かわいそうなぼくかわいい 上

1

 かわいそうなぼくかわいい。

 かわいそうなぼくは、世界一かわいい。


 どんなぼくも可愛いけど、やっぱり可哀想な目に合っているぼくが自分史上一番可愛い。

 嫌がらせを受けて、罵倒されて、白い目で見られて、__そうやってみんなから向けられる冷たい視線を浴びているぼくって、可哀想で、でも可愛くって、凄く魅力的だと思わない?


 なーんて、拗らせに拗らせた結果、普通のナルシズムより厄介なモノを抱くようになってしまった。でもこの事は誰にも言っていない。変なナルシストだから痛い子扱いされている訳ではないのだ。また別の理由。


 自分のこの性質を知って、あえてぼくを「可哀想じゃなくさせる」人が現れたら大変だもんね。

 ああ、今日はどんな可哀想なぼくが見れるのかな。

 それを考えるだけで最高の気分になれるんだ!





2

「アイツまた女もののヘアピンつけてるぞ」

「カラコン何色?ヤバイな」

「今日もクソサブカル臭漂ってんな〜、いや、メンヘラ臭か」


 ぼく、河合慧、16歳、高校2年生。

 ぼくがひとたび学校に足を踏み入れれば、周りからぼくの事をコソコソと話す声が聞こえる。

 悪口?陰口?そんなのどんとこいだ。むしろもっと言っておくれ!なんてったって、そんな事を言われちゃうぼくも可哀想で可愛い。

 心臓が掴まれたみたいにぎゅーってなって、ああ、自分、愛おしい!ってなっちゃう。これが堪らないんだ。

 周りの目など関係なしに、俺は教室まで足を進めた。


「おい、河合」


 ぼくの前方から、背が高くて金髪でピアスじゃらじゃらで制服を完全に着崩していて、まるで不良のような、というか誰が見ても不良であると言い切れる、ぼくの幼馴染が不機嫌そうにずんずんと向かってきた。

 彼は嶋大晴くん、同い年。

 素行不良、暴力的、教師も腫れ物扱いで有名だが、いかんせん顔がいいので隠れファンも多い。


「あっ、お、おはよう、嶋くん、」


 咄嗟に言葉が出ず、吃ってしまった。

 嶋くんにはもう恐怖の感情は抱いていないが、昔からの癖で未だに喋る時に緊張してしまう。


 幼馴染と言っても、ぼく達は仲良くなかった。ぼくは昔から彼にいじめられてきた。小学生の時から、今までずっと。小中は学校区が同じだったため、一緒の学校に進むのは仕方ないと思っていたが、まさか高校まで同じだとは思わなかった。

 昔は恐怖の対象だった彼だが、今は俺を可哀想な目に合わせてくれる大切な存在だ。

 __と、俺が嶋くんに思いを馳せていると、彼は不機嫌な顔を更に歪ませて、盛大に舌打ちをした。


「朝からマジでキモいんだよ、お前。俺の視界に入ってくんな」

「いや、だ、だって、そんなの、嶋くんがぼくを見なければいい話で」

「……うるせえな!俺に口ごたえすんなよ、このブス!」


 そう言って嶋くんは俺の発言権を奪うかのように、俺の口元をめがけて殴ってきた。

 痛い、凄く痛い。口の中が鉄の味で染まった。血が垂れないように口元を手で覆った。

 痛いけれど、ぼくはその事実を俯瞰して、自分はなんて可哀想なんだ!と思い、手の平に隠れた広角を持ち上げた。

 嶋くんはそんなぼくを見てもう一度舌打ちをし、クソッ!と言って踵を返した。


 ぼくの事が大っ嫌いなんだと思う。毎日毎日ぼくをこうして惨めな状況にさせてくれる。いつもありがとう、嶋くん。痛いけど。





3

 体育館のへりに腰を掛け、先程の暴行で負った唇の傷をいじった。痛々しい傷を隠せないぼく、あー、可哀想!


 今は体育の時間だ。今日も準備体操のペアはクラスのあぶれてしまった冴えない子と組んだ。その子すら、ぼくの事を不審な目で見る。いいぞ、その調子だ。

 ぼくは体育なんて嫌いだ。体を無理矢理動かすことになんの生産性も楽しさも見いだせない。この貧弱な体が颯爽と動く様も想像できない。今日はバスケの日で、待ち時間に他グループの試合を見る……事はなく、患部を弄りながらぼくの可愛さについてぼーっと考えていた。

 そして、ぼーっとしすぎてボールがこちらに飛んできていた事に気付けなかった。


「危ない!!」


 ゼッケンを着た生徒が、ぼくの前に回ってボールを捕らえた。が、ボールにぶつかるのは回避したものの、その巨体がぼくに飛び込んできた。


「ウッ!!」

「ってて、……って、うわー!!ごめん!!」


 その男はぶつかってしまったぼくを見るなり、体を素早く起こして焦り始めた。暫くしてコート内から爽やかではない笑いが起きた。


「ハハハハハッ!!お前、よりにもよって地雷かよ!!」

「やべー!!地雷踏んだな!!」

「おい!離れた方がいいぞ、爆発する!!」


 説明しよう。地雷とは、恐らくぼくのあだ名である。うまい事言うな。

 周りがゲラゲラと笑う中、ぼくにぶつかってきた彼はきょとんとしていて、まるで何がおもしろいか分からないという表情だった。そしてぼくの事を心配していた。


「本当にごめん!結構なスピードでぶつかっちゃったけど、大丈夫?怪我無い?」


 ぼくは一瞬ぽかんとしてしまった。

 自分で言うのもなんだが、ぼくは学校内でもかなり有名だと思う。そして、大体の人はぼくを可哀想な目で見てくれる。こんな純粋な反応は初めてだった。もしかして、ぼくの事を知らない希少ない人間なのかもしれない。


「だ、だいじょうぶ」

「……本当?立てる?」

「……っ、いたっ!」

「あー、やっぱり!変にぶつかっちゃったから、捻挫でもしたかな……保健室行こ!せんせー!俺、コイツ保健室連れていきまーす!」

「え、え、いい!一人で行くから!」

「いいって。俺のせいだしさ。ほら、捕まって」

「あっ……」


 無理矢理ぼくの腕を引っ張って、肩に回した。彼はぼくを庇いながら、保健室まで連れて行ってくれた。からかう周りの声もお構いなしで、じっと前を見ていた。





4

 保健室に行くと、保健の先生は不在なようで、暫く席を空けるので用がある生徒は備え付けの内線で職員室まで電話を、と置き書きしてあった。彼が電話をしてくれたが、先生はどうやら直ぐには戻って来れないそうで、戻るまではこうしてという指示を電話越しに仰いだ。

 備え付けのソファーに腰を掛けると、彼が手慣れた所作で少し腫れ上がったぼくの足を氷嚢で冷やしてくれた。

 甲斐甲斐しくぼくの世話を焼いてくれる彼には申し訳無いが、怪我を負わせられ、更には周りに馬鹿にされた事によりいつもの如く心臓がぎゅーっとなり、それが気持ちよくてぼくは思わず笑みを浮かべてしまった。


「え、なんで嬉しそうにしてんの?」


 彼が訝しげにぼくを見た。


「嬉しそうにしてない。なんでもない」


 ああ駄目だ駄目だ。可哀想なぼくは、そう簡単に嬉しさを見せてはいけない。そんなぼくは可哀想ではなくなってしまう。


 すると彼は興味深げにぼくの方を見つめた。


「名前なんて言うの?」

「……河合慧」

「かわいけい……。何組?」

「3組」

「へぇ、隣のクラスなのに全然知らなかった。俺は4組。名前は、江崎かこう!」

「か、かこう?」

「そう。変な名前だよな。駆け出すのの"駆"に、"光"で、かこう。覚えて。あ、駆光って呼んでいいよ」

「駆光、くん」


 そう言って駆光くんはにっと笑った。本当にぼくの事を知らないようだった。

 駆光くんは、名前は知らなかったけどその存在は知っていた。委員長とか、実行委員とか、体育祭のリーダーとか、そういうものを好んで引き受けるタイプの陽キャだ。そして彼も顔がいい。きゅっと釣り上がった眉毛と、とろんと垂れた大きな目が印象的な顔だ。

 駆光くんは俺のこの成りをじっと見つめて、まあ初見なら気になるだろうなという質問をしてきた。


「なんでそんな髪の毛にしてんの?」


 ぼくの今の髪の毛は切りっぱなしのセミロングで、コテで巻いて外ハネにしている。こめかみのあたりには、紫色の大きなヘアピンが留めてある。ジェンダーレスという言葉が広まった現代ではこういう髪型の男がいても可笑しくないとは思うが、地方ということもありこういう人種はあまりいないので、好奇な目で見られる事が多い。


「……この髪型が、好きだから」

「へー。長い髪の毛が好きなの?」

「長い髪の毛が好きというか……」

「ん?なになに?」


 言いたくないなーと思いつつも、駆光くんの妙に圧のある不思議そうな顔に耐えられず、答えてしまった。


「……憧れてる配信者がいて、その人の真似」

「男?」

「女の子」

「ふーん。じゃあ、女の子になりたいの?」

「違っ……!」


 絶対言うと思った。だから面倒くさくて言いたくなかったんだ。


「別に女の子になりたいんじゃない」

「でもその人みたいになりたいから真似してるんでしょ?面白い!」


 なんなんだコイツは。今までにあまり関わらなかったタイプなので、どう接していいか分からない。


「びっくりしたんだ。俺、さっきぶつかったときに一瞬『女の子にぶつかっちゃった!』って思って、めちゃくちゃ焦ったんだよ。河合くん、近くで見てもなんか女の子みたいだし。あ、別に男だったから怪我させても安心だったわけじゃないよ」

「はあ……」


 口数が少ない俺とは対象的にすらすらと言葉が出てくる駆光くん。彼は真の陽キャだ。


「でも、そんなナリしてたら周りからいろいろ言われない?」

「……別にいいよ。慣れてるし」


 ぼくはもう駆光くんとの会話は十分だったが、駆光くんがぼくを解放してくれなかった。きっと、疑問が解消されるまでは質問し続けるのだろう。

 ぼくは駆光くんに向けていた視線を外し、早く会話終わってくれという意思を込めてぶっきらぼうに答えた。

 すると駆光くんは突然ぼくの頬をするっと撫でて、そのまま親指で下唇の端をなぞった。

 こんなに他人と接触したのは、幼稚園のお遊戯会以来だ。ぼくは咄嗟に動けず、その場で固まってしまった。


「ねえ、この傷誰かにやられたの?」

「……」

「なんで黙るの?肯定ってことでいい?」

「……手、どけてよ」


 うるさい。本当になんなんだ。もうコイツと話すの嫌だ。俺は駆光くんの手を払い、この場から去ろうと思ってソファーから立ち上がった。


「っ……!」

「おっと、なにしてんの。危ないでしょ」


 捻挫の事をすっかり忘れていて、歩きだそうとした瞬間にじわっとした重い痛みがぼくを襲った。思わずよろけてしまった所を、すかさず駆光くんが支えてくれた。どうしてか、彼から離れようと思えば思うほど距離が近くなる。

 そして駆光くんはぼくに体をぴったりとくっつけたまま、ぼくの顔を見た。窓から射す光が彼を背後から照らし、シルエットがくっきりと浮かんだ。影で色が濃くなった彼の顔は、俺を見て微笑んでいた。


「俺さ、いじめとか陰気臭いの大っ嫌いなんだよな」

「は……」

「流石に、怪我を負うレベルは見てらんないよね。俺が守ってやろうか?」

「__!!」


 カチーンと、ぷっちーんと、それはもう脳内のゴングが盛大に響きわたった。

 彼なりの優しさなんだろうが、そんなの関係なくイライラしてしまった。

 そして、ぼくは普段は出さないような大きな声を出して彼につっかかった。


「……あのさぁ!!勝手にずかずかとぼくのプライベートに踏み込んでおいて何様!?その上から目線は!別にいいから!ほっといてよ!ぼくも喜んで受け入れてんの、この状況を!!」

「うへっ!?」


 彼はぼくの剣幕に驚愕し、変な声を上げて固まっていた。そしてまんまるにした目を徐々に三日月の形に歪ませ、肩を震わせながら笑ってぼくに聞いた。


「なんで喜んで受け入れてんの?」


 ぼくが怒ってもなんだか余裕綽々といったその顔が憎らしくて、ぼくはさらに腹を立ててしまい、言わなくてもいい事まで言ってしまった。


「ぼくは、可哀想なぼくが一番可愛いの!!」


 そう叫んでハッとした。


(言っちゃった……!)


 誰にも言ったことがなかった。こんな、特殊なナルシズム。時既に遅しなのは承知で、ぼくは口をガバッと手で抑えた。冷や汗が止まらない。

 そして駆光くんはぼくの発言を聞いてまたポカンとした表情を浮かべ、その後盛大に笑った。


「なんだそれ!!じゃあ積極的に受け入れてんの!?そのいじめを!?」

「そうだよ……、だからもう、ほっといてよぼくの事は」


 ぼくは駆光くんに支えられた体を脱力させた。全てバレてしまったんだ。もう自暴自棄というか、諦めモードで弱々しい言葉しか出なかった。


「えー、嫌だ」

「なんでよ!」

「だって面白いもん、河合くん。ね、仲良くしよ?」

「……絶対嫌だ。もう関わらないでよ……」

「そんなこと言わずにさ!はい、握手!」


 駆光くんは俺の右手をガッと掴んで無理矢理握手してきた。もうほんとコイツ嫌い。


「俺達今日から友達ね!よろしく、河合くん」


 そう言った駆光くんは、満面の笑みだった。

 

 友達、ぼくが今まで避けてきた言葉だ。というか、あちらからぼくを避けてくれる。友達なんて作ったら、「友達が一人もいない可哀想なぼく」でなくなってしまう。

 はぁ、今日は厄日だ……。





5

 翌日、ぼくはどんよりとした気分のまま学校に向かった。気分が乗らなさすぎて、髪の毛も全然セット出来なかった。とにかく駆光くんには会いたくない。


 ぼくはいつも裏門から登校している。何故かというと、嶋くんに禁止されたから。「お前みたいなやつが正門から入ってくんな」と言われたが、んな理不尽な、と思いつつもそれに従うぼくって健気で可愛いと思えた。

 下を向いて歩いていると、突然頭上から大量の水がぼくめがけて降ってきた。突然の事に声も出ず、びっくりして上を見上げると2階の窓から顔を出している男子生徒が数人いた。彼らのうちの一人はバケツを逆さにして持っていた。ぎゃはは、という下品な笑い声が聞こえる。

 彼らは知ってる。嶋くんとよく一緒につるんでいる素行不良の生徒たち。派手な髪の毛の色が眩しい。でも何故か首謀である嶋くんはそこにいなかった。


 と思ったら、後ろから噂の嶋くんが現れてぐいっとぼくの髪の毛を掴んだ。突発的な痛みに思わず顔が歪んだ。


「いっ……!」

「よぉ、河合ィ」


 髪の毛ごと引っ張り上げられ、足がもつれてしまった。昨日捻挫した足がズキッと悲鳴をあげふらついた。嶋くんは前に回り込み、ぼくの胸ぐらを掴んだ。


「いた、痛い、嶋くん、離して」

「誰がお前の言う事なんて聞くんだよ」


 髪の毛から水が滴り落ち、途切れ途切れにぼくの視界を遮った。ぱしぱしと瞬きをして捕らえた嶋くんの顔はニヤリと笑っていた。

 嶋くんはいつもこうだ。ぼくがなにをせずとも、何故か突っかかってくる。小学生の頃から、ずっと。


 嶋くんは胸ぐらを掴んだまま、ぼくの下唇を指挟みで思いっきり引っ張った。ぷつっと切れる音がした。暫くして離れた嶋くんの指を見ると、微かに血が滲んでいた。昨日嶋くんが作った傷口が開いたのだろう。それを実感すると、思い出したかのように下唇がじくじくと痛んで目に涙の膜が張った。

 ああ、胸ぐらは掴まれて息が苦しいし、足は捻挫した所が痛いし、唇の傷は開いて血が出るし。泣きそうだ。最悪で、でも最高だ!今のぼく、最高に可哀想で、それで、最高に可愛い!


 嶋くんはそんなぼくを化物を見るかのような顔で見つめてきた。


「あ……?んだよ、その顔……」

「っ……」

「妙な顔してんじゃねえよ、気色悪ィなあ!!」


 勢い良く突き飛ばされ、上手く受け身を取れずその場に倒れてしまった。

 そして嶋くんはそんなぼくに近寄り、それは様になるヤンキー座りをして、今度はぼくの前髪を掴み上げて軽蔑したような目でまじまじとぼくを見つめた。


「……お前、ドエムか?」

「! ち、ちが」

「じゃあなんでお前はこんなに喜んでんだ?」

「……」

「おい、言えよ変態」


 ヤバイ。嶋くんにまでぼくの喜びを感じ取られてしまった。なんて言い訳をしようか考えていると、更に顔を持ち上げられ生理的に目尻から涙が溢れた。でも涙なのか滴り落ちた水なのかもう分からない。

 そろそろ嶋くんのイライラも限界値を超えそうという所で、間に割って入る人物が現れた。


「やめとけよ」

「あ"?」

「……!」


 駆光くんだった。

 駆光くんは嶋くんの手首を掴み、そのまま力を込めたらしい。嶋くんは痛みに顔を引きつらせていた。


「んだよォ、江崎」

「流石にやりすぎでしょ。高校生ならもっと友達との付き合い方考えな」

「誰がこのブスと友達だよ、舐めた事言ってんじゃねえぞこの脳内お花畑野郎」

「おー、よく口が回るな」

「……殺すぞ」

「そんな物騒な事言うなよ」


 嶋くんは溜まりに溜まったストレスが限界を迎えたのか、最後にぼくを掴んでいた前髪をぎゅっと力を込めて握りしめ、ぼくの顔を放り投げて去って行った。


 __駆光くん。最悪だ。


「大丈夫だった?怪我、してない?」

「……あくだ……」

「ん?」

「……最悪だって言ってんの!なんで止めたの!?」

「はぁー!?助けてやったんだから感謝くらいしてよ!」

「そんなもの頼んでない!さっきのぼく、最高に可哀想だったのに……!助けられるぼくなんて、可哀想じゃない!」

「……河合くんってほんと変わってるよねぇ」


 そう言って、河合くんは不思議そうな、でも面白いものを見たかのような表情で笑った。そして鞄からタオルを出して俺の頭をわしゃわしゃと拭いた。


「う、い、いいから」

「駄目、風邪引くよ」

「ほんとにいいって」

「頑固だなあ。冷たくないの?」

「冷たいけど……別にいい」

「……そんな自分が可哀想で可愛いから?」

「……」


 無言は肯定とみなしたのか、駆光くんは「面白いね」とひとりごちた。


「制服、どうするの?びしょ濡れだけど」

「替えあるから大丈夫」

「え、制服の替え持ってんの?」

「よくある事だから」

「よくって……」


 彼は困ったように笑って、そのままぼくの髪を拭き続けた。ぼくはそれに抵抗する気も起きず、されるがままだった。

 そして駆光くんの手が頭から降りていき、そのまま俺の頬を撫で、親指で切れた唇の傷をなぞった。

 昨日の保健室での出来事がフラッシュバックした。


「なに……」

「ううん。なんでもない」


 駆光くんはいつもみんなの中心にいて、楽しそうで、底抜けに明るいくて、とてもいい人らしい。そんな人がわざわざぼくみたいな変人に興味をもつ事に、何故だか底知れぬ怖さを感じてしまう。

 __なんだか、ぼくが崩れてしまうような気がして。











6

 あいつ、ほんとうぜぇ。イライラする。

 おまけにいけすかないと思ってた江崎もくっついてるし。イラつきも倍増した。


 俺がどれだけ殴っても罵倒しても、あいつは屈しない。それどころか、どこか恍惚とした表情を浮かべる。そのくせ、被虐趣味は無いと否定する。意味が分からない。それが気持ち悪くて殴って、あいつは喜びを滲ませて、また殴って、の繰り返し。

 何か期待しているかのようなその目は、俺を見ているようで決して俺の事なんか見ちゃいない。

 得体が知れなくて、本当に気持ちが悪い。





7

 河合慧、あいつは小さい頃からずっと一緒だった。

 小学生の頃の河合は小さくてナヨナヨしていて、メガネを掛けていてガリ勉キャラで、そのくせ勉強は苦手で、周りの奴らからいじめられていた。

 そんな河合と幼馴染と思われるのが嫌で、俺もいじめていた。いや、理由はそれだけじゃない。河合を見ていると何故だか猛烈に妙な気分になる。これは昔からだった。あの笑っているのか、怯えているのか、よく分からない輪郭がぼやけた表情が昔から俺の心をかき乱した。

 河合自身もいじめられっ心の精神が身についていき、俺達の奴隷みたいだった。ただ、あの頃の河合は本当に、ただのいじめられっ子だった。俺達に恐怖心を抱き、いじめられるたびに許しを乞うような奴。

 それが、中学に入った頃からどんどん変わっていった。


 河合は、中学に入り1年経ってからいきなりイメチェンをし出した。覚えている。中学2年の夏休み明け、中学校デビューと言うには遅すぎる時期だった。


 もさくて手入れがされていなかった髪の毛は綺麗に整えられ、制服を着崩し、スクールバッグにはよく分からないキーホルダーをたくさんつけるようになった。

 そして、一番変化したのは顔だ。変化したというか、今まで隠れていたものが見えるようになった。メガネを外してコンタクトにしていた。前まで前髪に隠れていた事もあり、河合の顔をちゃんと見たのは初めてだった。あんな顔だと知らなかった。ナヨナヨしていて女みたいだったが、実際に女みたいだった。

 それから河合は更に変に注目されるようになり、俺もそれにイラついてよりいじめるようになった。

 __そこからだ。俺にいじめられるたびに気持ち悪い顔をするようになったのは。

 無表情でありながら熱を孕んだようなあの瞳が、気持ち悪くて、ウザくて、俺の頭を支配した。それからずっとイライラが止まらない。


 それが河合慧、俺の幼馴染だ。








8

 __最悪だ。本当に最悪。


 駆光くんと初めて話した日から、ぼくは駆光くんにずっと付きまとわれている。


 駆光くんが集団の中にいても、ぼくを見つけたらそこから飛んで来る。もちろん周りはそんな駆光くんをからかったり、非難したり、止めに入ったりする。周りの反応は正しい。ぼくも露骨に嫌な態度を取るわけにもいかないから、そそくさとその場から逃げて駆光くんを巻くしかできなかった。

 でも逃げた所で駆光くんは必ず着いてくる。帰宅部のぼくと運動部の駆光くんではそもそも体力が違う上、体格差も大きいから逃げきれるはずもない。


 流石に殴ってやろうかと思ってやったのが、みんなの前で堂々と「河合くんは俺の友達だからいじめたり悪口を言ったりしないように!」と宣言した事だ。

 血の気が引いた。ぼくはそんな事望んでなんかいない。

 ざわつく周りを掻き分けて駆光くんの手を引っ張り、誰もいなさそうな所に連れて行った。駆光くんの胸ぐらを掴む、というか非力すぎて胸元のシャツを握り締めた。


「何言ってんの!?馬鹿!?」

「え、だって河合くんが嫌な目に合うの見てらんないし」

「ぼくは嫌じゃない!勝手な事しないでよ!」

「俺は嫌なの。それに守ってあげるって言ったじゃん」

「頼んでないって言ったじゃん!本当にあんた頭おかしい!」

「特大ブーメランなんだけどそれ」


 ぼくがどれだけ言葉で攻撃しても、駆光くんの姿勢は変わらなかった。駆光くんは飄々とした態度で、ぼくに宣言した。


「俺は辞めないよ」

「……勘弁してよ。ぼくの事はほっといて。どうせぼくとつるんでも損しかない。今まで通り、ぼくの事知らなかった頃みたいに何も考えず楽しく生きればいいよ。もう、ぼくの事なんか忘れてよ……」


 ぼく自身、ぼくに関わるといい事なんてないと分かっている。みんなから地雷と呼ばれるぼくだ。その名の通り、ぼくは非常に付き合いにくい存在だろう。それに、周りの目もある。いじめられっ子を助けようとしていじめられる、みたいな事が起きてしまうかもしれない。

 ぼくと関わったって、百害あって一利無しだ。


 駆光くんと話すのは疲れる。ずっと調子を狂わせられる。項垂れながらぼくが話していると、駆光くんは我関せずといった感じでぼくを見てハッキリと答えた。


「え、無理だけど」

「……は?」

「無理じゃない?だってもう俺は河合くんの事知っちゃったし。今更忘れてくれなんて、無理でしょ。河合くん変で面白いし。それに__」


 駆光くんはぼくの長く伸びた髪に指を通し、そしてまるで子どもをあやすみたいに頭を撫でた。

 そして、子守唄を歌うかのような優しい声でこう言った。


「河合くん、可愛いから。守ってあげないと」

「__は」

「こんなに可愛い子がいじめられてんの、俺は見過せないよ」


 __なんて。今、駆光くんはぼくの事を、可愛いって言った?

 ぼくは握り締めていた駆光くんのシャツから手を離し、間の抜けた顔で彼を見上げた。

 駆光くんの垂れた目は湾曲し、隙間からは黒々とした瞳がこちらを見据えていた。

 ぼくは震えた声で駆光くんに尋ねた。


「ぼく、か、かわいいの?」

「うん。可愛いよ」

「ど、どこが」

「んー……。見た目も、中身も、俺にだけ本性見せてるとこも、全部可愛い」

「……!」

「俺は、そんな河合くんが大好き」


 信じられなかった。

 ぼくは、可哀想なぼくが一番可愛い。

 だってそれは、誰もぼくを可愛いって言ってくれなかったから、愛してくれなかったから。だから、ぼく自身が惨めなぼくを愛するしかなかった。

 他者から愛情を貰うなんて、経験がなかった。ぼくには有り得ない事だと思っていた。


 なのに、たった数日前に初めて言葉を交しただけのこの男は、ぼくが一番欲しかった言葉をいとも簡単にくれた。

 もう、一生こんな人には出会えないかもしれない。ぼくは辿々しく駆光くんにお願いした。


「も、もっかい、言って」

「何を?」

「かわいいって、だいすきって」

「……はは、いいよ」


 駆光くんはぼくの耳元に口を寄せた。


「河合くん、可愛い、大好き」

「う、ぅ」


 心臓がぎゅーっと掴まれたみたいになった。あれ?いつもとどこかが違う。ぎゅーってなってるのに、痛くない。でも気持ちがいい。あれ?じゃあ、今までのって何?


 まともに働かない頭を動かしても、何も分からなかった。ぼくはただただ多幸感に身を包まれながら、駆光くんに身体を委ねた。

 そして、駆光くんはぼくに追い打ちをかけるかのように耳元で囁いた。


「河合くん、今嬉しい?幸せ?」

「あ、う、う、うん」

「じゃあ、俺と付き合おうよ」

「……え?」

「そしたらさ、俺が河合くんをもっと愛してあげるよ」

「へ、もっと」

「うん。もっと、河合くんが欲しい言葉をあげられる。こうやって、もっと抱きしめてあげる。もっと、可愛いって、大好きって言ってあげる」

「!」

「ねえ、俺と付き合うよね?」


 そう言って、駆光くんは微笑んだ。

 天使みたいな顔で天使みたいな事を言う、悪魔のような男だ。

 ぼくはその甘美な誘惑にぐらついた心が耐えきれなかった。数年間築いたこの性格や立場や矜持なんかは頭から消え去り、気付けば静かに首を縦に振っていた。

 駆光くんは更に笑みを深くした。


「ん、じゃあ俺達今日からカップルね!よろしく、河合くん」


 今度は握手、ではなく、ぼくの頬に口づけが降ろされた。

 数日前まではただの友達、というかぼくは友達とすら認めていなかったのに、どういう訳か今はカップルになってしまった。


 そして駆光くんは再三ぼくの下唇を撫でた。それはもう、ゆっくりと執拗に。


「な、なに……」

「傷、治ってよかったね」

「あ、うん……」

「……」

「……?」


 駆光くんは、何を喋る訳でもなく満足げに笑った。





9

 ぼくは今まで誰かと付き合うという経験をしたことが無い。だから、付き合うという事がどういう事か、何をするのか、どんな気持ちになるかなんてのは漫画やドラマの中でしか知らなかった。


 __付き合うという事は、こんなに相手からでろでろに甘やかされるという事なのか?


「河合くん、こっちおいで」

「う、ん……」


 壁にもたれかかって地べたに座っている駆光くんが、優しい声でぼくを手招きした。


 お昼休み、誰もいない小さな資料室にいる。

 どこから入手したのか、駆光くんは資料室の鍵を使って資料室に入れてくれた。そして、内側から鍵を閉められた。「逃げちゃ駄目だよ」と、暗に言われているような気がした。


 付き合った日に、ぼくは駆光くんに「付き合ったら何をすればいいのか分からない」と言ったら、「俺が全部リードしてあげるから大丈夫」と返された。だから、ぼくは駆光くんの言う事に従うしかない。

 脚を広げて体育座りをし、手を広げて待っている駆光くんの元に行き、空けられた脚の間に座った。駆光くんと同じ方向を向いて座ったけれど、これで合っているのだろうか。

 頭上で駆光くんがふふ、と笑う声が聞こえた。きっと正解なんだと思う。

 もたれ掛かっていいよ、と言われたのでおずおずと駆光くんに背中を預けた。すると駆光くんの腕がぼくに回り、ぎゅっと抱きしめられた。急に「自分たちは付き合っている」という実感がして、鼓動が早まった。


「緊張してる?」

「緊張、してる」

「ふはっ、そっか。可愛いねぇ、河合くん」

「っ……」


 そう言って駆光くんはぼくの髪の毛や項にキスをした。くすぐったくて、恥ずかしくて、呼吸が浅くなった。


「河内くん、可愛い、好き、大好き」

「う……」

「大好きだよ。河合くんは?俺の事好き?」

「わ、分かんない」

「分かんないの?でも俺達付き合ってるんだよ?」


 駆光くんのとろんと垂れた目が、背後からぼくをのぞき込んだ。更に鼓動の音が大きくなった気がする。


「付き合ってるんだから、好きどうしにならないと。試しにさ、言ってみてよ。好きって」

「え……」

「言えるよね?」


 遠くから駆光くんを眺めていただけの頃は知らなかった。駆光くんは、ただ爽やかでいつも笑顔なだけではない。他者を言葉で従わせるのが上手だ。どうやっても勝てる気がしない。圧倒的立場の差を実感させられ、ぼくは駆光くんに素直に従うしかない。

 ぼくは口を小さく動かした。


「す、すき……」

「誰が?」

「……駆光くんが」

「もっとちゃんと言える?」

「か、駆光くんが、好き……」

「うん、俺も河合くんの事大好きだよ」


 恥ずかしくてぼくは目線を逸したが、駆光くんは頑なにぼくから視線を外そうとはしなかった。そして別の所を見るのは許さないとばかりにぼくの顔を両手で包み、強制的に駆光くんの方に顔を向けられた。駆光くんの端正な顔が、ぼくの顔に近付いた。__あ、口に、キス、される。


 ちゅ、と小さな音をたてて駆光くんの唇が離れていった。一瞬だったのだろうが、とても長い時間に感じられた。

 持ち上がった駆光くんの顔は、ぼくを見て笑っていた。


「河合くん、目閉じないの?」

「えっ」

「俺の目見ながらしたい?」

「や、ち、違う!」

「どっちでもいいよ。もっかいちゅーしていい?」

「……う、うん……」

「ん、いい子だね」


 もう一度、駆光くんの唇が降ってきた。ぼくは目をぎゅっと瞑った。中々駆光くんの唇が離れず、呼吸が苦しくなった。あれ?これってどうやって息すればいいの?と思っていたら、駆光くんが唇を合わせたまま吐息で鼻で息して、と呟いた。鼻で呼吸をしたはいいものの、思いっきりやる訳にもいかず、そうなると結局苦しいままだったので、諦めて結んでいた口を少し開けて息を体内に吸い込んだ。

 すると駆光くんはふっ、と笑い、そのままぼくの開いた口の隙間に舌を差し込んできた。

 なんだこれ、この、動き回る、熱い粘膜。

 舌の表面をゆっくりとなぞられたと思ったら、次は舌先をぐるりと舐め回され、そして甘噛みされた。それにびっくりしたら、あやすようにまた優しく舌を撫でられる。口内が唾液で溢れ、どちらとも分からないものが口から滴り落ちた。ぐちゅ、という卑猥な音が聞こえてくる。もう、ちゅーなんて可愛いものではない。勝手がわからないぼくは、駆光くんにされるがままだった。


 なんだこれ、なんだこれ。気持ちがよすぎて、頭がおかしくなる。


「っ、んんッ、んぁ、う、ふ、ぅ……」

「んっ……はぁ、……気持ちいい?」


 最後にちゅっ、と軽くキスをして、終わりを告げた。ここで否定したらどうなるのか分からず、ぼくは素直に首を縦に振った。駆光くんは目元を赤く染めた。きっとぼくの顔はその比にならないくらい赤くなっているだろう。

 ぼくの頬を挟んでいた駆光くんの手はするりと下に降りていき、溢れて口元から線を引いている唾液を指で拭った。そしてそれをぼくの唇まで運んだ。唇がひやっとした。


「舐めて」


 他者と交わらない普段のぼくなら絶対に嫌と言うだろうが、この空気と熱に侵され、ぼくはなんの疑問も抱かず指示に従った。添えられた駆光くんの指にゆっくりと舌を絡めた。


「ン、ふ、んんっ……」

「……あー、堪んないね。可愛い、ほんと可愛い、河合くん」


 指が離れていき、ぷつっと透明な糸を引いた。駆光くんはぼくを見下ろし、静かに笑っていた。


 ここは学校で、その中の部屋で、いつかは使う参考書がたくさん置いてあって、それを保管するためだけの部屋で、決してこんな行為をする場ではない。でも、それを咎める人はこの空間には誰もいなかった。ぼくは背徳感で身を震わせた。


 駆光くんは満足したのか、もう一度ぼくをぎゅっと抱きしめてぼくに甘い言葉を投げ続けた。ぼくはただ、その甘い言葉を享受する事しかできなかった。


「河合くん大好きだよ」

「一番可愛い」

「顔も、体も、言葉も全部可愛い」

「全部大好き、愛してる」

「一生側にいてあげる」


「だから、俺だけに愛されようね、俺の可愛い河合くん」






10

 駆光くんと付き合って周囲の反応も少し変わった。いや、悪口には変わりないのだけれど、駆光くんを中心とした悪口になった。


「なあ、3組の地雷、駆光に付き纏ってるらしいぞ」

「マジかよ、友達いなくて寂しいからってストーカーか?」

「駆光くんかわいそー」

「あんなやつ、駆光くんなんかと関わっちゃ駄目でしょ」


 実際は駆光くんがぼくに付き纏ってるのだが、噂とは妙なもので、誰かが聞いて面白いと思うように改ざんされる。そして、噂が噂を呼び、結局ぼくがヤバイ奴みたいな話になる。

 まあいいんだ。言いたいように言えばいい。だってぼくは、可哀想なぼくが一番可愛い。無い噂を流されて影でいろいろ言われているぼく、すっごく可哀想。そして可愛い!


 __と、思ったけれど、いつもと様子が違った。

 いつもより、心臓がぎゅーってなるのが強い。いつもよりも痛い。そして掴まれたような痛さだけじゃなくて、細かい針で刺されたみたいに心臓がチクっとした。


 あれ?こんなんだったっけ。慣れない事続きで、ぼくの心臓おかしくなった?


 ぼくは頭にはてなをたくさん浮かべながら、ぎゅっと心臓のあたりを手で抑えた。


 するといきなり背中にそれ以上の衝撃を感じ、その場に崩れ落ちた。背中とよろけた時に壁にぶつけた肩が痛い。後ろを振り返ると嶋くんがイライラとした顔をしながら立っていた。片足が上がっていたので、多分ぼくは蹴られたのだと思う。


 嶋くん、蹴られたけど、怖くない。だって、ぼくの可愛さを存分に引き出してくれる存在だから。でも、未だに声は震えるんだ。


「し、嶋くん、なに、ぼ、ぼく、邪魔だった?」

「……」


 嶋くんは何も答えなかった。変わりに、ぼくを無理矢理立たせてぼくの腹部に一発拳を打ち付けた。


「かハッ、……」


 口から体の中に入っていた息が漏れた。程なくして強烈な痛みが襲いかかり、涙が溢れた。嶋くんは次はぼくの顔に狙いを定め、横から殴ってきた。白い廊下にぱたぱたと血が飛び散った。鼻からなのか、口からなのか、それすらもよく分からなかった。

 周りには誰もいなかった。きっと、みんな嶋くんを怖がっているから。今この空間には、ぼくと、嶋くんのたった二人だけだった。


 嶋くん、嶋くん、なんでいつも俺を殴るんだろう。ああいや、違う。別にそんなのはどうだっていい。だって、嶋くんに殴られるぼくはとても惨めで、痛々しくて、可哀想で、それがすっごく可愛い。


 __可愛いはずなんだ。


(あれ……?)


 ふと頭によぎった感情によって、ぼくの思考は停止した。なんか、おかしい。違う。


 いきなりびくともしなくなったぼくを不審に思ったのか、嶋くんはぼくの髪の毛を掴みあげて顔をのぞき込んだ。

 嶋くんの鋭い切れ長の目が見開かれた。情なんて知らない瞳が、微かに揺れた気がした。


「お前……」


 嶋くんが、何かを言いかけた。


 その時だった。


「河合くん!!」


 駆光くんが息を切らしてやってきた。

 そしてぼくの悲惨な姿を見るなり、いつもの表情からは想像もできないような顔で嶋くんを睨みつけた。


「嶋、離せよその手」

「……んだよ、うっせえな……」

「手、離せ」

「……チッ!」


 嶋くんは、ぼくを掴んでいた手を意外とあっさりと離してくれた。

 そして駆光くんはすぐにぼくの側に寄り、ぼくを抱き寄せ、嶋くんに向き合って宣戦布告するかのように言い放った。


「俺達、付き合ってるから。もう手出すな」

「は」

「え」


 爆弾発言。嶋くんもぼくもぽかんとしてしている。ぼく達が付き合っている事なんて、まだ誰も知らない。いや、駆光くん、何言っちゃってんの!?


「かかか駆光くん!?え、なんで!?」

「だって、俺のものだって言っとかないと、河合くんすぐ殴られそうだし」

「いや、馬鹿!?だからって言わなくていいでしょ!?」


 よりにもよって、学校一の不良、嶋くんに言うなんて。

 ぼくたちはその場の空気などお構いなしに口喧嘩をした。まるで、さっきの暴行なんてなかったみたいに。

 すると嶋くんが唖然としたような顔で一言呟いた。


「ホモかよ……」


 そう言って、嶋くんは普通に去って行った。


 え?


「嶋くん、どっか行っちゃった……」

「よかったじゃん。てか、早く手当しないと。とりあえずこれで鼻抑えて」


 駆光くんから清潔そうなハンカチを渡された。どうやら出血は鼻かららしい。綺麗なハンカチを汚してしまうことに申し訳無さを感じながらも、鼻にハンカチをあてた。


 出血のせいなのか、それとも最後に見た嶋くんの表情のせいなのか、__それとも、嶋くんに殴られている時に感じた事のせいなのか、ぼんやりとしながら嶋くんが去って行った方向を見続けた。

 そんなぼくを駆光くんは心配そうに見てきた。


「ちょっと、大丈夫?痛い?ぼーっとするの?」

「……駆光くん、ぼく、おかしくなったかも」

「河合くんがおかしいのはいつものことでしょ」

「違う、そうじゃなくて」


 そうじゃない。逆なんだ。おかしくなくて、おかしい。

 いくら考えても一つの答えしかでなかった、それは。


「可哀想なぼく、可愛いって思えない」


 ああ、そっか。だから、ぼくの心臓もおかしかったんだ。

 言葉にしたことによって、なんだか心にぽっかりと穴が空いたような感覚になった。


 そんなぼくを見て、駆光くんは一瞬きょとんとした顔して、そして殊更目を蕩けさせて笑った。


「よかったんじゃない?これで。河合くんは、俺にだけ愛されてればいいんだよ。多分、河合くんの本能がそう言ってんの」


 だから、愛の力じゃん!


 と言って、駆光くんはぼくの髪の毛をさらっと梳いた。

 ぼくは、それに上手に返すことができず、ただ駆光くんを見つめることしかできなかった。


 本当に、これでいいのだろうか。

 駆光くんからは愛情をたくさん注いでもらっているし、ぼくは普通の人に戻れたし、これが最適解なんだろう。


 でも、なんでだろう。空いた心の穴に、違和感が詰め込まれたような感じだ。 





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