空のアプリコット、シトラスで満たして

1

 あれ、次の授業って実験室じゃないっけ。


 一人の空間で、梅木柚(うめきゆず)は授業開始1分前にしてようやく気付いた。実験室じゃなくて、もしかして物理室だったかもしれない、と。

 こういう事は何度かあるから移動教室の時は慎重に行動していたつもりだけれど、柚にとってはいまいち実験室、物理室、生物室の違いが分かりにくい。既に広げてしまっていた教科書やノートを慌ててまとめて実験室を急いで飛び出したが、チャイムが鳴ってしまい遅刻が決定してしまった。

 ただでさえ黒板の書き写しが苦手なのに、ちょっとでも遅れてしまうと本当についていけなくなってしまう。勉強ができないけど学習意欲はある柚は、バタバタと足音を鳴らして物理室へと向かった。


 物理室の近くまで進むと教科担任の声が聞こえてきたので、やっぱりこっちだった!と、心の中で叫んだ。そして、そのままの勢いで教室の扉を開けた。


「ごめんなさいっ!実験室に行ってました!」


 クラス中の視線が柚に刺さった。ある者はまたかと呆れ、ある者は小声で笑い、教室が微かにざわついた。

 そして、柚の親友__と柚は思っている男、山吹杏一(やまぶききょういち)は勘弁してくれ、とでも言うように端正な顔を歪ませた。


「はいはい、そうだと思ったよ。早く席着いて」

「はいっ。教科書は、何ページですか?」

「まだ教科書は開いてないよ。もう少し待って」

「はい、分かりました!」


 担任は慣れたように柚に座るよう命じた。遅れたのに早とちりだな、と苦笑する。

 授業に遅れて登場したのにも関わらず、恥ずかしがるどころか柚の声はハキハキとしていて、とても明るかった。それを見た周りはまたくすくすと笑った。杏一はもうそんな柚の姿すら見たくなくて、ひたすらに黒板に向かっていた。


 当の本人__柚は、何故自分が笑われているのかが分からなかった。





2

 梅木柚は、文字を読む事が昔から苦手だった。

 授業を聞いている分には意味を理解出来るけど、黒板の文字をノートに書き写し続けていると、だんだんどこの行を書いているのかが分からなくなり、ぼやっとしてしまう。気を張っていれば大丈夫だけれど、焦っている時や頭が働いていない時なんかは、ろとる、ツとシの違いなどが分からなくなってしまう場合もある。漢字を読み取るのも苦手だ。だから、国語のテストや文章題などにいつも苦戦している。他の問題や教科は普通に点が取れるので、そこでギリギリ高校入試は受かる事が出来た。玉砕覚悟で挑んだ入試だったため、合格と知ったときは生まれてから一番喜んだ。


 この物理学の時間も、柚は必死にノートをとっていたが、教科担任がそれまでの文章に注釈を入れ出した時点で自分が書いている場所が分からなくなってしまい、その事で頭がいっぱいになってしまった。

 柚は大体の授業で時間内に板書が出来ない。

 授業をちゃんと受けたいという気持ちと、もう駄目だ!と言う気持ちが綯交ぜになり、最終的に教科書に載っているイラストをノートに真似て描く事に意識がいっていた。博士のイラスト、上手くかけた!と喜んでいるうちに、授業終了のチャイムが鳴ってしまった。

 ノートを見ると、たった6行余りのか弱い字が途中で力尽きていた。そのくせ、博士のイラストは完璧だった。


(またやっちゃった……!)


 何度も同じような失敗をしているのに、まるで成長できない。休み時間になり周りのクラスメイトが賑やかに教室に戻る中、柚は後悔と満足感により、また一人で教室に取り残されてしまった。





3

「きょうちゃん、ノート見せて」


 とてとて、という効果音が似合うような足取りで杏一に近寄った。

 柚は、唯一の友達で親友でもある杏一によくノートを借りて、授業内に書けなかった範囲の板書をノートに写させてもらっている。

 柚に頼まれた杏一は先程の授業同様、あからさまに嫌そうな顔をした。それを見て周りにいた杏一と一緒のグループの男子生徒がどっと笑った。


「梅ちゃん、またかよ!」

「個別指導してもらった方がいいんじゃないの?」

「杏一、そんな顔すんなって」

「俺のノート貸そうか?寝てたから俺もほぼ書いてねえけど!」


 彼らの会話はテンポが早くてついていけない。誰の言葉に、何と返せばいいかあわあわと考えていたら、杏一が無言でノートを差し出してきた。柚はそれに安心して微笑んだ。


「あ、ありがとう!すぐ、すぐ書くから、待ってね」

「……別に、明日でいい」


 そう言って、杏一は柚を寄せ付けないように、また自分のグループに戻って行った。外野から、冷たぁ〜、と揶揄われる声が聞こえる。


 柚は自分の席に着き、1度たりとも目が合わなかった杏一の背中を眺めた。


(きょうちゃん、最近全然喋ってくれないな)


 最近というか、かなり前から。


 柚と杏一は幼い頃はとても仲良しで、ずっと一緒に行動していた。昔から抜けていて危なかっかしかった柚の事を、杏一はずっと引っ張っていた。優しくてかっこいい杏一の事を柚は尊敬していたし、大好きだった。

 いや、今も大好きな事には変わらない。寧ろみんなより出来ない事が増えてしまった今、何でもそつなくこなす杏一の姿は、柚の目にはますますかっこよく映り、好きという感情が更に大きいものへと変わっていった。


 中学に入り思春期にさしあたった頃から、杏一は柚と距離を置くようになった。その時にはもう学年で浮いた存在になっていた柚は、唯一の友達である杏一を失いそうになったが、柚の意地とおせっかい焼きな杏一の母によってなんとか繋ぎ止めている。


 ぱらっとノートを広げると、綺麗にまとまったページに目が釘付けになった。何故か杏一の字だけはスラスラと読む事ができる。右肩上がりの、ちょっと細長いスマートな字は杏一を表しているようで、また胸がとくとくと音をたてた。





4

 一方、杏一は辟易としていた。


(他の人が周りにいる時は話しかけるなって何度も言ってるのに……)


 杏一にとって柚は鬱陶しい存在となっていた。

 家庭環境や生い立ちが複雑な柚の事を、幼い頃は自分の母とともに守っていたし、杏一自身も柚の底抜けに明るくていつも笑顔な所が大好きで、妹や弟のように可愛がっていた。

 しかし、それも小学生までだった。

 段々と周りの目を気にし始め、自分だけではなく自分に近しい者の評価まで自分のステータスだと思うようになってからは、柚を遠ざけるのは早かった。

 柚は、一般に言う普通とは少し違う。読む事が苦手なのはそうだけれど、空気が読めなかったり、家がとても貧乏だったり、高校生とは思えないほど純粋な考えを持っていたりする。そして、ずっと杏一の後をついていく。柚にしてみればこの高校のレベルは割に合わない気もするが、杏一と一緒の高校に通いたいという理由だけでここまで這い上がってきた。カルガモの子のようにぴったりとくっついてくる柚の事を昔は可愛がっていたが、今は一緒にいるのを誰かに見られると恥ずかしいとさえ思ってしまう。

 高校に入りたての頃、柚はやっぱり杏一と普段の行動をともにしようとしていた。俺の学校生活の安寧が破られる、と思った杏一は強い言葉を柚に投げつけ、やっと少しの間離れる事を決意してくれた柚と今の距離感が完成した。


 その日の午後には体育の授業があった。

 杏一はスポーツが得意なうえ、なまじ顔がいいためゲームをすればいろいろな方面から視線や歓声が飛んでくる。

 この日の競技はバレーで、サーブやアタックが決まる度に熱い声が上がった。男子のエリアから強烈な視線を感じたが、見ずとも柚のものだと分かり、顔をしかめた。


 俺以外の友達、さっさと作ってくれ!


 と、何度願ったか。杏一はありったけの思いをバレーボールに込めて思いっきり叩き込んだ。


 そして、授業終わり、更衣室で制服に着替えて外に出ようと思ったタイミングだった。


「きょうちゃん、ノートありがとう!今日のも、すっごく見やすかった!きょうちゃんは凄いね」


 えへへと笑って、柚は借りていたノートを杏一に手渡した。堂々と、周りの人がたくさんいる中で。


(明日でいいって言ったのに、よりにもよってなんてタイミングなんだ!!)


 と、一人憤慨した。そう、柚はこういう所があるから嫌なんだよ、と。しかし、周りがいる中でそんな事を言えるはずもなく、なんだかんだ柚に本気で怒る事の出来ない杏一は勢い良くその手からノートを奪って、無言で教室に帰って行った。

 

 いつも柚の前を走り去る杏一は、柚がどんな顔をして立ちすくんでいたかなんて知る由もなかった。





5

「じいちゃん、ただいまー」

「おう、おかえり柚」


 柚は古びたアパートの扉を開け部屋の中に入り、じいちゃんと呼ぶ男に声を掛けた。


 柚はこの男とふたり暮らしをしている。詳しい時期はあやふやで思い出せないが、小学生に

なった頃には既にこの生活が続いていた。


「今日のごはん、親子丼でええか」

「親子丼っ!やったあ!お肉久々だね!」

「安かったから奮発したぞぉ」


 そう言って、じいちゃん男は意気揚々と料理を始めた。

 梅木家の夜ご飯は早い。何故かと言うと、さっさと食べてさっさと寝てしまい、電気代を節約したいからだ。柚の家は貧乏だが、柚自身はそれを悲観した事が一度もない。それもひとえに明るくて頼もしいこの男のおかげかもしれない。


 出来上がった親子丼を幸せそうに噛みしめながら食べている時、じいちゃんが柚に話しかけてきた。


「柚、学校楽しいか?」


 柚が高校に通うのは学力の問題だけではなく、金銭的にも厳しかった。それでも、人並みの学習はさせてあげたいと思い、いろんな方面で工面しなんとか高校に通わせてあげたのはこの男だった。

 柚は頭もそこまで良くないし場の空気を読む事も苦手だが、お世話になっている人への礼儀は誰よりも大切にする子だった。


「……うんっ!楽しい、毎日楽しいよ!」

「そうか。それならよかった」


 じいちゃんには心配をかけたくなかった。嘘をついてはいけないと教えられてきたけれど、半分くらいの嘘ならついてもいいよね、と柚は開き直っていた。


 __本当は、最近学校はあまり楽しくない。


 授業にはついていけないし、友達は出来ないし、きょうちゃんもなんか変だし。


 杏一に避けられている事を「きょうちゃんがなんか変」で片付けてしまっている鈍感さは置いておくとして、授業についていけないのには非常に困っていた。

 成績が下がればじいちゃんが心配するし、でも毎回毎回杏一に頼ってもいられない。

 ここ最近柚は杏一に対する遠慮というものを覚えた。ノートを借りるたびに、息苦しそうな、むかむかした顔をするから。何故かその顔を見るのが嫌で、ノートを借りる回数も減ってしまった。そのため、書き写しきれないまま終わっているノートのページが増えてしまった。どうやって対策を講じるか考えなければいけない。幸いにも、学校の教師陣は柚の事を理解してくれているので、最悪先生に頼るか、という考えに至った。


 洗い物をしながら勉強の事をぼーっと考えていた時に、玄関のチャイムがなった。


「あ、じいちゃん、僕出るよ」


 近所付き合いもあまりないし宅配なんて滅多に頼まないので、誰だろうと思い玄関の扉を開けると、そこには杏一が立っていた。柚はわあっ!と声をあげた。


「きょうちゃんだ!どうしたの?」

「……これ、母さんから」

「えっ?わ、わ!おかずいっぱい!」


 山吹家は昔新築を建てている間だけ柚のアパートの近くに住んでいた。その時に、山吹家と梅木家の交流が始まった。柚の生い立ちを案じた杏一の母は、今でも我が子同然に柚の世話を焼いている。

 そんな母に杏一も逆らえないらしく、母はタッパーにつめたおかずを杏一に無理矢理持たせて、家を追い出した。杏一は、渋々と言った感じで柚にタッパーが入った紙袋を渡した。

 なんでそんな顔するんだろう?きょうちゃんの苦手な食べ物でも入っているのかな?と、これまたズレた考えを持ちながら柚はその紙袋を受け取った。杏一の母がくれるご飯は、家では並ばないようなものばかりで毎回楽しみにしている。


「きょうちゃん、ありがとう!おばさんも、ありがとう!あ、あのっ、家あがってく?えっと、お茶は出せるよ!あと、チラシとか、新聞もある!」


 一体チラシと新聞でどう遊んでいいんだよ、と杏一は心の中でツッコミを入れた。

 柚はケータイやゲーム機など、そういった現代的な物は何も所持していない。遊ぶと言ったら工作くらいしかないのだ。

 それでも柚の方は、理由がなんであれ杏一が久しぶりに家を訪ねてくれた事が嬉しくて嬉しくて、繋ぎ止めようと必死にいろいろ提案した。


「いや、いい。すぐ帰るから。柚も早く寝ろ」


 柚は杏一の言葉を聞き、あからさまにしゅん、とした。昔の柚であれば、ここでガンガンに反発の言葉を騒いでいただろうが、最近遠慮を覚えたので、何も言えずに口をぱくぱくさせた。


「あ……、えっと。お、おやすみなさい」


 寂しいけど、ここで抵抗しても杏一が応えてくれないのはやっと学習した。おずおずと別れの挨拶を口にし、扉を閉めようとした。


「あ、待て」


 杏一が柚の手を止めさせた。そしてカバンの中から数札のノートを取り出し、柚に渡した。


「どうせノートとれてないんだろ。貸してやるから、返すタイミングは考えろよ」


 柚はぱあっと顔を明るくさせた。

 きょうちゃんが優しくしてくれた!やっぱりきょうちゃんは優しい!

 その事で頭がいっぱいになり、返すタイミングどうこうの話なんて頭に入ってこなかった。きっとまた同じような失敗を繰り返すのだろう。


「うん、うんっ!ありがとう、きょうちゃん!」


 にこにこと笑って杏一の目を見ると、目があったタイミングでふと視線を外された。そしてすぐ後ろを向き、歩き出した。


「きょうちゃん!」


 そんな杏一を、大きな声で引き止めた。杏一は近所迷惑になるだろ!と、口に人差し指を持っていき、しぃ!と嗜めた。柚は口元をぱっと手で抑え、あの、と小さく口を開く。


「きょうちゃん、えっと、その」


 なかなか要件を言わない柚に痺れを切らしそうだったが、ここで言葉を挟むのもなんだか癪だったので、我慢強く待ってみた。でも、柚は結局何も言わなかった。


「……ごめん、なんでもない。おやすみなさい」


 微かに手を振って、ぱたんと扉が閉まった。


 杏一はなんなんだアイツ、とモヤモヤしつつも何が言いたかったのだろうと思考を巡らせたが、結局分からなかった。


 閉まった扉に背もたれをつき、柚は考えていた。自分は何が言いたかったのだろう?と。呼び止めたくせに、杏一を前にして言いたい事が全て消えてしまった事を不思議に感じていた。


 杏一と離れるようになってから、杏一の事も自分の事も分からない事が増えてしまった。





6

「ウメキ、ユズ?おんな?」

「いや、男。俺と同じ学年だから、お前の一個上。先輩だぞ」

「へえ。梅の木なのに柚?変わった名前」

「まあ、変わってるのは名前だけじゃないんだけどな」

「どういう事?変人なの」

「変人……っていうか、ちょっとみんなとはズレてるな」


 柚の隣のクラスの男子生徒、芝井秋穂(しばいあきほ)はオブラートに包んで柚の事を後輩に説明した。

 秋穂の後輩の男__松原楓(まつばらかえで)はへぇ、と呟いた。


 楓は図書委員の仕事のため、図書室のカウンターテーブルに乗り上げて行儀悪く座っていた。

 仕事の内容は、ペアの人と協力して教師達や図書委員おすすめの本の紹介ポップを作るというものだった。この学校の図書室は、昼と放課後は図書委員の学生が受付を回している。ペアというのは、そこで一緒に受付の仕事をする相手の事である。


 楓はこの1年1学期で既に素行不良と言われる生徒になっていた。なので、図書委員であるのにも関わらず、今まで一度も受付の仕事をした事がなかった。つまり、ずっとペアの人に仕事を任せっきりだった。

 流石に仕事して!と、図書の先生に泣きつかれ、渋々この仕事をやる事になった。


 ……のだが。


「ってか、そのセンパイって不良?ヤンキー?俺と一緒でよく仕事ほったらかすんでしょ。今日だってソイツが帰りそうだった所を先生が見つけて今連行してるって聞いたけど」


 なんと、そのペアの人もあまり仕事をしない人だった。秋穂はただの暇つぶしのためだけに呼んだ友人だったので流石に仕事は任せられない。


「あー……それは……」


 秋穂がその人物をなんと説明していいか考えていると、図書室に似つかわしくない音量で扉が開く音が聞こえた。


「ご、ごめんなさい!遅れました!」

「梅木くん!図書室は静かに、ね!」

「あっ、ごめんなさいっ……」


 図書室に入って早々、その男は謝罪の言葉しか口にしなかった。楓は図書の先生の言葉を聞き、ぴくっと反応してその人の方を見た。ウメキ、って言った。


「梅木くん、資料は全部松原くんに渡してるから、説明してもらって。分からない事があったら先生は管理室の方にいるし、声かけて」

「はいっ!頑張ります!」


 まるでお遊戯会のように元気いっぱいに返事をするその男を見て、楓は口をあんぐりと開けた。 


 え、この人がウメキユズ?想像とまるっきり違うじゃん。


 楓が想像していたのは、もっとめんどくさがりで図書室で寝るためだけに委員会に入るような不良だった。真逆も真逆、教師の言う事なら全部素直に聞きそうなちんちくりんの男だった。

 その男__梅木柚は、楓と秋穂に近寄って眉を下げた。


「あの、あの、ごめんなさい。お仕事あるの、忘れてました」

「あ、忘れてただけ?ほんと?」

「ほんと、ほんと、です」

「もしかして、今までの図書委員の仕事も?」


 柚は首をぶんぶんと縦に振った。嘘をついているようには見えない。楓は、この人とんでもなくうっかりさんなのでは?と思った。

 改めてこの男を見ると、とても年上の人に見えなかった。小さいし、ヒョロいのになんか丸いし、目もくりくりしていてまるで小動物のようだった。


「センパイ、みんなになんて呼ばれてんの?」

「え?なんだろう。えっと……ウメ、ちゃん?」

「梅ちゃん」


 似合いすぎだろ!と、楓はわははと笑った。それを見て、横にいた秋穂が苦笑いする。


「お前……年上なんだからちょっとは敬語使えよ。あと梅木サン、な。俺とは違って友達とかじゃないんだから」

「え、梅ちゃんは梅ちゃんって言われんのイヤ?」

「ううん、嫌じゃないよ」

「ね?」

「……」


 秋穂ははぁ、とため息をついた。この学校の問題児と異端児が出会ってしまった。面倒くさくなる前に出て行ってしまおうと思った。


「じゃ、楓も梅木もお仕事頑張れよ」

「えー、秋穂もう帰っちゃうの?」

「うるせえな。寧ろここまで付き合ってあげたのを感謝しろ。ってか俺も日直の仕事放り出してここ来てんだからな」

「ケチだなあ」


 そう言って、秋穂は帰って行った。

 視線を感じて柚の方を見ると、目が合ってしまった。どうやらずっと見られていたらしい。


「楓、くん?」

「うん。松原楓だよ。よろしくね」

「うん!よろしくお願いします!」


 柚はペコリと頭を下げた。本当に、どっちが先輩か分からないなと楓は笑った。


 楓は柚の事を知らなかったが、柚は楓の事をチラッと覚えていた。何故かと言うと入学式の時、新入生の中に一際目立つ綺麗な金髪の男がいたからだ。それこそ、今目の前に立っている松原楓だった。柚は文字を読む事は苦手だが、絵や人物を覚えるのは得意だった。


「僕、何すればいいのかな?」

「これ、先生と俺らのオススメの本リストとコメント。これをネットで調べて画像印刷して、この紙に貼り付けてあらすじとかオススメポイントとか書いて、後はいい感じにデコればいいんだって」

「分かった、ありがとう」


 柚は楓に渡された本のタイトルとコメントが羅列してある紙を読み始めた。


「……読んで、いただきたいです。私は、タイトルに惹かれて、なんとなくこの本を手に、取って読み、始めましたが、家出した少女とふさぎ、込んでしまった少年の、……私、は、タ……タイトルに、ひかれて、なんとなく、……んう?」

「……?」


 柚は繰り返し何度か同じ文章を読み続け、通常の人の倍以上の時間をかけて一人分のコメントを読み終えた。楓は感覚的におかしい、と感じた。何度も同じ所を読むし、区切る所もおかしかった。そこで楓はあ、と声を出した。同じような悩みを持つ友人が、昔いたのを思い出した。


「もしかして、読むの苦手?」

「あっ、う、うん。変だった?」

「いや?俺も漢字書くの超苦手だし、一緒一緒〜」


 なんともないと言うように柚に笑いかけると、柚も嬉しそうににぱっと笑った。そんな風に言ってくれる人は初めてだったのだ。


「楓くん、僕とお揃い?」

「うん、お揃いだね」

「えへへ、お揃い!」


 柚は自分と近い仲間が出来たのがよっぽど嬉しかったのか、頬を赤く染めた。

 そんな柚を、楓はまじまじと見つめる。え?めっちゃ可愛くない?と。


(いや、小さくてなんかふにふにしててピュアそうだからと言って、いくらなんでも年上の同性にそれはないだろ)


 気を改め、作業に取りかかると柚は意外な才能を発揮した。


「え、梅ちゃんめっちゃ絵うまいじゃん」

「そう、かな?ありがとう」

「うん。凄いね。……これは?」


 視線を落とすと、台紙にはポップにデザインされた本の紹介文やイラストが描いてあった。どうやら絵を描く才能はあるみたいだ。

 図書委員のおすすめの本が描いてある台紙を見ると、可愛らしい黄色い髪のキャラクターがいた。横には吹き出しが描かれていているので、きっとこの中に本の紹介文を描くのだろう。


「これはね、楓くん!うまくかけたよ」


 と、柚はまたにこにこと笑った。そして、その横に恐らく自分の似顔絵であろうイラストを描き出した。褒められて気分がいいのか、鼻歌まで歌っている。


(いやいや、やっぱり可愛すぎるな)


 もう観念した、と楓は柚の事をぼーっと見つめた。今までに会った事のないタイプ過ぎて、妙に落ち着いて感情を整理した。

 秋穂はこの男の事を「みんなとズレてる」と言っていた。たしかに、これはみんなと合わせるのは難しいかもしれない。だって、あまりにも純粋で可愛すぎる。


「梅ちゃん、可愛いね」

「可愛い?僕が?」

「うん。あ、褒めてるよ」

「褒めてるの?ありがとう!」


 褒められたらそんな事ない、じゃなくてありがとうだ、とかつてじいちゃんから教わった。だから、柚は素直に可愛いの言葉を受け入れた。


「可愛いねって、昔よく言われてたよ」

「はは、だろうね。家の人?友達?」

「きょうちゃん!僕の親友だよ」

「親友ね」

「うん。最近はね、全然言ってくれないけど……あっ、きょうちゃんって言うのはね、僕と一緒のクラスで、背が高くて、なんでも出来て、すっごいかっこいい人なんだよ!……あ、あ、楓くんも、一緒くらいかっこいいよ!」


 楓は思わず吹き出した。一生懸命"きょうちゃん"について語っている途中、楓への配慮も忘れずフォローを入れた柚がとても可愛かったので、笑ってしまった。


「ありがとう。そのきょうちゃんとは仲がいいんだ」

「うん!……うん、ん……」

「ん?仲良くないの?」

「……分かんない。きょうちゃん、今は昔と違うから」

「へえ」


 それは、なんとなく分かる気がする。柚に近ければ近い位置にいるほど、自分に対しても柚に対してもどうしようもない感情が湧いてくるのだろうな、と思った。


 "きょうちゃん"の話をした途端、今までずっと笑顔だった柚がしゅんとしてしまったのが気の毒で、楓はどうにかしてあげたいと思った。


「きょうちゃんに可愛いねって言ってもらいたい?」

「うん、うんっ」

「じゃあ、俺が手伝ってあげよっか」

「え?手伝うの?何を?」

「梅ちゃんが、きょうちゃんに可愛いねって言ってもらえるように、手伝ってあげるの」

「えっ!すごいっ!そんな事出来るの?」

「出来るよ。だって梅ちゃん、可愛いもんね」


 柚は楓の言葉に大きく頷き、手を握ってぶんぶんと振った。

 そして、その日は解散になった。晩ご飯の時間を守るために、柚はそそくさと帰ってしまった。

 18時のチャイムが鳴り、秋穂が図書室に入って来た。


「楓〜、俺は帰るぞ。終わったか?」

「いやあ、全然」

「まあ、相手も相手だしな。……どうだった?梅木」

「ヤバイねえ」

「あー、やっぱり?」

「可愛すぎてビビった。秋穂も仲良くなった方がいいよ、寿命伸びる」

「は?」





7

 ざあざあと強めの雨が降り出し、柚はコンビニの軒下で雨宿りをした。学校を出た時点ではまだ小雨だったけど、急に土砂降りになってしまったので柚も困ってしまった。あまり天気予報を見ない柚は、勿論傘など持っていなかった。


(どうしよう……。遅くなるとじいちゃん心配するし、雨、痛いけど走って帰ろうかな。どうせもう濡れてるし)


 柚はケータイを持っていないので、じいちゃんと連絡を取る手段を持っていない。前も見えないほどの雨だけど、走ればいずれは家に着くから走ればいいか、と思った。

 すると、柚の隣に人影が追加された。柚はその人物をふと見上げた。


「わ、きょうちゃん!あれ、サッカー部は?」

「……雨で早上がりになった」


 杏一だった。杏一は、柚の方をちらっと見てぶっきらぼうに答えた。


「そうなんだ。僕ね、委員会だったんだ。今日雨降るんだね。知らなかった」


 柚は雨に濡れてしまっていたが、杏一は一切濡れておらず涼しい顔をしていた。手には傘を持っていたので、やはりこの男は用意周到だった。

 杏一に対してずぶ濡れな自分を恥ずかしく思ってしまった柚は俯き、裾をぎゅっと掴んで水滴を絞った。

 せっかく杏一と一緒になれたが、ここにあまりいたくないと思ってしまい、走って帰ろうとした。杏一の事が大好きでずっと一緒にいたいと思うのに、最近は何故か自分と杏一を比較してしまう。前はこんな事なかったのにな、と柚もモヤモヤした。


「あの、あの、僕帰るね。きょうちゃん、風邪気をつけてね」


 そう言って、柚は1歩外に踏み出そうとしたら杏一に慌てて止められた。


「おい!それ、こっちのセリフだから」


 ぐいっと手を引かれ、また軒下まで連れ戻された。ああもう、とため息をつくと、杏一はカバンからタオルを取り出してがしがしと柚の体や頭を拭き出した。

 これだけ杏一と触れ合えた事は久しぶりだったので、柚は嬉しくてくふふと笑った。

 ひとしきり拭き終わると、杏一は傘をさして柚に一緒に入るように促した。


「入れ、帰るぞ」

「え、いい、いいの?」

「じいちゃんに、暗くなったら一人で出歩くなって言われてんだろ」


 確かに日は落ちかけているし、空は厚い雲に覆われていて辺りはかなり暗くなっている。あぶなかっかしさを昔から案じられている柚は、じいちゃんに口酸っぱく暗くなったら外に出るなと言われていた。それに実際、柚は帰るのが遅くて危ない目にあった事が何度かあった。

 自分の母には頭が上がらないが、お世話になった柚のじいちゃんに対しても悪い事は出来ない。


 杏一と一緒に帰れる事が嬉しくて、柚はまた笑った。


「うんっ!きょうちゃん、ありがとう!」


 柚は杏一がさす傘の中に入り、歩き出した。


 柚には、杏一の事があまり分からなかった。学校ではあまり近寄るなと言うくせに、外ではつんけんな態度をしつつもこうやって優しくしてくれる。柚にとってその理由はよく分からないけれど、それでも大好きな杏一と一緒にいられるのは何よりも嬉しかった。


「今日ね、僕、友達出来たんだよ」

「……友達?」


 杏一が訝しげに柚の顔を見た。こいつに、友達が?と。お世辞にも柚は友達がたくさん出来るタイプではない。柚に友達の話をさせると、きっと杏一の事しか出てこないだろう。

 杏一は失礼ながらも、何かドッキリとか罰ゲームとかの被害に合ってるのでは無いか、と勘繰ってしまった。


「図書委員で、楓くんって言うの。1年生の、入学式で髪の毛キラキラしてた人だよ」

「……もしかして、松原楓?」

「うん、そうだよ!きょうちゃんも知ってるんだ」


 杏一は頭を抱えた。松原楓と言えば、入学して早々校則違反を何連発もして問題児扱いされている有名人だった。学年は違うけどその存在は知っていた。ますます騙されているのではないかと疑ってしまった。


「楓くんね、僕の事いっぱい褒めてくれたよ!あとね、読むのも手伝ってくれて、凄く優しかった」


 思わず目を丸くした。柚のこの性質は、初見の人には興味を持たれるけど、手を差し伸べる人はあまりいなかった。まさか、素行不良で有名な松原楓がそんな事をするなんて。


「楓くん、かっこいいんだよ」


 そう言って嬉々として楓の事を喋る柚に対し、杏一はイライラしながら答えた。


「あっそ」


 杏一自身も何故ここまで腹が立つのか分からないが、うまく気持ちをコントロールする事か出来なかった。柚を前にすると、どうも感情的になってしまう。

 柚はそんな杏一には気付かず、そのまま話を続けた。


「でもやっぱり、きょうちゃんが世界で1番かっこいいね」


 杏一はぴしっと固まった。柚はまん丸い瞳を緩ませて頬を染めている。目が合うと、照れるように視線を逸らされた。杏一は口元を手で覆った。


「……あっそ」


 柚と一緒にいる時の杏一の心は、常に穏やかではないのだ。





8

「梅ちゃん、梅ちゃーん」


 お昼休み、ざわつく教室が一気に静かになった。問題児の松原楓が、あの梅木柚を呼んでいる。柚と楓に、クラスの視線は集中した。

 楓の声に気付いた柚は、とたとたと楓に駆け寄った。


「楓くん!どうしたの?……あ、もしかして、今日受付当番の日だった?あ、あ、ごめん!忘れてた!まに、間に合うかな、どうしよ」

「ああ、大丈夫大丈夫!落ち着いて、違うから」

「違うの?今日当番じゃないの?僕、大丈夫?」

「うん。大丈夫だから」

「よ、よかった……。ん?楓くんなんで来たの?」

「梅ちゃんとお昼ご飯一緒に食べようと思って」


 その会話を聞いていた周りの生徒が信じられないような目で二人を見た。


「え、え!うんっ、いいよー!えへ、あ、僕の席で食べる?」

「んー、屋上行く?」

「屋上!僕、屋上行ったことない!行ってもいいの?」

「うん、俺鍵持ってるし」


 秘密で借りパクしてるやつだけど、とは口にしなかった。

 柚は初めての屋上が嬉しいようで、ちょっと待って!とバタバタとお弁当の用意をして扉の前で待っていた楓の元まで飛んで行った。そんな柚を見て楓は微笑み、そういえば、と昨日の話を思い出した。


「……あ、きょうちゃんって、どれ?」

「え?きょうちゃん……んとね、窓際の席のとこの、かっこいい人だよ」

「ああ」


 それだけで十分分かるくらい、杏一は目立っていた。なんせ、顔が良かった。

 そこでばちっと目が合った杏一と楓は、ただただお互いを目視で査定し合っていた。


「きょうちゃんにもなにか用なの?」

「ううん。なんでもないよ。じゃ、行こっか」

「うんっ!」


 そして、2人は屋上に向かって行った。

 2人が去った後の教室はその話題で持ちきりだった。その姿を見て呆然としたのは、杏一も同じだった。


「松原楓と梅ちゃん?どういう接点?」

「面白い組合せにも程があるだろ。大丈夫かよ」

「杏一、野放しにしていいんか〜?」


 まさか、友達になったというのは本当なのか。柚は楓に随分懐いているようだったし、楓も柚の事を可愛がっているようだった。一体柚のどこにそんな気に入る要素があるんだよ。そして柚もそんなのにホイホイ着いて行くなよ、あんな失礼そうな奴。

 杏一は言葉に出来ない感情で満たされたが、クラスメイトの前でそんな事を言えるはずもなかった。


「別に、関係ないし」


 そう答える杏一を見て、周りはやれやれと肩をすくめた。全く素直じゃない。本当にコイツは顔だけだなと互いに苦笑いをした。





9

 初めて屋上に足を踏み入れた柚は、テンションの高まりを抑えきれないようだった。


「凄い、凄いね!学校って、こんなに高いんだね!晴れててよかったね、ピクニックみたい!」


 そう言って、柚はぐるぐると屋上を駆け回った。初めての場所に連れて行った犬のようで、楓は笑ってしまった。


「あんまり日に当たりすぎると暑いからね、影のとこで食べよ」

「うんっ!」


 扉横の壁にもたれ掛かり、2人はお昼ご飯を取り出した。楓は購買で買ったパンを取り出し袋を開けたが、横の柚のお弁当箱の中身を見てぎょっとした。


「え、それだけ?」

「ん?うん」

「え……おかずの段は?」

「これだけだよ?」

「えぇ……奇抜すぎない?」


 お弁当箱の中に詰まっていたのは、白米とその上にかかったふりかけのみだった。


「僕、全然料理できないし、節約しなきゃいけないから」

「毎日自分で用意してるの?」

「うん。じいちゃんは朝ご飯と夜ご飯作ってくれるし、お昼は僕が用意しなきゃいけないの」

「じいちゃん……」


 一般的な家庭だと、両親のどちらか、もしくは同居のおばあちゃんなどがご飯を用意してくれる所が多いはずだけど、じいちゃんとは。もしかしたら複雑な家庭かもしれないと思った。


「梅ちゃんと一緒に住んでるのは誰?」

「じいちゃんだけだよ。じいちゃんは凄いんだよ!年とっても働いてるし、料理できるし、僕を高校に行かせてくれたの」

「そうなんだ」

「だからね、僕のせいでお金いっぱい使う事になったから、節約しないのいけないの」


 そう言う柚は、1ミリたりとも不満気では無さそうだった。楓は柚を上から下までじっと観察したが、とても男子高校生とは思えない体の発達具合に、その上から誰かのお下がりであろう年季の入ったぶかぶかの制服を着ていた。改めて見ると、納得の行く所が多い。


「……お母さんと、お父さんは?聞いてもいい?」

「うん。僕もよく分かんないんだけど、駄目な事して、どっかに行っちゃったみたい」

「そっか……」


 そう言って、目の前の男はなんともないように明るく振る舞っているが、見た目にそぐわず重い事情を抱えているようだった。


「だからじいちゃんといるの。じいちゃんもね、僕の本当のおじいちゃんじゃないんだって」

「え?……梅ちゃんはそのじいちゃんの孫では無いって事?」

「うん。どういう関係なのかな。僕、家族の事は知らない事だらけなんだ」


 柚は笑っていたが、楓は何も笑えなかった。柚が手にしているお弁当箱も、途端に大事な物のように思えてきた。


「梅ちゃん、これあげる」

「キャラメル?いいの?」

「うん」

「わあ!ありがとう!」


 勿体無いから授業最後まで頑張ったら食べるね、と手にしたキャラメルを胸ポケットの中に大事そうにしまいこんだ。楓は、柚の事を堪らなく愛おしく感じた。





10

 お昼ご飯を食べ終わって教室に戻り、鞄の中にお弁当箱を入れた時、その鞄の後ろに掛かっている紙袋を見て柚はあっと思い出した。

 杏一が届けてくれたおかずが入っていたタッパーを返し忘れていた、と。

 周りの人がいない時に返せと言われていたので、隙を見計らっているうちにここまで来てしまった。多分、このままいくと忘れてしまって明日になってしまうと思った。


(今渡しちゃってもいいかな)


 渡すくらいならいいよね、とどこまでも学習が遅い柚だった。

 ご飯を食べ終わり、周りの友達と談笑している杏一の元に向かい、そこそこ大きい声で話しかけた。


「きょうちゃん、これありがとうっ!美味しかったよ!おばさんやっぱり料理上手だね、きょうちゃんも手伝ったの?」

「……!!」


 柚の発言を聞いて、杏一は顔を赤くさせわなわなと震えた。近くにいた女子達は興味深そうに2人に注目し、周りの杏一の友達はあちゃー、と口々に溢した。まだ物を返すだけならよかったのに、よりにもよってなんでそういう余計な事言っちゃうかな、と2人の行く先をはらはらとしながら見守った。もはや一種の恒例行事である。


 柚はタッパーの入った紙袋を差し出し言葉を待っていたが、ただ唇を噛み締めるだけで何も言わない杏一の事を不思議そうに見つめた。


「きょうちゃん?あ、あのね。ごめん、返すタイミング、分かんなかった」


 一方の杏一は乱暴に紙袋を奪い、じろっと柚の事を一睨みだけして柚を遠ざけた。


(だから、なんでこんなにみんないる時にそういう話をするんだよ!!)


 と、叫びたい気持ちでいっぱいだった。堪えただけマシだろう。

 そういう事をぺらぺらと喋るから、周りの女子から2人はどういう関係なの、とか、実は仲がいいんだ、とか、ねんごろな仲なんだね、とか根掘り葉掘り聞かれるんだ。本当に辞めてほしい。

 噂好きな女子軍の影響も相まって、杏一は柚と一緒にいる事を尚更嫌がっていた。


 もう何もリアクションをくれないと察知した柚はおずおずと自分の席に帰って行った。


(また怒らせちゃったかもしれない……!)


 そのままチャイムが鳴り、午後の授業が始まってしまった。教科書とノートを広げた柚は、杏一の事ばかりを考えていた。


 何が駄目なんだろう。僕と話すの嫌なのかな、でも外だと優しくしてくれるし、でもあれも我慢してるのかな、と考えれば考えるほど杏一の事が分からないし、だんだん自分に自信が無くなってしまった。


(僕、やっぱり迷惑かな。なんで迷惑なのか分からないけど、嫌な気持ちになるような事って、やっちゃ駄目だよね。嫌われちゃうと悲しいし)


 ただでさえついていけない授業は全く頭に入らず、ひたすら思考を巡らせていた。

 そして、その授業中にずっともやもやと考えていたのは杏一も一緒だった。


(なんで何度注意しても言う事を聞いてくれないんだよアイツは。もう嫌がらせにしか思えないだろ)


 真逆の2人だが、考えた末に辿り着いた所は一緒だった。


(頑張ってあんまり話しかけないようにしよう)

(何があっても絶対に反応しないようにしよう)


 平行線の2人は、この状況で交わる事は無かった。





11

 2人がお互い心の中で誓いを立てて1週間が経った。

 柚は決意した通り、一言も杏一に話しかけなかった。ノートも毎時間死ぬ物狂いで書き写している。ほぼ内容は頭に入っていないので、授業中に当てられても頓珍漢な回答をする事が多く、それもまたクラスのみんなに笑われた。


 いつも明るくて空気の読めない柚だが、悩む時は悩むしストレスが溜まる時は溜まる。

 今までこれ程長い間杏一に話しかけなかった事などなかったので、感情が爆発しそうだった。出来る事なら、すぐに近寄って抱き着いて今まで離れていた分の杏一要素を補給したい。でも柚は一人で決めた事を律儀に守っていた。

 しかし、ここでうっかりしていたのが、期限を決めなかった事だった。いつまでこんな戦いを続けていいか分からず、もしかしたら一生このままかも……と、一人で勝手に絶望しては、もしかしたらきょうちゃんから話しかけてくる日が来るかもしれない!と感情のアップダウンを繰り返していた。


 そして杏一の方には平和な日常がやって来て、心穏やかに学校生活が過ごせる……はずだった。

 

 1週間も柚が話しかけて来ない事に、自分でも驚くほどイライラとしていた。それと同時に、ちゃんと授業のノート取れているのか、と不安になり、自分からノートを貸そうか迷ったが、また返すタイミングで揉めたくないと思って話しかけられないでいた。


 2人は全く気付かないが、クラスのみんなも今回はどんな結末になるんだ、とちょっとしたドラマのように2人の様子を見届けていた。


 お昼の時間になり、柚は教室を出て行った。

 初めて楓と屋上でご飯を食べた日から、同じ場所でお昼を過ごす事が柚の日課となっていった。柚の唯一の感情の捌け口である楓の事を、後輩でありながらお兄ちゃんのように慕うようになったのだ。


「僕、もうきょうちゃんと喋れないかな。死ぬまでこうだったら、どうしよう……」

「何言ってんの!もう話しかけちゃえばいいじゃん。別に誰にも止められてないでしょ」

「でも、きょうちゃん、僕が話しかけたらまた嫌な顔するかもしれないよ」

「はあ……」


 純粋でなんでも言う事を聞くのに、きょうちゃんに対しては大分いろいろ考えるのだな、と楓は呆れたように柚を見た。


「こんなんじゃ、きょうちゃんに可愛いって言ってもらえない……」

「あー……。きっかけがあったら喋りやすいんじゃない?何かプレゼントするとか」

「プレゼント?」

「そ。きょうちゃんは何が好きなの?」

「んとね、んん、あっ、きょうちゃんね、甘いものが好きだよ」

「それだ!」


 珍しくウジウジしている柚をどうにか励まそうと、楓はある提案をした。


「お菓子作ってあげれば?きょうちゃんも絶対喜ぶよ」

「え!え!無理だよ!僕、お菓子なんて作れないよ!」

「大丈夫大丈夫、クッキーくらいなら簡単に作れるって!クッキー作って渡そうよ!」

「でも……でも、クッキー渡すと、僕、可愛いって言われるの?」

「言われるでしょ〜。お菓子作ってる女の子とか、可愛いでしょ?身近な人が一生懸命自分のためにお菓子作ってくれたら、超可愛くない?」

「ん、そう、なのかな?うーん、そうかも……?」

「クッキーあげて、喜んで食べてくれるきょうちゃん、想像してみてよ」


 素直な柚は言われるがまま想像してみた。

 もう随分自分に見せてくれなくなった杏一の笑顔を思い出して、柚は決心した。


「やる、僕、クッキー作りたい!」

「よし!じゃあレシピ探そっか」


 そしてその日は2人で図書室に行き、一緒にお菓子のレシピ本を探した。





12

「ごめん杏一、これ一緒に返してくんね?」

「ちゃっかりしてんな。まあいいけど」

「サンキュ!図書の先生に代理って言っといて!」


 テスト期間の放課後、部活が無い杏一は借りていた本をそろそろ図書室に返そうと思った。すると、杏一の友達がついでにと本を追加してきた。

 しかしこれは態とタイミングを図ってのことだった。

 2人の関係に対して「さっさとどうにかなってくれ!」とやきもきしている杏一の周りが、どうにかして2人が喋るきっかけを与えたいと思って起こした行動だった。今日の受付当番が柚である事はすでにサーチ済みだった。杏一の友人一行は無事事が進みますように、と願うばかりだった。

 しかし、柚の受付当番のペアがあの松原楓であるという事までは分からなかったらしい。


 そうとも知らず図書室まで来た杏一は、空の受付カウンターを前にしてあたりを見回した。

 この受付の制度は割と緩いので、人によっては席を空けて別の場所で本を読んだり、本棚の整理をしたりする人も多い。どこかに図書委員はいないのかと思い奥へ進むと、柚がテーブルに座ってテスト勉強をしていた。


 正直、げっ、と思ってしまった。そういえば柚、図書委員だったな。じゃあコイツに対応してもらうしかないじゃん。なんとなく気まずい。と、いろいろ考え仕方なく柚に話しかけようとした時だった。カウンターの位置からだと本棚に隠れて見えなかったが、柚の隣には楓がいる事が分かった。

 杏一はその場で固まり、2人の光景を眺めるしかなかった。


「なんで、これ……違うの?」

「ん?……梅ちゃん、これbとdごちゃごちゃになってるよ」

「え?……あっ!そうだね、ありがとう」

「多分教科書で取り上げられた内容しか出ないからね、落ち着いて考えればいいよ」

「うん、うん、ありがとう」


 恐らく、柚が解いた英語のプリントを楓が丸付けしていた。

 柚は、年下の男に勉強を教えてもらっているのに、アドバイスを素直に聞き入れていた。


 杏一は本棚の影から2人を見て、小学生の頃を思い出していた。昔、杏一もあんなふうにして柚の宿題をよく手伝っていた。

 国語の宿題で、なかなか文章問題を読み進められない柚に対し、杏一は音読をしてあげていた。柚自身は自分の事を勉強ができない、と評価しているが、地頭は悪くなかった。杏一が物語や問題文を読み出した途端に止まっていた柚の手が動き、空白だったら回答欄が埋まり出した。


『きょうちゃんはすごいね!きょうちゃんが読むと、答えが出てくるんだよ。魔法みたいだね』

『俺、ただ読んだだけだよ』

『ううん、きょうちゃんだから分かるんだよ。じいちゃんが読んでも、こんなすぐに答え出ないもん』

『そうなんだ。じゃあ俺達、相性ぴったりだね』

『うん、うんっ!相性、ぴったり、なんだねっ!』


 そう言って、柚は目を輝かせた。




 何が、相性ぴったりだよ。


(俺が手伝わなくても、勉強出来てんじゃん)


 __俺が、横にいなくても。




 杏一は受付カウンターに借りていた本を置き、そのまま静かに図書室を去った。





13

(……よし、よしっ!できた!一人でできた!)


 テスト期間が終わり、柚はやっとクッキー作りに取りかかる事が出来た。

 初めてのお菓子作りは、失敗と疑問の連続だった。楓は簡単に作れると言っていたが、お菓子作りどころかまともな料理もやった事のない柚にとっては頭を悩ますほど難しかった。


 出来上がったクッキーを見ると、お世辞にも上手とは言えない。見る人によっては失敗作と間違うだろう。型で抜きとらず手で形成した上、焼くと生地が膨らむ事を知らなかったため、形はぐちゃぐちゃだった。その上に描かれたアイシングの絵が、少し焦げたクッキーと対比して面白い。

 それでも、初めて自分の一人の力で作ったクッキーに、柚は満足していた。


 柚はまず初めにレシピ探しを手伝ってくれた楓にお礼としてプレゼントした。

 お昼休みの時間になり、屋上まで待てなかった柚は楓が教室に迎えに来てくれた1秒後にはもう渡していた。


「楓くんっ!見て、見て!あのね、僕一人で作ったんだよ!はい、どうぞ!」

「え?……うわあ!凄いじゃん!梅ちゃん、頑張ったね!偉い!」

「うん、うんっ!えへへっ」


 受け取った楓は、緩む頬を抑える事が出来なかった。


 だって、すっごいクッキーぼろぼろなのに大量に詰め込まれている。しかも1個1個デコレーションもしてある。おまけにちゃんとラッピングもしてあるし、クッキー作りのどこに怪我する要素があったのか分からないが、指が絆創膏だらけだった。


 こんなの、可愛いに決まっている!100点!


 と、兄……いや、もはや父のように楓は柚の頭を撫でて褒めちぎった。

 柚も、楓から言ってほしい褒め言葉を全部言ってもらえ、すこぶる喜んでいた。


 いつ食べようかな、お昼ご飯食べてからでいいよ、そんな早く食べると勿体無いでしょ、お家帰って食べると夜ご飯食べられなくなっちゃうよ、俺そんな少食じゃないよ、と2人は賑やかに会話しながら屋上に向かって行った。


 わぁ、楽しそー……と、2人の会話を1番近くで聞いていたクラスの学級委員の男は、もはや思考を放棄していた。

 クラスの生徒達は、気の利いた言葉も空気を誤魔化す話題もなにも思いつかず、その場にはなんとも言えない空気が漂っていた。

 とある女子生徒はメッセージアプリで『これ、修羅場になるのでは』と横にいた友達にトークを送った。

 委員長は、恐る恐る杏一の方をちらっと振り向いた。


「……………………」


 ヒイッ!っと声を上げ、すぐさま目の前のお弁当に向き合った。

 だって、怖すぎる。オーラがもう、違う。あまりに恐ろしいのでよく顔も見れなかった。

 お通夜みたいな空気の中、委員長はご飯をかきこみただただ祈るしかなかった。そして、それは他のクラスのみんなも同じ。みんな一同にこう思った。


(早くどうにかなってくれ……!!)


 この教室に、いつもより長い昼休みが始まった。





14

「そっか。じゃあ、ちょっと難しかったかもね」

「うん。よねつ、って、僕初めて使ったよ。何か分かんなくて説明書読んだんだけど、それも難しくて、いっぱい時間かかったんだ」


 実に涙ぐましい光景だ。楓はそれを想像して心臓が痛くなり、胸を抑えた。


「今度は一緒に作ろうね」

「うんっ!」


 そして楓はそういえば、と柚に質問した。


「きょうちゃんには可愛いって言ってもらえた?」

「ん、まだ渡してないよ?」

「え?」

「まだ渡してないよ」

「……え」

「ま、まだ、わ、渡してないよ……?」

「ああごめん……ちゃんと聞こえてるよ……」


 柚は鞄から杏一用のクッキーを取り出し、楓にそれを見せた。

 楓は天を仰いだ。


 だから、アイツあんなヤバイ顔で俺の事見てたのか!いや、一番最初に俺にくれたのはめちゃくちゃ嬉しいけど!!


 2人の複雑すぎる関係をなんとなく理解している楓は、あーーーと唸った。


 何も分かっていない柚はそんな楓を見て、わたわたと心配しだした。


「え、え、だめ、だめかな?だめだったの?どうしたの?」

「いや……駄目じゃないけど……。多分、きょうちゃんは一番最初にプレゼントしてほしかったんじゃない?そういう顔してたよ」

「え?そうなの?そんなの分かるの?……んぅ、う?きょうちゃん、なんで僕がクッキープレゼントしようとしてるの知ってるの!?なんで!」


 内緒にしてたのに!と柚は嘆いた。

 あんなに教室前で一人で頑張ったよ!と騒いでおきながら、何を!ほんと、そういうとこ〜〜〜!と、楓の方も嘆いた。


「俺、てっきりもうきょうちゃんに渡したんだと思ってたよ」

「ま、まだ渡せてないよ」

「なんで?」

「だ、だって」


 柚は俯いて、ぼそっと呟いた。


「こわ、怖いもん……」


 そう言って、手にしていたクッキーの袋をぎゅっと握りしめた。

 きっと、怖いというのは杏一本人に対して、というより杏一に拒絶される事だろう。

 柚の心労を考え、楓ははぁ、とため息をついた。


「怖いのは分かるよ。でも、梅ちゃん、きょうちゃんのためにクッキー作ったんでしょ」

「……うん」

「俺にくれるのは勿論嬉しいんだけど、きょうちゃんにもちゃんとあげなきゃ。無駄になっちゃうよ」

「……ん」

「きょうちゃんに可愛いって言われたいでしょ?」

「……うん、うんっ」

「じゃあ、ご飯食べたら早く教室に戻ってきょうちゃんに渡そっか。俺も着いていってあげるし」

「うん!」


 楓の言葉により決意を固めた柚は顔を上げ、大きく頷いた。

 楓はそんな柚を見て、小さい子を一人でおつかいに行かせるアレのようだな、と少し涙を流しそうになった。





15

 柚達が教室に帰ると、やっといつもの雰囲気を取り戻したらしく、いつも通り賑わっていた。

 しかし、普段は周りの友達と席を囲んで雑談しているはずの杏一が一人で席に着いていた。体調悪いのかな?と心配しつつも、柚は杏一の元まで歩いて行った。教室の扉から顔を出す楓の頑張れ!という声が聞こえてきて、小さく頷いた。


 杏一は、頬杖をついて窓の外を眺めていた。クッキーを自分の背に隠した柚は、震える声で杏一に話しかけた。


「あっ、あのっ!きょうちゃんっ!」


 今正に頭の中に描いていた人物の声が聞こえて、杏一は勢い良く振り返った。

 緊張により声量のコントールが全く出来なかった柚の声は教室の隅まで行き届き、クラス中の視線を集めた。おい、とか、ねえ、とか2人を心配する声が聞こえる。

 柚はもう杏一しか見えていなかった。杏一に話しかけるのは、2週間ぶりだった。


「きょうちゃん、えっと、あの……これ、プ、プレゼント!ぼく、僕の、手作りなの!」


 言葉に詰まらせ、顔を真っ赤にしながら杏一にクッキーの詰まった袋を差し出した。

 クラス中の人は、よかった!よくやったぞ梅ちゃん!と安堵し、声をもらす者もいた。しかし、よかったなどと思っているのは、杏一がどれだけ拗らせているのかを理解していないからだった。

 杏一は俯いて拳を握りしめた。


「……ねぇ」

「あっ、あのっ、形ヘン……変、だけどっ、味は多分大丈夫だから!いっ、いっぱい、作ったんだよ、きょうちゃんに、あの、だから、」


 スッとクッキーを受け取ってくれなかった杏一を前にどうしようもない程不安になり、柚は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。クッキーを持った手がぷるぷると震える。

 もうひと押し、と思って1歩前に踏み出した瞬間だった。


 バンッ!!と、柚が差し出したクッキーが吹き飛ばされた。__誰でもない、杏一の手によって。


「だから!いらねえって!!」


 柚は手から落ちていくクッキーを目で追った。まるでスローモーションのようにその光景を見ていた。よく焼けたクッキーが床と接触して、ぐしゃっと音がした。

 何が起きたか分からず、ただ唖然とするばかりだった。数秒後、遅れて心臓がドッドッと速度を増した。


「あ……」


 杏一は、自分が起こした行動だというのにも関わらず、何も信じられなくて固まってしまった。


 周りの人と、柚の顔を見て苦しそうに顔を歪め、杏一は教室を駆け出した。

 止められる者は、この空間にいなかった。


 事の顛末を見ていた楓は舌打ちをし、教室に入って柚に駆け寄った。泣いていないかな、と柚の顔を覗き込んだが、以外にも平静とした顔をしていた。……いや、きっと感情が追いついていないだけだ。呼吸が浅くなっている。


 そこでチャイムが鳴ってしまい、楓は教室から出ていくしかなかった。

 最悪な空気の中、授業を受ける合間にクラスメイトはちらちらと柚を盗み見したが、表情も手も何もかもぴくりとも動いていなかった。

 そして、杏一の机を見る。案外真面目な杏一は1度たりとも授業をサボる事は無かった。


 今は、悲しいほどがらんどうだった。





16

 杏一は、死ぬ物狂いで走って自室に向かった。

 部屋の扉を勢い良く開け、ベッドに深く深く沈み込んだ。


 授業と部活をサボった事、最悪な目立ち方をした事、そして、柚を傷付けてしまった事。全て自責の念に駆られて涙が出そうだった。

 あの時の杏一は頭が真っ白になり、もはやいつも気にしていた周りの目というものよりも、自分の幼稚すぎる感情が勝ってしまった。


 そんな、松原楓にあげるために出来たおこぼれなんていらない。あんな顔して松原楓にあげていた物なんて欲しくない。


 柚の事を思い出す度に腹が立って、でも苦しいほど悲しくて仕方無かった。それが何故なのか、杏一にも分からない。


(なんで、俺は、なんで……)


 俺は、なんで。


 その先の言葉を素直に認められるのなら、きっとこんな事にはならなかったはずだ。

 自分の事も、柚の事も何もかも分からなくて、杏一はシーツをぎゅっと握りしめた。


「ゆず、……柚」


 その名前を口にした途端、心の中の弱い所が解けていくようで唇を震わせた。


「柚……」


 3回、たった3回名前を呼んだだけで、どうしようもないほど切なくなって涙が溢れた。


(もう嫌だ、最悪だ。俺も、柚も、クラスのみんなも、全部無くなればいいのに__)


 意識が暗い所を彷徨い始めた時、玄関のインターホンが鳴った。





17

 1度はインターホンを無視したが、続けて何度も鳴らされたので、状況も状況なだけあり、杏一は若干キレながら扉を乱暴に開けた。

 そして、そこに立っている人物を見て目を見開いた。


「……柚……」


 柚は俯いていて顔が見えなかった。杏一はこの場に柚がいる事に驚きを隠せなかったが、驚きの次に怒りが襲った。


「お前っ……暗くなったら外出歩くなって言われてんだろ!何かあったらどうすんだよ!!」

「……ごめんなさい……」


 柚はぷるぷると震え、小さい声で謝罪した。

 そして、背後からそっと何かを取り出した。


「!」


 それは、杏一が投げ捨ててしまったクッキーの袋だった。


 杏一は何も言えず、柚を見た。柚はばっと顔を上げ、声を振り絞って必死に杏一に縋った。


「これ、これ……きょうちゃん、きょうちゃんに、作ったやつで、きょうちゃんに、あげたくて、」


 柚は手にしていたクッキーの袋を杏一の胸元に伸ばした。杏一は固まり、動けなかった。また受け取ってくれなかった、と思った柚は、瞳からさめざめと涙を落とした。そして、声を詰まらせながら下手くそに言葉を紡いだ。


「も、もっと、クッキー、上手だったらよかった?僕が、ば、ばかじゃなかったらよかった?空気、読めたらよかった?びん、貧乏じゃなかったら、よかっ、よかった?」


 あんなに怒った杏一を見た事がなかったので、柚はもう杏一に嫌われたと思っていた。そしてその原因は、自分が周りからさんざん言われてきた事にあるのだろうと思った。

 馬鹿、空気読めない、貧乏。気にしていない素振りをしていただけで、柚はそんな自分がずっとずっと嫌だった。

 でも、そんな柚を昔から肯定してくれていたのは、目の前にいる男__杏一だった。


「クッキー、もっとキレイなのがよかったら、お、お小遣い、ぜんぶ使ったから、来月まで待って!もっといっぱい、上手なの作るから!勉強、勉強も、も、もっと頑張るし、い、嫌、嫌なら、もう、きょうちゃんに喋りかけないようにするから……」

 

 涙が溢れて止まらなかった。これが最後の会話かもしれない、と思うと悲しくて悲しくてしょうがなかった。

 それでも、喋らなくなっても、柚の中で杏一は一番大事な人に変わりない。


 杏一は、涙を流す柚の瞳を見た。

 そこに映りこんでいたのは、歪んだ自分の姿だった。


 __頼むから、もうそれ以上、喋らないで。




「……僕の事、嫌いにならないで……」




 柚は最後にごめんなさい、と一言言い、嗚咽を上げた。

 

「ああ……」


 杏一は何も言わず、柚を抱きしめていた。

 苦しくて、悲しくて、悔しくて、でも目の前の存在が愛おしすぎてどうにかなってしまいそうだった。

 気付けば杏一も柚と同じようにぼろぼろと涙を流し、柚の肩に顔を埋めていた。


「違う、謝るのは俺の方だ」


 あれだけ素直に出てこなかった言葉が、今ではなんのしがらみも無しに口からついて出てきた。


「……俺、本っ当ダサすぎ……。……柚、ずっと、ごめん。俺が情けなくてかっこ悪いやつだから、柚にいっぱい嫌な思いさせた。柚は何も変じゃないのに、周りの目ばっか気にして……」


 柚は静かに杏一の言葉を聞き、そっと背中に手を回した。その手のひらの温かさに、杏一はまた涙を零す。


「やっぱ駄目だ、俺、柚の事嫌いになんかなれない。柚、柚、ごめん……」


 ぎゅっと腕に力を込めた。

 こんなに小さい体なのに、心が強いのは柚の方だった。

 柚はしゃくりあげながら笑う。


「きょうちゃんはかっこ悪くないよ。一番かっこいいんだよ」


 柚は、どこまでも懐が広かった。まるで、杏一の醜態など無かったかのように振る舞う。


「そんな事ない……俺……」


 杏一は、柚の言葉がにわかには信じられずに否定した。柚はそんな杏一を見上げ、小さな手で涙を拭ってあげた。


「きょうちゃん、褒められたらそんな事ないじゃなくて、『ありがとう』って言うんだよ!」


 昔からの、じいちゃんの言いつけ。これは、杏一も一緒にじいちゃんから習った事だった。

 柚の優しさに、杏一は今までの沈んだ顔を改め、ふっと広角を上げた。


「そうだな……ありがとう」


 久しぶりの、柚に向けた杏一の笑顔だった。

 キラキラしていて、何よりも素敵で、一番かっこいい。

 嬉しくて嬉しくて、柚は思わず背伸びをして杏一の頬にキスを落とした。


「へ……」


 柚は真っ白い頬を真っ赤に染め、にんまりと口を開いた。


「きょうちゃん、大好き!」





18

 ざわざわと。それはもう面白いくらいに、翌日の教室は2人の話題でもちきりだった。


 二人仲良く並んで教室に入ってきた姿を見たクラスメイトは、一斉に祝福した。

 柚はにこにこと照れながら、杏一はもうやめてくれ、と顔を真っ赤にしながらみんなに囲われた。


「やーっと反抗期終わったか」

「梅ちゃんの事待たせすぎだろ」

「梅ちゃん、よかったね」

「杏一はもはやヘタレ」

「顔が良くてよかったな」

「梅ちゃんの方がよっぽど大人」


 と、8割型杏一に対する悪口だったが、杏一も杏一なりに反省しているので、文句を言いつつも素直に受け入れていた。


 改めて教室を見回して杏一は気付く。

 ずっと柚と一緒にいる時の周りの目ばかり気にしていたが、自分が気付こうとしなかっただけで、周りはずっと自分達の事を応援してくれていた、と。


 そして、隣の席の女子がこそっと耳打ちしてきた。


「仲直りしただけ?付き合えたの?」

「ハ?????」


 その女子はおっと、まだでしたか、と言い、静かに席に着いた。

 杏一は意味が分からなかった。そして周りにいた杏一の友達が顔を見合わせ、先はまだ長そうだな、と苦笑いした。




 お昼休みになり、柚は楓に会いに行った。杏一と仲直りしたからと言って、楓とのご飯タイムは失いたくなかった。


「そっかー。ちゃんと仲直りしちゃったんだ。ま、背中押したのは俺だけどさ……」


 トラブルを起こしたのも俺が原因だけど、と楓はひとりごちた。

 おつかいに行かせた子どもが、こんなに成長をして帰ってきた。嬉しいんだか寂しいんだか、感慨深すぎて泣きそうだった。


「嬉しいけど、ちょっと残念だな。……嫌になったらいつでも俺の所おいで」

「もしもケンカしちゃったら、楓くんのとこいけばいいの?」

「うん。むしろどんどん来て」


 きょうちゃんだけにこの可愛さはくれてやらん、と楓は闘志を燃やした。


「あ!そういえば、作戦はうまくいった?」


 そうだった。クッキーを作った本来の目的って、仲直りとかそういうんじゃなかった、と楓は思い出した。

 どうなんだろうか、あんなに意地っ張りで素直じゃないきょうちゃんはあんな事言うのだろうか、と考えていると、柚はにまっと笑った。




「うんっ!」





19

 お互い抱き合ってさんざん泣いた後、杏一は柚から貰った崩れたクッキーを広げて1つずつ食べていた。


「なにこれ……」


 ほとんどのクッキーが割れたり欠けたりしてしまったが、奇跡的に1つだけ形を保ったクッキーがあった。


「あっ、それ、割れてなかった!よかったあ」

「これ、なんの形?」


 よく見ると、クッキーマンの形のようなクッキーにアイシングで顔が描いてある。形はぐちゃぐちゃだけど、絵は上手だった。


 柚はふふっと笑って杏一の顔を見た。


「それはね、きょうちゃんだよ。顔、かっこよくかけたんだよ!」


 きゅっと上がった眉毛と、キラキラした目が特徴的だった。きっと、慣れない初めての作業の中、一生懸命杏一の顔を思い出して真剣に描いたのだろう。

 そんな柚の姿を想像して、杏一はぼそっと呟いた。


「可愛いな……」


 そう言った直後、杏一はバッ!と口元を手で覆った。俺、今、なんて?

 柚は杏一を見て数回ぱちくりと瞬きをし、盛大に叫んだ。


「きょうちゃん今っ!可愛いって言った!」

「い、言ってない」

「言った!絶対に言ったよ!」 

「クッキーに言った……」

「ううん、僕の方見てた!僕の事見て、可愛いって言ってた!」


 まるで昔の調子を取り戻したように、柚は杏一につっかかってきた。

 ねえねえ!と杏一に抱きつきながら諦めず聞き続ける柚に、何も敵うはずがなかった。

 顔を真っ赤にして、杏一も負けずに叫んだ。




「あーもう!柚は可愛いよ!ずっと可愛い!!」






番外編↓

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