1
俺、芝井秋穂、高校2年生。
特筆すべき点はない、強いて言うなら素行不良で派手な幼馴染の男が同じ高校の1年にいるくらいの、ごく普通の男だ。中学の頃はその幼馴染とともに少しばかりやんちゃしていたが、それももう過去の話だ。今では無難に高校生活を送っている。
「秋穂はいいよね、俺も2年生がよかった」
「なんで」
「だって梅ちゃんと一緒に卒業できるでしょ。俺が3年になった頃には梅ちゃんもういないんだよ!?嫌すぎるんだけど」
「俺がいない事はいいのかよ……」
目の前で悲しげに表情を歪めている俺の幼馴染__松原楓は俺の机にぐでっと伏した。
「おい、邪魔!」
「暇暇〜、ねえ早く終わらせてよ。俺もう待てない」
「帰って一人でやれよ」
「一人で討伐できないから秋穂の事待ってんでしょお」
楓は最近発売したモンスターを討伐して報酬を得る系のゲームにハマったらしく、よく俺と一緒にプレイしている。今日の放課後も俺の家でやるつもりだったが、俺が日直である事をすっかり忘れていて、日誌を必死に書いている俺の目の前で楓は永遠とダレていた。
日直、回ってくるの早すぎる。もうあれから一周したのか。あの日も確か、今日みたいに楓が暇だからと文句を言って俺を図書室に連行していた。そしてたまたま楓の興味を引くものが他に現れたお陰で俺は楓から解放された訳だけど。
楓の興味を引くもの。他でもない、梅木柚だ。
「もう梅木に相手してもらえ」
「梅ちゃんち門限厳しいから駄目でしょ。本当は俺も秋穂より梅ちゃんがいいよ」
「ド失礼だなお前」
なにが楓をそこまで夢中にさせるかが分からない。確かに梅木は少しばかり……変わった人間ではあるが。
「梅木と楓の相性がいいとは思いもしなかったな」
「ねー。俺もそう思う。でも秋穂も相性いいと思うよ」
「俺が?」
梅木に関しては少し変という噂と、あとはあの日図書室で少し会話したくらいしか理解がない。楓の口から可愛い可愛いとよく聞くが、実際のところ梅木がどういう人間なのかはよく知らなかった。
「秋穂さあー、中学の時も後輩の面倒見は良かったじゃん。あと捨てられた子犬とか保護する漫画みたいなヤンキーだったし」
「……いや、俺別にヤンキーじゃなかったし」
「ふはは!否定するのはそっちなんだ」
「ていうか、梅木は別に……同い年だし。後輩じゃないだろ」
楓はまあそうだけど、と笑って頬杖をついた。
「1回関わったら分かるよ。前も言ったけど、本当に寿命伸びるから」
「福禄寿かよ」
日誌も最後の行を書き終え、残るはフリースペース欄だけになった。誰から始まったか分からない謎の文化、絵しりとり。多分前の人のイラストが「自動販売機」なので、必死にきから始まる言葉を探した。
「梅ちゃんのクラスは多分みんな優しいからいいんだけどさ、やっぱり梅ちゃんってふざけた連中に絡まれやすいからさ」
「ああ」
「だからもしも梅ちゃんがそういうのに絡まれてたら助けてあげてね、秋穂」
そう言って、楓はうっすらと笑いながら俺をじっと見つめた。幼馴染の俺でも、なかなかひやっとする目だ。
「あー、はい。分かったから」
楓は不良だが怒りの沸点はなかなか高い。あまりキレるところを見た事がないが、キレたら最後、という感じではある。
俺はどうか梅木絡みの面倒事に遭遇しませんように、と祈りながらフリースペース欄に絵を描きこんだ。
「……なにそれ?」
「危険人物」
「あはははっ!絶対次の人分かんないって!」
2
モンスター討伐ゲームのキャラクターネームを「一級フラグ建築士」に変えようかしら。
昼休みになり飲み物を買おうと自販機に移動したら、何やら3年の先輩たちが一人の人物を囲っていた。その中心人物とはまさに、件の梅木柚だった。しかもその先輩たちは見るからに風紀が悪そうな集団だった。人混みを避けて利用者数が少ない方の自販機に向かったのに。こんな事なら普通にメインの方の自販機に向かえば良かった。俺はため息をつきつつも遠くで様子を伺っていた。
「梅木くんじゃん!珍し〜、どしたのこんなとこで」
「え?え?あの、飲み物を、買ってます、こん、こんにちは」
「見れば分かるって!」
先輩たちは目をぱちくりとさせている梅木を見てぎゃははと笑っていた。小さくて無知な人を笑う時の笑い方だ。
「……あ、梅木くん、俺達すげー困ってんの」
「はいっ?」
「あそこの水道のレバー、固くてひねられないの。梅木くん回せるかなあ」
「おい、やらせんのかよ」
「かわいそーだって」
先輩が指差したのは花壇の水やりや運動部のマネージャーが使うような外に設置された水道だった。ここは外にもつながる渡り廊下なのですぐにそこまで行ける。
あんな大男たちが回せなくて梅木みたいなヒョロいやつが回せる訳がない。絶対何か裏があるはずだ。
「あの、僕、できる、できますか?」
「できるできる!やってみてよ」
梅木は先輩に背中を押され、とてとてとその水道まで歩いて行った。
おかしい、だって狙ったかのように蛇口が上を向いている。
「自動販売機」「危険人物」。昨日の絵しりとりの単語が頭を巡る。俺は面倒くさそうだとまたため息をつきながら、その水道まで歩いて行った。
「梅木」
「!……あ、えっと!えっと、楓くんのお友達」
梅木が俺を覚えていた事に少し驚いたが、今まさにその蛇口のレバーに手を伸ばそうとしている梅木の手首を掴んだ。
「は?何お前」
「邪魔しないでよー」
俺は衝動的にその先輩たちを睨む……事はせず、ただ淡々と話した。
「すみません。こいつ、先生に呼ばれてるんです」
「えっ」
梅木は俺の方をチラッと見つめ、あわあわと口を動かしていた。先輩たちははあーと息を漏らした。
「つまんねえ。まあいいや。梅木くんバイバーイ」
「はい、はいっ!」
手を振って去って行く先輩たちに、訳も分からず手を振り返す梅木。本当にこいつ大丈夫か。
「僕、先生に呼ばれてるの?どうしよう、なんかしちゃったかな、どうしようっ」
「あ、あー、違う違う」
誰に呼ばれたかとかなんで呼ばれたかとかを聞くこともせず、どこかに向かって歩き出そうとした梅木を必死に止めた。本当、いちいちハラハラする。
「先生に呼ばれてんの嘘だから。これ、そうじゃないだろ……多分お前騙されてたから」
そう言って、俺は蛇口を指差した。梅木はきょとんとしながらそれを見た。
「な、なにが?」
「……はあ」
上に向いている蛇口を元の位置に戻そうとしたが、錆びついていて全く動かなかった。余計怪しい。俺は興味本位でそのレバーをひねった。すると。
ブシャッ!!
「うおっ!!」
「うわあっ!」
凄い勢いで蛇口から水が噴き出してきた。上に向いたそれは、丁度俺の顔の辺りを直撃する。そういう事か。この水道、とっくに壊れていたんだ。俺は必死になってレバーを逆側にひねった。
なかなかの威力だった。俺は暫く放心したまま、その場に固まった。
「……まあ、こういう事だ」
梅木に顔を向けてただ真顔で呟いた。めちゃくちゃかっこ悪いな、俺。あー、ほんと、俺の悪い予感って当たるんだよ。やっぱり梅木に関わらない方が良かった。
梅木はそんな俺を見て物凄い慌てっぷりで自分のポケットを探っていた。
「わっわっ……あっ、だ、大丈夫!?あの、これっ、これ使って」
そう言って渡されたのはハンカチだった。綺麗に折りたたまれていた。
「あー、いや、いいよ。俺が勝手にやった事だし」
「ううん、僕がやってたら僕もびしゃびしゃになってたかもしれないんだよね?僕のかわりに、ありがとう」
「いや……こんくらい乾くんで……」
俺は顔を左右にぶるぶると振って水滴を飛ばした。今日は晴れてるし自然乾燥でもすぐ乾くだろう。それより梅木の持っている、言葉は悪いが制服のボロさに似合わないなにやら綺麗そうなハンカチを濡らしてしまう事に抵抗感があった。
でも梅木は俺を見つめながらふふっと笑った。
「わんちゃんみたいだね」
「……そうっすか……」
「あのね、そのままだと風邪ひいちゃうかもしれないからね、大丈夫だよ」
「!」
梅木に笑われた事を若干恥じ、そのまま突っ立っていると梅木は手に持っているハンカチを俺の顔に近づけ、そしてそのまま水滴を優しく拭き取った。清潔そうな石鹸の匂いが漂う。
「あー……えっと……ありがとう」
「ううん、僕もありがとう。楓くんのお友達は、なんて名前なの?」
「俺は、芝井秋穂」
「秋穂くん?」
「……うす」
秋穂くん、なんて呼ばれたのはいつぶりだろうか。なんの抵抗も無くそう呼ばれる事になんだか若干の痒さを感じた。まあ、気恥ずかしかったのだ。しかし、こんなのはまだ序の口だった。
「秋穂くん!ありがとう!あのね、かっこよかったね!」
「……え、何が」
「あの先輩たちね、いつもちょっと怖いんだ。だから、助けてくれたから、秋穂くんかっこいいね!」
「……」
あーーー。なんだこれ、なんだこれ。ムズムズして仕方がない。誤魔化すように俺は梅木からハンカチを奪い、軽く体を拭いてそれをポケットにしまった。
「……えー、ハンカチ、洗って返しますんで……」
「えっ、いいのに、いいよ」
「いや、洗わせて」
「う、うん」
なんだかいたたまれず、俺はくるっと向きを変えて自販機の前に移動した。俺がミルクティーのボタンを押すと、いつの間にか着いて来ていた梅木が横であれ?と目をきょろきょろ動かしていた。
「……何?」
「あの、ないのかな?ふるふるの、ぶどうのやつ」
「ああ、ゼリーの?」
梅木はこくりと頷いた。ぶどう味の、缶に入ったゼリー状の振って飲むタイプのアレだな。最近新しく入ったそうで、よく買っている人を見かける。
「こっちの自販機にはないんじゃない?」
「あっ、そっかぁ」
「異様に人気だから、売り切れてるかもな」
それを聞いて梅木はしゅんと項垂れた。俺のせいじゃないのに、罪悪感が凄い。
でも、こんな事を言ってはアレだが、梅木の家は貧乏だと聞いた事がある。わざわざ自販機で飲み物を買うのだろうか。たまの贅沢とかなのか。
「……よく買うの?自販機で」
「あっ、ううん、あのね、美味しいって聞いたから、きょうちゃんにあげたくて」
「きょうちゃん?」
「うんっ。僕と同じクラスだよ。知ってる?」
「きょうちゃん……ああ、えっと……山吹?」
「うん!」
梅木はその名前を聞いてにこーっと笑った。いや、可愛いとか思ってない。
「きょうちゃん、勉強教えてくれるから、お礼にあげたいの」
「へえ」
山吹杏一。彼も有名人だ。なんせ顔がいい。昔はそうでもなかったけど、最近は梅木と一緒にいる所をよく目にする。それに、楓と話している時も時々「アイツ」として登場してくる。アイツが梅ちゃんを独り占めするだとか、アイツは顔だけのヘタレ野郎だとか。楓と山吹の仲はそれほど良くないらしい。
「えっと、えっと、じゃあ、秋穂くん、ばいばい」
「え」
梅木はいそいそとどこかへ歩いて行こうとしていた。多分、表の方の自販機にだろう。
「……まっ……て」
「あう」
俺は咄嗟に梅木の肩を掴んだ。
いや、さっきの今でよく一人で動けるな。またあの先輩とエンカウントしたらとか考えないのだろうか。いや、考えないんだろうな。
「そっちの方の自販機行くの」
「!……すごい、すごい!なんで分かったの?」
「……」
なんだかもう苦笑いするしかない。これをネタじゃなく本心で言ってるのだから本当に凄い人だ。すごいのは君なんだよ。
「俺も行く」
「え、なんで?」
「……あー……?」
確かに。俺が着いていく義理なんて何もない。寧ろもう関わらない方が面倒くさい事に巻き込まれずに済むだろうし、絶対着いていかない方がいいに決まっている。
でも。
「?」
この目をくりくりとさせて俺をきょとんと見上げる梅木は、なんだか放っておいてはいけないような気がしてならない。
「……俺もソレ、飲みたいんだ」
「そうなんだ!まだ残ってるといいね!」
心の中であーと項垂れながら、梅木の横に並んだ。結局俺は買う必要の無いそのゼリー状の飲み物を1本買い、自分のものは買おうとしなかった梅木に与えたのだった。そして、その日一日はその時の梅木の馬鹿みたいにとろけきった笑顔が頭から離れなくて一人悶々とした。いやほんと、可愛いとか思ってないから。
3
「梅木、いる?」
「梅ちゃん?珍しいの呼ぶな。ちょっと待って」
翌日、俺は隣のクラス、梅木のいる教室に出向いていた。ハンカチを返すためだった。
入口付近にいたクラスメイトに話しかけると、その場から梅ちゃーんと大きな声を出した。それに反応して周りの人も俺の方に視線をやる。ああ、注目されたくないのに。
そして俺の存在に気付いた梅木はぱっと顔を明るくして小走りで俺の元までやって来た。犬のようだ。
「秋穂くんっ。どうしたの?」
「あの、これ、ありがとな」
「あっ、いえいえ!どういたしまして」
梅木はハンカチを受け取ると、それをじっと見つめて鼻先まで持っていき、すんすんと匂いをかいだ。
「!? え、へ、変な匂いする?」
「んん!違うの!えっと、ふふ、いい匂い」
「え……」
「僕の好きな匂いだね、キンモクセイみたいだね」
絶対母親の仕業だ!
普段俺が使わないような綺麗めのハンカチを見た母親が勘違いして、「彼女?彼女のか?」と探りを入れてきたんだった。何度も違うと否定したのに、そういえば気を利かせていい香りの香水つけといたよ、と言って渡して来たのを思い出した。なんだか無性に恥ずかしい。なんで梅木に関わるといろいろと恥ずかしい思いをしなければいけないのだ。
「いい匂いー……。ふへ、秋穂くんも?」
「いや、俺は……」
「秋穂くんもちょっとだけ同じ匂いだね」
「!ちょ……」
そう言って、梅木は身を乗り出し、あろう事か俺の首元をすんすんと嗅ぎだした。確かに母親に無言で香水を吹き掛けられたけど!まさかこんな事になるなんて思わないだろ!
そのまま本当に犬のように俺の体臭を嗅ぎ続ける梅木に、俺は類を見ないほどテンパった。必死に突き返そうとしたが何故か力任せに押し退けることも出来ず、冷や汗をかきだした頃だった。
「おい」
「わあっ」
梅木が何者かによって捕獲された。
ハッとして前を見た。山吹杏一だった。
「……なにしてんの」
「きょうちゃん!」
「あー……いや、逆に俺、なにされてたん……?」
何故か俺に冷たい視線を送りながらピリピリしている山吹は、梅木の体に回した手に力を込めた。
「柚に用?」
「用はもう終わった。ハンカチ返しに来ただけだから」
「ハンカチ……」
山吹は梅木の手元を見下ろし、そのハンカチを見た。そして何があったかは知らないが、チッと舌打ちをした。は?俺今、舌打ちされた?
「きょうちゃん!あのね、えっとね、秋穂くんだよ。楓くんのお友達なの。昨日ね、ゼリーくれたの」
「!……松原楓の」
オイ、仲良くないんだから山吹の前で楓の名前出すなよ。山吹に先程よりさらに警戒された気がする。本当に最悪だ。俺はただハンカチを返しただけなのに。
「あの、マジで何もしてないからな。それじゃ」
とっても居心地の悪い俺はすぐさま踵を返し……たかったが、ガシっと腕を掴まれてしまった。
「あっ、待って!」
「うおっ」
咄嗟に崩れたバランスを立て直すと、目の前には梅木の顔があった。あー、可愛いとか思っていない。もうやだ、早く帰りたい。
「はい、はい、なんでしょう」
「あのね、あの、お返し、あげるね」
「なんの……」
「ゼリーの!」
そう言って梅木から手渡されたのは、折りたたまれたノートの切れ端だった。この場で読もうと思ったが、綺麗な顔で凄みながらこちらを見てくる鬼みたいなやつが目の前にいたので、ありがとうとだけ軽く言い、すぐにその場を後にした。
(なんだよアイツ……番犬かよ)
はて、以前の山吹はあんな感じだっただろうか。もともとそこまで関わりが無かったから全く思い出せない。知っている事と言えば、あいつの顔がとんでもなく良いという事と、一軍に属しながら悪目立ちするのが好きなタイプではないという事くらいだった。どっちかというと、俺みたいに無難に生きたいようなタイプかと思っていた。
「はあ……」
漸く自分のクラスに戻り、席について先程梅木から貰った紙を開いてみた。
「え……」
そこに書いてあったのは、「ありがとう」という丸い文字と、横に多分、俺の似顔絵。そういえば楓からは梅木は絵が上手だと聞いたことがあるような。
わざわざ書いたのだろうか。俺のために、俺にお返しするために。まともに会話したのは昨日が初めてだった俺の顔を思い出して。
「……」
なんだよこれ。物を貰うよりも、下手するとずっとタチが悪い。こういうところなんだろう、楓が梅木を可愛がっている理由。
俺はこの心臓と手足が浮くような感覚に顔を歪ませながら、必死に小テストの対策を始めた。そして荒波を立てないをモットーにする精神衛生上、あまり梅木に近寄らないでおこうと決意したのだった。
4
金木犀の花はそれ自体は小ぶりだが、木そのものは育ちやすく想定以上に育ってしまう事も多々あるため、安易に庭に植えないほうがいい、らしい。
あんなにお淑やかな見た目で気品溢れる香りなのに、随分と野心があるようだ。
「キンモクセイ……い、い……」
月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり。あの日直の日から一周し、また俺の番になった。全員同じ周期で来る筈なのに、自分の番だけやけに早く感じるのはなんなのだろう。
俺は日誌のフリースペースに載せる絵しりとりのイラストを何にしようか迷っていた。前の人の絵は、恐らく金木犀。多分絵だけでは何か分からないが、「※今の時期の花」「※いいにおいのやつ」「※うちの学校には植えてない」とルール違反なくらい注意書きがされていたので、多分、絶対、金木犀。
「い、い……」
イヌ。犬だな、無難に。
手を動かし始めた段階で、ふと頭の中に犬っぽいあの人が思い浮かんだ。
『わんちゃんみたいだね』
そういえば、あんな事言ってたな。ほんと、どっちが犬だよ。
あの時の梅木を思い出し、くすっと笑った。……いや、なんで笑う要素ある?
俺はさっさと想像上の犬を描き、提出して玄関を出た。
前回の日直が注意書きしていたように、この学校に金木犀は植えられていない。ただ、学校の近くには金木犀の名所がある。毎年一瞬だけ咲いてここぞとばかりにその芳香を漂わせるその様が俺は好きだったりする。見頃が終わる前に見とくか、と思い寄り道する事にした。
青々とした葉に、鮮やかな山吹色。穏やかな気持ちにならざるを得ない香り。
(あ〜……最高……)
楓にはジジイみたい、とよく言われるが、なるべくストレスフリーで生きたい俺には最高の空間だった。とにかく俺には癒やしが欲しかった。
ズラッと並ぶ金木犀の木に添いながらそのまま歩いて行くと、俺と同じ制服を着た二人がいた。なんだか嫌なシルエットな気がする。
「いい匂いだね!んふ、ふふ」
「おい柚、急に走んな」
ワーッ。俺が今一番会いたくないコンビナンバーワン。おい、癒やしの空間じゃなかったのかよここは。
俺は気付かれないように距離を取り、暫く様子を伺っていた。
「きょうちゃーん!!あのねっ、見てっ!じゅうたんみたいだよ!」
「あっ、オイ馬鹿!」
梅木は金木犀の散った花で満ちている地面にぼふりと寝そべった。それを見て慌てて山吹がそこに駆け寄る。苦労が思いやられる。楓だったら多分一緒になって寝そべるのだろう。
山吹は梅木の体を起こそうとしていたが、梅木の方が一枚上手だったようだ。
「えいっ」
「あっ!?」
梅木は山吹の手を引っ張った。その衝撃で、山吹は梅木の方に倒れ込む。ドサッ!という音が一面に響いた。大丈夫だろうか、梅木は潰されていないだろうか。
「お前なあ……」
「んふふ、ふふ、きょうちゃーん」
「……」
何が楽しいのか、梅木は倒れ込んできた山吹の体にしがみついてニコニコと笑っていた。わー、何だあれ。可愛いな。本当に高校生か?
いや、可愛いとは思っていない。断じて。
「きょうちゃん、んふ、んん、んー」
「……わ、ちょっと……なに」
密着している山吹の首元に顔を寄せ、梅木はすうっと息を吸った。あの日、梅木が俺にやったみたいに。
「あのねえ、やっぱりきょうちゃんが一番だね」
「!!」
「きょうちゃん、だいすき」
梅木はそう言って、顔を真っ赤にしてまた山吹に抱き着いた。
__うわ、うわー。なんだよアレ。
よく分からない感情でいっぱいになった俺は、その場から退散しようとかこの二人にバレないようにとか、そういう考えも全部どこかに消え失せてただ呆然とその光景を目に焼き付けていた。
山吹は梅木の言葉を聞いて暫く固まっていたが、程なくしてハアーーーとデカいため息を吐いてその強張らせていた体から力を抜き、完全に梅木に体重を預けた。そして山吹の方も梅木の体にぎゅっとしがみつき、ぽつりと小さく呟いた。
「……俺も」
……あーもうなんか、見てらんないわ。
俺、何もしてないのに完全敗北した気分。
何やってんだよあの二人は。外の、いつ誰が来るか分からないような所で、地面に寝そべりながら抱きつきあって、何してんだほんと。
山吹の事をかっこいいかっこいいと夢見ている女子全員にこの姿を見せてやりたい。
俺はなんだか金木犀の後に続いて描いた犬のイラストが無駄なような気がして、苦笑いを浮かべながらゆっくりとその場を後にした。
あのハンカチは杏一が柚にあげた物です。
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