まおうのまご 1

1

 マヤは悩んでいた。
 目の前にある残り少なくなったメロンパンと、少し離れたところにあるコロッケパン。人の波に揉まれながら、己の欲求と戦っていた。
 今ならコロッケパンの方に移動してもラスイチをゲットできるだろう。でもそうなると今ギリギリまで手を伸ばしているメロンパンはきっと誰かに奪われてしまう。この学園のお昼時の購買は戦争と言っても過言ではない。取るか、取らないか。
 正直マヤは今日どうしてもコロッケパンを食べたい気分だった。それでもメロンパンと迷っているのは、隣の席のギャルに「あーし今日体育委員で集まりあるから代わりにメロンパン買ってきて!」と頼まれたからである。どうする、メロンパンを取るか、取らないか。

「ギャルの怒りは買えない!」

 悩んでいる間にもメロンパンはどんどんなくなっていき、自分に言い聞かせるように叫びながら最後の1個を手に取った。一応コロッケパンのカゴの中を見てみたが、勿論とっくに売り切れていた。それどころか、普通に他のパンも売り切れていた。

 マヤはなんだか泣いちゃいそうな気持ちをぐっと堪え、手にしたメロンパン1個を会計のマダムのところに持って行った。はい180エンねェ、としゃがれた声で言われる。20円のお返しを受け取り、それをコインケースに入れることなく手のひらで握りしめた。ギャルには200円を渡され、お釣りはあげると言われた。きっとマヤは残った20円を本当にもらっていいのか考えているのだろう。マヤはそういう男だった。

「……お昼ゴハンどーするんだ?」

 購買戦争の集団から外れたところで後方腕組みをしながら見守っていたマヤの親友、チャコはフサフサの犬のような耳をピルピルと動かした。チャコは獣人である。

「どうしよう」

 マヤの手持ちはなかった。お母さんが用意してくれるお弁当は勿論美味しいけど、購買のパンだって美味しい。マヤは週に一度だけ「購買のパンを買って食べる日」を作っていた。

「食堂行くか?」
「俺今日300円しか持ってきてないよ。食堂のご飯すら食べらんない」
「お前のじいちゃんが孫のそんな貧相な食生活見たら地獄で卒倒するぞ」
「実際おじいちゃんの死因、脳出血だったしね」
「笑えねえ悪魔ジョークやめろよ」

 チャコは自分の親友の間抜けさに一つため息を吐き、隠していたコロッケパンをマヤに差し出した。

「ん」
「エッ」
「お代くれるんならやるよ」
「なんでなんで!?」
「いや、魔力使えばお前もできるだろ」

 こうなるのを見越して、チャコは遠くから魔力を使ってコロッケパンを確保していた。こうなると魔力を保有する種族が圧倒的有利なので、購買での魔力使用は禁止とされているが、チャコはそんなの気にしない。チャコはつんけんしているが、マヤ思いな男である。

「チャコ、ありがとう! やっぱりチャコだよ!」
「あー! くっつくな! ってかお前も自分でやれよ、魔王の孫なんだから、あそこにいた人たち一掃してパン全部買うくらいの勢いで行けよ!」
「無理だよ、そんなみっともないことできない」
「みっともないって、お前なあ……」

 コロッケパンを受け取ってもう一度ありがとうと言って笑ったこの男は、これでも魔王の孫だった。



2

 魔王の孫であっても普通にお腹は空くし、午後の授業は普通に眠くなる。マヤは黒板に向かいながら、ヒプノタイズとしか思えない歴史学の先生の声を聞いていた。一定の周波数とリズム感で読まれる文章は、寧ろ高度な技術だ。既にクラスの9割は死んでいる。マヤももう少しで白目を剥き机に伏してしまいそうだった。

「こうして、約200年前に種族間戦争が終結したわけですねぇ。今のところこの世の生物の中で一番知能が高いものが人間ですから、人間がトップに立っている歴史が長いのです。人間より賢い生物が生まれてしまったら、もしかしたらまた戦争なんてものが始まるのかもしれませんね。ま、そんなのは仮にあったとしても何千年もあとの話でしょう。今は大変暮らしやすい世の中です。平和で、種族の違いや特性をお互い認め合い_____」
「おはよーございまぁーす」

 経典レベルの説明の途中、それを遮る通りのいい声が教室に響いた。マヤはその声を聞いて黒目を定位置に戻し、勢い良く顔を上げた。
 歴史学の先生が顔を顰めながら、教室に入ってきたその男に詰め寄った。

「ちょっとちょっとぉ! すっごい遅刻だし、遅刻するにしてももうちょっと周りに配慮して入ってきてくださいよ。後ろから邪魔にならないように入るとか! 前から堂々とおはようございますじゃないの、今何時ですか、グッドアフタヌーンでしょう!」
「えー、来ただけ褒めてほしいんですが。徘徊してるおばあちゃんの家探してたら遅くなったんです」
「アララ、それは感心しますね。プラス1点。遅刻したのでマイナス1点」
「プラマイゼロかぁ」

 途中参加したその男_____優乃(ゆの)は、長い長い脚を動かし、クラスメイトに軽く挨拶をしながら自分の席に着いた。色素の薄い、メープルな色の髪の毛には少し寝癖がついている。が、寝癖なんて関係ない。優乃くらい顔が整っていれば、それすらもナチュラルな無造作ヘアーに成り代わる。そこにいるだけで教室の空気感や華やかさを変える男だった。
 授業が再開してからも、小声で「教科書見せてくんね?」と伺いを立てる優乃の声が聞こえる。微かなあくびの息、ペンを回す音、先生のへんてこなネクタイの柄に気付いてくすくすと笑う声。マヤには全部が鮮明に聞こえてくる。マヤの席から優乃の席は遠い。それでも優乃の声や音は耳に入ってくるし、一度意識してしまうと目が離せない。そしてずっと優乃を見ていると、身体がざわざわとしてくる。

「うギュッ」
「え」

 いきなり心臓を抑えてうめき声を上げたマヤに反応し、隣の席のギャルが胡乱げにマヤを見つめた。

「ごめんて、お昼パシったの今頃になってムカついてんの?」
「ち、ちが……。先天性の疾患が……」
「え、大丈夫なやつ!?」
「大丈夫なやつだから、気にしないで」

 マヤはなんとか優乃から目をそらし、目を固く瞑って大きく息を吐いた。
 そう、マヤは優乃に出会った時から、優乃を見ると謎の不整脈・動悸・息切れに襲われるという悩みを抱えていた。原因は、マヤの中で大体想像がついていた。

 優乃の前の席に座っていたクラスメイトが、歴史の教科書のとあるページを開いて優乃にそれを見せた。

「これ、お前のじいちゃんじゃね?」
「いや、ひいひいひいひいひいひい……じいちゃんだな」
「スゲー、わかんの!? お前もいつか教科書に載るんかなぁ」
「載らねえよ。勇者名乗ってたの、じいちゃんの代までだから。俺にはもうなんの肩書もないし」
「平和な世の中になったもんだなあ。サンキューな、お前のひいひいひいひいひいひいひいひい、ひいじいちゃん……」
「言いたいだけだろ。ひいひいひいひいひいひいじいちゃんな」
「お前こそそれ言いたいだけだろ!」
「それよりこの横に写ってるハゲ、いい顔してるな」
「ハゲ言うなよ。徳高い僧侶だろうが。勇者の孫がそんなこと言うなよ」
「だから、俺にはほぼ関係ないって。髭でも描き足してあげようかな」
「それなら髪を描き足してやれよ。優しさ絶妙にズレてんだよ」
「ねえちょっとうるさいんですがァ!? 途中から来たんならちゃんと静かに授業受けてもらえます?」

 先生が怒り、周りの人たちが笑った。
 マヤは笑わずに、固く口を結んでもう一度胸元を手で押さえつけた。

 優乃の先祖は代々「勇者」として生きてきた。勇者だから人に敵対する悪魔は倒すし、実際マヤの先祖も優乃の先祖に戦いの末破れてきた。昔は勇者と悪魔は生まれてから死ぬまでずっといがみ合ってきたので、相手を敵だとみなす感性は遺伝子レベルで組み込まれていた。だから、マヤも優乃を見ると本能的に心臓が騒ぐ。なにをせずとも、緊張したり不安になったり熱くなったりするんだ。

 と、マヤは考えている。この謎の疾患は、自分が魔王の孫だからで、優乃が勇者の孫だから。遺伝子の問題だから抗えないのだと、マヤ自身はそう思っている。

「せんせー、トイレ」
「先生はトイレじゃありません。早く行ってきなさい!」
「はぁい」

 優乃は立ち上がり、そしてゆっくりと歩きながらマヤのいる通路を通過した。それだけでマヤの心臓は跳ねる。マヤはもう一度ぎゅっと口を閉じ、爆音で体の中を流れる心音を聞きながら俯いた。もういっそ違うクラスだったら良かったのにとさえ思う。

「せんせー、保健室!」
「先生は保健室じゃありません!」
「あっ、いやっ、大丈夫です!!」

 隣の席のギャルが、マヤがあまりにも静かにのたうち回っていたのを見て手を上げた。ギャルは優しい。しかしマヤは勘弁してくれ、と思った。マヤにクラスメイトからの視線が集まる。それに気付いてしまうと、目の奥が熱くなって頭と背中と尾てい骨がじんじんする。最近どうもこの症状が多い。緊張したり、危機を感じたりすると、自分の中の何かが暴れ出しそうになる。怖い。ここでもし本能をさらけ出してしまい、気味悪がられたりでもしたら……。

「ねえ、マジで大丈夫?」

 自分を制御するように固まってプルプルと震えているマヤを見て、ギャルが手を伸ばそうとした。

「おい、マヤ!」

 教室の角の方から、チャコが必死にマヤの名を呼んだ。それにハッとし、チャコを見上げると口パクで「しっかりしろ」と伝えていた。
 じんわりと嫌な汗をかきながら深く呼吸すると、授業を終えるチャイムが鳴った。クラス中の視線はマヤから各々の机の上に注がれ、マヤもやっと脱力した。先生が課題のページを口頭で説明していたが、そんなものはマヤの耳には何も入ってこない。
 マヤは魔王の孫でありながら、自分の本能を晒してしまうのがとにかく嫌だった。



3

「マヤ、帰るぞ」
「あ、うん、えっと……先帰ってていいよ」

 放課後になり、チャコはマヤの元に向かった。しかしマヤは帰る用意をせず、教室後方の清掃用具入れからほうきとちりとりを取り出していた。チャコはそれを見て舌打ちをする。

「おい、お前今日日直じゃねぇだろ」
「違うけど、リリちゃん今日どうしても早く帰らないといけないって言って、頼まれちゃったし」
「あンのアバズレめ……!」
「そんなこと言っちゃ駄目だよ!」
「お前も他人の頼みほいほい聞くなよ!」
「だって、断れないし」

 なんの文句も言わず床掃除を始めたマヤを見て、チャコはため息をついて黒板を消し始めた。チャコはマヤ思いの優しい男だった。マヤは手を止め、チャコを見て笑った。

「チャコ、ありがとう」
「別に。マヤだけで全部やらせても一生かかりそうだし」

 チャコはぶっきらぼうにそう返すが、恐らくどんなことがあっても先に帰ったりマヤに仕事を1人でやらせたりしない。マヤも照れ隠しの方便だということは分かっていた。そして、チャコは意外と几帳面な男だった。黒板の一端から一端をぴちっと丁寧に黒板消しで綺麗にしていく。チョークの粉がチャコのふさふさの耳にかかったようで、チャコはぎゅっと目を閉じながらぶるぶるとかぶりを振った。

「犬みたい」
「犬じゃねぇよ、ケルベロスだ」

 チャコは顔が1つだけど、先祖はケルベロスだった。チャコは否定しているがケルベロスも犬といえば犬なので、いちいち犬らしい所作が表れてしまうらしい。

「俺、ゴミ出してくるね」
「1人で大丈夫か?」
「うん。ダイジョーブ……」
「引きずってんじゃん」
「ダイジョーブだから……」

 ゴミ出しをせずに帰る日直が多いのだろう。パンパンに膨れたゴミ袋をまとめ、マヤはそれを引きずって教室を出た。が、階段の手前まで歩いてそこそこに後悔していた。やっぱりチャコにも手伝ってもらえば良かったなあと。でもやっぱり、それくらい魔力を使え! と怒られそうなので、それは言い出せない。マヤには魔力のコントロールが難しい。全く使わないか、100%使うかしかできない。
 ゴミ袋を軽々と持ち上げることもできないし、仕方がないので、そのまま引きずって階段を降りることにした。一応、底が破れないかチラチラと袋を伺いながら、ゆっくり1段ずつ降りていく。

 踊り場の壁面上部に設置してある、種族間戦争の終結を描いたステンドグラスに西日が射して、それがとても眩しくてマヤは目を細めた。
 長い戦いの末、最終的に白旗を上げたのは魔王軍だった。マヤは今の時代しか生きていないけど、それでよかったと思っている。戦いは嫌いだし、昔は邪悪と言われていたであろう自分の魔力も嫌いだ。鮮やかに彩られた光は写し鏡のように、踊り場の床に放射されていた。
 眩しいなあと目を逸らし、ゴミ袋を注視しながら歩き出すと、何か柔らかい壁のようなものに衝突してしまった。多分、人間の体。

「あぶっ」
「うお、」

 下から登ってくる気配に全く気が付かなかった。しまったと思い、マヤは咄嗟に顔を前方に向け、すぐに謝罪しようと思った。

「ごめ、ごめんなさ_____」

 そして、言い切る前に物凄い勢いで自分の口を両手で覆った。ぐぎゅ、るる、とよく分からない音が体のうちから鳴り響く。手を離してしまったゴミ袋は、ゴロゴロと数段分ずり落ちていった。拾わなきゃ、でも、それどころじゃない。

「こっちこそごめん。……どうした? 歯ァ、ぶつかった? 痛い?」
「!」

 じっとマヤを見つめる瞳。薄い色素はステンドグラスの光を取り込んで、カレイドスコープのようだった。マヤはそれから絶妙に視線をずらし、というかもういっそ目を瞑り、口に手を当てたままぶんぶんと首を横に振った。動揺した。動揺しないわけがなかった。

(ゆ、ゆ、優乃くん……!)

 マヤがぶつかってしまった人間は優乃だった。優乃、勇者の孫。
 今、マヤは優乃と世界で一番近い距離にいる。衣服どうしが当たり、一瞬目が合い、話しかけられている。優乃の瞳にマヤが映っている!
 それを自覚した途端、口内で牙がめきめきと育ったのが分かり、反射的にぐっと手に力を込めて口元を隠した。
 優乃はそんなマヤを心配そうに見つめた。マヤの態度は普通に不自然だった。

「え、血とか出た?」
「で、でて、ない、よ」
「吐きそう?」
「うう、う、うう、ううん」
「……マジで大丈夫? やっぱり歯?」

 優乃は直感的に、なんかヤバそうと思った。目の前の小さい男は尋常じゃないくらい冷や汗をかいていたし、顔も赤いし、断続的に小さく震えていた。
 優乃は人間でありながら魔族や獣人にひけを取らないくらい体格がいい。目の前の男は悪魔でありながらかなり小柄な方だし、このナチュラルボーン屈強肉体で歯でも折ってしまったのではないかと思った。優乃は体当たりだけで車に凹みを作ることができる。過去に1度車対優乃の対人事故で、車が大破損し何故か優乃には傷1つなかったことがある。痛がるどころかか、ちょっと痒がっていた。運転手は化物を見るような目で優乃を見ていた。

「保健室行く?」

 優乃の手がマヤの手に伸びる。マヤは反射的に危機を察知し、目の奥が熱くなった。ドクドクと耳の裏を血液が流れる音が脳にこだまする。肩甲骨のあたりがメキ、と羽を開放しそうな気配がするし、尾てい骨もズキズキする。身体が熱い。いろいろ出そう、ヤバイ、ヤバイ!

「おっ、おかまいなく!!」

 マヤは必死に叫んでゴミ袋を片手で持ち直し、今までのスピードはなんだったんだという素早さで階段を降りていった。

 優乃は目を丸くし、ただその背を目で追うしかなかった。
 いや、背というか、頭部を。



「チャコ!」
「おい、おせーよ……っギャンッ!!」
「チャコ、チャコ!」
「なんだよ!! いきなりひっつくなよ!!」

 マヤはその後ゴミ出しを速攻で終えて、来た道とは違うルートで教室に戻り、忠犬よろしくマヤの机の前でじっと待っていたチャコに勢い良く抱き着いた。突然の熱にチャコは顔を赤くする。

「チャコ、俺、牙出てる?」

 チャコに抱き着いたまま、口を開いて歯列を見せる。チャコはあー、と言いながら口内を観察した。

「ちょっと出てるけど」
「やっぱりィ〜……」
「なんかあったか?」
「ちょっと……」
「フゥン」

 チャコはマヤのへにょっとした表情を見てムカッとし、両頬を指で摘んだ。

「いひゃい」
「もーいーだろ。そのままにしとけよ、俺だって耳隠してないし」
「いやだよ」
「なんで」
「チャコのは可愛いけど、俺絶対怖いから無理」
「でもお前角出てるけど」
「エ!?!?」

 マヤは咄嗟に自分の頭をペタペタと触った。確かにある。後頭部に左右で1つずつ、にょきっと生える小さくて尖った角が。角は今まであまり出てこなかった。まだ制御しやすい部位だったのに。

「い、いつから……」
「さあ。俺に抱き着いた時にはもう生えてたけど」
「ウソ……」

 じゃあ、つまり、これは優乃に見られた可能性が微レ存。否、特大レ存。ほぼ確で見られている。視線が顔面よりちょっと上に向いていたのは、そういうことか。

「チャコ、どうしよ」
「はあ?」
「どうしよう……」
「なにが」
「どおしよおお」
「だからなにが!!」

 マヤはチャコに再度強くしがみつき、顔を真っ青にしながら先程の醜態を嘆いた。マヤにしてみれば最悪だった。あの時の優乃の視線や声を思い出すと、また角や牙が伸びる。マヤは泣きそうになりながら、チャコの体に額をぐりぐりとなすりつけた。これにはチャコもタジタジである。

「力、最近抑えられなくなってる」
「別にほっときゃいいだろ」
「ほっといたらすぐ悪魔みたいな姿になるよ」
「悪魔だろ」

 本当は誰よりも力を持っているのにそれを隠そうとするマヤが理解できない。チャコにとっては羨ましい能力だから、自然体でいればいいのにと都度思う。でも目の前で力を抑えられず体を震わせているマヤが少し可哀想だったので、頭を撫でてあげると角や牙は縮んでいった。力を抑えるには負の感情を無くすことが一番だった。

 マヤはチャコに話すべきかを考えていた。優乃とぶつかってこうなったことを。でもチャコは優乃のことを敵対視していた。2回生になり一緒のクラスになって、優乃がなにかしら目立つたびに「いけ好かないヤローだ」と言っていた。多分、チャコも本能的に優乃のことが苦手なのだろう。下手に話題を出してチャコの機嫌を損ねたくないと思い、マヤはだんまりを決めた。

 ちなみにマヤと優乃が同じクラスになって2ヶ月ほど経ったが、あれが初めての会話だった。



4

 翌日、マヤたちは授業で学園内にある植物園に来ていた。主に日光と酸素のみを成長の成分にしていて、水を与えると変色して主成分が変わる魔草の観察と採取の授業だった。魔草は、この世界では特別に効く薬の原材料や高級なスパイスのようなものだ。魔力を保有していない種族でも、魔草の中に溜まっている魔力を保ったまま使用することができる。
 植物園の中は広い。方向音痴の人なら簡単に迷子になれるレベルには立派な施設だった。食虫魔草や、中には人にちょっかいをかけてくる魔草もあり危険なので、入学して初年度はこの植物園内に立ち入ってはいけない。だから、マヤたちにとっては初めての授業だった。

「はいじゃあ2人1組でペアを作って。危険を感じたりペアとはぐれたらすぐに応援要請するように!」

 植物学の先生が、エントランスに集められた生徒たちに呼びかけた。マヤは迷わずチャコを誘おうと思い隣を見たが、さっきまでそこにいたはずのチャコがいなくなっていた。キョロキョロと辺りを見回すと、チャコは遠くの方でリリ(日直の仕事を押し付けてきた女の子)に捕まっていた。リリは狼の獣人で、チャコと同じように獣の耳が生えている。

「チャコ、私が組んであげる」
「は、嫌だけど」
「ほんっとにチャコ可愛くない……! 昨日私のことアバズレって呼んでたの聞こえてたからね!?」
「ゲッ! お前あの時まだ近くにいたのかよ!」
「狼の聴力ナメないでよ。全部荷物持たせるからね。ほら早く、バケツ持って! あと私のバッグもよろしく。評価下げるようなレポート書いたら怒るから。これは私への謝罪だと思ってちゃんとやるのよ」
「クッソ……! マジでお前性格最悪!」
「はァ!? どっちがよ!」

 リリが後ろも振り返らずつかつかと歩き出した。チャコは苛立った顔を隠そうともせず、ガウッ! と一鳴きして全ての荷物を持ち上げ、駆け足でその後を追った。

(どうしよう……)

 マヤは集団の中に取り残されてしまった。気軽にペアを組めるような仲がいい友達は、マヤにはチャコだけだった。これは誰ともペアを組めなかった者同士でやるしかないなとその場で佇んでいた時だった。

「マヤくん、一緒にやらない?」

 驚いて咄嗟に距離をとる。背後を見ると、優乃がにこっと笑ってマヤを見ていた。マヤは本能的に視線を外し、ピタッと固まった。

「……」
「あれ。聞こえなかったかな……マヤくん、一緒にやらない?」
「え、え、え、ま、マヤ?」
「うん」
「俺、マヤ……」
「うん、知ってるよ」
「一緒に……え?」
「うん、一緒にやろう」

 マヤはフリーズし、視線だけを忙しなく動かした。優乃を見てはそらし、優乃の表情を見てはそらし。マヤは何も答えられなかったけど、優乃はそんなマヤを見て小さく笑い、地面に置いていた水の入ったバケツを持ち上げた。

「行こっか。遅れたらレポート出せなくなるし」

 優乃は目的地に向かって歩き出した。数メートル離れてしまったところでマヤは漸くぎこちなく足を動かした。心の準備をしようと思いゆっくりと歩いていたが、優乃が立ち止まってマヤを待ったため、結局は肩を並べてしまった。マヤはとりとめもないことを頭に浮かべては、落ち着け! と自分に言い聞かせていた。落ち着かないと、きっとまたみっともないことになる。
 1人で百面相して顔を赤くしたり青くしたりするマヤが面白くて、優乃は目尻を下げた。

「緊張しなくていいよ」
「アッ、えっ」
「俺の名前知ってる?」
「……ゆ、優乃、くん」
「うん。俺ただの人だから、大丈夫」

 恐る恐るチラッと優乃を見ると、まるで全ての不浄を消し去りそうな、爽やかさ極まる微笑みをマヤに向けていた。優乃と会話している、優乃に見られている、優乃がそんな顔で見ている。自覚すると、マヤは途端にパニックになった。

「ヴぁッ」

 控えめなしゃっくりくらいの、頑張って抑えたような鳴き声が口から漏れた。体のいたる所がツンとする。昨日のことを思い出し、慌てて後頭部を両手で抑えた。そんなマヤを見て、優乃はぱちくりと目を見開き指を差した。

「ツノ、」
「あ、お……」
「やっぱり、昨日の」
「や、いや、違うよ」
「なんで? 隠さなくてもいいのに」

 隠しきれなかった角が生えてしまった。優乃はなんだか楽しそうに、マヤに詰め寄った。マヤはなにか言葉を返そうとしたが、感覚的に口内で牙が育っているのが分かって、見られたくなくて口を固く結んだ。マヤが後方に1歩さがると、優乃が長い脚でマヤの2歩分詰め寄る。マヤはバックンバックンと聞いたことのない心音を感じた。諦め悪くずるずると後ろに下がっていたが、背中からガシャンという音が聞こえ振り返ると、植物を保護する柵に当たってしまった。あ、逃げ場ないな、どうにかして木に登るか土に埋まろうかな、と現実逃避をするしかなかった。マヤは顔を下げ、牙が見られないように小さく口を開いた。口から心臓が出てしまいそうだった。

「ゆゆ、優乃く、ん」
「はあい」
「おれ、おれの……俺の、種族、知ってる?」
「うん。知ってるよ、悪魔で、魔王の末裔でしょ」
「全部知ってるぅ……」
「マヤくんもでしょ。俺が勇者の血筋だって、感覚で分かってたんじゃない?」
「そ、そうだけど。なら、……お、俺に、あんま近付かない方が、い、いいんじゃ、ない……かな」
「なんで? 俺偏見とかないよ。勇者の孫だからって、マヤくんになにかしたりしないよ」
「そうじゃなくて、おれ、が、あ、暴れたりする、かも、しれない、から……多分、こ、こわいよ」
「マヤくんが?」
「……うん」

 マヤは幼い頃自分の力を制御できず、同じくらいの年の使用人に怪我を負わせたことがある。それ以来、自分で自分の力を恐れているし、自分の力が嫌いになってしまった。なるべく本能を出さないように、目立たないように、親友のチャコとだけ関わるように生きてきた。息を潜めて、闇に溶け込むように。だから、目の前の光はマヤにとって強烈すぎる。

「それで隠してるのか」

 優乃が手を伸ばした。痛そうなほど強く頭を押さえつけていたマヤの手に向かって。生白く細い手首を握ると、マヤはそれにびっくりして一瞬手を持ち上げてしまった。優乃はそれを見計らって、ゆっくりと優しい力でマヤの手首を引っ張った。

「あ、」

 角、見られちゃう。黒くてとんがってて可愛げのない角が。
 マヤは俯いていた顔を上げ、優乃を見た。
 ガラス張りの天井から射す光が眩しい。昨日、初めて喋った時もこうだった。いつだって光は勇者の味方をする。目の前の優乃は、光に包まれて優しげに笑っていた。

「ツノ、かっこいいね」

 息を呑む。
 チカッと閃光が走ったような気がした。
 頭の中かもしれないし、心の中かもしれないし、実際にこの場に起こったのかもしれない。
 マヤはその言葉を噛み砕き、そして強く強く体内の細胞が暴れ出すのを感じた。角と牙は伸び、背中からは羽が生えかけ、尻尾も出てきた。顔の筋肉に力が入る。
 かっこいい? こんなみっともないものが? そんなことない。絶対にそんなことない!
 理性なんてほぼない、本能で体は支配されていた。

「ウガッ!!」

 怪力で優乃の手を解き、そのままの勢いで腕を俊敏に振りかざした。ゴォッ! と手のひらの中で大きなエネルギーが生まれる音が響く。そのエネルギー弾はマヤの腕の直線上に生えてたいた植物に命中し、コンマ秒後にメラメラと燃え盛った。

「え……」

 優乃はなにが起こったか分からず、炎上し始めた植物を見て呆然とした。植物が燃えたときの、焚き火のようななんだか懐かしい匂いがする。嗅覚で感じ取り、マヤはハッと理性を取り戻した。

「アッ、アッ、アッ!! 待って、ヤバイ!」

 自分の失態を理解し、マヤは慌てて地面に置いていたバケツを手に取った。タイミング良くも水が入っている。バケツを持ち上げて炎の側に駆け寄り、急いで水をぶちまけた。炎は完全になくなり、そこに残ったのは焼け落ちた葉と微かに昇る煙だけだった。
 よかった、とほっと一息ついた途端、頭の中に不安要素が一気に流れ込んできた。

(器物損壊罪、放火罪、魔力行使条例違反、危険行為、成績、レポート、学園追放……!)

 マヤは顔面を手のひらで覆った。
 普通に駄目でしょ、これ。この惨状、先生になんて説明すればいいんだ。いやもう隠蔽してしまおうか。いやいや、目撃者がいるんだから隠し通せないでしょ! と、たくさん頭の中で考えた。
 一瞬本気で己の本能を見せてしまったこと、大事故になりかねない暴力未遂があったこと。怖い。己が怖いし、何より優乃の顔を見るのが怖くて振り向けない。数秒放心したように佇んでいたが、静寂を破ったのは優乃のほうだった。

「ふは、あはは、はははっ!」

 優乃が笑っている。教室でも体育館でもグラウンドでも、どこでも聞いたことのないくらいの声で高らかに笑っている。思わずマヤは後ろを振り向いた。少し遠い距離で、優乃はお腹を抱えて心底楽しそうにしていた。

「凄いね、マヤくん面白いねぇ」
「へ……」
「なんか、花火みたいだった」
「??」

 マヤの頭ははてなでいっぱいだった。あれを面白いと。数ミリでも位置がズレていたら、優乃が火達磨になっていたかもしれないのに。そんな状況を、面白いと。あまつさえ花火みたいと。あれは、そんないいもんじゃない。

「ツノ、戻っちゃったね」

 そう言われて、マヤは角や牙がすべて縮んで元通りになっていたことに気付いた。本能を出さなければ見た目は普通の人間と変わらない。なおってよかったけれど、悪魔本来の姿を優乃に見られてしまったことには変わりない。

「優乃くん、あの、ご、ごめん。こんな……こういうことになるから、俺につ、角生えたり、牙生えたりしてたら、近寄らないほうがいい、よ」
「近寄らないほうがいいって、なんで?」
「な、なんでって……。危ないからだよ。燃えたくないでしょ……」
「でも俺燃えなかったよ」
「たまたまだよ!」
「コントロールしてくれたんでしょ。本能でそれができるんなら大丈夫だよ」
「違うよ! 本当に今回はまぐれだから! 次は本当に炙っちゃうかもだよ!」
「ううん、きっと大丈夫」
「なんで、そんな……どこからそんな自信が……」
「もしも万が一、俺が危険な目にあったとしても、俺は心配ないよ」
「だから、なんで……」
「自分の身くらい自分で守れる」
「……限度があるよ。優乃くんは、人間でしょ……」
「人間だよ。でも、勇者の孫だ」

 離れていた距離が、じりじりと縮まっていく。マヤは動けない。優乃がゆっくりマヤに近寄っている。再度鼓動が加速してしまう。駄目だ、これ以上緊張するとさっきの二の舞いとなってしまう。マヤはその場で固まったまま、ぐっと身構えた。気付いたら優乃はマヤの目と鼻の先にいる。ドッドッドッドッ。心臓の音が大きい。優乃の大きな瞳に、真っ赤になったマヤの顔がうつっている。

「それじゃダメ? 俺が近くにいるのは不安?」

「マヤ!!」

 突然、マヤは2本の腕でむぎゅっと囲われた。いつもの、安心する匂い。鼓膜にはグルルル……と喉を震わせる声が響いた。力強く抱きしめられたまま、マヤは顔を上げた。

「チャコ! なんで!?」
「お前の鳴き声聞こえたんだよ」

 この窮地に割って入ったのはチャコだった。チャコのふさふさの耳がぴこぴこと動いている。その後ろには、なんだか興味ありげにマヤを眺めるリリもいた。2人とも獣人族だから、遠くでもマヤの声に気付いたのだろう。

「なんともないか」
「なんとも……う、うん……俺は、大丈夫……」

 チャコに問われ、少し目が泳いだ。俺はなんとも。ただし尊い緑は犠牲になってしまった。
 マヤの身体になにもないことが分かり、チャコは小さく息を吐いた。そしてキッと優乃を睨みつけて、牙を剥いた。

「ガゥ……マヤに近寄るな!」
「なんでなんで、俺なんにもしてないよ」
「……チッ!」

 優乃は両手を上げてなにもやってないアピールをした。胡散臭い。でもマヤを見ても「なにもされてない」と、慌ててうんうん頷くだけだった。チャコは優乃が気に入らず、思わず舌打ちをした。

「マヤ、さっさと課題やるぞ。おいリリ、優乃空いてんぞ!」
「え〜っ! 優乃くんペア空いてたんなら言ってよ〜! 私と組もう♡」
「えー……。んー、まあいっか。マヤくん、また今度一緒にやろうね」

 優乃はひらっと手を振って、リリに連行されて行った。
 チャコはやっとマヤから腕を離し、遠い目をして2人の背中を眺めた。

「……あのアバズレ、俺のときと態度違いすぎ。芸能事務所に履歴書送りつけてやろうか。俺が推薦する。『人が変わったかのような演技をします』って」
「アバズレとか言っちゃだめだよ……。絶対聞こえてるだろうし」
「ふん、事実だろ。……てか、くせぇ」
「あ……燃えた匂いかな。やっぱり、バレちゃうかな」
「ちげえよ。マヤが人間くせえんだよ」
「人間くさい……?」
「アイツのにおいがする……」

 チャコはマヤをじっと睨んだ。こうやって見ると、まるで毛を逆立てた猫のようだ。

「てか燃えた匂いってなんだよ」
「えっと、魔力抑えられなくて……。あの植物燃やしちゃった」
「は、なんで」
「ちょっと、いろいろあって……」
「……お前、絶対アイツになんかされた」
「なにもされてないよ!」
「……」

 もう一度舌打ちをして、チャコはマヤの手首を強く掴んでずんずんと歩いて行った。



5

 翌朝。昨日のこと先生にチクられてたらどうしよう、とか、あわや魔王のような姿になりそうだったことをクラスメイトに広めているかもしれない、とか。いろいろ考えて、チャコの背後に隠れながら、マヤはビクビクと怯え教室に入った。

「チャコ、俺変な目で見られてない?」
「知るかよ」
「チャコ冷たい」
「自分で確認しろ」
「怖いもん……。早く音楽室行こう」
「急いでも変わんねえだろ」

 マヤは俯いていた周囲を伺うことなく自分の席に向かった。この日は1限目から移動教室だった。さっさと準備だけして移動しようと思ったら、自分の正面に影がかかった。

「マヤくん、おはよー」
「!」

 その声を聞いて、マヤはビクーッと凍りついた。そして咄嗟に頭に両手を当てる。角が少し出てしまった。いきなりの声掛けが1番心臓に、というか身体に悪い。
 
「おは、お、おはよ、う」

 まさか、朝から優乃が挨拶をしてくるとは。今までそんなことなかったのに。
 なるべく優乃と目を合わさないように、俯いたまま挨拶を返した。ふ、と笑う声が聞こえ、マヤはそれにまたびくっと体を震わせた。

「そうなるの、俺だけ? 俺だから角が生えちゃうの?」
「う……」
「おいマヤ! さっさと音楽室行くぞ!」

 ツカツカツカ! と足早にチャコがマヤに近付き、マヤを隠すように間に入り、睨みつけた。チャコはほぼ忠犬なので、マヤの危機にはすぐ駆け寄る。

「朝から嘘くさい顔向けんな!」
「ええ、朝からちくちく言葉向けんなよ」
「俺が昨日マヤに近寄んなって言ったの忘れたのか、単細胞が!」
「そんなこと言った? 俺単細胞だから覚えてないなあ」
「クソ、こいつマジでムカつく! マヤ、これの言うこと全部無視しろ!」
「これって、モノ扱い? 酷いなぁワンちゃん」
「ワ……!?」

 チャコはぷるぷると体を震わせた。信用していない相手に犬扱いされるのが大嫌いなのだ。ヤバイ、このままだと乱闘が始まってしまうと危惧したマヤは、チャコの腕を掴んですぐに教室を出た。


 それから優乃は毎朝マヤの席まで行き、律儀に挨拶をするようになった。その度にチャコが飛んできてマヤと会話をさせないようにする。そのおかげでマヤは角や牙を生やさずに済んでいるけど、少し、ほんの少し、優乃とちゃんとお喋りをしたいと思うようにもなった。マヤには友達が少ない。だから、相手から好んで自分に話しかけてくれる存在は貴重だった。でもちゃんと話そうと思うと、前みたいな大惨事になりかねない。優乃を傷付けてしまうかもしれない。ハリネズミ同士がくっつけないような、そんなもどかしさを感じていた。

 そしてそんな生活が半月くらい続いたある日。

「はいじゃあ、総集編ということで。この時代の範囲内だったらどこをまとめてくれてもいいから、各自でレポートを書いて提出してください。1人の偉人に絞ってもいいですし、全体的な歴史の流れでもいいですし、当時の市民の生活でもいいです。今回の評価はどれだけ意欲的に取り組んでいるかを重点的に見ますからね」

 寝るか気絶するかでお馴染み、歴史学の授業があった。今回はいつもの座学ではなく、自習形式だった。

「マヤっちはなにやるの? やっぱ自分のおじいちゃんのコト調べんの?」

 マヤの隣の席の生徒のギャルは、長い爪でトントンと教科書に載っている写真を叩いた。その写真には、マヤのおじいちゃんである56代目魔王の白黒写真が写っていた。これ以降、この国に魔王という存在はいない。魔王や勇者というのはあくまで肩書だった。どれだけその血を濃く受け継いでいたとしても、今では普通の悪魔や人間と変わらない。

「うん、そうしようかな」

 56代目魔王は優乃にとって、おじいちゃんとして見れば最高だったけど、オスとして見ればかなりめちゃくちゃな悪魔だった。一夫多妻制だったので、妻の数は把握している限りでも30人ほどいたらしい。悪魔同士で産んだ子ども、悪魔と人間で産んだ子ども、悪魔と違う種族で産んだ子ども、いろんな子ができた。この時代悪魔と人間はバチバチだったが、無類の女好きだった56代目魔王には関係ない。そして56代目魔王の娘のうちの1人__マヤのお母さんは悪魔と人間のハーフで、ほとんど人間に近かった。そのお母さんは人間と結婚してマヤを産んだので、当然同じように人間と変わらない子が生まれてくるだろうと思っていた。が、マヤは隔世遺伝か突然変異か、悪魔の力を濃く受け継いでしまったらしい。おじいちゃんはそんな孫を溺愛していた。力の大きさが自分にそっくりだと。その力の使い方や制御の仕方を教わる前に、56代目魔王は亡くなってしまった。享年200年超えなので、大往生である。悪魔の寿命は人間より長い。

「いいなー。あーしも家族偉人とかがよかった。家族みんななんの華もないし、平凡だし」
「はは……」

 今の時代悪魔だ魔王だと言って偏見を持つ人は少ない。実際このギャルも魔王やマヤがどれだけの力を持っているか知らないから、恐れは全く無い。マヤは苦笑いを浮かべながら、平凡が1番だよ、と心の中で呟いた。

 殆どの生徒が教室に残るか歴史資料室に移動する中、マヤは学園内にある大図書館に移動していた。歴史の調べものをするなら圧倒的に資料室の方がいいけれど、マヤには図書館で探したい本があった。

 この学園内の大図書館は、一般人でも立ち入りができる。時々雑誌やテレビで特集されるほど圧巻の造りだった。大きな円柱型の吹抜け構造で、壁面には一面にズラリと本が並んでおり、それを取り囲むように緩やかな螺旋階段が上へと続いている。モニターで検索をかけると自動で読みたい本を下ろしてくれるクレーンのような機会が備わっているが、マヤはこの階段を登りながら見たこともない本の背表紙を無作為に眺めるのが好きだった。
 最上階の一角に、昔の文学を集めたスペースがある。マヤはそこに行き、お目当ての小説を探していた。『暗闇に紛れる赤』『悪魔たる証人』『せめぐ星のひずみ』。これらの小説には全て共通点がある。マヤはそれらを本棚から引っ張り出し、パラパラとページをめくった。今までに何度も読んだことがあるが、改めて時代背景を考えながらとなると見方も変わってくる。没頭し、あまりにも耽っていたので、背後からの存在になにも気が付かなかった。

「なにしてるの?」
「ミ”ッ」

 突然声をかけられ、マヤは驚きすぎて叫び声も出なかった。その人物は笑いながら「セミの鳴き声?」と呟き、マヤが背後に倒れそうになったのを軽く支えた。

「おっと」

 この声、このキャラメルを溶かして上にミントを添えたみたいな、そういう声。振り向かなくても分かる。最近毎朝挨拶をしてくれる、優乃の声だった。そして今優乃の両手が、マヤの両肩を優しく支えている。

「ゥ”__」

  後頭部に手を伸ばす暇もなかった。過去最高速度で、マヤの角はギュンッとめきめき伸びていった。しかも、今までで1番長い。もちろん牙も生えたし、羽と尻尾も危うく出てしまいそうだった。おかしい。最近本当に本能をおさえられなくなっている。

「あ”うぅぅ……」
「フフ……」

 優乃は口に手を当て、くつくつと笑った。自分が接近するだけでいちいちリアクションするマヤが面白かったのだ。

「そうなるのは、やっぱり俺が勇者の孫だから、本能的に? それか緊張したり怖くなったりするとそうなるの?」
「わっ、わかんない」
「わかんないか。今までそんなことなかったよね。やっぱり俺のせい?」

 優乃はマヤの肩に手を添えたまま、自分の口元をマヤの耳に近付けて呟いた。ふぅ、っと、微かな吐息が鼓膜を揺らす。ビリビリと背骨に電気が走ったようだった。

「わかんない、です」

 マヤは耳を真っ赤にしながらふるふると首を横に振った。優乃はそんなマヤを見て、なんとも言えない、満たされた気持ちになった。

「俺も、魔王様のこと調べようかな」
「!?」

 マヤは後ろを振り返り、目を丸くして優乃を見上げた。角や牙は瞬く間に縮んでいく。優乃はそれを見て、お〜、と感嘆した。

「な、なんで?」
「興味があるから」
「なんで、そ、それなら、勇者を調べる方がいいんじゃない?」
「いいとか悪いとかある?」
「だって……」
「調べたいものを調べる授業でしょ」

 確かに、それはそうだけど。
 マヤはなにも反論できず、ただ視線を忙しなく動かした。なんでここにいるのだろう。この空間は、歴史学の調べもの向けではない。

「あ、それ」
「え……」

 優乃はマヤが手にしていた本を指差した。

「すげー、3冊とも」
「は、はひ」
「俺、その人の書く小説大好き。全部読んだよ」
「! ウソ、優乃くんも好きなの?」
「うん。暗いのにエネルギーがあって、大好き」
「そっ、そうだよね、そうだよね!」

 マヤは驚きながら、満面の笑みを優乃に向けた。優乃に笑顔を向けたのは初めてだった。いつもは怖がるか、強張るか、泣きそうになるかだった。だから、そんな屈託のない笑顔を見て、優乃はついまじまじと眺めてしまった。

「実はこれ、俺のおじいちゃんが魔王ってことを隠して、全く違う名前で書いてた小説なんだ」
「え!」
「おじいちゃん、お話書くの大好きだったから。あんまり芽は出なかったらしいけど……自費出版で、3タイトルだけ」
「そうだったんだ……」
「実際あったおじいちゃんの恋愛とか生活を元にして書いたらしくて、だから当時の事とかは教科書や資料集よりリアル書かれてるかなって思って」
「じゃあ、『暗闇に紛れる赤』の、主人公の男が門下生の女と血の海に浸かるって話……」
「うん。多分あれは本当」
「主人公は意外と甘いものが好きで辛いものが嫌いだったってのも?」
「おじいちゃん、めちゃくちゃ甘党だったよ」
「はは! そうなんだ!」
「だから、56代目魔王のこと書くんなら、この小説見返したほうがいいかも。きっと参考になるよ」
「へえ。俺も横で読んでていい?」
「うん。あとね、この話の女の人視点の日記も実は公開されててね、このフロアにはないんだけど__」

 ここまで喋り、マヤは自分が嬉々として優乃にプレゼンしていることに気付いた。急にとても恥ずかしくなり、口をつぐんた。

「黙らなくていいよ」
「俺の話なんて、聞いても面白くないよ……」
「なんで? マヤくんと話すの楽しいから、俺ここにいるんだよ」
「ふへ……」
「俺、マヤくんと仲良くなりたいな」
「え、え」
「嫌かな」
「い……」
「俺と話すの、嫌?」

 ゆっくりと、マヤを怖がらせないように喋っているのが分かった。それが分かって、マヤはやっと長い間優乃と目を合わすことができた。ドキドキ、バクバク。心臓の音は早いのに、なんだかこの瞬間は角や牙がでてこないような気がした。伝えるなら、今しかない。

「嫌じゃないよ」

 だって優乃は、なんだか特別な感じがする。それが勇者の孫だからか、マヤが魔王の孫だからか、それとも別のなにかか。分からないけど、この関係の、もう少し先に進んでみたい。

「俺も、優乃くんと、しゃ……喋りたい」

 手にしていた3冊の小説をぎゅっと握りしめた。ドキドキ、バクバク。悪魔の姿になった時でも、こんなに心臓うるさくならないのに。体感したことのない感情に、マヤは困惑した。

「そっか。どうしよう」
「え?」

 マヤの言葉を聞いて、優乃は口元を手で覆った。たらんと垂れた目尻の周りが赤い。お互い、同じくらい顔を赤くしていた。

「すっごい嬉しい」

 はあ、と深く息を吐く音が聞こえた。優乃は安心したのか、ずるずるとその場にしゃがみこむ。

「あえっ、だいっ、大丈夫!?」
「うん。……はは、なんか……うん、うれしー」
「ひぃ……」

 なんて明け透けな。恥ずかしいやら眩しいやらで、マヤは顔を真っ赤にしながら悲鳴をもらした。勇者ってみんなこうなの。それか、普通に優乃自身がこういう性格なのか。いろいろ考えたけど、それでも優乃とちゃんと友達になれたのが嬉しかった。






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