10 射手矢の場合⑤
「で、ケータリングのお土産持って帰って渡したら、早乙女が目輝かせててさぁ。昔一回だけ友達から貰って食べたことあるお土産だったらしくって、それが美味しかったのが記憶に残ってたけどなかなか食えないから嬉しいって……さぁ……そんなの俺がいくらでも買ってやるんだけど。つーかその友達誰だよ、俺知らないんだが!?」
「うるさっ、クレッシェンドやめろよ……」
「あと部屋の浴室のシャンプー切れてたみたいで、早乙女が扉から顔だけ出して気まずそうにシャンプー無くなった、って言ってたの、マジメッチャ良かった。と同時に、俺が紳士で良かったなとも思った。警戒意識が無さすぎる。まだそこらへんの女子小学生の方が警戒心あるだろ」
「男にそこまで思わねえよってか本当にうるさいからちょっと黙ってくんない?」
「それとさぁ……早乙女が寝言で……ちーくんって、絶対そう言ってた……。早乙女がちーくんって呼んでたの、俺しかいない、絶対いない。早乙女が、俺のことちーくんって……はぁ……愛だな」
「愛だなじゃねえよ。場当たり中なんだよ今。なんで俺の言うこと聞けないの? 頼むから一回静かにして」
だって獅子倉が早乙女関連のメッセージ送ってくんのやめろって言うから。直接言うしかないんだが。
舞台裏に取り付けられているモニターを見ると、モデルがステージを歩いていて、それに合わせて照明も練習しているのが分かった。きっと早乙女も今頑張っているのだろう。今日は音響、照明合わせた練習と場当たり稽古の日だった。これが終わったら衣装合わせがある。
ちなみに芸能科の生徒は文化祭で演劇かファッションショーのモデルかで分かれるが、獅子倉もモデルをやる。獅子倉は演技もできるので迷っていたらしいけど、ファッション科の生徒から強く推されてモデルをやることになった。去年獅子倉は演劇の方に出ていた。古典だったが、所謂悪役で、それが年齢を感じさせないと物凄く評価されていた。獅子倉も伊達に芝居を続けていない。卒業後はきっと俳優兼モデルとして活躍していくのだろう。
直前のモデルが舞台裏に戻り、次は獅子倉の番になった。ん、と俺に持っていたペットボトルを渡し、演出の人の合図でステージに出て行った。獅子倉は俺が口を挟むことなんてない、完璧なウォーキングだった。遠くからフィックスで撮られていても、その脚の長さがよく分かる。特に訂正するところはないようで、そのまま舞台裏に戻って来た。ブランドのコレクションにこの年でモデルとして参加するような男だ。失礼だけど、この文化祭でなんとかして顔を売ろうとしている人とは違う。
そして次は俺の番だった。モデルをやっているとはいえ、ウォーキングを常日頃しているわけではない。それなりに緊張はする。呼吸を整え、ステージに踏み出した。暗い空間に、スポットライトが当たる。俺が歩くたびにその円は一緒についてきた。このピンスポは早乙女が操作しているのだろうか。そう思うとなにがなんでもかっこよく歩いてやろうという気持ちになる。ランウェイの先端に立ち、向きを変えて歩く。俺も特になにも言われることはなく、そのまま裏に捌けた。
この後はすぐに衣装合わせがある。八木沼が作った衣装を着て、所々手直しをしてもらう。時々このタイミングで息詰まって嫌になり、違う衣装を作ろうとするクレイジーな生徒もいるらしい。八木沼はそういうタイプではないだろうけど、突拍子もない発言をしてくるあたり油断はできない。
舞台裏から更衣室に移動し、既に用意されている衣装を着た。モードなスーツに、花やレースやリボンがあしらわれている。スタイリッシュ、ロマンチック、花がモチーフらしい。八木沼はアレで有望株なのだろう。俺からすれば完璧な仕立てだった。その衣装のままもう一度体育館に向かうと、早乙女が照明ブースから離れて壁際に座り込んでいた。紙パックのジュースを飲みながら、ぼーっとステージを眺めている。俺が近付くと、早乙女はぴくっと反応し、俺の姿を上から下までじっと観察した。
「すげえ。様になってんな」
「……」
素直にかっこいいって言えよ……! どっからどう見てもかっこいいって言うしか無いだろうが。なんだよその湾曲した褒めは。まあ無視されたりそっけない態度を取られるよりはマシ……、前の扱いに比べればまだマシ。そう思おう。
横に座ると、早乙女は俺をチラッと見て少し身構えた。間には人一人分くらいの、絶妙なスペースが空く。
もっと喋ろうと言ってくれたが、気まずい関係には変わりない。少しの思い切りがないと、会話のきっかけを喋り出せない。俺達はまだそんな関係だ。なにを喋ればいいんだ。そうやって真っ黒の服を着ていると本当にオーラがないな。違う、そんなことじゃない。お前よりペアの後輩の方がピンスポ上手かったぞ。いや馬鹿、わざわざそんなことを言う必要なんかないだろ。そうじゃなくて、もっと早乙女の話を。
「……ど、どうだ。最近……」
反抗期の娘に話しかける父親みたいな言葉しか出てこない。
「最近って、どの範囲」
「いや、その、照明とか」
「ああ」
早乙女はジュースを吸い、小さくため息を吐いた。
「正直舐めてた。もっと簡単だろうと思ってたけど意外と難しい。さっきの場当たりですら緊張したのに、本番を考えるとちょっと怖い。でも歩く人の方がもっと緊張するよな」
緊張してたのか。後輩の方が上手いとか思ってしまい、罪悪感を抱いた。早乙女は俺をチラッと見て、そしてまた前を向いた。
「ベストモデル、取れるんじゃない?」
「ああ……」
星徳高等学校の文化祭では、各ステージごとに賞があり、生徒一名が選出される。演劇ではベスト俳優賞、ファッションショーではベストデザイナー賞とベストモデル賞がある。各業界から呼んだ審査員が採点をする。この賞はこの高校ではどんな賞よりも意味のあるもので、選ばれた時点で大きな仕事のオファーがかかったり、ネットニュースや雑誌に取り上げられて有名人になったりする。この賞を受賞したOBOG達は全員がその世界で名を馳せている。それくらい名誉あるものだ。その中でもベストモデル賞の受賞者は、新たな雑誌の専属モデルになったり、主演の映画やドラマが決まったりする。芸能人として活躍したいなら、ここで賞を獲得するのが一番の近道だ。
それを考えて、俺は何も返せずただ浮かない顔をしてしまった。早乙女は俺の顔で察したのか、更に気まずそうにした。
「まだ親と揉めてんの?」
「……知ってるのか」
「まぁ……」
俺は、進路に対する両親の考えと自分の考えが合わず、昔一度大きく揉めたことがある。親はどうしても俺をモデルや俳優として育てたかったらしい。その時の喧嘩や空気感がかなりストレスだったので、表面上は親に従って芸能界で仕事を続けるようにしている。今は学業優先ということで活動は控えめだが、高校卒業後は進学はせずこのまま芸能活動を続けていくと親には思われている。大きく揉めていたのは中学の頃だったから、早乙女が詳しく知っているはずはないけど、きっと両者の親伝いなのだろう。
「ベストモデル取りたくないの」
「そんなものいらない」
「じゃあ本気出さなければいいよ」
「……いいよな、お前は」
「あ?」
「あ、いや、勘違いすんな。そういうマインドでいけたらよかったのに、って意味だ」
一瞬、早乙女がギロッと俺を睨みつけた。その目で睨まれると何かが目覚めそうになるからやめてほしい。
「俺は、手を抜くことはできない。俺の行動一つで、ステージの全てを台無しにするようなことはしたくない。正直ベストモデルを取る自信もある。でも、これを取ったら多分もう後戻りはできない。親にも業界にもしっかり認められて、俺はずっと芸能界で生きていくことになると思う」
「嫌なの?」
「迷ってる。俺は普通に勉強して大学生になって、普通に働きたい。でも、親はいい顔をしない。才能があるのに勿体無いって。それは、俺でも分かってる。俺は自分の実力と、今までの努力を、どう振り切ればいいかまだ分からない。まだ決められない……。俺にとっては、このまま芸能界にいる方が安定したルートなんだ。親も反対しない、みんなが納得してくれる。寧ろ、それが当たり前だと思われてる。今までの努力も棒に振らない。でも……」
ここまで喋って、何をペラペラと喋ってるんだと我に返り、口を噤んだ。あまり早乙女に家の話はしたくなかった。
でも早乙女はこの話について考えてくれているようで、んー、と口を尖らせていた。
「大変だな。俺は大したこと何も言えないけど。まあ、好きなようにやればいいんじゃない」
「お前、他人事だと思って……」
「他人だからな。もしお前がベストモデル取って、このまま卒業したら、多分俺らはもう会うこととかなくなるんだろうな」
「え」
なんでそんなことを言うんだ。やっと俺達はこれから距離を縮めていけると思っていたのに。俺が芸能界にいるから、早乙女が一般人だからか。
「……早乙女は、それでもいいのか」
「いいってか、別に、俺は……」
早乙女は何かを喋ろうとして、言うのをやめた。俺も早乙女も、本当に言いたいことと、本当に聞きたいことはまだ伝えられていない。俺自身、こんなあやふやなままで早乙女の隣にい続けることなんてできないと思っている。でも俺はまだ、どうすればいいか分からない。
11 早乙女の場合⑥
「いいってか、別に、俺は……」
別に俺は?
なんて続ければいい。
関係ないし、とか、口を挟める立場の人間じゃないし、とか。
そうだろう、今までずっとそうだったし。射手矢の人生は射手矢のものだ。俺には関係ない。仮に俺が芸能界なんてやめろよなんて言っても、それで何かが変わるなんてこともないだろう。それに、もしこの先射手矢と関わることが無くなったとしても、別にそれでいい。そもそも俺と射手矢とでは住む世界が違うのだ。それでいい、けど。
射手矢と目が合う。続けるべき言葉が見つからず、俺は口を閉じた。
「射手矢せんぱーい、超かっこいいっすー!」
前方から二人。八木沼くんと獅子倉くんがやって来た。八木沼くんは中型犬のように走ってきて、嬉しそうに射手矢の体をまさぐった。
「違和感とかないっすかー?」
「特には……おい、必要以上に触るな」
「必要以下っす。触診っすよぉ」
「必要ないだろ!」
楽しそうだ。こいつらはほっといて、目の前にいる獅子倉くんを見上げた。アオリからの視点もあって、獅子倉くんの長い脚が余計伸びて見えた。射手矢が白い衣装に対して、獅子倉くんは黒い衣装だ。対になるようにスーツを着ている。今年のファッションショーはウケるだろうな。
「獅子倉くん、かっこいい」
「おー、サンキュ」
「ハァッ!?!?!?!?」
「うわっびっくりした」
凄い勢いで射手矢がこっちを見て叫んだ。射手矢は心なしかわなわなと震えている。
「お前、獅子倉にはそんな……俺にはっ……」
「は?」
「獅子倉を褒めるな」
「はぁ……?」
「獅子倉を褒めるな!」
声を荒げている。獅子倉くんは何故か笑いを堪えていて、八木沼くんはそうっすよね、俺の服だけ褒めればいいんですと妙に納得していた。
「ああそっか。獅子倉くん同担拒否だもんな……なんかごめんな……」
「違う!」
「え、お前俺推しなの?」
「違う!!」
「ごめん、俺お前に推されるのはちょっと」
「だから違う!!」
この二人が騒いでても画面が美しすぎてハイソなやり取りに見えてしまう。八木沼くんは射手矢の髪飾りのバランスを整え直し、スマホで写真を撮っていた。
「俺のこのケータイ、データそのままで売ったら凄い値がつくと思うんっすよねぇ」
「……衣装、切り刻むか燃やすかどっちがいい? 選ばせてやる」
「ジョーダンっすよ! もお、射手矢先輩笑って笑って! 頭固い男はモテないっすよ、ねえ早乙女先輩?」
「俺に振らないで」
ぎゅんっ! と八木沼くんの顔が俺の方を向いた。怖い。直感だけど、八木沼くんとはなるべく関わらない方がいい気がする。
八木沼くんは空気が読めないのか、読んだ上でこの空気を楽しんでいるのか、一人でにゃははと笑っていた。
「やっぱり、俺の服は射手矢先輩が着るのが一番っすね。俺も、射手矢先輩も、絶対ベスト獲れます」
八木沼くんは射手矢を見上げて挑発的に笑った。射手矢はこめかみをぴくりと動かした。この絶対的な自信と態度、ファッションについてなにも分からない俺でも流石に気圧される。
「だから、中途半端に迷うのとかナシっすよ」
「……」
「ちょっとでも迷いを見せたら、俺、射手矢先輩のこと流石に許せねえかも〜」
にゃは! なんて、無邪気に笑った。ゾッとした。射手矢は極めて冷たい目をしながら八木沼くんを見下ろしていた。対する八木沼くんは怯むことなく射手矢を見つめ返し、やがて飽きたかのように目線を逸らし、次は俺を見た。
「あ、早乙女先輩」
「は、はい」
「ちょっと頼みごとあるんすけど」
「はい……」
「着いてきてください!」
「はい?」
手首を掴まれ、そのまま連行された。背後から射手矢がなにかを言っていたけど、俺は八木沼くんのスピードに合わせるので精一杯だった。
「や、八木沼くんっ、要件をっ……」
「美味しいっすよね。俺粒あん派っす」
「それ羊羹……」
「なに? 折り込みチラシ?」
「……それは朝刊……?」
なんだよこれ。八木沼くんが馬鹿なのか、俺の滑舌が悪いのか。結局何も分からぬまま着いて行くと、寮に辿り着いた。そしてそのまま中に入って行く。
「八木沼くん、学生寮は寮生しか入っちゃいけない決まりだよ」
「八木沼くんも寮生なんすよ」
「あ、そうなの……」
他学年とは基本的に生活フロアが違う上、共用部屋の使用時間帯が被らないから、誰が寮生活をしているかが全然分からない。八木沼くんも寮生だったようだ。
八木沼くんが向かった先は食堂だった。お昼時を終えた中途半端な時間だ。中は閑散としていた。
「あっ、いた!」
俺の手を掴んでいた八木沼くんの手はすぐさま離れ、そして目的地に向かって走って行った。その先には……蟹井くんがいた。
「蟹井先輩! こんにちはっ!」
「あー? こんにちはー」
「わっ、ヤバ、挨拶返してくれた! 俺のことやっと認知しました!?」
「んー、んー……」
蟹井くんは目の前にいる人物が誰なのか考えていたみたいだが、それは楽しくなかったようで、すぐに無視して食事に集中した。また変なのを食べている。焼きそばが乗った皿の横にはちみつのボトルが……これ以上は考えないでおこう。
八木沼くんは蟹井くんの言葉を待っているようだけど、一向にレスポンスはなかった。流石に可哀想なので、なんとか橋渡しをしてあげることにした。八木沼くんは蟹井くんの大ファンだと言っていたし。
「蟹井くん」
「あっ、早乙女くんだー! どうしたの? 早乙女くんもご飯食べるの?」
「ううん、もうお昼食べたし」
「じゃあ今から夜ご飯食べればいいよ。隣座ってー」
「まだ早いかな……」
八木沼くんを見ると、期待の眼差しで俺を見ていた。一方蟹井くんは八木沼くんに全く興味がなさそうだ。
「あの、蟹井くん、この人は二年ファッション科の八木沼くん」
「んー?」
「八木沼です、八木沼です、八木沼です!」
八木沼くんが蟹井くんに顔を近付け己の名前を全力でアピールした。選挙活動かよ。すごい、この鋼の精神力。専門学科は気が強い人が多いとの噂だけど、これくらいのマインドがあったら十分すぎるだろうな。蟹井くんは八木沼くんに聞き馴染みのない名前を連呼され、ぽかんとしていた。
「メェ……」
「鳴かないで、八木沼くんだよ」
「ヤギ……」
「八木沼くんだよ」
「ヤギヌマー」
漸く八木沼くんの名前を口にした蟹井くんを見て、八木沼くんはキラキラと目を輝かせた。
「っはい、八木沼です! 俺、蟹井先輩の大ファンなんっす! 先輩が売ってた絵とかめっちゃ集めてます! 蟹井先輩がSNSで炎上した時もずっと応援してました!」
「えっ!?」
思わず声が出た。咄嗟に口を手で覆い、蟹井くんを見たけど焼きそばに追いはちみつをかけていて、気にも止めていなさそうだった。
炎上……。じゃあ蟹井くんが前言ってたSNS駄目にしたって、炎上したってことか。というか、もしそれが本当だとしたら本人の前でその話題を出せる八木沼くんの神経エグいな。ノンデリすぎる。
「あの、俺、八木沼です!」
「ヤギヌマー」
「はい、そうです八木沼です! 俺、蟹井先輩の絵からインスピレーション受けて服作ってるんです! これマジです! 蟹井先輩いなかったら、俺、この学校来てなかったっす!」
「ほー」
まるでここしかないと言わんばかりに、八木沼くんは目の前にいる蟹井くんに自分の存在を教えこんでいた。蟹井くんはそれでもぽかんとしていた。自分のこととして受け止めていないのか、興味が本当にないのか。奇妙な光景だ。
「握手してほしいっす!」
「手と手のやつ?」
「手と手のやつ!」
手と手のやつ以外何があるんだよ。
蟹井くんが差し出した手を、八木沼くんは震える手で握り、むぎゅむぎゅと執拗に揉んでいた。例えるならアレだ、余ったハンドクリームを他人に塗ってあげるときのような。蟹井くんがそれを不快そうに見る。蟹井くんのこの顔初めて見た。
「ワーッ! 早乙女先輩! 俺蟹井先輩と握手してる!」
「よかったね……」
「んいぃ……」
「早乙女先輩のおかげっす! ありがとうございます!」
「いぃぃ〜っ……」
「蟹井くんが見たことない嫌がり方してるから離してあげな……」
俺の言葉を聞き、八木沼くは名残惜し気に手を離した。蟹井くんは握られたて手をぐーぱーと開いたり閉じたりして、感覚を必死に逃しているようだった。
いつもだったら蟹井くんは最後までご飯を食べるが、今日はかなり居心地が悪いようで、トレーに謎のオリジナル料理が乗ったまま席を立とうとしていた。それをすかさず八木沼くんが止める。
「待ってください、よかったら身体触らせてくれませんか?」
「なんでぇ」
「触って確かめたいからですよ! 蟹井先輩の素晴らしい身体を!」
「……いやー」
「分かった! じゃあ触れなくてもいいんで、カーディガン脱ぐだけでも……いや、腕まくりくらいは……いや、ワイシャツも脱いでほしいっす。……あ、上半身全部脱ぎましょうか」
「そういうのってだんだんハードル下げてくもんだろ」
交渉下手すぎかよ。八木沼くんは欲望に忠実すぎて怖い。
「早乙女くーん……」
蟹井くんは俺に近寄り、そして背後に隠れた。背が高いので隠れきれてない。珍しく蟹井くんが困っている。ここまで蟹井くんの新しい表情を引き出せる八木沼くんは、むしろ特殊な才能を持っているのではないか。
「ん? 早乙女先輩も脱ぎますか?」
「俺八木沼くんの思考回路が分かんないよ」
「……えー、じゃあ、早乙女くんが脱いだら俺もやるー」
「えっ!?」
「えっ!?」
爆弾発言。蟹井くんがトチ狂ったことを言ったせいで、八木沼くんは目をギンギンにさせて俺に近寄り、物凄い早業でスラックスからワイシャツの裾を引っ張りだした。
「えっ! ちょっと!?」
そのままの勢いでワイシャツのボタンを下から一個ずつ外していく八木沼くんを止めようと慌てたが、身動きが取れない。背後で蟹井くんに腕を拘束されてしまったからだ。
「なんで!? 蟹井くん裏切らないでよ!」
「俺早乙女くんの裸見たいもんー」
「にゃはは! 蟹井先輩、気が合いますね!」
「ちょ……ここ食堂だから!!」
結果だけ言うと、俺はインナーまで脱がされ、二人に身体をじろじろと見られ、八木沼くんからは「死体みたいでキレイですね」と言われ、蟹井くんは俺の上半身を見て満足してしまったらしく、そのまま逃走した。追い剥ぎだこんなの……。
八木沼くんは非常に悔しそうにしていた。俺が呆然としていると、大きなため息を吐きながら八木沼くんがこっちを見た。
「いつまで脱いでんすか?」
「お前マジでぜってー許さねえ」
文化祭まであと十日。そう思うとあとちょっとだなとは一瞬思うけど、この学校の文化祭準備期間は非常に長い。やっとあと十日。他学科が各発表に向けてガチなので、準備期間が二ヶ月弱ほどある。毎年の普通科あるあるらしいが、その間普通科のほとんどの人はめちゃくちゃ暇になってしまう。
例に漏れず、俺と射手矢も暇人になっていた。勿論通常通り授業もちゃんとあるが、文化祭授業にあてられている時間はもうやることもなくなってくる。多分俺達は照明オペレーションの練習をすればいいんだろうけど、水上は「飽きた」と言って早々に放棄していた。流石に俺も同意見だった。
そして俺達はそれなりに受験生なので、自習室で受験勉強をしていた。教師もこれは容認している。
「水上って大学どこ受けるんだっけ」
「M大だよ」
「学部は?」
「一応経済」
「え、そんな真面目な」
「真面目じゃない学部とかある?」
「いや、にしても水上が経済か……。文学部とかで哲学か心理学やってそう」
「俺がそういうの勉強しだしたら、いろいろヤバイ気がしない?」
「そういうのは自分で分かるんだな」
水上が哲学勉強したら何かしらの教祖になりそうだし、心理学を勉強したら悪用しそうで怖いんだよな。
「そういう早乙女は? どこ行くの?」
「……うーん、そうなんだよな。俺夢とかないから、まだ決められてない。偏差値的にN大あたりかな」
「俺と一緒のとこ受ければ?」
「いや、無理だって。そんなに偏差値高いとこ」
簡単に水上は提案するけど、M大は俺じゃ到底無理だ。水上はこれで容量がいいので、頭がいい。ズルい男だよ本当に。
水上はちゃんと勉強してるんだかしてないんだか、回していたシャーペンをピタッと止めて俺を見た。
「じゃ、大学は別かぁ」
「まあそれが普通だよな。あっけないもんだよ」
「三年間って短いよね」
水上とは高校で出会ったので、このままいけば一緒に学生生活を謳歌できるのはこの三年間のみということになる。少し惜しい気もする。三年間だけで関係を済ますには、惜しいくらい俺にとって特殊な友達だ。少しブルーな気持ちになっていると、水上がニヤニヤと笑って俺を見た。
「……寂しいんだ?」
「……そんなこと言ってねえだろ」
「いやいや、ははは。俺もそろそろ早乙女の考えてることなんて顔見れば分かるよ」
「やっぱり心理学専攻すれば?」
「照れんなって」
「照れてないし、忖度やめろ」
バツが悪くなって鞄の中から必要のない参考書を出してみたりした。数日前に水上から男もいけるだとか俺もいけるだとかどうとか言われてから、妙に視線を合わせづらい。
「あっ」
そして、手を滑らせて鞄を床に落とし、中のものをぶちまけてしまった。なにやってんだ。意識しまくってるみたいで恥ずかしい。テキストを拾うと、水上も一緒に拾ってくれた。ありがたいけど、今日ばかりはそっとしておいてほしかった。
「ん、これは……」
「あっ!」
水上が手にしたのはとある雑誌だった。しまった、鞄の中に入れてたのをすっかり忘れていた。最悪だ。
水上はその雑誌の表紙をまじまじと見つめ、意味のある言葉は言わず、へえ、だか、ほーん、だか、そういう含みを持った相槌を打っていて、余計いたたまれなくなった。俺は引きちぎるくらいの勢いでその雑誌を奪い取った。
「いや、違う、これは……」
「見るんだ、こういうの」
「違うって、ほんとたまたま」
「同居人のことだもんね、気になるよねー」
「だから違うって、気になるとかじゃなくて……」
俺が手にしている雑誌は、女性向けファッション誌だった。しかも、射手矢が表紙のやつ。
「随分仲良しだ」
「仲良しとかじゃないって。ただ……」
「ただ?」
「……」
いや、なんだコイツ。やけに突っかかるな。俺が詰められてる理由も意味分からない。答える義理なんてないだろうと黙っていると、水上は何を考えてるんだか分からない顔でその雑誌を俺の手元から引き抜いた。
「どうせなら一緒に見ようよ」
水上は椅子に座り直し、机の上に雑誌を広げた。こうなったら水上はやめないだろう。仕方がないので俺も水上の横に座り、一緒に雑誌を見た。
「へぇ、表紙かっこいいね。……百の質問だって。そんなに人気あるんだ」
「そうみたいだな」
射手矢が去年脇役で出てたドラマが好評だったのが良かったのだろう。話題になって、そこから今まで以上に世間に顔が知られるようになった。
「射手矢キョウ……あれ、こんな名前だっけ」
「それ芸名だな」
「身長百七十八、血液型A、誕生日七月七日……。これどこまで本当?」
「誕生日は嘘だな」
「家族構成、父、母、犬三匹。一人っ子なんだ」
「うん」
そのインタビューには甲斐甲斐しくも、俳優である父の名前とモデルである母の名前が書かれている。射手矢はこんなの書かれるの嫌だろうな。一人っ子だからこそ、両親は息子に芸能の道を継がせたいのかもしれない。
「休日の過ごし方、勉強、舞台鑑賞、映画鑑賞、寝る。俺だったら息詰まるね」
「そんなこと言ってやるなよ」
「好きなタイプ……。反骨精神がある人。ダッハッハッハ!」
「え、なに!?」
水上がいきなり大笑いしだしたので、咄嗟にしーっ! とジェスチャーをした。どこにそんな爆笑要素が。
「いや、んふっ……。射手矢くんって可愛いなぁ」
「は?」
「この質問答えるのにどれだけ時間かけたんだろうね」
水上の感性が俺には分からない。分からないけど、水上が何かを可愛いと言うときは大体人を小馬鹿にするときなので、多分揶揄っているのだろう。
「好きな食べ物、パスタ、嫌いな食べ物、甘い物。はは、これはこういう設定?」
「確か、射手矢の親がガチガチにキャラ固めてたような気がする。射手矢普通に甘い物食べるし」
「ふーん。よく知ってるね」
「別に、そんなことは……」
水上がまた俺をじっと見つめた。
「……なにさ」
「早乙女はさー、嫌いな食べ物克服できるタイプ?」
「え? うーん、どうだろ。もともとそんなに無いけどな。高校生になって、昔嫌いだった物も結構食べられるようになったから、意外とそうかもしれない。一週回って美味しく感じる、みたいな」
水上はすっと目線をそらし、ふーんと呟いた。
「俺は、嫌いなものはずっと嫌いだけどね」
「はあ」
「俺親子丼嫌いなんだよ」
「へぇ、なんで」
「昔はすごく好きだったんだ。で、好きすぎて親子丼しか食べなかった時期があったっぽくて。食べすぎたら、なんか卵が気持ち悪くなって吐いちゃって」
「一周回って美味しくなくなる方のやつだ」
「そこから親子丼は嫌いだな。想像しただけであのときを思い出して吐き気がする」
「……つまり?」
「だから、元々好きな物だとしても、嫌いになっちゃったら俺はそれ以降ずっと嫌いだって話」
「さいですか」
「うん」
そう言って、水上はまた雑誌の文字に目を落としていた。
「……なに? この会話」
「いやあ、予想外だったなって。もう半年で卒業なのに、こんな時期にねえ。まさかの展開だよ。上り坂、下り坂、まさかって上手いこと言うよね」
「饒舌に理解できない話するのやめろよ」
「早乙女、俺と一緒の大学受ける気ないの?」
「だから無理だって。……なに、会話唐突すぎてグッピー死ぬって」
「ふ」
水上は小さく笑って、無遠慮に俺にデコピンをした。
「え!? 理不尽!?」
普通に痛い。俺がおでこを手で抑えると、水上はニコッと笑った。なんでこのサイコパスに若干の女子人気があるのかが分からない。
「嫌いだった食べ物が食べられるようになるのって幸せだよ。好きは多い方がいいもんね」
「うん…?」
「早乙女、文化祭は俺と周ろ」
「元からそのつもりだけど……」
「まあね」
はあ、もういいや。と言い、水上は質問の項目八割程を残して雑誌を閉じた。そして、何事もなかったかのように勉強を再開した。グッピー死ぬって。
放課後、射手矢の部屋に帰ると家主はいなかった。文化祭の準備で学校に残っているのか、仕事なのかどっちかだろう。俺は自分の住処となってしまった敷布団にダイブし、一息ついた。
勉強は疲れたけど、それ以上に気疲れすることがあった。まるでタイミングをはかったかのように、スマホには親からメッセージが届いていた。勉強はちゃんとしてるのか、志望校は決めたのか、判定は、この大学のオープンキャンパスはいつやるけど行かないのか、やらなんやら。
実家で暮らしてない分心配する気持ちは分かるけど、正直いやになる。なにも決められてないからこそ鬱陶しく思ってしまう。このまま既読無視したらまた催促の連絡がくるのだろう。適当に返事をしたが、何も考えていないことなんてすぐにバレるのは目に見えている。俺もちゃんと将来のことを考えないと。
まあ、俺の悩みなんて射手矢に比べれば小さいんだろうな。できることが多い人程悩みの種は無限だろうし。やりたくないことを完璧にやって、親の期待に答える努力をしている射手矢は凄いと思う。
……いや、客観的に見るとな。別に俺は射手矢を褒めたいわけじゃない。
「……」
つい出来心で買ってしまった、射手矢が表紙の雑誌を鞄から取り出してインタビューのページをペラっとめくった。さっきは文章ばかり見ていたが、今は撮影された射手矢を見てみた。男に花を組み合わせるのが流行っているのだろうか。射手矢の手には花束が握られていて、八木沼くんの作った衣装を連想させる。オールバックでメイクも凛々しく、これは顔が整っていないと似合わないだろう。あんなに可愛いと言われていた顔が、ここまで成長するもんだ。
好きなタイプ、反骨精神がある人。反骨精神ってなんだ。反骨精神がある人って、なんだ? 水上とか八木沼くんみたいな人のことか。じゃあ俺は駄目だな。その他大勢みたいな位置にいないと落ち着かないし。つまり俺は射手矢のタイプではないな。
……いや、なに考えてんの俺?
好きなタイプもなにも、俺は射手矢に散々ブス呼ばわりされてたからな。最近やっと普通の会話ができるようになったからって、飛躍した思考をするのも大概にしろ。
頭をぶんぶんと振ってトチ狂った考えを飛ばした。やめよう。次の質問。
なになに。最近嬉しかったこと。仕事と学校の往復しかしてないやつがなんかあるのか。ほう、ひとりぐらしがふたりぐらしになったこと。ちゃんと注釈書いてあるな。
※射手矢くんは寮生活で、ルームメイトができたようです。
まあ、そりゃ注釈書くよな。誤解されたら大変だろうし。……ん?
「ひとりぐらしがふたりぐらしになったこと……?」
これ、なんの質問だっけ。もう一度確認する。最近嬉しかったこと。最近嬉しかったこと……。
「……ハァ?」
違う行読んだかもしれない。しかし何度見ても「最近嬉しかったこと︰ひとりぐらしがふたりぐらしになったこと」と書いてある。
パニックになり、とりあえず次の質問を見ることにした。
最近買ったもの、福島県のご当地土産。……は?
これ、最近射手矢が連日、現場でケータリング貰ってきたとか言って俺にくれるやつじゃん。最近買ったもの? え、あれって通販とかで買ってたの? 確かに、いくらなんでも同じお土産貰いすぎだろとは思ってたけど。五日連続同じ福島土産なことあるかよとは思ってたけど。わざわざ、なんのために?
__もしかして、俺がもっと食べたいとか言ったから?
俺が思考を飛ばしていると、背後からドサッとなにかが落ちる音が聞こえた。驚きすぎて肩を震わせて振り返ると、射手矢が真後ろから俺の手元を覗いていた。顔を真っ赤にして、毛穴の全てが開いてそうなほど表情を崩して、俺の手元を。俺はすぐさま雑誌を閉じて、一緒になって顔を赤くさせた。
「え!? いっ、いつの間に帰ってた!?」
「おっ、おま、それっ、え、え……」
「あっ、違う、違うんだこれは……」
「違う、お、俺も、違う、そういうアレは……」
この状況、目も当てられない。二人してなにに対する弁解なのかも分からない言い訳をする。もうこれは会話ではない。脊髄から出た言葉を羅列するだけの、最高にいたたまれない時間だった。
射手矢は額に手を当て、一度大きく呼吸をした。
「……なんで早乙女がそれを持ってる?」
「ふぁ、ファッションに、か、関心が」
「女性誌だが」
「……」
「……俺のページ、どこまで見た」
「……八十三問目くらい」
「ほぼ見てんじゃねえか……!」
勘弁してくれ、と射手矢はその場でへなへなとしゃがみ込んだ。耳も手も赤い。……なんだよ、その反応!
「だっ、誰に見られてもいい回答しろよ!!」
「お前が見るとか思わないだろ!!」
「なんで俺が見ちゃいけないような回答すんだよ!?」
「なっ、そっ……!!」
射手矢は口をぱくぱくと開閉させ、最早泣きそうな顔をしていた。心臓がバクバク動いて痛い。
「……これ、書いてあるの、全部本当?」
返事はなかった。冗談でも否定しないんだ。沈黙は肯定と捉えていいのだろうか。
なんだよ、もう。ずっとずっといがみ合ってた期間が馬鹿らしく思えてきた。
「もう、……ははは。なんだよお前、俺がお前の部屋泊まるの嬉しかったの?」
「う……。うるさい!」
「お前怖えよ。俺のこと嫌いなんかと思えば、メディアでこんなこと言ってるし……」
「だからァ! 嫌いとか言ってないだろうが!!」
「あはは! どういうキレ方だよ!」
「笑うな! それもう読むな!」
思っちゃいけないけど、射手矢に可愛いなんて。
ミリでも思ってしまった。
俺が笑っていると、射手矢は怒って俺の手元から雑誌を奪い取った。が、あまりにも力強くて、俺は体勢を崩してしまった。
「わっ!」
ドサッと。射手矢の体の上に。
「……」
思わず射手矢と見つめ合ってしまった。じわっと体に汗が滲む。火が出そうなほど熱い。それは射手矢も同じようで、俺の顔を見てたらりと汗を流し、唇を震わせていた。
「ごっ、めん」
うわもう、最悪。なにやってんだよ。こんな男に寄り掛かられて、これは射手矢も気分を害すだろう。恥ずかしすぎる。体を離そうと思い慌てて身動ぐと、今度は射手矢の腕が俺の体に回った。その衝撃で、俺の顔は射手矢の胸元に押し付けられる。
「え……」
背中に両腕の熱が伝わる。俺は動けず、ただ爆速で動く心臓の音を聞きながらそのままの体勢でじっとしていた。射手矢さん、と質問すると、当の本人はわなわなと震えながら口を開いた。
「こっ、これは、その、っ、わ、分かるかっ」
「な、なにがすか……!」
「お、お、俺に、だっ、だき、抱きしめられた、という、ふ、付加価値を、そう、お前に、お前を特別な存在にしてやるという、アレを」
「ッアハハハ!! いや意味分かんないって!!」
なんだよコイツ! 本当に意味分かんねえよ!
俺もいろいろとおかしくなって、対抗するように射手矢に抱き着くと射手矢は更に腕に力を込めた。だから俺も負けじと抱き着いて。それが暫く続いた。
あー、俺達、なにやってんだろう。なにやってたんだろう、今までずっと。
12 射手矢の場合⑥
朝起きて床下を見ると、早乙女は布団の上で寝ていた。
昨日の記憶がほぼ無い。記憶はないけど、なんだか随分いい夢を見たような気がする。俺があまりにも早乙女と触れ合いたすぎてあんな夢を見たのかもしれない。抱き締めたときの感覚がやけにリアルだった。あのぬくもりを思い返していると、アラームが鳴った。アラームより先に起きてしまったらしい。
「ん……」
音に反応して、早乙女がもぞっと動いた。起き上がり、数秒間ぼーっとして、そしてゆっくりベッド上の俺を見た。目が合って早乙女はまた暫く固まり、今度は俯いた。
「……お、おはよ」
気まずそうに、ぽつりと呟いた。
「お、おはよう……」
返したけど。こんな朝のやり取り今までやったことがなかったので、俺もぎこちなかった。
早乙女はよたよたと立ち上がって逃げるように洗面所へ歩いて行った。
__もしかして、昨日のアレって夢じゃない?
だって、明らかに、早乙女の様子が。
こんな、え……? もしかして俺達って一線越えた? だってそのくらいの空気感じゃないか? この場合の朝はどう過ごすのが正解だ?
洗面所からは、やけに物音が聞こえる。なにかを落としたりぶつけたりするような慌ただしい音。篭ってから随分長かったくせに、早乙女は洗面所を出てからはそそくさと身支度を済ませてしまい、俺の準備がなにも整っていないうちに扉へと向かっていた。
「あの、俺、今日早くに用事あるから……じゃ!」
そう言い、俺の顔も見ずに部屋を出て行った。
パタンと閉まる扉。俺はその一点を見つめ、顔を手のひらで覆った。
なんだよあれ、可愛すぎるだろ。俺のこと意識しすぎ。絶対用事なんてないだろ。まだ食堂も空いてないし、多分学校も施錠されている。どこに何しに行くんだよ。俺のこと、意識しすぎだろ!
「ふあああぁぁぁ〜……。可愛い……可愛い……」
ゴロゴロとベッドの上を転がり回る。キャパオーバーなので、とりあえず獅子倉にメッセージを送った。
『多分早乙女俺のこと好きだ』
『育成おめでとう』
たま○っちの話じゃねえよ。それはちゃんと育成したけど。駄目だ、獅子倉は真剣に取り扱ってくれない。どうすればいいんだよこの気持ち。とにかく誰かに自慢したいのに。
なんて意気揚々フルパワーで朝ご飯を食べに食堂に向かうと、知り合いがいた。
「あ!」
「げ……」
知り合い。獅子倉ではない。
げ、と言ったのは俺の方だ。俺のことを指差しているのは八木沼。八木沼と運悪くも邂逅してしまった。八木沼はやけにキラキラした顔をしながら俺を見ていた。
「おはざっす!」
「……なんでここにいるんだよ……ファッション科の食堂ここじゃないだろ……」
「いやあ、モデハンっすよ」
「帰れ」
「冷たいっすね。誰かいいモデル紹介してくださいよぉ。俺と先輩の仲じゃないっすか」
「そんな仲無い」
「つれないなあ。俺のこのかんわいいお顔と恵まれたセンス、誰かに教えたくない気持ちも分かりますけど」
「帰れ」
「ええ〜? んにゃは、どうしよっかな〜」
頭から花が飛んでいるようでイライラする。
正直に言うが、俺はこの男がかなり苦手である。芸能科とファッション科は代々親密な関係にあるので、ファッション科の優秀な生徒の情報が芸能科まで届くことは多い。コイツが入学した去年、四月の段階で「ヤバイ生徒が入った」という噂は俺も耳にしていた。それがこの八木沼という男だった。ただ優秀なだけのヤバイならまだいい。コイツは、目的のためなら手段を選ばない。才能という武器をまさに武力に変えて自分が勝つまで意見を押し通すような、傲慢な人間なのだ。
今年のファッションショーは、俺の衣装担当は実は他の人がやる予定だった。同じ三年の、ファッション科の中では成績がいい男が。それが、どうやらかなり道徳に反したやり方で八木沼が役割を奪い取ったらしい。前の俺の担当は体を震わせるだけで、一切の詳しいことを教えてくれなかった。当の本人は「じゃんけんに勝った」くらいの気の持ちようでいるのが怖い。八木沼にはそういう得体の知れない人格がある。だから俺は八木沼が苦手だ。
「なに、先輩、なんか良い顔してますねぇ」
「……お前がな」
俺の「早乙女の可愛さを誰かに自慢したい」という気持ちは限りなくゼロになった。こんなやつに話してみろ、格好の餌食だろう。
俺なんかより、堂々と他学科の縄張りにいるのに幸せオーラ全開な八木沼の方が話を聞いてほしそうだ。
「にゃはは、分かります〜?」
そして、八木沼は花を飛ばしながら俺の横に座った。何勝手に座ってんだよ、と言う間もなく自分語りを始めたので、仕方なく聞いてやることにした。
「俺、ずっと推してる先輩がいるんすけど、最近漸く認知してもらえて。超ハッピーみたいな!」
「お前みたいな自分大好き人間にもそんな人がいるんだな」
「いますよぉ! 昨日もたまたますれ違ったから挨拶したら、初めてちゃんと挨拶返してくれたんすよ! この学校に入って一年半……。いやあ、長かったっすねぇ」
「だいぶ舐められてるだろそれ」
「違いますー。まずまともに喋れたら奇跡に近いような人なんすよ。知ってますか? 三年アート科の蟹井先輩」
「誰だよ」
「芸能科の人はあんまり知らないんすかね? 一部カルト的な人気を集めてる人っす。あんまり授業に参加してないっぽいんで、出会えたらラッキーかも」
アート科と芸能科は校舎が違うため、なかなか出会う機会がない。その蟹井という男も勿論知らなかった。
八木沼はスマホを操作し、蟹井の写真を探しているようだった。
「蟹井先輩、写真撮ると何故か確実にブレるし、お願いしても無視されるからあんまりちゃんとした写真ないんすよねー。……あ、これとかマシかも」
この人っすよ、とスマホを差し出される。
そして、その画面を見て俺は他人の目も気にせず声をあげてしまった。
「あぁーーーッ!?」
「え、なに!?」
「こいつだ!!」
「は?」
八木沼はぽかんとしながら俺とその写真に写っている男を見た。
ピースがハマるような感覚がして、体が震えた。最悪な意味で。
「こいつ、ストーカーの……!」
「……ストーカー? 誰の? まさか射手矢先輩?」
「違う、じゃなくて……」
俺は震える手で自分のスマホを取り出し、カメラロールを必死にスクロールして写真を見返した。この写真の後ろの方。ピントは合っていない。でも、この髪、服、雰囲気。きっとそうだ。
「早乙女のストーカーだ」
「え?」
確証に変えるため俺のスマホを八木沼に見せたが、まず最初に胡乱げな顔でその写真を見られた。
「なんで射手矢先輩がこんな早乙女先輩の隠し撮りみたいな写真持ってんすか?」
「お前だって同じようなも、……それは今置いといて」
ピントが合っている早乙女の背後、遠くの方でぼやけながらも早乙女の方を見ているのが分かるその人物を拡大した。早乙女はそれをじっと眺め、大きく頷いた。
「これ絶対蟹井先輩っす」
「やっぱり……。じゃあこれもだろ」
俺は八木沼にその他複数枚早乙女の背後にピンボケして写っている人物を見せたが、八木沼も全部が蟹井だと認めた。やっと見つけた。覚えたぞ、アート科の蟹井。女……いや、男か。また男……。いや、女でも困るけど。女の方が困るけども!
悶々と考えている横で、八木沼は何故か非常に楽しそうに笑っていた。
「わー、マジだ! 蟹井先輩って早乙女先輩のストーカーまでやってるんすねぇ」
「待て、までってなんだ!?」
「だって蟹井先輩、早乙女先輩のこと大好きっすもん」
「大好き……!? は、ソースは、根拠は!?」
「根拠なんて、そんなの蟹井先輩の態度見れば一目瞭然っすよ」
「その一目瞭然の詳細を教えろよ……」
「えー、うーん。なんというか、言葉にできないんすけど……。特別感あるんすよ。蟹井先輩の中で、早乙女先輩だけ特別なんだろうなーって。俺も早乙女先輩の橋渡しがなかったら蟹井先輩と喋れてないだろうし。蟹井先輩って、本当に普通の人と会話できないんすよ。それが、早乙女先輩だけちゃんとできるの」
「なんでだ、なにがあってそこまで……?」
「理由は分かんないっすけど……。まあ、早乙女先輩がホイホイなんじゃないっすか」
「ホイホイ?」
「変人ホイホイ」
ぐうの音も出ない。俺は頭を抱えた。やっぱり、そうだよな。早乙女の周りって変な人間しかいないよな。うっすら気付いていた。どうせ水上ってヤツも変人に決まっている。
「早乙女のどこがそんなにヒットするんだ……」
「失礼っすよ。俺はちょっと分かりますけどねー」
八木沼がそんなことを言うもんだから、叫びたい気持ちでいっぱいだった。お前なんかに早乙女の良さが分かるものか。こちとら片思い歴九年だぞ舐めんな。……とは言わず一旦冷静になって、第三者の意見を聞いてみる。
「俺らって普通じゃない人間にずっと囲まれてるし、いつだって周りの人間を出し抜くことばっかり考えてるじゃないっすか」
「一部はな」
「だから、みんな他人に興味しかないんすよね。良くも悪くも。あいつはこんな作品出したとか、なんのコンペで優勝したとか、自分より優秀かそうでないかとか。だからこそ、早乙女先輩みたいに普通の、他人とは一線引いて興味なさそうに振る舞う人に惹かれるんじゃないかな、とは思いますけどね。早乙女先輩、マジで俺に興味持ってくれなかったし。この俺にっすよ?」
それは、ただ単純に身の危険を感じて本能的に避けてるだけだと思うが。どこまで自信で満ちている男なんだ。
八木沼は早乙女と蟹井が写った写真をじっと見つめ、どこか意識を飛ばしながら呟いた。
「そっか、蟹井先輩ってそんなに早乙女先輩のこと好きなんだぁ……」
「……?」
「……次は早乙女先輩にしよっかな」
すぐさまスマホを取り上げ、そして人目も憚らず八木沼の胸元を掴んだ。
「なにをだ……?」
「にゃは! こえー!」
八木沼は萎縮するどころか、俺の表情を見てケラケラ笑っていた。コイツ、マジでなんなんだよ。
「なんだぁ、射手矢先輩も早乙女先輩のこと大好きじゃないっすか! んにゃははは」
「なっ、なんでそうなる!」
「そんな顔しなでください、誰も取るなって言ってるみたいっすよ」
「そんな顔してないが!?」
「早くしないと誰かに取られちゃうか、簡単に離れていきますよぉ」
「!」
こいつの話なんか聞く耳持たなければいいのに。
それでも、何故か妙な求心力があってスルーできない。
「早乙女先輩って、ちょっと関わらなくなったらすぐ俺たちと関係を断ちそうっすもんね」
「お前になにが分かるんだよ」
「俺見る目あるんっすよねー。ここの普通科の人って、専門学科の人と関係を持ちたいミーハーな人が多いっすよね。そのためにわざわざ遠い地方からここの普通科受験する人もいるくらいだし。でも、早乙女先輩は全然そんなんじゃない」
「……」
「むしろ俺らみたいな人間を毛嫌いしてるタイプ、っすよね?」
「……さあな」
「にゃは、なんすかその顔はぁ。ま、そういう潔癖なところが魅力っすよねぇ。だから俺はそういうなんにもないところを装飾して汚してみたいというか」
普通に拳で殴った。
「いった!! やめてくださいよ、俺の大事な脳細胞が……!」
「もうお前には文化祭以降一切関わらないからな。早乙女にも近寄るなよ」
「そんなこと言われたら、逆に燃えちゃうな」
「もう一発ほしいか?」
「いえいえ、勘弁!」
八木沼は全く反省してなさそうな態度でそそくさと食堂から逃げて行った。
本当に邪魔なヤツだ。俺に悩みの種だけ植え付けて、傍観気取りなのも腹が立つ。やっぱり八木沼は苦手だ。
一日が終わり、寮に帰ってから俺はなんだか妙な心地でいた。朝まであんなに幸せな気持ちだったのに、今はこれからのことを考えてモヤモヤしている。八木沼は不快な人間だけど、言っていることは的を得ていた気もする。そう、俺は八木沼の言葉が今日一日ずっと引っかかっていた。
雑念が払えないまま部屋で勉強をしていると、ガチャリと控えめな音が聞こえた。
「た、ただいま……」
「……お……かえ、り……」
早乙女が随分遅い時間に、そろりと帰ってきた。目線は泳いでいる。対する俺はガン見した。こんなやり取り、今までやったことがないからだ。室温が一気に上昇した気がする。俺も早乙女もお互いが顔を赤くさせた。俺達ってやっぱり一線も二線も越えて、もう結婚したかもしれない。こんなの新婚だろ。
早乙女はぎこちなく歩き、いつもの定位置__敷布団の上に座った。よし、今日はいっぱい喋る。早乙女と、いっぱい喋るぞ……。
「……なんで今日帰るの遅かったんだ?」
「え? えっと、友達の部屋行ってた」
「は?」
「え?」
駄目だ俺、落ち着け。
「……フゥ。……誰の部屋だ。獅子倉か?」
「ううん。射手矢は知らない人だと思うけど」
「いいから言え!」
「怖っ」
「……じゃなくて、お、教えろ」
「なんだよもう。アート科の蟹井くんって人の部屋だけ、」
「ハァ!?」
「だから怖いって!?」
今話題の人物じゃねえか! 落ち着いてられるか! 笹食ってる場合じゃねえの画像が頭に流れてきたぞ!
「お前なにソイツの部屋にのこのこ遊びに行ってんだよ!?」
「えっ射手矢と蟹井くんって面識あんの?」
「ねえよ! でも蟹井がヤバイ奴なのは分かるから!」
「ああ。まあ、蟹井くんちょっと変わってるよな」
「違っ……そうじゃなくて、変わってるとかそういうレベルじゃねえんだよ!」
「ケチャップメロンパン七味がけは確かにバケモノだよな」
「なんの話だ!?」
この、この〜〜〜っ!!
危機感皆無男が! 加害者の部屋に行ってそんな呑気にしてんじゃねえよ!!
「部屋でなにされた!?」
「な、なにされた……? 文化祭の絵の手伝い、みたいな」
「手伝いってなにしたんだ、言え!」
「ちょ、マジでなんなの!? 好きな色作ってって言われたから、絵の具混ぜたりしてたけど……」
「どういうタイプのストーキングだそれ!?」
「は? ストーキング?」
ハッとして、口をつぐんだ。危ない。元を辿れば俺が非公式で撮った早乙女の写真がきっかけで蟹井の正体を知ったのだ。つまり、蟹井がストーカーだと伝えてしまったら、巡り巡って俺も早乙女にストーカー行為を働いていたことがバレてしまう。それだけは駄目だ。……いや、俺はストーカーではない。秘密裏に写真を撮っただけ。
「……とにかく、蟹井は駄目だ、あいつは変だ。なるべく近付くな」
「は? なんで射手矢にそんなこと言われなきゃいけないの?」
「だって、……う、あ、あいつは……」
「なんだよもう。蟹井くんがどんな人でも別にいいじゃん。どうせあと半年くらいの付き合いだし」
「!」
そういう問題ではない。
ではないけれど、今タイムリーにそんなことを言われてしまったら、もう一つの俺の悩みが顔を出す。八木沼がほらやっぱり、と言っているような気がして、余計イライラした。
「早乙女は、そういうもんだと思ってんのか」
「なにが」
「高校を卒業してしまえば俺達とは関係なくなるって」
「……そういうもんだろ」
「じゃあ、前言ってたアレは、本当か」
「アレって?」
「俺が芸能活動をこのまま続けるんなら、俺と会わなくなるって」
「あー……。うん」
早乙女はふっと目をそらした。その場しのぎの言葉ではないのが分かって、焦燥した。
「なんで……。一般の人と交友関係を続けている芸能人なんていくらでもいる」
「それは分かるけど、……やっぱり俺とお前じゃ生きる世界が違うから、居心地が悪いっていうか」
「そんなの、今更だろ」
「そうだよ。今更、尚更そう思うんだよ。最近、射手矢が俺に優しくしてくれるから」
「え……」
「俺、お前のファンから嫌がらせ受けたの結構キツかったんだよな」
「それは、俺がどうにかする! というか、しただろう! 大丈夫だから、それは俺の責任だから……」
「いや、別に行為自体はあんなの可愛いもんだと思うよ。ただ、……俺がお前と釣り合わないってのを、ひしひしと実感させられて、分かってはいたけど、それが今更キツいなって感じた。多分、今までだったらこんなこと思わなかったけどな」
「……意味が分からない」
「まあそうだろうな。お前みたいにちゃんと努力してる人には」
「え?」
俺を馬鹿にしているのか、皮肉っているのか。一瞬そう思ったけど、早乙女はいたって真面目そうな顔をしていた。
「俺に嫌がらせしてた子、多分相当頑張ってたと思う。身なりも綺麗だったし、顔も可愛かった。あとで分かったけど、普通科の成績優秀者だって」
「……それでも、陰湿なことをするなら台無しだろう」
「それはそうなんだけど。でも、そういう頑張ってる人たちはどれだけ努力してもお前の友達になれるかどうか分かんないのに、俺はなんの努力もせず、ただ育った場所が近かったってだけで、お前の隣にいていいのかって思うんだよ」
「それの何が悪いんだよ」
「射手矢の努力にも、射手矢のファンの努力にも、俺は見合わないよ。だから、これは俺の気の持ちようの問題」
早乙女は立ち上がり入浴の準備をしだした。
早乙女とこれだけ会話したのは本当に久しぶりだった。なのに。せっかく話せたのに。
「……違う、なんでだよ。俺が……」
俺が、早乙女と一緒にいたいからそんなのは関係ない。努力だとか見合わないだとか意味の分からないことを言わないでくれ。早乙女はそのままでいいし、歩み寄らないといけないのは俺の方だ。
喉元まで出かかって、それでも口をついて出ることはなかった。
なんで言えないんだろう。言いたいのに、喉でひっかかって言葉が出ない。自分が悔しくて、拳を握り締めた。
「……早乙女、本当に捻くれてる」
「はぁ!?」
俺もだけど、早乙女も。
才能を枯らすなんて勿体無いよ。と、言われたのをずっと覚えている。
確か最初は、警察官になりたかった。白バイがかっこよかったから。次はトラックの運転士、次は整備士。車が好きな子どもだった。夢見るだけタダだったけど、夢見るだけ無駄だった。
ちーくんにしかできないことがあるんだよ、才能を枯らすなんて勿体無いよ。なんて、両親は俺に何を期待しているんだろう。芸能界こそ、俺の代わりなんていくらでもいる。
一度、本気で嫌になって両親と喧嘩したことがある。他人に好奇の目で見られるのも嫌だったし、仕事だと言って休みが潰れるのも嫌だった。俺は昔からずっと、「普通」に憧れてきた。
才能を枯らすなんて勿体無いよ。
たった一言だけど、俺はこの言葉にずっと縛られてきた。
「早乙女って千景くんの幼馴染なんでしょ? 連絡先教えてくれない?」
中学生のとき、親と喧嘩したのもあって気分が優れず、保健室のベッドで休んでいた日があった。授業中である時間帯に、ベッドの向こうからふいにそんな言葉が聞こえ、聞き耳を立ててしまった。
「無理だよ。俺射手矢の連絡先知らないし」
「えー、役立たず!」
「うるさいな」
保健室に先生はいなかった。暫く部屋を離れると言っていた。カーテンの奥から聞こえる声は、早乙女と女子生徒のものだった。俺と早乙女はその時クラスは別れていたが、早乙女が保健委員だということは知っていた。雰囲気から察するに、怪我した女子生徒の付き添いだろう。
「あーあ。千景くんの彼女になってモチベーションを上げてあげたいのになぁ」
「モチベーションって何?」
「千景くん、噂によると芸能界辞めようとしてるらしい」
「へえ」
「ちょっと、私の話ちゃんと聞いてよ! そんなんだからモテないんだよ」
「風向き俺に向けるのやめろよ!」
随分仲が良いように思える。悔しくて、体が熱くなった。いっそこのカーテンから話の中心人物が出てきてやろうかとすら思った。でも、次に聞こえてきた女子生徒の言葉で体が固まってしまった。
「辞めちゃうのなんて勿体無いよね。お父さんは役者でお母さんはモデルで、千景くんはあんなにかっこよくて。お父さんお母さんの影響も相乗効果で絶対売れるのに、ここで辞めちゃったら宝の持ち腐れだよ。全部揃ってるのに、なんで辞めたいのかが分かんないなあ」
だから私が彼女になって、一番側で頑張れって応援してあげたい。と。
悪気なんて一切ないのだろう。むしろ、純粋な熱意だ。それでも俺は、言われたくない言葉の羅列が心に重く突き刺さり、息が苦しくなった。
俺の何が分かるんだよ。両親も、こいつも、周りのやつも、勝手な理想を俺に押し付けないでくれ。全部揃ってるってなんだ。全部揃ってたら、やりたくないことも続けなきゃいけないのか。
苦しくなり、ぎゅっと瞼を閉じた。何も見えない。目の前は真っ暗だ。だから余計に、早乙女の言葉がよく耳に入ってきた。
「親がどうこうとかは関係ないだろ。親のバーターだとしても、実力がなかったらここまで人気にならないだろうし。それに、芸能界辞めたいからって頑張ってない訳じゃないと思う。なにをやってもやらなくても、あいつは自分なりに頑張ってる……と思う……けど」
小さい声だった。
思わず瞼を開け、カーテンの奥の人影を視界に入れ、そしてもう一度瞼を固く閉じた。
そうでもしないと溢れてしまいそうだった。
唇を噛み締め、息を押し殺した。
もう一緒にいないのに。俺が早乙女を裏切ってから数年も経ったのに、なんで欲しい言葉全部くれるんだ。
「つーか早くしろよ。指切ったくらいで大げさだな。絆創膏貼れば十分だろ」
「そういうところ本当に嫌い! あーあ、早乙女じゃなくて千景くんがよかったなあ」
「はいはい。俺もう帰るから」
「女子置いてくなんてサイテー」
「女子ってすぐそういう噂流すから嫌なんだよ」
だんだん二人の声が遠ざかり、扉が閉まる音がした。
俺は布団の中で丸まり、鼻をすすった。口を開けば、掠れた声が布団の中に響いた。
「わかば、」
若葉。そう呼ばなくなって、数年経った。若葉と呼ぶと嬉しそうに振り向く、よく笑う少年はもういない。
「若葉……、大好きだ」
こんな言葉、ここで言ったところで意味はない。それでも言わずにはいられなかった。俺はどうしたって、早乙女若葉が大好きだ。
「どう? 今年の文化祭はうまくいきそう?」
「うん」
「千景の衣装作ってくれる子、優秀な子でしょう。千景も頑張らないとね」
「うん」
「あと、もうすぐで竹澤さんと食事会があるの。分かるよね? パパのあの映画のプロデューサーさん。次の作品のために動き出してるみたい」
「うん」
「だから、千景もいつ会食があってもいいようにしなさいね。近々あると思うから」
「お母さん、俺」
スマホのスピーカーから、なあに、と優しい声が聞こえる。優しいから、逃げ場が無くなる。
「俺……」
口は開いたまま。やっぱり、何も言えない。
本当はそんなもの興味ない。会食なんていらない。俺のために動いてくれなくていい。俺だって友達と遊びたい。ちゃんと受験勉強したい。早乙女と、一緒に過ごしたい。
言いたいのに、何一つ言えない。
早乙女にも、両親にも、俺が本当に伝えたいことは伝えられていない。射手矢キョウなんてどこにもいない。本当の射手矢千景は、自分の意思を大切にできないただのビビリな弱虫だ。
「……なんでもない」
「どうしたの? 悩みならなんでも言ってね」
「ううん。なんでもない」
結局何も言えず、通話を切った。文化祭のファッションショーまであと一週間。タイムリミットはもうすぐだった。俺は自室のベッド上で天井を仰ぎ、深くため息をついた。
浴室の扉が開く音がした。お風呂から上がった早乙女は、髪をタオルで乱雑に拭きながら部屋に戻って来た。ちら、と見て、幸せを噛み締める。デコ出し早乙女、可愛い。これは親しくならないと見れない特権だと思うと堪らない。あー、なんかどうでも良くなってきたな。このまま二人で全部投げ出してどこか遠いところで暮らしたりできないだろうか。気を張るのもたくさん考えるのも嫌になってきた。
顔を早乙女のほうに向けながらぼーっとしていると、早乙女も不意に俺に視線を落とした。お互い何も喋らず、ただ見つめ合うだけの時間が生まれる。何かを言おうとしても、頭がうまく動かず何も出てこない。今日はとことん駄目な日だ。
早乙女がこちらに向かって歩いてくる。一歩、二本、三歩。近いな、と思っていると、早乙女が俺のベッドの上に乗り上げてきた。ベッドに、乗り上げてきた。え?
「え」
「……」
早乙女は何も言わず、俺の横に寝転がった。肩がぶつかる。近い。近すぎて鼓動がえげつない音量で急加速した。ヤバイ、お風呂上がりの清潔な匂い。普通に勃つ。理解できずに固まっていると、早乙女は隣でスマホを操作し、とある写真を俺に見せてきた。
「これは、俺の実家の猫」
「お、おお……」
「俺が家出てから飼い始めた。名前はヒロム」
「……デカイな」
「デブ猫だろ」
早乙女のお母さんが抱き上げているその猫は、黒とグレーと白が混ざったような柄で、写真からでも分かるくらいでっぷりとしていた。目付きも悪い。
「こんな顔でも甘えん坊なんだよ」
次に見せてくれたのは動画だった。早乙女が実家に帰省したときだろうか。早乙女の手のひらに頭を擦り付け、喉をゴロゴロと鳴らしている。早乙女のこの撫でているときの表情といったら。
「可愛い」
「だろ」
あとこれも、と外の鳥に威嚇する動画やテレビの真ん前で寝る動画も見せてきた。可愛い、けど。
「これ送っとくな」
「え? あ、はい……」
早乙女は俺のスマホに猫の写真や動画を送ってくれた。
「なんで」
シンプルな疑問だった。早乙女はわざとなのか、俺とは目を合わせず、自分のスマホのカメラロールに視線を落としたままだった。
「元気ないときは、動物が一番効く」
と、一言。それだけ言って、勉強アプリを開いた。その場から動かず、そのまま手元の問題を解いていた。
……なんっっっっっだよ、それ!?
つまり、俺が元気ないと思って、わざわざ遠回しにこんなことをしてきたのか。俺のベッドにまで乗り上げて、俺の隣に引っ付いて、俺の心配を。え、俺の心配してくれてるんだよな。これって、絶対俺のこと好きだよな。やっぱり早乙女って俺のこと大好きだよな!? 駄目だ、ドキドキする! 元気ないときは早乙女が一番効く!!
「……さ、早乙女、明後日は暇か」
俺の声は震えていないだろうか。撮影やオーディションよりも緊張する。明後日、日曜日だ。学校や文化祭の準備は休みの日。こんな誘いをするのは、小三以来なのだ。
「なんで?」
「俺は、午後からオフだ」
「はあ」
「久々のオフだ。本当に何もない、久々のオフだ」
「うん」
「いつもだったら、舞台を観に行ったり勉強しかしてないんだぞ」
「ああ、うん」
「……」
「……」
「わっかれよォ!!」
「分かんねえよ逆ギレすんなよ!!」
「っだからぁ!! どっか一緒に出かけるかって聞いてんだよ馬鹿文脈で察しろよ!!」
「ぇあっ!?」
ぽろっと、早乙女の手のひらからスマホが落ちた。
目も口も大きく開いている。じわじわと頬が赤く染まっていき、つられて俺も赤くなっていく。
「……なんか言えよ」
「あ……うん」
「……そのうんはなんか言えよに対するうんか、出かけることに対するうんかどっちだ、ハッキリしろ」
「お前マジでめんどくさい」
早乙女は仕方なさそうに小さく笑った。それでもハッキリした返答はない。スマホを操作し、何かのページを開いているようだった。俺がやきもきしたまま待っていると、早乙女はその画面を見せてきた。
「ここ、一人じゃ行きづらいんだよな」
カフェ・フルール。店名が目に入った。画面をスクロールすると、絵本のようなパンケーキやパフェやクレープの写真が載っていた。それはつまり。画面から視線を外し早乙女を見ると、早乙女も俺を見て、気恥かしそうにきゅっと口を結んだ。
叫びたい。意味もなくただ叫びたい。んもー、なんだよ、早乙女可愛すぎるだろ。可愛すぎて逆にイライラしてきた。
「お前は有名人だし俺は一応受験生だし、さっと行ってさっと帰ろう」
「あ、ああ」
「……あと、本屋も寄りたい」
「ああ」
「ドラッグストアも。あと、」
「私用多すぎるだろ」
とは言ったが、もっと用事を増やしてほしいくらいだ。二人きりで出かける、つまりこれは、デ、デートなのだ。
「二時には仕事が終わるから、三時に駅前集合な」
「分かった」
表面は冷静をつとめて、俺は心の中で何度もガッツポーズをした。今世界で俺が一番幸せだ。
この話が終わってからも早乙女は俺のベッドから降りることはなかった。俺はずっとそわそわしっぱなしだった。気を紛らわせるために獅子倉に実況メッセージ(壁打ち)を送っていると、視界の端で早乙女が小さく船を漕いでいるのが見えた。
「おい、髪乾かしてないだろ」
「んー、別にいい」
「風邪引くぞ」
「引かない」
早乙女は濡れた髪のまま俺の枕に顔を沈めた。生娘のように叫びたくなったのをグッと堪えた。俺が普段使っている枕二分の一に早乙女の顔が。なんだこれ、ご褒美すぎないか? でも濡れた髪のまま寝るのはいただけない。
「ドライヤー! 乾かせ!」
「んー……」
駄目だ。枕に突っ伏したまま動かない。仕方ないのでドライヤーを持ち出し、近くのコンセントに差して早乙女の頭に熱風を当てた。それに気付いた早乙女はくぐもった声で小さく笑った。
「このまま乾かしてくれ」
「……っや」
やらせていただきますが!?
いいのでしょうかこの私めが!?
思わずこの部屋のドアを破って開放的に叫びそうになった。危ない。
「や、安くない、ぞ」
「はいはい……」
早乙女はそれっきり黙ってしまった。寝たのだろうか。俺は唾を飲み飲んで、早乙女の頭皮に指を這わせ髪を乾かした。
「はぁ……」
まっすぐで、少し硬い髪の毛。昔と変わらない。撫でたときの感覚がそのままだ。枕からは、気持ちよさそうに眠る寝息が聞こえてきて、俺はどうしようもなく泣きそうになった。
もう今更手放すなんて絶対に無理だろ。
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