1
じゅうっと心地の良い音がキッチンに響いた。
衣を纏った豚肉の周りに、黄金色の細かい気泡がとめどなく溢れる。揚げ物をしている時の、一番楽しい瞬間だ。
衣が薄く色付いたら一旦取り出してトレイに移し鍋の火力を少し強め、二度揚げをする。二度揚げにすると綺麗に揚げられると、昔おばあちゃんから聞いた気がする。暫くしたら衣がこんがりきつね色に変わったので、鍋から取り出しキッチンペーパーの上で油をよく切ってまな板の上に移す。そして、包丁を取り出し入刀。
ザクザクと子気味のいい音を鳴らし、食べやすい大きさに切ってあげる。一個は小さめに、もう一個は少し大きめに。
「よしよし」
外はサクサク、中はしっとりジューシーなとんかつの完成。今日もいい仕事が出来た。そしてそう思ったのも束の間、換気扇を回すのをうっかり忘れていた事に気付いたので、慌てて換気扇のボタンを押す。轟音がキッチンに響き、垂れ流しにしていたテレビの音は全てこれにかき消されてしまった。
そして時を同じくして、その轟音に負けないくらい乱暴に玄関のドアが開いた音がした。ドンドンと足音を踏み鳴らし、リビングにその人が入ってくる。俺は洗い物をしながら、顔だけそちらに向けた。
「おかえり、ましゅうくん」
彼は禄に挨拶もせず、そのままソファに腰掛けて興味なさげに流しっぱなしにしていたテレビを見始めた。
俺はそれを気にすることもなく、もう一度キッチンに目をやった。
とんかつと、サラダと、茄子の煮浸し。作った料理を見て、もう一品汁物でも作るか、と一人うんうんと考えていた時だった。
気配がすると思って横を見ると、ついさっき揚げたばかりのカットされたとんかつを1つつまみ上げ、口に運ぶ男がいた。
「あっ!」
無言で咀嚼し、なんの悪びれも無さそうに俺を見た。
「もー、いっつも俺が知らないうちにつまみ食いするんだから……まあいいけど。って、ましゅうくん、手洗ったの?いや……てか、何その血!血ィ!また喧嘩したの!?食べる前に手洗って、服着替えて!」
「うっせえなクソババア」
「誰がクソババアですか!ほら、汚れ全部落として服着替えな」
俺は彼をグイグイと洗面所に押しやり、全くもうこの子ったら、と本当に母のようにひとりごちた。
高校生にもなって未だに殴り合いの喧嘩はするし、反抗期だって絶賛継続中だし、俺の目を盗んでつまみ食いをする。困ったお子だ。
やれやれと思いつつ、俺はもう一品、だしパックを使って簡単にすまし汁を作った。
全ての料理をお皿に盛り付け、テーブルに置いた。作ったのは、二人分。
丁度いいタイミングで彼が洗面所から戻ってきた。
「ましゅうくん、ご飯の量これくらい?」
「ん」
「あ、とんかつ、まだキッチンにあるからね。足りなかったらおかわりして」
「ん……」
俺達は席についた。キッチン側が俺の席で、反対側は、彼の席。
「じゃあ、いただきまーす」
「……す」
俺達の間に特に会話は無い。同じ高校に通って同じテレビを見て同じご飯を食べているのに、歓談のかの字も無い。リビングには、バラエティ番組の賑やかな音声だけが流れた。
とはいえ、自分の作った料理の感想くらいは気になる。
「おいし?」
「まあ、ふつー」
「ふつーかあ。精進します」
「……」
そう言いつつも、ご飯もとんかつもおかわりをしているこの無愛想な男は少し可愛いなと思ってしまう。
真秀くん。俺の1個違いの弟だ。
俺達はこの家に二人で暮らしている。
2
弟と言っても、俺達に血の繋がりは全く無い。
俺が中3、真秀くんが中2の時に俺の母と、真秀くんの父が再婚した。
ワールドワイドに活躍する翻訳家の俺の母と、凄腕らしいテーラーの真秀くんの父。海外の仕事先で出会い、バツイチ子持ち同士で意気投合して、そのまま結婚に至ったという。
父さんとは再婚までに何度か顔合わせをしていたが、父さんの子ども__真秀くんとは再婚直前まで会った事が無かった。というか、相手が会うのをずっと拒否していた。父さんからは「ごめんね、思春期なもんで……」と度々謝られていた。まあ、中2だし、無理もない。と、中3の俺は何故か達観していた。
そして結婚前夜、流石に顔合わせしなさいと真秀くんは父さんに無理矢理ひっぱられ、俺達は初めて対面する事となる。その時の事は衝撃的で、今でも鮮明に思い出せる。
「大志くん、うちの息子の真秀です。挨拶遅れてごめんね。ほら、真秀も挨拶して」
父さんは、テーラーらしくパリッとした仕立ての良い素敵なスーツを着ていた。なんせ顔がいい分、相乗効果で更に輝いていた。そしてその横には、父さんによく似た顔立ちのハッキリしたイケメンが、制服のスラックスのポケットに手を突っ込んで、俺を睨みながら立っていた。
真秀、マシュー?変わった名前だ。外国人みたい。でも、ハーフみたいに綺麗な顔をしているからぴったりかもしれない。睨んでいるのすら画になる造形美だ。
真秀と呼ばれる彼は、父さんに背中を叩かれて、更に俺を睨みつける眼差しを強くした。
「……チッ!」
あ!舌打ちした。
なかなか日常生活で誰かから悪態をつかれることが無いので、怒りとかよりも関心のほうが勝ってしまった。
その様子を横で見た父さんが慌てて窘める。
「真秀!」
すると真秀くんは俺を見据え、冷たい口調でこう言い放った。
「俺に一切関わんな、ブス」
「真秀ーーーーッッ!!」
「いってぇ!!」
父さんが思いきり彼を引っぱたいた。
俺は瞠目して彼を見つめた。
初対面にそこまで堂々と悪口を言えるとは、なかなかの肝のようだ。
俺の隣に立っていた母は実の息子が罵倒されたというのに、ふふふ、と穏やかに笑った。
「あらあら、ふふ、そりゃあすぐに仲良くなんて無理よねえ」
まるでマリア様のような微笑みだった。俺もそれを見て確かに、と呟く。
「うん、そうだよ。ペットの犬猫だって初めての家族は怖いよ。それと一緒だよ」
「なっ……!?」
どこかに怒りやらストレスやらの機能を置き去りにしてしまった俺達、旧姓山田親子は、呑気にそう答えた。それに気を悪くした真秀くんはまた1人憤怒した。
……と、このように俺達のファーストコンタクトは最悪なものだったが、父母共に仕事人間で海外をよく飛び回るため、新居に住まうのは実質俺達義理の兄弟の二人となる。
当時中2の反抗期真っ只中で俺の事が大嫌いな弟と、中3で受験生なのに焦る気持ちが全く無かった緊張感が皆無な俺のふたり暮らしがスタートした。
3
「山田、おはよ!」
「違うって、山口だって。ややこしいから大志って呼んでよ」
「あ、わりわり。なんか、お前っていつまでも山田のイメージだから」
「よく言われる」
朝、学校に登校して教室に入ると、クラスメイトの男に話しかけられた。
「名字変わっても山田から山口なんて、面白くなさすぎだろ」
「でもテストの時名前書くの更に楽になったよ」
「たった2画ぶんだろ」
「テストの時の2画は大きいよ」
まあそうだよなあ。と彼が呟く。俺の中学からの友達、いっしー。石井くんだ。
「ていうか、あれお前の弟?」
いっしーの指差す方へ教室の窓から中庭を見やると、ベンチに真秀くんが女子生徒二人に挟まれるように座っているのが見えた。片方の女子生徒は真秀くんの腕に腕を絡みつけていた。……む、胸当たっている。
「うん、ましゅうくんだね」
「はー。朝から凄えな……。あれ、本当にお前の弟かよ。血は繋がってないとはいえ、違いすぎるだろ」
「それは俺も思う」
「あんなに荒れてんのになんでモテんの?」
「顔がかっこいいからねえ。この前ゴミ箱の中にどこかの事務所の名刺が捨ててあるの見たよ」
「凄えな。お兄ちゃんも大変だな、あれが途中から弟になるのって」
「大変なのかな?でも俺達が兄弟って殆どの人に信じてもらえないし、俺に実害は無いからなあ。家にいても特に話す事も無いし、相部屋になった寮生って感じ」
「俺だったらあれと一緒に暮らすのなんて考えただけで震えるけどな……」
真秀くんは1年生だけど、同級生はもちろん、他の学年の人からも一目置かれている。いい意味でも、悪い意味でも。全ての素行の悪さはその顔面がカバーをして、プラスマイナスで言うとプラスの方に傾いている。それくらい真秀くんは顔がいいのだ。
いっしーは真秀くんのハーレムな状況を見て顔を顰め、話を変えてきた。
「あ、進路調査票、なんか書いた?」
「ん〜。まだ書いてないんだよね。どうしよう。でも提出まだ先だよね?」
「うん、再来週。まだ決められないよなあ。俺は親と国公立か私立かで揉めてる……」
「大事だよね。それでいろいろ変わってくるし」
「そうそう。その点、お前の家はなんでもやらせてくれそうだよな。金持ちだし」
「うーん、まあ、不自由はしてないけど」
「卒業後どうするん」
「俺はねー、なーんにもしたくない」
「ニートかよ」
「一番の夢だよね。石油王の第三婦人……夫人?にでもなりたい」
「同性婚だぞ」
「別にいいよ。自由に楽に暮らせるんならなんだっていいや」
「変わってるよな、お前」
進路、進路ね。
前の進路希望調査の時に第1志望を「誰かの扶養に入って家事手伝いをする」と書いたら担任にめちゃくちゃ怒られた。なので、今回はちゃんと提出しろと口酸っぱく言われている。
そんな事言われてもなあ。自分自身やりたい事もわかんないし、親だってなかなか帰ってこないから直接相談できないのに。と、考えた所でふと来週珍しく両親が揃って海外から帰ってくる予定だったのを思い出した。向き合いたくはないが、この機を逃したら卒業後マジでニートになるかもしれない。高2を折り返した今、俺も進路というものをいよいよ真面目に考えなければいけないようだ。
4
放課後、家に帰って洗濯物を畳んだ後、早速キッチンに立つ。
今日の夜ご飯はオムライスだ。真秀くんはああ見えて子ども舌なので、こういう定番の料理を好んで食べてくれる。
今日の付け合せはポトフとシーザーサラダ。
お鍋に水を適当に入れる。ポトフは全部具をぶち込んで煮るだけでいいからとっても簡単だ。
じゃがいも、人参、玉ねぎ、キャベツ、少し奮発して買ってしまったお高めのソーセージをゴロゴロと大きめにカットする。ポトフはやっぱり具材が大きい方が美味しい。そしてその具材たちとポトフの素を鍋の中にいれて、火にかける。後は具材に火が通るのを待つだけ。
シーザーサラダはさっさと作ってしまおう。
冷蔵庫に残っていたサラダ向けの葉物野菜をブチブチと手で千切って、適当にお皿に盛り付ける。ミニトマトに手が伸びた所で、真秀くんトマト苦手だったよな、食べてくれるかなと考えたが、そんなのは関係ない。俺と食材の賞味期限との戦いの方が優先だ。ミニトマトを半分に切り、見せつけるかのように表面に飾り付ける。あとは市販のシーザードレッシングと粉チーズとブラックペッパーをごりごりかけて完成。
そして、メインのオムライス。まずはチキンライス作りからだ。玉ねぎ、にんじん、ピーマンをみじん切りにする。真秀くんが嫌がるので、とにかくピーマンは細かくバレないように。もも肉も細かく切って下味を付けたら、暫く放置。その間にフライパンに油を引き、野菜を炒めていく。玉ねぎが黄金色になって、甘い香りがしてきた。そしてそこに下味を染み込ませたもも肉を投入。じゅうじゅうと油のいい音がする。もう美味しそうだ。
ここで真秀くんが帰ってきた。相変わらず俺のおかえりに対する返事は無い。いつもはこのくらいのタイミングでご飯が出来ているけれど、今日は買い物をしてから帰ったから遅れてしまった。
リビングでテレビを見ていた真秀くんは、匂いに連れられたのか、キッチンまでのそのそとやって来た。
「今日なに」
「オムライスとー、ポトフとシーザーサラダ。卵、安かったんだよ」
「ふーん。腹減った」
「はいはい、もうちょっと待ってね」
催促されるがまま、フライパンにご飯を入れて具材と馴染ませる。そこにケチャップを入れて炒め、塩こしょうで軽く味を調えたらチキンライスの完成だ。
「ましゅうくん、ふわふわのやつ?」
「ん」
真秀くんはふわふわのやつが好きっぽいから、一番大事な卵は時間との勝負だ。
「ましゅうくーん、もうすぐで出来るから、お箸とスプーン用意して。あ、場所わかる?」
「そんくらい分かるわ。なめんなよ」
と、初めましての人が見たら泣いちゃうような表情と文句で渋々用意してくれた。子育てって難しい。
さあ、オムレツ作りだ。卵を溶いてその中に牛乳とマヨネーズを加える。ふわふわにするためのポイントだ。フライパンにバターを適量落とし、ぐるぐると回しながら溶かす。まろやかないいにおいだ。そして弱火にし、溶いた卵を流し入れ、少ししたら箸でぐるぐるっと混ぜる。表面がふわとろになってきたらすぐ箸を止め、数秒待つ。フライ返しでその卵をそっと持ち上げ、チキンライスの上に置いたら……完成!お家で作る、最高のふわふわオムライスだ。
「ましゅうくん!上手にできた!」
と、彼に皿に乗ったオムライスを見せたらフッと鼻で笑われた。俺は動じないぞ。
冷蔵庫からケチャップをとりだして、蓋を開けオムライスの上にスタンバイをした。
「なんて書いてほしい?」
「なんでもいいからさっさとしろよ」
「んー……」
絵心が全く無い俺は、ボトルを押し込みふわふわの卵の上でぐるりと手を動かした。
「俺、これしかできないや。でもうまく描けたんじゃない?」
見事なハートマーク。これくらいしか特徴のある形が作れないのだ。
すると真秀くんはそれを見て固まった。
「……」
あ、流石に高1男子絶賛反抗期真っ只中ヤンキーにハートマークは無かったかな!と軽く反省し、真秀くんの方を見ると、未だ何も言わずそのオムライスをじっと眺めていた。キモかったかもしれない。ポトフとサラダを皿に盛り付け、気を取り直してご飯を食べるよう促した。
「ささ、食べましょう。いただきます!」
「……す」
ぱくぱくと手を止めることなく食べ続ける真秀くん。好き嫌いはあるけど、俺が作ったご飯を残した事なんて1回も無かった。それに、放課後は喧嘩もするし、もしかしたら彼女だっているかもしれないのに、絶対ご飯の時間には帰ってくる。もともと料理は嫌いではなかったけど、楽しいと思いながら続けてこれたのは毎回食べてくれる相手、真秀くんがいたからかもしれない。
「ましゅうくん、おいし?」
「……ふつー」
「んー、ちょっと味薄かったかな?次のオムライスはナイフで切って開くやつやってみたいねえ」
「……」
俺と喋るのに積極的ではないのか、それとも真秀くん自身がこういう人なのか。俺は、真秀くんと会話のラリーが続いた事などほぼ無い。寧ろ、一言でも返して貰えた時の方が奇跡に近い。だから、家族になって2年が経つけど俺は真秀くんが何考えているのかとか、俺の事をどう思っているかとかを全く知らないのだ。
5
食器を洗い終わり、一息ついてなにか甘い物が食べたくなってしまった。今日は金曜日だし、ゆっくりできるからせっかくならなにか作ろうかな。
家でさっと作れる甘い物の代表格といえば、ホットケーキ。お母さんがまだ国内で仕事していて一緒に暮らしていた頃、よく作ってくれていた。思い出の味だ。
ちょっと綺麗に作りたいと思い、まん丸い型を取り出し、熱したフライパンに乗せ、そこに生地を流し込んだ。ぷつぷつと気泡が出てきたので、ひっくり返して数分加熱。甘い匂いが鼻孔を突いた。型から取り外すと、見事丸くて綺麗な形のホットケーキが出来上がった。
自分だけ食べるのもなんだしな、と思い、生地が無くなるまで黙々とホットケーキを作り続けていたら、隣で物音がした。
「あっ」
綺麗に積み重なったホットケーキを1つ手掴みし、まるでホットスナックの用にフランクに食べる真秀くんの姿が。
「もー。サプライズで持っていこうとしたのに」
真秀くんはべ、と舌を出し、そのまままた無言でホットケーキを食べ進めた。
「真秀くんはつまみ食いの天才だね」
「お前が気付かなさすぎるんだよ、迂闊が」
「俺の事迂闊って呼ばないでよ」
食事後、自室に行ったはずの真秀くんはいつのまにか俺の横にいた。真秀くんはよく俺の作っているものをつまみ食いしに来る。
1つ食べられたから残ったホットケーキは3個。真秀くんのお皿に2個、俺のお皿に1個置いて、テーブルに運ぶ。上にバターとメイプルシロップをたっぷりかけたら熱でじゅわじゅわと染み込んでいった。トータルでホットケーキ3個とは流石に多いかもしれないが、真秀くんは大食漢なのできっと大丈夫だ。
「はい、ましゅうくんもどうぞ」
何も言わずもそもそとホットケーキを食べ出した。真秀くんは素行不良だけど、食べ方がとても綺麗だ。正直惚れ惚れする。こんな安っぽいホットケーキでも、真秀くんがナイフとフォークを生地に刺し込めば、絵画みたいになる。
対する俺はその様子を眺めながらフォークだけでぶちぶちと切り刻みながらもぐもぐ食べていく。
「ましゅうくん、食べ方綺麗だね」
「そりゃどうも」
「お父さんから教わったの?」
「知らねえ。いつの間にかこうだった」
「そうなんだ。食べ方が綺麗な人はモテるんだよ」
「別にこの顔があれば関係ねえだろ」
「自分の顔の良さを自覚してる……」
恐るべき山口家の遺伝子だ。でも確かに、父さんもテーブルマナーは完璧だったような気がする。と、いろいろ考えていたがふと違和感を抱いた。いや、違和感が無い事が違和感というか。
びっくりするくらい、俺達2人の会話が繋がったのだ。たった数回のやり取りだったけど、今までにこんな事って無かった。
なんでなのか考えたが、ああそうかと納得いく要素があった。多分、ホットケーキ。
真秀くんが、初めて俺が作った料理を食べてくれたのが、ホットケーキだった。
もしかしたら、ホットケーキが大好きなのかもしれない。でもここでホットケーキが好きかどうか聞いてもどうせ「ふつー」とか「別に」とかが返ってくるのは目に見えているので、心の中で留めておく。
でもやっぱり長らく付き合い方が分からなかった義理の弟とここまで会話できたのが嬉しくて、俺は真秀くんと唯一接点がある学校の話でもする事にした。
「ましゅうくん、学校は楽しい?」
「だりぃ」
「まあ、そうだよね。でもましゅうくんの周りは楽しそうだよね」
「は?」
「今日の朝見たよ、女の子に囲まれてるの」
「……」
「彼女かな?……あ、でもそれだと二股になっちゃうのか?」
「ちげえよ!!気色の悪い事言うなボケ!」
「ええ、そこまで言わなくても……」
怖。ヤンキー、すぐいきなりキレる。
もっとカルシウムの多い献立にしてあげた方が良さそうだ。
「いいじゃん。モテるの、羨ましいよ。俺なんて自分の事しか考えられないのにー」
「……」
「高1だったら流石にまだだったっけ?進路調査」
「……文系か理系かくらいは」
「ああ、そっか。そうだよね。……はあ、どうしようかな。俺」
今のところ全く考えがない。石油王と結婚したいのは大前提だけど、それを抜きにしたら何も出てこない。本当に何をしたいかが分からない。もういっそ、自宅警備員とか書いてまた担任を怒らせようか。
俺が進路の事で唸っていると、予想もしなかった真秀くんの方から声を掛けてきた。
「……家、出んのか」
「え?」
俺は口を開けた。
この家を、出る。考えた事も無かった。
「え……うーんと、あんまり考えてないかも」
石油王と結婚したいとか言っておきながら、海外どころか、この家から出ていく事なんて視野に入れていなかった。なるほど、家を出るという選択肢もあるのかと目から鱗を溢していたら、真秀くんは珍しく表情を緩めた。
「そうか……」
「?」
真秀くんが、ホットケーキを均一にナイフで刻む。食器の音すら立てず、実に優雅な姿だった。
「料理」
「ん?」
「料理関係とか、いいんじゃねえの」
人に言われて初めて気付く事もある。確かに、小さい頃から唯一やり続けてこれたのは料理だけだ。上手い下手は置いておくとして、勉強したりやり続けても嫌になる事は無さそうだ。
「料理ね、いいかもね」
料理の道も選択肢に入れる事にした。真秀くんの方を見ると、やや高圧的に、そしてやや満足そうに俺を見ていた。手元のホットケーキはきれいさっぱり無くなっていた。
真秀くんは目を細めて笑う。
「一生俺の奴隷としてメシ作り続けとけば」
と言って、お皿をしっかり洗って自室に戻って行った。
良いんだか悪いんだかだ。
6
真秀くんは今でも十分荒れているが、一緒に暮らし始めた当時はもっと荒れていた。先生も生徒も誰も寄せ付けない。関わりがあるのは年上のヤンチャな先輩だけ。
俺達の親が結婚してからすぐ新居を購入したのに、早速家主となったのは事実上俺だった。両親はすぐに海外に仕事をしに行ってしまった。普通中学生の子どもを二人きりで残すか?と思わなくもないが、なんと俺は中2にして全ての家事を人並みにこなせていた。お母さん仕事大変そうだな、と思って手伝いをしているうちに出来るようになっていた。だから、親も俺に家の事を任せて出て行ったそうだ。
俺と二人で生活する事が堪らなく嫌だったらしい真秀くんは、俺と顔を合わせる度に睨みつけてきたし舌打ちをしてきた。俺はそれに臆する事が無かった。嘘。本当はちょっとだけ怖かった。
それにその時俺は中3で受験生で、俺自身は全く焦っていなかったけど、周りが受験だ勉強だと焦ったりイライラしているのを見て、それで少し気をやってしまったというか、嫌になってしまった。
両親も家にいないし、周りは勉強勉強で遊んでくれないし。俺だって本当はちょっとくらい、家の事頑張ってるねって誰かに褒めてもらってから勉強したかったのだ。
真秀くんは、毎日夜中になっても家に帰ってこなかった。だから、夜に作った真秀くんの分のご飯はラップに包んで冷蔵庫の中に置いておく。朝起きて冷蔵庫の中を確認すると、昨日とミリも変わらずその場に置いてあるご飯が見えた。俺は少しため息を溢して、そのお皿を取り出して自分の朝ご飯として食べることにした。
この不毛な挑戦は一体いつまで続ければいいのだろうと辟易した。今まで自分の分のご飯しか作らなかったから知らなかったけど、誰かのために作ったご飯を残されるのって、凄く胸に刺さる。しかも、何度も何度も繰り返していると流石の俺でも嫌になってくる。
相変わらず、俺は真秀くんと一瞬も顔を合わせる事なく家を出た。
お昼ご飯の時間になり、鞄からお弁当を用意した。中学からはもうお弁当持参なので、なんとこの時から既に朝からお弁当を作って持っていく日々が始まっていた。
一緒のクラスだったいっしーと歓談しながらお弁当を食べていたが、そこでふと考えた。
(真秀くん、お昼どうしてるんだろう)
真秀くんとは別の学校だ。だから、真秀くんの学校での様子など知る由もない。それでも、育ち盛りの中学生がお昼に何を食べているのか分からない状況は少し不安になった。俺は真秀くんの分のお弁当は作ってないし、もしかしたら毎日コンビニで済ませているのかもしれない。健康的食事第一思考の俺にとってはゾッとする話だ。
「いっしー、これ俺が作ったおかずなんだけど、食べてみて」
いっしーに、俺のお弁当に入っていた手作りのきんぴらごぼうを食べさした。
「うま〜。お前、マジで料理うまいよな」
「ほんと?よかった。いっしーだったらこういうお弁当、学校に持ってくの嫌じゃない?」
「嫌な訳ないだろ!うまいし、ちゃんとしてるし。俺だったら嬉しいけど」
いっしーからお墨付きを貰って満足したので、ダメ元でも真秀くんにお弁当を持たせてあげようと思った。
その日の夜は1人でご飯を食べ、食後にホットケーキを作る事にした。特に理由なんてない、ただの気分転換だった。
焼色がうまくいったのが嬉しくて、鼻歌交じりに作り続けていたら、リビングの扉が開く音がした。後ろを振り返ると、信じられない事に真秀くんがそこにはいた。一緒の空間に二人でいる事なんて今まで無かったので、一気に緊張感が増した。鼻歌なんて歌える隙も無かった。
なんで?帰ってくるの早くない?いや、俺がこの時間までリビングにいる事の方が少ないから、真秀くんにとってはこの時間に帰ってくるのが普通なのか。
いろいろ考えつつも、ホットケーキを焼く手は止めなかった。一人分にしては、絶対に多かったとは思うが、食べきれなかったら明日の朝にでも食べよう。
最後の1枚をひっくり返して、真秀くんがいるの緊張するなとかを思ってなんとなしに横を見たら、その真秀くんが俺が作ったホットケーキをつまんで食べていた。
「え、え……」
「……」
睨む事なく、俺を無表情で見つめ黙々と食べていた。
なんで勝手に食べるのとか、一言くらいないのとか、多分いろいろ言わなきゃいけないんだろうけど、何よりも驚きが勝ってしまった。
「は……はちみつと、メイプルシロップと、どっちがいい?」
なんて驚きながら訳も分からず真秀くんの前にはちみつとメイプルシロップのボトルを差し出すと、無言でメイプルシロップの方を取ってホットケーキにかけ出した。甘い物、好きなんだろうか。
真秀くんはそのままホットケーキが乗った皿を机に運び、もぐもぐと食べ出した。
初めて、俺のご飯食べてくれた。
俺は自分の分のホットケーキを皿に移し、机の方に移動した。
「俺も一緒に食べていい?」
「……」
真秀くんは無言だった。いいって事なのかな、と都合よく解釈して真秀くんの席に着いた。
「お、おいしい?」
「……ふつー」
普通、普通か。まあ、市販のホットケーキミックスだしな。
それでも、真秀くんが俺に反応してくれた事と、俺の作ったものを初めて食べてくれたのが嬉しくて、俺は表情を緩めた。孤独感や受験勉強やらで少し疲れていた俺の心は、それだけで十分絆されてしまったのだ。
「えっと、俺、毎日ご飯作ってるし、ええっと……ま、……君の分も冷蔵庫に入れてるから、気が向いたら食べて」
真秀くんは食べる手を止めず、俺を一瞥した。前みたいに睨まれることは無かったけど、それでも身構えてしまう。
すると真秀くんは苦虫を噛み潰したような表情をしながら呟いた。
「それ、やめろ」
「それって?」
「……君とか言うの、キモい」
俺は直接本人に真秀くんと呼んだことがなかった。だから本人を前にしてなんと呼んでいいか分からず、いろいろ考えた末「君」と呼んでしまったが、真秀くんはどうやらそれが大層心に引っかかったらしい。
「じゃあ、ましゅうくん?」
「……」
「ましゅうくん、ましゅうくんね」
また無言だったが、俺は強引に真秀くん呼びを獲得した。俺はそのままの勢いで真秀くんに質問した。
「ましゅうくん、いっつもお昼ご飯どうしてんの?」
「……別に、コンビニとか」
「うーん、やっぱり」
毎日コンビニなんて、考えられない。しかも俺が作った夜ご飯も食べていないから、夜ご飯もコンビニとかで済ますか、食べてすらいないのだろう。いったい、荒れるくらいのパワーはどこから来ているのだろうか。
「ましゅうくん、俺お弁当作るからそれ食べなよ」
「は?なんで」
「だって……どうせ飽きたでしょ、コンビニ飯」
図星のようで、真秀くんは形の良い眉をぴくっと動かした。
「朝机の上に置いておくからさ、嫌じゃなかったら持って行って」
まあどうせ持っていかないんだろうなと思いつつも、提案してみた。真秀くんは無言だった。無言だったけど、いつもみたいな悪態をつかない。というか、同じ空間にいるのを許してくれるのが今まで無かったので不思議だった。
ホットケーキを食べ終えた俺はシンクに移動して洗い物をし始めたら、なんと、なんと、真秀くんが自分のお皿を持って来てくれて、尚且つ洗い終わったお皿を布巾で拭いてくれた。
まさか、あの真秀くんがこんな事をするなんで。
俺はそれが嬉しすぎて初めて真秀くんにちゃんと笑いかけた。
「ありがとー!助かる!!」
真秀くんは俺を見てぴたっと動きを止めたが、暫くするとまた動きを再開させた。なんだ、今の間は。
その後、真秀くんはまた何も言わず自室に戻って行った。
そして次の日の朝、真秀くんはちゃんと俺が作ったお弁当を持って行ってくれた。凄く嬉しかった。
それからだった。真秀くんが俺のご飯をちゃんと食べてくれるようになったのは。
7
「あっ、しまった!」
「ん、どうした?」
「逆だこれ!」
お昼になり、風呂敷からお弁当箱を取り出した時に気付いてしまった。これ、真秀くんのお弁当箱だ。つまり、真秀くんは俺のお弁当箱を手にしてるはずだ。
別に内容は変わらないからそのまま食べればいいのだけど、なんせお弁当箱の大きさが全然違う。全然違うのなら何故間違える?と思うかもしれないが、如何せん今日の朝は少し寝坊してしまいバタバタしていたからこんなミスも仕方がなかったのだ。
真秀くんが俺のお弁当箱の大きさで満足するはずなんかない。ただでさえ大きい体なのに、いつも喧嘩やら喧嘩やら喧嘩やらで無駄にエネルギーを消費しているので、喧嘩中にエネルギー不足で倒れちゃうかもしれない。それは阻止しないと。というかデジタル社会の今、なんで未だに拳で語り合いをするのだ。
それはさておき、お弁当の交換のため俺は真秀くんのクラスまで赴く事にした。
「いっしー、俺ましゅうくんのとこにお弁当持ってくわ」
「……は、……え?」
「えって……何?」
「いや……。すげえ度胸だな……」
「まあ、これでも兄弟だし」
いっしにー無事を祈られながら、俺は真秀くんのクラスへと向かった。
俺達は学校で話した事は一切ない。ましてや、お互いのクラスに行くなんて考えもしなかった。俺達が兄弟と知らない人は多いので、びっくりされるかもしれない。
俺は真秀くんの教室の前で辺りを見渡した。
いた。真秀くんだ。窓際、一番後ろの特等席だ。何かの権力でその席をもぎ取ったのだろう。
お弁当もう食べてるかな、と思って机を見たら、蓋が開いていないお弁当が置いてあった。俺の方のお弁当箱と気付いて、律儀に手を付けていないのだろうか。そういうとこ、謎に真面目だ。
俺は真秀くんだけに聞こえるように声を発した。
「ましゅうくーん」
「……!」
真秀くんは目を見開いて凄い顔をした。俺が真秀くんのお弁当箱を持ち上げて見せると真秀くんはハッとし、手元にあったお弁当箱を風呂敷に包んで持って来てくれた。ずんずんと俺に近付く。
「ごめんね。逆だったね、はい。あ、まだ一口も食べてないからね!」
と、お弁当箱を渡して安心させるように笑うと、周りがざわつき出した。案の定、俺達の行動は外野の興味を誘ってしまったらしい。
真秀くんはとても居心地が悪そうに顔を顰めた。
「あー……、ごめんね」
謝ると、真秀くんは強引に俺のお弁当箱を押し付けて、教室から足早に逃げて行った。
そりゃそうだ。こんな他学年のちんちくりんな奴とお弁当の交換なんかしてるのを見られたら恥ずかしくて逃げるわな。
しまったな。いくら俺のご飯を食べてくれるようになったとは言え、真秀くんは俺の事をどう思っているか分からないのだ。もっと言うと、嫌われていないとも言い切れない。最近真秀くんとちゃんと喋れたのが嬉しくて、俺も完全に浮かれていたようだ。
8
その日の夜、両親が帰国した。二人で無理やり休みを合わせて帰ってきたようで、2泊3日ほどするらしい。もう少しゆっくりすればいいのにと思ったけど、二人とも忙しいので仕方がない。
「大志〜!ただいまあ!」
「おかえりー、んー、お母さん、それやめて」
帰ってくるなり、お母さんは俺を頬ずりしながら抱きしめた。流石にこの年でこれは恥ずかしい。父さんはそれを見て笑っていた。
「大志くん、長らく家を空けてごめんね。いつも真秀をお世話してくれてありがとう」
「いえいえ。こちらこそ、たくさんのお金の助成、ありがとうございます」
「はははっ!どういたしまして」
お互いがぺこぺこと頭を下げ合った。リビングに入って両親が辺りを見渡し、あら、と呟いた。
「大志くん、真秀は?」
「うーん、いないですね。いつもはこの時間なら帰ってるはずだけど」
「あいつ、絶対逃げたな……」
うん、俺もそう思う。前日に真秀くんに「そういえば明日父さん達帰ってくるね」と言ったら、物凄く嫌そうな顔をしていた。
「まあ、そのうち帰ってくるよ。ご飯作ったから一緒に食べよう」
「ありがとう、いただきます!」
「大志のご飯久しぶりねえ。楽しみ」
今日のご飯は、せっかく家族が揃うし、と思いすき焼きを作った。残念ながら、真秀くんはいないけれど。
カセットコンロの上に乗った鍋の蓋を取ると、小さくぐつぐつと煮えた具材が甘い醤油の匂いを漂わせていた。溶いた卵を入れた器を両親の前に置いてあげた。
「はい、どうぞ」
「すき焼き、久しぶり!美味しそう」
「大志くんありがとう。いただきます!」
海外生活が長いと、こういう日本食もなかなか食べられないだろう。二人はお肉をすくい、卵に絡めてはふはふと頬張っていた。
「んー!幸せ。我が息子ながら惚れ惚れしちゃう腕前だわ……」
「そんな大げさな」
「いや、本当に大志くんの料理は美味しいよ。1度この味を知ったら、海外に戻るのが嫌になるくらいだ」
そう言ってもらえるのは、とても嬉しい。なんせ、俺の特技って料理くらいしかないから。
俺達はご飯を食べながら、本題の進路の話をする事にした。
「父さん、お母さん、そろそろ俺の進路を決めなければいけない時期だそうです」
「進路、進路ねえ」
お母さんはもぐもぐと咀嚼しながらうーんと考えた。父さんも何か考えている。でも想像できる、二人して言う事は同じはず。
「何してもいいよ。大志くんのやりたい事をやりな」
やっぱり言うと思った。そうやって選択肢がありすぎる方が、俺にとっては難しい。
何してもいいと言うのなら、なんにもしたくない。俺は、自由に楽しく行きたいんだよなあ。
そういえば、両親はとても忙しそうにしているが、凄く楽しそうではある。海外に住むのって、どうなのだろう。
「海外で暮らすって、どんな感じ?楽しい?」
2人は口を揃えて勿論!と答えた。
「楽しいよ。たくさんの事を学べるし、国によってはいろんな人種の人が住むような場所もあるから、他の国の事も知れるし。仕事が大変な事は日本でも海外でも変わらないけど、楽しい仲間に囲まれながら明るく働けるし、日本に比べれば窮屈なところも少ないかも」
まあ、その分緩すぎて困る事もあるけどなと父さんは笑った。なんか、想像しただけで楽しそうだ。俺は日本の、この街の、この家の小さい範囲で生きてきたから、今のままだと知識も考え方もとても薄いと思う。
「ふーん……。俺も、海外行こっかなあ」
「えっ!?」
「え!!」
2人が一斉に俺の方を見た。目はキラキラと輝いていた。
「海外の料理とかも気になるし。それに、俺の一番の夢って石油王と結婚して養ってもらう事だから。早めに海外行った方が得でしょ」
俺の発言に2人は爆笑しだした。普通、呆れるか何言ってんだと咎めるとこだとは思うが。
「それはいいな!大志くんの性格的に、海外で暮らす素質あると思うよ。選択肢のうちの1つに入れてもいいんじゃない?今の時代だったら高校卒業後に留学する人も珍しくはないし、なんせ俺達も海外に住んでるから心強いとは思うよ」
父さんは豪快に笑い、俺の考えを良しとしてくれた。お母さんも逆玉いいわねーと呟いていた。大丈夫か、この両親。
まあ、両親の話を聞く限り、海外での暮らしも悪くなさそうだ。
「いいかもね、海外留学」
そう思ったが、ふと気になった事があった。
もしも俺が海外に行くとして、そしたらこの家はどうなる?真秀くんの生活はどうなる?誰がちゃんとしたご飯を食べさせる?受験や就活と向き合う真秀くんを誰が支える?
ここにいない彼の事を思うと、俺は凄く不安になってしまった。
すると、このタイミングで勢い良くリビングのドアが開いた。視線の先には、顔面蒼白の真秀くんが立っていた。
9
「真秀!?おかえり……どうしたんだ、そんな顔して」
いきなりの登場に、両親もびっくりしているようだ。
俺は真秀くんのこんな顔、見た事がなかった。何があったか分からないが、とりあえず真秀くんの側に駆け寄った。
彼はしきりに口を開閉させ、言葉にならない声を漏らしていた。
「っそ、……なっ……」
「……え?なんて?」
すると、恐れを知らないはずの真秀くんはふるっと瞳を震わせ、家を飛び出して行ってしまった。
リビングに残った俺達は顔を見合わせてポカンとした。
夜に真秀くんがどこかに出かけるなんてざらにあるから、別にほっといても大丈夫だろう。でも、何故か追いかけなければいけない気がした。
「ごめん、俺ましゅうくん探してくるね」
「ああ、うん……。頼むね……」
父さんとお母さんは、何がなんだかという顔をしていた。俺もこの状況がよく分からない。俺も玄関を飛び出し、街灯で照らされただけの閑散とした夜の街を駆け回った。
10
近所の公園、コンビニ、真秀くんがいそうな所のどこを探してもいなかった。流石に時間帯も遅すぎて補導されそうなので仕方なく家に帰った。
両親はご飯を食べ終え、後片付けも済ませて部屋に戻って貰った。父さんは、「困った息子だ」と苦笑いしていたが、それほど気にしてもなさそうだった。
『なんでも好きなの作ってあげるから、帰ってきて』とスマホでメッセージを送ったら、数分後に既読がついた。返信はなかったけど、無事な事が確認できて一安心した。
そして数十分後、玄関の扉が開く音がした。きっと真秀くんだ。なんだ、始めからこうすればよかったじゃん。
「おかえり」
玄関に向かうと、そこには真秀くんがいた。俺はそれ以上は何も言わず、ただ真秀くんの言葉を待っていた。真秀くんは俯いていて、表情はよく分からなかった。
すると真秀くんはおもむろに靴を脱いで中に入り、ずんずんと俺に近寄ってきた。
「え、何、__うっ!?」
気付いたら俺は真秀くんに抱きしめられていた。抱きしめられていた!?何かのバグ?エラー?不調!?
俺は軽くパニックになり固まってしまった。俺も動作エラーなようだ。
すると耳元でずびずびと鼻をすする音が聞こえ、幻聴かと思い真秀くんの体を引き剥がして顔を確認すると、ボロボロと大粒の涙を溢して泣いていた。俺はその光景が信じられなくて目が点になった。本当にどうしちゃったの。俺は恐る恐る口を開いた。
「ま、ましゅうくん……?」
「なあ、本当に海外行くの」
「は……」
「なんで、前は家から出ないって言ったくせに。嘘つき、嘘つき!」
まるで子どものように拙い癇癪だった。誰からも恐れられる顔の良い不良が、こんなお粗末な怒り方をしている……。表情と、涙と、発言全てが未だに信じがたく、俺は阿呆面で真秀くんを見上げた。目が合うと、真秀くんは更に俺を抱きしめる力を強くした。ふるふると肩が震えるのを感じた。
「そんなに石油王と結婚したいんなら、俺が石油王になる。俺が養ってやるから、だから……」
真秀くんは頭を垂れ、俺の右肩に額を置いた。ほんのりと汗と、香水の匂いがする。どちらとも分からない心臓の音が、どくどくと聞こえた。
「ずっと、ずっと一緒にいてよ、兄ちゃん……」
に、兄ちゃん!?いつもはお前かクソババアとしか呼ばれないのに!?
いつものキャラと違いすぎて、俺は思わず真秀くんの首元に手を当てて体温を確認した。ちょっと高い気がするけど、平熱だ。なに、なんで、どうしたの真秀くん。
俺が返す言葉を探っていると、不安になったのか、真秀くんはまた顔を悲しそうに歪ませた。
「……兄ちゃん、行かないで。ずっと一緒に暮らして、ずっと俺のご飯作って。俺、兄ちゃんがいないと生きていけない……」
真秀くんはその大きな瞳からとめどなく涙を流し、俺を見つめた。
心臓がぎゅーーーーーーんっ!!と変な音が鳴った。一発ノックアウトだ。こんなのズルい。白旗だ。俺は手を上げて降参するしかない。
だって、可愛すぎる。俺よりも全然でかくて、俺なんかワンパンで倒せそうなくらい粗暴なくせに、俺が苦しくないくらいの力で、でも力強く抱きしめている。ここで拒否できるような鬼なんてこの世にはいない。
このわがままな弟が可愛くて、俺はへらっと笑った。
「うん、分かった」
よしよしと頭を撫でると安心したのか更に泣き出して、いつもは意地を張ってるだけで本当はこういう子なのかもしれないと思った。俺はあやすように、真秀くんに優しく語りかけた。
「ご飯食べよっか。何作って欲しい?」
「……ホットケーキ」
「言うと思った。好きなんだね、ホットケーキ」
「……うん、大好き」
俺はだっこおばけになってしまった真秀くんを引きずってキッチンまで移動させ、俺がホットケーキを作っている様子を見守ってもらった。
目元と鼻を赤くさせながら俺の作業を目で追う真秀くんは子どものようで、意地っ張りな姿しか知らなかった俺はそれに少し安心してしまった。
11
「で、結局進路希望どうしたん?」
「とりあえず、第一希望に家から通える学校とだけ書いといた」
「範囲広いな」
「うん。範囲広いって先生に呼び出されたけど」
「だろうな」
「でも、料理とか栄養関係の勉強がしたいって言ったら一応納得してくれたよ」
担任はようやくまともな回答が聞けたと安堵していた。先生も大変なんだな。
いっしーは漸く形になってきた俺の進路を聞いて、いいじゃんと応援してくれた。でもいっしーの興味は、そこじゃなくて違う所に向いていた。
「……なあ、その腕の噛み跡みたいなやつ……何?」
「ああ、その通りなんだけど」
「噛み跡なの!?え、お前んちペット飼ってたっけ?」
「いや、ましゅうくんの」
「は!?」
「ぽよぽよだから美味しそうだったのかな、今日の朝寝起きに噛んできて。寝ぼけてたんだろうけど」
「こ、怖……お前、命だけは大事にな……」
びっくりしたなあ。朝、お寝坊さんな真秀くんを起こしに行くと、真秀くんの体を揺すっていた腕をそのまま引っ張られ、がぶっと噛みつかれた。漫画みたいにぎゃー!!と声を上げると、既に覚醒しているはずなのにその後も数秒間あむあむと噛み続けられた。俺の肉、そんなに噛み心地がいいのかな。
「お前はそんな弟と進学後も一緒に生活しなきゃいけない訳だ」
「うん、まあね」
俺はあの日真秀くんにホットケーキを食べさせてたら、必死に絶対ここから通える範囲のとこにしてと釘を刺され、情けなくも高1のヤンキーに進路相談をして、こういう結果になった。
真秀くんは俺の事を嫌っているどころか、実はここまで好意を持ってくれていたなんて思いもしなかった。胃袋を掴むとは、まさにこの事だ。
あれだけ拗らせていた長い反抗期も強制的に終わらせ、吹っ切れたらしい真秀くんは両親に「俺、この家で兄ちゃんとずっと暮らすから邪魔すんなよ。たまには帰ってきていいけど、俺と兄ちゃんの家だから」と言って両親を爆笑させた。
ローンを払っていない身分のくせに生意気すぎる気もするが、まるで小さい子が大人ぶってませた発言をしたみたいな感じがして、なんだか可愛かった。父さんは笑いながら「分かった分かった。いい兄ちゃんができてよかったなあ」と本当に嬉しそうに言っていた。
バタン、と扉が閉まり、両親はまた旅立っていった。二人残された俺達は、暫く扉を見つめていた。
「俺、ずっとこの家に住むのかあ」
「うん。嫌なのかよ」
「いや、別に。でも逆玉の輿の夢は諦めないとな……」
真秀くんが俺をじっと見た。視線を感じて、俺も見つめ返す。いつになく、真剣な眼差しだった。
「あれ、嘘のつもりで言ってねえから」
「え、どれ?」
「石油王になるってやつ」
まさか、俺の馬鹿みたいな夢を本気で信じていたなんて。可愛いのとおかしいのとで、俺は笑った。
「あはは!!日本じゃ厳しいんじゃない?せめて資産家とか社長とかにしたら?」
「いや、石油王にならねえと」
高校1年生にして、本気で石油王を目指す日本人なんて多分この子くらいだ。何が目的なんだろうか。お金?地位?名誉?
「なんでそこまで石油王にこだわるの?」
「だって、」
真秀くんは俺を見据えたまま、至極真面目に答えた。
「兄ちゃん、石油王と結婚したいんだろ?」
その日は特にむしゃくしゃしていた。教師はうるせえし、訳わかんねえ他校のやつに絡まれるし、警官に見つかって早く帰れと補導されかけるし。__俺に集まってくる人は、俺の顔と力しか見てないし。
だから、余計あの甘い匂いが俺の心を溶かした。まるで野生動物みたいに本能的に手が伸びていた。乱雑に積み重なったホットケーキを1枚をつまんで、口に入れた。本当に、普通の味のホットケーキ。でも俺にはそれが魔法みたいに美味しく感じた。
「ありがとー!助かる!!」
そう言って、こんな俺に恐れなく笑いかけてくれた。ましゅうくんって、丸くて優しい声で呼んでくれた。つまみ食いしたホットケーキが、染みるように美味しかった。
理由なんて、それだけで十分だった。それからずっと俺は兄ちゃんの事が大事で、世界で一番大好きなんだ。
大学生if↓
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