1 早乙女の場合①
江戸幕府を治めた十五人の将軍すら名前を覚えられないのに、幼少期の数年間に見ていた戦隊ヒーローたちの名前は系列順で全て言える。授業で習った小難しい数式は数カ月もたてば思い出せなくなるのに、小学校低学年でやった国語の話は今でも冒頭を暗唱できる。親に言われた小言のひとつやふたつ、数分のうちに忘れるのに、幼稚園で描いた親の似顔絵を大層褒められたことは鮮明に記憶に残っている。
つまり、ガキの頃の経験や知識や言葉というのは忘れようにも忘れられないものも多く。
『こっち見んなブス』
小学三年生にしてこんな事を言われてしまった俺は、当時のやわやわな柔軟すぎる心にその言葉が深く突き刺さってしまい、高校生になった今も心の形が変わったままだった。
そうか、僕はブスなのか。だからかっこよくないし、つまりモテないし、つまり足が速くないし、足が早くなければ頭もそこまでいいわけじゃないし、嫌がらせも受けるし、僕っていいところなくない?
と、小三にして可哀想なことに最悪な悟りを開いてしまい、いかに自分がブスで長所がないかを思い知った。そこから俺はもう駄目になった。自分を、他人を、世を、捻くれた見方でしか感じ取ることができなくなってしまった。
という男が、俺、早乙女である。
宿命というのは非常に厄介で俺のことが大嫌いらしい。
「おいブス、拾え」
拾うと捨てるってほぼ一緒の漢字だから、馬鹿だから分かりませんと言ってこの窓から捨ててやろうかな。
廊下の床に落ちた__のではなく目の前の男がわざわざ故意に俺の前に落とした教科書を、俺は「頼むから燃えろ」と念じながら睨みつけていた。
最悪である。この世で一番最悪な男、俺の人格を捻じ曲げた張本人は、「耳まで悪くなったか?」とほざいた。こいつの名前を射手矢(いてや)という。非常に好かない男なので、教科書を睨みつけたまま、射手矢の方に視線を向けなかった。
「そうです耳が悪い馬鹿です拾うの意味も分かりません運動機能もないのでしゃがむこともできません踏むことはできますがどうします?」
「オタク喋り世界大会に出たらどうだ?」
「お前も不快な言動大学推薦入試受けたらいいよ」
「不快?」
射手矢はフッと鼻で笑い、俺を見下した。
「どっちが」
プッチーーーンときて、俺は勢い良く床に落ちた教科書を拾い上げ、射手矢に投げつけた。顔面クリーンヒット。ざまあみろ。綺麗な顔が歪み、赤く染まっている。
「芸能科の生徒サマはこんなブスと関わらない方がいいんじゃないですかァ!?」
「〜〜〜このッ」
ブスが、とか、バカが、とか、いろいろ大きな声で言われたけど、全部鼓膜の手前でシャットアウトし、終始無言でこのやりとりを見ていた、俺の隣にいる男の手をとってすぐにこの場を離れた。
射手矢は高確率でボキャ貧になる。
本当に本当に本当に最悪なことに、なんと、俺と射手矢は幼稚園の頃から高校に至るまで、ずっと同じ進路をたどっている。中学までは住んでいる地域柄まだ仕方がないと思えた。高校はどうしてもこいつと離れたくて地元から離れた高校を選択した。実家のぬるま湯から抜け出し寮生活をするという苦渋の決断もした。
なのに!
「射手矢くん、今日も絶好調だねぇ」
「あれを絶好調って言うな。好調であれなら毎日不調でいろ。免疫下がれ。流行り病にかかってズタズタになれ」
「飽きないよね、わざわざ芸能科の校舎から普通科の早乙女に会いに行くなんて」
「俺に嫌がらせをしないと生きていけないクソ性悪クズ野郎なんだよ」
先程の俺と射手矢のやり取りを微笑みながら見守っていた男__水上はもぞもぞと体操服に着替えながら小さく笑った。朗らかなものではなく、小馬鹿にしている感じだ。水上のような一見柔和な男にこの笑いをされたら結構傷付く自信がある。
「仲良しだねぇ」
「お前アレを仲良しって言えるタイプ?」
「だって本当に嫌いだったら喋りもしないし、そもそも同じ高校選ばないよ」
「全部俺じゃなくてアイツのせいだからな! 俺はなるべくアイツを避けて生きてきた!」
「でも射手矢くんの家柄だったらこの学校の芸能科受けるかもって、ちょっとでも考えなかったの?」
「……考えなかったんだよ」
「お馬鹿さん」
「そうだよ、俺は大馬鹿者で救いようのないブスだよ」
「そこまで言ってないよ。もう、面倒くさいな」
俺は面倒くさいのだ。自分でも分かっている。自己否定がデフォルトなのだ。冗談である揶揄いも、冗談と受け取れない。これは誰のせいだ? もちろん幼少期から俺に数々の悪口を言いまくってきた射手矢のせいだ。俺はいつまでアイツに心を歪められなければいけないんだ。
2 射手矢の場合①
チャイムの音が鳴ったのと同時に、俺達の遅刻が確定したのはこの際どうでもいい。俺は渡り廊下で地の底を這うような深いため息を吐き、その場にしゃがんだ。
「はあ”ぁ”ぁ”ぁ”〜〜〜〜〜俺のバカバカバカ……」
「射手矢って本当におもしれー男だよ」
「一ミリも笑ってないくせに……」
俺の横に立っている男を見上げた。嘘。一ミリくらいは笑っていた。生温い視線を俺に向けながら片方の広角だけ上げている。
「教科書わざと落として拾えって何? あんな低レベルな嫌がらせ、早乙女くんが可哀想」
「……嫌がらせじゃない。会話をするきっかけだ」
「お前それ相当拗らせてるよ」
小学生男子でももっとマシだよ、とその男__獅子倉(ししくら)は言った。うるさい、分かってるそんなの。だから今こうして頭を抱えている。
「あっちも変だと思ってるよきっと。基本的に芸能科の生徒と他学科の生徒の交流はタブーだから。わざわざ嫌がらせのために早乙女くんに毎日会いに行くの、絶対おかしいからね」
「……まさか、早乙女は俺の好意に気付いてたりするのか……?」
「……いや、それはないだろうけど」
もし早乙女に俺の気持ちがバレていたらと思うと、鼓動の速度が爆上がりして苦しくなった。心臓のあたりを手でぎゅっと抑えた。
「俺は絶対に告白しない……あいつから俺に好きと言わせる……絶対だ……」
「多分死ぬ方が早いぜ」
獅子倉を殴った。こいつには俺に対するデリカシーがない。これを獅子倉に言ったら「お前がそれを言うの、なんのジョーク?」と言い返された。
「獅子倉、実験室行くぞ」
「は? 今の時間の授業、普通に教室だって」
「違う、そんなの受けてる場合じゃない。どうせもう遅刻してるんだから、堂々とサボればいい。実験室が一番グラウンドを見やすいぞ」
「……ストーカー行為に勤しむお前の姿、輝いてるよ」
どうとでも言え。目も合わせられない会話もまともにできない、なら、俺が早乙女を目で追うしかない。
「おい見ろ、早乙女がバテて歩いて注意されてる。……可愛いな」
「はいはい」
「クソ、あいつ……水上が邪魔だな。高校で知りあった、たかが数年間の付き合いの分際で早乙女にべったりくっつきやがって……」
「自分で自分の首を絞めてる人間がなんか言ってるよ。普通に隣にいるだけじゃん」
「この世から俺と早乙女以外の人間がいなくなれば、俺はあいつの隣にい続けられると思わないか?」
「キッッッ……ツ……もう話しかけてくんな。せっかく授業サボってんだから、俺は寝る。話しかけてくんなよ。一人で勝手に早乙女くん見とけ」
実験室に着いて早々、獅子倉は机に伏して寝てしまった。昨日は撮影だったと言っていたから疲れているのかもしれない。
俺は獅子倉の言葉通り、ひたすらグラウンドで外周をさせられている早乙女の姿を目で追っていた。
「可愛い……」
思わず口から出てしまう。誰がブスだよ。誰がそんなこと言った。
焦げ茶色のまっすぐな重い髪の毛、不健康そうな白い肌、きゅっとつり上がった目。あの鋭い目つきが最高なんだよ。今はしんどそうにその目を細めながら走り続けている。
思えば、俺が早乙女とうまく喋れなくなったのも、体育でマラソンをしている時だった。小三の頃だ。マラソン大会の前日で、体育の授業でその練習をしていた。昔から体力がない早乙女は最後尾でヘロヘロになりながら走っていた。いや、ほぼ歩いていた。俺はそれが気が気ではなく、わざわざスピードを落として早乙女と合流し、そしてあいつの手を掴んで無理やり引っ張った。
その時のあいつの顔。安心しきったような、嬉しそうな顔。それが、小三の射手矢少年の心にクリーンヒットした。でもその当時は流石におかしいと思った。早乙女は男だ。男が男に可愛いと思うなんて普通じゃない。だから、早乙女に対してドキドキしてしまうなんておかしい。そんな顔で見ないでほしい!
『こっち見んなブス』
と、言ってしまった。言ってしまったが、俺は自分でも何を言ったか理解できず、そのまま早乙女を見ていた。早乙女はぽかんと口を開けたまま、苦しそうな呼吸をしたまま、数秒後に「うん」とだけ呟いて前を向いた。早乙女の手は握ったままだった。俺は、どうしよう、なんて謝ろう、と咄嗟に考えたが、何も言葉が出なかった。たった一言、ごめんくらい言えばよかったのに。
次の日のマラソン大会当時、早乙女は欠席した。理由は分からない。ただサボりたかっただけかもしれないし、もしかしたら俺の言葉がひっかかって気を悪くしたのかもしれない。
どれだけみんなから速かったねと言われても、1位と書かれた賞状を手にしても、俺の気が晴れることはなかった。早乙女に謝れなかったから。
マラソン大会が明けて早乙女が学校に来てからも、俺はずっと謝れなかった。むしろもう後戻りは出来ないと、自分の気持ちを隠すように早乙女に悪口を言い続けた。早乙女は俺の言葉を真に受け、自分の顔を髪の毛で隠すようになった。それすらもみっともないと罵倒した。言っては後悔し、でも謝れず、結局思いを燻らせながらこの年になってしまった。もう高校三年生だ。九年間不毛な片思いを続けている。馬鹿? 俺もそう思う。でも今更優しい言葉なんてかけられるわけない。そこまでして否定されたら、それこそ俺はもう掛ける言葉がなくなってしまう。
「誰がブスだよ……」
トラックの真ん中でちょこんと三角座りをして服をつまみぱたぱたと仰いでいる早乙女を眺めた。顔が真っ赤だ。本当、誰がブスなんだよ。
「早乙女……可愛い……」
「……うるさいな……シコるんならもっと静かにやってよ……」
「シッ……してないが!?!?!?」
寝ていたはずの獅子倉がむくりと起き上がった。俺の名誉のために言っておくが、断じてしてない。今は。獅子倉は俺を見て、呆れたような表情をしていた。
「見てる分には楽しいからいいけどさー、もう俺ら高三だよ? 進路でバラバラになるのは目に見えてるんだから、そんだけ拗らせるくらい好きならさっさと動かないと。マジで早乙女くんオナネタにするだけで終わっちゃうぜ」
「お前羞恥心ないんか!?」
強めに獅子倉の背中を叩いた。そりゃあしてないことはないが!? 獅子倉、マジでデリカシーがない!
「あ、チャイム。……まー、射手矢に素直になれって言っても無理難題だな。せめてもうちょっと行動で好きって示したら」
「こ、行動」
「そー。俺、今日打ち合わせあるからもう帰るし」
「待て! 行動って、なにすればいいんだ」
「知るかよ。それくらい自分で考えろ!」
獅子倉はべ、と舌を出して去って行った。
好きって、行動って、なんだ。
3 早乙女の場合②
来月にはもう文化祭らしい。俺は文化祭を一大イベントと捉えていない。興味がないので、役決めの時間になって初めて文化祭が近付いていることに気付いた。
「普通科は今年も例年通り各ステージの裏方業務をします。今黒板に書いてあるのが普通科の生徒で運営する役割なので、今日はそれを決めていきまーす。被ったらジャンケン!」
仕切るのが好きそうなクラスの女子が前に立って溌剌としていた。書記の子が黒板に役割を書き出し、みんながぞろぞろと自分の名前を書きに行った。
俺は配られたプリントを眺めていた。メインステージは演劇、ダンス、バンド、そしてファッションショー。あと各ブースで電子工学科、食物科、アート科の展示と出店があるらしい。
この学校__星徳高等学校は少し特殊で、普通科以外の専門学科は業界との繋がりが非常に強い。本気でプロを目指す人が多く、高校卒業後そのまま学校側の推薦や企業のお墨付きで就職・デビューということもザラにある。文化祭は各大手企業やプロデューサーがこぞって未来のスターを見つけに来るので、生徒たちはこの文化祭で名を挙げるのを一つの目標にしている人が多い。文化祭という名の、自分の力を業界にアピールするオーディションのような場でもあった。だから、一般的な学校の文化祭よりも準備期間が長いらしい。
ただ、普通科はそうではない。こんな学校に普通科なんているのかというくらい影が薄い。普通科は毎年、裏方業務と言う形でサポートしている。変に見世物にされるよりはよっぽどマシなので、俺にとってはありがたかったりする。
「早乙女は何する?」
隣の席の水上が俺に聞いてきた。水上もまだ役を決めていないようだ。
俺は黒板にまだ誰の名前も書かれていない役割を見て、消去法で候補を上げた。
「俺、照明やろうかな」
「なんで? そんな楽じゃないでしょ」
「人がいっぱいいる空間から離れられるから。体育館のキャットウォークに照明ブース作られるだろ。人から隔離されるから、そっちのがマシ。水上も一緒にやろう」
「……えー、まあいいよ」
「不満そうじゃん」
「俺幕開けたり閉めたりするやつがよかった。そんな役なかったけど」
「なんで?」
「飽きたら俺の判断ですぐ閉められるから」
「……」
こいつ怖……。こんな穏やかな顔してなんてことを言うんだ。
「音響があったらそっちのが良かったんだけどな。リハまで普通にやって、本番で変なSE足したり音でかくしてみたいなぁ」
「狂気って普通の顔してるやつが隠し持ってんだよな……。水上みたいな考えの人がいるから音響は外部発注なんだよ」
「まあ照明もいたずらしようとしたらできるけど」
「頼むから絶対やるなよ……」
水上は不満そうな顔をしていたが、諦めて照明をやることにしたようだ。水上は一見物腰柔らかな、本当に普通の人間に見えるので、こういうやつが一番怖いかもしれない。
照明希望の人は定員割れしなかったので、話し合って担当のステージを決めた。それが意外と揉めてしまったので、ジャンケンで決めることになった。そして、案の定俺は負けた。こういう時俺は必ず負ける。決まった俺の担当は、ファッションショーだった。ニ人一組でやるので、勿論水上も道連れにした。俺は不満をあらわにした。
「ファッションショーが一番嫌だった」
「なんで?」
「……芸能科の生徒がモデルやるだろ……。あのクズが歩くかもしれない」
「ああ、なるほどね。射手矢くん、普通にモデルやってるもんね」
「つまりあいつのために俺が裏で働かなきゃいけないってことだろ。癪過ぎる。マジで嫌だ」
「でもジャンケン負けたのは早乙女だよね」
「……」
慰め、一切ナシ。そうなんだけど。
前述した通り、この学校はいろいろな専門学科がある。芸能科、ファッション科、ダンスパフォーマンス科、音楽科、電子工学科、食物科、アート科。
特に芸能科とダンス科と音楽科は高校生の時点で有名な人も多く、校舎がそれ以外の学科と分かれている。地方出身者が多いため寮生活の人も多いが、その三学科の寮生は寮の棟も分かれている。
なので、そもそも俺みたいな一般人がそういうキラキラした人達と邂逅する機会なんてほとんどない。というか、この大きすぎる学校で奇跡的にすれ違ったとしても、暗黙の了解というか、オーラの圧というか、とにかくそういうものがあり、交流するなんて考えにも至らない。水上はそういうのを一切考えないらしく、普通に喋ったこともない芸能科の生徒に「この前のドラマよかったよ〜」と話しかけたりする。相手は慣れているようで爽やかに「ありがとう」と返すパターンが多いけれど、正直俺はいつも肝が冷える思いでいる。水上はとにかく、見た目に騙されがちだが、心臓に悪い男なのだ。
放課後、俺が暮らしいている寮の部屋に帰りスマホを確認すると、水上からボイスメッセージが届いていた。水上は俺と違い、実家から学校に通っている。ボイス……? と怪訝に思い再生ボタンをタップすると、水上の声で「トントントントン、トントンツー」と、トンとツーを組み合わせた言葉がスピーカーから流れてきた。
これは、モールス信号だ。俺が小さい頃に習得してて今でも使えるということを水上に話したら、水上も目を輝かせて勉強しだした。授業中、隣の席で水上はよく机の上を爪で叩いて俺にメッセージを訴えたりする。ついにスマホでのやり取りまでモールス化してしまった。受験生のくせになにやってんだよコイツ。
「H、U、N、G、R、Y、……ハングリー……」
わざわざボイスメッセージで送ってきた単語はHUNGRYだった。暇すぎ。俺は何も返さなかった。でも確かにお腹は空いたので、夜ご飯でも食べようと食堂に降りた。
この寮の規則はそこまで厳しくなくて、食事の時間と入浴の時間だけ学科ごとに割り振られている
くらいだ。消灯の時間も二十三時と思ったより遅かった。芸能活動で遅く帰ってくる生徒も多いかららしい。
普通科の生徒でわざわざ遠いところからこの学校にやって来て、寮生活をする人なんてほとんどいない。多分、全学年合わせても片手で数えるくらい。学校にいる間は水上がいるからいいけど、入寮したての頃は友達が全然いなくて心細すぎて仕方がなかった。
「あ、早乙女くーん」
「蟹井(かにい)くん、おつかれ様」
食堂で定食を受け取り、どこに座ろうか辺りを見渡していると、とある人物が自分が座っている横の席をバンバンと手で叩いた。結構、かなり、うるさい。
彼は蟹井(かにい)くん。アート科の生徒だ。何回でも経験してしまうが、一見、まごうことなき女の子だと錯覚する。男だけど、可愛い。見た目が女々しい訳ではないけど、とにかく可愛いのだ。髪は長く伸びていて、低い位置でふたつに結んでいる。歪な形だけど、制服にはリボンもつけている。顔立ちはとてもはっきりしていて、印象的な顔をしている。最初は女子に話しかけられたのだと思ってびっくりしたものだ。
「久しぶり。長いこと見なかったけど、何か締め切りに追われてたの?」
「そそ。依頼されたアルバムのジャケットを描いてたんだー」
「へぇ。なんてアーティスト?」
「さあ? 知らない!」
溌剌と答えられた。蟹井くんは俗世に疎すぎる。というか、興味が無いようだ。いやでも、依頼を引き受けた側としてそれはいいのか。
こうやって椅子に座っている姿だけを見ると、蟹井くんは完璧に女の子である。でもちゃんとスラックスを履いているし、立つと身長もそれなりに高い。むしろ、俺より高い。……俺より全然高い。よく見たら制服のリボンも男子用のネクタイをリボン結びにしているだけだった。あと声も普通に男の声なのだ。
俺は最初、この顔でこの髪型でこの身長でこの服でこの声で話しかけられ、どの情報が本当なのか分からず、かなりパニックになりながら蟹井くんと会話をした。あと、芸能科の人だと思ったから、何故同じ時間同じ食堂に芸能科の生徒がいるのか分からず慌ててしまった。蟹井くんはそれくらいオーラがある。
そんな蟹井くんは両手で謎のブツを掴んでいた。
「……蟹井くん、ソレ何?」
「んー? ケチャップメロンパン七味がけ! 美味しいよ、一口食べる?」
「……いや、俺はいいや……」
蟹井くんは幸せそうな顔をして、その得体のしれない食べ物を口いっぱいに頬張っていた。蟹井くんは絵の才能と引き換えに、味覚バカなのだ。天に二物を与えられても、三物目はなかった。
「俺これが久々に食べるマトモなご飯なんだー」
「マトモ……?」
「つい最近までお腹壊してたから」
「なんで?」
「絵描いてたらいっつもご飯食べるの忘れちゃうんだけど、気付いた時には発作起こすくらいお腹空いてて」
「どういう状況?」
「パレットに乗ってた絵の具、ケーキと間違えて食べちゃったんだ」
「どういう状況!?」
蟹井くんは絵の才能と引き換えに、超絶バカなのだ。三物目がないどころか、総合して大体一物くらいだ。
「だからもう絵のこと大ッキライになってたんだけど」
「せめて絵を描いてる時に思ってよ」
「今ご飯美味しいから仲直りした〜。ピースピース」
と、蟹井くんはピースではなく俺にサムズアップをして咀嚼した。そのまま立てた親指に視線を持っていき、爪の間に挟まった絵の具を人差し指の爪で引っ掻いていた。もう興味が別のところに向いたようだ。蟹井くんは三歩歩けばついさっきのことは忘れるし、一分でも会話すれば別の話題に逸れていく。蟹井くんは愛すべきバカなのだ。
蟹井くんはその未確認食物を食べ終え、そして横に置いていた缶のエナジードリンクを飲み干した。組み合わせが最悪すぎる。若干引き気味でその光景を見ていると、蟹井くんがにまにまと笑いながら俺の方を見た。
「ふ!」
「フ?」
「負のオーラ〜!」
「ん?」
「今日のは良かったね、最高だった」
「なんの話?」
「早乙女くんと、いつもの人のー」
「いつもの人……ああ、えっと……水上……?」
「んん? 誰それ」
「違うの? 水上は、んー、優しそうな顔の男」
「優しそうな顔ってなに?」
「それは難しい質問……。えっと、よく俺と一緒にいる、黒髪の男」
「じゃないほう」
「じゃないほう……誰だ」
「んんん、ママハハみたいな人」
「ま、継母……、射手矢?」
「そう、イデダさん」
「イテヤね」
「イナダさんと早乙女くんのやり取り、俺向かいの渡り廊下から見てたよー」
「え……」
「早乙女くんの死んだみたいな目と、教科書投げた時のぐしゃぐしゃの顔が最高だった!」
「……」
ちょっと椅子を動かして蟹井くんから距離を取った。蟹井くんはこういう人なのだ。
「やっぱり俺、早乙女くんの負のオーラを感じた時が一番創作意欲湧くんだー」
「これからの人生のためにも他でモチベーション上げたほうがいいよそれは」
「イケダさんと喋ってる時の早乙女くんは最高の顔するんだよね」
「わざと名前間違えてる?」
「今日は早乙女くんからいっぱいインスピレーション受けたし、明日は学校サボってずっと絵描いてようかなー」
「それはあんまり良くないと思う」
「俺の部屋来る?」
「いや、いいです……なんで?」
「文化祭の展示、早乙女くんの絵描こっかなぁ」
「絶対やめて!? こんな長所のない根暗ブス描いても蟹井くんの評価が下がるだけだから」
「ンフフ……。金魚かメダカだったらメダカかなー」
「怖ッ……なんの話……?」
アート科の蟹井くんは、可愛くてちゃんと男でバカで少し怖い俺の友達だ。
基本的に浴場を出た後は、いつも逃げるように自室に帰っている。入浴時間は学科ごとに割り振られているが、浴場前にある休憩スペースは共用なので時々芸能科の生徒がいたりする。鉢合わせたくないから、いつも入浴後はさっさと部屋に帰っていた。ただ、この日はどうしても自販機で飲み物が買いたかった。自販機は休憩スペースにある。
炭酸飲料を選び、取り出し口からペットボトルを取ってその場でキャップを開け、それをごくごくと飲んだ。めちゃくちゃ喉が乾いていたのだ。部屋に帰ってから飲めば良かったものを。俺はアンラッキーの元に産まれてきたので、万が一奥が一を考えなければいけなかったのに。
「おい邪魔だよどけ、ブスが」
「……」
思わずキャップを開けたままのペットボトルを落としそうになった。忌々しいこの声、顔を見ずとも分かる。無言でそのまま平行移動し、ヤツと顔を合わせないように逃げようとした。
「オイ! 低能は謝罪の一言も言えないのか?」
「はい、言えないですが」
「お前ほんとムカつく野郎だな」
特大ブーメランで刺殺してやろうか。それで終身刑になっても俺は後悔しない。というかどいてほしいなら普通にどいてと一言言えばいいのに。コイツはいちいち俺に突っかからないと気がすまないのか。どいての一言も言えないのか。こいつの方がよっぽど低能じゃないか。
「あーはい、ゴメンナサイ、おやすみなさい」
「だから待てって!」
まともに相手するのも馬鹿らしいので、口先だけの言葉を言って退散しようと思ったのに、射手矢に物凄い力で肩を掴まれた。無理、泣きそう。水上助けて。駄目だ、水上なんてどうせモールス信号で「SLEEPY」と送ってくるだけだ。
「……なに」
「……座れ、そこ」
「は?」
射手矢は側にあった休憩用のソファーを顎で指した。嫌、と言うとえげつない力で更にみしみしと肩を圧迫されたので、叫び出したい気持ちをぐっと堪えてソファーに座った。すると射手矢は俺の正面に座りだしたので、思わず唖然とした顔で射手矢を見てしまった。
「は、なに?」
「……」
射手矢は神妙そうな面持ちのまま、無言を貫いていた。というか、喋り出しのきっかけを探っているように見えた。口を開いたり閉じたりしていて気持ち悪かった。これのどこが芸能科だよ。そのまま時間だけが過ぎていくのも不毛に感じた。
「……用無いなら俺部屋戻る」
「まっ!!」
俺が立ち上がると、射手矢は咄嗟に俺の手を掴んだ。ぎょっとして射手矢を見ると、珍しい表情をしていた。こんな必死な顔、見たことない。
「え」
「……ぁ」
それでも射手矢は俺の手を掴んだまま何も言わず、また口をぱくぱくとさせて、暫くしてやっと俺の手を離した。
「……さっさと寝ろ、ブスが更にブスになるぞ……」
「ハァ!?!?!?」
そう言って射手矢はスタスタとどこかへ消えて行った。は?
俺はこの後、自室に戻り枕を口元に当てて叫びまくった。なんだあいつ、人をイラつかせる天才か? 人イラ名誉教授が。生徒に人のイラつかせ方を伝えて反面教師として活躍すればいい。
4 射手矢の場合②
別に待ち伏せをしているわけではない。ただ、普通科の生徒の入浴時間に合わせて休憩スペースに移動しているだけだ。別に、毎日じゃないし。ニ日に一回くらい。……連日になる時もあるけど。
自販機で自分の飲み物とこの前早乙女が買っていたのと同じ飲み物を買い、早乙女が浴場から出てくるのを待った。いや、待ち伏せとかではなくて。
早乙女は浴場から出て俺の姿を確認すると、顔をしかめて足早にその場を去ろうとしていた。今までの俺の言動が原因であることは百も承知だが、やっぱり自分の顔を見てそんな顔をされるのはなかなかに腹が立つ。手にしていたペットボトルでべこんと早乙女の背中を叩いた。
「いった!! 最低!」
「俺の顔を見て挨拶も無しかよ。ブスは礼儀もなってないのか?」
違う違う違う! こんな事を言いたいわけじゃない!
そうじゃないのに、早乙女と喋ろうと思うとこんな言葉しか出てこない。
早乙女はつり上がっている目を更につり上げ、怒りをあらわにしていた。
「そんなブスを毎日飽きもせず見に来るお前は目が腐ってんじゃないの!?」
「なっ……」
早乙女はやっぱり俺と顔を合わせようとはせず、俺に背を向けようとしていた。
違う、そうじゃなくて、俺は喧嘩をしたくてここに来たんじゃなくて。
「早乙女、待て!」
「!」
「これ、を」
早乙女を叩いてしまったペットボトルを差し出す。早乙女は訳がわからないとでも言うように、そのボトルを眺めていた。
「……じ、自販機で買ったら、当たりが出た。これは、お、お前に恵んでやる」
「は?」
「感謝しろ……俺が、お前みたいな下等生物に与えてやるんだから……」
「怖、いらない」
「ッッハァッ!?」
「てか炭酸で人殴るなよ……。どうせ炭酸抜けてるし、いらない」
「お前、人の優しさをっ……」
「優しさ?」
そう言って、早乙女はきょとんとした顔で俺を見た。その顔はどれが優しさと呼べるものなんだと言っているようで、もしくは今まで散々いじめてきたくせにこんなちっぽけな行為で優しさを自称するなと言っているようで、俺は何も言い返せなかった。
その日は結局聞きたいことは聞けず、また癖のように早乙女に文句を言って部屋に戻ってしまった。ニ本のペットボトルが俺の体を冷やした。
もう飲み物なんて買わねえ。どうせあいつは受け取ってくれないし。そんなまどろっこしい真似はしない。
と、開き直って次の日は早乙女の浴場上がりを普通に待ち伏せすることにした。待ち伏せだ待ち伏せ。
浴場から出て来る他学科の生徒が俺の顔を見るたびびくっと反応してそそくさと帰って行く。たまにじろじろと好奇の目で見てくる人もいるが、早乙女からの侮蔑の目に比べればなんてことない。
「げ……」
と、一言呟いて、早乙女は浴場から出てきた。俺の顔を見て、げ、と。
早乙女はよっぽど早く上がりたかったのか、普段乾かしている髪の毛は濡れたまま、首にタオルを巻いて出てきた。顔は少し火照っている。いつも重たい髪の毛で顔が隠れがちだけど、今日は前髪が後ろに撫で付けあり、顔がはっきり見える。……これは、可愛すぎる。
「……」
ブス、とも言えなかった。何を言おうか考えても、何も出てこない。だって、可愛すぎる。
きゅっとつり上がった目は、何も言えず狼狽えている俺を見つめていた。
「なに、昨日から怖いんだけど……」
「……でこが広い……」
「……お前は俺の欠点見つけるのほんと得意な」
弱々しく俺が言ったせいか、早乙女も呆れたように呟いた。どうしよう、ちょっと、可愛すぎて直視できない。直視できないので、自分のつま先を眺めた。
「お前、部屋の風呂使わないのか」
「お前の部屋には風呂があるのかもしれないけど、普通の生徒の部屋にはそんな大層なものねえよ」
「大浴場なんて汚いところによく入れるな」
「それ俺以外の生徒にも言えよ」
「……」
「……はぁ。文句言いたいだけなら帰るけど」
「……そうじゃなくて……、おっ、お……っ……」
「な、なんだよ……」
「お、俺の、部屋の、風呂……つ、使えばいい」
「は?」
「だから……たまには、俺の部屋の風呂、つか、使わせてやっても、いい」
言った! 言ってやったぞ!
というか、毎日俺の部屋の風呂を使え。俺は見れないのに、早乙女と無関係な生徒は早乙女の裸を見れているのだと思うと心底不愉快でならん。なんで、早乙女のことが好きなのはこの俺なのに!
「いや、絶対嫌だけど……なんで……?」
「っお前マジで自分が否定できる立場にあると思うなよ!?」
俺が勇気をふりしぼって提案したのに、この早乙女という男はいとも簡単に俺の言葉を却下する。イラついて、思ってもいない言葉が出て来る。
「なんだよ! 意味分かんねえよ、別に俺は頼んでもない!」
「なんだとっ……」
早乙女は逃げようとしていた。
違う違う! こんなことを言いたいんじゃない。なんでだよ、なんで俺はこんな言葉しか出てこないんだ。
悔しくて、気付けば俺は早乙女の服の裾を引っ張っていた。
「え?」
「あ……」
なんだかいつもの自分を保てない。早乙女は俺の顔を見て、驚いたような顔をしていた。
風呂のこともだけど、俺が一番聞きたかったことは他にある。
「……お、お前、文化祭なにやんの」
「え、照明……」
「! どの、ステージ」
「……ファッションショー……」
「……そうか」
俺が裾を離すと、早乙女は怪訝な顔をして部屋に帰って行った。
俺は一つ呼吸をして、決意をした。
5 早乙女の場合③
文化祭まで一ヶ月を切り、各ステージの準備が本格的に始まった。
文化祭のファッションショーは、芸能科、ファッション科、普通科が協力して一つのランウェイを作る。芸能科の生徒がモデル、ファッション科の生徒が衣装作成、普通科の生徒が裏方業務。今日はその三学科の交流会だった。既に誰の衣装を誰が着るかは芸能科とファッション科の中で決まっているらしく、交流会は謂わば仲良くなるためだけの顔合わせみたいなものだ。俺が一番嫌いなやつだ。しかも、射手矢もいる。射手矢は芸能科の中でもビップな生徒なので、ファッション科の人達に囲まれていた。俺は壁沿いにちんまりと立ちながら、その光景を見ていた。アレのどこがそんなにいいんだ。勿論顔はいいのかもしれないけど、俺はもうあいつをモデルやら芸能人やらそういう目で見ることはできない。
「水上、別に俺と一緒にいないで誰かと話せばいいよ」
「早乙女が寂しがるじゃん」
「……別にいいよ」
「否定はしないんだ」
隣にいた水上がニヤニヤと笑いながら、早速近くにいた芸能科の生徒に話しかけに行った。あいつはホントすげえよ。俺とは肝の座り方が百八十度違う。
俺は別に誰かと仲良くする気はない。仲良くなったところで、これから先も交流が続くかといえば多分続かないだろうし、そもそもそんな華やかな世界の人達と俺では釣り合わない。俺と話してもつまらないだろう。
乾杯と銘打って用意されたソフトドリンクを片手に、俺は壁にもたれながらそのままずるずると腰を下ろした。ほんと、なんでこんな賑やかなところに来ちゃったんだろう。
「早乙女くん、一人なの?」
「ウッ」
手にしていたジュースを口につけた瞬間、誰かに話しかけられて思わず器官に詰まりそうになった。軽く咳払いをして横を見ると、キリッとした整った顔の男が立派なヤンキー座りをして俺を見ていた。様になるな。
「あ、えっと」
「獅子倉。分からない?」
「えーっと、射手矢の友達……」
「三年も経てば覚えるか」
「え……」
「早乙女くん、射手矢と話してるとき、俺が近くにいても絶対目合わせないから。俺のこと認識してないんだと思ってた」
「い、いや、立場逆……」
それを言うなら俺の方だろ。芸能科の生徒が俺を認識していることの方がおかしい。
俺はあまり芸能に明るい方ではないが、獅子倉くんのことはよく知っている。なんせ、射手矢が俺に下劣な言動をしてくる時は大体付き添いのように射手矢の側にいる。獅子倉くんは射手矢の保護者みたいなもんだと思ってた。
とはいえ、こんな存在しているだけで華があるような人が隣にいて、なおかつ言葉を交わしているこの状況は緊張しないわけがない。射手矢は別として。
「あ、あの……こんなとこいない方がいいんじゃない」
「なんで?」
「だって、俺と喋っててもメリットない」
「他の人と喋ってたらメリットあるの?」
「少なくとも、俺と話すよりは楽しいでしょ」
「いや、射手矢と口論してるとこしか知らなかったから、早乙女くんと普通に話せてるだけでちょっとは楽しいよ」
「変わってるな……」
「早乙女くんも十分変わってるよ」
「どこが?」
獅子倉くんは遠くの方にできている群れの中央を見つめた。
「射手矢にモノ言える芸能科以外の生徒なんて早乙女くんだけでしょ」
「いや、それは……。不名誉だけど、俺ら幼馴染ってだけで……」
「幼馴染ね。そうじゃなかったらあそこまで拗らせないよね」
「拗らせる? なにを?」
「んはは」
獅子倉くんは何が面白いのか、俺の肩を叩いて笑った。怖。俺の周り怖いやつしかいないのか?
「射手矢さ、まー、最近揉めてるんだわ。親と」
「……ああ、うん。知ってる……。昔からそうでしょ」
「うん。そうだね」
俺と射手矢は幼稚園児の頃からの仲だ。親同士の仲がいいから。射手矢の両親は俳優とモデルという、格が違う世界の人だ。通常なら俺の両親と射手矢の両親は交わることはないが、俺と射手矢はたまたま同じ幼稚園に通っていて、そこで母親同士がママ友になったらしい。俺の母親が芸能の知識に疎かったのが逆に良かったのかもしれない。偏見を持つことなく、射手矢家と接した。その頃からの繋がりがあるので、射手矢の両親と射手矢は将来のことで昔から揉めているのは知っていた。
「今回のファッションショーもモデルやりたくないってずっと渋ってたんだけど」
「射手矢が?」
「そう。射手矢の親は絶対やらせたかったみたいだけどね。アレでベストモデルに選ばれると、その後の待遇がめちゃくちゃいいし」
「じゃあ今回は射手矢はモデルやらないの?」
「いや、つい昨日やるって言って」
「へぇ」
「ふは! 興味なさそう。ファッション科は大盛り上がりだったらしいんだけど」
「俺関係ないし……」
「そんなことないでしょ」
獅子倉くんはにこっと笑って俺を見た。笑顔が画になる。
「誰のおかげだろうな」
「?」
いや、知らんがな。射手矢がモデルやろうがやらなかろうが、俺にとってはどうでもいい。むしろ、不参加であってほしかったまである。
獅子倉くんが大層綺麗な顔で俺を見るので、気まずくなって顔をそらしジュースを飲んでいると、奥からこちらに向かって子犬のように駆けてくる生徒がいた。びっくりして訳も分からず身構える。その生徒は俺の前でピタッと止まった。
「うおっ! や、マジでいる!」
「は、え?」
そいつは俺の正面に座ってできる限り俺に近付き、俺の姿をまじまじと見つめた。
「俺、ファッション科ニ年の八木沼(やぎぬま)っす」
「は、はい」
「それっぽい人いるな〜、って思ってたんですけど、早乙女先輩っすよね!」
「は、はい」
「わ〜! ホンモノだ! 感動!」
「はい?」
他の早乙女と勘違いしているのだろうか。しかしながら、生憎この空間に早乙女姓の人は俺しかいない。俺は胡乱げに目の前の人物を見たが、隣にいた獅子倉くんも誰だコイツみたいな顔でその男を見ていた。
ファッション科らしい独特の雰囲気がある。人好きのしそうなぱっとした明るい顔立ちだ。前髪は後ろに流してカチューシャで止めていて、尚かつ両サイドの髪を幼児みたいにくくっている。これが様になっているのだから不思議だ。
「えっと……俺、なんかした?」
「にゃはは!」
「にゃは……?」
「俺、アート科三年の蟹井先輩の大ファンなんすけど」
「ああ、蟹井くんの」
「蟹井先輩が唯一マトモに会話できる人って、一部で有名人ですよ」
「は、俺が?」
「はい! 俺、早乙女先輩と喋ってみたかったんすよ」
と、八木沼くんはまるで尻尾をぶんぶん振るかのように顔を輝かせていた。俺はタジタジである。どういう興味のもたれ方だ。
「あの、それは申し訳ないんだけど、俺本当になんの取り柄もないよ」
「トリエ」
「俺と喋るより、蟹井くんと喋った方がいいんじゃない?」
「でも蟹井先輩、マジで会話できないんすよぉ」
「確かに蟹井くんと会話するの難しいけど」
「じゃなくて、まず喋ってくれないんすよ」
「え? そうなの?」
言われてみれば。蟹井くんが俺以外の誰かと喋っているのを見たことがない。
「喋ってくれないってか、他人のこと眼中にも入れてないって感じで」
それはそうかも。射手矢のことも、「いつもの人」と言ってたくらいだし。全然名前覚える気なかったし。
「だから、蟹井先輩と会話できる早乙女先輩は貴重な存在なんっすよ」
「……いや別に、俺そんな大した人間じゃないし……」
「何言ってんすか!」
八木沼くんは俺の右手首を突然ガッと掴み、そして腕の感触を確かめるように絶妙な力加減で手を上に這わせた。慣れない人肌に、俺は目を見開いてその動きを追った。
「俺ね、人の体見たり確かめたりするのが大好きなんす」
「え」
「デッサンは観察から……、ファッションも一緒っす。服作るんなら、まずその人の姿形を知らないと」
八木沼くんの手は俺の二の腕に移動し、そしてぎゅっと腕を圧迫した。
「……八木沼くん?」
「一番は蟹井先輩なんすよ、結構ガタイいいのに緩い服着て体のシルエットがぼやけてて、最高。アレの下は普通に男らしい体があるって想像力掻き立てられるんすよねぇ」
「八木沼くん??」
ちょっと、コイツも怪しい気がしてきた。専門学科の生徒に異常じゃない人はいないんか?
八木沼くんは掴んだ俺の二の腕をじっと見つめながら、あろうことか恍惚の表情をした。
「早乙女先輩は不健康に白くて、体に力がない感じがたまんない。装飾したくなる」
「ひぇ……」
何だコイツ!!
怖すぎて言葉も出ねぇ!!
「ッおい!!」
俺が八木沼くんの前で固まっていると、八木沼くんは子猫のように首元を掴まれて誰かに引きずり出された。
「お前、調子に乗るなよ……」
「あ、射手矢先輩、どもっす」
なんと、射手矢だった。鬼の形相をして八木沼くんを見ている。げ、射手矢という気持ちが半分、今日だけは感謝してやるという気持ちが半分。ニ人は知り合いなのだろうか。
「これ以上勝手に動いたら、俺の担当外してやるからな」
「ちょ、それだけは勘弁してくださいよぉ。俺が必死の思いで射手矢先輩の担当もぎ取ったんすから」
「……射手矢の衣装、八木沼くんが作るの?」
「ええ、はい! 俺の服はぜ〜〜〜ったい射手矢先輩がいいと思って! 他のファッション科の人とガチバトルして勝ちました!」
「……よく言うよ」
珍しく、射手矢は調子を崩されているようだった。八木沼の顔を見て、顔を歪めていた。何があったんだろう。
「早乙女先輩はなにやるんすか? モデルすんの?」
「いや、する訳ないじゃん」
八木沼くんの発言に思わずシニカルに笑うと、ええ、勿体無いなと返された。ちょっと、独特の感性すぎて突っ込む気にもなれない。
「裏方っすか?」
「照明だよ」
「へぇ〜っ! なにすんっすか? あ、ピンスポ!? 絶対ピンスポがいい!」
「いや、まだ決めてないけど……」
「絶対ピンスポしてね。んで、俺の作った服、早乙女先輩の光で照らしてほしい」
「え、いや……」
「絶対、約束っすよ!」
バチンとウインクを決められ、俺は何も返せなかった。射手矢は盛大に舌打ちをして、そのまま八木沼くんを引きずって行った。次は俺の服早乙女先輩が着てくださいね〜! と遠くから聞こえてきたが、無視した。久々に射手矢に絡まれなかった。今日は雪でも降るかもしれない。
「……また変なのに好かれたな」
「傍観キメんなよ」
地味にずっと隣にいた獅子倉くんがやっと声を発した。また、ってなに。確かにそうだけど。
そして、遠くでわっと歓声が上がった。なんだと思いそちらを見ると、水上が特技の肩の脱臼を披露して周りをどんびかせていた。……あいつ、マジでなんなんだよ。
疲れた。あんなに人が多いところに、しかも顔見知らない不特定多数がたくさんいる空間にいることが中々ないので、一気に気疲れした。昔はそうでも無かったけど、自分が醜くて明るみに出るべき人間ではないと自覚してからは、なるべく人がいない方に移動してきた。自分の人間関係のキャパを越えた場所に存在すること自体が俺にとっては特大のエネルギー消費になる。八木沼くんに掴まれた腕もなんか違和感あるし。知らない人から触られるのもストレスだ。
「サイン貰った」
「ミーハーめ……」
そのまま解散になったので、交流会があった広間から抜け出し、俺と水上は玄関に向かっていた。水上は芸能科の誰とも知らない人からサインを貰ってご満悦の表情をしていた。水上は本当にいろんな人と喋っていた。フロンティアスピリットがありすぎる。これには流石の俺も褒めざるをえない。
「友達いっぱいできてよかったな」
「友達?」
「え?」
「誰のこと?」
「え? お前がさっき話してた人ら」
「いや、別に友達じゃないし」
お前、あんなに楽しそうに話しててそんな。
「会話盛り上がってたじゃん」
「うん。だから?」
「ええ……」
「会話が盛り上がったら友達なんてことはないでしょ」
けろっと言ってのける。水上はこういう男だ。
表面はしっとりまろやかなのに、中はめちゃくちゃドライなのだ。もしかしたら俺は水上の中でまだ友達の域まで達していないかもしれない。三年間一緒にいて今更そんなことが発覚したら怖いので、俺は水上に「俺らって友達?」とアホみたいな質問ができないでいる。水上が友達じゃなくなったら、この学校に俺の友達は蟹井くんしかいなくなる。蟹井くんも俺のこと友達だと思ってるか微妙だし。
「早乙女も誰かと話してたよね」
「ああ、まあ……うん」
「あれ誰?」
「獅子倉くん……ほら、射手矢の保護者」
「あー、早乙女にとっての俺みたいな人ね」
「……いや違うだろ」
「もう一人のツノは?」
「ツノ……」
水上は両手の人差し指を立て、角のように頭にやった。髪型のことだろう。
「えっと……八木沼くんって言って、1個下のファッション科……射手矢の衣装担当だって」
「ふうん。なんで喋ってたの?」
水上が珍しく俺の交友関係に突っ込んでくる。俺があまり人と話すところを見たことがないからだろうか。
「俺も分かんねえよ。なんか、蟹井くんが好きらしくて、それで……いや、やっぱりよく分かんねえ」
「蟹井くん?」
「あれ、知らないっけ」
「誰?」
意外だ。でも、そりゃそうか。
蟹井くんと俺はニ年生の時の寮の食堂で出会ってから寮内で話すようになったけど、何故か学校内で蟹井くんと出会ったことはない。水上は寮生ではないので、蟹井くんと会ったことがないのも納得がいく。
「三年のアート科の人……去年の文化祭のアート科の展示で、七つの大罪ってコンセプトの迷路作ってた……」
「そんなのあったっけ」
「『憤怒』の迷路が、最後の最後で絶対にゴールにたどり着けないぬか喜びシステムになってたやつ」
「んー」
「『暴食』の迷路が、メタボのアメリカ人の体内を脱出するってやつ」
「んー、覚えてない」
「うっそだ」
水上も一緒になって俺と迷路やってたはずだけど。
「早乙女、アート科に知り合いいたんだ」
「まあ、寮で時々会うし」
「俺、それ知らなかった」
「まあ、言ってなかったし」
「ふーん」
「……」
なんだ、この投げても当たらない会話は。
水上は一気に興味を無くしたかのように、右耳のピアスをいじりだした。 人の心ムズすぎ。
広間から玄関までの距離なんてたかがしれているので、この無益な会話をしただけで玄関に着いてしまった。玄関を出ればもう俺達は解散なので、今から会話の巻き返しをはかることは難しい。三年間一緒にいても水上はよく分かんないやつだな。というか俺の周りよく分かんない男しかいないの、小説より奇なりすぎるだろと考えながら靴を履いていると、先に外に出ていた水上がくるっと踵を返して俺を見た。
「腕、ごしごししときなよ」
「は?」
「ツートン、ツーツーツーだよ」
「え」
と言って、挨拶もせずに帰って行った。
十八歳男子の会話、こんなに難しかったっけ?
若者の会話についていけない年配の気持ちが今なら分かる。
そんな帰り道だったので、なんとなく蟹井くんに会いたいと思っていたけど、今日の食堂に蟹井くんはいなかった。蟹井くんは俺の存在しか認知できないし、俺と八木沼くんしか蟹井くんを認知できない妖精みたいなものなんじゃないかと不安になってきた。食堂の手作りパンコーナーに置いてあるメロンパンを見つめ、いや妖精のがまだマシな食事するよな、と考えて蟹井くんの現実性を保った。
そのままの流れで浴場に行き、体を洗っている時にふと水上の言葉を思い出してなんとなく腕をよく洗った。腕をごしごしって、そういうことだよな。いつもだったら、入浴までの時間に水上から暇つぶしのためのメッセージが何かしら入っているけど、今日はなかった。あれ、なんだったんだろう。最後に言ってたツートン、ツーツーツー、は、モールス信号でN、Oだ。つまりノー。……だから何? あいつがミステリー小説の犯人だったら絶対嫌だな。もっともらしい手がかりを残しておいて「え? 特に意味なんてないですが」とか言いそう。水上はそういう男だ。
お風呂から上がると、いつもの場所に射手矢はいなかった。いやいつもの場所て。何故か最近はお風呂上がり秋の射手矢エンカウント祭りが開催されていたので、少し身構えて出たけど。いなかったらいなかったで、虚をつかれたような気分になる。なんでだよ。
しかし俺も暇ではないのだ。これでいい。一応俺も受験生だから、部屋に戻ったらそれなりに勉強をしなければいけない。
今日は苦手教科でもやろうかと考えながら、いつも通り自室の扉を開けるとそこにヤツがいた。ヤツだ。黒光りする、一匹見つければ何匹もいると言われている……ヤツ。一瞬だ。電気をつけた途端、ヤツは身の毛もよだつスピードでベッド下に隠れて行った。
「ウヒッ」
理性が無ければ泣き叫んでいたところ、俺は理性を持っていたのでなんとか最小限の悲鳴に抑えて素早く扉を閉めた。堅く閉めた。というか、もう開けられない。
とりあえず現実逃避をするためにもう一度下に降りて、自販機のある休憩スペースでうろうろした。どうしよう、三年間寮生活をして初めて遭遇したぞ。俺、虫駄目なんだよ。絶対自分の力じゃ対処できない。ケチャップメロンパン七味がけ食った方がマシだ。どうしよう、頼れる人なんているのか?
蟹井くん……は、駄目だ。蟹井くんの連絡先も部屋番も知らない。俺と蟹井くんって思えば奇跡的な確率で今まで出会ってたんだな。なんて今思うことじゃない。タスクがある時ほど余計な考えが浮かぶ。
水上……駄目だ、あいつはモールス信号でLOLと送ってくるだろう。そもそも寮内にないし。
獅子倉くん……も駄目だ。会話という会話をしたのは今日が初めてだし、寮生かどうかも知らない。俺の周りの人の中では一番ちゃんとした人間そうなのに。かなり良識的な人だった。ちょっと怖かったけど。くそ、連絡先交換しとけばよかった。
寮母さんはこの時間もう寮内にいないし。ヤバイ、詰んだ。己の友達の少なさを実感するし、部屋には戻れないし、いいことがなさすぎる。どうしよう。
「どうしよう……」
「なにが」
「ウウウ〜ッ!?」
思わずひとりごちると、タイミングよく誰かに話しかけられた。ゴキ退治のことばかり考えていたので、そういう思考回路だったので、驚きすぎて失礼ながら咄嗟にその人物から距離を取った。机の角に足はぶつけるし、窓ガラスには当たるし、そのまま尻もちついて倒れるし、もう最悪だ。もっと最悪なのが、見上げたところにあった顔が射手矢だったということだ。
「お……」
お前かよ、と声も出なかった。
射手矢は目をぱちくりと見開いて、ただ俺を見下ろしていた。多分、俺の反応に普通に驚いたのだろう。流石の俺でも射手矢相手にこのリアクションはしたことがない。いっそいつものように俺を罵倒してくれればいいのに、こうも反応なく見つめられると逆に恥ずかしい。転んだときに誰か笑ってくれる人がいる方が気分的にマシなのと一緒だ。
「……なんでもねえよ」
窓ガラスにもたれかかり、無様な格好のままぶっきらぼうに答えた。
「どうしようって言ってただろ」
「なんでもねえって。帰れ」
「は? 俺はここ使いたいだけなんだが? お前が帰れよ」
「……」
これはなにも言い返せない。はいはいそうですねと言って帰ることもできない。俺は顔をしかめたまま、その場で動けずにいた。射手矢も奇妙そうにそんな俺を見ている。
「ブスなうえにお前は歩くこともできないのか」
「……」
「……そうやって窓際で野垂れているとほぼゴミと一緒だな」
「……」
「み、醜すぎるぞ。お、俺がお前みたいな塵芥なブスを視界に入れてやってるの、感謝したほうがいい」
「……」
もうなんとでも言え。返す気力もない。こいつがいなくなったらここで寝てしまおうか。それが一番良い気がしてきた。
俺が射手矢の罵倒にあまりにもノーリアクションだったのが射手矢的に調子を崩されるポイントだったのか、見るからにオロオロとしだした。こういうとこ、小さい頃と全然変わってない。射手矢は本当は小心者なのだ。デカイ態度を取る人間は虚勢だったりするからな。
「……はぁ。なんでもないから。部屋戻りなよ」
射手矢に心配されるなんて俺のプライドが許さない。なるべく穏便に済ませようと思っていつも以上に優しく、これでも優しく宥めたのに、射手矢はその場から動かなかった。俺もムキになって反抗した。
「もーなに、お前も暇じゃないだろ……帰れよ……」
「暇じゃないのにお前なんかの相手してやってんだ。その態度はなんだ」
「だからいいって」
「じゃあ早乙女も帰ればいいだろ」
クソ、なんなんだよこいつ。しぶとすぎ。なんでここまでしつこいんだよ。
「いろいろあって今は帰れないんだよ。だから俺はこにいるし、お前に関係ないし、ほっといてくれ」
「……は?」
「は?」
「帰れないって、なに」
びっくりした。射手矢がめちゃくちゃ怖い顔で俺を見下ろしている。目が笑ってない。
「別に……なんでもいいだろ」
「誰かいるのか、部屋に」
「いや……」
誰かっていうか。
「いるっいちゃいるけど」
「! おっ……押しかけられたのか!?」
「は?」
「八木沼か、他学科のヤツか?」
「いや、ちょ……」
何故かピリついた空気の中、射手矢は俺の正面にしゃがんだ。そのまま俺を睨みつけ、俺の右腕を凄まじい握力で掴み出した。ああ、俺が風呂でごしごししたとこ……。
「なに、お前怖いんだけど」
「今そいつはどこだ? お前の部屋か?」
「……多分部屋にいる、閉じ込めたけど」
「……ぶちのめす」
「はぁ?」
射手矢はそのまま立ち上がり、文化祭の準備のためか、何故か自販機に立て掛けてあった寸角を手に取り、そしてそのまま俺の部屋がある棟に歩き出し……。
「いや待って待って」
「うるさい、どけ、弱いやつは黙ってろ」
「違うんだって、俺も含みのある言い方をしたから責任はあるけど」
「お前が唆したのか!?!?」
「違うって! そっちじゃないんだよ! お前は誰に怒ってんだよ!」
駄目だ、射手矢を止めようにも俺のヒョロい力では止められない。射手矢の腕にぶら下がりながら、ずるずると引っ張られて行った。
コイツ、このまま俺の部屋に行く気だ!
「射手矢! マジで、誤解だって!」
「何がだよ! その死人みたいなツラ晒して誰のフォローすんだよ! 言えよ、八木沼か、お前のストーカーのやつか!?」
「待ってそれ誰誰誰誰誰」
看過できない言葉が出てきたけど、ここは妥協して看過ルートで!
「俺の部屋にいるの、虫だから!」
この時間だと迷惑だろうなというくらいの声が出た。それを聞いて射手矢はピタッと止まり、ぎこちなく俺の方を振り返った。
「虫」
「……虫、っす……」
「……」
射手矢はまじまじと俺の顔を見て、そして盛大なため息をついた。息の出し方に苛立ちが含まれていて、逆にこっちがイラついた。
「はぁ、虫ごときで……」
「虫ごとき!? おまっ……アレだぞ!? ゴッ、ゴッ……」
「ゴキブリか」
「それだよ馬鹿!」
名前を呼んだら実感が湧くだろうが。
弱みを見せたやらこんなヤツに呆れられたやらで恥ずかしくて射手矢を睨みつけた。射手矢は何故か喉を鳴らし、近くにあった階段下の用具入れからスプレーを取り出した。
「行くぞ」
「え?」
「貸し一つだ」
射手矢が手にしたのは殺虫スプレーだった。そのままスタスタと前を歩き、俺の部屋に向かった。ちょっと、なに、感動。このタイミングで射手矢みたいなクソ人格破綻者が俺の役立つ方向に動いてくれるのはだいぶ感動する。感動通り越して怖いまである。この際、なんで俺の部屋の場所を知っているかは不問にする。
射手矢は俺の部屋の前に立ち、そしてノンストップでそのまま部屋を開けた。
「馬鹿馬鹿馬鹿心の準備させろ」
「見なければいいだろ」
この小心者人格破綻者、意外にも虫は大丈夫なようで、スタスタと部屋に入って行った。そして、俺のベッドを見てあ、と声を上げた。待って、ベッド?
「これって寝具に吹きかけても大丈夫なやつか?」
「え」
嫌な予感。俺は射手矢と一緒の方向を見た。つまり、ベッドの上。いたのだ、ヤツが。
「ア”ーーーーーーーーー」
俺のベッドの上に! ヤツが!!
もう夜とか隣人に迷惑とか考えもせず悲鳴を上げた。鳥肌が止まらない。俺はがむしゃらに射手矢にしがみついた。もう射手矢がウザいとか嫌いとか関係ない。射手矢は俺がしがみついた途端、何故かガチガチに固まってしまった。
「えっえっえっえっえっ」
「バカお前何やってんだよ早く吹きかけろよ早く退治しろよなに突っ立ってんだよバカお前なんのためにここまで来たんだよその顔と体はお飾りかバカ!?」
「おっ、おっ、ぁ、」
「喘いでんじゃねぇよ! 早く殺せって言ってんの!!」
「ハイ!!!!!」
正直この時の記憶はあまりない。勢いに任せて射手矢に命令していた。射手矢は俺の勢いに気圧されたのか、文句もなく従っていた。ベッドの上の黒い塊に向け、容赦なくスプレーを吹きかける。「ゲキコロ」という名前通り、凄まじい威力で命を仕留めていた。仕留めた、けど。射手矢がほうきとちりとりをつかって始末もしてくれたけど。
俺のベッド。俺のベッドに、アレが。歩き回ってたんだ、ここで。俺のベッド。もしかしたら、今までも、俺の寝ている間にヤツが……。
「う、うう……」
「……は」
「うううううぅぅぅぅ」
「お……おい……」
「無理っ、むりっ……」
嫌すぎて涙が勝手に出てきた。もう恥ずかしいやら気持ちの悪さやらで、半ばヤケクソになって射手矢をバコバコと殴った。そこまで本気ではない。射手矢もどうしていいか分からないようで、俺の攻撃を受けながらうろたえていた。
「どうしよぉ、俺、マジで無理なんだよ虫……。もうこんなとこで寝れない、どうしよ、俺のベッドぉぉ……」
今日はこの部屋で眠れるわけがない。今日だけじゃない、当分無理だ。俺は椅子に掛けていたブランケットだけそっと取って、ふらふらと部屋を出た。
「どこ行くんだ」
「自販機のとこで寝る……」
「はぁ!?」
「もうここでは寝ない……多分卒業まで無理……」
一夜にして寝床を失ってしまった。今日はもう諦めて休憩スペースで寝ればいいけど、明日からどうしよう。蟹井くんの部屋番を調べて突撃するか、獅子倉くんが寮生である可能性にかけて連絡先を交換するか。いや、今日やっと会話したような人に部屋泊まらせてとお願いされるの、普通に考えて嫌だろうな。
とりあえず心が虚無になってしまったので、力ない足取りで廊下を歩いた。すると射手矢は俺を追いかけて力任せに俺の腕を引っ張った。もぎ取れるかと思った。危うく俺の特技も肩の脱臼になるところだった。振り向くと射手矢は顔を赤くしてぷるぷると震えていて、というか血眼になっていて、正直怖かった。
「なに……」
「おっ、おれのっ……俺の部屋、貸してやっても、いい、ぞ」
「なんて?」
「なんで聞こえないんだよ! 絶対聞こえてただろ!? だから、俺の部屋貸してやるって言ってんだよ!」
「……はぁ、冗談?」
「お前っ……! クソ、俺が、この俺が、わざわざっ……なんで……このブス、アホ!」
出た、語彙力の無い射手矢。
貧相な罵声を浴びせられたけど、射手矢が怒ってそのまま帰ることはなかった。なんで俺が射手矢なんかの世話に。と思ったけど、コイツは邪悪すぎる鬼を退治してくれた。手を借りてしまった。射手矢なんかに、なんて強がっても今更効力は薄い。なんの効力かは知らんけど。それに、射手矢も射手矢なりに俺を助けてくれようとしているのだろう。何故かは分からないけど。そういえば先日から飲み物をくれようとしたり、ちょっと怖かった八木沼くんを剥がしてくれたり、最近の射手矢はちょっと、めちゃくちゃちょっと、1ミクロンくらいは俺に優しくなっている、気がする。射手矢にこれ以上借りを作るのは非常に癪だが、ホームレスになるよりはマシかもしれない。
俺は改めて射手矢を見て、でもやっぱり気乗りはしなかったので気まずくて目線を逸した。
「……ありがと、泊まらせてもらってもいい?」
「! っぉアッ」
「オア……?」
「き、き、気にす、す、するな。ブス、ブスが俺みたいな、立場の人間のへ、部屋に、立ち入れることを、ありがたく、おもえ、俺は、優しいんだ……」
後半驚くほど尻すぼみになったので何を言ってるかほとんど聞こえなかった。ぶつぶつと1人で呟きながら、俺の手をそのまま引っ張って射手矢は自室に向かった。
射手矢とこれだけ一緒の時間を過ごすの、小三でブスと言われた以来かもしれない。俺はいやに緊張していたし、射手矢も手のひらに汗をかいていた。
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