まおうのまご 2


6

「ねえチャコ、苺のヘタってどうやって取ればいいの?」
「いや、普通に手で取れよ」
「苺の粒って取らなくていい?」
「お前苺ケーキ見たことないんか!? それだけで今日終わるわ!」
「苺を洗うのって、洗剤使った方がいい?」
「マヤ、もうお前分量をはかる以外のことやるな……。いや、やっぱりそれもしなくていい。もうそこでただ見てろ」
「そんなの絶対暇じゃん。なんかやらせてあげようよ、苺切るのとかさ。ねえ、マヤくん」
「優乃はなんで俺らの班にいるんだよ!!」
「な、仲良くしてよ2人とも……」

 その日は夏至が近かったので、学園内での夏至祭があった。各クラスそれぞれ役割が当てられ、マヤたちのクラスは料理係になった。クラス内で複数班を作り、班ごとにいろいろな料理を大量生産している最中だった。
 
「意外だよね。チャコくんって料理できるんだ〜」
「俺に喋りかけんな」
「マヤくん、チャコくんが冷たいよぉ」
「チャコ、もう少し他人に優しく……」
「うっせえよ! てかマジで優乃は自分の班戻れ! 存在が鬱陶しいんだよ!」
「だって俺らの班余裕そうだもん。マヤくん知ってる? キョウの家って代々料理人なんだって。だから超料理うまくて、全部やってくれるの。俺やることなくて暇でさあ。なんか手伝ってもいい?」
「うん、俺はいいよ」
「あーーーもーーーなんなんだよお前マジで」

 マヤの班は苺を使ったケーキを作っていた。メンバーは、マヤとチャコと、あと真面目そうな子何人か。チャコは料理が得意なので、班長として指揮をとっていた。マヤはあんな性格だが金持ちのボンボンなので、料理はからっきしだった。チャコはマヤが一緒の班にいる時点で大変そうだと思っていたけど、もう1人厄介な人物が増えてしまった。しかも心底いけ好かないと思っている男。マヤは大図書館の一件以来、少しだけ優乃と仲良くなった。角も牙も生やさずに喋れるようになったくらいには。

「……マヤ、苺の量確実に足りないんだけど」
「え。俺、レシピの分量どおり運んできたよ」
「このレシピの20倍の量作らないといけないんだよ。ちゃんと話聞いとけ」
「そうなの!? ごめん、俺取りに行ってくる!」
「俺も行こうか?」
「ううん、1人で大丈夫。ありがとう」

 冷蔵しなければいけない食材以外は、全て1階の倉庫に入れられていた。調理場は2階なので少しだけ距離がある。マヤは優乃の手伝いの提案を断って1人で調理室を出て行った。そして残された、気まずい2人。

「……オイ」
「……」
「オイって言ってんだろ」
「俺、そんな名前じゃないし」
「腹立つな! お前マヤに馴れ馴れしいんだよ!」
「馴れ馴れしくしたら駄目な法律でもある?」
「ガウッ!! ウザいお前、俺らのナワバリに入ってくんな!」
「じゃあ本当に縄張っといてよ。俺人間だからそういうの目で見えないと分かんないよ」

 マヤは牙を剥いてグルルルル……と威嚇した。俺が攻撃したらお前なんて一発だぞだとか、マヤが優しいからなにもされてないけどマジで不敬極まりないからなだとか、いろいろ犬語で吠えていたけど、優乃は人間なのでさっぱりだった。

「あ、倉庫の鍵」

 チャコが吠えるのを右から左に流していると、優乃が調理台の上に倉庫の鍵が置いてあるのを見つけた。倉庫は開けたら閉める方式なので、この鍵がないと中に入れない。チャコはその鍵を見てため息をついた。

「今ならこの外通るんじゃない?」

 優乃は窓を指差した。倉庫に行くには優乃の指差した先の通路を辿っていかないといけない。2人は窓を見下ろした。するとちょうどのタイミングでマヤがそこを通りかかったので、チャコは窓を開けてマヤに向けて声を張った。

「マヤ! 倉庫の鍵忘れてる!」
「あっ、本当だ」
「投げるぞ!」

 チャコは下にいるマヤに向かって鍵を投げた。が、思いの外遠くに飛んでしまった。

「あ」
「あ」

 チャコはしまった、と思った。このまま落下すると、恐らく側溝に落ちてしまう。
 マヤはヒヤッとし、すぐさま体を回転させて指先を落ちていく鍵に向けた。ジジっと閃光が走る。急に体をひねったせいで、マヤはその場にどさりと倒れた。

「マヤ!」

 それでもマヤはすぐに起き上がり、側溝の方に向かった。鍵はすんでのところで光に包まれて浮いている。マヤはその鍵を掴んで、いつのまにか生えていた角を出したまま2階の窓を見上げた。

「セーフ!」

 そんなマヤを見て、優乃とチャコはぷるぷると震えた。優乃はまたマヤの角が見れたことに感動し(最近マヤが優乃に慣れたせいで見れなかった)、チャコは久しぶりにマヤのコントロールのとれた魔法を見れたことに感動した。

「マヤ、悪い!」
「うーうん! チャコ、ありがとう!」

 マヤ自身も、咄嗟に使ってしまった魔力がうまくいってご機嫌だった。マヤは魔法を滅多に使わない。大体は制御しきれず失敗するからだ。マヤがご機嫌なまま前を向いて倉庫に向かおうとした、その時だった。

「マヤ、今マヤって言った!?」
「ギャーーーッ!!」

 気づかないうちに、マヤの目の前に壁のような男がいた。真っ黒な髪、真っ黒な目。この世界では珍しい、純東アジアの顔立ち。体格は優乃くらい良かった。その男は真っ黒な目をギンギンにさせて、マヤをじっと見つめている。いつのまに。マヤは口から心臓が出るとはこのことか、と思いながら慌てて角を手で隠した。
 チャコは耳をぴくりと立て、異様な雰囲気の男を観察した。優乃は何かに気付いたのか、すぐに調理室を出て行った。

「マヤって、本名ですか」
「は、は、はいぃ」
「56代目魔王の、お孫さんですか」
「は、はひ……」
「……」

 その男は口元に手を当て、天を仰いだ。体は先程のチャコや優乃のようにぷるぷると震えている。マヤはそれが奇妙で怖くて、また角が伸びたような気がした。そしてその男は気味の悪いほど大きく深呼吸をして、顔をゆっくりとマヤの方に向けた。目が合うと、頬を赤く染めてぶつぶつと何か呟いた。めちゃくちゃ怖い。マヤは悲鳴を上げた。そのせいで、その男はマヤの口からのぞいている牙を見つけてしまった。

「ああ、なんていい形だ……」
「ヒエェ……」

 うっとりとしながら、男は自分の手をマヤの頬に添えた。それをばっちり見ていた2階のチャコは物凄い勢いでガウガウと叫んでいたけれど、その男は聞く耳を持たない。

「これが高貴な血の悪魔ですか。なんて……小さいっ……この体の中に強大な力が備わっているんですか……? はぁ、想像していた以上に最高だ……!」
「ひ、ヒイィィィ!」

 片方の手でマヤの肩を、もう片方の手でマヤの腰をホールドされ、逃げ場がない。気持ち悪くてまたにょきにょきと角が生えた。

「魔王の末裔の角……。はぁ……っ、素敵です……! 羽は? 尻尾は? 生えるんですか?」
「ぎゃあああ!! 近い怖いなになになに」

 逃げられない上にどんどんと近寄ってくる男の顔。パニックになり、マヤは防衛本能から悪魔本来の姿になろうとしていた。これは自分の意志ではなく、勝手になるものだった。
 背中からは制服を突き破って黒い翼が生え、スラックスの中では尻尾がどんどん伸びていた。それを見て、男はまた深く息を吐いて目をハートにさせた。

「最ッッッ高……♡」
「キッ……」

 マヤは背筋が凍りつくのを感じた。なんだよこの不審者めちゃくちゃ怖い。マヤらしくないが、思わずFワードが飛び出しそうだった。そしてその男の手はマヤの角に伸びていく。マヤはそれに気付き、半狂乱になって抵抗した。

「だっ、だっ、ダメダメダメダメ!!」
「はぁ、はぁっ……。触らせてくださいよ、本物の魔王の角……!」
「おおおお、俺っ魔王じゃない!!」

 角や翼や尻尾は絶対誰にも触らせたくなかった。普段隠れている場所なので、マヤにとっては謂わば急所だからだ。純血の悪魔であれば常に出ているためそこまでヤワにつくられていないが、人間と悪魔のハーフなマヤにとって、人間の体にはない部位は弱点でしかなかった。変なところ悪魔の性質を受け継げなかった。

「いいじゃないですか、ちょっと、ほんのちょっと触るくらい……」
「イヤーーーッ! 変態だーーーッ!」

 マヤがぶんぶんと必死に顔を振っていた時だった。

「おい大田(おおた)、殴るぞ」
「あ、優乃先輩。やっほーって言ったほうがいいですか」
「殴るぞ……」

 この状況をいち早く理解してここに駆けつけた優乃が、この男の体をマヤから引き剥がした。優乃は今までに見たことないくらい険しい顔をしていたけれど、マヤは初めて勇者様かっこいい……。と心から思った。

「優乃くん、その人は……」
「……はあ。うちのバスケサークルの後輩……」
「と、年下……」
「大田です。まさか、こんなに生徒がいる中であなたに巡り会えるなんて……僕達運命かもしれないですね。しかも大事な夏至祭の日にですよ。ロマンチックじゃないですか。記念に握手しましょうか」
「ヒィッ!」

 大田と名乗る男は、優乃に抑えられながらも、必死にマヤに手を伸ばした。この手を握ってしまったら何か取り返しのつかないことになってしまいそうで、マヤは本能的に後ずさった。
 そんな大田を、優乃は思いっきり叩いた。いて、と呑気そうな声が上がる。そしてやっとチャコもその場に駆けつけ、状況も理解できないまま慌てて自分の腕でマヤを囲った。

「ガウゥッ!! なんだよお前、マヤに近寄るな!」
「酷いですよ。僕達きっと運命なのに近付きもできないなんて……」
「う、う、運命いいいじゃ、な、な、ないっないですっ……!」
「もうお前さっさと持ち場戻れ……」
「なんでですか。せっかくやっとの思いで邂逅できたのに」
「いや、あ、あ、アナタ誰ですか!!」
「マヤくん、コイツには近寄らないほうがいいよ。重度の悪魔オタクだから」
「悪魔オタク……」
「そう。俺、こいつ返してくるね」
「えー、えー! まだ話し足りない! マヤ先輩、今晩僕と一緒に火を囲みませんか?」
「結構です!!」
「早く失せろ変態が!」

 チャコは大田に中指を立てた。優乃は大田を連れて去る前に、チャコに向けて警告をした。

「チャコくん、なにかあったらマヤくんのこと守ってあげてね」
「言われなくてもやるわバーーーーーカ!!!」

 チャコは顔を真っ赤にして、大田に立てていた中指を今度は優乃に向けた。優乃は最後に大田の背中を強く叩いて、そして連行していった。
 2人がいなくなってからも暫くチャコはふすふすと怒り心頭だった。

「あいつ何様だよ!!」

 マヤに近付き、肩や腰や頬をゴシゴシと腕で擦った。それでも納得がいってないようで、すん、とマヤの匂いを嗅いで、次は自分の頭をマヤの体に擦り付けた。これでは猫だか犬だか分からない。表情はよく見えないけど、チャコからはグルルルル……と怒っているような鳴き声が聞こえた。
 マヤはそれがくすぐったくもあり可愛くもあったので、クスクスと笑った。

「チャコ、大丈夫だよ」
「ウーーーッ ガウッ! ガウゥッ……」
「俺犬語分かんないよ」
「……ガルル……」

 チャコは複雑な気持ちを抱いた。2人はエレメンタリースクールの時からずっと一緒にいるので、マヤが力を爆発させた時の威力は十分知っていた。でもマヤはその力を解放しようともしないし、上手に使うための特訓をしようともしなかった。チャコの家は代々魔王のボディーガードとして番犬をしている。だから、悪魔の力のこと__マヤの力は尊敬している。チャコにとってその力は憧れであり、自慢できるものなのだ。だからこそ、ずっと力を出さずに隠れるようにして生活するマヤが不満だった。角や牙も隠さずに過ごせばいいと、自分は魔王の孫だと公言すればいいと思っていた。

 でも。

(マヤが力を出すと、変な男ばっか寄ってくる……!)

 日陰で地味に過ごすマヤに興味を持つ人間なんて、今まで全くいなかった。それがここ数ヶ月、立て続けに数人現れている。確かにマヤは最近、何故か自分の力が増している気がするし、制御もなかなかできないと言っていた。力が目に見えるようになった途端これだ。力を解放してほしいけど、これ以上誰かの前で魔法を使わないでほしい。角や牙も生やさないでほしい。相反した気持ちが溢れて、1人でもやもやした。

「ガウゥ……マヤ、今日はずっと俺の側離れるな。着替えもトイレも着いていく」
「ええ、いいよ別にそこまでしなくて」
「いいからっ! 優乃にもあの変態にも近寄るな!」
「? う、うん……」

 チャコはマヤの手を強く握って、倉庫へと歩き出した。



 夏至祭の準備は着々と進んでいき、夕刻になった。1年で1番日照時間が長い日、ほんのりと空が薄暗くなってきた。大きな学園の庭の中央には、立派な火柱が轟々と燃えている。この火は厄除け、五穀豊穣の祈り、精霊への感謝など様々な理由で焚かれているが、この学園では昔から「誰かと一緒に火を囲むと友愛・恋愛共に効果がある」と言い伝えられていた。ただの噂なので、効果は不明である。

 学園内の夏至祭は至るところに立食できるブースが設けられていて、日頃ゆっくり話せない他クラスの人や先輩、教員と交流する生徒が多い。学園の行事の中でもかなり大きいイベントだった。でもマヤは相変わらず、気心のしれたチャコとだけ行動をともにしていた。

「チャコ! ケーキ美味しいよ!」
「当たり前だろ」

 チャコは満足げに笑った。チャコの班が作ったケーキは大好評で、みるみるうちに無くなっていった。

 焚き火の周りでは、賑やかそうな集団が大いに盛り上がっていた。なにかゲームをしているのか、歓声や笑い声が聞こえてくるのをマヤはぼんやりと見つめていた。その中には優乃もいる。もしかしたら一緒に夏至祭を過ごせるかもしれないとほんの少し期待したが、人気者はひっきりなしにいろいろな人から声をかけられていた。今度は同じサークルのメンバーであろう先輩たちに声をかけられ移動する優乃を、マヤは目で追う。そしてチャコはそれに気付き、面白くなさそうに優乃を一睨みした。

「マヤ、あっち行こう」

 チャコは火柱を指差した。この夏至祭のシンボルでもある焚き火に一向に近付こうとしないマヤの腕を引っ張り、庭の中央に進んでいった。タイミングが良かったようで、火の周りにいる人は比較的少なかった。去年はマヤからチャコに「人が少なくなったら火のそばに行こう」と嬉々として誘っていたのに、今年はそれがない。遠くでただ火を見つめているマヤに、チャコの方が痺れを切らしてしまった。
 チャコに腕を引っ張られ、マヤは黙って着いていく。2人は焚き火の側まで歩き、その場で腰を下ろした。

「このジジイみたいな衣装ウザい」
「そう? チャコ可愛いよ」
「嬉しくねーよ」

 夏至祭では特別に伝統的な衣装を着る。それが動きづらく、古臭い衣装なのでチャコは去年も嫌な顔をしながら着ていた。

 基本的に2人は常に喋り続ける方ではないが、夕刻になってからマヤは途端に口数が減ってしまった。その理由が分からず、チャコはいろいろ探りを入れたり話題を振ったりしてみたが、やっぱり答えは分からなかった。マヤは相変わらず、目の前でパチパチと音を立てて燃え盛る炎をぼうっと眺めていた。

 近くにいた男女の2人が、楽しげに何かを話している。この焚き火は火力が十分すぎる程にあるので、あまり近寄りすぎるとかなり熱い。男女2人は火に近付けるだけ近寄り、どれだけ耐えられるかを挑戦しているようだった。火の粉が体に当たり、男の方があつ! と声を上げた。マヤはそれを見てぼんやりと呟いた。

「楽しそうだね」
「IQ低そうだろ」
「もー、チャコ口悪いよ」

 マヤたちもだいぶ火に近いところにいるが、特に動じる様子はなかった。でもチャコはちょっと熱そう。じんわりと、徐々に首元から汗が吹き出してくる。対してマヤは涼し気な顔をしていた。

「俺、やっぱり最近おかしいかな」

 なにが、とチャコが聞こうとしたが、聞けなかった。なんだか口を挟むのも野暮なくらい、マヤは目の前の火を一心に見つめていた。

「昔はそんなことなかったのに、火を見ると物凄く安心できるんだ」
「……」
「多分、俺が火を操れる悪魔だから」

 ぱち、と火の粉がマヤに飛んで、それは皮膚に溶けていった。普通ではない。マヤに悪魔の血が流れているから。

「じいちゃんもそうだった。火が大好きで、よく火と触れ合ってたんだ。だから、火を見ると家に帰ったみたいな気がする」

 マヤは嫌だな、と言って笑った。

「別に、恥じることじゃないだろ」
「でも、普通の人間は火を怖がるでしょ。俺は全然怖くない……。触れたいって思う。今も、横にチャコがいなかったらもう少し前に進んでたかもしれない。去年はそんなことなかったのに、俺最近おかしいんだ」
「……なんで最近そんなに悪魔の力が出てるんだ?」
「分かんない。年をとるとそうなるのかな」
「成長期か」
「そうかもね。もう少し身長も伸びたら嬉しいけど」

 悪魔や獣人族は比較的体格がいい者が多い。チャコは族の中ではあまり背が高い方ではないが、マヤからすれば十分だった。マヤはハイスクールの2回生になっても成長期らしい成長期はきていない。大人になっても小さい種族はいるのでそこまで気にする必要はないけれど、せめて普通の人間くらいにはなりたいと思っていた。

「来年は流石に魔術の授業選択しないと、本当に力が暴走したとき制御できなくなっちゃう。嫌だな」
「今年取れば良かったのに。俺も取ってるし」
「だって、魔力使うと悪魔の姿になっちゃう……」
「それを避けてたら一生隠れて生きることになるぞ」
「……魔王みたいな姿や力を受け入れてくれる人なんて少ないよ」

 そんなことない、とチャコは言い切れなかった。いろんな種族が集まるこの学園でも悪魔は珍しい。今でこそ多種多様な種族がお互いを認め合う平和な世の中になったけれど、魔王に支配されていた歴史があったことは事実だった。悪魔含む魔族だけが過ごしやすい世の中を目指した結果、多くの人間を苦しめることになった。その歴史を重く受け止めている者は、もしかしたらマヤの存在を憎むかもしれない。

「俺、ちょっと怖いよ」

 そう呟いたマヤの頭からは、少しだけ角が生えていた。未だに火をじっと見つめるマヤ自身はそれに気付いていないようだった。チャコはなんだか少し不安になり、マヤの手に自分の手を重ねた。

「大丈夫だ。俺はお前の力を否定しないし、多分周りのやつも理解してくれる」

 マヤがゆっくりと視線を動かしてチャコを見た。角はどんどん縮んでいく。マヤは感情が不安定になったら、悪魔の姿になってしまう。チャコの一言はマヤを安心させてくれた。

「ありがとう。チャコは優しいね」
「別に、そんなことないけど……」
「全員がチャコとか優乃くんみたいだったらいいのにね」
「……」
「えっ、痛い! なんで!?」

 チャコはマヤの背中を無言で叩いた。ここで優乃の名前を出す無神経さとか図太さに普通にムカついたのだ。この鈍感さ、確実に魔王の器だなと密かに思った。



7

 翌日、夏至祭の後片付けが行われた。文字通り後の祭りで、昨日の生徒全員の高いテンションからは一転して、気だるげな雰囲気が漂っていた。
 女子は主に装飾品や衣装の後片付け、力仕事はガタイのいい男たちがやっていた。マヤはヒョロいので、女子に混じって洗濯した衣装を畳んでいた。

「マヤは昨日誰と火を囲ったの?」
「え? チャコだけど……」
「またチャコ〜? ほんと仲良しね……。マヤみたいに気の弱い男がよくあんな粗暴なやつと一緒にいれるわね」
「い、意外と優しいよ、チャコは」
「どこがァ!? あいつ私がテストの点数悪かったら平気で鼻で笑ってくるんだけど!?」
「はは……」

 マヤの横で一緒に作業をしていたリリは耳の毛を逆立てた。チャコは基本的にマヤ以外の人と仲良くしない。でも特に優乃と、人狼族のリリとは相性が悪いらしい。

「リリちゃんは、昨日誰といたの?」
「私はねー、キョウくんとノアくんと優乃くんと〜、」
「ああ、あのラインね……」

 同じクラスの、最もキラキラしてるグループだ。マヤは優乃以外とは未だにちゃんと喋ったことがないが、そもそも優乃とも通常であれば交わることがなかった。リリは人狼族に恥じない、れっきとした肉食女子だった。マヤのことはほぼ同性として見ている。

「誰かと付き合いたいの?」
「勿論!」
「気持ちいい返事だね……」
「マヤは? 好きな人いないの?」
「えぇ、好きな人かぁ」

 恋バナ大好きリリが目を輝かせながらマヤに尋ねた。するとリリの横にいたギャルも興味津々に会話に入ってきた。女子はなんでこの手の会話への速度がはやいんだろうと、マヤは苦笑した。

「いないよ、俺なんて男として見られないでしょ」
「そんなの気の持ちようと立ち振るまいによるでしょうが!」
「ごもっとも……」
「ホラ、いないの? 一緒にいるとドキドキする人とか、もっと仲良くなりたいって思う人とか!」
「え」

 そう言われ、頭の中にぽんと浮かんだ人物がいた。少し顔を赤くし、いやいやと否定した。

「そんな人いないよ」
「絶対嘘だ! 動揺してるもん!」
「誰誰!? 同じクラス? 種族は、性別は!?」
「い、いないって! 俺、衣装片付けてくる!」

 マヤは衣装を乗せた台車をガラガラと引っ張ってその場から逃げた。今まではこういう話の流れになっても「そんな人いない」と答えれば、みんな興味を失い違う人に話題が振られるのに。本当にそんなことはない。一瞬頭に浮かんだ人物に大層失礼だ。まず友達になったばかりで、まだ仲良しこよしとまでいかないのに、だってそもそも住む世界が違うし、友達になれたこと自体が奇跡に近いし、だからそういうやましい気持ちは一切ないわけで、

「あぶっ」
「うわ」

 頭の中でぐるぐると考え、前を向いていなかったせいでマヤは誰かにぶつかった。
 あれ、なんかデジャブだな。前もこうやって頭に浮かんだ人物__優乃と出会った。なんて思い、ドキドキしながら顔を上げた。更にドキドキが増した。悪い意味で。

「あ……マヤ先輩……♡」
「ヒッ」
「あぁ……、今日はなにもしませんよ、多分。あ、スミマセン、なにもしません。ほんとですって」
「ヒィ……」

 その人物は大田だった。最悪だ。昨日の夏至祭でなにも厄払いできてないと、マヤは己の不幸を呪った。

「マヤ先輩も上に上がりますか?」
「お、……は、はい……」
「どうぞ、先に乗ってください」

 2人はエレベーターの前にいた。扉が開くと、大田はマヤに先に乗るよう促した。断ることもできなかった。

「何階ですか?」
「3階です……」
「僕と一緒ですね」
「そうですか……」

 エレベーターの扉が閉まる。密室空間に、大田と2人きり。鳥肌が止まらなかった。マヤがここまで嫌悪を示す人物も珍しい。

「マヤ先輩、香水つけてます?」
「いえ……」
「へえ〜……」

 なんだ、その、いちいち語尾にハートがついてそうな言い方は。この人となるべく会話したくない。なるべく距離を取りたい。なんであの時ちゃんと前を見ていなかったんだ。マヤは自分の危機察知能力の無さにキレそうになった。

 3階に着くまでの数秒間はとても長く感じた。3階に着いてエレベーターの扉が開いた瞬間、マヤは台車を握り締めてダッシュで廊下に飛び出した。とにかく衣装部屋に逃げたかった。部屋の扉を勢い良く開け、中に入り、そして勢い良く閉めた。ここ最近で1番の瞬発力を発揮してしまった。

「ふう……」
「マヤ先輩、体力測定の50m走何秒でした?」
「ギャーーーーッ!!!」
「遅くないですか? そんなもんですか、その姿だと」

 心臓が爆速で音を立てた。後ろを振り向くと何故か大田がいた。本当に何故。いつ入ってきた。マヤ自身がこの扉を閉めたはずなのに。マヤは薄暗い衣装部屋の奥の奥に凄い勢いで逃げた。色鮮やかな衣装ばかりが並び、まるでカーテンのようだった。逃げ場なんてほぼない。足音はどんどんマヤの元に近付いていった。マヤはその場で余りにも慌ててしまい、側のラックに掛かっていた女性用の衣装を複数落としてしまった。マヤはその衣装を被り、なんとか隠れるようとする。

「なにそれ、悪魔はそんな特殊行動するんですか? 僕、悪魔のこといっぱい調べてるけど聞いたことないなあ」
「そっ、なっ……き、消えてくださいっ……」
「そんな酷いこと言わないでくださいよ!」

 大田は声を出して笑った。なにが面白いのか。
 大田はマヤに近付いてしゃがみ込み、マヤを覆っている無意味な衣装をペラっと捲った。マヤはビクッと体を震わせた。そのまま大田はマヤをじっと観察し、眉を下げた。

「あれ、今日は角出さないんですか?」

 マヤは何も答えず、ただじっと我慢した。必死に耐えていた。最近気付いたが、予想できることに関しては、体に力を入れれば少しくらいは角や牙を生やさずにいられる。
 それが大田には不満だったようで、明らかに声のトーンが落ちた。

「どうしたら出してくれますか。怖い目にあえばいいですか?」
「こっ……」
「分かりますよ。緊張したり怖くなると力が出るんですよね。仕方ないことじゃないですか。その感情がない生物なんていません。我慢しないで」
「い、嫌です……」
「なんで本来の姿を隠すんですか?」
「だ、だから、俺はあの姿になりたくない……」
「でも魔王でしょう」
「違う、俺は魔王の孫だよ。関係ない」
「関係なくないですよ。あなたは立派な魔王だ。もしも王位が継承され続けていたら、今はあなたが魔王になっていたはずだ。素晴らしい力を持っているのを僕は知っている」
「え?」

 思わずマヤはちら、と大田の顔を見上げた。相変わらず黒い瞳をしている。薄暗いこの空間では、本当に真っ黒に見える。

「なんで……」

 マヤが本来の力を発揮した場面なんて、数えるほど少ない。昨日出会ったばかりの大田には、物を浮かせる程度の簡単な魔法しか見せてないのに。
 大田の表情はよく見えないが、ふ、と笑うのが分かった。

「そんなのどうでもいいじゃないですか。あなたは悪魔なんです、魔王なんです。俺達純人間には絶対なれない、素晴らしい種族……。周りの目なんて気にせず、力を解放してくださいよ!」

 大田は手にしていたビニール袋から何かを取り出した。マヤは一瞬それがなにか分からなかったが、ちゃぷ、と音がした途端顔を青くした。

「ちょうどいいところに、ミネラルウォーターが」
「あ、え……」
「水、苦手ですよね」

 パキ、とペットボトルのフタが開いた。マヤは体が固まったまま、なにも動けなかった。そしてそれが傾き、水が宙を。

 パシャン!

 水が打ち付けられる音が響く。マヤはぎゅっと目を瞑ったが、一向に冷たい感覚がこない。恐る恐る顔を上げると、大田は静かに締め上げられていた。

「えっ!?!?」
「こいつ監禁しといたほうがいい? 停学にする?」
「ちょ……勘弁してください」

 なんと、優乃がそこにいる。衣装部屋の扉は開いたままで、薄暗い部屋に光が射していた。ペットボトルは床に横たわっていて、ラックにかけられていた衣装に水がかかっている。マヤは2度目の「勇者様かっこいい」を心の中で唱えた。

「優乃くん……!」
「なんともない?」
「う、うん」

 優乃は安心させるようにニコッと笑い、そして次は心底軽蔑した目で大田を見た。

「マヤくんに迷惑かけんなよ」
「かけてないですよぉ」
「未遂だっただろ。私欲のためにマヤくんを巻き込むな」
「私欲じゃないです。世界中に悪魔ファンが何人いると思っているんですか。これは研究ですよ」
「お前、何言っても正当化して返しそうだな」

 優乃はため息をついて、制服のポケットから四角いカードのようなものを複数取り出した。そしてそれを大田に見せる。大田は途端に目を輝かせた。

「悪魔ブロマイド……!? こんなものどこで……!」

 大田は優乃の手からブロマイドを奪い、目をギンギンにしてそれを眺めた。

「しかもこれ、もう今は廃番になった○年代の上級悪魔のやつじゃないですか……!」
「それやるから、今すぐどっか行くか転校してくれ」
「もー。仕方ないですね」

 コロッと気分を変えた大田は、スキップをしながら出口に向かって行った。なんだかその浮かれている姿すらもマヤはゾッとする。

「あ、今度マヤ先輩のブロマイドもください」
「ないよそんなの!!」

 漸く大田がこの空間にいなくなり、マヤは深く息を吐いた。優乃はマヤの側にしゃがみ、マヤの体を覆っている衣装をはがした。

「マヤくん、こっちの衣装も似合いそう」
「おっ、俺っ、オスですが」
「うん。そうだね」
「そ、そうだね……?」
「……」
「……なんで俺がここにいるって分かったの?」
「なんでだろう、カンかな。マヤくんがどこにいるか、なんとなく分かっちゃうんだ」
「俺が魔王の孫で、優乃くんが勇者の孫だから?」
「そうなのかな。俺のじいちゃんも、マヤくんのおじいちゃんのことそうやって見つけたのかな」
「……そうかもしれないね」

 魔族と人間との種族間戦争は約200年前に終結した。それは、マヤのおじいちゃんのお父さん__マヤにとってひいおじいちゃんに当たる悪魔が魔王だった時代。その後、人間がトップに立って世界をおさめるようになっても、マヤのおじいちゃんは魔王という王位を継承していた。その制度がなくなったのは、どうやら優乃のおじいちゃんと関係があるらしい。2人が出会い、そこで何かが起き、魔王も勇者も辞めようという選択をした。その真実は、教科書にもマヤのおじいちゃんが書いた小説にも、どこにも載っていない。それを知る者はもうこの世にはいなかった。

「俺、本当はずっと知ってたよ」
「なにを?」
「マヤくんは俺が出会うべくして出会う人なんだろうなって。ここに入学して、大ホールで一目見たときからずっと」
「……え」
「やっと友達になれたね、俺達」

 そう言って、優乃が目尻を下げて優しく笑うから、マヤも顔を赤くした。まさかそんな事を思っているとは。マヤにとって優乃は、遠くで見るだけの、近付いてはいけない存在のような気がしていたから。

「夏至祭のときのこと、俺ちょっと後悔してる」
「なんで?」
「俺は基本的に誰かから誘われたら断らないんだけど、昨日は少しくらい断っても良かったなって思う。せっかくの夏至祭なのに、マヤくんと全然喋れなかったから」
「えっ、えっ、俺?」
「うん。俺、言い伝え信じてるんだ」
「……い、い、言い伝えって、その、あの……」

 目を忙しなく泳がすマヤが面白かったのか、優乃はくすくすと笑った。

「俺、マヤくんともっと仲良くなれるかな」

 マヤは胸がいっぱいになった。この部屋が薄暗くてよかった。この顔の赤さと表情をなんとか誤魔化せるだろうか。マヤはがくがくと何度も頷いた。

「らっ、来年は、一緒に火を囲もう……」
「!」
「おれっ……俺も、ゆ、優乃くんと、も、もっとな、仲良く、なりたい、し」
「ほ、ほんと?」
「うっ、うん」
「……そっかぁ……」
「……………………は、はは……。えっと、そろそろ戻ろっか……」

 優乃がキラキラしすぎてムズムズする。マヤはなんだかどうしようもない気持ちになって逃げ出したくなり、その場にぶちまけてしまった衣装をハンガーに戻し、そして出口を向いた。すると優乃がマヤの首元に近付いてすん、と息を吸った。

「ヒョエ!?」
「あ、いや、なんか甘い匂いしない?」
「おおお、俺?」
「うん。お花みたいな」
「え……じゅ、柔軟剤かな……?」
「えー、どこのメーカーか教えてよ」
「お、お母さんに聞いとくね……」
「うん」
「……」
「……」
「……え、なに」
「首元の熱気凄かったけど、もしかして風邪?」
「えっ?」
「ちょっとごめん」

 優乃が片手を伸ばし、マヤのおでこにそっと手のひらをくっつけた。マヤは内心パニックだったが、気味悪く喃語を発している間も優乃はいたって真剣だった。そして優乃は自分のおでこに手を当てて比べ、顔をしかめた。

「え、怖いくらい熱いんだけど」
「……え? そうかな?」
「悪魔と人間のハーフって、人間の平熱より高いの?」
「ちょっとは高いと思うけど……」
「ちょっとどころの温度じゃなかったよ」
「ほんとに?」

 今度はマヤが自分自身の手をおでこに当てた。でもやっぱり自分では体温の高さが分からない。

「大丈夫な気がするけど」
「本当に? それ以外の症状ない?」
「全然元気だよ。咳とか喉の痛みとかないし。それに悪魔は風邪ひかないし」
「そうなの?」
「俺、今までで1回も風邪ひいたことないから。……あ、でも、最近ちょっとぼーっとすること多いかも」
「風邪……、夏バテ? いや、バテてなさそうだしなあ。1回病院行ったほうがいいんじゃない?」
「そっ、そこまでしなくても大丈夫! 本当に、いつも通りだから!」
「本当に?」
「うん、ほんと、ほんと」

 これは優乃を心配かけたくないというよりは、単にマヤが病院大嫌いっ子だったから、必死に否定した。マヤは病気に罹ったことはないが、怪我で病院に行ったことはある。小さい頃のイメージのままなので、病院は今でも嫌いだった。
 優乃はあまりマヤという生態を把握しきれていないが、マヤが自分のことに無頓着だということだけは分かる。どうにかしてもう少し自分を気にかけてほしかった。

「体、大事にしなきゃだめだよ」

 優乃はマヤの頭をそっと撫でた。ほとんど無意識だった。角もなにも生えていない、マヤのつるつるの髪の毛に手を滑らせた。

「アッ おっ…… え あぇ……?」

 マヤは鳴き声をあげた。悪魔はほにゃほにゃ鳴くというギリギリ嘘か本当か分からない嘘をつけるので、セーフ。だと思いたかった。なんだかこのまま溶けてしまいそうだった。優乃に触られると、マグマみたいにドロドロになりそうな気がする。今までの魔王もこうだったのだろうか。これが勇者のパワーなのだろうか。それか、マヤだけがこうなってしまうのか。マヤにはそれが分からなかった。

 優乃はただひたすら、汗をかきながら挙動不審になるマヤを面白がり、可愛がった。
 その後、サボりだ! とクラスの人たちに怒られたのは仕方のないことである。



8

 なんだかぼーっとする。
 疲れが溜まっているのかと思って早く寝たけれど、マヤの意識がはっきりすることはなかった。今まで風邪なんてひいたことなかったが、興味本位で熱を計ってみた。

 ピーッ!

「……なんだこれ」

 エラーが出た。人間用の体温計では42度までしか計れないらしい。仕方がないので諦めてしまった。何か体に異常が起きているらしいけど、多分大丈夫。なぜなら悪魔は風邪をひかない。気は弱いけど体の丈夫さはピカイチだった。体がちょっとだる重いだけで、ほっとけばどうにかなるだろう。と、マヤは呑気に考えていた。

 そんな日が何日も続き、季節はすっかり夏と言えるくらいの気温になってきた。空は真っ青、雲は高くもくもくと浮かんでいた。学園内を歩くと、特有の塩素の匂いが漂っている。まさにプール日和。マヤの隣を歩くチャコは、どことなく機嫌が良さそうだった。きっと今日のプールの授業が楽しみなのだろう。

「泳ぐのって、どんな感じ?」
「その質問ムズすぎるだろ」
「俺足湯で精一杯だから……」

 こんなにチャコが楽しそうなんだから、少しくらい自分も水につかってみようかなと一瞬思ったけれど、毎日のシャワーですら苦行だと感じてる時点でやっぱりプールは無理だな、と諦めた。

「マヤ、またプールさぼんの? カナヅチだからってそんなダサいことしちゃダメよ」

 他の男子より手持ちが身軽なマヤを見て、リリが呆れたように言った。リリは去年もマヤと同じクラスだった。今年はこれが初回なので、またというのは、去年のことを指しているのだろう。バレた、と思い、マヤが誤魔化すように苦笑いを浮かべていると、チャコがガウ! と一鳴きした。

「サボりじゃねえよ! 見学だ見学!」
「一緒じゃないの! ちょっとマヤ、飼い犬の躾ちゃんとしてよ!」
「誰が犬だぶん殴るぞ!」
「あー怖い怖い、これだから短気なわんこは嫌なのよ」

 ガウガウと犬語で喧嘩し合う2人におろおろしていると、優乃がいつのまにかマヤの隣に立っていた。どうやらリリとの会話を聞いていたらしい。

「マヤくん、プール入んないの?」
「あ、うん。ちょっと……」
「ふぅん……」

 優乃はなんだか少し残念そうに口を尖らせた。マヤは何か悪いことをしてしまったのだろうかと考えたが、優乃が不満げな理由が分からなかった。


 そして場所は変わり、マヤたちはプールにやって来た。
 マヤは体育教師に必死に体調不良アピールをし、なんとか見学権をもぎとることができた。上裸の男たちが水の中ではしゃぐのを、マヤはプールサイドの日陰でじっと眺めていた。
 楽しそうだとは思うけど、ゆらゆらと揺れて輝く水面を見るとやっぱりゾッとする。マヤは昔両親が買ってくれたビニールプールに入れられたことがあるけれど、足の裏が水に触れた瞬間、ビニールプールとそのへん一体の芝生を消し炭にしてしまった。両親はあくまで、これから学校で必ずあるプールの授業への耐性をちょっとでもつけさせてあげたいという思いでやったことだったが、まさかここまで苦手だとは思っていなかった。毎日のシャワーでは極限まで高い温度に設定している。これでギリギリ耐えられるくらいなので、冷たい水が全身に触れるなんて考えただけでも恐ろしかった。

(でも流石に仮病で毎年見学ってわけにもいかないよなぁ……)

 マヤは1人で悩んだ。この学園の体育教師はめちゃくちゃ怖い。今日も失禁しそうなのをなんとか堪えながら見学の申し出をした。例え学校そのものを休んだとしても、どこかで補習を受けなければいけないので、出席扱いにしてもらえる見学がマヤにとって1番都合がいい。

 プールの中では、クラスの男子たちが50mをクロールで泳いでいる。ダントツで早いのはチャコで、しかもゴーグルなんてしていなかった。あんなもん邪魔だ、と言っていた。

(チャコ、気持ちよさそう)

 本当に犬のようで、マヤは小さく笑った。プールから上がったら、きっと水を飛ばすためにぷるぷると体を震わせるのだろう。それも想像して、1人で更に笑った。
 そして横のレーンでは優乃が泳いでいた。タイムなんかは気にしていないようで、泳ぐ姿はとても優雅だった。そして50mを泳ぎ切り、プールから上がって水滴を拭いながら列に並ぶ。何故か分からないけど、マヤは優乃の体を直視できなかった。チラッと見ては、顔を赤くして俯く。

(あんなにいい体してたの!?)

 筋肉はバランス良くついていて、腹筋もしっかり割れている。これは鍛えているわけではなく、優乃がナチュラルボーン屈強肉体だからだ。マヤは己の腹を軽く摘み、自己嫌悪に陥った。今もしも魔王対勇者の戦いが始まってしまったらまず貧弱さで負ける自信がある。いや、どうだろうか。自分が最大限のパワーを出してしまったら、体格の差なんて関係がないのか。幼い頃の魔力ですら、庭を炭にできるくらいだし。なんて、机上の空論だ。

「マヤ」
「……」
「おい、マヤ!」
「わっ」
「ぼーっとしすぎ。熱中症なんじゃねえの」

 授業も最後の方になり、自由に泳いでいい時間になっていた。チャコはその場からぴくりとも動かないマヤを気にかけて駆け寄った。

「俺、暑いの得意だから大丈夫だよ」
「それとは関係ないだろ。これ飲んどけ」

 チャコはマヤにスポーツドリンクを渡した。優しさが体にしみたので、マヤはチャコの頭に手を伸ばしなでなでした。チャコは顔を赤くしてやめろ、と言いつつもその手を振りほどかなかった。

「お前、普通に体調おかしいだろ」
「え?」
「泳いでても、お前の匂いすっげえ飛んでくる」
「えっ、えっ!? 俺そんな変な匂いする!?」
「変な匂いというか、なんか、あまったるい匂い……」
「ええ〜……」

 マヤは自分が着ていた体操服を少し持ち上げて、匂いをかいだ。でもやっぱり自分ではその匂いを識別できない。

「そんなに強い?」
「さあ、俺はみんなより鼻が効くから」
「なんでだろ。チャコはこの匂いいや?」
「……別に、嫌じゃないけど……」
「そっか。それならいいや。俺本当に体調大丈夫だから、チャコも泳ぎに行っていいよ。もうすぐ授業終わっちゃう」
「分かったから、それちゃんと飲んどけよ」
「うん、ありがとう」

 マヤは大人しくチャコに従い、受け取ったスポーツドリンクを飲んだ。勢い良く傾けてしまったのか、口の端から少し溢れてしまった。チャコはそれをじっと見て、そして目をそらした。変な匂いも相まって、なんだかマヤが別人に見えてくる。

「……なあ、マヤ」
「なに話してんの? 俺もまぜて〜」

 チャコの言葉を遮り、優乃が乱入してきた。腕をチャコの肩に回すと、チャコはすごい勢いでその腕を振り払い、激しく威嚇した。

「触んなっ! 触んなっ!!」
「ははは、俺なんでそんなにチャコくんに嫌われてんの?」
「あ、あの、チャコはこれがデフォルトだと思って……」
「お前は特別嫌いだよ!!」
「酷いなあ。マヤくん、俺悲しいよ」

 およよ……と泣き真似をして、今度は優乃がマヤの肩に腕を回した。

(すっ……素肌ッ!?!?)

 なんの布も纏っていない腕が、己の体にぴったりとくっついている。それに、少し顔を優乃の方にむけると優乃の上半身がいやでも目に飛び込んでしまう。むちゃくちゃいい体をしている。これは、刺激が強い。マヤは顔を真っ赤にした。

「あっ、おっ、おっ……おっ……」
「……お?」
「なにしてんだよ! どけよ、マヤに馴れ馴れしく触んなっ!!」

 チャコと優乃のウマが本当に合わない。ぎゃいぎゃいと争っていると、プールに浸かっていた優乃のグループの人たちがそれに気付いて近くまで泳いできた。

「おい優乃、逃げんなって。ずりーぞ!」

 プールの中で鬼ごっこか何かをやっていたのだろう。それをよそにプールサイドで談笑しているように見えた優乃を見て、優乃の友達は怒った。

「もー俺いいよ。負けでいいからー」
「んだよそれ。つまんねえな! お前がこないんなら、こっちから水に浸からせてやる!」

 不満げに顔をしかめたその生徒は、両の手のひらを水面にかざした。自然ではない、誘発的な波の動きが作り出される。彼は魔法が使える。魔力を波に込めたのだ。その波はだんだん高くなり、マヤたちの方向に向かう。

 あ、まずい。
 マヤは本能的に鳥肌が立った。

 この学園内では、基本的に魔術の授業以外での魔力の行使は禁止されている。それは、このプールの授業でも同じだった。この生徒は出来心の軽いイタズラのつもりだろう。泳げない生徒は別のプールにいるから、これくらいのイタズラなら教師も注意する程度だ。

 ザザァン!!

 魔力で作られた波がプールを飛び越え、そして、一瞬でマヤたちの元へ。

 マヤはその瞬間、思い出していた。
 初めて家の庭でプールに入れられ、庭のすべてを燃やしてしまったこと。そして、その横にいた、自分と同じくらいの年の使用人に大きな怪我を負わせてしまったことを。
 まだ幼かったから、ほとんど友達のような存在だった。両親も、数少ないマヤの友達として扱ってくれた。水着を着ていたから、上半身はなににも守られていなかった。誰が悪い訳でもない、不慮の事故だった。誰も、マヤの力の大きさを分かっていなかった。

 マヤは、その小さな背中に一生残る大きな火傷の跡を。


 パシャン!!


 咆哮する声が夏空に響く。誰もマヤのものとは思わなかった。恐ろしく凶暴で、獣のような鳴き声。

「ウ”ア”アァァァッ!!」

 瞬時に轟々とした炎がマヤを囲った。
 近くにあったビーチパラソルに炎が移り、煙臭い匂いがプールに漂う。
 生徒たちはマヤを見上げ、その姿に呆然とした。

 尖った角は長く伸び、黒い翼は体操服を突き破って大きく広げられ、目は瞳孔が開き真っ赤に染まっていた。威嚇する口からは凶暴な牙が生えている。
 まるで、教科書で見たかつての魔王のようだ。

「おい、マヤッ!!」
「ウ”ウ”ゥ”ゥゥァッ」
「マヤ、マヤッ……!!」

 チャコは燃えるような熱さも厭わず、必死になってマヤを揺さぶった。しかし、どれだけ声を掛けてもただ威嚇するだけでなにも反応しないマヤを見て、泣きそうな気持ちになった。怖いと思ってしまった。マヤの姿や力ではなく、自分の声が届かないことが。

「マヤくん」

 優乃の手がマヤの頭に伸びる。指先が髪の毛に触れ、優乃がマヤの名を呼んだ途端、マヤの耳にやっと周りの声が入ってきた。チャコが鼻をすすりながら荒く呼吸をする声と、優乃が自分の名前を呼ぶ声、そして、クラスメイトの人たちが驚いてざわつく声。

「あ……」

 肩で息をしながら、目の前に焦点を当てた。
 みんなが、目を丸くしながらマヤを見ている。チャコと優乃も、同じような顔をしている。マヤを制御しようとした2人は、皮膚を赤くしていた。

「あ、俺……え、嘘、うそ……」

 チャコと優乃に怪我を負わせてしまった事実に気付き、マヤは顔を青くした。まただ、なにも成長していない。あの時と同じ、友達を2人も傷付けてしまった。

「……マヤ、大丈夫だから……」
「や、お、俺、ごっ……ごめんっ、ごめんなさいっ……」

 目に涙を溜めているチャコを見て、マヤはとてつもない罪悪感に襲われた。耐えきれず、顔を歪めて涙を流した。

「ごめんなさいっ……!」
「マヤッ!!」

 マヤは悪魔の姿のまま、その場から逃げ出した。いつもよりも力が出る。いつもより、ずっとずっと速く走れる。それがいいのか悪いのか、マヤには分からない。

(嫌だ、嫌だ! あの時のみんなの顔、怖い自分の姿、怖い力、嫌だ! 濡れたこの体も気持ち悪い! 嫌だ、嫌だ……!)

「ウーーーッ、フーーーッ、フーーーッ!」

 必死に走りながら、動いている自分の手を見つめた。爪が長い。きっとこの爪は獲物を狩る時に役立つものなのだろう。それがマヤには怖くて仕方ない。
 プールからそのまま逃げ出したせいで、靴もなにも履いていない。それでも、全く痛みを感じなかった。足元を見ると、悪魔特有の硬くて黒い皮膚に成り代わっていた。

「うううぅぅっ、ううぅぅぅ……」

 痛くないことが、マヤを苦しめた。どんどん人間じゃなくなっていく。悪魔の力が強くなっていく。熱い。体の中が、燃えるように熱い。少しでも気を緩めると、さっきみたいに炎を出してしまいそうだった。

 無我夢中で走り家に着き、マヤはその足で脱衣所に向かった。そして、鏡を見て絶望した。自分が一番なりたくなかった姿になっていた。いつまでたっても男らしくない普段の自分の姿は好きではなかったけれど、これなら、いつものなよっとした姿の方がいい。黒く伸びる角や翼を見ていると、自分はどうあがいても魔王の血をひいているのだと実感してしまう。

「ううぅ、うぇぇぇ、うっ、うぅ、嫌だよ……戻ってよ、嫌だよぉ……」

 重たい体をずるずると引きずりながらマヤは自室に向かい、鍵を閉めて、布団の中に潜り込んだ。体の中は燃えるように熱いのに、外側からは一切熱を感じない。通常ではない感覚が怖くて、マヤは布団を被りながら枕を濡らした。


9

 悪魔は風邪をひかない。それは事実だった。マヤのおじいちゃんも、一度だって風邪をひいたところを見たことがない。マヤも、今の今まで風邪をひいたことがなかった。
 それなら、今自分はどうなっているのだろうか。と、マヤは布団の中で朦朧と考えていた。

「あ……朝……」

 カーテンを閉めた窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえてきた。意識がぼやっとしている間に、また次の朝がきてしまったようだ。
 マヤはこの部屋に閉じこもってからまるまる3日間、外に出ていない。
 家族にだって顔を合わせていない。もしなにかが影響して力が暴走してしまい、家族にも怪我を負わせてしまったら。そう考えると、怖くて部屋を出られなかった。通知音が止まないスマホだって、一度も見ることができていない。もしも、あの時の力の暴走が原因で、クラスでいろいろ言われたいたら。みんなに怖がられていたら。

「ううう……」

 そう考えると、角や牙がズキズキした。もうこれ以上は伸びない代わりに、気持ちが沈むと成長痛のような痛みを感じる。

 風邪じゃないのなら、この体の熱さと体の重さはなんだろう。裸足で走っても痛くなかったのに、布団と擦れる皮膚がやけにその感覚を拾う。尻尾の付け根がじん、と痺れる。こんなこと、今までで経験したことがなかった。悪魔の体に詳しい人なんてマヤにとってはおじいちゃんだけだったから、マヤは自分の体のことをあまり分かっていない。

「うぇ……チャコ……優乃くん……」

 数日経っても、ずっと意識が朦朧としていても、あの時の2人の顔が頭から離れない。大事な友達に、怪我を負わせてしまった。マヤの出す炎は魔力がこもっているため、普通の炎よりも強い。どんな対処をしても、確実に火傷の跡が残る。一生かかっても償いきれない。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 マヤはまたさめざめと泣いて、枕に顔を埋めた。こうなるのが怖かったから、今まで友達をつくることを諦めてきた。チャコは特別だった。どれだけ突っぱねようとしても、マヤの力で逃げ出すような男に見えるか、とずっと側にいてくれた。

 そして、優乃も。

 優乃とは2回生になって初めて同じクラスになったけれど、その存在はずっと前から知っていた。あれは、ハイスクール入学式の日。式典のため、大ホールに新入生が集められた時だった。
 いろんな種族が集う学園だ。優乃より体格が良い人はいっぱいいる。優乃くらいかっこいい人も、優乃より有名な人もいっぱいいる。
 それでも、マヤは遠くから優乃を見つけたとき、体に電気が走ったような気がした。そして、自分が関わらない方がいい人だろうな、とも思った。
 だから、同じクラスになってからもずっと目をそらし続け、知らない振りをし続けた。関わったら、お互いにとって何か良くないことが起きるかもしれない。
 でも、それを簡単に破ったのは優乃の方だった。優乃は、お互いの立場をなんとでもないと言うかのように、すぐに距離を縮めてきた。マヤが優乃を見る時、優乃にはずっと光が射していた。

「マヤ、本当に大丈夫……?」

 ドアの向こうから、マヤのお母さんがマヤを心配する声が聞こえてきた。

「大丈夫だから、ほっといて……」
「でも、お客さん来てるよ」
「ごめん、帰ってもらって」

 マヤはチャコだろうな、と思った。チャコとはいつも一緒に登校している。この数日間も欠かさずマヤの家に来てくれた。でも、どれも帰していた。もうこれ以上チャコを傷付けたくなかった。

「マヤ……」
「……ごめんお母さん、もうちょっと休んだらちゃんと学校行くから……」

 体が辛いのに、力の暴走が怖くて親にすら会えない。ドア越しにお母さんの声を聞いて泣きそうになっていると、向こうでお母さんと誰かが会話する声が聞こえた。そして、お母さんではないもう1人の人物は、部屋の中にいるマヤに聞こえるように、声を張った。

「マヤくんごめん、ドア破ります!」
「え」

 そして次の瞬間、爆音とともに自室のドアが倒れてきた。勿論ちゃんと鍵はかけていた。開けた入り口の奥には、化物でも見るかのような目でその男を見ているお母さんと、蹴り上げたままのポーズで止まっている優乃がいた。

「え、ちょ、え、………………エェ!?!?」
「ごめん、修理代は後で請求して」

 優乃は何食わぬ顔でマヤの部屋に入り、マヤのお母さんに何かを言って、壊れたドアをドア枠にはめ込んだ。何度かやったことあるかのような手さばきだった。

「ど、どっ、どういう!?」
「俺、昔から力強いんだよね」
「鍵の意味ないじゃん! チートだ!」

 ずんずんと優乃がマヤに近付いて、優乃はベッドフレームに腰掛けた。逃げる隙もなかった。

「ずっとその姿のままだったの?」
「!」

 そう言われて、マヤは自分の醜い姿を優乃に晒してしまったことに気付き、すぐさま布団に潜り込んだ。

「な、なんでここにいるの……」
「なんでとか、愚問じゃない?」
「……」
「マヤくんが心配だったから来たんだよ」

 マヤは布団の隙間からチラッと優乃を見た。右腕の甲に、火傷の跡がある。マヤはどうしようもなく悲しい気持ちでいっぱいになった。

「……ごめんなさい」
「なにが?」
「俺、怖かったでしょ……。優乃くんとチャコに怪我させた」
「ううん。怖くなかったよ」
「嘘だ。俺、魔王みたいだったよ」
「怖くないよ。怖かったのはマヤくんの方でしょ」

 優乃はマヤを覆っている布団を優しく捲り、マヤの頭にそっと手を置いた。

「ツノ、かっこいいね」
「! ……っ、うぅ……」

 優乃が心底やさしげな顔でそんなことを言うから、マヤは優乃の顔を見て顔をぐしゃぐしゃにした。瞳から大粒の涙が溢れる。

「おれ、俺……。怖いんだ、自分の力が。怖い思いをしたり緊張したりすると、すぐに駄目になる。この力をどうにもできなくなるんだ。もう俺、こんな力嫌だよ、無くなってほしいよ……」
「……うん」
「もう学校行きたくないなって思ったら、また駄目になって……力抑えられなくて、このぬいぐるみも、炎で燃えちゃった」 

 マヤは手元にあったくまのぬいぐるみを優乃に見せた。片腕の部分が黒く焦げていて、綿がはみ出ている。このぬいぐるみは、昔マヤのおじいちゃんに買ってもらったものだった。

「もう嫌だよ、もうこんなことしたくない……。チャコも、優乃くんも、本当にごめんなさい……」

 ぼろぼろと流れる涙を腕で拭っていると、頭に置かれていた手がゆっくりと左右に動いた。あやすように、慰めるように優しくマヤの頭を撫でる。

「俺の声、届いてた?」
「……うん」
「そっか」

 力が暴走した時、周りの声がなにも耳に入ってこなかった。それでも、たった一言。優乃がマヤを呼ぶ声だけはちゃんと鮮明に聞こえてきた。あの呼びかけがなかったら、きっと力が絶えるまでずっと暴走していたはずだ。

「なんでか分からないけど、あの時俺は心臓が震えてたよ」
「……え」
「俺が勇者の孫で、マヤくんが魔王の孫だからかな」
「……俺と、戦いたかったってこと……?」
「どうだろう。今となってはもう分かんない」
「そっか……」

 もし優乃が悪魔を敵対していて、マヤが人間を敵対していたら、もしかしたら最悪の事態になっていたかもしれない。それを考えると、マヤは悲しくなった。本能にはどうしたって抗えない。

「でも俺、やっぱりマヤくんとは定めとして繋がってるんだなって、嬉しく思った。あの時、俺達だけは繋がり合えたんだ」
「!」
「俺変かな……。いつものマヤくんも好きだけど、そうやって悪魔の姿になってるのを見ると、マヤくんを大事にしたいって気持ちと、どうにかしたいって気持ちでいっぱいになる。俺も大田のこと言えないね」
「あ、え、え……」
「その姿も隠さなくっていいよ。だってかっこいいもん」

 隠さなくていい、と言われたのは、3人目だ。チャコと、大田と、優乃。全員にそう言われてきたけれど、やっぱり自分の力が怖い。マヤはふるふると頭を振った。

「この姿になりたくないよ……。俺、また暴走するかもしれないよ。駄目だよ、もう誰も怪我させたくない。この姿になって、もっと強い力を出しちゃったら……」

 あのプールでの事件が、マヤの100%の力ではないと自分自身分かっていた。きっと、その気になれば学園もろとも破壊することができる。マヤの魔力が暴走する時は、決まって悪魔の姿になっている。だからこそ、この姿になることをマヤは恐れていた。

「大丈夫だよ」

 優乃はマヤの顔をまっすぐ見て、優しく微笑んだ。

「大丈夫じゃないよ」
「ううん、大丈夫だよ」

 マヤもしっかりとマヤの目を見た。逸らそうにも逸らせない。カーテンの隙間から漏れた光は、優乃をキラキラと照らしていた。マヤの目の前に、チカチカと閃光が弾ける。
 運命とは、こういうことなのだろうか。

「その時は俺がマヤくんを倒してあげる」

 頭に置かれた手から、そのぬくもりが伝わってくる。優乃の熱だけはしっかりと感じられた。トクトク、と、マヤの心臓から優しい音が響いてくる。

 マヤは顔を真っ赤にした。なんせ、マヤを見つめながら穏やかに笑う優乃があまりにも、あまりにも。

「かっこいい……」

 そう呟くと、今までずっと生えていた角や牙や翼がみるみるうちに縮んでいった。三日三晩悩ませていた悪魔の姿が、一瞬のうちに元のマヤの姿に戻っていった。マヤは驚きながら、爪の縮んだ手を見つめた。

「……も、戻った……」

 マヤはやっと体から力を抜き、へにゃへにゃと笑った。3日ぶりの元の姿だった。憑き物が落ちたようだ。それを目にした優乃は、マヤの目元に指を置き、涙のあとを拭った。

「……俺がかっこいいと元の姿に戻れるの?」
「えっ……え、あ……」
「……フフ」

 優乃は静かに笑うと、顔をマヤに近付けた。マヤは迫ってくる優乃が耐え難く、視線を忙しなく泳がした。

「え、え、え」
「んふふ」

 こてん、と、おでことおでこがぶつかり合う。視線が交差する。優乃は、愛おしげにマヤを優しく見ていた。

「じゃあ俺、マヤくんにとってずっとかっこよくないといけないね」
「……!」

 ぼふん! と、音が聞こえた気がした。マヤは魔力で火を出していない。けど確かに、顔から火が出た。ずるい。優乃はどこまでもマヤをおかしくする。

「おぁ……」
「あは、マヤくん、顔真っ赤だ……」
「だ、だ、だって……ゆ、優乃くん、が……」
「うん。俺のせいだね」

 ぶわっと汗が流れる。マヤから放たれる独特の甘い匂いが一層強くなった。優乃はそれに気付いて、マヤの首元に顔を埋めてすうっと息を吸い込んだ。

「ひぅっ」
「……はぁ、すっげー匂い……」
「ご、ごめんなさい……」
「ううん、いい匂いだよ」
「ひぇ……」

 やめてくれ! とマヤは顔を赤くしながら口をきゅっと結んだ。ただでさえ今体の神経が敏感になっているのだ。優乃が側にいるだけで、おかしくなってしまいそう。

「マヤくん……」
「は、ひ……」

 優乃は顔をゆっくり持ち上げ、上目遣いでマヤを見上げた。ほんのりと頬が赤く染まっている。この表情は見たことがなくて、マヤはドキッとした。そして、つるんとした優乃の唇が薄く開く。

「……いい?」

「なにがだボケーーーーーッッッ!!」

 バタンッ! と爆音が響き、部屋の扉が倒れてきた。なんで1日に2回もこれ見なきゃいけないんだ、とマヤは渋い顔をした。扉の奥ではチャコがいかり肩で優乃を睨みつけていた。

「あー、チャコくんがマヤくんの部屋の扉壊した〜!」
「お前が最初にやったんだろバケモンが!!」
「ノックくらいしてよぉ」
「親友の貞操の危機の時に呑気にノックするやつがいるかよ!」

 チャコはすぐさま優乃に詰め寄り、胸ぐらを掴んでガウガウと吠えた。

「チャコ、え、学校は!?」
「んなもん行ってられっかよ!」
「随分お利口なわんちゃんだねぇ」
「うるせっ、うるせぇ〜〜〜!! 優乃はぶっ潰す!!」
「撤回しまーす、全然お利口じゃないねこのわんころ」
「マジでコロス!!」
「あわ……」

 マヤが2人の喧嘩に慌てていると、チャコは優乃を引っ張り上げ、強引に出口へと向かって行った。部屋を出る間際、チャコはほんのりと顔を赤くしながらマヤを振り返った。

「……ちゃんと病院行け。抑制剤貰ってこい」
「よく……え?」
「……〜〜〜だからっ、お前のそれは発情期だから! 薬飲んどけ!」
「え」
「ああ、なるほど。だからあんな誘ってるみたいな匂い……イタイイタイイタイ!!」
「マヤ、絶対病院行けよ!!」

 ぶっ壊れた扉のまま、2人は部屋を出ていった。階段を降りてもなお、優乃の痛がる声が聞こえてきた。どうするんだこの扉。いや、じゃなくて。

「はっ、はつ、発情期……っ!?」

 悪魔に発情期があるなんてマヤは知らなかった。両親も悪魔のことをよく理解していないから、そういう体の変化があるなんて教えられなかった。
 ということは。ここ最近の自分は無作為にそういうフェロモンを撒き散らしていたわけで。

「う、うあ、うあぁぁぁ……。お、俺、ド変態じゃん……」

 この謎の症状の正体が分かって安心もしたけれど、あまりの常識の無さに己を恥じた。枕に顔を埋め、拳を握ってだんだんと布団に打ち付けた。
 ただ1つだけ、冷静に心の中で思ったことはあった。

(酷い時に大田くんに会わなくてよかった……)

 これは決してフラグではない。と思いたい。


10

「えーーーーー、僕もお目にかかりたかったなァーーーーーーーーーー」
「近いです……どいてください……」
「なんで僕マヤ先輩と一緒の学年じゃないだろう。なんで同じクラスじゃないんだろう?」
「出会わなくてもいい存在だからです……ってかなんでここにいるの……」
「もしかしたら悪魔の発情期のフェロモン浴びれるかなって」
「……」
「あ、痛い……♡」

 マヤはシラフの状態で人を傷付けるなんてことは絶対にしないけど、この人は別だった。思いっきり頬を抓る。
 警備の2人がいない間に大田はずけずけと1つ上の学年のクラスに乗り込み、マヤの席の目の前でマヤをじっと見つめながら頬杖をついていた。

「悪魔ってこの学園で数人しかいないんですけど、マヤ先輩以外みんな女性なんですよね。だから、マヤ先輩以外に『フェロモン浴びせてください』なんて言うのはセクハラに値するかなって」
「俺にも値するよ」
「ちなみに次の発情期はいつですか? いや、大体3ヶ月後だから10月か。いい季節ですねぇ」
「本当に帰ってくれない?」
「容赦なく言うようになりましたね。でもそういうところも魔王らしくて好きです」
「大田くん、どうやったら黙るの?」

 マヤがげんなりしていると、トイレから帰ってきたチャコがあっ! と大きい声を出し、慌ててマヤの元に駆け寄った。

「お前、なんでここにいるんだよ! 油断も隙もねえな! 早く帰れ!」
「うるさいです〜。僕悪魔には興味あるけど、その番犬にはあんまり興味ないんです」
「興味持たれてたまるかよ!! 早くどけ!」

 チャコが無理やり大田を立たせ、タイキックをしてその場から追い払った。「僕は悪魔以外に痛めつけられる趣味はない」とかなんとか。マヤもチャコもガン無視した。
 チャコはマヤに近寄り、すん、と匂いをかいだ。

「……もうお前俺がトイレ行ってる間も着いてこい」
「嫌だよ!」

 相変わらずチャコは過保護だ。というか、発情期以降過保護さに拍車が掛かっている気がする。まあそんなチャコは置いておくとして。
 このクラスの人たちも、マヤの意識も少し変わった。

 しっかりお医者さんに診てもらい薬を飲み、元の体調に戻ったマヤは本日1週間ぶりの登校だった。
 教室に入って1発目、プールの授業で波を起こしたあの生徒はとにかく平謝りしてくれた。

「ほんっっっっっとにごめん!! 俺が悪かった!!」
「いやいや、俺もなんにも言ってなかったし! こちらこそ、怖い思いをさせてごめん……」
「マヤくん……」

 お前、いいやつだな! と、その生徒がマヤの手を握った。横にいたチャコは耳の毛を逆立てながらその手をまじまじと睨みつけていたが、マヤがどうどうと宥めた。

「気にすんなよ、あんなの仕方ないって。俺だって虫見つけたら咄嗟につらら落とすこともあるし」
「怖……」
「私も、急に驚かされて間違えて超音波出して窓ガラス割ったこともあるし!」
「すご……」

 他の種族のクラスメイトも、なんてことないとフォローしてくれた。

「魔力使ってる時に姿が変わっちゃうのは仕方ないよ。来年は私達と一緒に魔術の授業受けよう」

 魔力があるクラスメイトが、口を揃えてそう言ってくれた。マヤは大きく頷いた。想像していた以上にみんなが優しくて、マヤは泣きそうだった。


 こそこそと隠れるように生活するのをやめると、マヤはなんだか息がしやすくなった。プールでの事故はマヤにとって嫌な思い出ではあるけれど、その一件がなかったら、今こうして自分を肯定できるような生活はなかったかもしれない。人生とは、何がきっかけでいい方向に向うか知る由もない。

「チャコ、お待たせ!」
「おー。今回は買えたか?」

 マヤとチャコは購買に来ていた。今日はマヤの「購買のパンを食べる日」だった。購買戦争の群れから出てきたマヤは、2つパンを手にしていた。

「うん。メロンパンと、コロッケパンどっちも!」
「よく買えたな」
「えへへ……、魔法使っちゃった……」
「……やるな、マヤも!」

 本当は駄目だけれど。でもチャコは少しずつ自分の力を使うようになったマヤが見られて嬉しかった。2人は顔を見合わせて笑った。

 いつものように教室に向かっていると、ふとマヤがチャコに疑問を投げかけた。

「チャコ、なんで俺があの時発情期って分かったの?」
「ああ……、ケルベロスにも発情期あるから、なんとなく……」
「そうなの? え、チャコももう発情期きた?」
「……きたよ、去年の夏くらいから」
「全然知らなかった……!!」
「薬で症状抑えてたし」
「そうだったんだ……。あ、去年の夏って……。チャコの身長がいきなりめちゃくちゃ伸びた時期じゃない?」
「よく覚えてるな」
「覚えてるよ! だってずっと俺と一緒くらいの身長だったのに、だんだん目線合わなくなっていったの、悔しかったもん」
「マヤも多分これから伸びるだろ。発情期は成長期の中で発生するもんだから……マヤの力が抑えられなくなってたのも、多分ホルモンバランスの乱れとかだと思うし。ちゃんと適量薬飲めば……その、いろいろ……まあ、大丈夫になる」

 チャコは気まずそうに話した。この話は、発情期がある種族にとってナイーブで少し恥ずかしい話なのだ。でもマヤはそれを理解していないらしい。

「薬飲まないと、チャコどうなるの?」

 と、軽率にマヤが聞いた。
 チャコは歩む足を止め、グルル……と鳴いて言い淀んだ。

「マヤ、ほんといい性格してんな……」
「え、え!? なんで!?」
「そういうのはあんまり聞かないほうがいい」
「なんで!?」
「なんでも!!」

 自分が大田と同じような質問をしているとは露知らず。マヤは大概世間知らずのおぼっちゃんだった。


 放課後になり帰る支度をしていると、優乃がマヤの側にやってきた。

「マヤくん、甘いもの好き?」
「うん、好きだよ」
「これから美味しいドーナツ食べに行かない?」
「え! い、行きたい……」
「やった。じゃあ行こっか」

 マヤには今まで放課後一緒に買い食いしたりカフェに行ったりする友達がいなかった。チャコはあまりそういうのに興味がない。というか、チャコはマヤをちゃんと家まで送り届ける使命があると思っているので、寄り道はしたことがなかった。
 見るからにるんるんと花を飛ばしているマヤが可愛くて優乃は頬を緩めた。

「あ、チャコも一緒にいい?」
「え……」
「チャコも甘いの好きだから……だめ?」
「……えー……うん、まあ、……いいよ……」

 マヤはありがとう! と満面の笑みを浮かべ、帰る支度をしていたチャコを呼んだ。マヤにとっては仲の悪い2人の橋渡しをしてあげようという気遣いだったけれど、チャコと優乃はお互い目を合わせて心底嫌そうな顔をしていた。

「ンだよ、その顔。マヤと俺と寄り道できるだけありがたいと思え」
「はぁ、先に倒すのマヤくんじゃなくてこっちか……」
「あ”?」

 チャコのふさふさの尻尾がマヤの右腕に巻き付き、優乃の腕がマヤの左腕に絡まった。

「え、え?」
「おい、優乃は離れろ! マヤの半径1.5m以内に近寄るな」
「チャコくんこそ、それなんのアピール? 回りくどいよ」
「うるせえ!!」
「ああもう、喧嘩やめて!」

 とは言いつつも、マヤは2人の手を取ってずっと笑ったままだった。


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