食わないのかも、と思って慌てて笑うのを辞めた。


「もー、いつまでぼやぼやしてんすか。……はあ、いいや、分かんなかったらいちいち俺に聞いて」

「……や、い、いいよ。高見くん忙しいだろうし、俺が、気をつければいいだけだし……」

「だから、そんなんだからミスすんの!」


 俺は高見くんに気圧され、固まってしまった。ごもっともすぎて、何も言い返せなかった。


「……別に俺こんなんで断るほど狭量で容量悪くも無いし。本番になってミスするよりマシでしょ」

「あ、う、うん。そう、だね……。ごめん、ありがとう……」


 後輩に確認してもらう俺の、なんと情けないことか。でも、高見くんに対して完全にプライドを捨てきった俺は、彼の正しい発言に対して首を縦に振るしかなかった。


 高見くんは俺を呆れたような目で見て、去って行った。きっといろんな人に確認したり相談しに行ったりするのだろう。彼は自分で考えて動ける、優秀な人材だ。


 俺も、もっと頑張らないと。これがうまくいけば、部署異動出来るチャンスになるかもしれないのだから。





10

(……ああ、もう定時か。今日中に終わるかな)


 定時を過ぎ、社員がまばらに帰り始めた。俺はスケジュールを立てた通りに仕事が進まず、今日も残業をする事になってしまった。

 自分で決めた期限だから、必ず守らなければいけないという事はないけれど、これを諦めてしまったら取り返しがつかない気がする。だから、今日中に仕事を終わらせようと必死だった。

 そんな所に、帰り際の王野が俺の側を通りがかった。


「求、頑張ってるね」

「っあ、王野、お疲れ」

「うん。お疲れ様。はい、これ」

「え、わ、ありがとう」


 王野はエナジードリンクを1本渡してくれた。俺はそれで前に仕事を手伝って貰った時、同じように飲み物をくれた事を思い出した。


「あの、前のお礼も出来てないのに、悪いよ、どうしよう」

「いいって。気にしないで」

「ううん、前は仕事も手伝って貰ったのに……。何かお礼させて」

「んー……」


 王野は口元に手を当ててじっくり考え出した。そして、あっと閃いたように呟いた。


「あの、高いものは買えないので……」

「はは、そういうのはいいよ。今度一緒に出掛けない?二人で」

「え……二人で出掛ける?」

「うん。俺達、プライベートで二人で遊んだことなかったよね」

「そうだね……」


 新卒の頃、何回か王野から遊びに誘われたことはあったかもしれないが、昔の俺は王野に対して劣等感を抱きまくってて、素直に誘いに乗ることはなかった。というか、斜森以外の同期や先輩とプライベートで会うことがなかった。斜森は特別だった。だから、人を避けまくって生活していたら、いつの間にかこんな歳になって誰からも誘われなくなってしまった。


「俺と遊ぶの、嫌じゃない?」

「い、嫌じゃないよ。でも……そんなんでいいの?」

「そんなんじゃないよ。俺、ずっと求と遊びたかった」

「そうなの?なんで、変だね」

「変?なんでって、……うーん」


 王野は俺を見た。若くして役職を持った彼は俺なんかよりたくさんのことを経験したのだろう。新卒の頃よりずっと大人びてかっこよくなっている。

 通りのいい声が俺の鼓膜を揺らす。


「大事な同期だし」


 王野はふっと笑って、俺の肩をポンと叩いて帰って行った。





11

 王野から貰ったエナジードリンクを飲み干した俺は、高見くんに資料を確認してもらっていた。

 あの日から、俺はちょくちょく高見くんに仕事を見てもらっている。高見くんに話しかけるのは最初は怖かったけれど、今ではもう慣れてしまった。

 高見くんは俺から受け取った資料を見て、いいんじゃないっすか、と言った。俺はそれを聞いて安心し、自分のデスクに戻ろうとしたら高見くんに引き止められた。


「求さん、資料のデザインうまいっすよね」

「え……そうかな」

「うん。文章も丁寧だし、分かりやすい」


 いつも下に見た態度を取られるので、初めて褒められた俺はびっくりして固まってしまった。何も返事をしない俺を高見くんは不安そうに見つめた。


「え……なんか変なこと言いました?」

「や……えっと、初めて言われたから、そんなこと。びっくりして」

「驚くハードル低すぎ!」


 高見くんは快活に笑った。確かにそうだ。俺は恥ずかしくなって目を伏せた。


「でも、営業って結局会話が大事だから……。あんまり役に立たないよ。俺、こんなんだし」


 そんな俺の言葉を聞いて、高見くんは大きなため息をついた。訳が分からない、というような顔をして。


「なんでそんな卑屈なんすか。なんにも出来ないより全然いいでしょ。別に自信持っていいと思うけど」


 高見くんは半ばキレ気味にそう言った。高見くんのこと、傲慢で自分より仕事が出来ない人間を下に見る怖い後輩だとずっと思っていたけれど、よく関われば案外そうでもないのかもしれない。苦手だと思って避けるという嫌な態度を取っていたのは、俺の方だった。


「……ありがとう、高見くん。高見くん優しいね」

「!」

「高見くんと一緒に仕事出来てよかった」

「別に……」


 彼はぶっきらぼうに呟き、そのまま自分のデスクに戻って行った。


 早くこの仕事を終わらせなければいけない。織本社へのプレゼンはもうすぐだ。





12

 __また、失敗してしまった。


 俺はパソコンの画面の前で呆然と立ち尽くしていた。


 チームの先輩に「あの資料の印刷まだだよね、印刷しておいて」と言われて、パソコンでそのデータを開いて冷や汗が止まらなかった。

 最終更新のデータがうまく保存されていなかったみたいで、前に作ったかなり古いデータしか残っていなかった。プレゼンは今日の午後にあるというのに、それまでにはとても一人で修正の出来ないような問題だった。

 心臓がバクバクと音を立て、呼吸が荒くなった。


 どうしよう、どうしよう。


 俺が顔色を変えて固まっていると、異変に気付いた高見くんが俺に声をかけた。


「求さん、どうしたんすか。腹痛い?緊張?」

「……高見くん、どうしよう、俺、どうしよう」

「は……?」


 俺は今まで散々頼りきりにしていた高見くんに縋った。何があったかを聞いた高見くんはパソコンの画面を見てうわー……と呟き、チーフの元に報告しに行った。すると周りのメンバーがバタバタと動き出し、それぞれにデータ解析やダウンロードをし始めた。

 パソコン前で立ちすくんでいる俺の背中を、高見くんが強く叩いた。


「なにやってんすか!ほら、早く座って。求さんはこの部分やって。ある程度のデザインなら覚えてるでしょ?他の所は先輩たちやってくれるから」

「あ、う、うん」

「……反省とか後でしましょ。今はとにかく間に合わさないと」

「うん……」


 俺は高見くんの言葉に泣きそうになりながら、座って作業を進めた。


 高見くんや周りの先輩たちにありがとうやすみませんの一言すら言えなかった俺は、ただ無我夢中になって資料を作った。


 __なんで、俺っていっつもこうなんだろう。


 噛み締めた唇は、一向に緩むことはなかった。





13

 結局時間までになんとか資料を作り直せた。バタバタと準備をして、高見くんとその他数名の先輩たちが会社を出ていく。俺はプレゼンの場にはいられないので、ただ会社で通常業務をしながら結果をハラハラと待つしかなかった。

 プレゼンしに行ったみんなのことを考えては、自分がみんなに大きな迷惑をかけてしまったことを思い出し、仕事に全く集中出来なかった。


 そうして心を忙しなくして待っていると、定時前くらいになってプレゼンしに行ったメンバーが帰ってきた。みんなは課長の元へ報告しに行く。俺はそわそわとしながら聞き耳を立てた。


「お疲れ様です、戻りましたー」

「お疲れさん!どうだった?」


 高見はいつもの生意気そうな笑顔を見せた。


「手応えバッチリっす!超反応よかったっすよ!」


 そう言ってブイサインを作った。その後、これからの予定や段取りを話し始めたので俺はやっと肩の力を抜くことが出来た。でも、俺にはやらなければいけないことがある。


 話し合いが終わったみんなの元に行き、俺は深く頭を下げた。


「す、すみません、でした。俺のせいで、みなさんに迷惑をかけて……」


 会社に残ったチームメンバーには、既に一人ずつ謝っている。みんな一様に許してくれたが、特にチーフや高見くんには迷惑をかけてしまった。

 もしもこれで取引がうまくいかなかったら、と考えると俺はどうなっていたか分からない。


「顔上げて、求」


 チーフにそう言われて恐る恐る顔を上げた。怒鳴られるのを覚悟していたが、意外にも穏やかな表情をしていた。


「確かにあれは焦ったし、次からは本当に気をつけてほしいけど、まあでも前日までにちゃんと資料揃えてるか確認しなかった俺のミスでもあるから。それに、結局はこうやって上手くいったんだし」

「え……」

「あんま気にすんな。俺も悪かったな」

「……」

「だからもう今日は早く帰って休め。連日夜遅かっただろ」

「……はい、すみません……。ありがとうございます……」


 チーフはまだ雑務が残っているのか、掛かってきた電話にでてこの場を去って行った。

 俺は自分でも感情がうまく整理出来ず、俯いたまま動けなかった。


 __怒られなかった。


 俺は、それが何よりも心にきてしまった。

 そりゃあ、こんな何年もここに勤務している中堅の資料をいちいち確認なんてしないだろう。確実に自分の責任なのに、ほとんど咎められなかった。俺自身、俺が悪いことは分かっている。だから、いっそのこと叱ってほしかった。

 あんなに、優しくされるなんて。


 俺は悔しくて、とうとう涙を零してしまった。


「え、ちょ……求さん」


 小さく嗚咽を上げる俺に異変を感じたのか、前に立っていた高見くんがうろたえだした。


 後輩の前で泣くなんてみっともない。かっこ悪い。でも、この涙を止めることが出来なかった。


 するといきなり足元がふらついたかと思えば、高見くんが俺の手を引っ張って外へ連れ出した。辿り着いた場所は休憩スペースで、定時を過ぎた今は人が誰もいなかった。

 高見くんが俺を無理やりソファに座らせた。


「もー、なに泣いてんすか。終わったからもういいでしょ」

「……」


 無事に終わったらいいや、と思えるほど俺は楽観的でも前向きでもなかった。俺は数年間かけて、ここまで卑屈に育ってしまったのだから。

 なかなか泣きやまない俺に痺れを切らせたのか、高見くんが横に座った。

 俺はすっかり心を許してしまった高見くんに、ぽつりぽつりと自分の不甲斐なさを話す。


「俺、ほんとに駄目なやつだ……。みんなを巻き込んで迷惑かけて、あんな初歩的なミスなのに。この歳になっても全然成長しない。なんで俺、いっつもこうなんだろ……」


 言葉にすると更に自分が惨めに思えて、またボロボロと涙を流してしまった。


 そんな俺を見て高見くんはあーもう!と頭を掻き、袖で目元を強く擦る俺の手の動きを止めた。


「俺が泣かせたみたいでしょ!求さんのヘラヘラ笑う顔、マジですっげーイライラするから嫌いだったけど、今の顔のがもっと嫌い!」


 そう言って高見くんはスーツのポケットからハンカチを取り出して、俺に差し出した。


「ん、これ使って。擦ると目赤くなる」


 あまり想像出来なかったが、律儀にも高見くんはハンカチをちゃんと持ってくるタイプだった。俺はおずおずとハンカチを受け取る。どうやら未使用のようで、綺麗にたたまれていた。


「あり、ありがとう……」

「……」


 さっきの高見くんの言葉を思い出し、高見くんはやっぱり俺がヘラヘラ笑うのが嫌できつく当たっていたんだな、と実感した。

 涙をハンカチで拭っていると、ふわっと清潔な匂いが漂ってきて、少し気分が落ち着いた。

 嗚咽が収まった俺を見て、高見くんが話し始めた。


「資料見やすくていいって、あっちの社長言ってましたよ」

「え……」

「ね、だから言ったじゃん。自信持っていいって」

「高見くん……」


 高見くんはそう言って励ましてくれて、生意気そうに笑った。

 高見くんの優しに触れて、また泣いてしまいそうだった。


「……高見くん、凄いね」

「そうっすか?」

「うん。……正直、君がこれだけ売れてるの、生まれ持った才能かなって思ってたんだ」

「まあそれは俺もそう思うけど」

「ははは……。でも、それだけじゃないね。最初から最後まで、ずっと俺のこと気にかけてくれてた。高見くんがいなかったら、俺とっくに音を上げてたよ」

「……」

「周りの人をちゃんと支える力があるね。気配りも出来るし、細かいとこまでちゃんと見てるし。今まで、いっぱいいろんな努力をしてきたんだなって思うよ。高見くんがいろんな人から評価されるの、分かる気がする」


 一緒に仕事をして、はじめて高見くんの良いところをたくさん知ることができた。俺はこんなふうになれなかったから、何度羨ましいなと思ったか分からない。


 高見くんは俺をじっと見つめた。驚いているような、むず痒そうな、形容しがたい表情をしていた。


「……そんなの、初めて言われた」

「……そうなの?」


 こういう会話、前にもしたなと思いつつ、今では見事に立場が逆転している。少し不思議だった。

 高見くんは前を向いて、過去を思い出していた。


「俺、入った時からずっとこんなんだったから。ただ必死に仕事してたらいろんなとこの契約が取れてたってだけなのに、禄に努力もしてない同期からはやっかみを受けてさ」

「そうだったんだ……」

「ほら俺、顔、こんなに良いし」


 高見くんは自分の顔を指差して笑った。つられて俺も笑う。

 彼の言う通り、高見くんは王野と引けを取らないくらい顔が整っている。


「だから、顔で売れてんだろとか言われたり。給料たくさん貰えた月は、たいして仲良くもない同期にたかられたりして、ほんとはすっげー嫌だった。だから、そいつらがなんも言ってこないくらい実力つけてやろうって思って。頑張って、やっとここまで来た。でもやっぱり、みんな俺を褒めてくれる時は『才能があるね』とかばっかでさ、……そんなんで片付けられんのは癪だった。才能じゃ足りないくらい、俺は努力したのに」

「……」


 いつも明るくて上司に対しても臆することがない、調子のいい彼からは想像もつかなかった。まさか、そんなことを思っていたなんて。


「……だから、ちゃんと俺のこと評価してくれたの、求さんが初めてかも」


 高見くんははにかんだ。嫌な思いを何度もしても、屈することなく前に進み続けた彼は凄い。俺は、無理だったから。この違いが、俺や周りの人との溝を作ってしまう。


「ちょっと救われた気持ちになりました。ありがとうございます」

「いや、俺は……」

「……求さんのこと、ちょっと尊敬しました。俺、もっと頑張ります。もっと頑張って、トップになりたい」


 高見くんは、ただただ真っ直ぐな子だった。


 __だからこそ、俺はちゃんと彼が見れない。


「……うん。高見くんは凄いよ。……でも、俺は……」

「……?」

「……やっぱり、俺、もう駄目かもね」

「……は?」

「ううん、何でもない」


 気持ちを整理出来た俺は、ソファから立ち上がって高見くんを見た。


「ハンカチありがとうね。ちゃんと洗って明日返すから」

「いや、それは別にいつでもいいんすけど……」


 高見くんも立ち上がった。俺が歩き出すと彼も一緒に歩き、二人でオフィスに帰って行った。





14

 異変は、明らかだった。

 翌日、出社して扉のドアノブに手をかけようとした時だった。


(え……?)


 手がぶるぶると震えて、ドアノブを掴むのがやっとだった。掴んだはいいものの、全く開けることが出来ない。

 一度離れて深呼吸をしてみるも、今度は動悸が止まらなかった。

 ああ、もう本格的にこの中に入りたくないんだな、と悟ってしまった。


 震える手と格闘していたら、王野がやって来た。通勤時刻が大体王野と被るのを失念していた。王野は俺に挨拶をする前に形相を変えて俺の手元を見た。

 こんな姿、王野に見られたくなかった。


「求、頼むから暫く休もう」

「で、でも……」

「そんなんで仕事する気?体壊したいの?」


 王野が俺の震えた手を掴む。俺は涙目になりながら、力なくふるっと首を横に振った。


「俺も一緒に課長と事務に言ってあげるから。それに求、有給全然使ってないだろ。たくさん休んで」

「うん……」


 俺は王野に支えられて中に入った。

 課長は俺のことを心配してゆっくり休めと言ってくれた。有給はたくさん残っていたので、様子見で1週間休みを貰うことになった。だから、1週間分の仕事量を誰かにお願いしなくてはならない。

 王野は俺がやる、と言ってくれたが、役職持ちで係も違うのにそこまで任せられない。

 なので、俺は高見くんに頼むことにした。


「高見くん、あの……申し訳ないんだけど、これ、ちょっとだけ手伝ってくれないかな、出来るとこまででいいし」

「……別にいいっすけど」


 高見くんは俺を見て驚いていた。こんなに堂々と自分の仕事を誰かに頼んだのは初めてだった。

 高見くんはいつものように生意気に笑う。


「なに、仕事遅くて遂に俺に頼むようになったんすか?まあいいけど」


 そう言って、俺の手からファイルを受け取った。一度も拒否をしないのが、彼らしい。


「はは……そうだね。ごめん、俺今日から1週間くらい休むことになっちゃったから。だから、本当に無理のない範囲でいいよ」

「……え?」

「……あっ、えっと、埋め合わせはちゃんとするから。な、何がいいかな。高見くんの仕事手伝う……じゃ、頼りないよね。ご飯くらいならおごれるけど……」

「いや、そうじゃなくて……え、なんで休むの、そんな長いこと」

「……えっと」


 俺は未だに震える手を背中に隠した。


 やっぱり、高見くんの顔をまともに見れなかった。俺は高見くんに嘘をついてしまった。


「ちょっと、野暮用で」

「ふーん……。ほんとに1週間?」


 妙に何かを勘ぐった高見くんがそう聞いてきた。


「……多分。分かんないけど、うん、多分1週間」

「……」


 無言で、俺を訝しげにじろじろと見た。動悸は止まることなく、彼の前で隠すのに精一杯だった。

 高見くんは俺が渡したファイルをぎゅっと握りしめる。


「……早く帰ってきてよ」


 そう言って、高見くんは自分の席に戻って行った。


 背中に隠していた、震える手で握った高見くんのハンカチは、結局返すことが出来なかった。





15

 会社を出て、家に着いた頃には手の震えは止まっていた。

 きっと、適応障害なんだろう。前からそんな予感はしていたが、とうとう仕事に支障をきたすレベルになってしまった。


 どうしよう。医者に見てもらって、診断出してもらったら、労災は降りるんだろうか。でも、今までたいした成績も残さず給料を得ていた人間が、こんな事で労働せずにお金をもらってしまっていいのだろうか。かといって、1週間後にまた会社に行かなければならないと思うと手が震え出した。


(ああそういえば、今日は斜森とご飯に行く約束があったんだった……)


 体調不良という名目で休んでしまった以上、この予定は断らなければいけないだろう。

 俺は斜森に断りのメッセージを送った。すると斜森からすぐに電話が掛かってきた。


『大丈夫か?風邪?熱?』

「ううん、違うくて……。あの、ちょっと、多分……メンタルの問題」

『は、……嫌なことあった?誰かにいじめられたか』

「ううん。嫌なことがあったとか、何かされたとかは全然ないんだけど……」


 そうなのだ。周りに問題がなく、自分に非があるからこそ、俺は自分を責め続けるしかない。


「はぁ……。大きな取引の前に、ちょっとミスしたんだ。それで周りに迷惑かけちゃって」

『それに責任を感じてんのか』

「……責任は感じてるけど……。それ自体は、もういいんだ。でも、……その後、あの場所でちゃんと活躍出来る人と、そうじゃない人の違いをまざまざと見せつけられて、改めていろいろ考えちゃって」


 俺はあの時の、高見くんやチーフや他の人たち行動を思い出していた。

 高見くんの考え方や仕事への姿勢は、俺とは全く違うものだった。羨ましいと思った。でも、羨ましいと思っただけで、あんなふうになれる訳がないと思ってしまった。そうなりたい、とは思えなかった。


「俺、もう分かってんだ。これ以上この仕事を続けてても、もう心が嫌がってるから、どれだけ頑張ってもなんにもならない。そういう気持ちなのに、ちゃんと頑張ってる人の中に混じって仕事するの、なんていうか……」


 唇が微かに震えた。

 自分の中の汚い感情を曝け出すようで、苦しかった。

 斜森は何も言わずに聞いていた。


「……もう、うんざりなんだ」


 ふっと肩から力が抜けたのが分かった。こんな怠惰で醜い自分、誰にも話したことがなかった。言葉にして初めて、自分の本当の姿に気付いてしまった。

 斜森は、こんな俺をなんと思うのだろうか。


『……今家にいるんだな?』

「え?……あ、うん」

『待っとけ。外出んなよ』

「え」


 斜森のその言葉を最後に、通話は切れてしまった。





16

「よっす。はい、これ」

「え、え」

「酒とつまみとケーキ」

「け、ケーキ……?」

「長いこと休むんだろ?パーティーしようぜ。ピザとか頼んでさ」

「ええ……」


 斜森は俺の部屋に入るなり、手に持った大量の袋をドサドサと机の上に置いた。

 彼は、本当に俺の電話の内容を聞いていたのだろうか。


「だ、駄目だよこんなの……。休ませてもらってる分際で、そんなこと出来ないよ」

「あーーーはいはい。そういうのいいからさ。俺が勝手に押しかけたってことにしとけ」


 斜森は我が物顔でソファに腰掛け、缶ビールのプルタブを開けた。カシュッと子気味のいい音が響き、斜森がそれをぐびぐびと飲んだ。俺はじっとその様子を見た。

 俺の視線を感じてか、斜森が手を止めて俺に飲みかけの缶ビールを差し出した。


「……飲む?」

「……」


 俺は斜森が飲んでいた缶ビールを受け取り、思い切って勢いよく飲んでみた。


「んっ、ん……うええっ!!ゴホッ、ゴホッ」

「はははっ!まだ早かったかなぁ?」

「……まずっ、まずいっ」

「甘いやつ買ってきたから、こっちにしとけ」

「……や、これ飲む」


 なんとなく、この一缶を飲み干してみたいと思った。斜森はくしゃっと笑った。


「大人になろうぜ!」

「うう、大人ってこんな苦いの」

「そーだよ。大人はにげえよ」


 慣れないビールをちびちびと飲んでいると、早いこと酔いが回ってしまい、平日の昼間からこんな事をしているという罪悪感は完全になくなってしまった。俺は頬を緩める。


「たのしいねぇ」

「なにが?」

「んー、ふふ」


 俺は手にした缶ビールを机の上に置いて、横に座っている斜森に寄りかかるように脱力した。


「仕事のことわすれて、斜森と飲むの」

「はは、俺も」

「斜森も、たのし?」

「うん」

「あは……。あーあ、……斜森がいてくれたらなあ」


 何度も、何年も思い続けた。斜森が会社を辞めてから、ずっと。


 斜森は俺がミスをしたり先輩に怒られる度に、よくご飯に誘ってくれた。かなりパーソナルスペースが広い俺は他の人の誘いには断り続けていたけど、何故か斜森の誘いだけにはすんなり乗ってしまった。斜森には、俺みたいな自己肯定力の低い人がどうしようもなく惹かれてしまう何かがある。俺が泣いたり弱音を吐くたび、全部受け止めてくれていたのは斜森だった。だから、入社して1年目の頃はしんどいながら、まだ頑張れていたと思う。

 一気に自分が不安定になったのは、やっぱり斜森が辞めてからだった。身近に支えてくれる存在がいなくなって、俺は頑張り方が分からなくなってしまった。


「斜森がいなくてさみしい。斜森がいないと、だめだ、おれ……」

「……」

「なんで、なんで辞めたの、会社……」


 斜森の着ているTシャツをぎゅっと握りしめた。まるで何かに縋るように。

 斜森は飲む手を止めて、俺の頭をそっと撫でた。


「全部、嫌だったから」

「……」

「みんなとおんなじ格好すんのも、上司にも他の会社にも頭下げんのも、超嫌いな同期と毎朝顔合わせんのも」

「!」


 __それは、王野のことだろうか。


 俺は他の同期から、あの二人仲悪いよね、と聞かされたから二人の関係を知っていた。けれど、実のところよく知らなかった。もっと言えば、王野のことを。

 何故か王野は入社して1年目の頃……斜森がいた頃、殆ど俺と絡みがなかった。何度かご飯に誘われたけど、俺が断るくらいの関係だった。二人の間に、何かあったのだろうか。


 斜森は俺の顔をじっと見つめ、そして顔を傾け、俺のおでこと斜森のおでこをくっつけた。微かに甘いムスクの香りが鼻腔を刺激した。俺が大好きな、斜森の匂い。

 斜森は小さく口を開く。


「__求が、毎日しんどそうにすんのも」

「へ……」


 はっきりとした輪郭の目が、俺を捉えた。慈愛に満ちた瞳は、迷子のような顔の俺を写していた。斜森がゆっくりと顔を離す。


「……求を残して辞めんの、本当は辛かった。他の先輩の会社で働きながら勉強させてもらってる時もさ、求のことばっか考えてた。求ちゃんとメシ食えてんのかなとか、泣いてねえかなとか。やっぱ辞めなきゃよかったかなとすら思った。お前が心配すぎて」


 斜森が辞めてから、ご飯を誘うのは決まって斜森の方からだった。いつもタイミングを図ったかのようにメンタルが駄目になる手前で話を聞いてくれた。


「でも、多分さ、いろいろ我慢して言ってくれたんだよな。俺が求に会社辞めるって言ったときの、あの言葉」

「え、お、覚えてんの」

「勿論」


 斜森から、会社を辞めようと思うと告げられた時。同時に、将来会社を立ち上げたいと夢を語ってくれた。俺は斜森が離れるのが嫌で嫌で堪らなかったが、それ以上に大事な人の夢を応援したくなった。


『斜森なら、絶対大丈夫だから。絶対良い経営者になれるから。なんかあったら、俺のお金全部出すから、だから頑張れ!』


「ってさ、まだ全然稼げてない奴が何言ってんだって笑った」

「いや……もう、忘れてよ……」

「忘れねえよ。笑ったけどさ、俺、あの言葉にすげー救われた」

「……!」

「悩むたびに、求の言葉思い出してた。だから、全部求のおかげ」


 俺は赤くなった顔で斜森を見つめた。この赤さは酔いなのか、それとも感情からくるものなかのか、分からなかった。

 斜森が眦を下げて微笑む。俺は、この表情に何度も救われてきた。あの時と変わらない、安心する顔。


「なあ、会社辞めろよ」

「え……」

「俺のとこ、くればいいじゃん」

「……でも、俺、役立たずだよ。なにも成長できないまま、ここまできたのに。足引っ張ることしか出来ない」

「今更だろ。俺にとったらそんなの全く関係ねえよ」

「な、なんで……」


 斜森はまた俺の髪を撫で付け、そして前髪をすくった。斜森の顔が近付き、俺のおでこに柔らかくて温かい感触が広がった。それは、ちゅ、と音を立ててすぐ離れていく。


「っ……え、え?」

「……俺がさ、なんのために会社作ったか知ってる?」

「……」


 俺は小さく首を横に振った。


 ムスクの甘い香りが漂っている。

 斜森は、その顔を蕩けさせた。




「求を救うため」





17

 何回も書いては直して、思い詰めるたびに破って捨てた。ちゃんと決心したのは、それを書き終わってからだった。


 俺は退職願を鞄にしまって、家を出た。

 あの日から1週間が経った。


 久方ぶりに会社の扉の前に立ったが、やっぱり手の震えは止まらなかった。それでも自分を奮い立たせ、扉を開けて一歩中に踏み出した。


 挨拶をすると、周りにいた社員がちらほらと声を掛けてくれた。体調大丈夫、元気そうでよかった、と言われるたびに心が痛んだ。


 自分の席に近付くと、既に出社していた高見くんが勢いよく俺の元に駆けつけてくれた。


「求さんっ!!」

「あ、高見くん。おはよっ……うわっ!」

「……ハァー、何を悠長に……。おはようじゃないっすよ!こっちはめっちゃ心配したのに!!」


 来るやいなや、俺の肩をガシっと掴んで、がくがくと揺さぶった。昔との態度の変貌ぶりに、俺は少し笑ってしまった。


「ご、ごめんね」

「体調悪かったの?なんで、いつから?もう大丈夫?俺に嘘ついて休んだの?」

「え、えっと」

「……ねえ、頼むからさ、」


 怒涛の質問攻めに、俺は笑うのをやめた。だって、高見くんが悲痛そうな顔をしていたから。

 俯いた高見くんが弱々しく呟く。


「俺のこと、もっと頼っていいから、……もう勝手にいなくなんないで……」

「……」


 __ずるい。彼は、いつだって俺を惑わせる。


 そんなことを言われたら、俺の決心が揺らいでしまう。


「……うん。ごめんなさい……」


 ごめんなさいって、何に対してだろう。

 高見くんに心配を掛けたことか、裏切ってしまうことか。

 俺はまた高見くんに嘘をつかなければいけない。


「……仕事、1週間もありがとう。あ、ハンカチも返すね。いっぱいお世話になったから、お礼ちゃんとしないとね。俺が出来ることならなんでもするよ」

「え、ほんとっすか?」


 高見くんはハンカチを受け取ると、ぱっと顔をあげ、目を見開いた。変わりようの早さに安心する。


「俺が出来ることならね……」

「じゃあ、ランチ。食堂のランチ、去年から毎週木曜はハンバーグ定食なの知ってる?」

「え、そうなんだ。知らなかった」

「俺、あれめっちゃ好きなんすよ。毎週木曜、一緒に食べに行きましょ」

「あ……」


 毎週……。きっとその願いはすぐに叶えられなくなってしまう。それでも俺は頷くしかなかった。


「……うん。分かった」


 高見くんは満足そうに笑って、仕事に戻って行った。


 いつの間にか俺の手の震えは収まっていた。


 退職願、こんな中で提出出来る気がしない。今日の終わりに提出しようと後回しにしてしまった。


「求、久しぶり。もう大丈夫なの?」

「あ、王野……」


 出社した王野が、自分の席に着く前に俺の元へやって来た。

 多分、王野がいなかったら心身共に駄目になっていたと思う。王野の存在は大きい。


「うん、大丈夫……。あの、ありがとう。俺を休ませてくれて」

「ほんとだよ。そんなんになる前にちゃんと俺に相談して」

「でも……そんな、迷惑かけらんないよ。王野は主任だし、忙しいし」


 俺がそう言うと、王野が俺にデコピンをした。


「いたっ!!」

「迷惑なんて思うわけないでしょ。求は大事な同期なんだから」

「……」

「分かった?」

「は、はい」


 王野は困ったように微笑んで、俺のおでこを撫でてから課長のところに向かって行った。


 王野はいつも、俺のことを大事な同期として扱ってくれる。俺達の同期は異動や離職などで、営業部に残っているのは俺と王野しかいない。だから、俺を大切に思ってくれる気持ちは分かるけれど、正直俺が王野に与えられている影響なんてないと思う。

 だから、きっと俺が辞めても何も変わらない。大丈夫、辞めることが決まったら受け入れてくれるはず。


 俺は退職願をまだ出せていないのに、こっそりと引き継ぎの準備をし始めた。





18

「お先失礼しまーす」

「お疲れ様でーす」


 定時になって、ちらほらと社員が帰っていく。いつも定時ぴったりにタイムカードを切る高見くんは、珍しくまだ作業を続けていた。


「高見くん、残業?」

「はい……。休んでる後輩の分っす」

「そうなんだ。大変だね」


 休んでいた俺の仕事もしてくれて、次は後輩にも手をかけて、高見くんは素晴らしい社員だ。


「求さんも残業?病み上がりなんだから無理しちゃ駄目だよ」

「あ……うん。ありがとう」


 俺は必死で笑顔を取り繕った。

 俺がここに残っている理由は一つ。退職願を出すためだ。外に出て行った課長は19時頃にならないと帰社しないらしい。今日というタイミングを逃したらずるずると提出を遅らせてしまいそうと懸念した俺は、課長の帰りを待っていた。それに、流石に19時くらいならオフィスには誰も残らないから話しやすいだろうと思ったのだ。


 なるべく目線が合わないように喋っていた俺を胡乱げに見た高見くんは、作業を止めた。


「……求さん、なんかあんの?」

「……え」

「ねえ、また隠し事してない?」

「し、してないよ」

「……ほんと?」

「うん、うん」


 こめかみから、汗がたらりと流れた。ここで正直に言ったら確実に引き止められる。すっかり心を許してしまった高見くんに引き止められれば、俺はまた悩んでしまうに違いない。だから、ちゃんと退職が決まるまで隠し通さなければいけない。


「それならいいんすけど。あ、明日木曜だから!ランチ、覚えててくださいね」

「うん、分かった」


 ちょうど仕事が片付いたようで、高見くんは荷物をまとめ始めた。


「じゃ、お疲れ様です。……あ、求さん」

「な、なに?」


 帰り際に引き止められて、俺はぎこちなく高見くんの方を見た。高見くんは眉を下げている。


「……俺のこと、嫌いじゃない?」

「え?」

「俺、前まで求さんに酷い態度とってたから。求さんが休んだの、俺が嫌になったからとかだったら、どうしようって思って」

「え、そんなこと、ないよ」

「……ごめんなさい」


 彼は、正面から俺の肩に力なくおでこを預けた。まるでこの先の俺の行動を分かっているかのようだ。これだけ絆されると、苦しくなってしまう。心が痛くなって、俺も俯いた。


「そんなこと思ってないよ。大丈夫」

「……」


 暫く高見くんはそのまま立ちすくんでいた。俺はどうすることもできず、軽く彼の背中を撫でてあやすので精一杯だった。


「……明日、絶対ですから。ちゃんと来て」

「うん……」


 そう言って、高見くんは帰って行った。

 何がそこまで彼の心を開かせたのか分からない。


 でも、俺が斜森に救われていたように、もしも高見くんも俺に救われたんだとしたら。


 俺はもう、どうすればいいのか分からない。





19

 誰もいなくなったオフィスで、俺は退職願を鞄から取り出した。きっと、もうすぐ課長が帰ってくる。

 退職願を封から取り出し、読み直してみた。


 大丈夫、きっと、ここで辞めるのが最適解だ。


 扉が開く音が聞こえた。俺は呼吸を整え、喋る言葉を頭の中で整理した。

 挨拶をしようと扉の方を振り返り、俺は固まってしまった。


 そこに立っていたのは、王野だった。


「……え、王野……?」

「うん。他部署行ってて遅くなっちゃった」

「……そうなんだ。お疲れ様」

「求もね。早く帰りなよ、俺もさっさと帰るし」

「あ、う、うん」


 俺は咄嗟に退職願を鞄の中に戻した。

 王野は資料を棚に戻し、また扉に向かって行った。

 課長だと思っていたから、少し驚いてしまった。

 

 気配が無くなったのを感じて、緊張を解いて俺はまた退職願を取り出した。


 それが、迂闊だった。


「駄目だよ」

「!!」

「求にしては思い切ったことするよね」

「……あ、あ……」


 いつの間にか真後ろにいた王野が、俺の手からその紙を取り上げた。

 彼はそれをじっと読んで、ふうん、と呟くと、その紙をいきなりビリビリに破いた。


「な、なにするの!!」

「……何が不満だった?」

「は……」


 王野が俺を見下ろす。普段からは考えられないほど、冷たい表情をしていた。

 俺はまるでその空気に囚われたかのように、脚が動かなかった。


「成績のこと悩んでんの?俺の係に入れてあげるから、大丈夫だよ。俺が、ずっと面倒見てあげる。仕事が大変なら、俺が全部手伝ってあげる。俺がもっと上の立場になって、求のこともっと楽にさせてあげる。それの何が不満なの?」

「お、王野?」

「……あ、周りの人間が嫌?あのクソ生意気な後輩が目障り?いじめられてんの?大丈夫、俺がどうにかしてあげる」

「ちが、違う、王野、なんで」

「……俺がいるんだし、会社辞めるなんて言わないよね?」

「……」


 開いた口が塞がらなかった。


 なんで、王野はそんなに。


「……辞めるよ。俺、もうこの仕事、したくないんだよ」

「……は?」

「もう、どうにも頑張れない。王野がどれだけ支えてくれても、多分俺はもうここで働くことを拒否してしまうんだ。……ごめん、王野」


 王野の顔を見れなかった。

 王野は、こんなどうしようもない俺のことをいつも気にかけてくれていた。斜森が会社を辞めてからは、特に。それが何故なのかは分からなかったけど、王野に助けてもらったことは幾度もあった。

 だからこそ、王野を上手に見れない。


「ごめん……」


 謝るしかなかった。あんなに良くしてもらったのに、不甲斐なかった。


 空間が、静寂に包まれた。

 何も反応しない王野に不安になり、俺はゆっくりと顔を上げた。


 __息が止まるような気がした。


「わっかんないなあ……」

「……え」


 直感的に、怖い、と感じた。怖かった。とても怖くて、体が震えた。纏う雰囲気が、いつもと違う。


 王野は俺の体をデスクの上に押し倒した。訳も分からない俺は、無我夢中で抵抗した。


「王野、やめて!なに、なんで、」

「本当はこんなことしたくなかったんだけど」


 ごめんね、と言って光の射さない瞳は俺を射止めた。

 自然な動作でネクタイが抜き取られ、抵抗も出来ないうちに俺の腕が縛られる。

 俺は、怖くて声も出せなかった。


 目の前にいるこの男は、本当に俺の知っている王野なのだろうか。


「でもね、全部台無しにしたのは求だから」


 王野はそう言って、皮肉なくらい綺麗な顔で笑った。





20

 体をうつ伏せにされ、無理やり押さえつけられてからは早かった。あっという間にベルトが抜かれ、下着ごとスラックスが下ろされる。


「やだ!やだっ!!やめて、王野、やめてよ!!」

「求、ちょっとうるさいよ」

「っ……、課長、来るからっ!こんなこと、やめて!」

「課長、直帰したよ?……ああ、だから遅くまで残ってたの?」

「は……」


 王野はくつくつと笑った。


「んぶっ!?」

「叫ばないでね」


 背後から伸びた手が、俺の口を塞いだ。俺はそれでも叫ぶのを諦めなかった。


「そんなことしてると、どんどんしんどくなるだけだよ。抵抗しない方が一番いいかもね」

「……っ!」


 冷えた下半身に王野の手が伸びる。太腿を這うその感覚に、鳥肌が立った。俺は必死に振り向いて、涙を堪えながら王野を睨みつけた。荒く呼吸をする音が響く。視界の端に写る王野はうっすらと笑っていた。


「そんな顔できるんだ。いいね」

「!、ンーッ!!ウ、ウウッ!!」

「はは、ちゃんと気持ちよくしてあげるから、いい子にしてて」

「ンンンンッ!!」


 王野は俺の陰茎を掴むと、ゆっくりと手を動かした。怖くて怖くて仕方ないのに、他人の肌の感覚に慣れていないせいで徐々に快感を拾っていく。それが悔しくて、俺はとうとう涙を流してしまった。


「ンッ……ンゥ」

「濡れてきた」

「!……ンンンッ、ウウ」

「気持ちいい?」


 俺は首を横に振った。嘘だ、気持ちいいはずない。こんな訳も分からず無理矢理されて、気持ちいいはずないのに。


「そっかあ。もっといいとこいっぱい触ってあげる」

「ン"ン"ッ!?ン"ウウウゥゥ!!」

「んー?そんなにいいの?ここ」


 王野は先端の所を爪で引っ掻くようにカリカリと触ってきた。突然の暴力的な快感に、俺は腰を跳ねさせた。痛くないほどの力で、それが尚更嫌だった。いっそのこと、痛みで塗りつぶしてほしい。


「はぁ、やっぱ片手じゃ不便だね。求の声も聞けないし。求、手離すけどうるさくしすぎないでね」


 俺の口から王野の手が離れていく。いくらでも叫びたかったが、最早抵抗する気は起きなかったし、命令に背いたところで何が起きるか分からず、怖くて王野の言うことを聞くしかなかった。

 酸素を取り込んでいると、また手の動きが再開した。さっきまで俺の手を塞いでいた腕が、今度は俺の腰をがっしりとホールドしてきた。腰を動かすことが出来ないためどうにも快感を逃せず、それが辛かった。

 そんなのはお構いなしに、王野の手の動きは早さを増した。


「うあ、あ、あぁ、んんんっ」

「せっかく手離してあげたんだからさ、唇噛んじゃ駄目」

「ふ……ンアアアアッ!?」

「んっ……んちゅ……」


 突然、脳の中にぐちゃり、と音が響いた。

 耳の中に、王野の舌が差し込まれている。ぐちゅぐちゅと絶え間なく聞こえてくる音に、脳みそがどうにかなりそうだった。未知の感覚に、俺はあられもなく喘いだ。


「やめぇっ……んハァ、ああ、いやっ、それ、んあっ、んぅううああ」


 声を抑えることを放棄した俺の口から、たらりと唾液が滴る。俺のデスクの上にぽたりと落ちたが、そんなものを気にする余裕なんてどこにもなかった。


「アッ、ウウッ、あうっ、だめ、だめ、もう、出ちゃう、おうの、だめえっ」

「ふっ……はぁ、いきそ?」

「うんっ、うんっ、だから、離して、いやだ」

「俺も嫌だ」


 耳元で王野がふっと笑うと、また更に手の動きが早まった。確実に、俺を果てさせる動きだった。それに耐えられるはずもない俺は、脚をがくがくと震わせながら息を詰めた。


「ヒッ……ア、あ、も、もう、イッ__!!……っ、う、ああ、あン、ん、ふっ、ふっ……ぅ」


 王野の手の中で、精を吐いてしまった。怖くて、嫌で、でも気持ちよくて、もう自分の感情が分からなかった。あまりの体の怠さに目を伏せながら呼吸を整えていると、王野が俺の体を掴み、正面に向き直して膝立ちをさせられた。

 俺は王野を見上げる。

 王野は片手に広がっている俺の精液を口に近づけ、ぺろっと舐め上げた。


「苦いね」


 人の精液なんて気持ち悪い。舐めるなんて、正気じゃない。それでも、王野のその姿は心臓が震えるほど官能的で、おぞましいほど綺麗だった。

 目も離せずにその光景を見ていると、王野は俺を見て微笑んだ。


「俺のも、飲んでくれる?」


 その言葉に俺が呆然としていると、王野はベルトを緩め、大きく張った自身の陰茎を俺の口元に突きつけてきた。

 俺は口を結んで弱々しく首を横に振ったが、直ぐに鼻を摘まれ、だんだんと息苦しくなってしまい口を開けてしまった。すかさず、王野のものが口の中に入ってくる。


「ングゥッ!?」

「はぁ〜〜〜っ。あったかくて気持ちいね。噛んじゃ駄目だよ。噛んだら同じことしてあげる」

「フッ……、フッ………」

「口、すぼめて、吸って……そう、上手」

「んぶっ、んッ、んぐ、んぷっ」

「あは、すごい顔……かわい」


 王野が俺の髪の毛をくしゃっと撫でた。

 ゆっくりと王野の腰がスライドする。奥にくるたび、嗚咽しそうになるのを堪えた。きっと、見るに堪えない顔をしているだろう。


「早くするね」


 そう言うと、王野は俺の後頭部を掴んで勢いよく俺の喉奥に熱を打ち付けた。あまりの衝撃に、俺はまた目を見開いた。


「ッッ〜〜〜!!おゴッ、ンブッ、オ"ッ、ングォ、んギュッ」

「あ"ーーー。やば、はぁ、最高、可愛いね、求っ」

「ンォ、オ"オ、ングッ、ん、ん"ン"」

「こんなっ、可愛いならさ、もっと、早くこうすればっ……んっ、よかったね」


 息ができない。苦しい。でも、王野の動きは止まらない。意識が朦朧としてきた。


「はぁ、これから、もっとたくさん、きもちいことっ、しようね。……二人で、出掛けるのさっ、んハァ、どこがいいかな?」


 知らない、馬鹿、そんなの考えられる訳がない。禄に反応もできない俺をよそに、王野はつらつらと語りかける。


「俺ね、求が俺の側にいてくれるんなら、何でもするよ。ふ……ほんとに、なんでも」


 なんでもするって、それって、自分のため?俺のため?こんなの絶対、俺の気持ちなんてどこにもない。

 苦しくて、涙がボロボロと零れた。


 喉の奥がぎゅっと締まる。それに王野はびくっと反応して、暫くしてから咥内に苦い粘液が広がった。ずろろ、と口から熱が逃げていく。

 精液を吐き出す前に、口を手で押さえつけられた。


「飲んで」


 俺はその言葉通り、泣きながら時間をかけてゆっくりとそれを飲み下した。


「ガハッ!ゲホッ、ゲホッ、……んはぁ、おぇ……」

「……いい顔」


 王野の手がそっと頬を伝うと、スマホの画面を見せてきた。


 そこに写っているのは、いつの間に撮ったのか分からない、王野のものを咥えこんでいる堕落した俺の姿。


「__!!っ、消して、消してよ!!」

「よく撮れてんじゃん」


 そのスマホを必死に奪おうとする俺の手を軽く避け、王野はスマホを慣れた手つきで操作した。


 そして、次に見せつけられた画面は会社のグループチャットだった。画面の下半分に、画像欄が広がっている。その一番上は、先程の俺の写真。


 血の気が引いた。頭が真っ白になり、体を支えられなくなった俺は床に手をついた。


「や、やめて……」

「……会社辞めるって言った瞬間に、この写真送っちゃうから」

「!!」

「意地悪でごめんね」


 わなわなと肩が震えた。

 怒りか、恐怖か、悲しみか、もう、分からない。


「……そんなことしたら、王野だって……」

「別にいいよ。そんなのどうとでも言えるでしょ?でもこの情欲にまみれ切った顔はさあ、どう考えても隠せないよね。……ふふ、求ってこんな顔するんだぁ」

「……っ」


 声も出なかった。


 視界に靄がかかり、目の前のこの男をはっきりと見ることが出来ない。


 なんで、なんで。


「なんで……こんなこと、するの」


 涙が止まらなかった。俺は行く先を失ってしまった。ほかでもない、ずっと味方だと思っていた、この男の手によって。


 王野は床に蹲る俺の元に近寄ってしゃがんだ。

 手が俺の頬に伸び、とめどなく落ちる涙を拭う。


 __なんで、そんな顔ができるの。


「なんでって」


 王野は笑っていた。笑って、俺の頬を撫でる。




「大事な同期を引き止めたいって思うのは、当たり前じゃない?」





21

「ごめん、俺、やっぱり斜森と仕事できない。会社、辞められない。ごめんなさい、ごめんなさい……」


 うっすらと開いている扉の奥から、しゃくり上げながら携帯越しに謝罪をする男の声が聞こえた。


 財布をオフィスに忘れたので慌てて引き返したが、扉の前で足が止まって1時間は経過した。

 こんなの、絶対に盗み聞きなんてしてはいけないのに。特に嬌声が聞こえてからは、全く足が動かなかった。俺は壁にもたれて、いろいろな思考を巡らせた。


 求さん、あんな声出すんだ。

 やっぱり会社辞めようとしてたんだ。

 ってか、王野主任は一体何なの。


 求さん、ボロボロに泣いてた。今だって、扉の向こうで可哀想なくらい泣いている。

 可哀想なはずなのに、すっかり兆してしまった自身の下半身を見て、顔を覆って溜息を溢した。


 心を落ち着かせようと試みたが、先程までの求さんの泣きながらよがる声を思い出し、体が熱くなった。絶対に駄目なのに。


 自分の心と葛藤していると、ゆっくりと扉が開いた。俺は慌てふためいて、咄嗟にその場に立った。


「ああ……誰かいるなって思ったけど、君か。高見くん」

「……王野、主任……」


 何ということだ。誰かが外にいるのが分かった上で、あんなことをやっていたなんて。

 目の前の男は、なんの悪びれる表情も見せず、いつも通り涼しい顔をしていた。求さんと他とでは、向ける顔が全然違う。


「盗み聞きなんていけないね。……それとも、聞くつもりはなかったのに、求の声聞いて夢中になっちゃった?」

「……」


 意図が分からない。誰からも愛される完璧人間のこの人が、こんなことをするなんて。


 王野主任の本性が見えた今、俺は、ずっと心の中で抱えていたある疑惑を問いたださずにはいられなかった。


「王野主任、……データ、消しましたか」

「……なんのことかな」

「……求さんが作ってた資料のデータ。おかしいと思ったんですよ。求さん、いっつも入念に上書き保存してたのに。不可逆なデータが昔のデータに変わんの、おかしいでしょ」

「……」


 俺はあの日から、ずっとそのことに対してモヤモヤしていた。いくら求さんの仕事の容量が悪いからといって、ミスにしては少し特殊すぎる。

 誰かが新しいデータを消して古いデータに差し替えたのか、古いデータに上書きしたのか。そう思うしかなかった。でも、そうなるとそれが出来る人は限られてくる。資料を作った本人か、編集権限のある役職の人か。

 そして、俺は求さんがちょくちょく王野主任に資料を見てもらっていたのを思い出した。


 まさか、そんなはずはない。だって王野主任は、あんなに求さんのことを気にかけていたし、大事にしていたのだから。


 そう思っていたけれど、俺の中の不信感は一気に高まった。


「……どうなんですか、王野主任」


 王野主任の冷めきった視線が俺に刺さる。

 俺は拳をぎゅっと握った。

 張り詰めた空気に、ふっと笑う息の音が聞こえる。


「……伊達に売れてないね、高見くん。次の昇進は君かな」

「!」

「そうだよ、俺がやった」


 言葉を失った。この人が何も分からない。


「……なんのために」

「なんのためかあ。まあ、俺のためかな」

「は……?」

「あれで上手くいきすぎたら、求が部署異動するきっかけになっちゃうかもしれないからね。そんなの嫌だし」

「……」

「ああでも、全部の責任が求にいくと可哀相だから、もしもどうにもならなさそうだったら、データを復元させてあげるつもりだったから」


 安心して、と笑った。


 何を言っているんだ、何が安心だ。求さんは、あんなに自分を責めて泣いていたのに。

 俺は声を震わせた。


「さっきも……求さんのこと、犯して、脅して……。ありえないよ、あんた」


 俺はこの男を睨みつけた。彼はそれをなんとも思っていなさそうに、俺を見つめ返した。でもさ、と口を開く。


「ほっとしたんじゃない?求が辞めないって知って。俺の言うこと聞くしかないって諦めた求を見て」

「……!!」

「あは、図星?」

「……ちがう、違う!!」


 強く否定した。それはまるで、虚勢で本心を隠すかのようだった。男は俺を見て笑う。その顔が嫌で嫌で、俺はまた握り締めた拳に力を入れた。完全にこの場の空気を掌握している彼は、飄々と語る。


「……何がそこまで、君をそうさせるの?なんでそんなに求に懐いちゃったの?……ああ、どうせ君も救われたんでしょ」

「……」

「不思議だよね。求って自分のことは肯定出来ないのに、他人のことは全部肯定して……その人が一番欲しい言葉をくれるんだよ」


 俺はハッと思い出した。いつも自分に自信が無いのに、そのくせ核心を突いて他人を受け入れてくれる。ただ「気が弱い人」で片付けるには足りないような人なのだ、求さんは。


「……あんたも、そうなの」

「うん。そうだね……。昔、ちょっとね。求はもう覚えてないかもしれないけど」


 そう言って、昔を思い出すように目を細めた。この男は、きっと、ずっと、その時の求さんを引きずっているんだ。


「俺、もう求がいないと駄目なんだ。この場所からいなくなるって考えるだけで、どうにかなりそう。求がそんなふうにさせたんだよ、俺を」


 どこまでも自分勝手な発言に、俺の顔は強張った。ゾッとした。

 俺も、もしかしたらこの男のようになってしまうのだろうか。


「だから、責任取ってもらわないと」


 扉の向こうから聞こえていた泣き声がだんだんと小さくなってくる。

 王野主任はそれを聞いて、もうそろそろ戻らないとね、と呟く。


 戻って、求さんのことどうするんだろう。


 求さんは、これからどうなるんだろう。


「……求さんのことは、誰が救ってあげるの」


 ドアノブに手をかけた王野主任はゆっくりと振り向く。俺をじっと見て、うっそりと笑う。


 全てを壊してぐちゃぐちゃにしたくせに、それをまた綺麗に直して大切に仕舞いそうな、そんな予感がした。


 何も言わずそっと扉を開け、男はその中に消えて行った。




 俺はその場に立ちすくむ。


 泣き声はもう、聞こえてこなかった。





斜森√↓

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