お題:主人と執事もの(独自設定 使用人×主人)
1
貴族から華族へ名前を変えた上流階級や、莫大な資本・資産を有している財閥は今もなお日本に残っている。それらは日本のトップに立ち、政治や経済を動かしている。平等な世の中ではない。明確に身分の差は存在する。
俺、石井爽(そう)は、鳳(おおとり)財閥の第四子、鳳希一(きいち)様の専属の使用人として仕えている。
「暑い」
「暑いですね」
「おかしいだろこの暑さは。まだ七月だぞ。八月はどうなるんだ」
「じゃあ送迎を付ければいいじゃないですか」
「運動不足で僕の美しさが曇ったらどうするんだよ」
「鳳家から学習院までたったの500mほどじゃないですか……。歩いても歩かなくても変わらないです。変に意地張らないで車を出してもらいましょうよ」
希一様の顎から垂れる汗を見て、差している日傘を一層希一様の方に傾けた。財閥のご令息に汗は似合わない。しかしながら、この汗すら美しく見える程に希一様は凛としている。風貌だけは。
「爽のせいだからな」
「え、私ですか」
「中等部の頃に、僕に太ったって言ったから」
「言いましたっけ」
「言ったよ! だから車で学習院に行くの辞めたのに」
「はあ……」
確かに言ったかもしれない。でもそれは、多分希一様の方から「僕太った?」と聞いてきたからだと思う。身体測定の後に結果を見せてきて、前回と比べ体重が増えていたから、見たまま、はいと答えただけだった。まさかあれのせいで今俺達はこのクソ暑い中徒歩で通学することになったのか。そんな酔狂な華族や財閥の跡取りなんてどこにもいない。家によってははしたないからやめろとすら言われると思う。
「ふぅ……。いくら僕が美しいからと言って、蝉達もここまで歓迎しなくてもいいと思わないかい?」
「ああ、そうですね」
「爽、ちょっとあの木にいる蝉を捕まえてみないか?」
「嫌ですよ。なんでですか」
「静かにしてって言うんだよ。鳳財閥の息子の言うことなら流石に蝉も聞くだろ」
「自分で掴まえてください……虫苦手なんで……」
「ふーん」
返事をするなり、希一様は敷地内に生えていた木まで走って行き、信じられない速度で蝉を素手で掴んだ。そして、満面の笑みでこちらに向かってくる。
「ちょっ、あっ、待ってくださいっ」
「つけちゃおっかな〜、爽の背中とかに〜」
「いやっ、やだっ、やめてください!」
小学生かよ。礼儀作法を学ぶ学生とは思えない希一様の行動にみっともなく慌てふためいていると、背後から来た黒塗りの外国車がスピードを落として俺達の横に停まった。後部座席の窓が下がり、にやついていて、人を小馬鹿にしたような表情の男が俺達の方を向いていた。
「お前らが朝から滝汗かいてたのって、徒歩通学だからかよ。ほんと恥ずかしいな。お前の家本当は金ないんじゃないか?」
「む、島津おはよう」
「……おはようじゃねえよ……」
島津邦和(くにかず)。俺達と同じ二年生で、俺達と同じクラスメイトだ。島津家は力のある華族で、それもこの男の家は本家の血筋なので学習院内でも有名人だ。
「学習院の面汚しが」
島津は顔を歪めながら捨て台詞のように言い残し、車は進んだ。鳳財閥と島津家は昔から何かと因縁があるようで、こうしてよく希一様につっかかってくる。
だか、希一様にはなんの影響もない。
「僕ほど綺麗な顔ってないと思うんだけど……」
「面汚しってそういう意味じゃないですよ」
希一様は胸元からハンカチを取り出してこめかみの汗を美しく拭った。
鳳希一にはそんな攻撃が効かない。なぜなら自己肯定感の塊だから。
2
俺達の通っている学校は高校という名前ではない。学習院高等科と言う。財閥や華族の跡取りと、一部の従者のみが入学を許される。女人禁制で、いくら高貴で上品なご令息しかいないとはいえ、むさ苦しいものはある。その中でも希一様は佇まうだけで場を華やかに、清涼にしてくれるほど美しい。とは思う。自画自賛するだけの説得力は確かにある。──頭脳と不釣り合いなほどに。
「爽、前回より順位落ちたんじゃないか?」
「……それ、希一様が言いますか」
「本当に良い主は、従者のことまで気に掛けるんだよ」
「自分のことを先に気に掛けてくださいよ」
伝統的な風習というか、悪しき風習というか。この学習院内では、テストの順位は全生徒の目に止まるところに貼り出される。生徒たちがより高め合えるためにだろう。そこには権力も身分の差も関係ない。全くの忖度なく公正な順位が公表されてしまう。
そう、この鳳財閥の令息であっても容赦はなく。
上から順に見ていくのも馬鹿らしい。鳳希一という文字は、表の一番下に表記されていた。
希一様を見ると、まさか最下位の順位を見ているとは思えないほど涼しげな表情をしていた。
「どうやったら最下位なんて取れるんだよ。逆に教えてくれよ」
鼻で笑いながら希一様に近寄る島津。
テストの後は必ずと言っていいほど、島津は希一様に絡んでくる。島津の周りには島津と仲のいい連中もいて、希一様を見て笑っていた。横目で順位表を見ると、島津は一番上に名前が載っていた。これで島津は成績優秀なのだ。
希一様はそれに全く怯まず、肩をすくめた。
「ふ……。じゃあ僕のこれもある種才能だな」
「褒めてねえよ!」
「毎回毎回、そうやって僕のことをからかって楽しいかい?」
「なんでお前最下位取っといてそんな態度取れるんだよ……!」
「自信のある人間はいつだって僕くらい堂々としているものだよ」
「それで自信があるのがおかしいんだよ!」
島津達は怒りをあらわにした。いつもこうだ。何故か希一様の方が余裕そうに彼らの言葉を躱す。本当に最下位とは思えない。このやり取りが滑稽で、その周りの人がくすくすと笑い、結局島津が恥をかくこととなる。それでまた島津は希一様に一泡吹かせようと攻撃をしかけてみて、返り討ちにあって、の繰り返しだ。
今日は一限目から体育がある。ぷんすこと怒りながら体育館に向かう島津の背を見送って、希一様は一笑した。
「僕の言葉に勝てないようじゃ、島津家の未来は危なっかしいな」
「私達も体育館向かいますよ」
「ああ。爽、絆創膏の用意をしておけ」
「はい」
ちなみに希一様は運動も苦手だ。
3
希一様がここまでのびのびと育ってしまったのには、鳳家のご令息の多さにも所以がある。希一様は四人兄弟の末っ子だった。鳳家当主──つまり希一様のお父様は、希一様にいろいろを求めるのは諦めているご様子。
「ああ……まあ……そうだな……。赤点がないだけ頑張ったな」
「そうでしょう、そうでしょう?」
帰宅し、希一様はお父様である兼尚(かねひさ)様に全てのテストを包み隠さずお見せした。俺は正直希一様のその度胸を何より評価している。
兼尚様はテストの点数を見て、見事に手入れされた顎髭をしょり……と触り、言葉を選んで発した。希一様はそれを褒め言葉と受け取ったようだ。
「希一的には、英語の点数はもっと上だと思ったのですが、なんとも不甲斐ない結果に終わりました」
いろいろ突っ込みたいところはあるけど、俺も兼尚様も何も言わない。
「お前は大病なく過ごしてくれたらそれでいいよ……」
「はいっ。お任せください」
希一様は元気良く返事をし、兼尚様からテストを受け取り、一礼して兼尚様の書斎を出た。俺も深く頭を下げ、退室する。
「どのあたりから大病だろうな」
「希一様には一生無縁なんで考えなくてもいいですよ」
「僕、美しさ以外でもギネスに載っちまうよ」
「何歳まで生きる気ですか」
「お前、主に向かってそんな……」
長い廊下を渡り、俺達は食堂へ向かった。その途中で、鳳家の二番目のご令息、一颯(いっさ)様とその使用人とすれ違った。けれど、一颯様と希一様の間に会話はなく、まるで他人のごとく、互いに目を配ることはなかった。俺は希一様の後ろで足を止めて一礼した。
鳳一家は鎖国後海外から輸入した糸や布、衣服を販売する商売から始め、明治の終わりの頃には鳳財閥と言われるまでの成長を遂げた。その勢力は今でも続いていて、繊維産業を語るにおいて鳳財閥の名は欠かせない。その鳳財閥の四番目のご子息が、希一様。ここまでご兄弟がいるのは、兼尚様が「兄弟どうしで高め合ってその中からより良い総帥を出せるように」と期待を込めたため。そして現在、その高め合いは実質兄三人だけで行われている。
希一様のお兄様方は、希一様のことを視界に入れるような存在とも思っていないらしい。鳳財閥の時期総帥は誰になるのか、希一様以外のご兄弟で争われている。そこに希一様が入る隙は髪の毛一本分すらもない。希一様のことは、たかだか寝食を同じ家でともにする学生くらいにしか思っていないのだろう。
「今日のご飯なにかな」
「なんでしょうね」
「お肉だといいな」
希一様も、お兄様のご対応にはなんとも思っていないらしい。俺の方を見てにっこりと笑った。
鳳家に団欒の風習はない。大体の晩餐の時間に食べられる人は食べ、無理なら合間を見て食べる。家族全員が揃わない日の方が多い。一颯様はもう夕食をお召し上がりになられたのだろう。
食堂に向かうと、他のご兄弟のお姿はなく、希一様のお母様、菖蒲(あやめ)様が一人で夕食を召し上がっていた。その洗練された所作や眉目の美しさは希一様とよく似ている。
希一様は菖蒲様の正面に座り、俺はその横に座った。希一様は食事が運ばれてくるまでの間、嬉々として菖蒲様にテストの結果を報告していた。菖蒲様は微笑みながら小さく反応するのみ。兼尚様があの対応で、菖蒲様もこれなら、そりゃあ希一様もこれだけのびのびと育ってしまう。
「爽、あなたの順位は?」
「十二位でした」
「あらそう。今度は希一に勉強を教えてあげてちょうだい」
「毎回教えているつもりなんですけど……」
「爽の教え方に問題があるんじゃないの〜?」
希一様はにやっと笑って俺を肘で突いた。菖蒲様ははしたないわよ、と軽く注意する。注意するところはそこじゃないと思う。
「あなたは使用人の中でもかなり頑張っているわ。これからもその調子でね」
「……はい。ありがとうございます」
俺は無難に返事をし、配膳された子羊のステーキ肉にナイフを入れた。希一様は期待していた肉料理に満足気なご様子だった。
俺が頑張るのは当たり前だ。むしろそれはノルマでしかない。身寄りのない俺を、鳳家に置かせてもらっているのだ。
鳳家の人間にはそれぞれ使用人がつく。兼尚様、菖蒲様、そしてご子息全員に。使用人と言っても、全員が代々鳳家に仕えてきた由緒正しい家系の者ばかりだ。
でも俺だけは違う。俺は昔孤児院で生活をしていた。両親がいなくなった理由はよく知らないけど、気付いたらもう孤児院で生活をしていたので、そこにはなんの感情もない。
兼尚様は、孤児院から一番賢そうな子を一人引き取ったと言う。それが俺だった。乳母が希一様の面倒を見る時期が終わり、初等科に入学する頃には俺が希一様に仕えるようになった。
その頃にはもう既に、兼尚様もこの跡継ぎレースに希一様が入る隙がないと見限っていたのだろう。だから、俺みたいな身寄りのない、なんの作法もなっていない雑種のガキを希一様に寄越したんだ。
時々、希一様は俺が専属の使用人なんかで不満はないのだろうかと考えてしまう。使用人だって自分のステータスになる。俺のことを調べて、孤児院出身だと知って笑う人もいる。俺はどう思われてもいいけど、希一様はそれで不快な思いをしていないだろうか。せめて相応しい従者でありたいから、俺は勉強も運動も使用人としての仕事も全て頑張り続けるしかない。
4
ありがたいことに、使用人の俺にも一人部屋が割り当てられている。夜になり、消灯の時間まで本を読もうと机に向かっていると、扉が四回叩かれた。希一様がやって来た合図だ。
扉を開けると、寝間着姿の希一様が手にトレーを持って立っていた。トレーの上には皿が置いてあり、更にその上にはブラウニーだろうか、チョコ菓子が乗っている。希一様は俺を見てはにかんだ。
「爽、これあげる」
「歯磨きしましたよ」
「またすればいいじゃん」
希一様の頑張りを無下にできない。トレーを受け取ってお礼を言うと、希一様は部屋の中に入り、ベッドに腰掛けた。早く食べてと急かすので、俺もローテーブルの側に座り、ブラウニーに手を付けた。口に入れた瞬間、程よい甘みと苦味が広がる。しっとりとしていて濃厚な舌触り。それなのにくどくなくて、次の一口をすぐに欲してしまう。歯磨きのことなんて、もう既に忘れてしまった。
「どう?」
「今回もとても美味しいです。他の人が作るものよりも、何百倍も」
「んふふ」
「いつ作ったんですか?」
「昨日の夜こそっと」
希一様は勉強も運動も苦手だけど、お菓子作りの才だけはピカイチだ。それこそ、もしも学習院で学ぶ科目の中にお菓子作りという項目があれば、断トツで一位を取れるくらい。希一様は、しきりに「なんで学習院でお菓子作りを学べないんだろう」と嘆いているほどだ。
「僕将来パティシエになろうかな」
「きっとなれますよ」
「お父様とお母様は許してくれるかな」
「ええ、きっと」
いくら自由奔放に育てられた希一様と言えど、鳳財閥の令息が台所に立つなんて、と言われている。女性である菖蒲様ですら立ち入ることはめったにない。暗黙のしきたりで、本来なら使用人以外は厨房に入ってはいけないのだ。
だから、希一様も人目がない時をはかって、こそこそとお菓子を作っている。昔から料理をする使用人の姿に興味を持っていたらしい。当時は兼尚様や菖蒲様にお叱りを受けながらも、折を見ては厨房に入って他の使用人の側でお遊びの料理をしていた。使用人は流石にご令息に強く注意をすることができず、今もこうして希一様のお菓子作りには目を瞑っている。
希一様の唯一の特技がお菓子作りで、こんなに美味しいものを作れるのに、それを家族に与えることはせず、褒められることもない。俺にはそれがもどかしく感じて仕方がない。
俺がブラウニーを食べ終わって手を合わせると、希一様は何かを考えているご様子で、足をパタパタと上下させていた。
「島津にも食べさせたいな」
「はぁ……?」
「僕のこと凄いって言ってくれそうじゃない?」
「言うでしょうか」
「でもお菓子作りなんて島津にはできないでしょう?」
「それはそうだと思いますが……」
「これ、明日渡してみようかな」
「は?」
「え、怖」
「……渡す義理なんて一切ないですよ。普段からあんな言動を希一様に向けているのに……」
「でも、たくさん余ってるし。他の使用人は畏まって誰も貰ってくれないから、食べてくれる人も爽しかいないし」
「いや、でも」
「せっかく作ったのに、無駄にしたくない」
「……それで、また嫌味を言われたら?」
「それはそれでいいよ。僕の作ったお菓子の価値が分からない可哀想な男だって思うから」
希一様は笑った。
希一様は強い。確かに鳳財閥を継ぐだけの頭脳は無いかもしれないけど、心の強さと柔軟さは誰にも負けない。いつでも前向きだ。それに、クラスメイトや他のご兄弟と比べても一人で生きていけるだけの生活力や人間力もあると思う。正直俺は、体裁のためについている希一様のお飾りでしかない。
それでも。
「……分かりました。でも、私がいる時に渡してください」
「そんなこと言ったって、ずっと僕の隣にいるだろ」
「それはそうなんですけど」
希一様でも守りきれない部分は、俺が取りこぼさず守ってあげたい。俺が希一様の一番の支えになりたい。
5
次の日の放課後、希一様は島津にお菓子を渡すことを決行した。渡すだけでも十分すぎるのに、希一様はそのお菓子を丁寧にラッピングまでしていた。そんなことしなくていいですよと言うと、丁寧な方が敵に塩を送る感じだ、とかなんとか言っていた。多分雰囲気で言っているんだと思う。
一応チョコ菓子なので、早く渡せた方がいいと思ったけど、今日に限って島津が嫌味を言いに来ない。島津は周りの級友に囲まれ、緩やかに時が過ぎるのみだった。そこに希一様はわざわざ突っ込んでいったりしない。よく考えれば、希一様と島津が会話する時は、大体が島津の方から話し掛けている。自分から話し掛けないと希一様に相手にされないんだ。力関係を表しているようで、思わずほくそ笑んでしまった。
最後の授業が終わると、島津はそそくさと教室を出て言ってしまった。いつものように駄弁る時間があると思ったのに、本当に、今日に限ってだ。俺と希一様は目配せをして、島津の後を追った。
島津も専属の使用人がいるとは思うが、島津家は使用人は学習院に通わせる習わしではないようだ。学習院内にいる間は、俺のような付き人がいない。一人で玄関に向かった島津に、希一様は声を掛けた。
「やあ、島津」
「……なんだよ」
意表を突かれたかのような顔をする島津。希一様はにまっと笑って、鞄から小袋を取り出した。
「これを君にあげよう」
希一様から渡された物を島津は素直に受け取ると、それをまじまじと見つめた。
「どこで買ったやつだ? 随分粗末だな」
「僕が作ったんだよ」
島津の目と手がぴたっと止まった。何故か俺の方が緊張していて、手に汗を握った。
「は? お前が作った?」
「そうだよ」
「財閥のご令息サマが、お菓子作りを」
目を点にし、そして鼻で笑った。島津家でも、使用人以外が台所に立ち入る文化はないようだ。
「鳳はおままごとが達者だな。こんなことに時間を使ってるから底辺のままなんだよ」
なんて物言いだ。あまりの嫌味に耐えられず俺が身構えると、希一様は俺の背中をぽんと叩いた。
「ふぅん、いらない? なら返して」
希一様は怒りはせず、涼しい顔をして島津が手にしている小袋に手を伸ばした。すると、島津はその小袋を持ち直して気まずそうに目を細めた。
「……返すとは言ってないだろ」
「これはおままごとなんでしょう。じゃあ食べられないんじゃないの」
「それは俺が判断してやるからっ……」
「食のありがたみが分からない人には渡しませんっ」
押し問答が続き、ラッピングされたブラウニーが希一様の手に渡ったり、島津の手に渡ったりした。まさか島津がここまで意地になるとは思わなかった。そして、希一様も。希一様は口ではああ言っていたけど、きっと、自分が作った物を馬鹿にされたのが思っていたよりショックだったのだろう。やけになって島津から小袋を引っ張って取り返そうとした。
その拍子だった。勢い良く引っ張ったせいで、希一様は体勢を崩し、後方によろめいてしまった。それを見た俺は、あとさきの事を考えず、咄嗟に希一様の背後に回った。そして、希一様の体重を全身で受け止めた俺はなんともうまいこと──左側にある下駄箱に頭を強く打ち、そしてそのまま廊下の方に倒れてしまった。
反射的に庇って体を支えた左腕がじくじくと熱を持ち、強く打った頭がじいんと痺れた。
「え……」
希一様は顔を青ざめて俺を見下ろした。これには流石に島津も驚いたようで、みっともなく口を開けていた。
「そ、爽っ、どうしよう、ごめん」
「あ、いえ……私の体幹がイマイチでしたね……」
「頭が……」
「大丈夫です、大丈夫、ちょっと打っただけ……」
大丈夫アピールのため患部に触れてみた。すると、指にぬるっとした感覚があり、冷や汗をかきながら指の腹を表に向けた。血が出ていた。それを見て、希一様は目の色を変えて慌てふためいた。
「爽っ、どうしよう! 血だ!」
「あの……多分少量なんで大事には至らないですから」
「爽、爽っ……」
今にも泣き出しそうな声で、希一様は俺の名前を呼び続けた。それを聞いてギャラリーが寄ってきたが、以外にも保健室まで走ってくれたのは島津だった。
「そぉ……、いやだ、死なないで……!」
「いや……これくらいで死ねないですから……」
「爽〜〜〜っ……」
希一様は俺をガクガクと揺さぶった。辞めてくれ。それに恥ずかしい。結局養護教諭が来るまで、何故か俺が希一様を宥めることになった。
6
宣言した通り、全くもって大事にはいたらなかったが、頭から出血したのと左腕を打撲したということで、念のため一日休むことになった。それも、自宅療養ではなく入院という形で。大げさだと思ったけど、兼尚様も菖蒲様も必死の形相で入院しなさいと言うものだから、断れなかった。
夕食は病室まで他の使用人が届けてくれた。てっきり希一様が見舞いに来るものだとばかり思っていたから、自分の思い上がりに少し恥ずかしくなった。どうやら家で兼尚様と菖蒲様にこっぴどく叱られているとの噂を使用人から聞いた。可哀想に。誰が悪いかと言われれば、誰も悪くはない。島津でさえも全面的に悪いとは思えない。俺がちゃんと希一様を受け止めさえすれば良かったんだ。
一人病室で夕食を食べながら、希一様のことを思った。いつもの味だけど、やっぱりどこか物足りないような気がする。
次の日の放課後、見舞い客がやって来た。島津だった。島津は、よ、と軽く挨拶をし、気まずそうな表情をしながらベッドの側に腰掛けた。
「あの」
「あー、あー、分かってるって。俺も親からだいぶ叱られたから。耳タコなんだよ。悪かった」
「……」
俺と島津は別に友達ではない。島津は俺のことを一介の使用人としか思っていないだろう。だから見舞いに来てくれるとは思っていなかったし、態度は置いておくとして謝罪を受けるとも思わなかった。
「私は別に、勝手に自分でやったことなので大丈夫です。でも希一様にはちゃんと謝ってください」
「……分かってるって……お前もうるさいな……。ってかちゃんと謝ったし……」
「……そうですか」
島津はばつが悪そうに口を尖らせた。
島津が希一様に謝罪を……。まるで想像できない。どうやら島津にも思うところはあったみたいだ。謝りたくないというプライドより、謝らなければいけないというプライドの方が勝ったらしい。
「あいつ、今日一日全然元気なかったぞ」
「え?」
「不気味なくらい真面目だったし、全然喋らなかったし」
「あの希一様が……」
「静かでいいけどさ。それはそれで気味悪いから、お前がどうにかしろよ」
全く素直じゃない。張り合う相手がいなくて島津も寂しいのだろう。
島津が立ち上がって出口に向うと、丁度のタイミングで扉が開いた。
そこには噂の人物、希一様が立っていた。希一様は目をまんまるにして島津を見た。
「うわっ、なんで島津!」
「げ……」
「なんだよその反応は」
島津はまごつきながらも希一様の肩を押して、スタスタと帰ってしまった。
そして、希一様は広がった視界の先の俺を見つめた。俺が名前を呼ぶと、あからさまにほっとした表情をして俺に近寄った。
「体調はどうだい?」
「全然元気ですよ。予定通り明日の朝はここから学習院に向かいますので」
「そう。それは良かった」
「それより、希一様の方が大丈夫ですか? 昨日叱られたんでしょう」
「なんてことないよ。庭の花を全部詰んだ時のお母様の方がよっぽど怖かった」
「そうですか」
見栄を張るその姿に笑うと、希一様は俺を見てなんとも言えない表情をして、それを紛らわすかのように鞄をあさった。
「はい、これ、今日の課題だよ。先生が分からないならやらなくてもいいって」
「ありがとうございます」
「今日の授業内容もちゃんと全部ノートに取っておいたよ。いつでも見せてあげる」
「ありがとうございます。珍しい」
「あと爽が図書室で借りてた本、今日で期限切れだったでしょう? 僕が代わりに返しといたからね」
「ふ……ありがとうございます」
「あと、プリン」
希一様は小さな手提げの紙袋を俺にくれた。中には、牛乳瓶のような容器に入ったプリンが一つあった。紙袋には、学習院の近くにある有名な洋菓子店の名前が刻んである。
「ありがとうございます」
「手作りじゃないって思った?」
「すみません。少しだけ」
「……ほんとは僕も手作りのプリンをあげたかったんだけど。流石にね、僕が作ったお菓子が原因で爽に怪我させておいて、いっぱい叱られて、その足で厨房に向かうなんてできなかったよ」
「ふふ、そうですか。希一様ならそれでもみんなの目を盗んで作りそうですけど」
「僕だって反省くらいはするよ」
「希一様じゃないみたいです。私がいない方が、もしかしたら鳳家のご令息らしく生活できるんじゃないですか?」
からかうと、希一様はふてくされたように口を結んだ。よく希一様を見れば、目の縁にじわっと水分が浮かんで、少し赤くなっていた。
俺は眉を下げて笑った。
「希一」
名前を呼ぶと、希一様はぴくっと肩を揺らした。昔はよく希一様から「様なんて付けるな」と命令されていた。今でも、二人になると時々希一様の方から様は外せと言われる。
「なに、爽」
「寂しかった?」
自分でも、驚くほど優しい声が出た。希一様は横に結んだ唇を震わせ、こくりと頷いた。
「……僕、馬鹿で何もできないと爽がついてくれるんなら、ずっとこのままでいい」
「希一の大胆不敵なところは俺のせい?」
「そうだよ。もともと僕に自信なんてないよ。お兄様達はなんでもできるのに、僕だけなんにもできない。お父様もお母様も優しいけど、それは僕に期待してないからっていうのも分かるし。それに、僕の能力に釣り合うような友達も見つけられない。だから、僕から爽を取ったら何も残らないよ。爽がいるから、……」
希一様は言葉を詰めた。ぐっと口を閉じ、俯いて弱々しく息を吐く。声は小さく震えていた。
「……爽がいなくて、寂しかった」
たった一日。たった一日俺が一緒にいないだけで、あの天真爛漫で怖いもの知らずな鳳希一はこうなってしまうのだ。
愛おしさでいっぱいになり、俺は両手を広げた。
「希一、おいで」
微笑みながら希一に顔を向けると、希一はとうとう小さく涙を流して俺の胸に飛び込んだ。あの時も、こうやって支えてあげられたらよかったのに。
あやすように背中を撫でると、希一様は俺の胸元にぐりぐりと額を押し付けた。
「どうしたら寂しくなくなる?」
「……ずっと僕と一緒にいるって約束して」
「ずっと?」
「うん。ずっとだよ。学習院を出ても、働くようになっても、おじいちゃんになっても」
「ずっとが無理な時もあるんじゃない? これから縁談や結婚もあるだろうし」
「そんなの、全部断るよ。僕以外に三人も後継者がいるんだよ。僕一人くらいずっと独り身でも怒られないよ」
「俺が家庭を持ちたいって言ったらどうするの?」
「え……」
そっちの可能性はミリも考えていなかったようで、希一様はガバッと顔を上げて呆然とした。
「そうなの……?」
あまりにも可愛い顔で不安を滲ませるもんだから、俺は堪らなくなって希一様の頭を撫でた。
「冗談ですよ。万が一そんなことがあったら、『家庭を築くんなら僕としろ』って命令してください。喜んでお受けするんで」
「……へ」
お馬鹿な希一様でも流石に分かっただろうか。分かってるといいな。じわじわと赤く染まる頬に、もう答えは出ているはずだ。
頼むから、病室ではお静かに。
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