1
木闇凪は頭が悪いし口も悪い。最低な他己紹介だけど、これは事実だ。
「ハ? そんなつまんねぇことやってはしゃいでんのか? ダッセぇな」
これは俺も覚えている。ひっそりと休み時間を過ごしいてた俺達すみっこ族の元にも届くくらい、教室の空気が凍りついていた。よく通る声だった。
木闇の周りにいた人たちはただただ苦笑いを零していたが、内心苛ついていただろう。楽しく盛り上がっている空気中に、泥水みたいに重くて強い1滴。彼ら1軍が湧いていた話のネタは薄っすらとこちらまで聞こえてきたが、正直気持ちのいいものではなかった。だから、木闇自体は怖い存在だと思っていたけど、その時ばかりは「よく言った」と心の中で称賛を送らざるをえなかった。
当の木闇本人はいきなり黙ってしまった周りを見て、「俺、何か言ったか?」と言わんばかりの表情をしていた。木闇は馬鹿だ。馬鹿ゆえに、多くの言葉を知らないし選択肢がないから言葉を選べない。有り体に言えば、木闇はドがつくほどの正直者だった。
翌日から、木闇は1軍グループからハブられるようになった。気がつけば休み時間は1人で過ごしていたし、ペア学習やグループ学習では余るようになっていた。1軍のノリについていけない者はよっぽどの愛されキャラでなければ淘汰されていく。木闇も例に漏れなかった。だから、これは偶然というか必然というか、俺達は木闇と混じり合うようになってしまった。
4人1組での英語のグループ学習で、俺と漆と夜差は何も言わずとも固まった。もうこの頃にはお互いが安全であり孤独であるということを熟知していて、休み時間や昼休みもこの3人でよく過ごすようになっていた。そこに、1人余った木闇が入ってきた。
「……木闇、くん。ここ、やってくれないかな……」
「あ?」
「ひっ……」
海外の小説の翻訳。手分けしてやるはずだった。俺がなるべく負担が少なさそうなプリントを木闇に渡すと、それはそれは凄い勢いで俺を睨んできた。漆は黙ったままだし、夜差はぷるぷると震えながら涙目になっている。多分俺以外は木闇に話しかけないだろうと思った。俺も出来ることなら木闇と関わりたくない。なんせ、イライラがピークに達した時、片っ端から目が合った通行人に喧嘩をふっかけるようなヤツだ。そんな無茶苦茶なやつ、関わらないに越したことはない。
「ダイジョウブでーす……」
少しばかり木闇の席に寄せたプリントをゆっくり回収し、それを夜差の席に置いた。夜差は賢いので、多分やってくれる。夜差は俺の顔を見つめて頬を膨らましていた。知らん。文句があるなら木闇に言え。
「木闇くんは、その……寝てていいよ。俺達でやっとくし……」
仕方がない。やってくれないのなら俺達でやるしかない。いつもの3人でやるのと変わらない。とりあえずこの時間さえ乗り切れば、この最悪ムードも終わるだろう。
「は?」
「ひっ……」
やり始めたらやり始めたで、木闇は俺を睨んだ。なんなんだよコイツ。どうしろって言うんだよ。
「貸せ」
「え」
木闇は夜差の机からプリントを奪い取り、自分の目の前に置いた。その手つきがあまりにも乱暴すぎて、夜差は大きく体を震わせて怯えていた。可哀想に。早死にしそう。あとここまでずっとノームーブな漆も漆で怖いな。
そしてあろうことか、木闇はちゃんと問題を解き始めた。嘘、なんで、奇跡。
後になって考えたけど、木闇はこの時から複数人から仲間外れにされるのが嫌だったのではないかと思う。サボるより、他の人が何かをやっている状況で自分だけ同じことが出来ていないということが許せなかったんじゃないか。
辞書も引かずに英文の下の空白を埋めていく。めちゃくちゃ早い。木闇はクオーターだと噂で聞いた。もしかしたら英語はできるのかもしれない。顔がいい運動ができる以外の長所を全く知らなかったけど、これはちょっと見直す。
「あ、あ、あのっ……、き、木闇、くん、そ、それ……」
「……んだよ」
と、ここで夜差が冷や汗を書きながら木闇のプリントを指差した。指先が震えている。木闇はじろりと夜差を睨んだ。
「ひ、ひぃ……。っ、そ、それ、訳、ち、違うかなー、って……」
「はぁ? うるせえんだよいちいち。俺がそう思ったらそうなるんだよ」
「ヒィ〜〜〜っ、横暴だよぉ……」
思考がジャイアニズムすぎる。本家よりたちが悪いな。ちなみにグループで評価される学習なので、他の訳が合っていても木闇の部分だけ絶望的に間違っていたら、マイナス評価になってしまう。成績優秀な夜差にはそれが耐えられないみたいだ。
「こ、この文は、教科書に例題書いてあるから……それと同じように訳せばいいよ……」
「はぁ? めんどくせえな。お前が教科書見せろ」
「く、黒野くぅん……」
「……」
夜差はもう泣いてしまいそうな顔で俺の方を見た。こいつら、案外良いコンビなんじゃないのか。
その後、夜差は怯えながらも甲斐甲斐しく木闇に文法を教えていた。木闇は英語出来るんじゃないか説は塵と消えてしまった。木闇は正真正銘、どこをとっても馬鹿だった。
これ以降、木闇はいつの間にか俺達と一緒に行動をともにするようになった。俺らといる体裁は全く気にしていないらしい。俺らはここ以外どこにも属せないけど、木闇もそうみたいだ。
2
「みんな、夏休みなにする?」
明日から待ちに待った夏休み。クラス中の雰囲気も浮かれていた。チャイムが鳴ったらその合図とともに歌って踊って校舎内を闊歩したい気分。あれは映画の中だけの話だ。
「俺はねぇ、恐竜博物館に行くよ」
夜差はサンドイッチをもきゅもきゅと食べながら嬉しそうに話た。体がデカイのに何故ここまで小動物を演出できるのだろう。
「ガキかよ」
「関係ないよ! 寧ろ大人になって行くほうが楽しいんだよ」
木闇が鼻で笑うと、夜差が必死に反論する。1年も経てば、夜差はここまで木闇と対等に喋れるようになる。もうなんの脅威もないらしい。寧ろ木闇の知らないところで無自覚煽りをしている。多分夜差は木闇のことをちょっと下に見ている。
「漆は?」
「……俺は、海外に行く」
「えっ、マジで」
「なんでそんなビッグイベント言ってくれなかったの!?」
「お前みたいな馬鹿が英語喋れんのかよ」
ちなみに最後に発言したのは木闇だ。お前が言うな選手権1位すぎる。
「グレート・バリア・リーフを見に行く」
「1人で?」
「いや、いとこと」
「はぁー、いいなあ」
そういえば前に漆は洋画を見て、その影響かしきりにグレート・バリア・リーフに行きたいと行っていた気がする。こいつは本当に行動力の塊だ。そういうところは尊敬する。
「黒野も来るか?」
「行かねえよ」
「なんでだ、来ればいい。どうせ予定なんてないだろ」
「お前のその俺に対する絶対的なお一人様忖度なんなの?」
というか、そんな急に言われても「行くぜ!」を言える人の方が少ないだろ。
「俺は金を稼がないといけないから、海外旅行なんて尚更無理だわ」
「黒野くん、お金いるの?」
「そう。ほしいゲームあるから」
「お小遣いじゃ買えないの?」
「もう前借りしちゃったから、発売日に変えないんだよな」
「バイトするのか?」
「いや、それがまだ決めてないんだよ……」
「バイトって短期にしても、そんな簡単にすぐ決められるもんなの?」
「う……」
夜差に痛いところを突かれた。そうなのだ。もう7月も終わりかけというのに、俺はバイトを探せていない。漆と違い俺は腰がかなり重いので、なかなか1歩を踏み出せない。なんせ、今までバイトをやったことがないのだ。すると、木闇が俺の方を見てぱちくりと目を見開いた。
「んだよ、それ先に言えよ」
「え?」
「俺と一緒にバイトするか?」
マジか。あの木闇が、バイトを?
人との協調性社会性一般的な思慮や配慮その他諸々死んでる木闇が、アルバイトを?
「……ちなみに、どこでバイトすんの?」
「俺の親父が手伝ってる海の家」
「……陽キャすぎるッ……」
家族ぐるみでパリピだ。海の家に木闇がいるなんてそれはそれは金色に輝く客寄せパンダだろう。
「……俺が海の家で働けると思う?」
「じゃあいいよ。お前はそうやって一生うだうだ文句垂れ流しながら決まらないバイト探し続けとけば」
「……」
クソ、木闇め。こういう時は本当に反論できない。
「……ちなみに、日給は?」
「1万5千くらいじゃねえの。頑張りにもよるけど」
「嘘っ! 高……!?」
1万5千あったら、新作のソフトだけじゃなくて買いたくても手を出せなかったソフトまで買えちゃう。しかも木闇がいるし、1人じゃないし……。でも海の家か……。いや、注文取って運んで会計するだけだと思えば……。どうせみんな木闇に注目するだろうし……。ええい。
「木闇、俺もそのバイトやる」
「ええ、黒野くんやるの!?」
「俺の誘いには乗らなかったのに……」
「だからまずその金がないんだって」
俺みたいな根暗が海の家で働くのが想像出来なかったのだろう。夜差も漆も目を開いて驚いていた。木闇はニヤッと笑って、早速お父さんに連絡していた。
「めちゃくちゃこき使ってやるからな」
「お手柔らかに……」
3
俺は耐久力がない。不慣れなバイトに加え、俺とは違う世界の人間のキラキラオーラとメラメラ紫外線に連日耐えることは出来ないと考え、お盆休みの1日だけ働かせて貰うことになった。俺には1万5千円あれば十分だ。
「yeah〜ッ! Awesome! 最ッ高の海日和ね、凪、黒野くん!!」
「うるせえな、黙って運転しろよ!」
「お、はは……」
オープンカーなんて初めて乗ったぞ。
俺達は今木闇のお母さんに車で現地まで送迎してもらっている。どうやら木闇のお母さんは顔と性格だけでなく、車と運転も豪快らしい。ちょっともう吐きそうだ。後部座席には俺と木闇が座っている。木闇のお母さんの顔は見えないけれど、全力で楽しんでいるオーラは伝わる。
「だから酔い止め必須って言ったじゃねえか」
「こんなデロリアンみたいだと思わないじゃん……」
幸先が悪すぎる。ちなみに木闇のお母さんは俺達を海の家に送り届けた後、1人でバカンスするらしい。俺達2人は労働が終わったら、近くにある木闇の祖父母の実家に泊まらせてもらう。次の日は木闇のお母さんは用事があるらしく、2人で電車で帰らなければいけない。これなら最初から電車を選んどけばよかった。
「おい、しっかりしろ……。おいババア! そんな飛ばすなよ!」
「法定速度ギリギリだから大丈夫よ!」
そうだとしたら、逆にこの運転技術は凄い。誰が乗っても100%酔えるだろ。木闇のお母さんは前しか見ていないらしく、バックミラーから俺のこの死んだ顔は確認してもらえなかった。
俺が俯いて目を閉じていると、木闇は一度大きく舌打ちをして、俺の頭を無理やり動かした。
「あぇっ」
「その体勢余計酔うだろ。酔ったときは頭を固定すんだよ」
「え、は、はい」
そう言って、俺の頭を木闇の肩に寄せた。これはあれだ、電車の中でカップルがやってるのを見たら意味もなく呪っていたやつ。それを今俺が。
「木闇、これは……」
「黙ってろ。目瞑っとけ」
「はい……」
気持ち悪くて考える気力にもなれなかったので、大人しく木闇の指示に従った。
「お前なんで平気なの」
「ガキの頃からこの運転経験してたら三半規管バグるんだよ」
「鍛えられたとかじゃなくてバグってんだ……おぇ……」
「だから喋んなって」
あぁ、何故か木闇が優しい……。木闇のお母さんヤバイ補正もあって、木闇がめちゃくちゃ優しく見える……。普段なら絶対「知るか勝手に吐け」「ここから飛び降りて吐け」「俺の目の映らないところで吐け」くらいは言いそうなのに。
結局俺は木闇の肩に頭を預けたまま、暴走する車の中で目を瞑って耐え忍んだ。木闇は何も喋らなかった。
4
「君が黒野くん?」
「あっ、ハイッ、お世話になります」
「いやいや、こちらこそよろしくお願いします。人手が足りなくて困ってたんだよ。ありがとうね。凪も手伝ってくれてありがとう」
「うぜぇ、そういうのいいんだよ」
なんとか地獄の運転を切り抜け、現地に着いた。そして海の家に向かうと、そこには開店準備をしている爽やかな男の人がいた。その人は俺たちに気付くと、嬉しそうに笑って駆け寄り、俺の手を握った。隣の木闇は「親父」と。え、お父さん?これが本当に木闇のお父さん? ちょっと、信じられないくらい善人だ。海の家の経営を手伝っているくらいだから、ワイルドな感じが、それか木闇のお母さんみたいにイケイケな感じなのだろうと思っていたけど、実際はジュノンボーイくらい爽やかで柔和な男の人だった。木闇は何故少しでもこっちの性格の要素を受け継げなかったのか。にしても木闇はどっちの遺伝子を受け継いでもそりゃあこんだけ綺麗な顔が産まれるわけだ。発見と疑問がある。
「じゃあこれエプロンね。黒野くんはお客さんから注文聞くのと、料理運ぶのと、お会計やってもらってもいいかな」
「はい。でも俺、初めてで」
「ああ、大丈夫! ちゃんと教えるし、分からないことがあったら俺でも凪でもいいし、すぐなんでも聞いて」
「ありがとうございます……!」
木闇のお父さん、好き! 優しい! かっこいい!
もう初バイトがここでよかったと思っている。普段まともな人なんて関わらないから、こういうちゃんとした大人が輝いて見える。ちなみに俺の両親はあまりまともではない。
「ハァ? 俺に聞くなよ」
「教えてくれていいだろ! どうせお前も一緒の仕事やるんだし」
「いや、俺キッチンだし」
「は?」
「俺が料理してる時に話しかけられるの鬱陶しいから話しかけんなよ」
「え、木闇ホールじゃないの」
「んだよ、文句あんのか」
「……」
そんな、お前の顔はなんのためについてんだ。経済を回すためだろうが。キッチンに隠れるなんて勿体無い。俺と一緒の苦しみを味わえよ。
「こらっ凪、口が悪いよ! 凪も手空いたらホール出てもらうんだからそんなこと言わないの」
木闇のお父さんが小さい子に叱るくらいの態度で木闇に注意した。木闇のお父さん、本当に可愛いな。木闇のお母さんとはどうやってゴールインしたんだろうか。
それはさておき、俺は横で席の準備をしている木闇にこそっと耳打ちをした。
「木闇、俺1人で全パリピを相手する自信ないんだけど」
「知るかよ」
「最初だけでもいいからさ、一緒にホール出てよ」
「やらねえよ。俺が接客なんてだりぃのやる訳ねえだろ」
「お前ずるいぞ!!」
「あーはいはいうるせえな。お前は注文聞いて料理運んどけ。それだけで1万5千貰えんだから」
このイケメン、表に出ることを嫌っている……!
確かにそうだよな、木闇は文化祭の時も自分から裏方に行ってたし、目立ちそうな場面は息を潜めるタイプだもんな。でもこんな夏の海とは真逆の位置に存在するようなヒョロガリ青白根暗陰キャの俺が1人でフラフラになりながら料理運んでる海の家なんか誰が行きたがるんだ。
「なあ木闇、俺1人じゃ無理だって! 助けろよ!」
「……ハハッ」
木闇は一瞬間の抜けたような顔をして、そして意地悪そうに笑った。いつもと感じが違って、調子が狂う。
「お前が慌ててるの見る方が楽しいから、助けねえよ」
「クズ野郎が!」
木闇はキッチンへと向かって行った。訂正、木闇はやっぱり木闇だった。
5
「黒野くん、これ5卓に持って行って。あと一緒にドリンクもお願い」
「は、はい!」
オープンから数時間たち、お昼時になった。徐々に客が増えていき、満席状態が続いた。俺は考える暇もなく、木闇のお父さんの指示に従っていた。キッチンは木闇と木闇のお父さんと、あとオーナーである木闇のお父さんのお知り合い3人、ホール専属は俺1人だった。時々キッチンの人が作り終えたらそのまま運んでくれるが、ホールが俺1人というのはなかなか大変だった。容量が悪いので持って行く料理を普通に間違えるし、飲み物零すし。木闇のお父さんは笑って許してくれるけど、その度に木闇に罵声を浴びせられた。こいつ、パワハラが過ぎる。誰だよちょっとでも優しいかもしれないなんて言ったやつ。
そんなこんなで、猛烈に忙しいお昼時が終わり、気がつけばおやつくらいの時間になっていた。
「黒野くん、休憩なかなか取らせてあげられなくてごめんね。お昼にしようか」
木闇のお父さんが申し訳無さそうな顔をしながら、ヘロヘロになっていた俺に声をかけてくれた。木闇の賄い付きらしい。あいつがそんな気の利いたことしてくれるのかと驚いたけど、多分お父さんに指示されたのだろう。
キッチンに入り、奥の方でひっそりと腰掛けながら木闇特性の焼きそばをいただいた。普通に美味しかった。食べながらチラッとホールを見ると、珍しく木闇がホールに出て注文を聞いていた。……俺が出ていた時と客層が違いすぎる。木闇の周りにいたのが綺麗な水着のお姉さんばっかで思わず乾いた笑いが溢れた。でも木闇は本当に男かと思うくらい動じていない。あの視覚情報でなにも思わないのは、寧ろちょっと不健全だろう。
「黒野くん、大丈夫? 疲れてない?」
「あ、はい。なんとか……」
木闇を遠くからぼーっと眺めていると、木闇のお父さんが俺に話しかけてくれた。今はキッチンも平和で、会話する余裕もあるらしい。
「賄い、どう?」
「……美味しいです。きや……凪くんって、普段から料理してるんですか」
「よくやるってわけじゃないけど、去年からここでバイトしたいって言って、去年もキッチンに立たせてたからある程度メニューの料理は出来るみたい」
「へぇ……」
確かに木闇は長く続けているバイトはないけど、去年の夏単発バイトはやったと言っていた。それがこれだったのだろう。他人に指示されて業務をする木闇の姿が想像できなかったけど、これなら納得がいく。
「黒野くん、ありがとう」
「なにがですか?」
突拍子もなく、木闇のお父さんが俺にそう言ったので、俺は思わず食べる手を止めた。木闇のお父さんは優しげに笑っている。
「凪と友達になってくれて」
「……いや、そんな、感謝されるほどのことでは……」
「いやいや、親としては本当にありがたいなって思ってるんだよ」
そう言って、ホールにいる息子を眺めた。
「凪はあんなんだから、昔から学校の内外で問題起こしては俺達親もよく学校に呼び出されてね。何言っても聞かないし、そんな悪いことする理由もなかなか教えてくれないし、また問題起こして先生に怒られての繰り返しで」
「ああ、想像できます……」
「でしょ? 今はまだマシになった方だけど、中学の時とかはもっと凄くて、正直俺も手に負えなかったよ。新しく友達ができてもすぐ衝突してみんな離れていくから、ちゃんとした友達が一向にできなくて……。人付き合いが困難なんだよね。誰に似たんだか」
木闇のお父さんはおかしそうに笑った。茶化すような雰囲気はない。その似た人も、昔は息子のように孤立していたのかもしれない。
「だから、今回凪が友達を連れてくるって言った時は本当にびっくりしたんだよ」
「俺、ですか」
「うん。俺も嬉しくなって、どんな子? って聞いても、フツー、しか返してくれなくて。あれは照れ隠しだね」
「いや、本当にフツーって思ってると思いますよそれ……」
「いやいや、フツーの子は凪に近寄れないよ」
確かに! それは本当にそう。
俺達は何故木闇とうまくやっていけてるのだろう。いや、うまくやっていけてるのだろうか。
「凪くんって、昔からあんな性格なんですか」
「そんなことないよ。小さい頃は本当に純粋でよく笑う子で、天使みたいに可愛かったなあ」
「それは……お宝映像すぎますね」
「そうだよね。今思うと、あの頃は本当に一瞬だったなあ。すぐ捻くれちゃったし」
「そうなんですか?」
「うん。凪の顔、すっごく可愛いでしょ?」
木闇の顔が可愛いかは分からないけど、可愛いを整っている顔と分類するのなら、それはそうだ。俺は頷いた。
「凪のママがハーフだし、凪自身も日本人離れしたような顔してるから、それでいろいろ嫌なことがあったみたい。物心ついた時には自分と他の人との違いを意識してたんだろうね。あと、親が言うのもアレだけど、凪勉強はかなり苦手だし」
「ああ、まあ……はい」
「それをからかったり、日本人じゃないから日本語分かんないんだろとか言って馬鹿にするような人がいたんだよね。……それからあんな捻くれ者になっちゃったんだよなぁ」
「……」
「情けないけど、親である俺達は凪の悩みをちゃんと理解してあげられなかった。どうすることもできなくて曲がったまま育ててたら、今の凪になってた。……親でも、所詮は血のつながりがあるだけの他人だね。凪のこと、ただ見守るしかできなかったよ」
声も、顔も、なにもかも優しいけど、その言葉は俺には重かった。今の俺には何1つだってその気持ちを汲み取れない。
「凪は本当に捻くれ者だよね。1人でいたくないくせに人を選ぶし、誰も近寄らないから一向に友達はできないし、だいぶ生きづらそうな性格してるよね」
「はは……」
俺含め、俺の周りの友達にはみんな当てはまると思う。そういう奴らだから、俺達は集まってしまったのだ。
「だからね、黒野くんみたいに凪にちゃんと言い返せる友達ができて嬉しいんだ」
木闇のお父さんは、俺を見つめてにっこりと笑った。木闇はあまり破顔して笑わないが、たまに見せる口を開けて笑った時の表情はお父さんにそっくりだった。
「いや、俺は……本当に何もしてないです」
「なにもしてなくても、側にいてあげるだけで助かってるんだよ」
「……そうでしょうか」
「うん。凪の側には、俺達親以外に誰もいなかったから。これからも凪をよろしくね」
そうやって、親に改めて言われると、なんだかむずがゆい気分になってくる。下手くそな笑みを浮かべながら小さくはい、と返事をした。
その時ちょうど、木闇がキッチンに入ってきた。ようやく列が途切れたらしい。空いた皿を運びながら、自分のお父さんを見て顔をしかめていた。
「は? 気持ちわりぃ……」
「そんなこと言わないでよ」
意味もなくニコニコと息子を見ていたのだろう。木闇は舌打ちをしていたが、お父さんは何食わぬ顔をしていた。
木闇も過去にいろいろあったんだろうけど、この親子関係は純粋に羨ましいと思う。
6
初めてのバイトということもあり、やること全てが新鮮で気付けば夕方になっていた。それでもまだ日は高い。失敗することはたくさんあったけど、無事に今日1日を終えられそうだ。
と思ったら何か起きてしまうのが定石で。
「あー? 俺が頼んだの、塩焼きそばなんだけどォ?」
「え……」
「オイ、今すぐ作り直してこい、イシャリョーもぎ取んぞコラ」
いい年した安っぽいチンピラが、俺を睨みつけた。
こういうタイプの集団、本当に消えればいいのに。俺は確実にちゃんと注文を受け取った。メニュー表をバンバン指で叩いて「これ1つと〜」と言ってたので、俺はそれをそのまま厨房に伝えただけ。よく見なくても顔が真っ赤で酒臭くて酔っているのが丸分かりだ。これに関しては俺に非はない。
「いや……そ、ソースの方、頼まれてました……」
「はぁ!? 口答えすんのかよ、最近のガキはどこまで礼儀がなってないんだ!」
お前が言うな〜〜〜〜〜ッ!?
大声にして言いたかったけど、俺はこういう連中に思い切って反論出来ない。怖いからな。でもこれ確実に俺悪くないのに。
「す、すみません、でも、注文確認もしたし……」
「うるっせえな、この生意気なガキがよ! オイ店長呼んでこい」
「いや、それは……」
「殴られてぇのかよお前」
「ヒッ……」
いきり立った男が、俺の胸ぐらを掴んで拳を振り上げた。これは木闇で慣れていると思っていたけど、全然違う。めちゃくちゃ怖い。知らぬ間に俺の脚はガクガクと震えていた。でもこんな事で木闇のお父さんに迷惑をかけたくない。しかもこの状況で大声を出せる訳もなく、俺は次にくる衝撃に目を瞑って耐えていた。
すると。
「ウッ!?」
パシャン! という音ともに、男がいきなり声を上げた。恐る恐る目を開けると、目の前の男は目を見開き頭から水を垂れ流していた。数秒後、頭上に乗っていた氷が床に落ちる。
「だいぶ酔ってるようなんで、お冷のサービスしようと思ったんですが、手が滑りましたァ」
「……!」
俺の横で、木闇が空のジョッキを傾けたままニヤリと笑っていた。片腕は俺の肩に回され木闇の方に引き寄せられていた。
ヤバい、これほどまでに木闇のことをかっこいいと思ったことはない。
男は勿論それに怒り心頭で、矛先を木闇の方に向けた。今度は木闇の胸ぐらを掴み、思い思いに罵声を浴びせている。滑舌もめちゃくちゃで、正直何言ってるか分からなかった。木闇は流石の肝の座り方というか、ピクリとも表情を動かしていなかった。多分、力の喧嘩をすれば自分が勝てると分かっているのだろう。
「ちょ、ちょっと! なにしてんの凪!?」
騒ぎを聞きつけた木闇のお父さんとオーナーが慌てて止めに入った。結局迷惑をかけてしまった。
他のチンピラ連中も加勢したり野次馬が見物しに来たり木闇が正当防衛だと言って金的攻撃を与えたりして、現場は騒然とした。30分後、やっと近所の交番から警察がやってきて、その男は連行された。どうやらここだけではなく、他の海水浴客にも悪質に絡む迷惑な連中だったらしく、警察の方も手をこまねいていたらしい。
貴重な営業時間をこんな事で潰してしまった。申し訳なく思っていると、木闇のお父さんは俺の背中を撫でてくれた。
「黒野くん大丈夫だった? ごめんね、気付くのが遅くて……」
「いや、俺もなにも言わなかったんで。俺は全然大丈夫です」
「よかった〜……。あと凪! あんな危ないことしちゃダメだよ!」
「危なくねえよあんなザコ」
木闇のお父さんは涙目になりながら息子を抱きしめた。本当に、よくこのお父さんの元からこれが産まれてきたな。
木闇は鬱陶しそうにしながらも、黙って抱きしめられていた。
以降の業務は平穏に終わっていき、そんなこんなで俺の1日限定の海の家バイトは終了した。ここなら連日働いてもいいかもと思ったけど、これ以上足を動かしたくないというくらい疲労が溜まっていたので、俺みたいな貧弱者にはやっぱり1日で十分だったかもしれない。
バイト終わりに木闇のお父さんからお給金を受け取った。封筒の中身を確認すると、なんと2万円も入っていた。困惑しながら木闇のお父さんを見ると、「これからも凪と仲良くしてねの分だよ!」と耳打ちしてくれた。木闇の実の父に買収されてしまった。
木闇は暫くバイトを休んで、また人手が足りないときに働きに行くらしい。意外と家族思いなんだなと感心した。
7
くたくたの体にムチを打って、俺達2人は木闇の祖父母の家に向かった。木闇のお父さんの実家なので、外国人はいない。その家は海沿いに建てられた平屋の古民家だった。驚いたのが、その大きさ。お願いしまぁす! と叫びながらキーボードを叩きたくなるような、立派な豪邸だった。俺はその家の佇まいを見てぽかんと口を開けた。
「木闇って、生粋の金持ちだったんだな」
「は? んなことねえよ」
「……」
黒野家が住んでるボロボロの団地を見ても同じことが言えるのだろうか。近所ではクロユリ団地と言われている。めちゃくちゃ失礼。
広い玄関の中で出迎えてくれた木闇のおじいちゃんおばあちゃんは、普通にいい人たちだった。そりゃそうだよな、あのお父さんの両親だし。おじいちゃんおばあちゃんには木闇も強く出られないらしく、珍しく悪態をつかずに普通に会話していた。こうして見ると木闇も普通の男子高校生だと感じる。
夜ご飯はおばあちゃんが作ってくれた料理をご馳走になった。広すぎる居間に通され、見たこともないくらい大きい座卓には食べきれないほどの量の手料理が並んでいた。こういうの、沖縄の大家族の映像とかで見たことがある。どの料理も凄く美味しいし箸が止まるたびにもっと食べていいのよと勧められるので、俺がこの家の孫だったら確実に仰天チェンジに出てる人のダイエット前みたいなフォルムになっていただろうなと思う。
「文くんは、普段よく凪と遊んでいるの?」
「よく遊んでいる……かは微妙ですが、学校ではいつも一緒にいます」
木闇のおじいちゃんとおばあちゃんは俺の名前を聞いて、文くんと呼んでくれた。この呼ばれ方は慣れないのでむずがゆい。
「凪にこんな素敵なお友達ができて嬉しいわ。これからも仲良くしてね」
目の前で座っているおじいちゃんとおばあちゃんはニコニコしながら俺を見ている。どうしよう、俺は本当になにもしてないのに。ただ流れで木闇が俺らのグループに混ざるようになっただけで、特別仲のいい友達らしいことをしてる訳ではない。それなのに木闇家のこの熱烈な俺への歓迎具合、ちょっと申し訳なく思えてくる。木闇に友達が出来るということが相当珍しいんだろうな。
「……」
俺の隣で食べている木闇は黙ったままだった。多分相手が木闇のお父さんとかお母さんだったらいろいろ言い返してるんだろうな。
食後、寝室として案内された部屋もまあ広かった。お願いしまぁす! のアニメ映画でも見る、襖で部屋の真ん中を区切ったような部屋だった。それが今は開放されている。広すぎてちょっと怖い。そしてこんなに広いのに、敷かれた布団は2組隣どうしで並べられていた。離すと木闇になんか言われそうだし、木闇の方が嫌がって引き剥がすだろうなと思って俺は何もしなかった。
「俺先風呂入ってくる」
木闇も灼熱の中料理をし続けてヘトヘトなようで、うっすらと汗をかきながら浴室へ向かって行った。
日中は忙しくて木闇と話す時間があまりなかったし、バイトが終わってからもお互い疲労困憊で特に会話はなかった。いつも学校では何か話題が上がるたびに木闇が頭の悪そうな発言をして「こいつ頭悪いな」と思うか、俺が木闇から罵声を浴びせられるか、たまに言い合いになるかなので、こういうパターンは珍しい。そもそも木闇と俺の共通点なんて男であるくらいなので、今まで何か会話が盛り上がったことがあったか考えても何も思いつかない。あれ、俺木闇とどう会話してたっけ。普段は他の漆と夜差もいるけど、サシだとどういうテンションで話していたか考えれば考えるほど分からなくなってきた。
いや、木闇との関係についていろいろ考えるだけ無駄だな。俺になんのメリットもない。日課のソシャゲでもしようと思ってスマホを見てみると、数件のメッセージが入っていた。
『夜差奈之:今木闇くん?』
述語が圧倒的に足りないな。
『そうだよ』
『夜差奈之:だめだよー』
「は?」
今度は主語が足りない。何が駄目なんだ。分からないので、うさぎと猫とエイリアンが組み合わさったような謎のキャラクターが「は?」と喋っているスタンプを返す。これ以降夜差からの返事はなかった。
そしてもう1人からのメッセージ。
『漆千佳:オーストラリアには「エッグス・アンド・ベーコン」という名前の湾がある』
その後に、その湾であろう写真が送られてきた。いや、グレート・バリア・リーフの写真見せろよ。
『お前は楽しそうだな。夜差が暇そうだから構ってやれ』
『漆千佳:夜差は俺が何送っても既読がつかない。送りがいがない』
え?
俺には即レスで返ってきたけど。どういうことだ。……まあいいか。大した意味はないだろう。
すると、スパンと部屋の扉が開いた。風呂上がりで浴衣を着た木闇が部屋に入ってくる。寝間着はこれ使ってね、とおばあちゃんから浴衣を用意された。ちょっとした修学旅行の気分だ。
「あー、ねみぃ……」
「1日作業しっぱなしだったもんな」
木闇は髪も乾かさず、そのまま布団に倒れ込んだ。顔がいいから浴衣姿も様になるな。多分こいつはこのまま寝るだろう。布団の位置、ここでいいのだろうか。
そんな木闇はほっといて、俺も浴室へ向かった。知らない間取りだし、1室1室は広いし、借りた寝間着は浴衣だし、本当に旅館みたいだ。なんだかここに来てからずっと落ち着かない。
風呂場で体を洗っている時、自分の肩を触ってふと、輩に絡まれて木闇に助けられたことを思い出した。
(あの時、ナチュラルに肩抱かれたな……)
あいつ、他人を守るとかそういう意識あったんだな。肩掴まれた手、力強かった。あの時の木闇、普通にかっこよかったな。
「……」
いや、何考えてんだ俺。ていうか、俺木闇にちゃんとお礼言ってない。いろいろ起きて頭が回っていなかったとはいえ、助けてもらったんだからお礼くらいはちゃんと言わないとな。
風呂から上がって部屋に戻ると、木闇は枕に顎を乗せながらスマホでソシャゲをしていた。あんなに眠そうにしていたのにまだ寝ていなくて少し驚いた。
木闇のスマホの画面をチラ見すると、それは俺と漆と夜差がやっているゲームだった。木闇はオタク文化を馬鹿にしつつも、俺達3人がやっていることは必ずと言っていいほど一緒にやってくれる。どこまでも仲間外れが嫌なのだ。本人は何も言わないけど。
「寝ないの?」
「これだけやったら」
そのまま無言で画面をタップし続け、木闇はキリのいいところで立ち上がって部屋の電気を消した。あるのは、枕元のライトの明かりだけ。木闇はそのまま布団に潜り込んだ。俺も大人しく真横に敷いてある布団に寝転がった。本当に修学旅行みたいな距離感で寝るんだ。木闇はこれでいいんだ。
目を瞑るとウトウトし始めたが、何か忘れてると思い、ハッと目を開けた。そうだ、お礼言ってない。
「……木闇、さっきちゃんと言えなかったけど、ありがとうな」
「うるせえな」
「感謝してんだよ! 無下にすんな!」
なんだよこいつ、人からの礼をなんだと思ってんだよ。ムカついたので、足を動かして真横にいる木闇の足を蹴った。すると木闇もやり返してきてそれが思いの外痛かったので、更にムカついて腹あたりを蹴ったら、更に倍くらいの力で蹴り返してきた。これを永遠と繰り返していた。疲弊した体を酷使してなにやってんだか。戦いはヒートアップして、枕を使って叩き合いみたいな状況になり、終いには木闇が俺に思いっきり枕を投げつけてきた。あまりの衝撃に、俺はその場で倒れ込む。それでも木闇は俺にじりじりと近寄ってきた。
「ごめん、ごめんて、ギブギブ……」
終始無言なのが怖い。ぎゅっと身構えると、木闇はドサリと俺に覆い被さってきた。そのまま、じっと俺を見下ろしている。俺は何故か全く動けず、枕を抱きしめたまま木闇を見ていた。枕元の小さな明かりだけが俺達を照らしている。
俺、そういえばこいつとキスしたんだよな。
1年の時の秋くらい。あいつらの中で謎の流行があったとはいえ、俺は、こいつと。
あの時のことを思い出していると、ゆっくりと木闇の顔が近づいてきた。顔だけは綺麗すぎる。圧倒的顔の良さに、逸らすに逸らせない。心臓が震え、呼吸が荒くなる。耳の裏でトクトクと血液が流れている。熱、熱が。木闇の体温が俺に降りかかるようだ。熱くて湿っていて、甘い匂いがする。
「__っ、ん、ぅ……」
自然な流れで、唇同士が触れ合った。一瞬だった。顔が、燃えるように熱い。なんで、なんで。
「……なんでするんだよ……」
「……黙れ、うるせえな」
木闇の顔がまたゆっくりと近づいてきた。拒めばいいだけなのに、それができない。ちゅぷ、と唇が重なり、触れるだけのキスをする。俺が息苦しくなるたびに木闇は口を離し、そして角度を変えてまた唇を合わせた。まるで、吐息を交換するみたいに。目は開ければいいんだろうか、瞑ればいいんだろうか。目を細めていると、口の隙間から木闇の舌が入ってきて、前歯をそっと舐められた。驚いて口を開けると、そのまま舌が中に入ってきて、俺の舌と触れ合った。
「あっ、あ……」
この感覚。前にも経験したけど、ぞわぞわして仕方ない。身をよじると木闇は俺の両手を敷布団に押し付けてきた。もうこれで、本当に逃げられない。
「んぁ、っ、は、ぁ……」
ゆっくりと、ゆっくりと舌を舐めあげられる。木闇の舌が動くたびに、俺の意識とは無関係に体が動いてしまう。ゆっくりと上に上がってはまたゆっくりと下がって。口の端からぽたりと唾液が落ちてきたけど、もうどっちのものか分からなかった。体はぴりぴりと電気が走っているのに、微睡みの中にいるみたいに重くてふわふわしていて気持ちがいい。しっかりと開いていられない目からは、生理的な涙が出てきた。
「ぁ、ン、あっ、き、きや……ん」
「ふ……」
「あ、はァ、んん、っ……」
咥内を優しく蹂躙され続けたまま、片手の拘束は解かれた。それにほっとしてたのも束の間、木闇の空いた手が俺の着崩れた浴衣の隙間にするりと入り込んできた。
「んっ!」
びくり、と体が震える。何をするわけでもなく、ただ腹から胸のあたりをゆっくりと手のひらで撫ぜられた。それが、あまりにも気持ちよかった。
「ふぁ、あ、あ……」
キスは終わらない。木闇はずっと、不思議なくらいゆっくりとした速度で舌を絡ませている。時々木闇の指先が胸の先を掠め、それに酷く体が跳ねる。ぐちゅぐちゅとした音を耳元で感じながら、俺の意識はどんどん遠のいていった。お互いの荒い呼吸と、混ざり合う体温と、匂い。くらくらする。ギラギラと光っている木闇の視線は絶えず俺に注がれている。こんな時まで木闇は綺麗だった。
「……ぅ……ぁ……」
温かくて、気持ちがいい。
俺は静かに目を閉じ、意識を飛ばした。
8
「…………………………」
と、いうのが昨日の夜の回想。
雀の鳴き声とともに朝起きて、隣に敷いてある誰もいない空の布団を見つめ、猛烈な羞恥に見舞われていた。
俺は、俺達はなんてことを。
顔を手で覆い、なんとか昨日の記憶を消そうと思ったが無理だった。消そうと思えば思うほど蘇ってくる。寧ろあれは夢だったんじゃないか、偽物の記憶だったんじゃないかと、そうであってくれと願ったけど、この口はあの感覚を鮮明に覚えていた。
あああ、と意味もなく唸っていると、ストーン! と勢い良く部屋の扉が開いた。
「おい、メシ」
「……あ、ハイ……」
木闇は俺を見て、ケロッとした顔でそう言った。もう既に着替えられてていて、俺よりもずっと早く起きていたことが伺えた。
昨日と同じ居間で朝ごはんをいただき、さっさと帰る支度をして、ゆっくり寛ぐ間もなく家を出る時間になった。
木闇のおじいちゃんとおばあちゃんはまたおいで、とお土産に夏野菜をたくさんくれた。何もしてないし何も返せないのに申し訳ない。ありがたく受け取って、またお礼をしに行こうと思った。木闇はおじいちゃんおばあちゃんと何度か言葉を交わし、敷地を出て行った。俺はその背中に着いていく。土地勘がないので、帰りのルートは木闇に頼るしかない。
「……」
「……」
無言。気まずい。気まずすぎる。そもそも俺は昨日寝る前に、木闇と普段どんな会話をしていたか思い出せなくなって悩んだくらいだ。会話の切り出し方もいい案が思いつかない。まず問題点は、昨日の夜の事に触れていいのか、触れない方がいいのか。
触れずに他の会話を続けるのはどことなく気持ち悪いし、かと言って「昨日の夜はお互いイカれてたな」とか言うもんなら、更に地獄の空気を味わうことになりそうだ。頼むから木闇の方から何か喋ってくれ、と思ってその背中に睨みつけても、木闇が口を開くことはなかった。こいつは今一体何を考えているのだろう。
結局会話がないまま最寄り駅に着き、会話がないまま電車を待ち、そしてホームに到着した電車に乗り込んだ。
座席に横並びで座るも、やっぱり会話はない。気まずさで発狂しそう。まさか木闇のお母さんが恋しくなるとは思わなかった。今すぐに迎えに来て爆速運転で俺の家まで送り届けてほしい。
木闇はスマホを取り出して例のソシャゲをしていた。律儀にログインボーナスを気にするタイプらしい。ここで俺もそのゲームを始めるのも意識して真似してる感があるので、特にメッセージの来ないSNSを開いては閉じてを繰り返していた。つまり、そわそわしていた。こんな時に限って、漆と夜差からのメッセージは来ていない。夜差の昨日の言葉が妙にひっかかるけど、スタンプを送ったっきり、返信は未だにない。
30分ほど電車に乗っていると、俺達の住む辺りの最寄り駅に到着した。30分間、俺達は本当に一言も喋らなかった。
電車を出て改札まで歩く。とりあえず今日は乗り切った。次木闇に会うのは夏休み明けだろうし、その頃にはお互い爛れた行為のことは水に流しているだろう。学校に行けば漆も夜差もいるし、普通に会話ができるはず。
改札を通って駅の出口を抜けると、やっと解放されたような気持ちになった。さらばだ木闇。
「じゃ、俺帰るな」
リュックを担ぎ直し、木闇に向けて軽く手を振る。なんだかとても長い2日間だった。もう全て忘れるのが吉。木闇は馬鹿だから、あの行動に大した意味はないだろう。俺を揶揄って遊びたかったのかもしれない。
木闇に背を向けて、進行方向に1歩足を動かした。すると、ぐいっと力任せに俺が背負っているリュックを引っ張られ、潰れた蛙のような悲鳴が出た。誰か確認するまでもない。勿論木闇の仕業だった。
木闇はいつの間にか俺の横に立っていて、俺の顔のすぐそばに木闇の顔があった。
近い、なんて言う隙もなく、ゆっくりと、優しく唇が重なった。
キス、されてしまった。こんな白昼堂々と。
「……なんで?」
思わず口をついて出た言葉。
遂に聞いてしまった。なんで、こんな事するんだ。
木闇は俺を無表情で見つめたまま、何も言わない。
「……俺はお前にとってなんなの」
どう答えてほしかったのか分からないけど、聞かずにはいられなかった。これはもう、一過性の気の迷いとは言い切れない。木闇の、意思を持った行動だ。
「お前は俺になんて言ってほしいんだよ」
ズルいと思った。馬鹿なくせに、賢くないくせに、俺はいつも木闇に主導権を握られる。でも、それを真に受ける俺も馬鹿だった。
「……俺は、友達でいい」
「お前のオトモダチはこういうことするのな」
「違う! しないから、したら駄目だ……」
「じゃあ簡単に受け入れんなよ」
俺をじっと見つめ、諭すように言われる。
凪、という名前の如く、その顔はいやに凪いでいた。なんだかその顔を見ることができず、俺は俯いた。
「無茶言うなよ……」
木闇からやってきたくせに、俺ばかりが責められるのは分が悪い。それでも、これ以上は何も言い返せない。俺はあの時の木闇を受け入れてしまったし、少しも拒めなかった。俺が全面的に悪いわけではないけど、甘んじて受け入れた俺も共犯だった。そうなると、もう答えが出ているようなもので。
「……」
口には出さなかった。俯いたまま顔を赤くしていると、木闇は俺の顎を片手でそっと持ち上げ、
「、ぅ……」
もう一度俺にキスをした。
木闇は息を呑むくらい綺麗な顔をしていた。
俺は今、どんな顔をしているんだろう。
「じゃあ、友達で」
木闇はそれだけ言って小さく笑い、踵を返して帰って行った。
俺はただただ、木闇の背中が小さくなるまで見続けることしか出来なかった。
「……………………はぁ〜〜〜……」
その場でしゃがみ、頭を抱えた。蝉の音と心臓の音が混ざり合って酷くうるさい。この火照った体では、今すぐに帰ることは困難そうだ。
夏休み明け、どんな顔して会えばいいんだよ。
木闇√②↓
本編↓
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