たくみくん、僕のこと守って


お題:ぼんやり大人しい弟×過保護な兄




1


 あまりにも現実主義すぎる両親の元に生まれたがゆえ、俺は三歳の時に抱いた「バクオンジャーになる」という夢を数日の内に諦めたらしい。そんな職業はない、と言われたから。その数日後に掲げた「宇宙飛行士になる」という夢も却下された。現実味がないと。その後も俺はなにをヤケになったのか、三歳が考えうる最大限の夢を両親に提案してみたが、全て没案になった。公務員とでも答えればよかったのだろうか。

 そんな中、数ヶ月後に俺のたった三年しか生きていない人生を変えてくれる出来事が起こった。俺に、弟ができたのだ。

 普段感情の起伏があまりない母が、その腕の中に産まれたばかりの小さな生命を抱いて、珍しくも柔らかく微笑んだ。


「巧も今日からお兄ちゃんだね。新のこと守ってあげてね」


 俺は新と名付けられた弟を覗き込んで、歓喜で涙が出そうになったのを覚えている。

 俺がお兄ちゃん。俺の弟。こんなに小さくて可愛い赤ちゃんが、俺の弟!

 自分の指を新の手のひらに近付けると、ぎゅっと握りしめてくれた。まるで俺のことを必要としてくれているようだった。


 俺は、新のためなら何者かになれる気がした。






2


 実際のところ、俺は「新の兄」という肩書以外の何も持てなかった。


 新は両親に似て騒がず、大人しく、いつもぼんやりとしている子に育った。好きなことも嫌いなことも特になし。得意な教科も苦手な教科もない。仲のいい友達もいない。嫌いな食べ物は無く、出されたものは全部食べるけど、好みは一切ない。「大人しくここで待ってろ」と言ったら、良しが出るまで本当にその場で永遠に待ち続けるような性格になってしまった。

 対する俺は、そんな見ていて危なっかしい弟をどうにか無事に生活させ、そのお世話を生き甲斐にするようなお節介な兄になった。お節介になるのも無理はない。新は、俺からしたらとびっきり可愛いかったのだ。


 新はいつまで経っても箸を正しく持とうとしなかった。母もそれには手をこまねいていたようで、どれだけ丁寧に教えて、いろんな方法を試してみても、新は箸の正しい持ち方を習得できなかった。母がとうとう匙を投げようとした時に、俺は新の横に座って「俺の真似をしてみてね」と言った。すると新は一生懸命俺の手を見つめながら箸を持ち直した。俺が褒めると、新は少し嬉しそうにしながら正しい持ち方で食事を始めた。

 次の日から、新は箸を正しく持てるようになっていた。

 ある時は、俺は新に自転車の乗り方を教えた。その頃俺が五年生で、新は二年生だった。新はまだ補助輪なしで自転車に乗れなかった。父親に何度練習させられても上手くいかなかったそうだ。新自身は別にそれでもなんとも思っていなさそうだったし、俺としても「いつかは乗れるようになるだろ」としか思っていなかった。ただ、ある日新が学校から貰ってきた予定表には、一ヶ月後に『自転車教室』の文字があったのを確認してしまった。自転車教室とは、俺達が通っていた小学校で、二年生になったら必ずある行事だ。実際に自転車に乗りながら警察の人と交通ルールを学ぶという授業で、この頃になるとほとんどの生徒は二輪で自転車を乗りこなせるようになっている。その分、その時に補助輪を付けている子は少なからず揶揄われたり嫌な視線を向けられたりもする。そして新もその内の一人だった。

 新は、俺に似ずとても綺麗な顔で生まれてしまった。当時は体も小さかったし、クラスの意地悪な男子にとってはいじめの対象として格好の餌食だった。だから、このままの状態で新が自転車教室に望んだら、尚更いじめられてしまうだろう。

 だから、俺は新に自転車の乗り方を教えることにした。新はとにかく乗る時の姿勢が悪かったから、「俺の真似をして」と言って俺がお手本を見せてあげた。

 すると、次に新が自転車に乗った瞬間、今までの練習が嘘だったみたいに、補助輪なしでスイスイと乗れるようになっていた。


 新はやればできる子だ。俺が教えれば、俺の真似をすれば、絶対になんでもできるようになる。みんな教え方が下手なだけだ。俺だけが新にちゃんとものを教えることができる。


 俺は新がやっと自転車に乗れるようになったのが嬉しくて、ついつい自転車から降りてすぐの新を抱き締めた。偉いぞ! とたくさん褒めてやった。新はへにゃっと笑い、「たくみくんありがとう」と言った。やっぱり、俺の弟が一番可愛い。


 俺はなんにもなれなかったけど、ただ唯一、新を守って大切にしてやれる兄にはなれたのだ。






3


 俺の人生が変わったのは、新が生まれた瞬間。

 そして、俺の性格が歪んでしまったのは、俺が小六、新が小三の時だった。


 その日の放課後、俺が新の教室を覗くと、新はとっくにいなくなっていた。


 新は下校において、特別待遇を受けていた。

 下校の場合、大抵の生徒は家が同じ地区の同学年の生徒と集団になって帰宅する。新も最初はそうしていたが、どうやら歩くスピードが異様に遅いらしく、みんなと歩幅を合わせられず、置いて行かれることがざらにあった。最初は仲間外れのようないじめを受けているのかと思っていたが、そうではなく、班のみんなが口を揃えて「金森くんが歩くの遅すぎるのに、俺達が置いていったって怒られる」と話していた。俺と歩く時はそんなことないのに、と担任の先生に言い訳すると、じゃあ卒業するまで巧くんが新くんと一緒に帰ってあげてと頼まれた。俺はいの一番に承諾した。

 当然、俺と新くらい学年が離れていれば授業が終わる時間も違う。だから、新には自分の教室で待ってもらい、俺の授業が終わり次第俺が迎えに行くということになった。俺はそれでよかった。新が嫌な思いをするくらいなら、俺が一緒に帰ってあげたかった。それに、新は俺が一緒だといつも通り歩いてくれる。誰にも何も言われない。新をいじめる子も、流石に最高学年の俺には絡んでこなかった。

 新は普段の授業で感情を見せることはほとんどないが、俺と帰る時は、いつも、ほんの少し笑ってくれる。


 そんな新が、その日は教室にいなかった。

 こんなことは今まで一度もなかった。

 俺は必死になって学校中を探した。考えられるところ全てを探したけど、どこにもいなかった。新の担任の先生に聞いたところ、「みんなと帰ったよ」と答えた。

 あり得るはずがない。だって、あの新だ。俺の言うことを絶対に守って、俺が待てと言ったらその場で永遠に待つような子だ。新が俺との約束を破るはずがない。

 一縷の望みにかけて一旦帰ったが、家には新はいなかった。両親は共働きで俺と新に留守を任せていたので、家に誰もいない。俺は寂しさと不安で泣きそうになった。

 外に出て、近所に住む新と同学年の子に事情を聞き出すと、俺か、もしくは何かに怯えながら「神社の方に行った」と答えた。

 その神社は山の麓にあり、俺達の地区からは離れた場所にある。そしてそこは代々不良小学生の溜まり場だった。小さい神社なので神主が常にいるわけではない。度々問題が起きるから、学校側も生徒のみでの立ち入りを禁止していた。

 俺は一心不乱に神社まで走った。次第に雲行きが怪しくなり、近くまで来た頃には土砂降りの雨が降っていた。服は濡れて、靴は泥に汚れたけどそんなものは気にしている余裕がなかった。境内に入った俺は、拝殿の前で佇んでいる集団を目掛けて叫んだ。


「新!!」


 その中に新はいた。

 背を向けていた新は、俺の声に反応してゆっくりとこちらを向いた。


 頭が、雨と、血で濡れていた。

 雨でできた筋を、血がどくどくと這って流れ落ちる。Tシャツの襟首は薄い赤で汚れていた。

 新はぼんやりと俺を見つめた。


 そこからの俺の記憶はほとんどない。

 ただ、周りにいた新の同級生達に罵声を浴びせ続け、俺が泣きながら着ていた上着を脱いで新の頭に押し当てて、新を連れて出て行ったのは覚えている。

 その時の新の表情や言葉は覚えていない。

 泣きじゃくる俺と、頭から血を流す新を見て近所にいた大人が慌てて病院に連れて行ってくれた。


 後日、保護者と先生から聞き取りが行われた。配慮なのかなんなのか、俺達と新の同級生が同じ空間で話し合う機会はなかった。大人たちがそれぞれに事情を聞いて、その日何があったかを推測する。結果的に、新があの場で転けてしまい、その際に近くにあった石碑に頭をぶつけて起こった事故だと片付けられた。石碑のくぼまりには、かすかに乾いた血の跡があったらしい。ゲリラ的な土砂降りだったから、あの後はすぐ雨が上がって血も残ってしまったようだ。

 でも、そんなはずはない。新の怪我は、絶対にあいつらに負わされたものだ。故意じゃなかったら、岩にぶつかったとしてもあんなえぐられたような大きな怪我にはならない。俺は母に反抗したが、新の同級生達は「俺達は何もしていない」の一点張りだったのと、何より新自身が「僕が転けたせいです」と答えたから、そう信じるしかない、と。

 事件が事故になってまとまった夜、俺はやるせない気持ちを抱えたまま新の部屋に向かった。

 新は頭に包帯を巻きつけ、勉強机に向かい本を読んでいた。真っ黒な髪の毛に重なる真っ白な包帯が痛々しくて、俺は視線を落とした。


「新、ちょっとお話してもいい?」

「うん」


 新は本を閉じて俺に向かった。俺は椅子に座っている新の前で跪き、太ももに置かれた新の手を取った。とても冷たかった。


「……本当に事故だったの?」

「事故だったよ」

「本当に転けたの?」

「転けたよ。雨、降ってたから」


 新の指がぴくりと動いた。新の表情は変わらなかったけど、俺は絶対に嘘だと思った。


「新。俺、新の言うこと全部信じるよ。秘密にした方がいいんなら、誰にも言わない。俺は絶対に新の味方だから、本当のこと教えてほしい」


 新はハッとしたように俺を見つめ、そして、暫くしてさめざめと涙を落とした。


「……大きな石、ぶつけられた。でも、誰にも言わないでほしい。言ったら、みんな怒られる」


 肩を震わせる新を見て、俺は頭に血が上った。


「怒られるって、当然だろ! そんなやつら、怒られないといけないだろ!」

「ううん……。もうやらないって言ってくれたから、大丈夫。僕が先生にこのこと言っちゃったら、僕がまたみんなから怖いことされるかもしれないから」

「新……」


 どうしようもできない。俺は、何者にもなれなかった。新を唯一守れる兄という肩書も失ってしまった。俺は悔しくて、悔しすぎて、傷付いた新を見るのが悲しくて、泣きながら新を抱き締めた。新は俺を抱き締め返した。


「たくみくんありがとう。たくみくんがいるから、僕は大丈夫だよ」

「でも、新のこと守れなかった」

「ううん。僕のこと信じてくれた」

「当たり前だろ。俺が一番新のことを信じてる。だから、新も、お父さんよりもお母さんよりも、俺を一番信じてほしい」

「うん」

「……新、俺の言うこと、守れる?」

「……うん」


 その日から、俺は新を守るために、新にルールを課して縛った。

 不必要に外には出ない、好意的に接してくる人も常に疑う、意地悪をしてくる人は一切近寄らない喋らない、知らない人とは一対一で会話しない、勉強さえしていればいい。

 そしてなにより、母より父より先生より何より俺を信じて、俺の言うことを聞いてほしい。


 新は一切反論せず、俺の言ったことを愚直に守った。守って、守って、俺が何も言わずとも度を越えたルールを自分に課して、小学校を卒業した頃には、新はとうとう俺だけの人形のようになっていた。

 俺は歪んでしまったから、新が徐々におかしくなっていたことに気付いていなかった。

 そしてもっと気付くべきだったのは、新は徐々におかしくなったのではなく、最初からおかしかったということだった。






4


 現在俺は高校三年生。そして、新は中学三年生。両親には痛手だと思うが、二人とも受験の年になってしまった。


 大事な時期だけど、新はと言うと。

 ほとんど引きこもりのような生活を送っていた。

 一般の授業は受けない。テスト期間やどうしても出なければいけない行事の時だけ中学に顔を出すような、そんな子になってしまった。中学に入った辺りから段々と休む回数が増え、中二になった頃には既に学校に行く日の方が少なくなっていた。

 両親は新の精神状態を心配した。確実に、神社で頭を怪我してから様子がおかしくなったと認識していた。もともと新と両親間で会話は多くなかったが、更に喋る回数が減ってしまった。両親も、新から何か話を聞き出そうにも話題が出てこないために頭を悩ませていた。

 そして、極たまに、話の流れで、俺が弟離れできないのにも問題があるのではと、俺が非難されることもあった。


 外との交流を遮断する新は、俺と対話することだけを許してくれた。


「新、入ってもいい?」

「うん」


 ドアの向こうから小さな返事を聞き、俺は新の部屋の扉を開けた。

 新は勉強机に向かっていた。学校で貰うテキスト以上の冊子と、文庫本が散乱している。俺は小説をあまり読まないから分からないけど、明るくはなさそうなタイトルと表紙ばかりだ。

 新は大きくなった。小さくて可愛くて男子からよくいじめられたり揶揄われていた新は、大きく美しく育った。ただ、その彩度をはっきりと見られるのは俺だけだった。


「勉強中?」

「うん」

「テストはどうだった?」

「いつも通りだと思う」


 テスト期間は終わったというのに、新はもう勉強していた。俺が勉強さえしていればいいと言ったがため、新は愚直にそれを守っている。

 重い前髪が重力方向に向き、綺麗な形の瞳が隙間から見える。俺が髪を切れと言わない限り、この髪の毛は伸び続ける。


「……新は、行きたい高校とかある?」

「分からない」

「あ、じゃあ、何を勉強したいとかは」

「分からない。たくみくんは、僕が何を勉強すればいいと思う?」

「……それは……そうだな……」

「僕はどこの高校に行けばいいかな?」


 きっとここで俺が何か案を出してしまえば、新はその通りのことをしてしまう。そうなってしまった。俺が、新をそうさせた。


「……新、別に、学校毎日行ってもいいんだぞ」


 新は勉強する手を止め、俺を見上げた。俺を非難している時の母の視線にそっくりだった。


「……あ、いや、いいんだ。新が傷付くくらいなら、俺は学校なんて休んだ方がいいと思ってる……」

「うん。僕たくみくんしか信じてないから」

「……そう、だよな……」


 新は勉強を再開した。俺はおやすみと一言言って部屋を出て、扉の前で背を預けた。


 今更、罪悪に駆られている。

 俺も新も来年には違う環境が待っているという場面になってやっと、新にやった事の重大さを感じている。

 今は義務教育だから許されている面もあるかもしれない。でも、高校はそうもいかないだろう。自分で選択しなければいけないことがたくさんある。それなのに、新は未だに何一つ自分で決められない。俺の選択が新の人生になってしまう。


 現段階で、俺は余裕なく勉強に追われている。第一志望に合格するかも怪しい。でも受験が成功すれば大学生になる。この先どれだけ新のことを支えてやれるか未知数だ。

 俺は情けなくも、今の状態で胸を張って新を守り続けていくという自信がなくなっていた。






5


 その日は十二月だった。共通テスト前のピリピリした時期。人によっては内定を貰っている時期だ。

 学校から帰ると、俺の家の前で佇んでいる男子生徒がいた。新の同級生で、近所の子。──新が神社で怪我をした日、俺が新の居場所を聞いた子だ。

 その子はインターホンを押すのを躊躇っているようだった。


「新に届け物?」


 俺が声を掛けると、その子はびくっと肩を揺らして俺を振り返った。


「は、はい。先生が、大事な書類だから、家の人に直接渡せって」

「わざわざごめんね。ありがとう」

「……」


 俺はその子から茶封筒を受け取った。

 俺と彼は小学生の時に話して以来、会話をしていなかった。でも、いつも新のプリントやお便りを持って来てポストに入れてくれていたのは知っている。気が弱そうで、おどおどとした子だ。


「新に会ってく?」

「いっ、いいです! そんな、そんなつもりで来たんじゃないです」


 その子は大げさに首を振って否定して、肩から下げていた通学カバンをぎゅっと握りしめた。ふとその子の足元を見ると、上履きのままだったことに気付いた。その上履きも、汚れや落書きで黒ずんでいた。


「……靴、間違えたの?」

「……あ、いえ……」


 誤魔化すように弱々しく笑っていたが、俺が何も言えずにその子を見ていると、じょじょに顔を歪ませた。


「……が、我慢、しようと思ってたんです。あと数ヶ月だし、今まで耐えたから、これくらい、大丈夫だって、思ってたんですけど……、も、もう、ほんとは、金森くんに荷物届けるの、嫌です。い、今すぐ、やめたい……」

「え……」

「……俺、いじめられてるんです。小学生の時、金森くんが神社で怪我をした次の日から」

「……!」

「お、お前が、場所を教えたんだろって。それで……そこから……」


 息をのんだ。

 新は引きこもりになってしまったが、それにしたって学校でいじめを受けたという報告をあの日以降聞いたことがなかった。いじめっ子たちが懲りたのか、飽きたのかと思っていた。でも違ったんだ。ただ、その対象が変わっただけ。


「俺が同じ地区に住んでるから仕方ないのは分かってます。でも、俺が金森くんに荷物を届けると、必ず悪口を言われるんです。裏切り者、……き、近親相姦の、異常者の、肩を持つやつ、って……」


 俺は何も言えなかった。どうしようもない怒りを訴えるこの子を見つめ、動けずにいた。


「お、おかしいんですよ。か、金森くんも、おっ、お、お兄さんも……」

「……」

「俺は今更、なにも求めません。でも……、金森くんとお兄さんは、は、離れた方が、いいと思います」


 その子は失礼します、と言って去って行った。


 俺はおかしかったんだ。そして、俺が新を異常者にさせた。

 俺は……。







5


 三月になった。

 俺はなんとか大学に受かった。県内の大学で、家からでも通える。そして、新も進学校に受かった。新は家で勉強しかしてこなかったから、どこを受けても問題はなさそうだった。良い高校に行っておいて損はないからと、俺が新の受験校を指定した。新は最後まで自分で高校を選ぶことはしなかった。


 俺は最初家から大学に通う気でいた。近い距離ではないので、電車で通学をするか、車の免許を取ったら車で通ってもいいなと思っていた。そのことを母に伝えると、母は改まったように俺に提案してきた。


「おじいちゃんの家、大学から近いでしょ。おじいちゃんもおばあちゃんも四年間くらいだったら全然良いって言ってたから、巧はそこから通いなさい」

「え……」

「……巧、そろそろ新から離れないと。このままだと、新は自分の力で生活できなくなる。お互いに環境も変わるから、いい機会だと思うの」


 母の言うことは、もっともでしかなかった。

 それに俺自身も、あの日あの子と喋ってから、このままではいけないとずっと思っていた。


 俺は、新と離れなければいけない。離して、解放してあげないと、新がどんどん駄目になっていってしまう。







 その日の晩は、両親には珍しくピザやオードブルを用意すると意気込んでいた。俺達が二人とも志望校に合格したから、そのお祝いだと。普段の金森家にはない和やかなムードの中、俺は晩飯前に新と話し合うことにした。


「新、ちょっといい?」


 新の部屋に入ると、新はベッドに腰を掛けて本を読んでいた。奇妙なタイトルの小説だった。

 新は顔を上げ、俺を見た。この前俺が前髪を切ってあげたから、長い睫毛で縁取られた大きな目がよく見える。俺は新の髪の毛を切る技術ばかり上がってしまった。

 俺は新の横に並んで座った。


「それ、面白い?」

「……うん、面白いよ」


 つやっと輝く新の黒髪を撫で、その下に盛り上がる皮膚に軽く触れた。新が昔神社で負った傷だ。気圧が低い日は時々痛くなると言っていた。

 新は本を閉じて俺を見た。人形みたいに綺麗な新。俺は今まで何をしていたのだろう。


「新、俺のこと恨んでない?」

「なんで?」

「俺が新のこと、ずっと不自由にさせてた」


 新は首を横に振った。優しい子だ。それか、本当になんにも思っていないのかもしれない。俺がそうさせてきたから。


「……俺がもしもこの家出るって言ったら、新はどう思う?」

「僕も一緒?」

「はは……それじゃ意味がないんだよ……」


 どこまでいっても、新の純真さが虚しかった。新は、本当に、俺が全てだと思っている。


「……お母さんが提案してくれたんだ。おじいちゃんの家から大学に通えって」

「え?」

「だから……四月からは、俺はこの家にいない。新も自由だよ。新には、ちゃんと高校生活を楽しんでほしいと思ってる」


 俺は俯いた。この期に及んで、まだ新を手放したくないと思っている。この執着心が一体なんなのか、自分でも分からない。


「今までいろいろ言ってごめん。縛り付けてごめんな。謝って許されることじゃないと思うし、許さなくてもいいから、新にはちゃんと──」

「は?」

「…………え」

 

 心臓が止まった。新から出た声は、到底新のものではないような声だった。いつも通り無表情なのに、いつもより瞳が怖い。


「許すとか許さないとかって、何?」

「……え?」

「なんで謝るの? 意味分かんない。僕別にたくみくんに謝ってほしいこと、いっこもないんだけど」

「……あ、いや、それは……、俺が、お前をそうさせたから……」

「そうさせたって何? 全部僕の意思なんだけど。僕がなりたくてなった僕なのに、たくみくんは僕の全部否定するの?」

「ち、違う! そういうことじゃなくて……」


 新は俺の言葉を聞かず、乱雑に俺を押し倒し、ベッドにはりつけた。抵抗するも抜け出せない。新がこんなに力が強いとは思わなかった。


「不必要に外には出ない、好意的に接してくる人も常に疑う、意地悪をしてくる人は一切近寄らない喋らない、知らない人とは一対一で会話しない、勉強さえしていればいい。……そしてなにより、お母さんよりお父さんより先生より何より俺を信じて、俺の言うことを聞いてほしい。」

「……!」

「これ、ぜーんぶたくみくんに言われた言葉! 僕守ったよ! ずっと、全部守った! でも、まだ足りなかった?」

「……った、足りなくない、新が、俺の言うこと守ってくれてたの、分かってるから、だから……」

「だから? もっと僕のこと縛りたい?」

「違うっ!」

「もっと僕のこと縛っていいよ。それか、僕がたくみくんみたいになればいい?」

「は……」

「僕がたくみくんのこと縛れば、たくみくんも僕の気持ち分かってくれる?」

「……っ」


 新は俺を押さえつけている手に力を込めた。新の長い髪が俺の顔を覆い、部屋の光が遮断されたように暗く感じた。その暗闇の中で、新の瞳はもっと暗く黒く輝いていた。


「……昔、たくみくんの真似やったよね。たくみくんの真似したら、全部できるようになった。僕、たくみくんの真似は上手いんだよ」

「あ、新、ごめん……」

「たくみくん、何より僕を信じて、僕の言うことを聞いてよ。できるよね?」

「っ、新、ごめっ……」

「今更俺を手放して俺を自由にさせるなんて絶対に許さないから。たくみくんは一生俺のこと飼い続けるんだよ。人形だって飼い主が必要だ」


 寒い。震えが止まらない。あの日神社の拝殿の前でぼんやりと佇んでいた新の姿を思い出す。

 涙を流すと、新は長い舌で俺の涙を舐めとった。そして、今まで見たこともないほど喜色を溢して、うっそりと笑う。


「大学、家から通える距離でよかったね」










「お母さん、新なら大丈夫だよ。ほら、ちゃんと学校行くって言ってるし、部活も入るって……。俺も、大丈夫だし、家から通いたい……。大丈夫、……全部、大丈夫だから……」






■???■


「目障りなんだよ」


 神社の拝殿前で、僕は複数人のクラスメイトに囲まれた。


「なにが?」

「はあ? お前だよお前。調子のんなよ」

「なにが? 分からない」

「キモいんだよ!」


 目の前にいる子が叫んだ。小雨だった雨粒は次第に大きくなっていき、みるみるうちに土砂降りになっていった。


「お前兄ちゃんとラブラブでキモいよなあ! そういうの、キンシンソーカンって言うの、知ってる? お前もキモいし、お前の兄ちゃんもキモい。キモい人は、この町からいなくなった方がいいんじゃねえの?」

「……そうかもしれないね。僕はたくみくんがいればそれでいいから、どうでもいいよ」


 僕の呟きは雨にかき消されたかもしれない。

 僕は参道の外れに落ちていた大きな石を持ち上げた。

 周りにいた人が僕を見て少し身構える。


「な、なんだよ。それ投げる気かよ。どうせ勝てないくせに」

「ううん。そんなことしないよ。なんで僕が加害者にならないといけないの? 僕はずっと被害者だ」

「……?」


 手にした石を角の部分が表になるように持ち直した。雨でしとしとと濡れそぼっている。

 そして、僕はそれを────




「…………ッ、お、お前、何してんだよ!」


 みんなの慄く声が境内に響いた。目の前の男は、戦々恐々としながら僕を見ている。

 頭の血が雨と一緒に頬を伝って落ちていく。

 僕は手にした石を地面に落とした。角に付いた血は雨と一緒に流されていった。


 僕は、自分の頭に自分で石を打ち付けた。


「僕がみんなの家族や先生に、『石で殴られました』って言ったら、どうなると思う?」

「……!」

「みんな、僕のこと信じてくれるかな」


 もしもみんな信じてくれなくても、たくみくんは僕のこと、きっと信じてくれる。


「な、なんで、こんなこと……」

「なんで? なんで、なんて言うの? じゃあみんなは今まで僕が仕返しのひとつもしないと思いながら僕のこといじめてたの?」

「……」

「やり返される覚悟がないんなら、いじめなんてやっちゃいけないよ。……特に、たくみくんの悪口だけは、絶対に許さない。これ以上のこと言うんなら……」

「わ、分かった! もう何も言わないし、何もしない! だ、だから、俺らがやったって、う、嘘言うのは、やめて……!」

「……分かった」


 僕は幹部に手を当てて流れ出る血を手に移し、近くにあった石碑のくぼまりにその血を落とした。周りの子は固唾を飲んだ。




「新!!」


 たくみくんの声だ。僕のこと、探してくれたんだ。

 振り返ると、たくみくんが鳥居の前に立っていた。肩で息をし、愕然としながら俺を見ている。


「新……っ、嘘、なんで、血が……!」

「たくみくん……」


 たくみくんは僕に駆け寄ってすぐに抱き締めてけれた。たくみくん、雨なのにこんなにあったかい。やっぱりたくみくんは裏切らない。たくみくんは僕のヒーローで、一生僕の一番だ。




「たくみくん、僕のこと守って」





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