恋と言い難いが文とどまれない

1


 今年は九月一日が月曜だったから、キリよく九月頭から登校だった。八月いっぱい夏休みだったからか、余計長い長い夏休みに感じた。

 そんな憂鬱な九月一日の朝、黒野家リビング。


「お母さん、俺のシャツ知らない?」

「はぁ? ないことないでしょ」

「ないから聞いてるんだって」

「……あ、クリーニング預けたままだったな」

「え、俺何着ればいいの」

「お父さんの着てけばいいじゃん」

「絶対デカイし絶対服装検査引っかかるけど」

「あーもう朝からうるさいな。じゃあパジャマで行けば? こっちは気効かせてクリーニング出したんですが?」

「……」


 これが俺のお母さん、黒野由実。多分、アリかナシかで言うと難アリな方の人間だ。気効かせてクリーニング出すんなら間に合うように取りに行くべきだろ。ちなみにうちの高校のシャツには校章が入っているので、普通のシャツを着て行ったら確実に服装検査でバレてしまう。今日は全校集会前に服装検査がある。別にこの程度引っかかったところでなんのペナルティーもないと思う。けど気持ち的に俺が嫌なのだ。ただでさえ憂鬱な夏休み明けの月曜日、もっと憂鬱になる理由が増えた。

 うだうだ文句を言っても何百倍もの愚痴が返ってくるのが目に見えているので、仕方なく黙って代わりになるシャツを探すことにした。が、廊下に出て困った。


「いや俺お義父さんのシャツどこにあるか知らないし……」

「ユージのシャツXLだって。ミジンコにはバカデカいだろうなァ」


 黒野家の半数は難アリ人間で構成されている。もう一人の難アリの声がしたので後ろを振り返ると、ニヤついた顔で義弟が立っていた。口は笑ってるのに目の奥底が笑っていない。ニヤつき顔界で一番嫌いな顔をしている。手には白いシャツが握られていた。


「うるさいな。なんで朝からそんな物言いしかできないんだよ」

「遣う言葉に朝とか昼とか関係なくない? じゃあお前は朝からおはようも言えないの?」

「お前から先に話しかけてきたんだろうが。お前から先に挨拶するべきだろ」

「あー。おにいちゃん、おはよう♡ ユージのが嫌なら俺の着る? 俺替えのシャツ無駄に持ってんだよね」

「着ない。てか実の父のこと呼び捨てすんな」

「てか実の母からあの扱いされてんのウケるね」

「……」

「お前はおはようって言ってくれた人におはようも返せないの?」

「……おはようございます!」


 俺は睨みつけながら義弟の手からシャツを奪い取った。本当にムカつく。さっさといなくなれ。いやコイツは相手がくたばるまでその場を離れないよな。じゃあ俺が逃げればいいかとリビングに戻ろうとすると、また義弟に呼び止められた。


「俺さー、今欲しいピアスあるんだよな」

「……貸さないからな」

「クラウドファンディングだったらいい? じゃあ買えたら片方あげる。右耳か左耳どっちがいい?」

「だからもう金は貸さないって! それはクラウドファンディングって言わないし!」

「ケチ」

「お義父さんに貰えよ。お義父さんじゃなくても、お母さんならお小遣い結構くれるだろ……」

「ああ、だろうな。お前と違って」


 もうコイツとは会話しない。黒野家はいろいろあるのだ。主に血の繋がりとか、お母さんの息子達に対する対応の差とか、義弟の俺と両親に対する対応の差とか、義弟の性格の悪さとか。

 イライラしてきたので脱衣所に行って着替えることにした。案の定お義父さんのシャツは嫌になるほどサイズが合わなかった。


 長い長い夏休み終了。憂鬱な新学期が始まる。そして本当に憂鬱なのは夏休みが終わることでも服装検査があることでも俺の家族のことでもなかった。






2


 学校に近付くにつれて生徒の喋る声が増えてきた。聞こえてくる限り、だいたいどこ行ったなにしたとか、課題がどうこうとか、登校ダルいとかだった。男子生徒の大半はこんがりと焼けていて、余計己が夏休み中に引きこもっていたかを思い知る。肌を焼くくらい外に出たのなんて、あの時くらいだったしな。

 ……いや、なんでもかんでもあの時に結びつけるのはやめよう。余計気が重くなるだけだ。


「あっ、黒野くん、おはよう」


 正門前、向かい側から夜差が駆け寄ってきた。うん、夜差も安心するくらい青白い肌のままだし髪の毛もくるくるだ。心なしかまた身長が伸びた気がする。俺もおはようと返すと、夜差はヘラヘラと笑った。


「黒野くん縮んだ?」

「やっぱりお前が身長伸びたんだよ」

「えぇ、もういらないよ」

「 一回俺の目線と変わってみろよ」


 夜差ってこういうとこあるよな。一見無害そうに見えて無自覚で人を傷付ける男だ。まあそれはいい。今に始まったことではない。

 夜差は勉強に関しては優秀なので、課題図書はなににしたとか、やらなくてもいいけどやれる人はやりまょう的なワークまで全部解いたとか、そういう話を楽しそうにしていた。多分、夜差は俺と全然違う夏休みを過ごしたんだと思う。


「夜差、恐竜博物館行くって言ってたよな」

「行ったよ! めちゃくちゃ楽しかった!」

「へぇ」

「あのねー、化石掘り体験やったんだけど、アンモナイトが出てきたんだ」

「へぇー」

「あ、黒野くんにお土産あるよ!」


 夜差がくれたのは箱に入った組み立て式の恐竜のフィギュアだった。


「……なんて恐竜?」

「ミンミ」

「聞いたことないぞ。よくグッズ展開できたな」

「なんか黒野くんに似てたから買っちゃった」


 これが似てる? 正直かなり嬉しくないが、いらないなんて言ったもんなら登校拒絶くらい泣き喚かれるだろうから、頑張って笑顔を返した。


「お土産ね、黒野くんの分しか買ってないからみんなに秘密ね」

「あ、うん」


 お土産の是非はともかく、夜差って俺にだけかなり贔屓にするよなとは思う。このフィギュア1個買うより、詰合せのお菓子買ったほうが物によっては絶対安いのにな。それだとあいつらにも配れるし。それをせずわざわざ俺だけに買う理由ってなんだ。夜差、もしかして相当あいつらにヘイト向けてんのか? いや、向けるかそりゃ。片方は平気で俺らを実験用具にするし、片方は……。


「黒野くんは、楽しかった?」

「え?」

「バイト。木闇くんと」


 思わず肩を揺らした。考えないようにしても、どうしても脳内をチラついていたことだったから。


「え、……あー……、まあ、普通。普通かな」

「普通?」

「普通」

「普通ってなに?」

「え?」

「黒野くん初めてのバイトだったんでしょ? 初めての経験で普通ってことなくない?」

「……え」

「普通って、平常通りの起伏のない感情がずっと続いてたってこと? それか、良いことと嫌なことが同じくらいあってプラマイゼロになった普通ってこと? 普通って思うのにも理由はあるよね。なんで?」


 ……夜差ってこういうとこあるよなパート2。

 普段他人の前ではこんなにペラペラ喋らないくせに、なにがきっかけかは分からないが、俺に対してやけにつっかかってくる時がある。


「いやまあ、普通ってのは確かに言葉として間違ってたかもしれないけど……。じゃあ、大変だったよ」

「へー。楽しくなかったの?」

「たの……うん……楽しくないこともなかったけど……」

「けど?」

「……いやさ、別にいいじゃん。もう俺のバイトの話なんて広がらないって」

「なんで? 俺が広げるよ? 勝手に畳まないでよ」

「……じゃあ、大変だったし、怖い目にもあったから、もう思い出したくないってことで」

「えー! 絶対嘘じゃん!」


 なんかめんどくさいことになりそうだったので、足早に下駄箱に向かった。丁度のタイミングで、玄関には漆がいた。漆も変わらずロボットのような見た目をしていた。


「漆おはよ。意外と日焼けしてないんだ」

「オーストラリアは冬だったからな」

「あ、そっか。楽しかった?」


 漆は真顔で俺を見て、一生懸命頷いた。大変楽しかったようだ。

 校舎内に踏み込むと、夜差も後ろから着いてきた。


「漆くんおはよー。コアラだっこした?」

「した」

「いいなあ。どうだった?」

「ふわふわでぬるかった」

「ヌル……? 漆くんって体温に対してぬるいのカテゴリあるんだ」


 そうだ。俺なんかより漆がオーストラリアに行った話の方が楽しいに決まってる。なるべく俺に話題を向けないように端の方に移動した。すると、俺の横にいる漆が、背負っていたリュックから手提げ袋を取り出し俺に差し出してきた。


「黒野、お土産だ」

「え」


 袋から中身を取り出してみると、それは小さなコアラの人形だった。ただ、なんというか、かなりしょぼくれた独特な顔をしている。おじいちゃんのような。


「これなに?」

「コアラ」

「いや見たら分かるけど」

「黒野に似てるだろ」


 こいつら、俺のことなんだと思ってるんだろう。


「え、漆くん、俺のお土産は?」

「ない」

「えーーー!! なんで!」

「……」


 夜差にはいろいろ言いたいことがあったけど、好意を無下にはできないので黙っておくことにした。ちなみに、意外と今まで俺のシャツに突っ込みは入っていない。


「黒野、バイトはどうだった」

「……なんで?」

「なんでもないだろ。どうだったって聞いてる」

「……」


 クソ。もうすぐ教室なのに漆に捕まった。


「楽しかったよ」

「嘘だよ! さっきそんな言い方じゃなかったもん」

「ほう?」


 ああもう、夜差も漆もうるさいな。絶対自分が恐竜

の化石見に行った話とかグレート・バリア・リーフ見に行った話のが面白いにきまってるだろ。


「楽しかったって! 楽しかった楽しかった楽しかった」

「うわ、絶対なんかあったじゃん」

「喧嘩したのか?」

「してな……いや誰とだよ!」

「え、喧嘩したの?」

「してないって! 誰とも!」


 陰キャってこんなに大きい声出していいんだっけ。教室の前で小競り合いをしていると、HRの予鈴のチャイムが鳴った。入り口から教室の中をチラッと確認したけど、空席だった。俺の席ではない。窓際最後尾、ほぼ脅しで手に入れた特等席なんだろうなという場所。


「お前ら邪魔」

「!」


 後ろから声が聞こえたけど、振り返る気になれなかった。声の主はそのまま俺達の横を通り越して教室に入り、特等席に向かって行く。


「あ、木闇くんおはよー」


 夜差が声をかけたけど、挨拶も返さず後ろを振り返ることもなかった。俺はそれを目で追った。


「木闇くん休み明けなのに珍しくちゃんと学校来たね。……あれ? 黒野くん、シャツ違うくない?」

「……ああ、うん……なんか、そうだな……クリーニングで……」

「長袖の方のは家になかったの?」


 その手があったか。いやもうどうでもいいや。服装検査なんて本当にちっぽけな悩みかもしれない。

 俺は俯いて息を止めながら自分の席に向かった。嫌だった。木闇が通った後の木闇の匂いだけで、全部を思い出してしまう自分自身が。






3


「小中学生は今日と明日は午前で帰れるんだって。ズルいよね」


 俺もそれは正直思っていた。夏休み明けの初日からガッツリ授業があるのはいかがなものか。この後の授業はクラス全員揃って気絶のコースが目に浮かぶ。

 今は昼休みで、俺達はいつものように空いた音楽室でご飯を食べていた。俺達にクーラーという特権が通用されるはずもなく、開けた窓から入ってくる風だけでなんとか暑さを凌いでいた。ここ最近の日本の夏は暑すぎる。それでも俺達がクーラーの効いた教室でお昼を過ごすことを選ばない理由は、大体が俺らの席は他の誰かに占領されてしまうからだ。


「ていうか、木闇くんがちゃんと全部課題やってきてたのびっくりしたんだけど」


 夜差が木闇の方を向いた。木闇は壇上に寝そべってスマホを触っていた。俺らの方に視線は向けない。俺も木闇をチラ見して、すぐに視線を膝の上に乗っているお弁当に向け直した。


「……漆の全部写した」

「え、いつの間に」

「一昨日と昨日俺の家に木闇が泊まりに来てたんだ」

「え、いつの間に!」


 驚いた。一番課題を嫌っている二人が集まってなにやってんだ。


「写したって、え、もしかして読書感想文も?」

「そうだけど」

「絶対駄目じゃん」


 夜差はきゃらきゃらと笑った。いいなこいつら、アホで楽しそう。漆も木闇もアホなことには変わりないけど、まさかサシで一泊過ごせるような仲だとは思わなかった。


「コイツん家マジでやべーよ。夜になったらテレビの音より蛙の音のがうるさくなんだよ」

「慣れれば秒針くらい気にならない」

「俺は神経質だからあんな家住めねぇな」

「俺、絶対家に木闇くんお泊りさせたくないよぉ……漆くん凄いね」

「は? お前の家に泊まるのなんてこっちから願い下げだけど」


 木闇の遠慮の無さには本当に毎度毎度感心する。こいつくらい自分本位に生きれたら人生楽だろうな。


「漆くんと木闇くん二人でなに話したの?」

「話すことなんてねえよ。宿題写してただけだし」

「じゃなくて。泊りがけだったんでしょ? ご飯のときとか、寝る前とか、朝起きたときとか」

「……」


 沈黙。長い無言の時間だった。特に無いならそう言えばいいのに、そうとも言えないらしい。

 チャリーンとコインのSEが鳴った。木闇がスマホでゲームをしているんだろう。漆の方をチラッと見ると、漆は何故かガッツリ俺を見ていて肩が震えた。


「黒野の」

「え?」

「あ!」


 夜差が慌てたように席を立った。三人の視線が夜差に集中する。


「漆くん、俺ら次の科学の準備しないと!」


 時計を見ると、昼休み終了の時刻まであと十分を切っていた。漆と夜差は科学の時間の準備係だ。


「俺ら先に行くね! 漆くん早く!」


 夜差は漆を引きずって音楽室を出て行った。待って置いていくな、と咄嗟に出かかったのをぐっと堪えて、俺は何故か音を立てずそろっとお弁当の蓋を閉じた。


 正直言って気まずい。木闇と俺と、二人きりになってしまう状況が。


「……あー……。暑いな」

「教室戻ればいいだろ」

「……」


 いや俺もそうしたいよ。でもここでじゃあ教室帰るなって木闇を置いて行くと、それはそれでめちゃくちゃ意識してるようでバツが悪い。バレないようにため息をついて、窓際に移動した。顔を窓の外に出すと、心ばかり熱が冷めた気がする。


「黒野」


 心臓が跳ねた。顔を向けると、すぐ近くに木闇がいた。窓から風が入ってくる。木闇の白い髪が靡いて光っていた。俺は汗をたらりと流した。


「な、なに」

「クソ親父が」


 木闇は俺の目の前に何かのチケットを二枚差し出した。


「近代建築家展……?」

「あいつの本業。来たかったら来いってさ」


 どうやら、建築家デザイナーの作品の展示会のようだ。そういえば木闇のお父さんって建築デザイナーだったな。


「え、俺に? なんで?」

「……知らねえよ本人に聞けよ」


 チケットは二枚。俺と、木闇と二人で行けってことだろうか。

 木闇のお父さんにはお世話になった。良くしてくれてることも分かる。けど。


「……ありがたいけど、俺建築とかアートとか全然分かんないし……もっと理解ある人と行ったほうがチケットも無駄にならないと思う。……夜差とかのがいいんじゃない?」


 別に今更木闇の提案を断ったり反論したりすることに抵抗はない。ないけど、喉が引きつる。


「あっそ」


 木闇は怒ってなかった。勿論悲しんでなんかいなかったし、イライラした口振りでもなかった。いつも通りだった。なんだか、肩透かしをくらったような気分だった。

 ここでチャイムが鳴った。教室に戻る支度をして廊下に出ると、木闇も着いてきた。


「つかなんでお前シャツ違うん?」

「……あー、そうだった。お母さんがクリーニング出してて、回収してなくて……」

「はっ! お前の弟は?」

「弟は何故か替えのシャツいっぱい持ってるらしくて……無事っぽい」

「どーせ誰かからはぎ取ったやつだろ」

「なんでそんな物騒なことすぐに思いつくんだよ」


 ようやく木闇とまともに会話できた気がする。海の家でのバイトのことも、泊まった部屋でのことも、解散したときのことも、木闇はなにも触れなかった。いつも通りだった。夏休みのことなんてなにもなくて、ただ七月が八月になって、八月が九月になっただけだった。

 それでいい。俺がそう望んだんだし。このままなにも変わらない十月になればいい。

 それでいい。それでいいんだけど。


「俺だったらそうする。てか俺もしたことあるし」

「……そういうメカニズムだったか……」


 それでいいはずなのに。

 なんだろう、モヤモヤする。






4


 人間には己を客観視して、駄目だったり嫌だったりサムかったり痛かったりする点を直そうとするポイントが人生で何回かあると思う。早い時期に気付ける人がいれば、かなり大人にならないと気付けない人もいると思う。気付いてても直そうとしない人、直せない人もいるだろうし、もしかしたら全く気付けないまま終わる人もいるかもしれない。俺の親とか義弟とか。

 俺の義弟と木闇は同類でいて、正反対の存在な気がする。壊した物を壊したままにして壊れた部品で遊ぶのが義弟で、壊した物を案外綺麗に修理して誰にも言わず仕舞い込むのが木闇。……一度壊してしまうのには変わりないけど。だから、木闇は多分自分の駄目なところを直せる力はあると思う。


 なんでこんな話をするのかと言うと、九月一日付けで木闇の暴力性がほぼ無くなったからだ。




 バサバサ、と斜め前から聞こえてきた。教室を移動している最中だった。目の前の生徒が持っていたノートや文房具を床に落としたらしい。自分が陰キャでも目の前で物を落とされたら流石に手を貸す。落ちたシャーペンを拾おうと腰を曲げると、俺よりも先に横にいた木闇がノートを拾っていた。俺はびっくりしすぎてシャーペンも拾わず木闇を凝視してしまった。


「あっ、あっ、すみません!」


 可哀想に、ノートを落とした生徒は木闇に恐れ慄いていた。これは当然の反応だろう。だって木闇は肩が触れた程度で胸ぐらを掴んでくるような男だ。イライラしていたら目があっただけで殴りかかってくるような男だ。

 そんな木闇は、俺の目の前に転がっているシャーペンまでも回収して、持ち主に渡した。


「はい」

「えっ、あ、ありがとうございます……」


 言葉が出ない。あの木闇が、はいと言って物を渡す?

 ありえない。普通の人間の行動が普通にできない木闇が、こんな普通なことを?


 その生徒は男でありながら、木闇のギャップに見惚れていた。木闇はそのまま颯爽と生徒の横を通り過ぎていった。そしてその一部始終を見ていた、周りにいた女子生徒も頬を染めていた。アレだ、ヤンキーが子犬拾うやつと一緒だ。


「ねえ、何あれ、木闇くんおかしいよ」

「俺もそう思う」


 俺の後ろにいた夜差も訝しげに木闇の背中を見ていた。


「今日は雪が降る」


 その横にいた漆も木闇の行動に違和感を感じたらしい。雪が降る程度で済めばいいけど。


「木闇くんさー、最近変だよね。いい意味でだけど」

「ああ……うん」

「誰とも喧嘩しないし授業中ちゃんと起きてるし課題やってくるし。馬鹿なままだけど……」


 最後の一言いるか。つくづく夜差は木闇を下に見てるな。


「木闇くんって顔は良いけど性格だけが問題だったでしょ? その性格が改善されつつあるから、今まで木闇くんを遠巻きにしてた子たちがひっそり推してるらしいよ」

「え?」

「俺見ちゃったんだよね。木闇くんの下駄箱にラブレター入ってるの」

「え」


 え。あの木闇に?

 好意を寄せても男女関係なくボコボコにされると噂されてたあの木闇にラブレター?


「その……それは、果たし状とかでは」

「今この学校に木闇くんに喧嘩売れる人いないでしょ」

「それはそうか……」

「で、この前黒野くんと漆くんがお昼に購買行ってたときあったでしょ? そのときに、チラッと木闇くんのスマホが見えちゃって。それがびっくりしたんたけど」

「……」

「多分、MIOって人とやり取りしてたの。別にそれだけだったらなにも思わないんだけどさ。木闇くんのお母さんの名前ってミオだっけって思うくらいで。でもその人が木闇くんに写真送ってて、それが超美人な女の人の写真だったんだよ」

「……へぇー。女優かなにかの写真じゃない?」

「そうなのかな。でも今教室で自撮りしましたみたいな写真だったよ」

「……へ、へぇー……」

「黒野」


 ハッとして漆の方を見ると、漆はプリントを持っていた。


「落としたぞ」

「あ、ああ、ありがとう」


 俺も落としていたようだ。気付かなかった。いや別に意識がどっかいっていた訳ではないけど。決して。


「……木闇の彼女か」

「え!?」

「やっぱり漆くんもそう思う?」

「え!?」

「時々木闇がその女と帰ってるのを見たことがある」

「「え!?」」


 漆、そんな大事なことを、そんな。


「え、待って、木闇はその……彼女ができたの?」

「そうじゃないのか?」

「あっ、えっ、へ、へぇ〜〜〜……」

「やっぱそうなんだねぇ。最近木闇くん全然かまってちゃんじゃなくなったもんね」


 確かに、言われてみれば俺ら四人がやってるスマホゲームもログインしなくなったし、夜差の家でゲームすると言ってもあまり着いてこなくなったし。他の誰でもなく、あの木闇がだ。誰よりも仲間外れを嫌うあの木闇が。

 それも全部、彼女ができたからか?


「……」

「あっ、チャイム鳴っちゃうよ!」


 夜差の言葉通り、すぐにチャイムが鳴った。おせーぞとキレる木闇はいない。とっとと一人で先を行き、教室に向かっていた。






5


 別に、別にいいんだけど。俺が許可を出すものでもないし。俺が他人の人生に干渉する権利もないし。というか、そんな気もないし。いいけどさ。


「じゃあ俺ら先帰るね」

「うん」


 丁度その日俺は日直だった。

 放課後、漆と夜差には先に帰ってもらった。木闇は知らぬ間に教室からいなくなっていた。

 誰もいなくなった教室で、悶々と木闇のことを考えていた。

 木闇にもとうとう彼女が。まあ、そうだよな。顔だけ見れば一級だし。顔だけ見ればいない方がおかしいし。ネックな部分の性格が矯正されれば自然とそうなるよな。……木闇のお母さんの名前ってミオだっけ。ミオ……な顔……してないよな……。いやでもあの木闇だぞ。いくら性格が良くなって最高の男になったって、木闇の方から女の子を振るだろ。前に恋愛なんてサルどもがどうたらとか言ってたし。そもそも木闇は恋愛に興味ないだろ。いや俺はなんの心配をしてるんだ。


「はぁ……」


 ため息をついていたことに自分で驚き、口元に手を当てた。意味が分からない。どうしたんだよ俺。

 表現し難い気持ちを払拭するために、躍起になって日直の仕事を行った。黒板はピカピカ、床はホコリ一つなし。よし、もう早く帰ってゲームでもしよう。俺は俺、木闇は木闇。


 と、いろいろ考えているときほど思考の対象物に出会ったりする。

 校門の前に出て俺は目撃してしまった。木闇と、多分噂のミオであろう人物を。俺はそれを見て一歩も動けなかった。

 会話の内容までは分からなかったけど、親しそうな間柄だった。ミオさんは木闇の腕に自分の腕を絡めていて、木闇は面倒くさそうな顔をしつつも抵抗はしていなかった。殴る以外で人を触ることが嫌いなあの木闇が。

 ミオさんはその後木闇と何度か会話のやり取りをして、帰って行った。この学校にもこのレベルはいないんじゃないかというくらい綺麗な女の人だった。黒くて長くてサラサラな髪と長い手足が特徴的だった。木闇の隣にいてもなんの違和感もなく、画になるような二人。

 

「うっ!?」


 突っ立っていると、後頭部になにかがぶつかった。あまり痛くはなかったけど、衝撃による反射で思わず頭を抱えてしゃがみこんだ。俺の横にサッカーボールがコロコロと転がり、それは校門の方へと移動する。


「ごめん! 痛かったよな?」

「あ……大丈夫です……」


 頭上から声がする。サッカー部員だろうか。駆け寄ってきてくれたようだ。顔を上げると、それは見たことのある人だった。確か……隣のクラスの……五藤くん?


「頭見せて」

「えっと、マジで大丈夫です、ちょっとびっくりしただけで」


 正直イケメンに頭を触診されているこの状況に一番びっくりしている。俺なんかより、ボールは大丈夫だろうか。車道にでも出たら大変だと思い校門の方に目を向けると、丁度サッカーボールがこちらに飛んできた。五藤くんは瞬時に気付いたようで、ボールを上手くトラップして足元に落とした。


「木闇、サンキュー!」

「カスのコントロールしてんじゃねえよ!」


 五藤くんが声を張ると、向こうから木闇の声が飛んできた。

 あ、木闇がやったんだ。そういえばアイツ一瞬だけサッカー部だったときあったな。

 五藤くんはグラウンドの方から誰かに呼ばれたようで、今行く、と返していた。


「ああ、えっと、木闇の友達だよな」

「あ、うん」

「ごめん俺戻らないと……。痛くなったら俺に連絡して。木闇なら多分俺の連絡先知ってると思うし」

「え、はい」


 最後にもう一度深く謝られ、五藤くんはグラウンドに戻って行った。か、かっこいい。もう頭にボールぶつけられたこと忘れた。


「おい、立て」


 ぼーっとしていると、木闇がやってきて俺を無理やり引っ張り上げた。

 

「ほんと鈍くさいな。あれくらい避けろよ」

「いや無理だろ! 後ろからきたんだぞ」

「分かるだろ気配で」

「分かんねえよ!」


 木闇は俺の腕を掴んだまま、校門とは反対に学校の方に歩き出した。


「帰らないの?」

「保健室まだ空いてるだろ」

「え、いいって。怪我してないし」

「お前のその小さい脳みそが更に小さくなるかもしれねえな」


 木闇に言われたくなさすぎる。でもこれはたまに見せる木闇なりの気遣いというのは分かる。何回か経験してきた。大人しく木闇に黙って着いて行った。


 保健室には保険の先生がまだいてくれたので、軽く見てもらった。出血はないけど少しだけたんこぶができていたらしく、氷嚢を借りて頭を冷やすことになった。先生はこの後会議があるので、手当をしてもらったらすぐに保健室を出て行ってしまった。つまり、保健室に俺と木闇の二人きり。何故か木闇は帰らない。革でできたソファに腰を掛けていた。別に大きな怪我ではないから置いて帰ってもいいのに。

 とは言えず。でも気まずい。帰れとも一緒にいてとも言えない。このまま帰ってほしい訳ではないし、側に寄ってほしい訳でもない。ほんと、どうすればいいんだ。


「……あ、五藤くんが」

「あ?」

「連絡先、木闇に聞いてって」

「は? 俺がお前に五藤の連絡先を?」

「うん」

「……知らねえよ」


 木闇は五藤くんの連絡先を知らないらしい。まあ無理もないか。木闇がサッカー部にいたのは短い期間だったし、どうやら部員全員から嫌われてたらしいし。


「つか、知ってどうすんだよ」

「どうするって……。俺のこと気にしてたし、大丈夫だって言うくらいはするよ」

「そんくらい口で言え」

「嫌だよ、だって五藤くんの周りの人ら怖いし」

「ザコが」


 いちいち俺に悪態をつかないとやってられないんだろうか。これが暴力的でなくなったって? どこがだよ。なにも変わらない。やっぱり木闇は木闇だ。そう安心したい。木闇は変わらないって、確証が欲しかった。


「……木闇の、あの人誰?」

「誰だよ」

「さっきの人。黒髪の、女の人。仲良さそうだった……」

「……それお前に言う必要ある?」

「いや……それくらい聞いてもいいだろ」

「なんで?」

「なんでって、理由いる……?」

「なんでお前がいちいち俺の交友関係気になってんのか聞いてんだよ」

「なんで……なんで……友達だから……」

「は」


 木闇は鼻で笑った。なにが面白いんだ。俺はずっと面白くない。


「お前さ、友達だから駄目とか、友達だから聞きたいとか、なに? ワガママかよ」

「……俺の方が一般的だろ」

「友達いねえくせに一般を語るなよ」

「じゃあ聞くけど! もし俺が女の人と仲良さげに話してるとこ見たら、しかも腕とか組んでたら、お前は聞かないわけ? 俺にアイツ誰、って」

「聞くに決まってんだろ」

「だろ、それと同じだって」

「でも今の俺は聞かねえな。お前と “友達” だからな」


 息が止まった。


 あの日、俺は木闇と別れるとき、確かに “友達” のままで終わらせた。それでいいはずだった。だって、そうすれば元に戻れると思ったから。


「俺は漆と夜差が誰と何を話してようがどうでもいいね。お前もそれと同じ。……同じになったんだよ」

「……」

「お前は俺と違うんだな。友達の人間関係にはいちいち首突っ込みたいし、探りを入れたいんだよな?」

「そういう、訳じゃ……」

「じゃあ言うけど。俺あいつと付き合ってるし」

「え?」


 そのとき、ソファーの方からバイブ音が鳴った。革とスマホが細かくぶつかる音は痛々しくも感じた。木闇のスマホだった。電話だろう。木闇は画面を見て舌打ちをした。


「それ、溶けるまでは冷やしとけよ」


 木闇はそう呟いて、保健室を出て行った。

 氷嚢の氷はまだ硬いままだった。もういいよ。そろそろ冷やしすぎて頭も痛くなってきた頃だ。大げさだよな。小さいたんこぶ一つくらいで。


「……あー……ははは……」


 その場から動けず、何故か俺は笑っていた。

 惨めになったから? 愚かしいから? 悔しいから? 何も分からないけど、虚脱したときは自然と笑いが込み上げるらしい。面白くもなんにもないのにな。






6


 うちのクラスでは選択授業はなぜか美術が一番人気がないが、俺はかなり当たりの授業だと思っている。人が少ないし、先生は優しいし、作品さえ出せば悪い成績にはならないし、何より胡粉をにかわで溶くのが楽しい。これは楽しい作業だ。俺にとっては楽しい。胡粉を練っている間は感情が全て無になる。食材をみじん切りしているときと同じような感じだ。


「ねぇ、やっぱり木闇くんと喧嘩した?」

「してませんけど?」


 思ったよりも早い反応速度で答えてしまった。俺は止まることなく胡粉を練り続けていた。


「……それで授業終わるよ……?」

「いい。俺はこれを作品とする」

「やっぱり黒野くんがおかしい……」


 多分禁じ手なんだろうけど、夜差の使う色だけ作って、俺は肝心の自分の作品には手を付けられないでいた。おかげで夜差の作品は完成間近だった。日本画で南国の鳥を描いていた。なかなか良いセンスをしている。


「おかしくないけど、いつも通りだけど」

「だってなんか黒野くんも木闇くんも全然喋んないし、空気冷たいし……」

「別に夜差には普通に喋ってるだろ」

「俺は気を遣って黒野くんと木闇くんが二人きりにならないようにしてたの!」


 なんと。空気が読める男夜差奈之、俺が知らない間に俺への気を遣ってくれていたらしい。夜差は周りの空気に影響されやすい子だから、だいぶストレスだったかもしれない。


「……ごめん」

「いいよ。漆くんは感情がないから分かってないだろうし、俺が意識しすぎなだけだろうし」

「ごめんて」

「なんで喧嘩してるの?」


 ……いや、本当に喧嘩ではないんだけどな。なんて言えばいいんだろう。多分、本当のことを行ったら夜差は泣くんじゃないか。バイトしたときに実は木闇に何回かキスされました、もしかしたら関係が拗れていたかもしれないけどそれは回避して、回避したけど今何故か一周回って変に拗れていますなんて言えない。俺の純潔を信じ続けている夜差、卒倒するかもしれない。


「……俺が、木闇の誘い断ったから」

「なんの?」

「作品展。木闇のお父さんが関わってるやつ」

「ああ、なんだ。じゃあ木闇くんが悪いね!」


 夜差は大体俺の方についてくれる。見ろ、この根拠のない堂々とした態度。そうだ。もう全部木闇が悪いってことで。


 美術の授業が終わって教室に戻ると、漆はいたけど木闇の姿が無かった。


「あれ、木闇くんは?」

「誰かと電話してる」

「あー、彼女さんかなあ」

「……」


 ミオね。確定彼女の。はいはい、休み時間まで電話してお熱いですね。……いや別にいいじゃん。マジでどうしたんだよ俺。


「黒野、今週末空いてるか」

「え?」


 不意に漆に話しかけられ、意識を漆にやった。


「海に行こう」

「え、俺はー?」

「黒野だけ」


 漆くん酷い! と夜差は泣いて自分の席に戻って行った。自分もそういう節あるくせに。


「……なんで海?」

「上書きだ」

「え?」


 漆がじっと俺を見ている。変わらず黒々とした瞳だ。漆のことは嫌いではないが、俺はこの目が苦手だったりする。何を考えているのかいつも分からない。


「バイト、どうだった?」

「……だから、楽しかったって」

「じゃあ質問を変える。木闇と泊まったのは?」

「!」

「その次の日、木闇と別れるときは」

「……お前……」


 わざわざそんな聞き方をするなんて、分かってるとしか思えない。


「な、なんで、漆はなにを知ってんの」

「全部聞いた。木闇から」

「い、いつ…………あ!」


 そういえば、夏休みが終わる直前に木闇が漆の家に泊まったって言ってた気がする。もしかしてそのときだろうか。


「全部って……」

「キス」

「っ……こっ……殺してくれ……ッ」


 頭を抱えた。漆の言うキスって、流石にあのキスだよな。


「殺しはしないけど、不平等だと思う」

「……え」

「俺は一回しかしてない」

「……お前あれを一回って言うの……? いやそもそも一回もあったら駄目なんだよ……」

「でも木闇は何日も黒野にやった。不平等だ。俺もあと二日やるべきだ」

「べきってなに!? やらなくていいよ馬鹿!」


 なんで俺だけこんな恥をかかないといけないの。なんで木闇は漆に言ったの!?


「はぁ……なんかもう……お前らマジでなんなの……」

「木闇が嫌だったから喧嘩してるんだろ」

「いや、木闇が嫌っていうか……喧嘩もしてないし……」

「だから俺で上書きすればいい」


 漆、冗談なんて言えるようになったのか。無理やり笑おうとしたけど、漆の瞳は案の定黒々としていて真剣そのものだった。漆が冗談を言えるくらい人間味を習得する訳ない。


「……俺はコンピューターじゃないんで……。上書きできないし海にも行かない」

「はははは」

「怖……漆の笑顔怖いんだよやめろ……」


 夢に出てきそう。怖いので漆の口角を親指で引き下げていると、チャイムが鳴った。鳴り終わる寸前に木闇が教室に帰ってきた。また木闇と話さなかったな。もう随分長く話してないような気がする。別にいいんだけどさ。






7


 九月があっという間に過ぎて、十月になった。木闇と俺の仲はそこそこと言ったところだった。たまには喋るけど、必要なときだけ。未だに夜差が気を遣ってくれているので、二人きりになることは滅多にない。逆に夜差ととんでもない状況で二人きりになってしまう事件が発生してしまったが、割愛。あれは最悪の文化祭だった。

 その文化祭も終わり、やっと肌寒くなってきた。夏休みのことが遠い記憶のように感じる。


「木闇くんって、結局あのときどこ行ってたの?」


 昼休み、音楽室。

 いつかのように壇上で寝そべっていた木闇に、夜差が話しかけた。夜差が言うあのときとは、多分文化祭のことだろう。

 この学校の文化祭にはプリンセス&プリンスと言う名の、各クラス一名ずつ美男美女を選出し特別な衣装を来て二人でランウェイを歩くという、由緒正しくも現代の様々な思想を逆行するような古臭い伝統行事がある。

 木闇はクラス代表として、それのプリンス役に選ばれてしまった。最近真面目に授業を受けていた木闇も流石に文化祭の役割決めの時間はダルかったらしく、サボっている間に決まったことだった。木闇の顔が良いのは重々承知だけど、今までなら絶対に誰も選ばなかった。それが今になって選ばれたのは、どうやらプリンセス役に選ばれた女子が木闇のことを好きだからだとか、なんとか。その子の猛プッシュで木闇に決まってしまった。

 ただ俺のクラスは賢かった。主に委員長が。委員長は木闇の性格を熟知していたので、当日キャンセルの可能性を考えて他の男子も候補に上げていた。去年プリンス役として出てくれた子だ。

 案の定木闇は文化祭当日逃亡し、急遽代役の男子がランウェイを歩くことになった。プリンセス役の子は大層不満そうだった。


「家帰って寝てた」

「文化祭の日にそんなことできるの!?」

「内輪ではしゃいで特に美味くもねえ飯食って何が楽しいんだよ」

「俺木闇くんが可哀想に思えてきた」

「あ゛ぁ? もっかい同じこと言ってみろ」

「ヒィ……黒野くぅん……」


 夜差が擦り寄ってきたので適当に撫でておいた。何回目だこのくだり。


「焼きそば美味しかったぞ」


 珍しく漆が口を挟んだ。文化祭の日、確かに漆は異常なくらい屋台の焼きそばを食べていた。漆の周りで勝手に大食い選手権か開催されてたくらい。

 漆の発言が気に食わなかったのか、木闇は鼻を鳴らした。


「俺の作った料理のが美味いけど」


 なに対抗してんだよ。と思ったけど、そういえば海の家のバイトではずっとキッチン担当だったな。


「黒野くん、そうなの?」

「え?」


 なんで俺に。まあ食べたことあるけど。

 一瞬まごついていると、木闇が俺をばちっと見た。ばちっと。久しぶりに木闇と目が合った気がする。


「あ、うん。そうかも」


 正直あのとき食べた木闇特製の賄いはかなり美味しかった。顔で売らなくても味だけで売上を伸ばせるくらいには。

 木闇は小さく舌打ちをして顔を逸した。

 はぁ? どういう態度だテメー。これは流石に怒っていいだろ。なんでこいつは俺が褒めの姿勢に入ると悪態をつくんだ。




 俺より対人関係が上手くいかない人たちに囲まれてると時々自分の立場を忘れかけてしまうが、ことあるごとにそれが思い出される。

 俺の両手にはゴミ袋。放課後、それを引っさげてゴミ捨て場まで歩いていた。日直の仕事だけど、今日の当番は俺ではない。あのプリンセス役の女の子だった。どうしても外せない用事があるとかで、たまたま近くに存在していた俺に白羽の矢が立ってしまった。普段会話もしない高嶺の花のような存在にお願いと言われて断れる陰キャはいない。はい、と言うとその子は外で待機していたキラキラ女子集団の元に走って行った。これがどうしても外せない用事らしい。この日に限って漆と夜差はさっさと帰ってしまったし。木闇は勿論いない。


 まあいいんだけど。この哀れな善意の一端が少しでも人生にペイされれば。されるか? いやされないか。そもそもこんなしょうもない人生に見返りを求めてはいけない。バチとかが当たりそう。


 仕事も終わったので帰るついでにノロノロとゴミ捨て場にゴミを運ぶと、外に設置してある水道で例の五藤くんが手を洗っていた。五藤くんは俺に気付いたようで、顔を上げた。


「あ、えーっと、黒野くんだ」

「休憩中?」

「いや、虫を捕まえて」

「虫?」

「うん。蜂」

「蜂!?」

「試合中、ずっとなんか飛んでんなーって握って潰しちゃった。奇跡的に刺されてなかったけど、手のひらで蜂が潰れて。見る?」

「……いや、いいかな」


 五藤くんって怖いよな。木闇とか漆とかみたいなあからさまな怖さではなく、なんか生物として。


「あっ、そういえば頭の怪我は大丈夫だった?」

「そういえばそうだった。全然大丈夫だよ。ご心配をおかけしました」

「そりゃよかった。全然連絡こないから気になってたんだよ」

「ごめん。木闇が五藤くんの連絡先知らないって言ってたから……直接言うタイミングも無かったし」


 そう言うと、五藤くんは蛇口を閉めてくつくつと笑った。


「あーやっぱりそうか」

「ん?」

「いや、木闇俺の連絡先知ってるはずなんだよ」

「え?」

「なんならあの日の夜、俺の連絡先黒野くんに教えといてって木闇にメッセージ送ったし」

「……え?」

「そしたらなんて返ってきたと思う?」

「……俺を罵倒する言葉な気がする」

「ははは! いや、その逆で」

「逆?」

「『あいつに関わんなノーコン男が』……って」

「……なに、それ」

「笑っちゃったな。木闇、多分黒野くんのことかなり大事なんじゃない?」

「…………う」


 嘘だ、と言おうとした。言ったところで結果は変わらない。俺は五藤くんに碌な挨拶もせず逃げ出した。


 思考がまとまらない。俺はどうしたかったんだろう。どうすればよかったんだろう。頭の端に風に靡いて光る木闇の髪の毛が浮かぶ。

 あれっていつだっけ。近代建築家展。今週の日曜日で終わるんじゃなかったかな。今日は金曜日だし、もうすぐ終わってしまうな。

 あれを受け取っていたらなにか変わっていただろうか。いやそれよりも前に、俺がちゃんと答えを出していれば。答えってなんだ。俺は木闇とどうなりたかったんだ。悔しい。思い悩んでる時点で、今の俺の選択は間違っていると答え合わせしているみたいだ。悔しい、悔しい。




「なんでお前いんの?」


 五藤くんには同じ状況を生む能力でも備わっているんだろうか。聞き覚えのある声が聞こえて足を止めると、校門のところに木闇がいた。そして、木闇の前にもう一人。忘れもしない木闇の彼女──ミオさんが。


「いやだから昨日言ったじゃん! こっちと合同練習なんだって!」


 ミオさんはジャージを着ていて、背中には他校の名前と庭球部という文字が書かれていた。


「じゃあ練習戻れよ」

「今サボってる♡ 会いに来たんだよ」

「お前マジでしつけぇな……」


 ミオさんが木闇を小突いたが、木闇は仕返しをしなかった。あの木闇がだ。木闇って彼女にはそういう態度なんだ。昨日会ってたんだろうか。会って、なに話してたんだろう。俺とは最近全然喋ってくれないくせに。俺に他の男の連絡先教えないくせに。ぐるぐると頭が回る。喉が熱い。ミオさんは木闇に腕を絡めてい擦り寄った。


「今日は一緒に帰れるかな」

「帰らねーよ、さっさと戻れって」


 なに可愛い彼女作ってんだよ、触らせてんだよ、俺にキスしたくせに!


「木闇!」


 気付いたらもう走っていた。言葉なんて考えていなかった。ただ、悔しくて悲しくてどうにかなりそうで、どうにかなってしまった結果木闇に向かって走っていた。

 木闇のもう片方の腕を引っ張り、ミオさんから無理やり引き剥がすと木闇は目を丸くして俺を見た。この顔は見たことがない。ざまあみろ。気配で避けろとか言ってたのはどの口だ馬鹿。と、皮肉の一つくらい言ってやりたかったのに。


「っ、き、木闇」


 口から出たのは、木闇の名前だけだった。伝えようにも自分の感情が分からないから言葉にできない。でも、ただ木闇を引き止めたかった。


「木闇……」


 掴んだ木闇の手に視線を落とした。今はこの冷たい手もなんだか無性に嫌で、なんとか俺の熱が伝染すればいいと必至に力を込めた。


「……なんだよ」


 頭上から声が降ってくる。怒っていないだろうか。木闇の問いに対する答えを俺はまだ持てていない。それでも。


「木闇……っ!」

「……」


 今のままじゃ嫌だ。頼むからどうにかなってくれ。わがままって言われてもいい。木闇に彼女ができるの、やっぱり嫌だ。


 ぎゅうぎゅうに手を握っていると、暫くしてふわっと木闇の匂いが鼻腔を刺激した。眼前には木闇の体。俺の背中にはもう片方の木闇の腕が回っていた。

 驚いて顔を上げると──木闇の表情は想像していたものとは違った。犯罪が成功したときの愉快犯のような。


「は?」

「あーっ! 黒野くんだよね!?」

「え」


 この声は。そうだ、夢中で忘れていた。え、この声は?


「なんだ、今日がXデー?」

「ん……んん……?」


 ミオさんが楽しそうに俺と木闇を見比べている。なんで俺はさっき気付かなかったんだろう。ミオさんの声、異様に低い。あと身長も木闇くらいある。


「あ、ごめんごめん。急でびっくりするよね。俺、木闇澪です」

「お、俺……え……木闇……?」


 ミオさんは微笑みながら俺に片手を伸ばした。あ、手が割と……ゴツゴツしてる……。もう一度ミオさんの顔を確認したが、どう見ても綺麗な女の人だったのでパニックになり固まってしまった。すると木闇は俺に向いてるミオさんの手首をギチギチと締め上げた。


「ッ痛ァっ!!」

「お前は油断も隙もねえな」

「俺がこの格好で良かったね……痛すぎて殴るとこだった……」

「????」


 何がなんだか。暫くミオさんを見ていると、ミオさんは俺を指差しながら「ラブラブ?」と呟いた。なにが?


「あ」


 指摘され、今俺は木闇に抱きしめられていることを自覚し、慌てて体を離した。顔が熱い。俺はなんということを。木闇は一人慌てる俺を見て鼻で笑った。そして木闇に鼻で笑われたことによる若干の怒りで脳が少し冷静になったのか、ミオさんが木闇の恋人であることを思い出して顔を青くした。いくら木闇に彼女ができるのが嫌でも、ミオさんの前でなにを堂々と。


「いやこれっ、浮気とかじゃ……」

「浮気? ……ああ、そうだった。凪と俺って恋人だったね! っハハハハ!!」


 ミオさんは豪快に笑って、木闇の背中をバンバンと叩いた。木闇はそれを鬱陶しそうに払って舌打ちをした。俺だけが浮いている。


「あの……」

「どこからどこまで言っていいのかな……。あ、俺ちなみに男ね」

「それは薄々気付いていました……」

「で、凪のいとこでーす」

「あ、だから木闇って名前なんですね……ん?」


 あれ? いとこって恋人関係になってもいいのか? いや、いいのか。法律上いとこはギリギリ結婚できるしな。


「てかもう俺サボろうかなー。やっと黒野くんに会えたし、黒野くんと一緒に帰りたいよ」

「え?」

「凪が秘蔵する子がどんな子かずっと気になってたんだよね。……いってぇな!!」


 次は木闇がミオさんの頭を叩いた。男だと分かっても顔が美女すぎるので、木闇に殴られているとソワソワする。


「いい加減部活戻れカママネージャーがよ……」

「凪ってマジで口悪い。俺のおかげでうまくいってよかったねぇ!!」


 ミオさんは捨て台詞のように叫んで、恐らく練習場所の方に戻って行った。凄い人だった。あんなに綺麗な男の人初めて見た。そして、残された木闇が一言。


「ヒゾウってなんだ」

「……」


 ちゃんと馬鹿のままだった。最近真面目に授業を受けていただけあって逆に安心する。

 嵐が去って静かになった中、木闇は俺をじっと見つめ、そして歩き出した。俺の家とは逆方向、木闇の家の方だ。少し迷ったけど、俺は木闇の背中を追いかけた。


「ミオさんって、本当に男?」

「男に決まってんだろあんな性欲の塊」

「せ……」

「あいつ、女にモテすぎてすぐ手出すから、あいつの親から女装強制させられてんだよ」

「え……親もヤバ……」


 ミオさんが木闇姓ということは、ミオさんのお父さんは木闇のお父さんの兄弟ということだろう。そう考えると木闇のお父さんはかなりマシというか、聖人の部類かもしれない。


「で、女装したら次は男からモテまくって、普通に男にも手出すようになった。女装してなかったら普通に俺のこと殴ってくるし他人に喧嘩も売る。クソ野郎だあいつは」

「木闇はそんな人と付き合ってんの……?」

「……付き合ってねえよ」

「は?」

「あいつとゴリラしかこの世にいなかったら俺はゴリラを選ぶ」

「は? なんで、この前彼女って言ってた……」


 木闇はぴたっと止まった。そして俺を抱きしめた時のように意地悪く笑う。


「嘘だよバーカ」

「なっ……」


 嘘?

 木闇はわざと俺に嘘をついていたのか?

 なんで、俺をからかうため?

 じゃあ俺の今までの行動や感情全部無駄な物だったのか?


「な、なんで嘘……」

「見物だったなァ。お前の反応」

「っ……!」


 俺は力いっぱい木闇を殴った。俺程度の力じゃ木闇は痛がらない。でも木闇は俺を止めなかった。俺は一生懸命拳をぶつけて、木闇を路地裏に追いやった。これが精一杯。木闇はどうせ俺のことなんてなんとも思っていない。


「ふざけんな! なにが見物だよ、なにが嘘だよ! こっちはもうずっと苦しかったのに……クソ!」

「……」


 木闇の着ているシャツを握りしめた。胸ぐらを掴むような力はない。木闇は目を細めて俺を見ていた。


「俺は全部嫌だった! 夏休み中ずっとお前のこと忘れようと思っても消えなくて、でもお前はなにもなかったみたいな顔してて……知らないうちに彼女作って、お前全然話してくれなくてマジでムカついて……それが全部、お前が俺を揶揄うための嘘だったって? ふざけんな、なにも面白くねえよ!」


 腹が立って、自然と涙が溢れてくる。俺がやきもきしてる間、木闇は俺を見て楽しんでいたんだ。最低だ。俺だけがずっと悩んで馬鹿みたいだ。


「もう知らねー……。絶交だ、木闇はいとこと恋人ごっこでもしてろよ……」


 手の力を緩めた。

 痛み分けなんてできなかった。俺ができたことなんて結局木闇のシャツに少し皺を寄せただけだった。


 シャツから手を離すと、俺の動きを奪うかのように木闇が俺の胸倉を掴んだ。そして、木闇の顔が近付く。視界がぼやけてピントが合わない。

 唇が触れるまで、俺は動けなかった。


「んっ……」


 一度触れてすぐに離れる。視線が交差して、また唇が重なった。歯があたり、どちらともなく舌同士を絡めると水音が頭の中で響いてクラクラした。


「ンぅ、ん、んっ……ふ……」


 木闇の髪の毛を軽く引っ張ると、木闇は口を離した。俺から視線を逸らさない。耳が熱くなった。


「お前さぁ……今日もあのときも全然抵抗しねえよな」

「……」

「木闇木闇ってガキみたいに引き止めて、俺になに言おうとしたんだよ」


 吐息がかかり、黙っているとまたキスをされた。反射的に目を閉じると、熱くなった耳の縁に木闇の指が触れ、神経を撫でるように擦られて体が震えた。


「ぅ……」

「言えよ」

「なっ、なにも……」

「じゃあ本当にこれで終わりだ。もう二度と」


 耳たぶを優しく摘まれ、反対の耳の裏にキスされて涙が出そうだった。耐えられず木闇にしがみつく。


「こうして触らないし、キスもしない。また前みたいに元通りだ」


 コツン、とおでこがぶつかり、木闇はまたまっすぐ俺を見た。手のひらが俺の頬に触れる。俺はどうしようもなく心臓が苦しくなって顔を歪めた。


「……い、いやだ……」

「なんで?」

「なんで……なんで……」


 友達だからと答えて、俺はずっと悩み続けた。またここで友達だからと答えると、俺は多分この先ずっと後悔し続けるのかもしれない。俺が木闇のことを忘れるまでこの八月と九月を繰り返すのかもしれない。


 じゃあ、なんて言えばいい。木闇と俺は、どうなればいい?


「す……」


 喉が震えた。言葉が吸い込まれてしまいそうなほど近くに木闇の唇がある。あんなに強引に何回もキスしてきたくせに、木闇はここから動いてくれない。もう言うしかないんだ。


「……好き……なので……」

「ふはっ!」

「笑うなっ──ンんんんッ!」


 噛み付くようなキスだった。舌を食まれ、咥内を舐められ、溢れ出る唾液を全部飲み干された。木闇の胸元を叩くと呼吸もままならないうちに木闇の顔が移動し、首元を何度も舐められ、噛まれ、脚がカタカタと震えた。


「ふ、はっ、はぁ、はぁっ! なあっ、だめっ、ここ外……」

「今更だな」

「てか、ずる、ズルい! 俺は言ったのに!」

「なにを?」

「っ……、マジでズルいっ……!」

「はははは!! ……お前、ほんっと可愛いよな」

「え……い”っ」


 鋭い痛みを感じた。木闇は歯型をつけるように、俺の首元の同じところを何度も噛んでいた。それですら気持ちいいと感じてしまう。もうおかしくなってしまったのかもしれない。


「い、痛い……」

「ン」

「ん、ぅ……」


 木闇に訴えると、今度はまた優しくキスをされた。角度を変えて何回も何回も。

 意識がぼーっとしてきたとき、ようやく唇が離れていき、木闇は目を細めて笑った。


「俺も好き」


 比喩でも何でもなく、心臓が止まった。

 苦しい。どうしようもなく叫びたいような気分だった。


「き、木闇、」

「ん?」

「……好き」

「ん」

「好き、好き」

「分かったって」

「好き!」


 木闇に抱きつくと、木闇も優しく抱きしめ返してくれた。なんだこれ。どうにかなって倒れてしまいそうだ。


「……木闇って、何個人格あんの」

「何個もねえよ。じゃあ全部の人格に好きって言えよ」

「……ハハ」


 そうだな。まあ、それもいいか。気分がいいからいくらでも言ってやる。






8


「俺が言っちゃったんだよね。『押して駄目なら引いてみたら』って」

「はぁ……」

「そしたらアイツ、引くどころか偽装工作しだして笑ったわー。俺に凪の彼女役やれってさ。お前が女役じゃなくて? って言ったら鳩尾に拳入れられて、そこから一回ガチ喧嘩になった。見る? 腹の痣」

「い、いや、いいです」


 なんで怖い人はこうも患部を見せたがるのか。

 ミオさんはソファーに深く腰を掛けて、垂れ流していたテレビをつまらなさそうに見ていた。俺はその横に座っているが、俺達の間には家中からかき集めたクッションが置かれている。木闇の家のソファーはバカでかいうえにクッションの量も異常だった。


 どういう状況かと言うと、木闇の家に遊びに行ったらタイミングを図ったかのようにミオさんも木闇の家に来ていて、そしてミオさんが「どうしてもジンジャーエールが飲みたい」と駄々をこねた結果、今木闇が近くのコンビニに買いに行ってるという。木闇が誰かのパシリになるところを初めて見たので、俺はミオさんに畏敬の念を抱いている。怖さランキングで言うと、木闇のお母さんと肩を並べるくらいだ。

 木闇がコンビニに行くと決まると、木闇はマックスでイライラしながら家中の部屋を回ってクッションを持ち出し、ソファの真ん中にそれを敷き詰めた。ミオさんに向かって「絶対ここから先を越えるな」と。正直なんの抑止力にもならないと思うので、やっぱり木闇は馬鹿だった。そんな木闇が家を出て十分ほどは経った。


「ねぇ、凪のどこがよかったの?」

「え、えぇ……。そういうのはちょっと……あんまり……」

「はは! いいとこナシか。凪に言っといてあげる」

「やめてください! じゃあ顔で!」

「顔ー? あれのどこがいいの? 顔なら俺の方がよくない?」

「えっ、あ、ハイっ」

「だよね! 凪に言おーっと」

「あ、マジでやめてください!!」


 確かに、顔だけで言うと……ミオさんはどうしても女の人に見えてしまうから、頷きたくなる。でもそんなこと木闇に言ったら俺は死ぬのでは。


「凪なんて口悪いし頭悪いし暴力的だけどいいの? 男として最悪じゃない?」

「まあ、それだけ聞くと絶対に嫌ですけど……」

「それにアイツクソ童貞だしなー」

「どっ……ア、やっぱり……」

「バレてる〜!」


 ミオさんは俺の反応を見てケラケラと笑った。笑うものではない。高二で童貞は普通だ。ミオさんの方が珍しいからな。


「本当に凪のどこがいいんだか……」

「俺もよく分かんないですけど……」

「けど……?」

「……手放したくなかったので」


 ア、なんか無駄に恥ずかしいことを言ったかもしれない。言わなくてもいいのに調子乗った。

 一人で勝手に気まずくなって黙っていると、ミオさんは俺達の間に埋められているクッションを一つ一つ床に落としていった。


「え、なにを」

「越えるなって言われたから、壊してる」

「え?」

「俺、駄目って言われたことはやりたいし人のもの取るのもだーいすき」

「え??」


 隔てるものがなにもなくなったソファーの上で、ミオさんは四つん這いになってゆっくりと俺に近付いた。量産型のような可愛いワンピースのフリルが揺れて、思わず目を奪われた。男って揺れる物好きだし。


「ねぇ、あんなクソ童貞やめて俺にしなよ」

「え、え、え」


 ミオさんの顔が近付く。どう見ても美少女だし、甘い匂いがするし、気がおかしくなりそう。後ずさろうにも、ソファーの上なので限界がある。


「俺みたいに可愛くて女にしか見えない男に体を暴かれるの、絶対気持いいよ」

「ヒィ……!」


 そう言って耳に息を吹きかけられ、体が飛び跳ねた。無理だ、俺には刺激が強すぎる。


 ちょうどその時、けたたましくリビングの扉が開く音がしてもう一度体が飛び跳ねた。木闇が、鬼の形相でこちらを見ている。いや、鬼なんてもんじゃない。鬼も金棒を置いて泣いて逃げるレベルだ。


「このアホ下半身野郎が!!!!!!」

「あーうるさいうるさいうるさい」

「木闇、助けて……」


 ミオさんは木闇によって床に叩きつけられ、そして着ていたワンピースをズタズタに破かれた。俺は失礼ながらドキドキしながらそれを見てしまった。

 この後はもうお互い蹴るわ殴るわで凄まじかった。俺、木闇に喧嘩で敵う人初めて見た。こんな人が女装して完全に女の子みたいになってるの、世の中のバグすぎる。

 最後はミオさんが仕返しをするように木闇の鳩尾を殴って木闇が倒れ、戦いは終わった。ミオさんは動かなくなった木闇から衣服を剥ぎ取り、ズタズタに破かれたワンピースを脱ぎ捨ててそれに着替えた。そして満足そうに俺に笑った。


「じゃあ俺帰るね。黒野くん、また遊ぼうね!」

「は、は、はい……」

「俺とヤりたくなったらいつでも言ってね♡」


 とりあえずブンブンと首を横に振っておいた。それは本当に木闇が犯罪者になりかねない。ミオさんは俺に手を振り、意気揚々と帰って行った。

 扉が閉まる音で意識を取り戻したのか、木闇がその場で跳ね起きた。そして自分の身軽さに気付いたようで、またキレ散らかしていた。


「殺す……次会ったら絶対に殺す……」

「高二にもなって拳の喧嘩やめろよ」

「あ”? 元はと言えばお前があの変態に気を許したからだろ」

「許してないし!」

「許してなかったらこうはならねえよなぁ?」


 あの状況を再現するかのように、今度は木闇が俺に四つん這いで近寄ってきた。ミオさんとは別の、木闇の甘い匂いがする。さっきと状況は同じはずなのに、全然違う。木闇の不機嫌そうな顔を見ていると堪らなくなってくる。場違いだけど、俺ってやっぱり木闇のことが好きなんだと改めて自覚した。


 手を持ち上げて木闇の頬に触れ、唇を寄せた。

 木闇の目が大きくなる。ぴたっと固まって、動かなくなってしまった。

 ……慣れないことをした。じわじわと襲ってくる羞恥に顔を赤くしていると、木闇は困ったように小さく笑った。また、珍しい表情をするもんだ。


「黒野ってマジでこえー」

「は!? あ、ちょ……」


 こんなことをする前に木闇に服を着せておくんだったと後悔するまであと数分。

 ちなみに木闇が童貞でなくなるまではあと一年以上かかった。

 



木闇√①↓

本編↓


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