拗らせ男と捻くれ男のハッピー逃避行(結果論)2


6 射手矢の場合③


「芸能科の寮生の部屋ってみんなこんなもんなの? 差別じゃない? 平等な学生の人権にここまで差をつけてもいいもんなの?」

「うるさいブス黙れ」

「お前は会話もできないの? 全部顔に持ってかれたのか?」

「うるさいブス追い出すぞ」


 チッ! と舌打ちした音が聞こえてきた。表情は見れない。なんせ、俺は早乙女の顔を見れないから。見れるわけない。俺の部屋に、早乙女がいる。なんのために早乙女が俺の部屋に来たかと言うと。


「俺どこで寝ればいい?」

「……」

「……え、なんだよ」

「……」


 俺は早乙女に背を向けたまま逡巡した。どこで寝るって、一択しかないだろ。金がある家の生徒にしか許されないこの無駄にデカいベッド、なんのための無駄なデカさだと思ってるんだ。なんのためにいつも枕を二つ置いていると思ってるんだ。なんのために毎日コロコロをかけてると思ってるんだ。俺と寝るためだろ! さあ言え、俺!


「……床に布団を敷くから……そこで寝ろ……」

「お前の部屋広いもんな。サンキュ」


 俺の馬鹿!

 自分には失望したよ! お前それでも男か!?


 嬉しさと胸の高鳴りと己の愚かさでキャパオーバーになり、早乙女の顔もまともに見ずに早乙女用の布団を敷いた。布団に寝転がった早乙女に、「明日の朝俺の部屋から鞄と教科書とノート取って来て」と厚かましすぎるお願いをされたけど、碌な返しもできずに、ただ頷いた。早乙女からの純粋なお願いなんて、いつぶりだ。

 気が付けばもう消灯の時間になっていたみたいで、早乙女はスマホを確認して寝る体制になっていた。俺も自分のベッドに潜り込み、すぐさま獅子倉にメッセージを送った。すぐに既読がついた。


『さおとめがいふ』

『さおとめがbecauseパターンもある?』

『早乙女がいる!』

『夢見てる?』

『なんで夢見ながらメッセージ送れるんだよ。それもう起きてるだろ』

『もう寝ていい?』

『寝るなよ!早乙女がいるんだって、俺の部屋!』

『なんで?』

『俺が早乙女に優しくしたから』

『手早すぎ』

『は???????』

『相手が合意の上でやれよー』


 とんでもない勘違いをされている気がする。この後俺が事細かに経緯を説明しても既読はつかなかった。もう寝たのかもしれない。早乙女が一緒の空間にいて一緒に寝るというこの状況のヤバさ、俺の悶々とした気持ちを少しでも分けてやろうと思ったのに、なにも払拭されなかった。

 俺が眠れずにベッドの上でゴロゴロしていると、物音がうるさかったのか早乙女が口を開いた。


「なぁ、獅子倉くんって寮生?」


 ドキッとした。突然話しかけられたのもそうだし、ついさっきやり取りをしていた相手の名前だ。そんなわけないけど、スマホの画面を見られたのではないかというタイミングの良さだ。


「……そうだけど。なんで獅子倉?」

「獅子倉くんの連絡先教えてくんない?」

「ハァッ!? なんでだよ!!」

「うるさっ……。ずっとここ泊まらせてもらうわけにもいかないだろ。ダメ元で、時々寝床貸してってお願いしようと思って」

「やめろ! 絶対やめろ!! お前みたいなブスが獅子倉の部屋に泊まる!? ふざけんな、身の程を知れ!」

「ハ? なにお前獅子倉くんガチ勢……?」

「違う!!」


 許せない、それだけは絶対に駄目だ。

 だって、俺も早乙女と連絡先交換してないのに……!

 何度も連絡先教えてと聞こうとしたが、思っていることと口から出た言葉が驚くほど一致せず、高三になっても未だに早乙女の連絡先を入手できていない。それなのに、獅子倉みたいなヤツに漁夫の利を得られると思うと狂いそうになる。それに、よりによって獅子倉。あいつは絶対駄目だ。俺と好みが似ている。駄目なものは駄目なのだ。


「はいはい、どうせ俺は芸能科の人を頼れる身分じゃないですよ」


 早乙女はそう言って、顔まで布団で覆った。

 俺は顔をしかめた。ああもう、そんなことを伝えたいんじゃない。なんで、今早乙女が頼ってるのは俺だろう。


「……別に、お、おれっ……俺の、へ、部屋で、ずっと、寝ればいいだろ……」


 声を震わせた。が、反応はない。ちょっと待ってみたけどレスポンスが一切ない。流石にイライラして起き上がると、ベッド下から微かに寝息が聞こえてきた。


「〜〜〜クソッ! なんだこいつ腹立つ!」


 ばふん! と無理やり布団を被り、どうしようもない気持ちを飲み込んだ。好きで、一緒の空間にいるのに、嬉しかったのに、泣きそうになる。自分の性格がもっと普通だったら違ったのか。いや、そもそも小三で恋心を自覚なかったらこんなことにはならなかったのだろうか。連絡先交換しよう、ここにずっと泊まればいいよ、くらい、簡単に言えてしまうのだろうか。






 眠れない。寝付けるわけがなかった。

 枕元の電子時計を見ると、三時を過ぎていた。明日__今日は午後に撮影があるのだ。寝不足は厳禁なのに、隣に早乙女がいると思うと寝れなかった。うだうだ考えるくらいならなにか気を紛らわせようと思い、スマホを手に取った。タップしたのは、俺の秘蔵フォルダ。幼少期から今までの早乙女の写真が詰め込まれている。幼稚園児の頃の早乙女なんて可愛すぎて見るたびに正常ではいられなくなる。意思が強そうなつり上がった目は昔から変わっていない。小学生になってブカブカの制服を着て歯を見せて笑っているのもたまらなく可愛い。親同士の仲がいいため、昔はよく俺達二人の写真を撮ってくれた。


 それが、途中から早乙女の目線はカメラを向かなくなった。これは仕方がない。非公式写真だから。いいのだ、自分しか見ない。バレなければOKだ。

 中学生の頃の早乙女は今より少し肉付きがいい。これは可愛かった。あまり運動をするタイプではないけど、食べ盛りではあったらしい。この頃の早乙女には一切触れられなかったのが悔やんでも悔みきれない。でも少しでもその感触を確かめてしまったら、理性を保てたかどうかは分からないなと思う。


 高校生になった早乙女は一気に縦に伸びたようで、今では薄っぺらい体になってしまった。勿体無い。でも髪の毛で隠してばかりで一向に垢抜けない顔はいつ見ても安心する。正直成長しないでほしい。俺を置いて大人になるなんて許せない。早乙女はいつまでも卑屈で根暗で明るい世界が嫌いであればいいんだ。

 高校で撮った早乙女の写真をスライドして見ていると、高確率で画角に映る人間が気になった。水上という男。マジで鬱陶しい。コイツ、早乙女のなんなんだよ。

 それともう一人__遠くの端っこの方によく映る人。コイツも気味が悪い。ピントが合わなくて誰かは分からないけど、確実に早乙女を視界に入れている。これは最近早乙女の写真を見返して気が付いた。高頻度で、遠くの方に同じような人が写っているのだ。気付いた瞬間ゾッとした。もし本当にストーカーだとしたら、早乙女のどこがそんなに気に入ったのか聞きたい。どこがいいんだ、あんな普通な男。言ってることめちゃくちゃだけど。


「ねれないの」

「!」


 ビクッとし、咄嗟に携帯を布団に伏せた。ベッド下からもぞ、と起き上がる音が聞こえ、そちらを向くと早乙女が目を半開きにして俺を見ていた。


「っびっくりしたァ! 驚かせんな!」

「んー……」


 このフォルダだけは絶対に見られたくない。

 俺が理不尽に怒っても早乙女は眠気が勝っているらしく、目をしぱしぱさせているだけだった。ばくばくと鳴っている心臓を落ち着かせていると、早乙女は夢現のままふやふやと口を開いた。


「俺がいんの、緊張するんだろ」

「え……」

「俺も……だから、うまく寝れない」

「……お、お前ごときに、緊張なんてしない」

「昔の夢見た」

「昔の?」

「小学生のとき、一緒に、モールス信号覚えたの……」


 驚いた。まさか覚えているなんて。

 昔、俺の父が映画で航空管制官の役をやっていた時に、作中でモールス信号が使われていた。それがかっこよくて、二人で一緒に勉強していた。俺が、早乙女を意識するようになる前。うまく喋れなくなる前のことだ。


「射手矢、ツートン、ツーツーツーって分かる?」

「……アルファベットなら、NOだ」

「なんだ、分かるんじゃん」


 当時、日本語すらままならないのに、アルファベット表記の符号を覚えようとして大変だった。俺と早乙女は小学生になってから同じ英会話スクールに通っていたから、アルファベットの方を覚えようと躍起になっていた。ニ人しか分からない暗号でやり取りできたらかっこいいね、と話していたのだ。それは実を結ぶ前にこんな関係になってしまったけど。


「ちょっと楽しみにしてた、お前とモールス信号で会話すんの」

「……」

「……お前が俺のこと嫌がんのも分かるよ、俺ら住む世界違うし」

「……別に、そんなこと、俺は言ったことない」

「うそつけよ」


 ……言ったことあるかもしれないけど。てか、さっきもそういうこと言ったような気がするけど。でも、そんなの本心じゃない。あの頃、周りが勝手にいろいろ言ってただけで。なんて、すぐに否定できればいいのに。俺はどこまでも偏屈で、思っていることを素直に伝えられない。それが悔しくて、唇を噛み締めた。


「やっぱ明日から違うとこで寝るわ。俺のせいで寝れないのは、さすがにかわいそう」 


 乾いた息が漏れた。なんでそんなことを言うんだ。せっかく、ちょっとだけ捕まえた気がしたのに。優しくしたい。優しくしたくて、いっぱい頑張ってみたのに。そんなのあんまりだ。ここで手放したら、もう本当に駄目になる気がする。言え、言えよ、自分!


「……い、いい、ずっと泊まれよ。卒業まで、ずっと」

「……意味分かんねえ。普通嫌だろ」

「じゃあ、お前は嫌か」


 早乙女は言葉を詰まらせた。小さい声で質問で返すなよ、と文句を言っていたが、無視をした。そして、はあ、と息を吐いた。


「思ったより嫌じゃない」

「え……」

「……恥ず」


 寝る! と言って早乙女はまた布団の中に潜り込んだ。俺、今どんな顔してる。たまらず、逸る気持ちのままスマホを握ってベッドから降りた。


「おい、スマホを出せ」

「は……」

「出せっつってんだ」

「いやなに、怖」


 早乙女はむくりと起き上がり、訝しげな表情で自分のスマホを手にした。


「連絡先、教えろ」

「……えー」

「なんだその態度は!!」

「分かったから、うるさいな!」


 はい、と早乙女のスマホの画面にQRコードが表示された。すぐさま読み取り、光の速さで友だち追加した。


「……これでいいだろ。獅子倉とは連絡先交換するな。俺でいい」

「獅子倉くん強火担だもんな」

「だから違う!」


 俺は叫びたい気持ちを抑え、自分のベッドに戻った。返ってこないとは解っていても、秒で獅子倉に「早乙女の連絡先げとった」と送った。簡単に言うと浮かれていた。今の俺は、なんでも言える気がした。


「俺も、別に嫌じゃない」

「……冗談?」

「……お前、俺が冗談しか言わない男だと思うなよ」


 早乙女は他になにかいろいろと言いたそうにしていたが、ふうん、とだけ呟いて、静かになった。寝息は聞こえてこない。お互いがお互いを意識しながら、時間は流れていった。

 どうにかして、早乙女にもっと優しくしたいと思った。








7 早乙女の場合④


 射手矢との奇妙な共同生活が始まった。

 最初のほうこそいつも通り、俺はブスやらバカやら低能やらの罵声を浴びながら過ごしていたけど、数日もすれば射手矢はそれを言うことすら疲れたのか、「かなり口が悪い」から「口が悪い」くらいには降格した。降格……昇格か。あと、本当に自室の浴室も使わせてくれた。これは嬉しい。絶対に湯船にお湯も張ってくれるし、意外と先に風呂に入らせてくれるし、むしろ「絶対に先に入れ」と言われるくらいだし、意外なところで俺を優先してくれる。俺は結構ズボラなので、勉強したあとの教科書とか発生したゴミとかはある程度放置してしまうが、射手矢は綺麗好きなようで、文句を言いながら片付けてくれる。ベッドメイキングまでしてくれる。何故そこまで、と思わなくもないが、かなり快適だった。

 別に仲良くないし今までの俺への言動を許したわけではないけれど、どれだけ射手矢が嫌だったかを思い出せなくなるくらいにはこの生活に慣れていった。






 今日は照明のレクチャーを受ける日だった。最初のうちはプロの照明さんが来てセッティングや使い方を教えてくれるらしい。ファッションショーの照明係は計4人。俺と水上と、普通科の二年の二人。


「デジタル卓で明かりを操作する人一人、ムービングライトを操作する人一人、あとピンスポットライト二人で分かれてもらうけど、どうする?」


 照明さんがそれぞれの役割を簡単に説明してくれた。デジタル卓で基本的な照明を操作をし、ライブなどで見るレーザービームのように動くあの照明はムービングライトと言うらしく、ピンスポットライト……略してピンスポはムービングとは違い手動で対象物に光を当てるものらしい。ウォーキングするモデルはピンスポで光を当てる。

 どれも大変そうと迷っていると、ジャンケンが始まってしまい、案の定俺は負けた。で、ピンスポ役になった。……八木沼くんが言ってたピンスポ役を、はからずとも担ってしまうことになった。つまり、俺が射手矢と八木沼くんが作った服に光を当て続ければいけない可能性があるということだ。射手矢に対しても八木沼くんに対しても、癪だという気持ちが拭えない。俺の意志ではない。

 ちなみに、水上はムービングをやることになった。くるくると回る照明機材を見て、終始たのしー! とはしゃいでいた。ムービングはファッションショーではそこまで必要ではないらしく、勝手に操作しちゃおうかな、と水上は言っていた。怖すぎる。


 体育館を見ると着々とステージの準備が進んでいて、なんとなく形になってきた。どこもかしこも忙しなく動いていて、お祭りの前の感じが伝わってくる。俺と水上は早々に壁に持たれかかり休憩をしていた。


「俺も寮生活にすればよかった」

「なんで?」

「なんとなくー」


 文化祭の準備の後は勉強する気にならないとか、当日は食物科のご飯が楽しみだとか、そういう取るに足らない話をしているとき、水上がいきなりそんなことを言った。理由を聞いてもなんとなく、しか言わない。


「まあ、水上が寮にいれば今は水上の部屋泊まってたな」

「……射手矢くんとの共同生活はどう?」

「んー、思ったより大丈夫」

「へーーー」


 ……質問したくせに、めちゃくちゃ興味なさそう。ムカついたので、水上のほっぺをつねった。いひゃい、と間抜けな声が漏れる。


「つまんなさそうにするな」

「そういうの聞いても楽しくないもん。もっと無茶苦茶な喧嘩とかして、最終的に早乙女が泊まる部屋なくなればいいと思ってる」

「人の不幸で栄養摂取するタイプ?」


 水上がピアスをいじりだした。最近気付いたけど、水上が不機嫌になったり興味をなくすとやる癖だ。表情にそういう不満は表れてない。本人は多分この癖に気付いていない。射手矢の部屋に泊まることになったと報告してから、水上は何故か不機嫌になることが多い。


「まあ、卒業までだし。何も起きないように無難に過ごすわ」

「何ヶ月もあるよ。ずっと射手矢くんのとこいるの?」

「もう自分の部屋に住みたくないしな……」

「ふーーーん」


 またこれ。このつまらなさそうな反応。どうすればいいんだよ。俺は機嫌の直し方なんて、モノで釣るくらいしか思いつかない。


「……文化祭の時飯奢るよ」

「おー、いいね。俺食べたいのいっぱいあるから」

「全部とは言ってないぞ。俺の経済力なんてカスだからな」

「じゃあ俺も早乙女に奢ってあげるー」

「交換するだけじゃん」

「えー交換いいじゃん」

「意味ないじゃん」

「人からもらったものって美味しいじゃん」


 じゃん、じゃん。じゃんのラリーが暫く続いた。

 いつの間にか水上の機嫌は直っていて、また照明機材をぐるぐると動かし始めた。水上はよく分からない男だ。






 文化祭の準備期間中に提出の締切があるプリントなんてかなりたちが悪いと思う。俺みたいな後回し族はまんまとそのトラップに引っかかってしまった。担任に提出しろと言われて仕方なく寮に戻ったが、そのプリントは射手矢の部屋にある。部屋の鍵は射手矢が持っているので今は入れないことに気付き、諦めて明日にしようと踵を返した。

 そういえば今日お昼ご飯食べてないなと思い寮の食堂に向かうと、蟹井くんがご飯を食べていた。


「蟹井くん!」

「おー! 早乙女くんだ!」


 蟹井くんは俺の顔を見てにぱっと笑い、空いている隣の席をばんばんと叩いた。やっぱりうるさい。俺は誘われるがまま隣の席に座った。蟹井くんは顔だけ見ればまごうことなき可愛い女の子なので、こうも「歓迎してます!」みたいな出迎えられ方されたらこっちのテンションも上がってしまう。蟹井くんと会うのは、多分二週間ぶりとかではないか。


「久しぶりだね。なにしてたの?」

「んー、ずっと絵描いてた!」


 先程まで描いていたのだろう。絵の具で汚れた手のままパンを頬張っていた。蟹井くんに一度衛生面で指導をしてあげたい。


「……蟹井くん、ソレなに?」

「コロッケパンホイップがけソースマシマシチョコスプレートッピング」


 ほぼ詠唱だった。嘔吐きそうになったのを無理やり飲み込んだ。今日も蟹井くんの味覚は元気に死んでいる。


「今なんの絵描いてるの?」

「文化祭のー」

「へぇ、見たい」

「見たいの?」


 蟹井くんは最後の一口を頬張り、ぱっちりと開いた目で俺を見た。口の周りにホイップクリームがついていたので、紙ナプキンで拭ってあげたらにこっ! と笑った。可愛い。


「俺の部屋来る?」

「なんで蟹井くんの部屋?」

「俺、部屋で絵描いてんだー」

「教室とか美術室じゃないの?」

「うん。人いっぱいいるところ嫌で」

「授業とかはどうしてんの?」

「あんまり出てない」


 だから校舎内で蟹井くんをあまり見ないのだろうか。この学校の何でもあり感はいいところとも言えるけど、蟹井くんみたいに寮と部屋しか往復しない人もいそう。


「俺の絵、見よー」

「ちょ……」


 蟹井くんは俺の腕を掴んで、スキップしながら食堂を出た。そのまま蟹井くんの部屋まで連れて行かれ、中に入った。最上階の一番端っこ、覚えやすい場所にある。初めて蟹井くんの部屋に入ってしまった。


「お、おじゃまします」

「どうぞ〜」


 部屋の広さは、多分射手矢の部屋くらい。俺の部屋より全然広い。ただ、物であふれていて驚いた。世の中の美術室のごちゃごちゃした感じを詰め合わせたような部屋だ。蟹井くんが描いたであろう絵や作った作品がそこら中に放置されていた。放置という言葉が正しい。天井からは自作のような、謎の物体のモビール。少し埃っぽくて、あまり掃除をしていないことが伺える。あと、絵の具の独特な匂いと妙に甘ったるい匂いが漂っていた。

 奥へ進むと、大きなキャンバスがイーゼルの上に立て掛けられていた。一面真っ黒。多分、いろんな色が混ざった上でのこの色なんだろうけど、素人の俺からしたらただの真っ黒な絵にしか見えない。


「……これ?」

「うん。早乙女くんだよ」

「え?」

「これ、早乙女くん」


 俺の絵、ということだろうか。まさか本当に描くとは。いや、黒……。どういう意図をもってこれなんだろう。負のオーラがどうたらと言ってたから、それ? まだ作成途中なんだろうけど、いろいろ聞くのも野暮なのでなにも聞かないことにした。蟹井くんは天才なので、この絵にもきっと価値がつくのだろう。


「あは……ありがとう」

「嬉しい?」

「……ん、うん」

「ンフフ!」


 蟹井くんは満足そうに笑った。まあいっか、楽しそうだし、好きにやってもらおう。


 周りをぐるっと見渡すと、美術品に紛れて一つ、大きめのテディベアが床に置いてあった。かなり年季が入ってそうな色合いだ。


「このクマは家から持ってきたの?」

「うん、そうだよ。タナハシって言うんだ」

「タナハシ……、タナハシ?」

「この子の名前だよ」

「タナハシって、……えぇ、このぬいぐるみのことだったの?」

「そうだよ!」


 何故か引っかかる名前だと思った。確かにぬいぐるみに付けるにはやや人名的すぎるけど、そういう違和感ではなくて。どこかで聞いたことのある名前だと思って記憶を辿ってみたら、蟹井くんと初めて会ったときのことを思い出した。


 ニ年生になりたてくらいの頃だった。食堂でご飯の乗ったトレーを持ちながらどこに座ろうか迷っていたら、俺の横を通り過ぎた生徒にいきなり「タナハシ!」と、かなり大きな声量で声をかけられた。それがまさしく蟹井くんだったのだ。

 このビジュアルと、雰囲気と、謎の名前。困惑しながら「いや、早乙女です」と答えた。すると蟹井くんは俺の顔をじっと見て、サオトメー、と初めて見る単語のように呟いて、どこかへ行ってしまった。奇怪だった。それから、蟹井くんは俺を食堂で見つけるたびに声をかけてくれるようになった。一体俺をどのタナハシと間違えたのかと思ったが、まさかテディベアだとは思わなかった。


「なんであの時俺のことタナハシって呼んだの?」

「タナハシと同じだったからー」

「俺が……? どこが?」

「匂い!」

 

 そう言われて、テディベアに鼻を近づけて匂いを嗅いでみたけど、テディベアの匂いもよく分からなかったし、自分自身の匂いもよく分からなかった。まあ、俺の体臭は蟹井くんを叫ばせるほど、ほとんどタナハシなんだろう。


 テディベアがある方向と反対方向、作業スペースの横をチラッと見ると、パーテーションで部屋を区切っているのが分かった。そっちにはなにがあるのだろうか。


「蟹井くん、この中は何があるの?」


 俺がパーテーションに手を掛け、少し動かそうとすると、すぐさまその手は掴まれてしまった。


「さわんないで」


 と、蟹井くんは貼り付けたような笑顔で俺を静止した。手の力が強い。妙に圧があり、驚いてごめんとも言えず手をおろした。怖かった。


「……ベッドだよー、フツーの!」


 そんな表情をしたのは一瞬で、一秒後にはいつも通りの蟹井くんに戻っていた。


「あ、ああ、寝室……。分けてるんだ」

「うん。見られるの、恥ずかしいしー」


 ……蟹井くんに恥という感情があるのか。

 蟹井くんはそのまま背後から俺の肩を掴み、そこから遠ざけるように俺をずるずると引きずって行った。


「なにする? 早乙女くんも絵描く?」

「いや、俺絵は……」

「あのねぇ、粘土もあるよー」

「ごめん、俺そろそろ文化祭の準備戻らないと……」

「えーっ!」


 そんな、悲しそうな顔をしないでほしい。なまじ顔が可愛いので、気持ちが揺らいでしまう。


「……あ、そうだ。蟹井くん、連絡先教えてよ」


 無理やり話題を変えるために、前から気になっていた蟹井くんの連絡先を聞くことにした。これで何かあった時に蟹井くんとやり取りができる。


「俺、ケータイ持ってないよ」

「えぇ……? 嘘、持たない主義?」

「昔持ってたんだけど、なんか、いろいろ駄目にしちゃってー」

「駄目に? 壊れたってこと?」

「ううん。SNS」

「え?」

「SNS、駄目にしちゃって」


 SNSを駄目にする、とは。


「ミナミにケータイ止められてるんだー」

「ミナミ?」

「俺に、仕事持ってくる人」

「マネージャー、みたいなもの?」

「俺の実家の家事とか車の運転とかしてるよ」

「それは……」


 執事? 蟹井くん、もしかしてめちゃくちゃ金持ちなのでは。その人に、ケータイを止められてる……親とかじゃないんだ。どういう関係なんだろう。なんとなく、これ以上はあまり深く聞けなかった。


「じゃあ、俺お暇するな」

「んー」


 なんか、不思議な部屋だったな。奇術師の部屋みたいな。物一つ一つに何かしらのまじないがかけられてそうだ。

 部屋を出ようと出口に向かうと、背後から蟹井くんに「早乙女くん」と呼び止められた。肩を叩かれたので、後ろを振り返る。


「な」


 に。

 二文字目は、蟹井くんの体に吸収された。

 眼前にネクタイで作られたぐちゃぐちゃのリボンが見える。頭には蟹井くんの手のひらの感触。一瞬理解できなかった。これは多分、俺の顔が蟹井くんの体に押し付けられている。


「__え」

「俺の、俺の匂い〜」

「は、」

「分かる?」


 分かるって、なに。匂い?


「……絵の具の、匂い……あと、ちょっと……甘い」

「ん、そう、俺はー、絵の具に香水混ぜてんだぁ」

「へ、へぇ、そうなんだ……」

「覚えてね」


 蟹井くんは俺の頭部から手を離し、絵の具で汚れた手のまま、俺の頬に触れた。背の高い蟹井くんに合わせて顔が上を向く。


「これが俺の匂いって、覚えて」


 蟹井くんは俺を見て笑った。いつもの花が咲くような笑顔じゃない、イタズラが成功した時みたいな、そんな笑顔だった。

 俺は蟹井くんの顔を見ながら覚束ない足取りで後退し、廊下に出た。


「んじゃねぇ、また会おー」


 バタン! と雑に扉が閉まり、すぐに鍵をかける音が聞こえた。


「は」


 蟹井くんに触られた頬に手を当て、もう片方の手は自分の心臓にやった。


 え、え?

 今のなに。奇術?








8 射手矢の場合④


「毎秒俺に早乙女くん観察日記送ってくんのやめてくれない?」


 ピコ、ピコ、とノスタルジックな機械音が獅子倉の手元から流れている。


「俺の感情はどこにぶつければいいんだよ」

「本人にぶつけなさいよ」

「引かれるだろ」

「分かってんなら俺に送るのやめろよ。俺はニ年前からお前に引いてんだよ」


 お昼ご飯を食べ終えた獅子倉は、まるでスマホを操作するかのような自然さで小さいたまご型の電子ゲームをやっていた。小さい謎のキャラクターを育成する、たまごのアレだ。この顔で……と思って見ていると、獅子倉は俺の視線に気付いて、鞄からもう一つ色違いのそのゲームを取り出した。


「なんで複数持ちしてるんだよ」

「ファンの子から貰った」


 獅子倉は意外とこういうキャラクターが好きだったりする。女児が好きそうな、小さくてゆるいやつ。ちなみに獅子倉の好きな動物はハムスターらしい。この顔で、ちいさい命が大好きなのだ。

 獅子倉はもう一つのゲームを持ち、俺の前に差し出した。


「これやるから、毎秒はやめろ」

「いや、いらんが」

「サオトメって名前付けて育てればいいよ」


 ……仕方がないので受け取った。


「なんだ、この小さいキャラクターは。俺が知ってる有名なやつと違う」

「それ、幼児期な。幼児期から育てんだよ。お前が知ってるあのキャラは反抗期とか思春期を経ての姿」

「エッ……早乙女の幼児期と反抗期と思春期を俺が育ててもいいのか!?」

「お前って本当に清々しいほどキモいよな」


 獅子倉がガチめの嫌な顔をしていたが、俺はこのゲームの画面に夢中になっていた。


「俺がちゃんと早乙女の側にいれたのは、小三までだったから……その先の早乙女の姿を投影して育てられるのは、嬉しい。いいゲームだ。このゲームに課金制度はあるか?」

「ごめん、俺が特殊な楽しみ方を教えたばかりにお前の性癖を捻じ曲げちまった。課金っていう概念もない」


 このゲームは何世代前のものなんだろう。画面に映っているこの小さい物体は単調な動きしかしないし、表情もないけど、これが早乙女だと思った途端可愛く見えてきた。集中している俺を見て、獅子倉は苦笑いをした。


「お前、拗らせる年齢早すぎ」

「……小三で男を好きになったって気付いた俺の気持ちを考えてみろ」

「まあ、そりゃそうか」


 獅子倉はそう言って、また俺と一緒になってピコピコとゲームを操作しだした。俺の過去に首を突っ込む気はあまりないようだ。






 この日は午後に雑誌の撮影があったので、文化祭の準備は抜けて現場に向かった。メンズファッション誌の撮影だった。


「あら? ちょっと隈ある?」


 担当の、男のメイクさんが俺が写った鏡を見ながら、目の下を触った。なんでもお見通しだ。


「最近あんまり寝れなくて」

「おぉ、馬鹿みたいに規則正しい射手矢くんが。珍しいわね、なにか悩みでもあるの?」

「……悩みなんていっぱいある……あります」


 ニつしかないけど。早乙女のことと、親のこと。


「好きな子のことと、お家のことでしょ」


 俺が目を見開くと、メイクさんは得意げに笑った。まあ、俺が話すことなんてそのニつしかないから。


「どうしたら好きな人とちゃんと会話できますか」

「ち○おの恋愛相談コーナー?」


 俺の肌にスポンジを押し当てながら、ガハハと笑っていた。笑い事ではない。俺は早乙女と九年間ほどまともに喋れてないんだ。


「俺は真剣なんです」

「いやー、ごめん。今みたいな感じでいいじゃん。自然体で」

「それができたらしてます」

「まあ、そうよね。逆に、どうしてちゃんと会話できないの?」

「それは__」


 メイクさんは、俺の話を聞きつつも、手は止めなかった。それが喋りやすくて良かったのかもしれない。


「普通に喋ってて、俺の考えとか好意とかを否定されたら嫌だから」

「わはは」

「ちょっと!」

「ごめんって、あまりにも可愛いから」

「俺は真剣なんです!」


 相談相手ミスったかな。

 メイクさんはアイシャドウを取り出したので、俺は自然とまぶたを閉じた。耳には改まったかのような、優しい声が流れてきた。


「普通に喋ってた頃は、その子になにか否定されたの?」

「……そんなことは、ないですけど」

「じゃあきっと大丈夫よ。理由もなく射手矢くんを否定しないわ」

「そんなの分かんないです。俺はソイツを否定したから、もう俺のこと嫌いかもしれない」

「こんなにかっこいいのに、うじうじしちゃって」

「俺よりかっこよくないやつのがソイツと仲いいから、かっこよさとか意味ない」

「あら、馬鹿と鋏とかっこよさは使いようよ」

「遠回しに馬鹿って言わないでください」


 今は何も考えずに会話できるのに。なんでこれができないんだろう。俺だって隠れて早乙女の日記をつけるんじゃなくて、ちゃんと本人と話したい。せっかく一緒の部屋にいるのに、結局ちゃんと喋れないままだ。


「会話ってね、まず自分が相手の話を聞くところから始まるから。相手がなにか話してくれたら、最後まで聞く。頭ごなしに否定しない。射手矢くんも言ったように、自分の考えとか発言を否定されたら傷つくからね。聞いて、まずは受け入れて、寄り添うの。相手が自分の考えと違うなーって思っても、その人の考えを受け入れてから話す。その方がお互いハッピーだからね」

「受け入れる……」

「好きな子に限った話じゃないけどね。家族も一緒。射手矢くんはもっとご両親とも会話してみてもいいと思うけどなあ」

「……はい」

「まあ、偉そうに言ってる私も親とマトモに分かり合えないまま上京したけど……」


 俺のメイクは完成したらしい。テキパキと道具を片付けながら、メイクさんは苦笑いをしていた。


「なんだかんだ、女の子っていっぱい喋る男より自分の話をたくさん聞いてくれる男の方が好きだからね。聞き上手はモテるわよ」


 そう言って、俺にウインクをした。なるほど、聞き上手。


「以上、大先輩からの金言でした」

「……ありがとうございます。でも俺が好きなの女じゃないです」

「あら、そうなの。まあ今どきそういうパターンも……っえ、え、そうなの!? ちょっと、早く言ってよ! 男同士の恋愛ならお兄さんもっとアドバイスできるわよ!?」

「なんですか!」

「逃げられない状況で、堂々と告白!」

「全ッ然参考にならない!」






 撮影が終わり、迎えのタクシーを待っていた。芸能活動をしているからと言って、俺にマネージャーがついているわけではない。仕事は全て親がスケジューリングしているうえ、俺の私生活も把握して口出ししてこようとする。それがめんどくさいから、まだ仕事をしているほうがマシだと思って休日の仕事も断っていない。たまの休日は、勉強だと言っていろんな舞台を観させてもらったりもする。惰性でやっているけど、両親は俺が精力的に活動しているのが嬉しいらしい。

 本当は両親が勧めてくれた芸能科も入りたくなかったけど、早乙女が一緒の高校に行くと聞いたから仕方なく入学した。早乙女の進路が違ったら、もしかしたら俺はこの生活にもっと早くに蹴りをつけていたかもしれない。なんてたられば論は、俺の弱さだしただの責任の押し付けだ。


 スマホで両親からのメッセージを確認し、返すのも億劫なので一旦ページを閉じると、早乙女からメッセージが届いているのに気付いた。


『お前の部屋鍵かかってて入れない』

「あっ」


 そういえばそうだ。俺しか部屋の鍵を持ってないから、俺が鍵をかけたら早乙女は中に入れないんだった。時刻を確認すると、もう夜の八時になっていた。メッセージが来てたのは、三時間も前だった。


『今どこにいる』


 慌てて俺が送ると、すぐに早乙女からメッセージが返ってきた。


『獅子倉くんの部屋』


「ハァ!?!?」


 なんで、いつどこでそんな仲に。たまたま出会ったのか? いや、普通科の生徒と芸能科の生徒が寮内でたまたま出会える確率なんてかなり低い。俺は特殊枠として。じゃあ早乙女と獅子倉はいつの間にか連絡先を交換し合って、やり取りをしたのだろうか。俺が、俺というものがありながら!!


『今から帰る。獅子倉には指一本触れるな。その部屋から今すぐ出ろ』

『同担拒否怖』

『ちげえよブス調子のんな』


「あ”あ”あ”違うってぇぇぇ……俺が調子のんなよ……バカ、俺のバカ……」


 送ってから後悔。すぐに既読がついたから取り消しもできないし。既読スルーされたし。メイクさんと話した内容をもう忘れているのか、俺は。てか、獅子倉も獅子倉だよ。なんでコイツは俺へのメッセージが一切ないんだ。もし早乙女と獅子倉が連絡先を交換していたなら、俺に隠していたということになる。俺が早乙女を好きだと知っていながら。けしからん。とりあえず獅子倉には罰として蓮コラの画像を送りつけておいた。苦しみやがれ。


 暫く待っているとタクシーが来たので、それに乗車して寮に向かってもらった。移動中、獅子倉から貰ったあのゲームを取り出してピコピコと操作した。小さいよく分からん生物が単純な動きをしていて可愛い。俺はこの小さい命を絶対に守っていかなければいけない。これは俺が無駄にした、早乙女の幼少期の投影だ。


 俺が早乙女とうまく話せなくなったのには、ちゃんとした理由があった。大きな原因が、俺を取り巻く環境だった。

 「芸能人夫婦の子ども」というだけでいろんな大人やクラスメイトから注目を浴びるのは当たり前だった。それでも、俺も早乙女も最初はあまりその立場を気にしていなかった。俺と早乙女は、昔は本当に仲がよかった。本当だ。お互いが一番だったし、何をするにも二人で一緒だった。あの頃は、多分……早乙女も俺に対して人一倍好意を向けてくれていたと思う。俺が他の子と遊んでいるといじけるし、離れたくなさそうだったし、俺と結婚するとも言ってくれた。本当だ。俺は実績だけ見ると早乙女にプロポーズされているのだ。ガキだとか関係ない。俺はいざとなったらこのネタを持ち出すつもりだ。


 閑話休題。転機が訪れ始めたのは、小学生になって一年経ったくらいだった。早乙女が学校生活で嫌がらせを受ける場面が増えていった。理由は、俺と仲がいいから。有り体に言えば、顔がいい芸能人の子どもと仲良くできている、なんの取り柄もない普通の男が不満だったのだろう。まだ幼い小学生だからといって、いじめが起きないことはない。心が未発達でも羨ましさとか独占欲はずっと昔から備わっているので、それが幼いなりの気持ちの発散として形になってしまった。

 早乙女は最初自分が嫌がらせを受けているとは微塵にも感じていなさそうだった。鈍感だったのだ。俺以外はどうでもよさそうだった。本当だ。俺は早乙女に嫌がらせをした人に怒ったり仕返しをしていた。変わらず早乙女と仲良くしていた。一般的な仲良く、ではない。常に手を繋いだり、抱き着いたり抱き着かれたりを、普通に教室の中でしていた。ゼロ距離は俺達にとって当たり前だった。


 でも周りのみんなはそれがおかしいということに気付いていた。まして、男同士で。俺達の距離間を揶揄われたときに、初めて自分が「普通ではない」ということに気付いた。なんで男なのに男が好きなの、お前女なの、オカマなの、と。悪意があったのかなかったのか、そんなことを言われた。ショックだったし、恥ずかしかった。

 俺はその言葉を真に受け、早乙女を露骨に避けるようになった。とにかくそのときは普通になりたいと思っていた。自分が芸能人の子どもだということも自覚していたし、それだけで遠巻きにする子もいた。ただでさえ普通の子どもじゃないのに、もっと普通じゃなくなったら、もうこの教室でやっていけないと思ってしまった。早乙女の気持ちなんて全く考えていなかった。小二、三の俺には、自分のことだけを考えるので精一杯だった。


 少しずつ早乙女を遠ざけて、きつい言葉も向けるようになって、でも嫌いになれないから放課後はたまに遊んで。正真正銘、俺は嫌な奴だっただろう。でも、俺の態度が変わっても、早乙女は何も言わなかった。俺は早乙女が自分から離れないという、謎の自信に満ちていた。


 だから、自然とまた元通りに戻れると思っていた。


「あの、お客様、着きましたよ」

「あ、ああ……。えっと、領収書お願いします」


 いつの間にかタクシーは寮の前に停車していた。お金を払い、タクシーを出てすぐに自分の部屋に向かった。するとそこには早乙女がいた。


「え、なんでいるんだ」

「お前が獅子倉くんの部屋から出ろって言ったんだろ」


 扉の前に寄りかかりながらスマホゲームをやっていた早乙女は顔を上げた。あのメッセージを送った後、律儀に俺の言葉の通りに動いてくれたんだ。可愛い、可愛いすぎる。俺は獅子倉に勝った。思わず早乙女を眺めてしまった。


「なんだよ」

「……別に」

「頻繁にエリカ様になるのやめろよ」


 早乙女をじっと見下ろすと、早乙女はハッと気付いて分けていた前髪をぐしゃぐしゃと梳いて元に戻した。勿体無い。早乙女への暴言を吐きそうになったのをぐっと堪え、部屋の鍵を開けた。


 最後尾でマラソンのコースを走る早乙女の手を取ったあの日、俺は自覚してしまった。

 俺の早乙女に対する「好き」は、普通の「好き」ではない。そんなことがあってはならない。俺はみんなと同じ、普通でありたかった。だから、言ってしまった。こっち見んなブス、と口から出た言葉は早乙女を遠ざけるのには十分すぎた。

 早乙女はこの現状を既に諦観していたのか、うん、と呟いたきり、反論も泣くことも怒ることもしなかった。それ以降早乙女は俺に近付かなくなった。周りからの早乙女への嫌がらせはなくなったけど、早乙女はちっとも嬉しそうではなかった。髪で顔を隠し、いつも一人で何かを言いたそうに過ごしていた。

 俺は、謝ることもできず、どうやって前みたいに話していいかも分からず、早乙女に思ってもない言葉を掛けたり、揶揄ったりした。ごめんなさい、また一緒に遊びたい、と心では思っても、言葉にしようとすれば、魔法がかかったかのようにそれとは反対の言葉が出てきた。

 あの日以降、俺はもうずっと早乙女の笑った顔を見ていない。


「……なあ」


 明日の準備か、鞄の中を漁っていた早乙女が顔を上げた。気難しそうな、他人を寄せ付けなさそうな顔をしている。実際は、そんなことはないのを知っている。


「俺の、」


 俺のこと、本当はどう思ってる。


「……俺の、入眠まで寝るな……」

「関白宣言かよ」


 なんて、今更聞けない。








9 早乙女の場合⑤


 この学校で秘密にしていることなんて、あってないようなものらしい。


「あっ、スミマセン……」

「……チッ、一般人が」

「……え」


 これは数秒前のやり取りだ。

 俺は自分の立ち位置を理解しているので、廊下を歩くときは寄れるだけ端に寄っている。なんて可哀想な生き物だろう。で、いつものように廊下の端っこを歩いていたら、他学科の女子の肩にぶつかってしまったから謝ったら舌打ちをされた。怖すぎて心臓がバクバク鳴った。もうこれからは廊下の壁にめり込むくらい端に寄ろうと思ったけど、よく考えればちゃんと道の中央を開けてるのに他人と肩がぶつかってしまうのもおかしい。多分だけど、相手がわざと俺にぶつかってきたんだと思う。何故、と思ったけど、それは翌日の朝解明された。


「えっ」


 下駄箱の中、スリッパの上に手で破いたような紙の切れ端が置いてあった。一瞬だけ、恋文!? と期待したけど、そんなはずはなかった。


『射手矢くんに近寄るなブス 早く部屋から出ていけ』


「ヒ……赤文字……」


 コッッッワ、なんでバレてんの!?

 誰にも言ってなかったのに。

 いや、俺だって早く自分の部屋戻りたいよ! 寮母さんに部屋を変えるかベッドを変えることって可能ですかね、と打診したけど、あと半年なんだから我慢しなさいと跳ね除けられたから仕方ないんだよ! これだから! 秘密にしてたのに!


 俺はこのやり場のない怒りをどこにも消化することができず、とりあえずその紙を千切ってゴミ箱に捨てた。このときはまだマシな方だった。数日後、更に増えていた。


「……勘弁してくれよ」


 思わず独り言も出てしまう。たった数日しか経ってないのに、なんでここまで増えてるんだよ。下駄箱の中の呪いの札みたいなのが、メモ帳くらいのボリュームで詰め込まれている。怖すぎる。これだけの量を捨てるのもバチがあたりそうだしどうしようと迷っていると、気が抜けたような声でおはよー、と声を掛けられた。


「うわっ、なにそれ」

「俺も聞きたいよ」


 水上が俺の背後から手元をのぞき込んだ。オブラートに包まずに言うと水上は性格があまり良くないので、その紙に書かれている文字に怖がったり怒ったりするでもなく、俺のげっそりした顔を見てちょっと喜んでいた。俺は更にげっそりした。一番の脅威は水上かもしれない。


「水上、俺を守ってくれ」

「嫌だよ」

「俺から離れないで」

「えー」


 なんだよコイツ、ちょっと嬉しそうなんだけど。でも「無理、俺今日バチコン手伝わなきゃいけないから」と普通に断られた。バチコンとは、水上の中でインパクトドライバーのことを指す。水上は大道具製作に助っ人として呼ばれているらしい。俺は今日ピンスポの練習をしなければいけないので、水上とは別行動になる。

 正直水上がいないと、俺の横はガラ空きになってしまう。廊下を歩くとき、壁と水上に挟まれて歩いていたので、水上がいなくなると俺の肩はぶつかり放題になるのだ。最近射手矢の信者みたいな生徒から足を踏まれたり足を掛けられたりすることがあるので、普通に怖い。水上が横にいると何も起きないので、水上は俺の盾になってくれている。

 文化祭もあと十日に迫っていて、今日は一日中文化祭の準備にあてられる。一限のチャイムが鳴り次第作業開始なので、教室に着いて数分経てば水上とは別れることになる。せめて教室に着く間だけでも、と俺は壁と水上に挟まれながら廊下を歩いた。


「熱烈なラブレターだね」

「目終わってんのか?」

「気持ちが詰まってる点では一緒だよ」

「お前はどこまで前向きなんだ」


 水上はこの呪いの札を何故か俺から奪い、それを自分の鞄の中に詰めた。何に使うんだ。


「ふむ、『射手矢くんに悪影響なので近寄らないでくださるかしら』」

「俺のアンチってもしかしてお嬢様なのかな」

「こっちは『この害虫が!』って書いてある。アンチ層が幅広いね」

「いらねえよその厚み」


 俺が水上を睨むと、ケタケタと笑っていた。水上がこうだから、この状況に対してイマイチ深刻になれない自分もいる。


「水上は分かんないよな、俺の心境と立場」

「えー、決めつけないでよ」

「多分お前が射手矢の部屋に泊まるってなっても、俺ほどアンチは沸かないだろうから」

「そうなの?」

「お前は性格に難があるけど……何故か若干の人気があるからな……」

「え? そう?」


 そうなのだ。水上は俺みたいな底辺ゴミクズ人間とつるんでいるけど、本来は俺と行動を共にするような人間ではない。最大の違いは、モテるか否かである。水上はこの学校で既に何人かの女の子と付き合っていた。どれも長続きはしてなかったけど、確実にファンがいるのを知っている。去年の体育祭で、水上が走るときに少しだけ黄色い悲鳴が上がっていた。嘘だろ、と思ったけど、体育祭終わりに一個下の後輩から写真一緒に撮ってください、とお願いされているのを目撃した。水上は気取った様子も嫌がる様子もなく、普通に女子生徒と写真を撮っていたけど、俺は裏切られたような気分だった。おいコイツ性格クソだぞ、サイコパスだぞ、特技が肩の脱臼で他人を怖がらせるのを心の底から愉悦できる人間だぞ、と言ってやりたかった。


「もう射手矢くんのとこに泊まるのやめなよ」


 そんなサイコパス・愉快犯・水上に正論を言われたが、それを受け入れることができない。俺はゴキ部屋と射手矢の部屋を天秤にかけ、射手矢の部屋に泊まる方がまだマシと判断している。


「じゃあ水上がこっち来いよ。水上が寮生じゃないからこうなってんだよ」

「他責がすごいな」

「俺だって分かってるよ、自分がブスでキモくて射手矢と釣り合わないことくらい……どうせ俺は部屋に出た虫同然の生き物……だから俺の部屋に出たんだよ……」

「もー、早乙女がめんどくさいことになった……。なんでそんな卑屈になるの。早乙女は別にブスじゃないって」

「じゃあなんで俺は射手矢にブスって言われ続けるんだよ。知ってるだろ、俺は今まで誰からも告白されたことないし、誰とも付き合ったことない。性格もこんなんだし、もうブスな性格が顔に出てんだよ。顔もブス、性格もブス、救いようがねえよ。そりゃ射手矢にブスって言われるし、射手矢のガチ恋も俺が射手矢の部屋に泊まって穀潰しみたいな生活を送ってることにキレるよな」

「穀潰しではないでしょ」

「じゃあそれ以外は真実ってことですか!」

「なんだよもう、めんどくさいな!」


 駄目だ、一度自虐が出ると、関連してとめどなく己の嫌なところが出てくる。水上も白けた顔をしている。


「そうだよ、俺はめんどくさいブスですが……」

「もー、逆にその自信はどこからくるんだよ」


 水上は俺の重たい前髪をつまみ、それをペラっとめくった。広いと射手矢に言われたでこが顔を出す。水上はそんな無防備な俺を見て笑った。


「ほら! 俺の顔見て笑った!」

「いや、ごめんごめん。そんなつもりはない」

「俺の整備されてない顔面に笑っただろ」

「ううん。いい顔をしているなと」

「水上のそれは皮肉にしか聞こえないんだよ。こんな顔が誰かと付き合えると思うか?」

「うん、付き合えるよ」


 水上の手を払い、乱れた前髪を整えた。水上の機嫌はなおり、さっきとは一転して楽しそうだ。

 

「なにを根拠に……」


 水上の言葉に重みはほとんど無いので、聞くだけ無駄だと分かりつつも、ついその先の言葉を聞いてみたくなった。自虐しても、俺を肯定する言葉がほしかった。俺は本当にめんどくさい人間だ。が、水上のその先の言葉は、ちょっと、いやだいぶ、俺の想像していたものと違った。


「少なくとも俺は早乙女と付き合えるよ」

「は?」

「え、なにその反応酷くない?」

「いや、……え? つきあ……え?」

「驚きすぎでしょ」

「お前はなんでそんなに普通なの?」


 水上が普通の態度すぎて真意が分からない。まあ冗談だよ、を待ってみたけどそんな言葉が返ってくることもなく、教室の前まで辿り着いてしまった。嘘ではなさそう。


「は? え、なに、本気で言ってる?」

「え、うん」

「……え、水上今まで女の子と付き合ってたじゃん」

「うん。でも別にこだわりはないよ。俺バイだし」

「バイってなに?」

「分からない? バイセクシャル。どっちもいけるってこと」

「え、え?」


 どっちもいけるって、なに、そういうこと?


「早乙女、もうすぐチャイム鳴るよ」

「あ、うん」


 俺が教室の前で突っ立っていると、水上はいつの間にか準備を済ませたようで、作業場所に移動しようとしていた。

 いやいや。あ、うん、じゃねえよ俺。


「じゃあまたねー」

「あ、うん」


 間延びした俺の返事とリンクするようにチャイムが鳴った。水上は廊下の先で、他学科の友達に早速肩を組まれて談笑していた。






 その日は結局、練習に集中できなかった。そうか、水上って男もいけるんだ。あ、じゃあ俺とも付き合えるってのは可能性の話であって、俺のことが好きだ的な、そういうふうに曲解するのは良くないな、となんとか落ち着くことができた。そうだよな、だって男もいけたとしても、俺なんかより女の子のほうが圧倒的にいいし。

 と考えたはいいけど、やっぱり目の前のことに集中できなかったので、サボって寝ることにした。休憩は各自で自由に取っていいので、これは権利だと自分を正当化した。

 もうすっかり自分の部屋と化してしまった射手矢の部屋に向かい、周りに誰もいないかを確認してから部屋に入る。こういうところから周りの目を気にしないと。射手矢のファンが女の子だけとも限らない。

 床に敷いてある布団に寝転び目を瞑ると、すぐに睡魔が襲ってきた。なんだかんだ、最近の嫌がらせのせいで寝付きが悪くなっていた。眠りにつき、俺は夢を見た。


 俺の横には射手矢がいて、手を繋いでいた。射手矢が着ているストライプの服に見覚えがある。多分、小学生の頃だ。そうか、この頃は射手矢と手を繋ぐことに躊躇がなかったんだ。なんだか懐かしい気持ちになった。


「ちーくん、待って」


 ちーくんとは、射手矢のあだ名だ。俺が射手矢に嫌われるまではそう呼んでいた。どこかに向かっているのか、俺達は走っている。でも俺が射手矢のスピードに追いつけず、足を小石にとられて躓いてしまった。


「あぶない!」


 射手矢はそれに気付き、咄嗟に俺の体を支えた。この頃からこんな立ち回りができる男だったのだ。射手矢はセーフ、と言って俺に笑いかけた。なぜか、涙が出そうになった。


 誰とも付き合ったことがないとはいえ、俺にも好きな子がいたことはある。

 この頃俺は、射手矢のことが好きだった。友愛と恋愛をはっきり区別できない頃なので、今となってはそれが本当に恋愛感情だったのかは分からない。でも昔は本当に射手矢が好きだった。普通じゃない、特別な好きだった。プロポーズまでしてしまった記憶がある。それくらい、ずっと一緒にいたいと思っていた。


 それが、嫌悪に変わった。

 射手矢と繋いでいた手は少し大きくなり、俺と射手矢はマラソンコースを走っていた。最後尾で走っていた俺を迎えに来てくれた射手矢を見て、安心して嬉しくなった。その頃には既に射手矢から冷たい態度を取られるようになっていたから、射手矢の優しさが尚更嬉しかった。でも、それは優しさとかではなく、ダラダラと最後尾を走る俺が鬱陶しかったがゆえの行動かもしれない。最後の人がゴールするまでみんな終われない。そういうルールだったのだ。


「こっち見んなブス」


 射手矢は俺のだらしない顔を見てそう言い、その後は目も合わせてくれなかった。


 僕なんかした、僕のなにが嫌になったの、僕がかっこよくないからちーくんは僕のこと嫌いになったの、ちーくんは僕よりすごい人だから一緒にいちゃいけなくなったの。みんな僕たちのことオカマって言うから、僕のこと嫌になったの。言いたかったけど、走るのに必死な俺は言えなかった。ゴールした頃には、言いたかった言葉全てが諦めの言葉に変わり、射手矢になにも伝えることができなかった。


 次の日のマラソン大会の本番は熱が出て休んだ。昔から思い悩むと熱が出やすい体質だった。ずっと射手矢のことを考えて、自分が嫌になって、明日行きたくないな、また馬鹿にされるのかな、と悩んでいるうちに見事に熱が出た。その次の日にはすっかり治っていたので学校に行くと、いろんな人から仮病だろと言われた。射手矢にまでも言われた。俺のこの体質を射手矢は知っているし、今までは絶対俺の肩を持ってくれたのに。あー、もう完全に嫌われたんだな。と、自分が蔑ろにされたと気付いた瞬間、全部がどうでもよくなった。俺の性格が捻くれたのは、この日からだったかもしれない。


 射手矢はそれ以降も俺に対して悪口を言ってくるし、俺の隣を歩いてくれることはなかった。俺は今更、射手矢以外の仲がいい子も作れなかった。本当は少し期待していた自分もいた。ひとりぼっちになった俺を見て、また射手矢が手を差し伸べてくれると。射手矢はまだ俺のことを一番に考えてくれると、そう思っていたけど、射手矢がまた俺と前みたいに喋ってくれることはなかった。俺は、ただ単純に射手矢が好きで、射手矢と一緒にいたかった。でも、その心を踏みにじられた。


 射手矢のことが好きだったからこそ、嫌いになった。

 そして、俺は俺自身も嫌いになってしまった。

 

「ちーくん、」


 ゴト、っと音が聞こえ、意識が覚醒した。

 体を起こして音が鳴った方に顔を向けると、射手矢がしゃがみ込んで静かに悶ていた。どうやら机の角に足をぶつけたらしい。


「なんでいるの」

「……俺はここの家主なんだよ、いちゃ悪いか」

「そこまで言ってないだろ」


 射手矢は資料のようなものを手にしていた。忘れ物を取りに来たのかもしれない。時計を見るともうニ時間ほど経っていて、かなりサボってしまったことが分かった。億劫だけどバレたらめんどくさそうなので、そろそろ練習に戻ることにした。布団から起き上がると射手矢が、なあ、と声を掛けた。


「……体調悪いのか」

「え、ううん、そんなに」


 まさか射手矢がそんなことを言ってくるなんて。少しの罪悪感から、視線を合わせることはできなかった。その後の返しはなく、射手矢は無言になってしまったので部屋を出ようとした瞬間、蝶番の音に重なって小さく声が聞こえた。


「な、なにか、必要なものがあれば言え」


 え。

 俺はゆっくりと射手矢を見た。射手矢は俺を見ていなかった。足元に視線をやり、気まずそうにしている。


「と、特には……」


 病人じゃないしな。無難に断ると、射手矢はそうか、と呟いた。俺はそれに碌な感謝も伝えることなく、部屋を出た。

 そのまま無心で体育館まで行き、キャットウォークに登って薄暗い照明ブースに隠れるようにしてしゃがんだ。


「はぁ……」


 なんだ、アレ。

 気遣うなよ、俺なんかに。そもそも嫌いな人間が自分の部屋で堂々と昼寝してることに腹を立てろよ。平気で暴言を吐く場面だろうが。お門違いだけど、なぜか逆ギレしそうになる。


「なんだよ、俺のことなんかほっとけよ……」


 最近の射手矢を見ていると、今までのこと全部許したくなってしまう。






 なんだか今日一日ずっとフワフワしていた。寝た後も全然練習に集中できなかった。あと二週間ほどで文化祭が始まるのに、大丈夫なんだろうか。照明ブースでぼーっとしていたらいつの間にか最後の一人になっていて、俺は急いで玄関に向かった。

 薄暗くなった校舎には人の影が見えず、少し怖かった。だから、玄関に誰かが一人で佇んでいるのが尚更恐怖だった。シルエットしか見えないけど、多分女子生徒だ。怯えながら近寄ったが、その人はどうやら俺の下駄箱の前で立っているらしい。俺、虫とジャパニーズホラーが一番無理なんだよ。どうやってこの場所を回避しようかと迷っていると、その女子生徒は俺の下駄箱を開けて中になにか紙のようなものを入れた。あ、この人だ。


「あ、あ、あの」


 俺が声を掛けると、その生徒はぎゅんっ! と首を動かして俺を見た。多分、めちゃくちゃ可愛いんだろうけど、今の俺には恐怖でしかなかった。声掛けなければよかった。彼女はその場から動かず、まっすぐ俺を見て口を開いた。


「ご自分の立場を理解していらっしゃいますか」

「え、え」

「単刀直入に申します。射手矢くんと共に生活するなんて烏滸がましいです。何様のつもりなのでしょうか。射手矢くんと同じ空気を吸わないでくださるかしら」


 あ、こいつ、アンチお嬢様の人だ! 絶対そう、バカでも分かる!!


「す、すみません」

「謝るくらいなら、射手矢くんのお部屋からさっさと出て行ってくださらない?」

「ごもっともです……」

「これだけ警告文を送っても、どれも無視なさるなんて随分逞しい度胸がおありで」

「警告文の範疇じゃない……」

「口ごたえなさるのですか? この害虫が」

「ヒィ……あれ同一人物なんだ……」

「射手矢くんは特別なのです。素晴らしい容姿と才能をお持ちになりながら、浮ついた話が一つもない。そういう潔癖さが射手矢くんの完璧さに繋がるというのに……」


 彼女は突然、拳で俺の下駄箱をガン! と殴った。怖すぎてちびりそう。このお嬢様、拳で語るタイプかよ。


「邪魔なんですよ……なぜあなたのような陰キャ野郎が射手矢くんと共同生活をしているのか理解ができない……。同じ芸能科の方ならまだしも、こんなクソ凡人が……射手矢くんを汚さないで」

「俺は、そんな、別に……」

「別にって、なに。あなたが射手矢くんと肩を並べられることなんてあるのですか?」


 射手矢くんから嫌われているくせに。


「__そ」


「俺がなに?」


 女子生徒は声がした背後を振り返り、その人物を見てきゃ、と声を上げた。そんな可愛い声も出るんだ。


「い、射手矢くん……」


 なぜか現れた射手矢に、彼女はたじたじだった。なんてタイミングが良いんだ。射手矢は彼女が手にしていたお札__もとい警告文をじっと見つめ、作ったような笑顔を浮かべた。


「俺のファン?」

「は、は、はい……あの、し、小学生モデルだったときから、ずっと……」

「へぇ、ありがとう」


 彼女はほにゃほにゃと喋り、今にも崩れそうだった。そりゃ嬉しいよな、ずっとファンだった人から直接そんなこと言われたら。しかし、射手矢は容赦なく、でも、と続けた。


「俺は自分のファンに『こんな生活を送れ』とか、『こんな人じゃないとファン失格』とか、そういう強要をするような人に見える?」

「い、いえ、そんな……」

「俺は君に誰と仲良くしろとか、俺のファンなんだからこうであれとかは言わないよ。それを、君も同じように俺に対して思えないかな」

「……」

「あと俺だって、そんな完璧じゃない。俺も普通の人間だから、俺が誰と一緒にいようが許してくれない? 普通の人間だからさ」


 ね、と笑いかけると、彼女は無言で頷いた。最後にごめんなさい、と呟いて、静かに帰って行った。俺は動けなかった。射手矢は俺の下駄箱に入った数枚の紙切れを手に取り、舌打ちをした。


「なんで言わなかったんだよ」


 言いたくなかった。自分でどうにか解決しようと思っていた。言ったところで、どうせこの紙に書いてある通りだろと馬鹿にされると思っていた。


「……お前も思ってんだろ、俺と一緒にいるべきじゃないって。釣り合わないからさ、俺達」

「思ってない」

「んなわけねえだろ。お前はイケメン、俺はブスだ」

「お、思って、ない」

「……もういいって。誰になに言われたか知らないけど、無理やり俺に優しさ見せようとしなくていいから」

「本当に思ってない!!」


 玄関に射手矢の声が響いた。

 射手矢は大股で歩き、土足のまま俺に近寄った。気圧されて後ろに下がると、ぱしっと手首を掴まれた。暗くても分かる。射手矢の顔は真っ赤に染まっていた。なんだよ、今更。


「……嘘だ」

「う、嘘じゃない。本当だ、本当に、俺は……」


 ぎゅっ、と手に圧力がかかる。じめっとしているのは手汗だろうか。脈が締め付けられ、自分の血液がドクドク鳴っているのが分かった。


「俺の幼馴染は、お、お前だけだ……から……」


 なに、射手矢、俺のことまだ幼馴染だって思ってくれてたの。俺はあの日、すっかり諦めたのに。

 顔を上げると、射手矢と目が合った。なんでそんな必死そうな顔をするんだよ。これが演技なら、お前はとんでもない逸材だ。


「射手矢」


 ふる、とまつげが揺れた。不安なんだろうか。射手矢は俺の言葉を待ち、唇を震わせていた。射手矢、ごめん。


「頭に花ついてるよ」

「ッエ!?!?」


 射手矢の頭に綺麗な花の飾りが付いていた。遠くにいたときは暗くて気付かなかった。

 射手矢は咄嗟に頭に手をあて、髪の毛についていた花の飾りをもぎ取った。少し勿体無いと思ってしまった。


「モデルの衣装のやつ? はは……」

「……笑うなよ」

「ふ、その格好であの子にあんなこと言ってたの? あは、ははは……」

「笑うなよ!」

「ごめん、ふは、なんか間抜けで」


 そんな妖精みたいな髪飾りつけて、あんなにキマった台詞を言ったのだと思うと笑えてきた。あの子はなんか頭についてるなとか思いながら説教を聞いていたのだろうか。射手矢に怒られるとは思いつつも、思いっきり笑ってしまった。でも射手矢はそんな俺を見て少し泣きそうになっていた。なんだ、その顔。


「早乙女、あの……」

「……うん」

「いろいろ、その、……わ、る……」


 射手矢は口を開けたまま固まってしまった。言えないのだろう。もういい加減、鈍感な俺でもなにを言いたいかくらいはなんとなく予測ができる。


「……いいよもう。お前もいろいろあったんだろ」


 俺がやっと靴を履いて外に出ると、射手矢も後をついて歩き出した。バイバイとも言えない。また明日、も違う。俺達はこれから一緒の部屋に戻って行く。


「早乙女」

「んー」

「これからは、いろいろ、は、話してほしい」

「なにを?」

「なんでもいい。今回みたいな嫌がらせされたこととか、た、楽しかった、こととか、誰と何したとか……なんでもいい……から、これからは、俺に、話してほしい」


 射手矢、言葉に詰まりすぎだ。お前一応芸能科だろ、とは言えなかった。言いたかったのに、目の奥が熱くて言葉が出ない。


「幼馴染の、続きを、してみてもいい……」


 なんで今更そんなこと言うんだよ馬鹿、遅いよ、もっと早く言えよ。俺たちもう高校三年生だぞ。


「なに、してみてもいいって。上から目線ムカつく」

「……」

「それに、俺に嫌がらせしてんのはほとんど射手矢だろ」

「いや、それはっ……さ、最近は、そうでもないだろ」

「ふはっ、お前、言ってることめちゃくちゃだよ!」


 思わず笑うと、射手矢は顔を赤くしてぼーっと俺を見た。そんな子どもみたいな顔もするんだな。


「分かった、もっと喋ろう」


 射手矢は大きく頷いた。

 そう言ったはいいものの、この帰り道で俺と射手矢が会話することはそれ以降なかった。








次↓

0コメント

  • 1000 / 1000