11.16歳、真っ青で熱くて酷く痛い
高1になった。言うまでもないが、俺は諦めていなかった。
また3年間新たな境地で生活できるのだと思うとワクワクする。気持ちも新たに、初心に帰って、なんならちょっとウブな感じを演出してみたり。
「律樹、す、す、す、好きです、つ、つつ、」
「付き合いません」
「最後まで言わせてよ!」
新たな制服に身を包んでいる律樹。中学は学ランだったが、高校からはブレザーになった。そんな律樹も美しすぎて、改めて見るとなんだか緊張してしまった。10年ほど一緒にいるのに、未だに新しい姿を見るだけで緊張できるのも俺くらいだろう。
「はあ〜、ブレザーな律樹かっこいいな。写真撮っていい?」
「あー、駄目駄目。事務所NGだから」
「あ、そっか」
この事務所NGはネタでもなんでもなく、本当の意味での事務所NGだった。まあ、ネタだったとしてもネタに出来ないくらいの顔面クオリティではあるが。
律樹は中学卒業前に芸能事務所にスカウトされてモデルをやり始めた。びっくりする事に、普通に書店で見かけるファッション雑誌とか街で見かけるフリーペーパーにバチバチにキメて載っている。勿論俺はどの媒体も全て入手している。
「でもさあ、最悪だよ。自分のスマホ持ち出した途端これだからな。折角カメラロール律樹で埋めようと思ったのに……」
「やめろよ……」
「なあ、だめ?ちょっとでも、1枚もだめ?俺、誰にも見せないよ。自分だけ。誰にも送ったりしないし、なんにも使わないよ。ほんとにだめ?」
「……はあ、分かったよ」
やった!許してくれた。やっぱり、なんだかんだ言っても律樹は優しい。俺はスマホを構えて律樹を撮った。
「んへへへへへへ、最高」
「おい、変な事に使うなよ!?」
「ん?うん、うん、んへ」
俺はその写真をだらしない顔でにやにやと見つめた。カッコイイーッ!学ランも良かったけど、ブレザーも最高。男子高校生感が堪んない。
「あっ、そうだ、ウチ寄ってく?入学お祝いパーティーやろうよ!ケーキ食べてさあ、あと今までのアルバムとか見んの。あ、あ、お泊りは?お泊りしたい!」
「……や、遠慮しとく……」
「なんでよ!!」
「……仁のお父さんいるだろ」
「……あー……」
俺は、お父さんと未だにちゃんと話せていなかった。律樹が俺の家に来るたびにまるで何かを査定するかのように、お父さんは律樹の事をじろりと見る。そして、貼り付けたみたいな笑顔を律樹に向ける。昔はこんな事なかったのに。そして、律樹もいろいろ察してか、それに居心地の悪さを感じていた。
「なんか、ごめん」
「いや、仁のせいじゃ……」
「……ううん、俺のせいだよ」
俺が、男である律樹を好きになってしまったから。
(多分、ちゃんと話し合わないといけないんだろう)
ずっとずっと目を逸してきたけど、いつしかは向き合わなければいけない。でも、
__でも、もしもお父さんに見放されたら?
「……」
お父さんは俺の唯一の肉親で、そんなお父さんに、拒否されてしまったら、俺は。
「__仁、仁?」
「っえ……」
「家、通り過ぎてる」
「あ、ああ」
「大丈夫?」
「……うん、大丈夫!律樹が伊藤さんと破局した今、どうやって律樹を落とそうか考えてた」
「お前なあ」
律樹は呆れたようにため息をついた。
俺はそのまま門をくぐって家に入ろうとしたが、律樹がなんとなく何かを言いたそうだったので少し待ってみた。
ら、
「仁ってさ、……ゲイなの?」
「はあ?」
俺は律樹の脛を足で蹴った。
「ったあ!!オイ、モデルの体だぞ!」
「変な事言わないでくださーい」
「変って……」
「俺はゲイじゃなくて、律樹が好きなだけでーす」
そう。
俺は別に男が好きなんじゃなくて、律樹が好きなだけ。だってずっと律樹しか好きじゃなかったし。恋愛対象、律樹だし。
「……や、俺男じゃん」
「全ての男を好きになると思うなよ。律樹だけ」
「じゃあ、女の子かわいー、付き合いたいとか思わねえの」
「……」
はて、そんな事生まれてから一度も考えた事がなかった。未知の領域すぎて、俺の思考は停止した。
「……かわいい、くらいは、思うけど」
「でもその可愛いって、どうせ世間一般的に見て可愛いから自分も可愛いって思うの可愛いだろ」
「……」
確かに、そうだけど。でも、今更それがなんなんだ。そんな事を言われたって別に律樹以外の人間を好きになったりしない。
「あのさあ、……あー、……」
「……なに」
「…………………………」
「や、だからなんだって」
律樹は口を開けたまま、何も言えず俺を見ている。
「……やっぱなんでもない」
「言ってよ!?気になるだろ」
「……じゃあ、1個だけ」
そんな、2個も3個も俺に言いたい事があったのだろうか。律樹はゆっくりと言葉を選んでそれを口にした。
「……高校生になったんだし、仁ももっといろいろさ、……いろんな人と関わって、楽しんだ方がいいんじゃない」
「……ハ?」
「もっとさ、なんていうか……。肩の力抜いて、その……、まあ、とにかく、もっと他にも楽しんで、学校生活」
「…………………………ハ?」
律樹はとてつもなく気まずそうに、じゃ!と言って振り向いて足早に歩いて行った。
律樹の、今の発言、それはつまり。
俺以外の人間にも目を向けろって意味で、律樹を攻略するためだけの1位にはこだわりすぎるなって意味で、他にもいろいろやりなさいって意味で。読解力の成績が伸びに伸びた俺だから分かる。
それは律樹にとって、俺への気遣いとか配慮とか、そういう優しさからくる発言なのだろう。
でも、でも、そんなのってあんまりだ。
俺はそれしかしてこなかった。律樹だけ、律樹だけって思った故の、全ての行動だった。
だから、俺はそんな今までの俺の人生と自分をなんだか否定されたような気がして。
ブチ切れて、俺の反骨精神に火がついた。
「りっくーーーーーん!!!大好きーーーーー!!!一生一緒にいるからーーーーー!!!」
「ああっ!?」
「絶対諦めねーからーーーーー!!!馬鹿ーーーーー!!!このダサ男ーーーーー!!!」
「モデルだぶん殴るぞ!!!」
俺は遠くにいる律樹に向かって思いっきり言葉を投げつけた。律樹も同じ声量で返してくる。大分ご近所迷惑だったかもしれない。
俺はふん、と鼻を鳴らし、乱雑に門を開けて家の中に入って行った。
知らない、知らない、律樹のばーか。絶対ずっと好き。俺の重すぎる愛、軽く見るなよ。
「アイ?」
「そう、阿井」
「すげーね。これより前の名字なんてあんの?」
「調べたところによると、『ああい』さんや『あ』さんがいるらしい」
「へえーすげ」
「まあでも、俺はその人達には出会った事がないからな。結局俺が一番だ」
「出席番号ずっと一番って嫌じゃない?」
「ぜーんぜん!一番なんてかっこいいだろ」
「変わってるねえ」
俺は入学して2日目にして、新しい友達が出来た。俺の隣の席の、小野間くん。小野間くんは、本当に、安心するくらい、びっくりするくらい、普通の男の子だ。ちょっとやる気がないだけの、至って平凡な男の子。今まで隣にいたのが律樹だったり祇園くんだったりしたから、逆に新鮮だった。
「あのさ、阿井くんのおうちってさ、もしかして阿井古美術店の?」
「仁でいいよ。てか、え、知ってんの?」
「やっぱり!有名でしょ、だってあんなに存在感のあるアンティークショップ、ここらへんの人ならみんな1回は見た事あるし」
「あは、お恥ずかしい」
うちは一般向けに、別店舗でアンティークショップを経営してたりもする。どうやら有名らしい。
「じゃあ仁くん、お金持ち?」
「まあ、それほどでも」
「あ、やっぱり。否定はしないんだ」
小野間くんはクスクスと笑った。
「ていうか仁くん凄いね、成績、クラスで3位でしょ」
「あー……」
入学前に、学科ごとの実力テストがあって、その結果が今日貼り出された。公表されるのは、上位者だけ。またしても俺より勉強できるやつがこのクラスにいるらしい。
「まあでも、1位になれなかったし」
「1位目指してたの?すげー」
「うん。俺、全部一番になりたいから」
「へー、仁くんほんと変わってるね。じゃあ、運動も?」
「あー……、運動ね。まあ、まあ」
それは、中学の時あんまり力を入れてこなかったやつ!ちょっと逃避してたけど、それは俺のライバルによりけり。
「律樹の彼女による」
「ん?」
「いや、何でもない。運動は、そこまで」
「仁くん、なんか運動出来なさそうだもんね」
「オイ、失礼!!」
「律樹、一緒にかーえろっ……ハ、え」
「あらら?」
「あー……」
律樹の腕に自分の腕を絡める、謎の美少女。……まさか。
「カノジョ……?」
「あ、はい!律樹くんの彼女の斎藤ひなたです!」
「律樹律樹律樹律樹律樹律樹」
「なに、もー……」
俺は律樹の腕をグイグイ引っ張って、教室の隅に押しやった。
「は、は、早くない?え、だってさ……待って、だって、入学して1ヶ月……え?彼女……?え?」
「こんくらいじゃない?」
「いやいや、手早すぎんだろ!?」
「別に、てか俺からじゃないし」
「ホンット〜〜〜にお前はさあ!?俺以外へのガード緩すぎんだよ!!」
「うるさいなあ」
「うるさいなじゃないの!!ていうか、斎藤さん、……スポーツ推薦の」
「そう」
「……ま、マジかよ……」
え、じゃあ次、俺はまた運動を頑張らなければいけないという事か。スポーツ推薦で入学した斎藤さんを越える実力を付けなければいけないのか。え、割と無理ゲーじゃないか?
「今度こそ、無理だ……」
「……なあ、悪い事は言わねえからさ、別にもう頑張らなくてもいいんじゃない?」
「……」
「また1位になるとかならないとか考えてんだろ。流石に運動で1位は無理だって」
「……言ったな?」
「……おっと」
俺は躍起になって律樹の胸ぐらを掴んだ。
「俺がっ!体力測定で総合評価学年1位になったら俺と付き合って!!」
「ちょ、おい、無理あるって」
「……うんって言わないと斎藤さんに律樹の昔の恥ずかしい写真見せつける……」
「……ウンっ……!!」
律樹は最早ちょっと泣きそうになりながら苦しそうに頷いていた。脅し?いやいや、ただの宣言だ。
俺はそのまま律樹のシャツから手を離し、斎藤さんとは目も合わさずに教室を去った。
ああ言ってしまったのはいいものの、どうすればいいんだよ、俺。
この学年には、どうやらメチャクチャなやつがいるらしい。と、小野間くんから噂を聞いた。
国際科の、とある男。名を、戸部くんと言うらしい。
「どうメチャクチャなんだ?」
「体育と英語の授業以外校内を逃走するか、屋上でギターを弾き語りしてるらしい」
「そんなマンガみたいな」
「集会とかは絶対いないし、休み時間になったら窓から抜け出すからさ、同じクラスの人と体育の授業一緒になるクラスの人以外あんまり顔見た事ないらしいよ」
「そんなマンガみたいな……」
「いるんだよな、これが」
確かにメチャクチャなやつだ。俺はそいつがメチャクチャ気になってきた。
「俺、1回だけ屋上の扉まで行って歌声聴いたことあるんだけど、すっっっっ……げ〜……」
「……すっげー?」
「……歌上手かった。洋楽でさ、発音も馬鹿みたいにいいの」
「へえ」
「国際科だし、ペラペラそうだし、流石の仁くんでも英語の成績は勝てないかもね」
「なにをっ!」
聞き捨てならん!
「その戸部くん、いつ、どこにいる!」
「えー、どうだろう。昼休みとかには屋上にいるんじゃない?あと、体育の授業とか」
「おい、昼休み、今じゃん」
「うん、そうだね」
「行ってくる!!」
「うん、行ってらっしゃーい」
俺は慌ててお弁当を片付けて、駆け足で屋上へ向かった。
「仁くん、おもしれー」
屋上に繋がる踊り場で、微かに歌声が聴こえてきた。名も知らない洋楽だ。ところどころ単語が聴こえてくる。maybe, we, met, somewhere. 発音があまりにも流暢で、思わず聴き入ってしまう。
ドアノブを捻ると以外にも簡単にドアは開いて、俺は屋上に足を踏み入れた。
「Maybe we'd have met somewhere.Maybe we were already in……アン?」
「ヒッ!」
「誰?」
俺の足音が聞こえたのか、背を向けてギターを弾き語りしていた戸部くんと思わしき人物は、ピタッと手を止めてぎゅるんっ!と凄い勢いで俺の方を振り返った。
意外も意外、戸部くんは制服をきっちり着込んで、見た目も優等生然としているかなり真面目そうな人だった。体格は結構がっしりしているが、とても素行不良なようには見えない。
「あの……1年1ホームの阿井と言う者です……戸部くん、だよね」
「何、なんの用?」
「えっとね、その……英語、上手だね」
「は?」
「英語、得意なの?」
「……まあ、海外住んでたし」
「へえ、そっか、凄いね」
俺は戸部くんの横にストンと座った。戸部くんは訝しげに俺を見る。
「戸部くん、実力テストの英語、何点だった?」
「……100だけど」
「……クソッ!!」
「え、なに」
「……っ俺はッ!!94点……!」
「はあ、だからなに」
「戸部くんを越す!」
「いや、俺100点だけど」
「越す!!」
「無理でしょ」
字めっちゃ綺麗に書いたらプラスで3点くらい貰えないかな。前人未到の、100点満点中103点。
「てかほんとになに、お前なに、怖いんだけど」
「ごめん、戸部くんがどんな人か気になったんだ」
「え?」
「俺ね、全部1位になれないと駄目なんだけど」
「はあ……」
「友達に、英語は戸部くんに勝てないんじゃないって言われて、それで見に来た」
「へえ、変なの」
「戸部くん、今日から俺のライバルね」
俺は戸部くんに右手を差し出した。戸部くんは首を傾げて俺の手を見る。
「なにこれ」
「握手だよ。……え、海外の文化にない?」
「あるけど……」
「握手、はい」
俺はずいっと右手を戸部くんに近付けた。すると戸部くんはぱちくりと目を見開き、そして一気に破顔した。
「あはははっ!無理やりすぎ、追い剥ぎかと思った」
「追い剥ぎって、失礼だな」
「失礼なのはそっちでしょ。いきなりずけずけとさ……まあいいや、はい、握手ね」
俺達は、ライバル……ライバルのようなものになった。
「戸部くんはフリョーなの?」
「聞くねえ。ま、不良だよね」
「でも英語と体育だけやるって聞いたよ」
「その2つしか楽しくないもーん」
「体育好きなの?」
「うん、体動かすの大好き」
「体育得意?」
「うん。そんじょそこらの運動部には負けない」
「……ほう?」
カチッと、俺の中のピースがハマったような気がした。
「……体力測定、もうすぐじゃん」
「うん、面倒くさいね」
「そういうのは面倒くさいんだ」
「うん、サボる気でいる」
「ちょちょちょちょちょま、」
「ちょま?」
戸部くんの実力がどれほどのものなのかは分からない。でも、不戦勝なんて俺のプライドが許さない。
「勝負、勝負だ、戸部くん!」
「え」
「俺は体力測定の結果でも戸部くんを抜く。覚悟しろ」
「えー……面倒くさいな」
「……戸部くんは俺に勝てないのかな?」
「ハ?」
「戸部くんが俺に勝てるのは英語だけ?体育得意ってのは嘘?」
戸部くんは手にしていたギターを床に置き、片方の広角をつり上げた。見た目だけで言うと優等生だけど、こういう表情も似合う。
「やってやろうじゃん」
こうして祇園くんに変わり、俺の高校3年間は戸部くんという新たなライバルを撃破するという目標が出来てしまった。
「ぜんっ……ぜん駄目じゃん」
「いや、はは、うん、気持ちは負けなかったけど」
「あんな大口叩くから仁くんも運動出来る人だと思ったのに……全然駄目じゃん。はあ、俺体力測定頑張り損」
「……でもでもっ!戸部くん凄いな!学年1位!」
「……ドーモ」
体力測定の結果が返ってきた。普通に、全然駄目だった。平均値よりちょっと上くらい。そして、戸部くんは学年1位の能力値だそうだ。
「おかしいとおもったんだよな。なんか仁くん……鈍くさそうだし」
「オイ!!」
「そんなんで俺抜くのとか、無理じゃない?」
「……無理じゃない!俺は律樹に誓ってしまったから……」
「リツキ?誓う?」
「そう。隣のクラス……2ホームの、和野律樹。知らない?俺の幼馴染。モデルやってる、美しい人」
「知らない。キョーミない」
「……まあ、戸部くんなら仕方ないか。俺、その律樹の事が大好きなんだけど」
「……ん?……うん」
「体力測定で俺が1位になれたら、付き合ってって言っちゃったから」
「……あ、女の人?」
「男だよ」
「……へえ」
戸部くんは驚くでも否定するでもなく、ただそれだけ言ってまたニヤッと笑った。
「仁くん、ゲイ?」
「もー、それ、律樹にも言われた。違うよ。律樹が好きなだけ」
「男じゃん」
「男だけど、そうじゃない。俺は律樹しか好きになった事ない」
「……今まで、そいつだけ?」
「うん。6歳の頃から、ずーーーっと好き」
「すげえ」
「だからゲイじゃなくて、俺は律樹が好きなの」
「……」
戸部くんは屋上の床に大の字で寝っ転がったまま、顔だけを俺に向けている。何も言わず俺をじっと見ている戸部くんを俺は見下ろした。
「……え、なに?」
「仁くんさ、それって……」
「……ん?」
「……あー、いや。なんでもない」
なんなんだろう。律樹も戸部くんも、俺を前にして言い淀むの辞めてほしい。
「なにってば!!」
「なんでもないって!」
俺は戸部くんに掴みかかって、一緒に寝っ転がって体を揺さぶった。最初は戸部くんもやめろ、と口で抗議していたが、俺がそれを無視して揺さぶり続けていると、戸部くんはガバッと起き上がった。
「あー、もう」
「え、ごめんって。怒らないで」
「……あんまさ、そういうの、俺に辞めてほしい」
「……え?」
「俺、ゲイだから」
「……んえ?」
「だからあんま俺にベタベタ触んない方がいいよ。妙な気持ちになるから」
「ほえっ!」
「はは、冗談。仁くんなんか全然タイプじゃないし」
戸部くんは乾いた笑いを溢した。俺は、何も言えずに戸部くんを見つめた。
「……一瞬でもさ、俺の事今までと違う目で見たでしょ」
「……いや、そんな事、ない……」
「……あるよ。仕方ない事だし。だからさ、仁くんもあんまりぺらぺらとその人の事好きーって言いふらさない方がいいよ。理解ある人ばっかじゃないからね」
「……」
「……まあ、俺は仁くんにカミングアウトしたけど、今まで通りいてくれると嬉しいかな」
「うん……。大丈夫」
「ありがと」
戸部くんはにこっと笑った。
一体、戸部くんはこの告白にどれほどの勇気を振り絞ったのだろう。今まで、何人の人に言ってきたのだろう。__どれだけの人が離れていったのだろう。
そして、俺は、なんでこんなに心臓がドキドキいっているのだろう。なんで、えもしれない漠然とした不安に襲われているのだろう。
玄関の下駄箱前で靴を履き替えていると、律樹も玄関にやって来た。
「あれっ、斎藤さんは?」
「今日はいない」
「……!りっくん!一緒に帰ろ!」
「あー、はいはい」
やったぜ!久しぶりに律樹と一緒に帰れる。大体の日は斎藤さんと帰るか、仕事があるからそそくさと帰ってしまう。だからこれは貴重なのだ。逃すわけにはいかない。
「あれ?……死ぬほど汗かいた?」
「馬鹿、プールだよ」
「ああ、そっか」
どうやら律樹のクラスはプールの授業があったらしい。短髪の人なら直ぐ乾くのだろうけど、律樹は今時のつるんとした長めの髪型なので、まだしっとりと濡れていた。
「ていうか、1ホームも今日プールあっただろ。なんでそんな手ぶらなの?教室に荷物置いてきた?」
「……や、……あー」
「……?」
「俺、その時間保健室いたから」
「え?」
「ちょっと体調不良で」
「……大丈夫?」
「うん!ぴんぴん!」
ブイサインを作って律樹に向けた。律樹はそれならいいけど、と前を向いた。
「てか律樹、凄いな!前の雑誌のやつ、カッコ良かった。着回し1週間コーデ!7日間分の律樹が見れて幸せ〜」
「そりゃどうも」
「普通に見る用と、小野間くんにプレゼントする用と、切って壁に貼る用と、金庫で保管する用で4冊買った」
「高校生がやる行動じゃないだろ……」
「金持ちですので、オホホ」
隣にいる律樹を見つめる。律樹は俺に呆れながらも、ちゃんと言葉を返してくれる。数年前まで歩幅が合わなかったけれど、今はこうして俺のペースに合わせて歩いてくれる。
(あー、やっぱり好きだな)
大好き、律樹、大好き。やっぱり好きだ。
「律樹、俺、体力測定全然駄目だった」
「でしょうね……多分俺より低いだろ」
「うん、多分。だから、また1年間頑張るから、見てて」
「……」
「運動も出来るようになっちゃったら、俺、最強じゃない?もう惚れるしかないだろ」
俺は得意気に笑った。律樹は目を点にして俺を見ていたが、馬鹿馬鹿しくなったようで、眉を下げて笑った。
「仁はすげえな」
「でしょ?俺もそう思う」
俺は、いつだって律樹の前を歩いたいたいから。
「律樹、俺、頑張るから。ずっと一緒にいてくれ!」
夏休み前の終業日、気分が浮足立つ生徒との気持ちとは対象的に、外は土砂降りの雨だった。
「仁くん、夏期講習毎日出られる?」
「うん、部活とかもやってないし」
「じゃー俺も全部丸つけとこ。はあ、面倒くさいな」
小野間くんはため息をついて項垂れた。特進学科所属の俺達は、どうやら他の学科よりも夏期講習の期間が長いらしい。
「なにが夏休みだよ、休ませる気ないじゃん。早速明日からあるし」
「本当にそれは思う」
「仁くんは凄いね、勉強も頑張ってるし、なんか……走り込みとかしてるし。部活入ってないのに……」
「小野間くんも一緒にやる?」
「遠慮します……」
俺は次の年こそ体力測定学年1位になるべく、必死に走り込みをしている。まずは体力作りから。どうやら俺の走りは無駄に体力を消耗するフォームをしているらしく、戸部くんに指導してもらって直している最中だ。
「ま、ほどほどにね。じゃあ俺帰るね。また明日。仁くんも雨酷くなる前に帰ったほうがいいよ」
「うん、ありがとう。バイバイ」
小野間くんを見送って、俺も荷物を纏めた。玄関に行くためには他のクラスの前を通らなければいけない。
そして、俺はそこであまり聞きたくない話を聞いてしまった。
「……律樹くんが……って……」
「それ……だから……」
「……え、じゃあ……」
律樹のクラスにいた女子たち数人が固まって、何かを話しているのが聞こえた。律樹、という単語が聞こえて、いけないとは思いつつも、俺は耳をそばだててしまった。
「ほんと、ムカつく。顔がいいからって調子に乗ってんだよ、ひなた」
「周りに聞こえるように律樹くんの話しなくてもいいじゃんね。マウント取ってんだよ、ああやって」
鼓動が急加速した。俺は震える手で、ぎゅっと自分のカバンの柄を掴んだ。
「性格あんま良くないよねー。律樹くん、なんであんなやつと付き合ってんだろう」
「早いもん勝ちでしょ。一番最初に告白したの、ひなただったし」
「そんなんで?ズルいって。さっさと別れてくれないかな。私も律樹くんと遊びたいのに。全然隙ないし、律樹くん」
「あの人も邪魔、あの……隣のクラスの」
「ああ、幼馴染って人?」
「律樹くんもよく構ってあげてるよね、あんな普通な人」
「家が金持ちだからじゃない?」
「ああ、そうかもね。じゃないと折り合いつかない」
クスクスと、仄かに笑う声が漂う。気がつけば俺は、教室の中に足を踏み入れていた。
「なあ」
「……え」
「……え?」
俺はその子達を見つめた。声は震えていたかもしれない。
「俺の事はいいけど、……律樹が選んだ人の事、悪く言うの辞めてあげて」
「……は」
「影でコソコソ言っちゃ駄目だよ。伝えたい事があるんなら、直接言わないと、伝わんない」
俺は斎藤さんを応援しているわけじゃないけど、でも、それは律樹の事を否定している気がして、我慢が出来なかった。
ぐっと、拳を握った。
ズルいよ。俺はずっとずっと、律樹の彼女への悪口も否定の言葉も全部全部飲み込んで、律樹に真っ向から当たってるのに。
別れろなんて、1回だって言った事がないのに。
「……律樹の事が好きなら、ちゃんと、そう言った方がいいよ」
「な、なんなの、突然、キモい」
「……ごめん」
俺はその場から離れ、玄関に向かった。外を見るとさっきよりも雨が強くなっていて、視界は真っ白になっていた。突然の豪雨だったため、傘など持っておらず、どうしようか迷っていた時だった。
ピシャン__ガラガラガラガラ!!
「ひっ」
雷が近くの山に落ちたらしい。音も大きく、俺は体を震わせた。そして息つく間もなく数秒後、また近くに轟音が響いた。
「う、う……」
駄目なんだよ、俺、大きい音。特に雷だけは、ずっとずっと苦手だった。
足が震えて、その場にしゃがんで耳を塞ぐ事しか出来なかった。目を瞑ると、さっきの言葉が頭をよぎった。
『律樹くんもよく構ってあげてるよね、あんな普通な人』
『家が金持ちだからじゃない?』
『ああ、そうかもね。じゃないと折り合いつかない』
うるさい、うるさい、そんなの、俺が一番分かってる。だから、俺は一番になんないと駄目なんだよ。律樹に、つり合う人にならないと。
ガラガラガラ、ピシャン、ガラガラガラ。
「うるさいっ!!」
体ががくがくと震える。
なあ、耳塞いでんだから、通すなよ。嫌なんだよ、雷。ずっと、ずっと嫌いで、昔っから、あの日から、俺はずっと嫌いで、何も守れなかった自分が嫌いで、だから、だから、もう何も奪ってほしくなくて、
だから、
「仁」
「……」
顔を上げると、そこには律樹がいた。
「……ハ、ハ、はッ、」
「仁、大丈夫、ゆっくり息して」
「ふ、ふぅ、はぁ、は、はぁ、」
「うん、そう、上手」
背中に、律樹の温かい手の温度が広がった。冷たい体に、染み入るように律樹の声が伝う。
「仁、大丈夫、大丈夫だから」
「うっ、ううう、ううぅぅ」
「大丈夫、俺が守るよ」
「うあああ、あぁぁぁっ」
気付けば俺はボロボロと涙を流していて、律樹に体を抱きしめられていた。
そう、律樹は俺を守るって、約束してくれた。でも、きっと、ずっとじゃないんだろう。
「大丈夫、大丈夫」
「うああ、ううっ、ヒッ、うう」
だから今だけでも、俺のものになってほしいんだ。
12.17歳、雨の止め方なんて知らない
高2になった。俺は諦めていなかった!!
諦める訳ないぞ。誰に何を言われようが、どんな事が起きようが、俺は諦めない。俺は律樹を諦めない!
「律樹!大好き!付き合ってください!」
「お断りします」
「あ、ご丁寧に……」
律樹はペコリと頭を下げた。つられて俺も頭を下げる。じゃなくて!俺がほしいのはこんなんじゃない!
「なあなあなあ〜っ!来年こそっ!来年こそは体力測定1位になるからさあ〜〜〜っ!」
「はいはい」
律樹は迫る俺を軽くいなし、さっさと帰って行った。
「クソッ……詰めが甘かったか……ボール投げと握力の項目をすっかり忘れていたな」
「なにしてんの?」
「ひょわっ!」
玄関の前で突っ立っていた俺の真後ろには、戸部くんが立っていた。
「ヌッて現れんのやめて!?」
「仁くんが気付かなさすぎ」
戸部くんは、俺が手にしていた体力測定の診断表を覗きこんだ。
「頑張ったじゃん」
「頑張ったけど戸部くんに勝てなかった!!」
「ストイックだなあ」
そう、今年も1位になれなかった。どうやら、学年で23位……らしい。微妙すぎる!確かに今までの俺からすると頑張った方ではあるが、俺が目指すべきは1位なのだ。こんなんで満足していられない。
「仁くん、球技は興味ないの?」
「全然。俺球技苦手だもん」
「俺今からバスケしに行くけど、見に来る?」
「え、テスト期間だけど……」
「いいじゃん今日くらい。ほんの1時間くらいだよ」
「俺にとってのメリットがない」
「俺のかっこいい姿が見れるよ」
戸部くんはにんまりと笑った。
まあ、いいか。どうせ誰も構ってくれないし。
「じゃあ、ちょっとだけ。あ、見るだけだから!絶対やらないからな」
「分かったって」
俺は戸部くんに連れられて体育館へと向かった。テスト期間にも関わらず、そこには数名の男子生徒がいて、みんな一様にシュートの練習をしていた。
「え、バスケ部じゃないよね」
「うん。みんな俺の友達ー」
「ああ……なるほど」
多分、戸部くんみたいな人の集まりなんだろう。
「戸部くん、バスケもできんの?」
「うん。海外住んでた時、ストリートでよくやった」
「ほ、ほーーーん。すげー……」
「仁くんここいて、俺のこと見ててね」
戸部くんは奥のコートへと歩いて行った。言われるがまま、俺はその場所で試合を見ていた。
(わ……)
戸部くんのプレイは、まるで踊りを踊るみたいに軽やかだった。今までストリートでやってきたからなのか、自由にコートを走る様はまるで遊びの延長みたいに楽しそうだった。実際、戸部くんや他のみんなも遊びだと思ってやっているのだろうが、戸部くんは中でも一番生き生きとしていた。
戸部くんがスッと放ったボールが、まるで吸い込まれるかのようにゴールの中に入っていった。
「凄いっ!」
思わず声を上げると、その声を拾ったらしい戸部くんが俺の方を見てピースをし、ニヤッと笑った。
ドキッとした。
なんだ、今の、そんなの、ちょっと!
(かっこいーーー!!)
それから時間が経つのは早く、1時間なんてあっという間だった。
「仁くん、俺どうだった?」
「最高、超かっこよかった、俺もやりたい」
「ははは!仁くんも一緒にやる?」
「いやー、あはは、あの中に入んのはちょっと。でも本当にかっこよかった。凄いね、戸部くん」
「惚れた?」
「ほっ……え?」
戸部くんはニヤニヤと笑ったまま俺を見つめていた。
「冗談」
「……冗談に聞こえないんだよ、戸部くんが言うと」
「ははは」
戸部くんのペースが掴めない。なかなかどうして、この人を越すのは難しい。
「りっくーーーん、遊びましょーーー」
「げっ」
「げって何!」
「なんでいんの」
「花火しよ、花火。今日予定ないんだろ?おばさんが入れてくれた」
「ああもう、勝手にさ……」
俺は大量の花火を抱え、律樹の家にやって来た。アポ無しだったので断られるかな、と思ったけど、扉を開けてくれた律樹のお母さんが快く中に入れてくれた。
俺は律樹を部屋から引っ張り出し、我が物顔で庭へと向かった。
「どれやる、どれやる?」
「この、変なうさぎのやつ」
「じゃあ俺色変わるやつ!」
なんだかんだ律樹もノリノリなようで、俺がバケツに水を汲んでいる間にろうそくを立てて火をつけていた。
火薬の先を暫く火に翳すと、程なくしてプシュッと音を立てて火花が散り始めた。
「うわっ!うわあーーーっ!律樹!!見て!すげーーー!マジで色変わった!!」
最近の花火って凄いんだな!と俺が感動していると、隣にいた律樹がくつくつと笑った。
「え、なに?」
「いや、お前……全然変わってねえから」
「へ?」
「なんでもない。俺もやろっかな」
律樹も自分が持っていた花火に火をつけた。持ち手の台紙には確かに謎のうさぎの絵が描かれているが、花火としての威力は満点だった。バチバチと淡緑色の火花が弾け飛ぶ。それが凄く綺麗で、でも、それ以上に。
「あはっ、仁、綺麗だな」
やっぱり、そうやって笑う律樹はもっと綺麗だった。
「__ははっ!律樹も変わんないじゃん!」
律樹は変わんないから、俺だって変わんない。あの時から、俺はずっとずっと律樹が好き。
お昼休み、教室は仄かに塩素の匂いが漂っていた。
「仁くん、プールの時間だけ意図的に体調不良訴えてんの、流石にバレバレだよ」
「え"っ」
「え、じゃないの。そんなんじゃ補習になっちゃうよ」
「べ、別にいいよ」
「面倒くさいでしょ、今やっときゃいいじゃん。みんなと同じタイミングでやった方が楽でしょ」
「やー!!嫌!」
流石にプールの時間だけお腹が痛くなる病気はしんどかったかもしれない。しかも去年もプールの授業だけサボりまくってたし、流石に小野間くんに目をつけられた。
「何?カナヅチ?」
「いや、そうじゃない……。全然泳げんだけど……、そうじゃなくて……」
「じゃあ入ればいいじゃん」
「嫌だってば!俺、後で補習受けるし別にいい!」
「だからなんでなの!」
小野間くんは、どうやらプールの授業で俺が参加しないのを不平等だと思っているらしい。小野間くんの考えは大体、目には目を、歯には歯を、苦しみには同じ苦しみを、だから、どうやらそのポリシーに俺は反しているらしい。
でもでも、俺も譲れない理由はある。
「き、聞いても呆れない?」
「まあ、理由によるけど……」
「……」
「呆れません。言っていいよ」
「……俺、」
裸見られんの嫌。
「……ハァ??」
「あっ、それだけじゃないぞ。みんなの裸見るのも嫌だし……」
「……あっ!えっ、じゃあ、もしかして体育の時、更衣室で絶対着替えないのって、……そうなの?」
俺はこくりと頷いた。小野間くんは、呆れるとかではなく、普通に俺に疑問を抱いた。
「え、なんで?」
「だって、恥ずかしいし」
「え、どこが?コンプレックスあんの?」
「いや、別に、そういうのはないんだけど」
「じゃあなんで?え、恥ずかしいって……」
「ていうか、逆になんでみんな恥ずかしくないの!?はだっ……裸だぞ!?」
「いや、男だし。なにをそんな恥ずかしがる事があんの……」
「そういうもんなのか……」
俺はハッとした。でも確かに、小学生とかまでは銭湯とか全然大丈夫だったな。中学くらいでいきなり駄目になったけど。
すると小野間くんは何かを考えて、そして俺を見つめた。
「仁くんってさあ、体育の時間とか、びっくりするくらい女子の方見ないよね」
「……え?なんで?見る必要あるか?」
「……女の子の生足とか、胸とか、見ない?」
「見ない見ない。なんで、失礼だろそんなの」
「ちょっとも?チラッとも?」
「うん……いや、なに?」
「……」
俺は、小野間くんが一体何を言いたいかが分からなかった。顔を顰めて小野間くんを見た。すると黙ってしまった小野間くんは、また口を開いた。
「仁くん、和野くんの事好きなんだよね」
「うん、そうだけど……」
「……」
「……え?だから、なに、何を聞いてんの」
「……男の人の裸、見るのも嫌なの?」
「まあ、嫌ってか、恥ずかしい」
「いつからそう思ってんの?」
「中学くらいからかな……」
訳が分からない。小野間くんが何を考えて、俺になんでこんな質問をしているのかが分からない。
そして、今になって思えば、みんなが一様に俺の前で言い淀んでいた言葉ってやっぱりこれだったのかなあ、と後々気付いてしまった。
「仁くんって、ゲイなの?」
俺はぴしり、と固まった。
何回か言われてきた。その度に、そうじゃない、って、軽く躱したけど、なぜか、この時ばかりはすぐに何も言い返せなかった。
「……ち、違うって。俺は、律樹が好きなだけで、男が好きな訳じゃ、ない……」
小野間くんは俺の発言を聞いて、ふーんと呟き、興味がなくなったかのようにご飯を食べ出した。
「ま、俺には関係ないしどうでもいっか」
「……」
小野間くんの、ある意味での心のなさは今に限ればありがたかった。
でも、
(え……、俺って、俺って……え、そう、なの?)
俺の頭の中は、その事でいっぱいになった。
高2も折り返し地点に達した。
「締め切り来週までだからなー、ちゃんと家の人と話し合えよ」
俺は、配られた進路調査票を手にしていた。どうしよう、進路。
「どーしよー……」
「全然決めてない?」
「うん。小野間くんは?」
「普通に大学行くかな」
「意外だな。勉強嫌いだから大学行かないかと思ってた」
「嫌だけど、親が行けって言うからさ」
「ああ、そっか……親ね」
「仁くんのお父さんはなんか言ってないの?」
「うん……、いや、なんて言うかなあ。喧嘩中だから、そういうの全然話してない」
進路相談に、親との会話はつきものだ。喧嘩中であってもなんでも、必ずお父さんと話さなければいけない。
「憂鬱だな……」
「頑張れ〜」
「他人事だな」
「他人事だもん」
家に帰ると、お父さんは書斎で仕事をしていた。
「お父さん」
「……ん、なんだ、仁」
お父さんは俺の声に反応すると、くるっと椅子を回転させた。久しぶりに会話したからか、なんとなく嬉しそうだ。……いやいや、俺は絆されたりしない。
「進路相談が」
「ああ、そういう事か」
「……どうしたらいいと思う」
「それは、仁が決める事だろう」
お父さんははは、と笑った。すると引き出しから何か資料を取り出して、俺に渡してくれた。
「仁は学力も十分あるし、こういう事も考えていいんじゃないか」
「高卒留学……」
「仁、昔留学に興味があるって言ってただろ?ここだったらお父さんの知り合いもいるし、ホームステイも出来る。まあ、決めるのは仁の自由だから、好きにすればいいさ」
「覚えてたの?」
「まあな」
お父さんは笑った。かなり昔に、確かにお父さんにそう言った気がする。
「お父さんは、俺が海外に行ってもいいと思ってるの?」
「そりゃまあ、寂しいけど、仁には好きな事させたいし」
「……」
「……仁、まだ、律樹くんの事が好きなのか」
「……なんで、そんな話になんの」
「……」
お父さんはなんだか悲しそうな目をして、俺を見た。
「恋愛対象が男だと、普通の幸せは手に入りづらいだろう」
「__!」
「だから、一旦海外に出て、いろいろ経験して視野を広げてみてもいいと思う」
「……なに、それ」
体が震えた。いや、違う。震えてたのは、心だった。怒りで、震え上がった。
「なにそれ!?なんで俺の幸せを、普通じゃないって決めつけるの!?」
「……違うんだ、仁」
「海外に行けってのは、律樹と離れろって意味!?なんでそんなに俺の事認めてくんないの!!」
「違う!そういう意味じゃない……」
俺は手にしたパンフレットに力を入れた。ミシっと紙が軋む。痛い、痛い。
「……そういう意味じゃないんだ。すまない。仁の心を、考えていなかった……」
「……」
「……海外留学は、じっくり考えればいい。お父さんがいろいろ言った事は、忘れていいから」
俺は振り返り、部屋を出た。
怒りに任せて荒々しく自室に戻ったが、悔しくて悔しくて、涙も出なかった。床にパンフレットを勢い良く叩きつけた。
「クソッ……」
はあ、と息をついて、もう一度その冊子を手にした。ペラっとめくると、正に学校紹介に相応しい爽やかな笑顔を浮かべた学生がキャンパスの前に立っていた。
あんな事を言われたが、俺は確かに留学に憧れていた。そして、昔微かに言った夢をお父さんがしっかり拾ってくれていた事が嬉しかったのも事実だ。
でも。
(普通の、幸せ……)
お父さんが思う普通の幸せって、なんなんだろう。普通に勉強して、普通に女の子と付き合って、結婚して、子ども産んで、家庭を築く事なのだろうか。__じゃあ、無理だ。それは、きっと出来そうもない。だって、俺にとったらそれは幸せなんかじゃない。
俺の人生に律樹が介入しなくなった時点で、もう幸せなんかじゃないから。
その日は、記録的な雷雨を観測した日だったらしい。
もうすぐ年中さんも終わるね、1年間頑張ったね、って、お母さんと一緒にケーキを買いに行った。
雨が酷くなってきたので、お母さんに明日にしよっかと提案されたが、ケーキを食べる気満々だった俺は猛烈に駄々をこね、買いに行くと言って聞かなかった。
お母さんは車の免許を持っておらず、お父さんは仕事でいなかった。だから、雨の中カッパを着て出歩く事になった。
「仁くん、チョコじゃなくて普通のショートケーキで良かったの?」
「うんっ!ママにもちょっとだけあげるね」
「あら、いいの?ありがとう!優しいね」
「パパには内緒ね!」
「ふふ、うん。内緒ね」
ケーキ屋さんのお姉さんが雨に濡れないようにと厳重にビニール袋で覆ってくれたケーキの箱を、お母さんは片手に持っていた。そして、もう片方の手は俺の手を掴んで。
雨のせいかケーキ屋の店内のせいか、お母さんの手は冷やっとしていて、それがなんだかゾワゾワとした。
行きは雨が降るだけだったけれど、帰りには雷も鳴り始めて、俺はびっくりして思わず泣いてしまった。
「ごめんね、仁くん。早く帰ろうね」
お母さんはぎゅっと俺の手を握って、足早に歩き出した。
その時だった。
遠くから、車のヘッドライトの灯りがこちらに射してきた。タイヤが止まろうとする強烈なブレーキの音と、クラクションの音が空間に響いた。
俺が見た最後の光景は、車の運転席にいた男がこちらを見て形相を変え、何かを必死に叫んでいる顔だった。
そして、
その車がスリップして 俺達の 方へ
ピシャン__ガラガラガラガラ!!
「____ママ?」
俺を抱き締めてくれていたお母さんの体は、最後の最後まで、ずっと冷たかった。
「お母さん、俺もう17歳になったよ」
入念に磨いた墓石の前で、俺は手を合わせていた。
「……俺、どうすればいいかな」
空は曇天でぽつぽつと小雨が降り続いていた。まるで、あの時がうっすらとずっと続いているみたいに。
「進路のこと、家のこと、……律樹のこと」
幼稚園の頃の記憶なんて殆ど無いけど、でも、お母さんと一緒にいたあの日の事だけは、鮮明に思い出せる。辛い事があった時、何度お母さんの顔を思い出したか分からない。それは、今だって変わらない。でもいつだって、決まって最後は後悔が残る。
あの時、俺が我儘を言わなければ。俺がお母さんを守れていれば。
あの日から、俺は大事なものを何1つだって守れていない。
「お母さん……」
お母さん、俺、どうすればいいかな。
13.18歳、純粋で真っ直ぐで面倒くさくて青くさい
高3になった。俺は諦めていなかった。
諦めていなかったが、
「律樹」
「……」
「律樹、あの」
「……」
「元気、出して!えと、あ、飴あげよっか?」
「いらない」
「あ、じゃあ、じゃあ、チョコ!チョコもあるぞ!」
「……いらない」
「んーっと、あ、そういえばプリン家にある!高いやつ!あげる!」
「だからいらないって!もう、放っとけよ。うるさいな……」
「なっ……」
告白、出来るような空気でははなかった。
律樹はその後俺が何を言っても返す言葉もなく、スタスタと歩いて無言で自分の家に帰って行った。
律樹が、斎藤さんに振られたらしい。
あんなに国指定で守るべきってレベルの律樹を振るなんて、だいぶ肝が座っている。隣に自分より綺麗な人がいると惨めな気持ちになっていった、という理由らしい。分かるけど、それにしても凄い理由だ。
律樹は伊藤さんの事が本気で好きだったようで、相当落ち込んでいた。下校中フラフラと帰っている律樹を見て、俺は無理やり隣に引っ付いて歩いた。傷心中を狙うほど、俺は浅はかな人間ではなかった。というか、そこで律樹が俺の告白を受け入れてくれる気もしなかった。
律樹、すっごい落ち込んでいたな。
俺なんて、何年も同じ人に振られてんのに。なんて、言いたくても言えなかった。
「仁くんって変だよね」
「……え、そう?」
「うん。普通自分の好きな人が誰かと別れてくれたら、嬉しがるもんじゃないの?」
「え、そうなの!?」
「そうでしょ」
「なんで?」
ギターを適当に弾き鳴らしている戸部くんは、ぽかんとした顔で俺を見た。
「え……だって、チャンスじゃん。それに、嫌じゃなかったの?和野くんが自分じゃない他の人と付き合ってて」
俺は今までの律樹の事を振り返った。でも、いくら律樹がフリーになっても、手放しで喜ぶような時はなかった。
「嫌じゃないとは言い切れないけど、でも、律樹が悲しんでる顔見る方が嫌だし」
律樹はずっと、どんな顔も綺麗だけど、でもやっぱり笑った顔が一番キラキラしていて綺麗なのだ。それが見れなくなるくらいなら、誰かと付き合ってくれていたほうがマシだ。これって、変なのかな。
戸部くんはギターを弾いていた手をピタッと止めて俺の方を見た。そして、ニヤッと笑う。
「健気だねえ」
戸部くんの手が伸びて、ピックを持ったまま俺の頬をすっと撫でた。俺はそれにピクリと反応する。
「……や、やめてよ」
「ごめん」
耳の裏で、どくどくと血液が流れるのが分かった。戸部くんはその笑みをずっと浮かべたまま、またギターを弾いた。
『仁くんごめんね、律樹、あんな様子でしょ。学校だってお休みしてるし……ご飯も食べてないの。悪いけど、ご飯お部屋に届けてくれない?私が行っても全然ドア開けてくれないの』
下校中、仲良しすぎて最早マブな律樹のお母さんから携帯に電話がかかった。
「ええ、どうせ俺が行っても無視されるよ」
『そうかなあ?私が行くよりよっぽどいいと思うけどな』
「うーん……分かったけど、なんにも出来なかったらごめんね」
『ううん、ありがとうね、仁くん』
通話を切るなり、俺は学校帰りに律樹の家へ向かった。律樹は斎藤さんに振られてから相当気を落としているようで、ここ2日学校を休んでいる。受験生にとっての2日の遅れは結構厳しい気がするが、大丈夫なんだろうか。それに、律樹はモデルの仕事もあるのに。
律樹の家のインターホンを押すと、直ぐに律樹のお母さんが出てくれた。
「いらっしゃい仁くん!久しぶりねえ。ちょっと大きくなった?」
「久しぶり!そうかな?おばさんは相変わらず綺麗だね」
「あら!もー仁くん、本当に上手なんだから。ケーキ買ってきたし、好きなの食べてね」
「うん。ありがとう!律樹の部屋に持ってけばいい?」
「お願いしてもいい?あとおにぎりと、これと」
いろんな食料が乗ったトレイを渡され、俺は階段を登って律樹の部屋に向かった。勿論扉は閉まっていて、いっちょ前に内鍵までかけてやがる。俺はドアを数回ノックした。
「律樹〜生きてるか〜」
返事はない。もう一度ノックをして、呼びかける。
「りっくーん、ケーキあるぞー、あとおにぎりと、りっくんの好きないちごミルク、パックのやつ」
「……」
「出てこないなら俺飲んじゃうよ。あっ、あと、律樹のクラスの子から預かった過去問、勝手に解いちゃうぞ。直書きしてやる、今ここで、俺頭良いからすぐ解けるよ。大問1の問1はねぇ……」
「……マジでうるさい、ちょっと黙ってくんない……」
「おお、出てきた」
顔を顰め、負のオーラを全面に出しながらだるだるのスウェット姿で律樹は部屋から出てきた。俺はお構いなしに、隙間をぬって律樹の部屋の中に入った。
「おい!勝手に入んなよ!」
「なんだ、思ったより元気そうじゃん。はい、これおばさんが食べろって」
「……なんでいんの」
「おばさんが呼んでくれたから」
「クソババア……!」
「こらっ!モデルなんだから、そんな口きいちゃいけません!」
俺は律樹に食料と過去問を渡し、ソファーに腰掛けた。座んなとか聞こえるが、無視だ無視。
「居座んなよ!早く帰れって、もういいだろ」
「おばさんからケーキ食べて行ってって言われたし!お前は客人にケーキを食わさず返す無礼者か!」
「ああもう……食べたら帰れよ……」
「もう、ケチだな」
俺はケーキにぷすっとフォークを刺した。チョコのやつ、大好き。おばさんは俺の好みを熟知している。
「おいしー!やっぱケーキはここのやつに限りますな」
「……」
無視。中2の時だってここまで露骨に無視される事はなかなか無かった。律樹はただベッドの上で俺に背を向けながら寝そべっている。こんな姿を見ていると、何がモデルだと言いたくなる。きっと、斎藤さんですら律樹のこんな自堕落な姿を見た事ないだろう。
「律樹、食べないの」
「……いい。食欲ない」
「ちゃんと食べないとー。お仕事出来なくなっちゃうよ」
俺は律樹の体を無理矢理起こし、ラップで包んであるおにぎりを律樹の口元まで運んだ。
「はい食べて」
「……いいって」
「あーん」
「……」
もっと抵抗するかと思ったら、意外にも律樹は俺の手元からそのままおにぎりをぱくっと食べてくれた。生きる気力無いです、みたいな顔で俺が享受するまま咀嚼している様は、なんだかちょっと可愛かった。
食欲ないと言ったのは虚勢だったのか、1つをぺろりと平らげてくれた。
「もう1個あるよ、はい」
俺は2つめを差し出したが、律樹はそれを受け取らずただ俺をじっと見つめていた。
「いらない?お腹いっぱい?」
「食べさせて」
「え?」
律樹はぱかっと口を開けた。クソ、気まぐれで天邪鬼で我儘な奴め。でもそれが可愛い。
さっきみたいに律樹の口元におにぎりを運ぶと、またゆっくりと咀嚼を始めた。
(あ……)
食べている顔をよく見ると、目元がうっすらと赤く腫れているのが分かった。泣いたのだろうか。
振られて学校を休むくらい、一人で泣いてしまうくらい、斎藤さんを大事に思っていたんだろうな。それをいいな、なんて思うのはお門違いだけれど、でも、叶わないその立ち位置を思って胸がぎゅっとなった。
律樹、俺はいなくならないよ。一番である努力だって続けるし、ぼさぼさの髪の毛だってなんとも思わないし、ご飯だって食べさせてあげる。
「……俺は、ずっと一緒だから」
今までずっと一緒だった。それは、これからだって。
「……仁」
「律樹と、ずっと一緒にいたい」
律樹は、律樹だけは、手放せそうもない。
「……なんで、そこまで、俺なの。手を取ってくれるやつは、他にもいるだろ」
そうかもしれない。でも、そうだとしても俺は律樹を諦められない。だって、
「律樹が好きだから」
俺はずっと一緒にいるのに、なんで俺の事選んでくれないんだろう。
おいおいマジかよ、嘘だろ、なんであいつあんな続くの、という野次の声が聞こえる。シャトルラン、あの音階が大ッキライになりそうだ。
俺は3年間の走り込みのおかげで、持久走の成績が格段に上がった。多分こんな帰宅部はいないだろう。結局陸上部の男子と最後に熾烈な争いを続け、平均値を大分上回って終了した。
正真正銘、最後の体力測定だ。
俺はここで1位にならないと、律樹と付き合えない。
1位になったところで律樹は本当に俺と付き合ってくれるのか?という微かな猜疑心は置いておくとして、俺は1種目1種目に命をかけてきた。
「ふんぬっ!!」
「おー……あー、えー……?」
「あー……えっ!?全然じゃん……!?」
ハンドボール投げ、25m。
「なんで!?練習の時は40はいってた……!」
「……軽いボール使ってたんじゃない?」
「ハッ……そうだ」
隣にいた小野間くんは、馬鹿だねえと呆れていた。
「俺を抜かせるといいなあ」
「抜かせるし……」
そしてわざわざ違うクラスから俺の結果を見に来た戸部くんは、完全に俺の事を甘く見ていた。
「戸部くんが体クッソ硬いの知ってるからな!長座体前屈で一気に差をつける」
「なんで知ってんの!」
戸部くんは本当に俺にちょっかいをかけに来ただけのようで、またニヤニヤと笑いながら自分のグループの所に戻って行った。
「戸部くん、楽しそうだよねえ」
「な。なんであんなテンション高いんだ?」
「そりゃあ……」
小野間くんはそう言ったっきり、急に思考を停止した。いや、停止したというか、めちゃくちゃに熟考しているのかもしれない。
「……仁くんがおもしろいからだよ」
「本当に言おうとした事それ?」
「まあまあ」
そんなこんなで最後の体力測定が終わった。
後日、体力測定の診断結果が配られ、俺は恐る恐るその紙を見た。そして、息を呑む。
「……」
「うわー、ほとんどA判定じゃん。凄いね仁くん」
「……った……」
「え?」
小野間くんが俺の診断表を覗き込んで、得点の高さに驚いていた。が、俺はそんな小野間くんの呟きなんか耳に入ってこなかった。
「……駄目だった!!!」
「え?」
「7位!!駄目だったッ!!!」
「……あー」
「……駄目だったぁ……」
俺は目に涙を浮かべた。俺の3年間とは。
「ま、まあ。頑張ってたよ、仁くん。7位だって凄いじゃん」
「意味ないもん!」
「意味ないって……」
「意味ないよ……1位じゃないと……」
この3年間だけじゃない。中学の時も、その前も、俺は結局1位になれた事がなかった。1位になれないと、律樹と付き合えないのに。
じゃあ、これが駄目だったら、俺、
(次は何をすればいいの?)
俺は、これで1位になったら次こそ律樹にちゃんと告白しようと思っていた。1位になるつもりでいたから、最後の告白にしようと思っていた。でも、無理だった。
どうすればいいんだろう。次は何を目指せばいいんだろう。どうすれば、律樹は振り向いてくれるんだろう。
__また、1から何かを頑張らないと。
そう思った途端、俺はとてつもない虚脱感に襲われた。無理かもしれない。
いや、無理なんて言っちゃ駄目だ。俺は律樹を諦めちゃ駄目で、俺の取り柄なんて諦めが悪い所しかなくて、だから律樹の隣に立つためには一番にならないといけないのに。
でも、頑張っても頑張っても無理だった。今までの努力だけでは、律樹と付き合う事は出来なかった。
「……」
あれ、俺ってなんのために頑張ってたんだろう。
その日の放課後、なんだかなんの気力も起きず、その場から動けずに自分の机に突っ伏していた。日直が閉め忘れた窓からは優しい風が流れ込み、ふんわりとカーテンが揺れた。西日が顔を射す。俺は目を細めた。その暖かさを感じていると、近くに気配を感じた。いつだってこの人は突然現れる。
「昼休みなんで屋上来なかったの?」
戸部くんは俺の横の席に座って、俺に声を掛けた。
「……察してよ」
「……ま、1位俺だったしね」
俺は窓に顔を向けたまま、背後から戸部くんの言葉を聞いた。
「和野くんのこと、どうすんの?」
「……」
どうすんのって、諦めないよ。
喉元まで出かかって、それはまた体の中に戻って行った。なんでか、言葉に出来なかった。
戸部くんはくつくつと笑う。俺はそれに反抗する気力すらも起きなかった。
「健気だよねえ、ほんと」
「……悪い?」
「ううん。可愛い」
可愛いって。
ああ、律樹にもそんなこと言われた事なかったのに。可愛い、どこが、なんにもなれなかったこんな俺の、一体どこが。
俺はくるっと顔を反対側に向け、戸部くんと目を合わせた。戸部くんは机に頬杖をつき、こちらを見ている。いつもの、ニヤニヤとした顔。行動も言葉も反応も読めない。
「仁くんは、ゲイなの?」
また、それ。
「……違う。ゲイじゃなくて、律樹が、好きなだけ……」
「それは、ゲイじゃないの?」
「違う、違うって」
なんでみんなそう思うんだろう。
なんでそれを言われる度に、俺は不安になるんだろう。
戸部くんはふっと笑って、言葉を続けた。
「確かめる?」
「なにを」
「仁くんがゲイなのか、そうじゃないのか」
「……は?」
俺は目を丸くして戸部くんを見た。言っている意味が、分からない。戸部くんは俺の顔をじっと見つめ、飄々と答える。
「俺と遊んでみてさ、無理じゃなかったらそれはもうノーマルじゃないよね」
遊ぶって、きっと、そういう事なのだろう。俺はなにも言えずに固まった。
「……」
「どう?」
「……なんで、だって、俺の事……タイプじゃないって」
「うん。タイプじゃないよ。でも好きになったから、仁くんの事」
「どうして」
「一生懸命で可愛いもん」
「……」
初めて告白された。男に、自分の事をゲイだと言う男に。でも、なにも嫌悪感が無かった。それよりも、自分の性的指向について考え、不安でいっぱいになった。
「おれ、……俺は、律樹が好きだから、そういう事は出来ない。それに、俺がゲイだって自覚したとして、それで、何になるの?俺は、ずっと律樹しか好きじゃない。これからも、ずっと。だから、別に知らなくてもいい」
「怖いの?自覚するのが」
「違う!怖くない、俺はずっと律樹が好きで、これからもずっと律樹が好きで、だから」
俺は机から立ち上がった。戸部くんから離れたかった。距離はとったのに、まるで心の奥までぐっと詰められているみたいで、それが怖かった。
戸部くんはその場に座ったまま、俺を目で射止める。
「じゃあ、なんでそんな震えてんの」
震えてなんかない。俺は自分の手を見た。開いても閉じてもぷるぷると震えていて、治まる気配はなかった。
「……やめ、やめて」
「どうせまたいろいろ考えてるんでしょ」
「……」
「純粋で真っ直ぐなのに、面倒くさいよねえ」
その通りだった。戸部くんの言葉は、もう俺の耳には入っていなかった。
怖かった。考えれば考えるほど、俺は怖くなってしまった。
「まあ俺は仁くんがそうだったら嬉しいけどね」
夕方のチャイムが鳴った。
気付いたら戸部くんはもうそこにいなくて、俺は一人空の教室に置き去りにされてしまった。
「進路希望調査票今日までだから、まだの人後で職員室に来いよー」
担任がそう言って教室を出て行った。
もうこの時期になるとしっかりと進路を決めている人の方がほとんどで、それぞれの勉強をしていた。そんな中で俺はずっと悩み続け、漸く自分の答えを出す事が出来た。ただ、それを提出する勇気が出ず、結局提出期限ギリギリの放課後になってしまった。
俺はその薄紙を手にし、職員室へ向かう事にした。
職員室の前にたどり着くと、入り口の近くに律樹の姿が見えて体が強張った。なんとかバレないように、と思って歩く速度を落としたが、こういう時に限って律樹は俺の事をすぐ見つけ、俺の側に近寄ってきた。
「仁もこれ?」
そう言ってぺらっと見せてきたのは、進路希望調査票だった。
「あ……うん」
俺はさっと紙を裏面にして、律樹に見えないようにした。
「モデルだけでやってくって言ったら、それはやめとけって母さんと喧嘩した」
律樹は朗らかに笑った。
なんとなく、律樹の部屋に行ったあの日から、憑き物が落ちたみたいに柔らかくなった気がする。
でも、俺はそうもいかなかった。憑き物、俺の方に移ったのかもしれない。
「そうなんだ。あ、早く職員室入らないと。閉め出されちゃうぞ」
俺は律樹と目も合わせず、足早に職員室に踏み込んだ。すると、律樹が俺の肩を掴んで引き止める。
「おい」
「っ……」
「おいって」
「な、なに」
律樹に腕を引っ張られ、職員室を出た。鼓動が早まり、俺の視線は忙しなく辺りを泳いだ。律樹は俺の前に立ち、俺を見据える。本当に、嫌になるくらい綺麗な人だ。
「どこ行くの」
「……職員室だって」
「ちげえよ。進路」
「……」
息が詰まりそうだった。呼吸の仕方さえも分からなくなった。
向き合わなければならないのは分かっている。進路のこと、家のこと、律樹のこと。でも、1つでも欠けてしまったらどんどん崩落していくような気がして、怖かった。
「なんで言えないの」
黙ったままの俺に痺れを切らせて、律樹は俺の手からその紙を奪った。
「あっ」
取り返そうと思った時には、もう遅かった。律樹は目を見開いて、事細かに書いてある羅列された文字を追う。
はく、と息が漏れたのはどっちのものなのか分からない。
「は……なんで、留学」
「……」
「お前、海外行くの?」
「……」
「……なんで、そんなんで、ずっと一緒とか」
「……」
「あれ、……嘘だったの?」
俺は拳に力を入れた。
嘘じゃない、って、言えなかった。
俺は俯いたまま、何も言えなかった。今、律樹がどんな顔をしているのかも分からない。怖くて、俯くしかなかった。
そして、律樹の通った声が俺の心臓に響く。
「仁、もういいよ」
ゆっくりと顔を上げた。夕日に背後を照らされている律樹の顔は、逆光でよく見えない。笑っているのだろうか、怒っているのだろうか。それとも、__悲しんでいるのだろうか。
「もう、いいから。もうさ、自由になってよ」
俺はまた、何も守れないんだろうか。
もう、諦めたほうがいいのかもしれない。
「りっくん、だいすき」
学校を出ると辺りは既に暗くなっていて、初夏の夜の匂いが俺を包んだ。
街灯がぼんやりと近所にある廃れた公園を照らす。水道の近くにはバケツがぽつんと置いてあり、そこには花火の残骸が集められていた。
律樹と花火をしたのが遠い記憶のように感じられる。パチパチと弾けて、それは火花とともに散っていった。
俺が初めて花火をした日。今でも鮮明に思い出せる。俺が、律樹を好きになった日だ。
その数ヶ月前にお母さんが亡くなって、俺はずっとずっと泣いていた。幼稚園に行ってもずっと中に篭ってお母さんの似顔絵を描いていた。思い出しては泣いて、また何かを思い出すかのように似顔絵を描いた。
だから、やっと笑えた日だった。やっと、心が動いた日だった。
その時笑っていた律樹が綺麗で眩しくて、俺はこれをずっと大切にしたいと思ったんだ。
家に帰るとお父さんが台所でご飯の準備をしていた。背中しか見えない。昔よりも幾分か痩せたような気がする。
「ただいま」
「おかえり、仁」
どれだけお父さんと喧嘩しても、行き帰りの挨拶だけは忘れなかった。俺が帰ってくる場所は、ここしかないから。
お父さんは料理をする手を止めて、こちらを振り返った。ずっと変わらない、俺に似た顔の、優しい笑顔。
俺はなんだか泣きたくなり、何も言わずにお父さんの側に寄った。
「……仁?どうした?」
お父さんはコンロの火を止めて、俺に向き合った。喧嘩してもお父さんはやっぱり俺のお父さんだった。ゆっくりと俺の言葉を待ってくれた。
「お父さん、俺、もう分からない。本当はお父さんの期待に応えたい。ちゃんと家の事も継ぎたいし、ちゃんと結婚して、お父さんに孫の顔見せてあげなきゃってのも分かってる。でも、俺、本当は……」
お父さんの顔を見たら泣いてしまいそうで、俯いた。晩御飯の匂いが心に染みて、なんだか堪らなく寂しくなってしまった。
お父さんは言葉に詰まっている俺を見て、優しく声を掛けた。
「本当は?」
喉が震える。きっと、ここからはまともに喋れない。目の奥が熱い。肺が不規則に揺れる。
「本当は、俺……どうしたいんだろう。もう、分からないよ。俺、律樹の事ずっと好き。好きだった。好きだったけど、分からないんだ。律樹が好きだったんじゃなくて、俺が、俺がゲイだったから、……俺の性的対象が男だったから、たまたま初めて出会ったのが律樹だったから、律樹が好きだったのかな。じゃあ、もしかしたら、律樹じゃなくても、よかったのかな。俺、律樹だけ、律樹だけって思ってたのに、どうしよう。俺が留学して、律樹の目の届かない所に行って、他の人を好きになっちゃったら、どうしよう」
「……仁」
「俺が、もしもゲイだとしたら、律樹に軽蔑されるかな。俺がもし、律樹じゃない人を好きになったら、律樹を好きだった事が嘘になって、この12年間の事も、全部無駄になるのかな。……お、俺がもしもゲイだったら、家族作れないから、もう、家の事も継げないかな。そしたら、お父さんも、俺の事、き、嫌いになっちゃうかな。俺、おれ……、ひっ、お父さん、お父さんも、りつ、律樹も、いなく、なったら、ひうっ、どうなるの、かな。俺、幸せに、なれるのかな……」
俺は顔を手で覆った。零れた涙は指の隙間を伝って床に吸い込まれていった。
ずっとずっと、全部が不安だった。もう昔みたいにただ明るく純粋には生きられない。俺は、俺達はもう成長してしまった。だからこんなにも苦しい。でも、若いから覚束ない。不安定さはいつしか俺を蝕む呪いになっていた。
俺は立っていられず、その場に崩れてしまった。涙が止まらない。我慢していたものが一気にあふれ出したようだった。
するとふっと体が持ち上げられ、温かい腕に支えられた。お父さんが、俺の事を抱きしめた。ずっとこの家を守ってくれた、安心する匂い。
「……仁、母さんが亡くなった時の事、覚えているか?」
俺はお父さんに抱きついたまま、こくりと頷いた。
「……苦しかったな。俺も茫然自失で、心が空っぽになったようだった。俺は母さんの事を、愛していたから」
最愛の妻を亡くなったお父さんの気持ちは、計り知れない。お母さんはほぼ即死で、お父さんは息を引き取る瞬間すら立ち会えなかった。お母さんに出会えたのは、全てが終わった頃だった。
「だから、自分の事ばかりで、仁が大泣きしているのにまともにあやす事も出来なかった」
大分昔で覚えていないが、確か、お父さんはかなり心を病んでいて、俺が泣く度に一緒になって泣いていた気がする。
「……そんな時に、律樹くんが、葬式に来てたの覚えているか?」
俺はお父さんの背中に回した手にぎゅっと力を込めた。
覚えている。忘れられるはずがなかった。
「火葬場の棺桶の前でボロボロに泣いているお前を抱きしめて、僕が守る、僕が守る、大丈夫、って、律樹くん言ってたな。5歳、たった5年しか生きていないのに、俺が掛けなければいけない言葉を、律樹くんはただただそう言って、仁を抱きしめていたんだ」
俺を守ってくれていたお母さんがいなくなった。悲しくて悲しくて、ずっと泣いていたら、次は律樹が俺を守るって言ってくれた。律樹はあの日から、俺が泣いている時には絶対俺の事を守ってくれた。
「それを見て、俺は『ああ、こんな大事にされている子を、俺が母さんの分までしっかり守り抜かないと』って思ったんだ。仁は、俺と母さんの宝物だ。だから、誰よりも幸せになってほしい。絶対に、幸せになってほしいんだ」
お父さんは肩口から顔を離して俺の顔を見た。なんで、お父さんも泣いてるんだろう。
「律樹くんの事を否定していたのは、お前が性的マイノリティーである事が嫌だったんじゃない。もしも、一般的ではない困難な道に進んだとして、仁がこの先悲しい思いをしてしまうかもしれないと思ったからだ。律樹くんが女の子と付き合ったり、仁が後ろ指を指されて笑われたりして、仁が傷付く姿を見たくなかったんだ」
お父さんは俺の頬に指を添わせ、涙を拭った。眉を下げて、笑っている。
「それだけなんだ。だから、仁が誰を好きになろうが、誰と結ばれようが、仁が幸せになってくれるんなら、俺はそれでいいんだ」
俺はまたぼろぼろと泣いた。せっかく拭ってくれた涙の跡も乾き切る前に。お父さんの優しさが、嬉しくって、苦しい。
「でも、もう、分かんないよ。俺、このまま律樹の事好きでい続けていいのかな。俺、律樹に好きになってもらいたいって思って、勉強も、運動も、全部全部頑張ったのに、1位になるって言ったのに、結局なんにも1位になれなかった。律樹はずっと女の子が好きだし、俺は多分、男の人が好きだし、律樹はこの先もずっと男の人を好きにならないだろうし、それなら、俺、……俺、もう、諦めた方がいいのかな。俺、男だったら、誰でもよかったのかな。もしも初めに隣にいたのが律樹じゃなくて、違う人だったら、俺……どうなってたのかな」
それが、何よりも怖かった。律樹だから好きになったんじゃなくて、俺がゲイだから律樹を好きになったんだとしたら、俺の今までの気持ちも、行動も、嘘になってしまうような気がした。そういう漠然とした不安が、堪らなく怖かった。
するとお父さんは俺の顔の前に右手を翳して、
「仁、すまん!」
強烈なデコピンを放った。
「いっ……たああああ!!」
「あのな、そんな事、どうでもいい!」
「へ……」
余りの衝撃におれの涙は止まった。最後に溜まった涙がひとつぽろっと零れて、それっきり、頬を伝う事はなかった。
「なにがどうであれ、お前が律樹くんをずっと好きでい続けた事に変わりはないだろう。勉強や運動で1位になれなくても、世界中の誰よりも仁が律樹くんの事を好きだっただろう。仁は、他の誰よりも律樹くんが好きだっただろう。それだけで十分じゃないか。もしもこうだったらとか、そんなの、考えるだけ無駄だ。お前にとって、律樹くんを好きでいる事が幸せなら、それでいいんだ」
「うん、うん……」
「お前は、自分にどんな苦しい事があってもずっと律樹くんの事が好きだっただろう。それが、幸せだったんだろう?それでいいじゃないか。重く考えるな。自分の今の気持ちに正直になればいいから。自分の一番やりたい事を、自分が一番続けたい事を、やればいいんだ。大丈夫、どうなっても仁は俺の一番大切な息子だ。嫌な事があったら、いつでもここに帰ってきて、また1から始めればいい。お前は、負けず嫌いで粘り強い事が長所だろう」
「うん、……そうだね、お父さん。そうだよ、俺、すっごく負けず嫌いで、諦め悪いんだ……」
「ほんと、誰に似たんだろうな」
お父さんは笑った。俺も笑って、もう一度お父さんの胸元に顔を埋めた。
「ありがとう、お父さん、大好き」
14.18歳、それはまるで手持ち花火のように
夏休みが始まった。
俺は、諦めていなかった。
みんみんと蝉の音が鳴り響く。じわじわとアスファルトから陽炎が漂い、空にはもくもくと入道雲が浮いている。
目が痛くなるくらい、青かった。
降水確率は0%らしい。
「こんにちはー!おばさん、律樹いる?」
「仁くんいらっしゃい!うん、2階にいるわよ……あら、それ花火?」
「うん、さっき買ってきた!律樹とやろうと思って」
「いいわねえ。後で私も混ぜて!」
「いいよー!また呼ぶね」
俺は律樹の家にいた。
律樹のお母さんと別れ、俺は階段を登った。
気持ちは凪いでいて、緊張はしなかった。
律樹と会うの、久しぶりだな。
扉を軽くノックする。
「律樹、俺だよ。開けてくれる?」
数秒後、直ぐにドアが開き、律樹が顔を出した。
撮影帰りと聞いていたが、律樹の見た目はいつも通りで、なんだか安心した。どんな律樹もいいけれど、やっぱりいつもの律樹が一番しっくりくる。
「……なに」
「中、入ってもいい?話したいこと、ある」
そう言うと、律樹は微かに唇に力を込め、扉を開けたまま部屋の中に戻って行った。入れ、という意味だろう。俺は律樹の後に続いて部屋の中に入った。
律樹が座った対面に腰をおろした。エアコンの風が苦手と言っていた。律樹は若干汗ばんでいて、開いた窓からは夏の風が吹き込んでいた。
俺は律樹を見つめる。律樹は、俺が机の上に置いた花火のパッケージを眺めていた。それだけで、律樹がなにを考えているか、どんな気持ちなのかくらいは分かってしまう。俺達は幼馴染で、ずっとずっと一緒だったから。
そして今日は、俺が律樹と向き合う、最後の日。
「律樹」
「……」
「俺、留学する。海外は行くよ。これは、俺が決めた事だから」
律樹は顔を上げた。目には不安の色が浮かんでいて、まるで幼い子どものようだった。
どれだけ大きくなっても、どれだけファインダー越しで格好をきめていても、律樹の滲み出る素直さや臆病さや優しは変わらなかった。その優しさで、俺の事を、ずっと守ってくれた。そんな律樹が、愛おしくてしょうがない。
俺はでも、と言葉を続ける。
「でも、律樹の事は、ずっと好き。絶対、ずっとずっと好き。諦めないから。律樹が大学生になっても、また違う子と付き合っても、俺の事忘れちゃっても、絶対諦めないから」
俺が男が好きとか、律樹と離れてしまうとか、律樹はストレートだとか、そんなのはもうどうでもよかった。俺は、律樹が好き。やっぱり、ずっと律樹が好きだった。卒業しても、大人になっても、おじいちゃんになっても。
「律樹、好きです。大好き。ずっと一緒だから」
さあっと風が吹き抜ける。
生温い風は、俺達の頬を撫でた。
12年間言い続けたこの言葉も、なんだか特別に感じる。
律樹の目を見ると、滲んでいた不安は消え、水の膜がうるっと漂っていた。そんな顔、できたんだ。律樹は溢れて落ちたみたいに、言葉を紡ぐ。
「もう、敵わないな」
「律樹」
「自由になってほしかったのは、本当。ずっとさ、……ずっと、俺に囚われてただろ、仁は。だから、もっと自由に生きてほしかった。俺じゃない人を見て、俺じゃない人に触れて、そんで……俺だけじゃないんだって事、知ってほしかった」
きっと、今までに律樹に言われたいろいろな言葉は、そういう意味が込められていたのだろう。囚われているなんて、そんなの。微塵も思いもしなかった。いまだってそうだ。俺は律樹を好きでいて、不自由だなんて1回も感じた事がない。
律樹は笑う。笑っているのに、なんだか泣きそうだ。
「でもさ、お前、すっげえ諦め悪いんだもん。俺が何言っても、何やっても、ずっと俺しか見てなくてさ。俺が他の人と付き合っても、勉強とか運動とかで1位を取れなくても。……いる?そんなやつ。幼稚園の頃から、高校3年生まで、ずっと同じ人を好きなやつなんて。俺、見た事ねえよ。全部全部、俺のためにって1位目指して、でも無理で、でも全然諦めなくて。……降参、すげーな、仁」
律樹は立ち上がり、俺に近付いた。そして、横に座る。俺に体を向け、しっかりと俺を見据えた。
「仁、俺も、好き。待たせてごめん。そして、ずっと好きでいてくれてありがとう。……俺の事、守ってくれて、ありがとう。俺のために、たくさん頑張ってくれて、ありがとう」
息が止まるようだった。開いた口が、ふるふると震える。言葉が上手に出ない。気が付けば俺は涙を流していた。今までで一番、優しくて青い涙。
「1位になれなくても、ずっと一番だった。ずっと、一番大切だった。仁、大好きだ」
そう言って、律樹は笑った。世界で一番綺麗な笑顔で。俺が好きになった、その笑顔で。
今までの思いや努力が報われたようだった。いや、真に報われたのだろう。1位になれなくても、俺は一番大切な人の一番になれたんだ。
心臓が震える。視界がバチバチと弾けて、まるであの時の花火みたいだ。宝石みたいで、キラキラしていて、一生忘れられない一瞬。
「りっくん、りっくん、大好き」
俺はぼろぼろと泣きながら律樹に抱きついた。律樹は優しく俺の背中を撫で、堪えきれんとばかりに笑った。
「はは、なんか、もう笑い止まんないや」
「なんで?」
「仁の愛が真っ直ぐすぎて。全部、長くて、重くて、健気でさあ。……笑えてきた」
そう言って、律樹は泣きながら笑った。
つられて、俺も涙を拭いながら笑う。
「笑ってくれ。俺の特別長い12年間、りっくんにプレゼントだ!」
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