1.6歳、それはまるで手持ち花火のように
思えば、俺は酷く感銘を受けやすい子どもだったような気がする。
「じゃあ次は仁くんの番ね。このね、先の方を持つの。……あ、違う違う、そっちじゃなくて反対。……いや、裏表反対じゃなくて……、ああ、違うの、反対の手で持つんじゃなくて、ええっと、今地面の方を向いている、細い方を手に持って。ああ……そんな火薬ギリギリ……。もっと端っこの方持とっか。あ、そうそう!そしたら、腕を真っ直ぐ前に伸ばして、火が体に当たらないようにね。……あはははっ!選手宣誓!?んふふ、そうじゃなくてね、もっと腕下げていいよ、うん、そうそう!そのまま……ここに火をつけるからね」
当時、俺、6歳。初めての手持ち花火だった。
幼稚園年長で大分言葉を習得した頃ではあるが、生まれ持ってのものなのか、この頃から俺は他人の意図する事を勘違いしたり斜め上の方に解釈する場面が多かった。らしい。
実家で禁止されていた花火を体験できると言う事に俺は興奮しまくり、目をキラキラと輝かせて右手の先にある棒を見つめた。
「じゃあ、ろうそくの火に近づけて……そう。ちょっと待ってみて……あっ!ほら、ついた!手はまっすぐ、人に向けちゃ駄目だからね!」
「うわっ!うわあーーーっ!りっくん!!見て!すごーーーい!!」
俺が顔を向けた先にいた少年__律樹はそれを見てきゃらきゃらと笑った。
パチパチと弾けた火花は、鮮やかな色を発して断続的に空中に消えていく。
目をまんまるにしながらその刹那を追った先、俺の幼馴染がキラキラと顔を輝かせていた。花火よりも、煌めいていた。
俺はそれがなんだか見た事もない宝物のように感じ、心臓が弾け、永遠みたいに自分の網膜に焼き付けた。
「打ち上げ花火みたいに派手じゃないけど、大きい花火よりもずっとずっと長い時間綺麗な姿でしょう。それがいいよねえ」
律樹のお母さんが律樹を手招きして次の花火を渡した。それに火をつけるとまた違った火花が散り、律樹は口を大きく開けて喜んだ。
律樹は俺を見る。
「じんくん、キレイだねえ!」
そうやって笑った顔が、本当に綺麗だった。
理由は、それだけだった。感動しいな俺には、それで十分。
それから俺はずっと、打ち上げ花火よりも、ずっとずっと長尺の恋心を律樹に抱いている。
2.7歳、告白は大胆に
小1になった。俺は諦めていなかった。
「りっくん、大好き!つきあってください!」
桜が満開の校門の前で、俺、阿井仁は幼馴染である和野律樹に告白した。
小学校入学式の終わり、大衆の中、とんだマセガキだ。しかも、しかも、相手は男。その場にいた俺のお父さんはぴしっと固まり、律樹のお母さんはあらあらと笑っていた。
「つきあうってなあに?」
「んんん、んーっとね、……んん?」
律樹にそう言われ、何も返せなかった。付き合う、という事を感覚的に覚えたため、確かにどういうものなのかは、小1の俺にとっては説明が出来なかったのだ。それでも俺は初恋を諦められなかった。
「じんくんがりっくんのこと好きで、りっくんもじんくんのことが好きだったら、つきあうんだよ」
「そうなんだ!じゃあぼく、じんくんとつきあうね!」
なんという横暴さだ。かの暴君も目を剥くレベルの身勝手さだったが、無知中の無知であった律樹は俺の発言を良しとしてくれた。
まあ、それに待ったをかける人物もいるわけで。
「えー、おほん。仁、まだ早いな、そういうのは。それに、普通男同士は付き合わないんだぞ」
「そうなの!?」
「ああ。だから、付き合うとかそういうのは……これから小学生になるんだし、いろんな級友と仲を深めて、ゆっくり考えればいい」
「?んー、分かった……」
分からない言葉だらけだったが、お父さんが俺と律樹が付き合うという事について反対しているのは分かった。俺は渋々と律樹に向き合う。
「りっくん、だめだって」
「そうなんだあ。つきあうって、むずかしいんだね」
律樹の横にいた律樹のお母さんが吹き出し、ふふふと笑った。
「そうね。人と付き合うって、難しいね」
「ただいま!」
「こら、靴を揃えなさい!」
近所からはお城、豪邸、と呼ばれる家の門をくぐり荘厳な玄関を開け、ドタドタと足早にとある和室へと向かった。気持ちが先走っていた俺には、お父さんの叱りの声は聞こえてこなかった。
部屋の前で急ブレーキを掛け、そっと襖を開けて奥に進んだ。
「お母さん、じんくんね、小学生になったよ。お花もらったの。お母さんにも見せてあげるね」
仏壇の前で正座をして、入学式の時に貰った入学祝いの花のコサージュを供えた。
心なしか、写真に映るお母さんも少し笑っているような気がする。
「じんくん、小学生になったからね、おべんきょうもうんどうも全部がんばるよ。お母さんも、一緒にがんばってね」
いったい天国では何を頑張るのか分からないが、お母さんも一緒に頑張っていると思うと、自然とやる気も漲ってきた。
手を合わせて目を瞑っていると、後ろの方に気配がした。振り返ると、眉を下げながら笑っているお父さんがいた。お父さんは何も言わず、俺の横に正座をして一緒に手を合わせた。暫くして、すくっと立ち上がったお父さんにつれられ、自分も立ち上がる。
「よし、仁、今日は仁の好きなハンバーグにするか!」
「えっ、本当!?わーい!やったあ!」
ぎゅっとお父さんに抱きつく。頭上には、ずっしりとした温かみを感じた。
「仁はこれからいろんな事を経験するんだろうなあ。楽しみだな」
「うん!」
3.8歳、既に始まっている
小2になった。俺は諦めていなかった。
「りっくん、好き、付き合って!」
「じんくん、僕もじんくんの事好きだけど、付き合えないよ」
「なんでよ!」
「だって僕男だもん」
くそくそ、お父さんが変な事吹き込んだせいで!
俺は後ろを向き、ぎりっと歯ぎしりをした。
「じんくん、そんな事より早く歩かないとみんなに置いてかれるよ」
そんな事よりって。俺の一世一代の告白を、大分軽くあしらわれている。
「ふんっ、まだ力あまらせてるだけだから。こんな山、じんくんが本気出せばラクショーラクショー」
俺達は遠足で地元の山を登っていた。楽勝なんて言ったが、そんな事はなかった。むしろぜえはあ言いたい所だが、「ここでりっくんと付き合えれば絶対元気になる」となんとも馬鹿げた思考回路のもと、シチュエーションとしてはかなり微妙な山道の中間地点で告白をした。結果はNOだったため、当然元気が出るはずもない。
楽勝どころか、最後尾。突然何が始まったんだと後ろにいた他クラスの先生も興味深げに俺達を見ていた。
そして、たらりと汗を垂れ流す俺の横で、汗一つかかず涼しげな顔をした律樹が横に生い茂る森林をぼーっと眺めながらこう言った。
「一番前にいる人って、すごいよね、かっこいい」
その言葉を聞いた瞬間、俺の足の速度は今までと比べ物にならないくらい増した。
「えー、じんくんまってよぉ」
「遅いぞ、りっくん!じんくんは一番前に行く!じんくんが一番かっこいい!」
幼いながらも日本人らしく列を乱さず歩く群衆を掻き分けて、俺はぐいぐいと山道を登って行った。数分後、漸く先頭に辿り着けたが、その頃にはもう息も絶え絶えで、しかも、危ないでしょ!と先生から怒られてしまった。
というか、一番前に立っても、律樹がここにいなきゃ意味ないじゃん。
あの様子じゃきっと、まだ最後尾を歩いているだろう。俺もああ言った手前、律樹の元へも引き返せずにそのまま山頂にたどり着いてしまった。
暫くすると最後のグループも山頂にやって来て、その中に律樹がいた。俺は律樹に駆け寄った。
「ねえ、じんくんね、一番だったよ!」
「すごいね、じんくん!」
律樹は俺を見てぱちぱちと拍手を送った。それに気を良くした俺は、さらに言葉を強請った。
「じんくん、かっこいい?」
「うんっ、かっこいいよ!」
「りっくん、じんくんの事好き?」
「うんっ、好きだよ!」
俺は嬉しくて嬉しくて、日差しに当てられ少しぽかぽかしている律樹の体を抱きしめた。
「じんくんもねー、りっくんの事大好き!」
「うん、知ってるよー」
遠くで早く整列しなさい、と窘める担任の声が聞こえた。俺はニコニコ笑顔のまま、列の先頭に立った。
俺は阿井仁。山道でも、出席番号でも、一番最初なのだ。誇らしい。対して律樹の苗字は和野なので、一番最後。だから俺がいっつも最初で、律樹が最後。これでいい。俺はいつだって律樹の前を歩いていたいのだ。
「この時のエミちゃんの気持ち、どういう気持ちだったか分かりますか?」
「はいはいっ!」
「はーい!」
「先生、はーい!」
午後の国語の授業はいつだって俺の眠気を誘う。クラスメイトが一生懸命手を挙げる中、俺だけはこの睡魔と格闘していた。首を下げてはもたげ、先生の声が聞こえては閉じていた目を瞬かせ、を繰り返していた。正直、もう教科書のどの部分を読んでいるかが分からない。
「じんくん、眠いの?」
「ん、ん……」
隣の席に座っていた律樹にこそっと耳打ちされた。俺は力なくふるふるっと首を横に振る。眠くなんかない。俺はまだ起きているぞ、と態度だけでもアピールした。
そこに、律樹による、どんな刺激物よりも刺激的な一言。
「じんくん、僕、ちゃんと授業受ける人のが好き」
俺はしゃきんと背筋を伸ばし、はいはい!と手を上げた。
「阿井さん、今は手を挙げるところじゃないよ。田中さんの発表ちゃんと聞きましょうね」
先生が困ったようにそう言い、周りの子たちは俺を見てけらけらと笑った。
しまった!早とちりだった。俺は顔を赤くしながら隣にいる律樹を見た。律樹はくふふと笑っていた。おずおずと手を下げた俺は、口をもごもごとまごつかせた。
「ごめんなさい……」
「次は正しい所で手を挙げようね。じゃあ、田中さん、もう一回言ってもらってもいいですか?」
俺は恥ずかしさを誤魔化すように、今まで書けていなかった部分をノートに書き写した。律樹はそんな俺を見てじっと見る。
「ちゃんと起きれてえらいね」
「!」
律樹が褒めてくれた!
「りっくん、じんくんかっこいい?」
「うん、かっこいいよ」
律樹が、俺を褒めてくれた!俺はその事で胸がいっぱいになり、眠気もどこかに捨て、一心不乱に文字を書いていった。
まあ、なんというか、俺はもう既にこの時から律樹の言う事を真に受けて愚直に実行する男になっていたのである。理由、律樹が好きだから。
4.9歳、スイッチオン
小3になった。俺は諦めていなかった。
「りっくん好きー!付き合ってー!」
「えぇ、嫌だあ」
シチュエーションはバッチリだった。夏、花火大会、海、浴衣。でも断られてしまった。
小3ともなると、流石に友愛と恋愛の差くらいは分かるようになってきたらしい。普通に嫌がられた。それでも俺達はまだ小3だった。まだまだみんなと友達でいられるのが楽しい時期。
「なんでよ!じんくんの事好きじゃないの!?」
「好きだけど、……別に友達でいいじゃん」
「友達じゃなくて、幼馴染!」
「一緒じゃん」
「一緒じゃないの!特別感が違うでしょ」
「そんなもんなの?」
「だって、じんくんの友達のりっくんですって言うより、じんくんの幼馴染のりっくんですって言う方がりっくんも嬉しいでしょ?」
「んー、そう……かもしれないね」
「でしょ?……じゃなくて!違うの、もっと上のランクになりたいの!」
「上のランク?」
「だから、付き合うの」
「付き合ったらどうなるの?」
「んん……?んん……ラブラブになる?」
「今のままでいいじゃん」
「もっと!もっとがいい〜!」
俺は薄暗くなりかけた浜辺で、律樹に思いっきり抱きついた。律樹は少しばかり鬱陶しそうな顔をしている。でも拒否したりはしない。
「じんくん、俺、男だよ」
「だから何?」
「男どうしは付き合えないんだよ」
「男どうしじゃなくて、じんくんとりっくんだから大丈夫」
「大丈夫ってなにが……」
律樹は小3になってからクラスメイトの影響か、それはもう大変可愛らしかった僕呼びを辞めたらしい。俺はそれが少し悲しかった。だって、天使みたいな顔をして、僕って言うの、凄く可愛かったから。ふくっとした白いもちもちのほっぺも、成長するに連れてシュッとしていき、天使から立派な美少年に変身した。まあ、それはそれで全然いいのだけど。可愛くてもかっこよくてもそうじゃなくても俺は律樹が好きだった。
「まあいいや。じんくん、もうすぐ花火上がるよ。ちょっとどいてね」
そう言って、律樹は俺を引き剥がして海の方を指差した。俺は不満気に大人しくその方向へ目を向けた。
「とうろう綺麗だねえ」
「ん……」
ゆっくりと日が沈んでいく空と、ゆらゆらと波に流される灯籠のコントラストにはなんとも言えない儚さがあった。律樹はそれをキラキラとした目で見つめていた。俺なんか目もくれず、ひたすらに。律樹は昔から綺麗なものが好きだった。多分、自分が綺麗だから、それ以上を求めるんだろう。
程なくして、開幕に相応しい一発目の大きな花火が空に打ち上がった。閃光が真っ直ぐ上がり、火花が咲く。ドンッと轟音が響き、それに驚いた俺は引き剥がされた律樹にまた抱きついた。律樹はやっぱり俺の事なんか一切気にしていなかった。俺は、それがなんだか面白くなかった。
「なあー!音大きい!怖い!」
「え?なんて?」
「こーわーいー!!」
「モアイ?」
「ちがう!」
俺は雷とか工事の音とか、そういう大きい音が苦手だった。それでも俺がこの場所にいた理由は、律樹が見に行きたいと言ったからだった。家で花火すればいいじゃん!と言ったけど、律樹は嫌々と頑なに首を横に振っていた。そりゃそうだ。
俺は耳を塞ぎ、打ち上がる花火を見上げた。
(でっかいのに、すぐ消えるんだなあ)
律樹のお母さんが言ったとおりだ。俺は、家でやる花火のほうが好き。
全ての花火が打ち上がり、周りの人達が拍手をする動作が見えた。耳を塞ぎ続けていた俺は、律樹に揺さぶられてようやく花火大会が終わった事を知った。
「じんくん、ごめんね。怖かった?」
「怖くない!」
大嘘だ。でも平常に戻った俺は律樹の前でかっこ悪い姿を見せたくなかった。律樹にはいつでもかっこいいと思われていたい。
「じんくん、だめだよ、テストぐしゃってしちゃったら」
「し、してないよ」
「してたでしょ」
律樹は俺の机に手を突っ込んで、ぐちゃぐちゃに丸めた俺のテストを引っ張り出した。
「あ!」
そして、それを広げて右上に書かれた赤ペンの数字を見て顔を顰めた。
「23点……」
「もう、勝手に見ないでよ!」
当時の俺は、勉強がとっても嫌いだった。お父さんに見つかりたくないと教室の机に隠したテストは数知れずだった。俺は授業中の元気の良さだけで成績を稼いでいたので、正直勉強は諦めていた。だって、苦手だし楽しくないし。べつに勉強できなくても生きていけるし。……そのはずだった。
律樹がわざとらしく23点のテストを俺に見せつけてきた。
「俺、勉強できる人のがいいと思う」
俺は正に雷に打たれたような衝撃を受け、愕然と口を開けた。
だって、俺は、ずっと勉強が苦手だった。それはつまり、律樹もずっと俺の事を"いい"と思ってくれてなかったという訳で。そしてそれはつまり、俺と付き合ってくれる可能性も低くなってしまうという訳で。
「……できる……」
「え?」
「できる!じんくん、勉強できる!できるから!」
「ええ」
「じんくんが賢くなったらじんくんと付き合ってね!」
「ええー」
「くびをあらってまってろ!」
最近覚えた言葉だ。「これだけ難しい言葉を使えるぞ」という決意表明でもあった。
こうして、俺の数年間に及ぶ負けられない戦いの火蓋が切られた。馬鹿すぎる。でも本気だった。理由、律樹が好きだから。
5.10歳、まだぐしゃぐしゃのテスト用紙
小4になった。俺は勿論諦めていなかった。
諦める?むしろここからだ。そうだろう、当時の俺。だから、小さい事でへこむなよ。
「俺、告白された」
「え」
「だから付き合う」
「……はえ?」
……小さい事じゃないかもしれないけど、へこむな、俺。
その日は穏やかな秋晴れの高い空が広がっていた。だから下校中、ちょっと遠くの公園に遊びに行こ、って軽い気持ちで律樹を誘った。石ころを蹴りながら歩いていた律樹がうんって返して、そして、そのまま普通に、至って普通のテンションで、まるで、じゃあ帰ったら俺の家集合ねって言うくらいの自然さで、そんな爆弾を俺に投げてきた。
俺は歩みを止め、その場にぴたっと固まった。
「……え?」
「ん?」
「ん、じゃなくて、ええ……」
もう4年生ですからね、ちょっとくらい怒りと混乱と表現のバランスくらいは取れるのだ。
「なんでええ!?ね、なんで!?ええ、仁くんじゃないの、仁くんじゃないの!?嫌だ、嫌だああああ!!」
「うわああ」
バランス取れない!取れるはずがない。
俺は律樹の肩をがっしりと掴んでがくがく揺さぶった。悲しいとか苛立ちとかよりも、困惑。だって、だってさあ!
「なんでなの!?仁くんの方が絶対りっくんの事好きだよ!?ってかその人誰なの!?」
「まゆみちゃん」
「まっ……」
まゆみちゃん、クラスで一番賢い女の子だ。クラスだけじゃない。多分、学年で一番賢いかもしれない。とっても賢いけど、それは別に真面目だからとか塾に通っているからとかではなく、天性の才能の類だった。クラスのカーストトップに立てるくらい華やかなのに、特に勉強をせずともテストで良い点数を取れる、それがまゆみちゃんなのだ。
「まゆみちゃんっ……ずるいよ!なんで、だって、仁くんの方が、仁くんが先に、ずっと、りっくんの事好きだったのに、なんで、なんで?」
初めて目の当たりにしたカップル誕生という報告が、まさかこんなに苦しいものになるなんて。俺は涙を堪えて律樹に抱きついた。律樹は俺を軽く押しのけ、バツが悪そうに答える。
「だって、俺も仁くんも男だし」
「そんなの理由になってないよ!」
「なってるよ!」
「なってない!じゃあ、じゃあ、なに、りっくんは、じ、仁くんより、まゆみちゃん……まゆみちゃんの方が、好き、……好き、なの?」
「いや……仁くんの事は好きだけど、まゆみちゃんとは違うから」
「違うって、なに、なにが」
律樹はとうとう抱きついていた俺を引き剥がして、うーんと唸った。
「まゆみちゃんは可愛いなーって思うけど、仁くんはそうじゃないでしょ」
「はー!?」
良くも悪くも純粋な小学生だ。確かに俺の顔は可愛くはないが、それだけ馬鹿正直に言われると傷付く。それか、多分、男に可愛いって言うのはおかしいって律樹も思っているのかもしれない。
その後もただただ同じような文句をぶつける俺を見て、律樹は思い出したかのようにこう言った。
「それに、まゆみちゃん頭いいし。いいよね、頭いい子」
俺は一年前に「勉強で一番になる」と言いつつも、一年たっても有言実行できていなかった。成績悪い、から成績普通、になったくらい。それだけでも凄い成長っぷりだ。自分でも、これは長期戦になるな、と覚悟を決めた矢先の事だった。俺はわなわなと震えた。
「なにそれ……じゃあ、じゃあ、仁くんが、まゆみちゃんより頭よくなったら……仁くんと、付き合ってくれる?」
「えー……まあ、じゃあ、うん」
俺と一緒に生活する内に、いつの間にか律樹も俺の扱い方を大分理解してきたようだった。諦めたように、律樹がため息をついた。
俺はそれを聞いて、先程までの悲しみは何処へやら、希望に満ち満ち溢れた。
「じゃあっ!仁くんめちゃくちゃ賢くなるから!絶対!」
「あ、それ」
「?」
「自分の事仁くんって言うの、……やめてほしい」
「んえ?なんで?」
「恥ずかしいでしょ」
「なんで?別に仁くんは恥ずかしくないよ」
「俺が恥ずかしいの〜」
彼女が出来ただけじゃない。律樹は、そろそろ周りの目とか友達付き合いとかを考えるようになって、少しだけ大人になっていた。
律樹に嫌われるわけにいかない俺は、改善するしかなかった。
「わ、分かった。仁くんって、言わない」
「気をつけてね。あ、じゃあ帰ったら俺の家集合ね」
「うん、……あっ、ダメ!仁く……ぼくっ……お、俺、勉強しないと!」
「ええ、いきなり」
「まりなちゃんに勝つから!りっくんと遊んでらんない!!」
俺は律樹に別れを告げ、走って家に帰った。そして家に帰るなり宿題を済ませ、過去のプリントやテストなんかを解いてみたりした。完全にやる気モードになった俺はその日一日ずっと勉強をしていて、その様子を見たお父さんにはぎょっとした顔で見られた。
「え……何事?災害でも起きるのか?」
「そんなんじゃないよ!りっくんのため!」
「律樹くん?」
「勉強で一位になったら、りっくんと付き合うの」
「……」
お父さんは暫く黙ったままだった。
「……仁、まだ律樹くんの事が好きなのか?」
「え?もちろん」
「……」
まだ好きなのかなんて、愚問すぎる。だって6歳の頃からずっと好きだから。全く、お父さんは鈍いなあと呆れていると、お父さんは何かを考え込んで、そして部屋を出て行った。
俺は勉強を続けて、ひたすらに続けて続けて、気がつけばもう学年末になっていた。
あれからお父さんは律樹の話題を出す事はなかったが、俺の勉強にしっかり付き添ってくれて、俺のテストの成績もぐんぐん伸びていった。律樹と放課後遊ぶ回数は、減ってしまったけれど。
「りっくん、もうすぐだからね。俺と付き合うの」
「へ?」
「俺がテスト1位になったら、りっくんは俺と付き合うんだよ」
「えー……」
今日は4年生で最後のテストの日だった。俺はこの日に全てをかけてきた。ここで1位になれば、学年で一番の点数を出せば、律樹と付き合えると思って。律樹は、あの日からまだまりなちゃんとお付き合いをしている。
「はい、じゃあ教科書しまって、これ後ろの人に配って」
テストが始まった。今日は国語のテスト。読解力がまるでない俺だけど、この日のために読書量も増やしたし、漢字だってたくさん勉強した。
昔とは比べ物にならないスピードで空白を埋めていく。合っているかどうかはおいておくとして、目を見張る成長っぷりだろう。たかが小学生のテストだけど、俺は意気込みが人一倍違った。
(りっくんりっくんりっくん!)
そうやって心の中で呟きながら、答えを書き進めていった。
「はい、じゃあテストを返しますね」
出席番号が絶対一番の俺は、一番最初にテストを返されてすぐさまその点数を確認した。
(93点!!)
俺はテストを持ち上げて喜んだ。今まで90点台なんて出した事がなかった。もうこれは絶対1位。だって過去最高だもん。本当はその場で点数を大声で叫び、律樹に知らしめたかった。
でも。
「まゆみちゃん凄い!」
「えへへ、たまたまだよ」
「凄いなあ。私100点なんて取った事ないよ」
窓際で盛り上がるそんな会話が聞こえてきて、俺は固まった。
(え、ひゃ、100点?嘘でしょ?)
ちらっとまゆみちゃんの手元を覗くと、そこには3桁の数字がでかでかと書かれていた。めったに見る事のない数字、100点。
俺は、呆然と立ち尽くした。
駄目だった。半年間頑張って勉強したけど、1位にはなれなかった。1位になれないんじゃ、律樹と付き合う事が出来ない。
律樹を見る。律樹は周りにいる友達と笑い合いながらテストを見せあいっこしていた。
俺は、確かに律樹に言った。テストで一番になったら律樹と付き合う、と。
なのに、なのに、ちょっとも、微塵も、俺のテストの点数なんて気にする素振りも見せず、俺と目が合うこともこちらを見ることもなく、友達と喋っている。
俺は93点と書かれたテスト用紙をぐしゃぐしゃに握りしめた。
6.11歳、まだまだやることいっぱい
小5になった。俺はまだまだ諦めていなかった。
あの時1位になれなかったからなんだ。今からでも遅くない。むしろここからだ。頑張ってみせよう。
「りっくん、大好きっ!俺とーっ、付き合ってくださーい!」
「ここで言うのぉー!?」
雪合戦、お互いがお互いに雪玉を投げている最中だった。
俺が告白しながら投げた雪玉が見事に律樹の頬に当たった。ああしまった。当たってほしいけど、べつに律樹の顔に当てたかったわけじゃない。こんな綺麗な顔が俺のせいで怪我でもしたら大変だと慌てて駆け寄った。
「ごめん!痛くない?怪我してない?大丈夫?お家入る?」
手袋をぬぎ、律樹の赤くなった頬を撫でた。ひんやりとしていて氷みたいだった。律樹はあわあわとしている俺をニヤッと見た。
「隙ありっ!」
「ぴゃっ!!」
律樹は両手いっぱいに新雪をすくい上げ、俺の体に向かって撒き散らした。冷たい。俺もムキになって同じように律樹を雪まみれにしてやった。
楽しくて楽しくて、ずっとやり続けて、暫くして息を荒げながら端に避けられた雪山に二人して仰向けで倒れた。
「はあ、疲れた……」
「……りっくん、俺と付き合って」
俺は楽しい事なんかに惑わされない。告白の返事はあやふやにしないのがちゃんとした男だろう。
さて俺にとってはハッピーなニュースだが、律樹がまゆみちゃんと別れたらしい。
まあ小学生の恋愛なんてままごとみたいなもんだから、付き合ってからも別れてからも前のような関係とさほど変わらないように見える。ただちょっと仲がいい異性の友達なだけだ。だから、俺はこれはチャンスだとばかりに告白を決めた。
律樹はげえ、と舌を出して俺の方に顔を向けた。
「嫌だよ。俺男だし、仁くんも男だし」
「もー、またそれ。そんなんじゃなくて、俺とりっくんだから別にいいでしょ」
「だから、その考えが変なの」
またしても告白は失敗に終わった。年々律樹の断り方が容赦なくなっているような気がする。
ちぇ、と呟くと、遠くからお父さんが俺達を呼ぶ声が聞こえた。もうそろそろ中に入っておいで、と。
十分に雪遊びができるくらい広々とした庭を抜け、家の中に入るとこたつの上にプリンが2つ用意してあった。俺と、律樹のぶん。律樹はありがとうございますと丁寧にお父さんにお礼を言い、こたつにもぐってプリンに手を付けた。俺もぱくぱくとプリンを食べる。今思うと、このプリンは多分ぷっちん的なそういう安価な物ではなく、きっととってもお上品な物だったのだろう。だって、カラメルが別パッケージで付いてたし、なんかキラキラしてたし。
「お父さん、今日新しいの入ったの?」
「ああ、よく覚えてたな」
「うん!後で見に行ってもいい?」
「壊さないようにな。触っても駄目だぞ」
「はーい!」
プリンを平らげた俺達は、別室の少し肌寒い和室へと向かった。襖を開けると、大きな壺、小さい壺、額に入った油絵、立てかけられた水墨画などが並んでいた。
そっと近寄り、それらを眺めた。
「凄いなあ。いつ作られたやつだろう」
「分かんないね。俺、これが好き」
律樹が指差したのは、1枚の小さな油絵だった。優しげな老女の膝の上で猫が丸まって寝ている、あったかい絵。
「どれだけ昔の人も猫は可愛がるんだねぇ」
「ね。猫、可愛いね」
いつの時代のものなのか、誰が描いたのか、どれだけの価値があるかは分からないけれど、俺はこの空間が大好きだった。
俺の家はお父さんのおじいちゃんの代から古美術商を営んでいる。昔の美術品とか骨董品とかを買って売る仕事、という軽い認識だったので、いったいこれはどこから仕入れてどこに売っているかまでは知らなかった。でも、俺はそんな仕事やそれをやっているお父さんが大好きだった。かっこいいし、わくわくするし、見ていて楽しかった。
お父さんのおじいちゃんの代から続いている古美術商は周りとそれなりに太い繋がりがあるらしく、そして安定して儲けているらしく、まあ、つまり平たく言えば俺の家は金持ちだった。俺はこんなに馬鹿で平凡な人間だけど、おぼっちゃんだったのだ。
「俺、お父さんと一緒の仕事したいんだ。会社継ぎたいの」
「前からずっと言ってるよね」
馬鹿で平凡な人間だけど、立派な夢はあった。この家の事を継いで、俺も古美術商になりたかった。小5にしてはなかなか渋い夢だろう。
「りっくんは?」
「えー、俺?……んー……」
律樹は口元に指を当てて考え込んだ。そんな格好も様になる。背後には神々しい宗教画の油絵が立てかけられていたので、尚更天の使いみたいだった。
「何かな。ずっとこのままがいい」
「このまま?」
「うん。毎日遊んで、毎日仁くんと過ごすの」
「!!」
俺はこの場所で暴れるのは危険だと配慮して、わざわざ違う部屋に律樹を引っ張り、上質な絨毯の上に律樹を押し倒してぎゅうぎゅうに抱きついた。
「俺も、俺もーーー!」
「んむ、苦しい」
「俺もずっとりっくんと一緒がいい!」
「ん……」
抱き締めて離さない俺の背中を律樹はぽんぽんと叩いた。
「じゃあ付き合えば良くない?」
「それとこれとは別でしょ」
「なんでよぉ」
ところで、律樹はモテる。物凄くモテる。
小学生のモテる基準といえば足が速いかそうじゃないか、だとは思うが、彼を前にしてそんな事は関係なくなってしまう。まあ、律樹は運動も出来るのだけれど、そこは別に大事ではない。そんな事よりも重要なのは、幼稚園の頃から今までずっと顔が良いのだ。見る人の心を溶かすような可愛さから、目が合えば震えるほどの美しさにどんどん進化していってる。なめらかなミルクティー色のふわふわの髪の毛、全ての争いなんて無かったことにするような切れ長の透き通った目、ツンと高い鼻、成長するにつれ無駄な肉が落ちていった、シュッと伸びる長くて白い脚。
これがモテないはずがなかった。
「仁くん、俺彼女出来た」
「もーーーーっ!!!!!」
そうやってすぐホイホイ誰とでも付き合う!そのくせ俺の告白は一切受け入れてくれないのだ。不平等だ、不条理だ。
「なあ!?もしかして俺の事嫌い!?嫌いならそう言って!?」
「嫌いじゃないよ。なんでそうなるの」
「だって、だってぇ……」
俺は帰りの会の後、この律樹の衝撃告白によって教室でわんわん泣いていた。教室にちらほら残っているクラスメイトがじろじろと俺を見ている。
「……今度は誰なのお」
「さやかちゃん」
「次はそっち……」
さやかちゃんとは、隣のクラスの女の子だ。運動神経がとっても良く、お父さんがバスケの実業団に入っているらしい。運動の英才教育を受けたさやかちゃんは向かうところ敵無しで、そんじょそこらの男子よりも普通に足が速いし腕っ節もいい。おまけに裏表のない笑った顔がとってもキュートなのだ。
何という事だ。俺はあの日から、ただひたすらに猛勉強を続けていた。まゆみちゃんにはやっぱり手が届かないけど、学年でもトップレベルの成績になってきたというのに。勉強で1位になって、まゆみちゃんを抜いて、そして俺が律樹と付き合える日ももうすぐだと思っていたのに。
「さやかちゃん凄いんだよ、シャトルラン50回余裕で越すの」
俺、35回。無理だ。かないっこない。
「運動得意な子っていいよねえ」
「……!!」
馬鹿で平凡で愚直で純粋な俺は、またしても律樹の言葉に踊らされる事となる。
7.12歳、優しさと特別はお互いに
小6になった。俺はやっぱり諦めていなかった。
「りっくん、付き合ってよ」
「どこに?」
「ベタだなあ」
絶対分かっているはずなのに、律樹は俺を躱すのがだんだんと上手くなってきている。
「だからあ、好きだから付き合ってって」
「嫌だって。懲りないな、仁くんも」
「りっくんも全然懲りないね、俺を振るの」
「っていうか、まずタイミングがおかしいんだよ」
図工の時間だった。木版画をガリガリ掘っている律樹の横顔があまりにも美しかったので、ポロッと告白してしまった。まあ、そんなノリで言った告白がうまくいくはずもない。流石に反省した。
ちらっと律樹の手元を見やると、俺の頭は疑問符で埋め尽くすされた。
「……東京タワー?」
「……麦わら帽子!」
美しい人間というジャンルにおいて右に出るものはいないこの美しい男、自分自身も美しいし、美しいものを見るのが好きなくせに、なんと美しいものを生み出す才能はなかったみたいだ。少し恥ずかし気な律樹は掘っていた版画を両手で隠した。
「仁くんはいいよね、絵うまくて」
「そうかな?」
俺はあまり律樹の版画を見ないように視線を自分の作品に移した。画面いっぱいに描かれた、でっかいライオン。なぜこんな絵にしたかというと、普通にかっこいいと思ったから。図工の先生からは、下描きの段階で「凄いわよあなた!」と褒められた。
鬣を彫刻刀で掘っていく。毛流れに沿ってすっと刃先を動かしていると、律樹がその様子をじっと見てきた。
「いいなあ。俺図工で褒められた事ないよ」
律樹は、いつもこうだ。
普段から外見ばかり褒められているせいか、その他の能力が劣っていると感じた時、いつも不満をもらす。今では俺の方が律樹より勉強が得意になってしまったので、成績表を渡された時なんかは俺のと比べて不貞腐れる事が多い。
「俺はりっくんの絵が一番好きだけど」
「嘘だあ」
「ほんとだよ」
律樹の手の上に自分の手を重ねる。今まで同じくらいの身長だったのに、この前の身体計測でついに律樹に抜かされてしまった。手も同じように、俺よりも大きく成長していた。
「上手い下手とかじゃくて、俺はりっくんのが一番好きだから」
「!」
「お父さんが買ってくるどんな絵よりも、りっくんの描く絵が好き」
律樹はどんな授業も手を抜いたりしないから、これも一生懸命やっているのだろう。そういう所も、全部好き。
「……ふうん」
律樹はほんのりと顔を赤く染め、またガリガリと木を掘っていった。
俺の中でその時最も燃えていた授業、体育。
その日はなわとび大会という名目の授業だった。そして、俺がどれだけこの日のためにストイックになわとびを練習し続けたのかを、ここにいるみんなは知らないだろう。
「……8、9、10、おお……、3、4、5…」
ペアになった男の子が感嘆の声をもらした。
前飛びや交差飛びや二重飛びなどをそれぞれ10回ずつ飛んで1セットの、所謂「セット飛び」の回数でみんなと競っていた。3回縄に引っ掛かった人から座って行くという、運動苦手族にとってはなんとも心臓に悪い競技だった。でも、俺は昔の俺とは違う。
「仁くん凄いよ、頑張れ!」
最後までそこに残っていたのは、俺と、律樹を含めた数人と、あとは、さやかちゃん。誰よりも、さやかちゃんに負けるわけにはいかない。だって、さやかちゃんに勝てないと俺は律樹と付き合えないから!
ペアの男の子が数えながら俺を応援してくれている。
もう限界、もう息できない、もう足上がらない、もう死ぬ。大体みんな同じようなタイミングで座り出し、とうとう俺と律樹とさやかちゃんだけが残ってしまった。
そして、手の力もだんだんなくなってきた頃、ちらっとさやかちゃんの方を見た。俺は目を見開いた。何故なら、余裕綽々な顔をしていたから。俺はそれを見て、一気に力が抜けてしまった。
「あっ」
ひっかかってしまった。
息を整えるよりも、圧倒的さやかちゃんの実力に打ちひしがれてしまった。俺は座ることもせず、その場に佇んでいた。
「仁くん、凄いね!3位だよ!」
「……」
駄目なんだよ、3位じゃ。1位になれなきゃ意味がない。一番じゃなきゃ、駄目なのに。
律樹と、付き合えないのに。
「ううううう」
俺は悔しくてぼたぼたと涙を落とした。
何事かと慌てたペアの男の子が俺に駆け寄る。
「え、え、どうしたの、足痛い?怪我したの?保健室行く?せ、せんせー!」
「うううううううう〜っ!!」
慌てて駆けつけてくれた先生に足が痛いのか、とそのまま聴取され、俺の周りにはギャラリーが出来てしまった。
それに気付いた律樹がそれまでずっと続けていたなわとびを故意に放棄して、俺のもとにやって来た。
「仁くん?」
「ううううっ、ううっ」
「仁くん、どうしたの」
「うっ、ううう、うっ」
「仁くん、仁、痛いの?しんどいの?」
ふるふるっと首を横に振った。
「……悔しかったの?」
何も言わず、頷く。
先生はなんだ、とほっとしたように笑った。周りにいた人達も怪我ではない事を知ってまた注目がさやかちゃんの方へと移動した。
律樹は、俺をただじっと眺めていた。
「仁、頑張ったね」
「うっ、ヒッ、うう」
俺の頭をあやすように撫でた。
俺が欲しかったのは頑張ったねじゃなくて、付き合おうだったのに。こんな事を言われるためになわとびを練習したわけじゃないのに。悔しくて悔しくて、涙が止まらなかった。
それでも、この体温が俺だけに向けられているという事実に酷く安心して、やっぱり律樹の事が好きで堪らないなあ、と改めて思ったのである。
8.13歳、井の中の蛙、大海を知ったらどうなるの
中1になった。俺は微塵も諦めていなかった。
だって、中学生だぜ?こっから俺はどんどんかっこよくなっていくのだ。期待して待ってろ、律樹。
「りっくん、だーいすき、俺と付き合って」
「嫌でーす」
俺はこの野郎!と拾い集めていた桜の花びらを律樹に投げつけた。
嫌がらせのために投げたのに、律樹の美しさと桜の儚さで、まるで余命幾ばくもない薄幸の美少年みたいになってしまった。
「……りっくん、生きてくれっ……!」
「生きてるよ」
あれだけ長い長いと思っていた小学校生活もとうとう終わりを告げ、俺達は中学生になった。なんだか大人になった気分。大人になったんだから告白も上手くいくだろうと思ったけど、そんな事はなかった。
仕事の都合で俺のお父さんも律樹の両親も入学式に来れなかったので、せめてもと家から持参したカメラを使って周りの大人に俺達の写真を撮ってもらった。
どうやら律樹が美しいあまり眩しすぎたようで、写真を撮ってくれた見ず知らずの保護者もううっ……!と呻いていた。分かる。
「りっくん凄かったな。みんなりっくんの事見てた」
「そう?」
「だって整列した時、りっくんの周りだけなんか超うるさかったもん」
そりゃあ、突然自分の周りにこれだけ綺麗な男の子が現れたら騒ぎになるだろう。本人はいたって自覚ナシ……いや、自覚あるかも。自覚があったとしても、それを少しも気にしていない。生まれた時からずっとこの顔だもんな。
律樹が注目されるのは俺も嬉しいけど、でも、少し心配。
「あーあ、りっくんはどうせモテモテになるんだろうなあ」
「そうかな」
「そうだよ!また他の女がりっくんを獲ろうとするんだ、絶対」
「穫るって……」
ちなみに、さやかちゃんは違う中学に入学したので、自然消滅したらしい。よかったと安堵するのはまだ早い。というか、これからだ。律樹を猛獣たちの海に送り込まなければいけないのが、心底不安だ。
「りっくん、誰でもかんでも付き合っちゃ駄目だぞ。……っていうかまあ、俺以外と付き合っちゃ駄目だ。駄目だからな、絶対」
「そんなの嫌だよ」
「もー!!」
俺は律樹の体をぽこぽこと叩いた。鬱陶しがるように、律樹は俺を押しやった。
「ってか、仁くんも誰かと付き合ってみればいいじゃん」
「はあー?」
「意外と楽しいかもよ」
この期に及んでこいつは。一体何を言い出すのだ。
「お馬鹿!俺はりっくん一筋だ!そんなはしたないこと、しない!絶対しないから!俺はりっくんとずっと一緒にいる!」
「はあ、謎に頑固……」
律樹はやれやれと肩を竦めた。
数ヶ月後。
「おいりっくんッ!!!!!」
「うわっなに」
「どういうことだ!!」
俺は律樹の筆記用具が入っている缶ケースをぱかっとあけて、それを律樹に見せつけた。
「どういう、ことだっ!?」
「ああ〜、言い忘れてたね、彼女」
「カッ……」
開いた口が塞がらない。とうとう俺に申告すらしなくなった。
律樹の缶ケースの蓋の内側には、律樹と女の子が肩を寄せてピースしているプリクラが貼ってあった。律樹がトイレに言っている間に、開けっ放しにしてあった缶ケースを見て目を剥いた。誰だこの女!と叫びたい気持ちでいっぱいだった。そして俺の嫌な予感は的中してしまった。言ったそばからこれだよ!
「なあなあなあなあなあなあなあなあなあ」
「なになに、ちょ、うるさい」
「なあ〜〜〜〜〜っっっ」
俺はもう泣きそうだった。いや、泣いていたかもしれない。もうここまで来ると、いろいろ文句を言ったり反論したりする活力も無くなってしまっていた。
「……うう、誰、次は誰……」
「りこちゃん」
「え、伊藤さん?」
「そう」
伊藤さんとは、隣のクラスにいる大和撫子な凛とした美少女だ。そして、頭がとってもいい。入学の最初の方にあった実力テストでは、学年5位だった。俺は、20位。これでも凄い方だとは思うが、俺が目指す1位にはまだまだ及ばない。
勉強頑張るようになったら運動を頑張らなければいけなくなるし、運動を頑張るようになったらまた勉強を頑張らなければいけなくなる。今回はまた勉強頑張るのターンだ。
「りっくん、りっくんは頭いい人が好きなのか」
「えー、まあ、悪いよりはねえ」
「……俺が学年で1位になったら、好きになってくれる?」
律樹は俺をじっと見つめ、頬杖をついた。
「俺、仁くんの事好きだけど」
「……どうせ俺がほしい好きじゃないんだろ」
「友達として」
「友達じゃない。幼馴染だ。じゃなくて!」
それじゃあ意味がない。
「りっくん、俺が学年1位になったら、付き合ってね、絶対」
「ええー……」
「分かったって言わないとこのプリクラ剥がすから……」
「わ、分かった分かった」
プリクラに手を伸ばし、かどっこを爪でガリガリと引っ掻いていたら律樹に慌てて止められた。律樹のいい所は、絶対に彼女を大事にする所だ。それが良くもあり、俺にとってはネックな部分でもある。
「はあ、なんでりっくんはそんなに美しく生まれちゃったかなあ。……俺も同じくらい綺麗だったらよかったかな」
俺は頬を机に擦り付け、鼻をすすった。世の普通を集めましたみたいな顔のお父さんに似ちゃったから仕方ない。俺はこの顔や体を嫌だとは思っていないけど、でも、ちょっとでも律樹みたいになれたらよかったのになと思う時はたくさんあった。今だってそうだ。律樹も心底好きになってくれるような顔だったら、勉強や運動を頑張らなくても好きになってもらえていたかもしれない。なんて、どうしようもない考えだけど。
律樹はそんな俺を見て、仕方なさそうに笑った。
「仁くんは綺麗だよ」
「はは、いいってそういうのは」
「本当だって」
「……」
そうやって、またはぐらかす。俺は真に受けない。執念深くねちねちと頑張る俺のどこが綺麗なものか。だから、尚更他の事で頑張らないと。
「1位に、ならないとなあ……」
ところで、学年1位って誰なんだろう。
「ああ、僕だけど」
「でっっっっっっっか」
「よく言われる」
学年1位って誰?とクラスのみんなに聞きまわったところ、十中八九、7組の祇園という男だろうという情報を仕入れた。
敵情視察のため7組__一番端っこのクラスに顔を出し、そこらへんの生徒を捕まえて祇園くんを呼んでくれと頼んだ。そして俺の前に現れた人物は、たいそう背の高い男だった。中1にして、180cm近くはあるだろう。
「なんの用?」
「あ……えっと……」
祇園くんを前にして、俺は完全に固まってしまった。まさかこんなにデカイとは思っていなかった。野性的本能で怖いと思ってしまい、言おうとしていた言葉も全部飛んでしまった。
すると、それに気付いたらしい祇園くんは膝を曲げ、俺と目線を合わせて話してくれた。
「1組の、阿井くん?」
「え、俺の事知ってるの?」
「うん。期末考査の時、上位の人の名前と顔は覚えてる」
「へえ、凄い!」
祇園くんは優しく笑った。祇園くんは俺の思っていた学年1位とは違った。学年1位っていうと、もっと固くて眼鏡かけていてきちっとしている真面目そうな人のイメージだったけれど、祇園くんはそうじゃない。制服は普通に着崩しているし、髪の長さも絶対校則違反だし、なんだか軽薄そうだし、どっちかっていうと、寧ろちょっとチャラいくらいだ。だから、疑わしかった。
「祇園くん、本当にこの前のテスト1位だったの?」
「うん、そうだよー」
どうやら本当らしい。にわかには信じ難いが、俺は祇園くんに尋ねることにした。
「あの……5教科何点だった?」
「ええ、そんなの聞きたいの?」
俺は無言でこくりと首を縦に振った。
「えー、忘れちゃったなあ。多分、全部で485点くらい」
「はちじゅうごっ……」
え、ということは?1教科、平均、97点。え?
「む、無理だ……どうしよう……」
「ん?」
俺は祇園くんの前で、一人で頭を抱えた。今の俺だと、頑張っても5教科450点いかないくらいが精一杯だ。それを、485点まで引き上げるなんて。無理すぎる!
俺は絶望しかけたが、6歳から今までにかけての律樹の天使のような顔を思い出し、なんとか意識を保った。なんのこれしき。今更それがなんだ。俺は諦めが悪い事だけが取り柄なんだ。
「祇園くん」
「なあに」
「俺、祇園くんに勝つ!」
「おお」
「俺が学年1位になる!」
「お〜」
祇園くんは俺に向かって拍手をした。一体なんの拍手だ。でも、なんだかとっても嬉しそうだ。
「僕、そういうの大好き」
「へ?」
「今までそんな事言ってくれる人いなかったから」
まるで、遊び相手を見つけたかのような顔だった。天才も天才なりに、悩みがあるようだ。
「絶対1位になるから、覚悟しててよ」
「うん、うん、僕も頑張るね」
祇園くんは俺の手を掴んでぶんぶんと振った。この宣戦布告は早とちりだったかもしれない。これ以上頑張らないでくれ。
「りっくん、俺は7組の祇園くんと友達になった」
「え?」
「そして、俺のライバルとなった」
「……へえ」
「祇園くんにテストで勝った日が、俺とりっくんが付き合う日だ。だから、当分は打倒祇園で頑張る。りっくんも応援してくれ!」
律樹は、黙った。何をそんなに考える事があるのだろう。俺の応援、してくれないのだろうか。そんなに俺が1位になる事が嫌なのだろうか。
「り、りっくん……。俺の事嫌いなら、そう言って……」
「だから、嫌いじゃないってば」
じゃあ、なんでそんなに不機嫌なの。
9.14歳、分岐点には誰がいる
中2になった。案の定、俺は諦めていなかった。
中2、芳しい響きだ。大体の子どもはこの年にいろいろな悩みを抱えたりコアな趣味が出来たり性格が変わったり見た目も奇抜なものに変わろうとしたりする。世間ではこれを病気と敬称するくらいだしな。それでも俺は何一つ変わらなかった。というか、変わろうとしなかった。
「りっくん、好きなんだけど、そろそろ付き合わない?」
「嫌です」
そそくさと帰ろうとする律樹をやっと捕まえて、長い歩幅に頑張って合わせて着いて行った。
「なあ!?ちょっと冷たくない!?」
「冷たくないでーす」
寧ろ、変わったのは律樹の方だった。
「りっくん、待って、速い、速い!」
「仁が遅いんだよ」
律樹は俺に歩調を合わす事なく歩いていた。もうこの年になると俺と律樹の身長差は大分広がっていて、律樹は身長順で言うと最後から数えた方が早い部類にいた。そして何よりも脚が長い。普通に歩かれたらそりゃあ俺は追いつけるはずもない。俺は律樹との距離が出来るたびに小走りで後を追った。
「りっくん、りっくん、今日な、新しい絵が入ったらしい。すっごくでかいの、なんかぐにゃぐにゃしてて面白いやつでな、あと、あと、綺麗な昔のお皿とかもあるって。よかったら見に来ない?」
「行かない」
「あっ、待ってっ、えっと」
「……」
「りっくん、りっくん、あと、ケーキ、ケーキもあるよ!だから」
「それ」
「え?」
律樹は長い脚をぴたっと止め、俺の方を振り返った。
「りっくんって言うの、やめて」
「え」
「嫌だから、やめて」
「え、え?」
そう言って、律樹はまた前を向いてすたすたと帰って行った。
「無理だ、無理すぎる、俺はどうしたらいい」
「どうもしなくていいじゃん」
「どうもせずにいて、もしもりっく……律樹が俺を嫌いになっていったらどうするんだよ!!」
「それはそれでいいんじゃない?」
「薄情者!」
祇園くんは俺の話にはあまり興味がないようで、いらなくなった小テストの紙を折り紙にして遊んでいた。
「ていうか、わざと避けてんのに無理やりぐいぐい来られるほうが嫌でしょ」
「は……?そうなの?」
「ウン」
「いやいや……だってこの俺だぞ?ちっちぇ〜頃からずっと一緒にいた、この愛嬌たっぷりの仁くん……嫌な訳、なく、ない、か……?」
「思い込みは仁くんのダメな所だよ」
「それはそうだけど、……いやいや、てか、俺別に律樹に避けられてないし!ちょっと撒かれてるだけだし」
「はいはい」
祇園くんは窘めるように俺の頭を撫でた。
2年生になって、俺と律樹のクラスは別れてしまった。奇跡的に7年間ずっと一緒だったので、それはそれはもうとっても悲しかった。
そして、クラスメイトの影響なのか、ただ単純に成長によるものなのか、律樹は若干、まあまあ、いや、かなり擦れてしまった。擦れたというか、俺に、俺だけに冷たくなった。俺が1歩律樹に近づけば、律樹は更に俺の2歩分離れていく。違う、これは避けられているとかじゃなくて、ちょっと撒かれているだけだ。
そしてそして、俺は祇園くんと一緒のクラスになった。ずっとテストの点で競い合っていて、テストが終わるたびにお互いの点数を報告したりしていたので仲良くなるのに時間はかからなかった。まあ案の定、祇園くんを超えることは出来ていない。
「やっぱり俺がテストで1位になれないから呆れてるんだ。絶対そう。だから次のテストこそは祇園くんを抜く」
「ふふ、楽しみにしてるねぇ」
俺は祇園くんをじろりと睨んだが、彼は焦りなんかはちらりともおくびに出さず、にこにこと笑っていた。
ああ、もう、駄目だ、駄目だ。こんなんじゃ、全然駄目。
「あー……」
採点をし終わった後、俺はダイニングテーブルに顔を伏せた。同じような間違いを繰り返している。もうそろそろ、俺の能力では自力で成績を伸ばすのは難しくなってきたのかもしれない。
いや、諦めない。俺は諦めない。……でも、ちょっと、難しいかもしれない。……いやいや、諦めない。なんか律樹が反抗的なこういう時こそ、諦めちゃだめだ。頑張れ、頑張れ俺。
「頑張れぇ……」
ちょっと挫けそうになったその時、お父さんがリビングにやって来て項垂れている俺を除き込んだ。
「テスト勉強か?」
「うん」
「十分頑張ってるじゃないか」
「まだまだだよ、1位にならないと意味ないよ」
「……なんで?」
なんでなんて、そんなの今更すぎる。俺が頑張る理由なんてひとつしかない。
「1位にならないと、律樹と付き合えないから」
俺は問題集を解き進めた。でも、暫くたっても反応のないお父さんを違和感に思い、後ろを振り返った。お父さんは何か思い詰めたような顔をしていた。
「……お父さん?」
「……仁は、」
お父さんは何度も口を開閉させ、言葉を選んでいるようだった。
どくっと心臓が鳴る。なんでかは分からなかった。
「仁は、恋愛対象として、律樹くんが好きなのか」
真剣な眼差しが俺を見据える。視界の端で、窓の外の金木犀がカサカサと揺れているのが見えた。
「うん、そうだよ」
俺も真剣に答えた。お父さんは視線を逸らさない。だから、俺も逸らさない。逸らしちゃ、駄目だから。
そして、お父さんのすっと通る深い声が、俺の心臓を、
「仁、……その気持ちは、諦めろ」
「……は?」
貫いた。
「仁くん、なにしてるの?」
「んとねぇ、パズルだよ」
「あら、またそれやってるの?」
「うん」
「前出来なかったのが悔しかったんだね」
「じんくん、できるよ」
「うん、ふふ、そうだね」
「……ママ、ママ!できた!」
「えっ、ヤダ!本当に!?凄いじゃん仁くん!」
「じんくんすごいっ?」
「うん、仁くん凄い!負けず嫌いは仁くんのいい所ねぇ」
「えへへ」
「その粘り強さがきっと未来の仁くんを幸せにするよ」
「……う?」
「どんな仁くんになるのかな。どんな人に愛されるのかな?ママも楽しみだなあ」
「じんくんも」
「あはは!仁くんもだね。仁くん、ゆっくりでいいから、いっぱい大きくなってね」
「おおきくなるよ!じんくん、おおきくなってママとパパとりっくんまもるの!」
「え〜っ!仁くん最高〜っ!かっこいい!」
「うんっ、んへへっ」
「じゃあ、仁くんはママが守るね」
「うん、やくそくだね」
「うん、ママと仁くんの約束ね!」
「ママ、だいすき!」
10.15歳、やよ励めよ、俺達
中3になった。びっくりする事に、俺は諦めていなかった。
「律樹、好き、俺と付き合って」
「……」
「ったぁっ!!」
脳天に手刀。普通に痛い。
「ほんと馬鹿、場所考えろよ」
「場所考えたら告白してもいいって事?」
「そうも言ってない!」
まあまあロケーションは良かったと思う。お寺の近く、レトロな町並み、穏やかな気候。ただ、修学旅行の最中で周りに人がわんさかいるという状況は駄目だったかもしれない。手刀でNOの返事を受けてしまった。
残念な事に、中3になっても律樹とは一緒のクラスにはなれなかった。めちゃくちゃ悲しかったが、良い事もあった。
「おい、仁の班の人呼んでるぞ、早く行ってこい」
「うん!律樹、バイバーイ!また後で!」
「会わねーよ」
律樹は俺に軽く手を振って、自分の班の元に帰って行った。
あの長い長い1年間が終わり、律樹は漸く俺とまた普通に会話が出来るくらいの情緒に戻っていった。あの荒み具合の原因は結局分からないままだった。まあ、戻ったって言ってもどことなく余所余所しさは残っている。ちゃんと話せるようになったのは嬉しいけど、俺はその微妙な距離感が悲しい。本当は昔みたいに律樹に抱きつきたいし、律樹に抱きしめてほしい。でもそんな事をしてまた俺から離れて行ったら嫌なので、なんとか理性を保っている。
俺は、まだまだ律樹が好きだった。誰にどんな事を言われても、律樹に彼女がいても、大好きだった。
例えお父さんが俺の事を反対していても、好きなものは好き。律樹の性別がどうとか関係ない。
俺はずっとこんな考えだがら、あの時お父さんと大喧嘩をしてしまった。そして、ちゃんとした仲直りも出来ずに約一年が経過した。お父さんなんて知らない。俺の事を認めてくれるまで仲良くしてやんないから。お土産を減らしてやる。
「仁くん、お寺行こう」
「うん」
3年になっても同じクラスになった祇園くんが俺の手を引いた。なんだか少し焦っているような気がする。
「祇園くん、まだ時間はいっぱいあるぞ、そんなに急がなくても……一緒の班の子置いてきぼりにしちゃ駄目だって」
「いいよ、どうせ後でバラバラになるんだし。早く行こ」
180cmの巨体に引っ張られ、俺は慌てて足を動かした。
「え、どしたん、なんか不機嫌?」
「……別に、そんなんじゃないけど」
「?」
「仁くん、はぐれないように手繋ご」
「ええ、俺はぐれないよ」
「俺がはぐれるかもしれないよ」
「……分かったよ」
祇園くんの手を握ると、またいつもの調子に戻ったようで、途端ににこにこしだした。
「周りのやつにいろいろ言われても知らないぞ」
「それ、仁くんが言うの?」
「え?」
「自分の事には無頓着だよねえ、仁くん」
「なあーっ祇園くん、祇園くん……暇だよ俺」
「んー……」
「早すぎるって、まだ21時じゃん」
「んん……僕いっつもこの時間寝てるもん」
「だからおっきいんだ……」
旅館に戻った俺達だったが、お風呂に入って戻ってきた頃には祇園くんはもう布団の上で丸まって舟を漕いでいた。起こすのも忍びないけれど、一緒の部屋である同じ班の子はどこか違う部屋に遊びに行ったようで、俺は暇でしょうがなかった。本当は違う班の部屋に遊びに行ったら駄目だというルールがあるのに。
「じんくんも、いっしょに、ねれば、いいじゃん……」
「……祇園くん?」
「……」
完全に祇園くんが落ちてしまったので、俺はいそいそと祇園くんの身体に布団を掛けてあげた。流石にまだ眠たくない。物音を立てないようにこの部屋で1人で過ごすのも気を張ってしまうので、俺は旅館の外のテラスに出る事にした。夜に外に出るのもルール的にアウトだけれど、まあ敷地内だし大丈夫だろうと開き直った。
生い茂る竹が風でさらさらと揺れる。ライトアアップされていてなんだか幻想的だった。そして、そんな景色をバックに、質のいいラタンチェアに座っている先客が1人。
「え……、律樹?」
「え、なんでここにいんの」
「暇だから……律樹こそ、なんでこんな所に?」
律樹は何をするでもなく、ただ椅子に腰掛けていた。俺を見た律樹は目を丸くした。
「……」
「えー、言えない事ですかぁ?」
「……言ってもいいけど、仁は聞きたくないんじゃない」
「え、なによ」
「そんなに聞きたいの」
「そこまで勿体ぶられると聞きたくなるじゃん」
「……りこと待ち合わせしてたんだけど、先生に捕まったみたいで」
「……あー、そういう事……ね……」
りこ、伊藤りこさん。律樹の、彼女。中1から今までずっと付き合っているなんて、なんとも一途でお似合いなカップルだ。
「やっぱり聞かなければよかった」
「だから言ったじゃん」
「そんなんだとは思わないもん」
俺は律樹の横の椅子に座って、天を仰いだ。
律樹の口から彼女の話を聞く事はあまりなかった。律樹は自分から話さないし、俺も聞きたくないから聞かないし。改めてそういう話を聞くと、やっぱり俺はまだまだ脈ナシなんだなあと実感させられる。
「律樹」
「なに」
「その子のどこが好きなの」
「えー……聞きたいの、それ」
「うん」
俺の律樹への思いを配慮してくれているんだろう。律樹は大分言うのを躊躇って、やっとぽつりと呟いた。
「……可愛いところ」
へえ、そう、可愛いところ。じゃあ俺は無理じゃん。かないっこない。
「……律樹、好き」
「……知ってる」
「好き、ちょーーー好き」
「分かったってば」
「……」
律樹は、俺の気持ちを受け入れてくれる。でも、受け入れるだけ。気持ちを返すべき相手は、他にいるから。
でも、それでも俺は。
「好き……」
「……なあ、なんでそこまで俺の事好きなの」
なんで?なんでって、1つしかない。あれ、知らない?言ってなかったっけ。
すうっと息を吸い込むと、冷たい空気で肺が満たされた。
「一番綺麗だから」
出会ってから今までずっと、律樹は綺麗だった。全部が眩しくて、俺は、その光を焦がれ続けている。
一番綺麗な人の隣には、やっぱり一番の人がお似合いだ。だから、俺も一番にならないと。一番になれないと、俺は律樹と付き合えないから。
「だから、好き、ずっと好き。ずっと、一緒にいたい」
「……俺は男だし、お前も男だし、俺は、男を好きになれない」
「知ってる。そんなの今更だろ」
「……」
「それでも、俺はこの気持ちを否定出来ないから」
俺は立ち上がって、軽く伸びをした。ひんやりとした澄んだ空気の筈なのに、何故か息苦しい。俺は真っ直ぐ前を見つめる事しか出来ない。整然と並べられた床板の溝を足でなぞった。
「迷惑ならさ、そう言って。嫌いなら俺も手を引くし」
「だから、嫌いじゃないってば」
「じゃあ、俺のこの気持ちは、嫌?」
「……嫌じゃ……」
ない、と言い切れない。
きっと俺は、酷く意地悪な事を律樹に言っているのだろう。でも、俺にとったら曖昧なまま俺を宙ぶらりんにしている律樹の方がよっぽど意地悪だと思ってしまう。
「……ごめん、別に律樹を悩ませたい訳じゃなかった」
「……」
「おやすみ。冷える前に律樹も早く部屋に戻れよ」
俺は律樹を置いて、その場を後にした。
なんだか体が重い。でも、ふと見上げた夜空は星があたりに散りばめられていてとても綺麗で、俺の思い全部を消化してくれるような気がした。
「「せーの……」」
ペラっと厚紙を裏返す。
94、92、95、95、97。合計473点。まだその横の数字は指で隠していて見ていない。
祇園くんはわざとらしくにやっと笑って、俺にその紙を見せつけてきた。
「487点」
「……」
指を離すと、そこには5位の文字。祇園くんの紙には487点の横に1位と記録されていた。
「うわああああっ!!また負けた!やだぁ!めっちゃ頑張ったのにぃぃぃ」
「あはは、日本史が足を引っ張ったねえ」
「うう、結局1回も祇園くんに勝てなかった……1位になれなかった……俺の3年間……」
「でも頑張ったじゃん、20位から5位って凄いよ」
「でも1位になれなかったし」
俺は机に顔を突っ伏して、頬を膨らませた。
「僕は楽しかったよ」
「変なの」
「今回のテストだけじゃないよ、3年間ずっと楽しかったよ。仁くんのおかげ」
「俺?」
「うん」
祇園くんは突っ伏している俺の髪の毛を指にくるくると巻きつけ遊んでいる。なんでだろう、祇園くんの声はずっと聞いていたくなるから不思議だ。
「僕ねえ、勉強ってやらなくても出来るから全然楽しくなかった」
「俺の前以外でそれ言わないほうがいいぞ」
「でもね、仁くんが僕に宣戦してくれた時から、ずっとずっと毎回楽しかったよ。仁くんも頑張ってるから僕も頑張ろって思えた」
「……はは、結局1回も勝ってなかったけどさ……」
「勝ち負けって、そんなに大事?そこまで1位に拘るの、なんで?」
祇園くんが、俺と同じように机に伏せて俺と目線を合わせた。前髪に掛かった瞳がキラキラしていて、俺は釘付けになった。
「……だって、1位にならないと、祇園くんに勝てないと、俺、意味ない」
「どうして?」
「……律樹が、振り向いてくれないから」
祇園くんはじっと俺を見る。俺の視界は祇園くんでいっぱいになり、そして聴覚もシャットアウトされ祇園くんの声だけが鼓膜に響いた。
「僕じゃだめなの?」
「え?」
「……寂しいよ、仁くんと高校離れるの」
「……」
「もう一緒にいられないなら、気持ちだけでも僕に向けてほしい」
俺は固まった。しんどい、そんな事を言われてしまったら、俺は一緒になって悲しくなってしまう。だって、祇園くんの気持ちが手に取るように分かるから。そして、それが叶わない時のやるせなさも知っている。
「……ごめん、祇園くんは俺にとっても大事だけど、でも、俺の特別な人は他にいるから。これは、絶対曲げられないんだ」
「……うん」
「ごめん……」
「ううん。知ってたよ。バラバラになる前に言いたかっただけ」
祇園くんは優しく笑って、俺の頭をそっと撫でた。
「もうすぐ卒業式だねえ」
「うん」
「仁くん、3年間ありがとう」
「……俺も、ありがとう、祇園くん」
仰げば尊し、わが師の恩。
泣くかも泣くかもと思っていたのに、意外と俺は冷静で、ちょっとも涙が出なかった。多分、中学にはもう未練がないから。
隣で歌っているクラスの女の子は涙を拭いながら歌っていて、きっとこの3年間楽しい事がいっぱいあったんだろうなと思えた。
最後のホームルームが終わり、クラスメイトがそぞろに教室を出て行った。俺は祇園くんにあるものをプレゼントされた。
「はい、あげる」
「え……いや、いらないけど……」
「僕だと思って大事にしてね」
「いらないって」
「もう、貰うだけタダなんだからいいじゃん。それに競争率高かったんだから、嬉しいでしょ」
「善意の押し売りだぞ!」
「ありがたいと思ってよぉ」
俺は祇園くんが差し出してきた第二ボタンを渋々受け取った。自分で競争率高いとか言うなよ。
「もう引っ越しの準備は出来たの?」
「うん、あらかたね」
「凄いなあ、東京だって。都会じゃん」
「でも僕人混み苦手」
「祇園くんには大変かもね」
祇園くんはお父さんの仕事の都合で、中学入学当初からもともと3年後には東京に引っ越す予定だったらしい。だから、どうあがいても祇園くんとは一緒にいられなかった。悲しいけど、仕方がない。
祇園くんは俺が第二ボタンをポケットにしまったのを確認したら、突然両手を広げてきた。
「ん」
「ん?」
「ハグ」
「えー、恥ずかしい」
「誰もいないよ」
「……うん」
おずおずと祇園くんに近づくと、大きな両手が俺をふんわり包み込んだ。仄かに石鹸の匂いがする。
「うー、離れたくないよぉ」
「俺も寂しい」
「電話するね、メールも送るね。毎日送ってもいい?嫌じゃない?」
「うん、ははは、いいよ」
「よかった」
祇園くんは更に腕に力を込めて、ぎゅっと抱きしめた。
「仁くんは頑張り屋さんだねえ」
「え……」
「きっといつか報われるよ」
「……」
そっと、優しい熱が離れていった。もっとって、追いかけたくなってしまう。
「仁くんのまわりは、きっと素敵な人がいっぱいいるよ。だから大丈夫」
じゃあね、仁くん、バイバイ。
祇園くんは、長い手足をゆっくり動かして教室を出て行った。
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