愛は殺さず食べるもの


⚠︎注意⚠︎
・食人表現があります
・失禁描写があります
・倫理がないです
・本編とは別軸です

1


 送るよ、と鞄から取り出した車の鍵に、微かに記憶に残っている2つのキーホルダーが付いていた。それで全てを思い出したのだ。それについて言及したのが良かったのか悪かったのかは分からない。


「昔、俺達出会ってた?」


 王野の目がはっきりと開かれた。定時をとっくに過ぎたオフィスには、俺と王野の2人以外誰もいない。この空間がやけに広く感じた。

 俺はその2つを指差した。どうしても見過ごすことが出来なかった。


「俺も、一緒の持ってた。もう今はないけど……。その、ペンギンの、友達にあげたことある。そっちの犬のは、友達からもらった」


 言葉にすると、あの時の記憶が少しずつ明瞭になってきたような気がした。喉元まで出かかっている言葉、もう少しで思い出せる気がする。


「あ」


 何が怖いのか、強ばって俺を見る王野の顔を見ていると、あの日公園で一緒に遊んだ子の顔が重なった。間違いなく、俺の大事な友達だった。


「あいちゃん」


 その名前を呼ぶと、王野は顔をぐしゃっと歪めて崩れ落ちた。俺はいろんな感情が溢れ、側に寄って王野を抱きしめた。

 俺達は昔、友達だった。






2


 王野という男は、俺の会社の同期だ。入社当初から一目置かれていた。見た目はいいしちゃんと仕事も出来るし、出世レースのトップに立っていた。新卒で入社して6、7年経ったけど、王野は着々と昇格していき今は主任として働いている。俺は、未だヒラのままだった。


「求、これから一緒にご飯行かない?」


 俺が最後の1人になるまでオフィスに残っていると、それを気にかけてくれて王野が食事に誘ってくれた。容量の悪い俺は、普通の人より時間をかけないと仕事が出来ない。


「でも俺、これやらないと」

「提出の締め切りまだでしょ? 明日から俺も手伝うから、一緒に行こうよ」

「う、うん。ありがとう」


 俺が頷くと、王野は笑って自分と俺のタイムカードを切った。こうなると大体の日は王野に奢られてしまうので、申し訳なくてあまり気乗りはしない。でも、断ることも出来なかった。


 数ヶ月前、俺は王野とかつて友達だったことを思い出した。それを打ち明けてから、王野は前以上に俺に良く接してくれるようになった気がする。以前から定期的にご飯には誘われていたけれど、最近は異常な程連れて行ってくれる。それは単純に過去のこともあって、俺を贔屓にしてくれているんだと思っていた。


 俺は作業する手を止め、帰る用意をした。一緒にご飯を食べるときはいつも王野が車を出してくれる。他愛もない話をしながら駐車場に向かい、王野の車に乗り込んだ。


「求、ちゃんとお昼も食べないと駄目だよ」

「食べてるよ」

「ゼリーはちゃんと食べたうちに入らないの」


 運転してる王野をチラ、と見ると表現し難い笑みを浮かべていた。これはどうしようもない。なんせ、仕事が嫌すぎて会社にいる間は否応にも食欲が無くなってしまうのだ。親に叱られる子どものようで、何も言い返せず黙ってしまった。


「求のことが大事だからさ、ちゃんと食べてほしいな」


 分かっている。王野が俺を大事に思ってくれているのも、この後の行動も。




 王野が向かった店は、高級感漂う中華料理屋さんだった。個室に用意され、俺は目を見張った。


「回るやつ……?」


 テーブルが回るタイプの中華料理屋さんだ。こんなところ、初めて来てしまった。テーブルの上に立ててあったメニューの値段を見て、今からでも帰ろうか迷ったくらいだった。


「何食べたい?」

「お、俺、こんな高いの選べないよ」

「じゃあ適当に選ぶから好きなだけ食べて」


 王野は店員を呼ぶと、こちらがぎょっとするくらいの品数を頼んだ。そうだ、いつもこうだ。


「なんで、2人で食べる量じゃないよ」

「でも、いろんなのいっぱい食べてほしいし」

「……今日は俺もちゃんとお金払うよ」

「なんで? 俺が頼んだんだから俺が払うよ」

「ふ、2人で食べるんだよ」

「うん。でも俺がやりたくてやってるから俺が払うよ」

「駄目だよ、王野が損なだけじゃん……」

「損って、なんで?」

「え?」

「なにが損なの?」


 ……いつもこうなのだ。王野は自分のためでもないのに頼むだけ頼んで、全て自腹を切ってくれる。これが数回続いてから流石におかしいと思い辞めさせようと思ったけど、王野自身はなにが駄目なのかが全く分かっていない。確かに俺が望んでいない量まで頼むのは王野だけど、だからと言って俺が一切金銭を負担しないのはおかしい。それでも不思議なくらい純粋無垢な瞳で見られると、俺も強く出られなかった。


 暫くして目の前に料理が次々と運ばれてくると、王野は手をつけず俺に先に食べるよう促した。どれを食べていいか迷っていると、王野が小皿に料理を盛り付け、俺の前に置いた。つまり、これを食べてということだ。


「あの、王野も食べて……」

「うん」

「……」


 うんと言ったものの、俺がある程度食べるまで王野は絶対に箸をつけない。いつも食事する俺をじっと見つめて、満足そうにするのだ。今日だってそうだ。王野に見られて居心地の悪さを感じながら箸を進める。美味しい、けど。まるで監視されているみたいだ。


「美味しい?」

「うん。前は和食のお店だったけど、いろんなお店知ってて凄いね」

「そんなことないよ。調べて出てきたところを片っ端から行ってるだけ」

「行きたいから来てるんじゃないの?」

「俺は別にどうでもいいかな。求に美味しいもの食べさせたいから評価が高いところを選んだだけ」

「え……。お、王野が食べたいとこ選んでいいよ。次はそうしよう?」

「……うーん、……うん、そうだね」


 なんとなく心許ない返事をして、やっと王野は料理を食べ始めた。王野は俺を気にかけてくれてくれるし俺の話はするけど、自分のことは全くと言っていいほど話そうとしない。同期で、一緒に働いて何年も経つのに、俺が王野に関して知っていることなんてほんの少しの個人情報と、ほんの少しの噂話くらいだった。__そう、噂話。


「求、最近会社で嫌なこととかない?」

「え、えっと……。うん……」

「……なに? 仕事内容、仕事量、人間、どれ?」

「え、え、いや、」

「……あいつ? 最近一緒の係になった高見のこと?」

「いや! え、えっと、高見くんは、その、最初は怖かったけど、最近はちょっとだけ優しいから、大丈夫だよ」

「ふうん……。嫌なことがあったら何でも言ってね、俺がどうにかするから」

「どうにか、って……」

「どうにかはどうにかだよ」


 そう言って王野はにこっと笑ったけど、俺はありがとう、とは返せなかった。鵜呑みにするわけではないけれど、王野には奇妙な噂が立っている。それを考えると、王野の前で軽々しく他人の名前を呼ぶことはできない。応える代わりに、食べる手を進めた。

 王野の目の前で食べるのは少し緊張する。どれだけ回数を重ねても、じっとりと見られるような視線には慣れない。寧ろ、最近は更に酷い気がする。箸で食材を取り、口に運んで、噛む。それを、余すことなく見られてしまう。王野の癖なのだろうか。それに緊張してしまい、俺は掴んだ北京ダックをテーブルの上に落としてしまった。


「あ」


 俺はすぐにペーパーナプキンでそれを包んで端の方に寄せた。勿体無いけど、仕方がない。お金を出してくれる王野に申し訳ないので謝ろうと顔を上げると、王野はその肉をただじっと見つめていた。


 それが意味もなく不安になり、俺は逃げるようにコップの水を飲み干した。






3


 課長が早く帰れよ、と全員に声をかけた。お盆休み前なので、課長も含めてここにいる全員が早く帰りたいようだ。俺も、柄にもなく浮き立っていた。


「求さん、休み何か予定あるんですか」


 俺の雰囲気がいつもと違うことを察したのか、俺の前の席にいる後輩の高見くんが茶化すように聞いてきた。高見くんは最近になってやっとまともに話せるようになったけど、今でもまだ苦手意識がある。後輩なのに俺より全然仕事ができるし、自分に自信があるし、俺に対して高圧的で、敵うところが全く無い。


「あ、ある、よ」

「……へぇ、珍し。帰省するんですか?」

「帰省はしないよ」

「友達?」

「……うん」

「えー、求さんって友達いたんだ」


 高見くんはきっと俺のことを下に見ているので、こういうことも平気で言えてしまう。天然とかではなく、確実に悪意を持って。


「いるよ……。た、高見くん、仕事終わったんなら早く帰ったら……」

「求さん、最近俺に言うようになりましたね」

「……」

「はは! だんまりですか」


 高見くんはただ俺を揶揄いたかっただけなのだろう。もう俺には興味がなさそうに帰る準備をして、他の先輩たちに挨拶をして帰って行った。とっくに仕事が片付いていたのだろう。年下だけど、あれだけ容量が良かったら良かったのにな、と思うこともある。


「求、今日はこれから予定あるの?」


 突然声をかけられ、肩が揺れた。後ろを振り向くと、そこには王野がいた。俺と高見くんの会話を聞いていたのかもしれない。


「う、うん」

「……あいつ?」

「へ?」

「斜森」

「え……、あ、うん」

「……あぁ、そう」


 何も言っていないのに、なんで分かるんだろう。確かに、俺はこれから元同期の斜森に会いに行く。王野の前で斜森の話題なんてほとんど出したことがないのに。しかも、なんとなく不機嫌な気がする。王野と斜森は昔から馬が合わなかった。そのせいだろうか。

 王野は無表情のまま俺の首元に手を添え、何かを確かめるようにそのまま止まった。


「なっ、なに……」


 この行動になんの意味があるのだろうか。怖くなって聞いたけど、王野はちぐはぐな答えしか言わない。


「あんまり他人の匂いつけてこないでね」

「は……」

「俺はそういうの好きじゃない」

「好きじゃないって……」

「求、明日は空いてる?」

「あ、明日は、ちょっと。明後日なら……」

「そっか。じゃあ明後日は一緒にご飯食べに行こ」


 さっきまでの雰囲気とは一変して、王野はにこっと笑って俺の首元に翳してた手を下ろした。急所を捉えられていたような感じがして、ドキドキする。

 食べに行かない?、じゃなくて食べに行こう、だから、俺に選択権はない。王野は普段の立ち振る舞いに反して、こういう強引なところがある。王野の機嫌を損ねたくないので、俺は頷くしかなかった。




「よ、久しぶり」

「うん、久しぶり。おじゃまします」


 なるべく仕事を早く片付け、退勤後俺は真っ先に斜森の家に向かった。宅飲みをするらしい。お盆休み前だからどこの店も混んでるだろうと、斜森が気を遣って提案してくれた。俺を出迎えてくれた斜森はラフな格好をしていた。斜森も仕事だったのだろうけど、普段からこういう格好をしている。スーツを着るのが嫌いだと言っていた。

 斜森の家は何度か行ったことがあるけど、意外と物凄く片付いていて、行くたびにこういう所が斜森の良さだよなと実感する。リビングに入るとローテーブルの上には既にお酒や料理が置かれていて、彼の手回しの良さを身に沁みて感じた。


「俺の家、今日は間違わなかった?」

「うん。駅降りて左側に高架下まっすぐ歩いて、コインランドリーのとこ右、だよね」

「お前この前は駅を前にして左側歩いてたから一生辿り着かなかったんだよな」

「申し訳ない……」


 あの時は散々だった。なかなか目的地に到着しないのに焦ってその辺をうろうろと歩いていて、斜森からの鬼の着信に気付かなかった。やっと気付いた時には予定時刻よりも十数分オーバーしていて、慌てて斜森の電話に折り返したら困ったように笑って俺を迎えに来てくれた。それも、俺も説明足らずで悪かったと一言謝って。見た目でその性格を誤解してしまいがちだが、斜森の懐の深さには頭が上がらない。


 準備されたテーブルの前に座ると、斜森はレモンサワーを俺に渡し、自分はビールを手に取って、プルタブを開けた。軽く乾杯した後、斜森は豪快にビールを煽った。


「あー、生き返る……」

「斜森最近大変そうだもんね。お盆休みないでしょ?」

「まあな。おかげさまで」


 斜森は俺達と同期で新卒入社してから早々に退職し、数年後に自分で企業した。ECサイトの運営と商品管理、と言っていたけど俺にはピンとこなかった。仕事は軌道に乗っているらしく、忙しい日が続いているみたいだ。


「あの、俺この前斜森見たよ」

「え、いつ、どこで?」

「どこだっけ……1ヶ月くらい前の外回り帰りで……六本木とかだったかな。なんか、展示会かな? 知らない人と、打ち合わせしてた」

「……ああ、あの時……いや、声掛けろよ!」

「掛けられないよ! だって斜森みたいな人いっぱいいたし、そんな勇気あるわけないじゃん」

「せめて連絡してくれれば、一緒に帰れたかもしれねえだろ」

「お、恐れ多い」

「今更だな」


 斜森は俺を見て笑った。俺と斜森では住む世界が違う。何故今でも斜森が仲良くしてくれるのか、俺も斜森に心を許しているのかは分からない。でもこの年になっても、会いたいと思って会ってくれる人なんて斜森くらいだった。


「求は最近大丈夫か?」

「え?」

「いっつも酔うと『辞めたいー』っつって泣き喚くから」

「や、わざわざぶり返さなくていいじゃん……。最近は、まだマシかも」

「は……本気? 一周回ったか……逆に精神的にキテるか……」

「まだ大丈夫だから! 仕事が嫌なだけで、優しい人多いし、王野も手伝ってくれるし……」

「……王野……あいつまだいんのか」

「あ、うん……」


 しまった、と思い口を閉じた。王野と斜森は仲が良くないのに。わざわざ話題を出す必要がなかったのに、何も考えずに王野の名前を出してしまった。


「王野と仲良くしてんの」

「仲良く……うん。俺が仲良くしてもらってる感じだけど」

「……へえ」


 斜森の表情が一気に怪しくなった。それほど王野の事が嫌いなのだろうか。一緒に働いていた時、2人の相性が良くないということはなんとなく分かっていたけど、正直その理由は知らない。


「仲良くしてもらってるって?」

「え、えっと……俺の仕事の事もずっと気にかけてくれてくれるし、優しい……し、ご飯もよく連れてってくれる」

「……」


 斜森は頬杖をつき少し考え込んでいるようだった。何か気に障ることがあったのだろうか。


「……他人の人間関係にあーだこーだ言いたくはねえけど、王野にはあんまり関わらない方がいい」

「なんで?」

「噂、知ってるだろ」

「……知ってるけど、噂だし……」

「根拠もなく噂が立つか?」

「……」


 それは、そうだけど。斜森は非常にさっぱりした性格なので、こういう噂話は信じない人だと思っていた。


「俺と王野、大学一緒だったんだけど」

「え、そうだっけ」

「学部は違うけどな。学生の頃から噂は回ってた」

「……それは、その、……」

「『人の肉を食う』、だろ」

「……うん」


 そうだ。そんな嘘みたいな話、鵜呑みにしたことはなかった。けれど、確かに根拠もなく斜森が噂話を信じるはずもない。


「あいつは生物学科だった。動物を解剖した後の肉片を持ち帰って食べてたとか、授業と関係ないところで普通は食わない動物を捕獲して解体して食べてたとか、そういう噂が回ってた」

「でもそれは王野がそういう勉強をしてたから……もし本当だとしても、人を食べてるってのは尾ひれが付いた噂じゃないの?」

「……それだけならな」

「え?」

「最初にそういう噂を回したヤツ__王野と同じ学科だった男が、行方不明になった」


 カタン、と王野は空いた缶を机の上に置いた。嫌な予感がした。


「確かそいつは……登山サークルだった。趣味で1人で登山しに行って、そのまま帰って来なかった」

「それは、遭難したってこと……?」

「多分な。遺書はないし予兆もなかったから自殺の可能性は低いし、誘発的に誰かが遭難させたってのは考えにくいから事故だろうな……。数日後に、そいつは遺体になって発見された」

「そっか……。見つけてもらえなかったんだね」

「でも、死因は餓死でも凍死でもなかった。失血死……野生動物に襲われた形跡があったらしいから、多分熊だろうな。足跡もあったみたいだし」

「それが、王野と何か関係あるの?」

「噛み千切られた片腕の、切り口の断面が一致しなかったらしい」

「どういうこと?」

「熊が噛んだ跡の他に、故意にナイフで肉を切り取られたような跡があったんだよ」

「……!」

「誰かが死んだ後に切り取ったんだろうな」

「……でも、それと王野の噂とは関係ないんじゃないの?」

「遺体が発見される数日前に、王野も同じ山を登ったらしい。それも偶然か、そいつの死亡推定日に」

「そんな……」


 それが本当だとしたら、あまりにも出来すぎた話だ。そう思いつつも、背筋が凍りついた。


「なんのために王野も登山したんだろうな」

「……」

「……まあ、根拠になっても確信的な証拠にはならない。ただの噂で終わればいいんだけど」


 王野が人を食べているかもしれないという噂があるのは知っていた。知った上で、鵜呑みにせず王野に接していた。それに今の話を聞いたからと言って、俺は王野を否定するようなことはできないだろう。いくらなんでも突拍子がなさすぎる。__人が、人の肉を食べるなんて。


「でも……見たわけじゃないし、噂は信じきれないよ」

「噂にすぎないんならそれでいい。何か面倒なことが起こる前に、王野とはなるべく関わるのをやめたほうがいい。王野のせいでお前に何かあったら、俺が王野に人道に反したことをするかもしれねえから」

「そ、そんな怖いこと言わないでよ」

「心配してんだよ」


 冗談半分のつもりなんだろう。斜森は眉を下げて仕方なさそうに笑った。

 俺は、どうすればいいんだろう。






4


「高見くん?」

「え……求さん?」

「どうしたの、こんなとこで」


 お盆休みの最終日だった。買い物のために最寄り駅に向かうと、ホームの待合席に高見くんが項垂れるように座っていた。高見くんの住んでいる所からこの駅はかなり離れている。特に何かがある町でもないので、この場所に高見くんがいるのは不思議だった。高見くんは見たことがないくらい顔色を悪くしている。


「体調悪いの?」

「ああ、まあ……そうっすね。ちょっと……」

「……これから予定あるの?」

「友達と遊ぶ予定だったんですけど、気分悪くて途中で降りました」

「ちょっとごめんね」


 高見くんの首元に手を当てると、物凄く熱かった。これは、熱中症かもしれない。


「高見くん、歩ける?」

「それは大丈夫なんで……求さんはほっといてください」

「駄目だよ、症状が軽いうちに対処しないと。俺の家ここから近いからちょっと休んで行って」

「え、嫌ですよ」

「じゃあ救急車呼ぶよ」

「……」


 俺が引かないと悟ったのか、高見くんはため息をついて立ち上がった。


「休んだらすぐ帰ります」

「うん。飲み物は持ってる?」

「持ってないです」

「じゃあ、これ飲んで」


 背負っていたリュックからスポーツドリンクを取り出して、高見くんに渡した。高見くんはそのペットボトルをまじまじと見つめている。


「……あっ、口つけてないよ、新品だよ」

「準備いいですね」

「ああ、昔俺も出先で熱中症になったことあって……。外出る時はなるべく持って行ってるんだ」

「……俺のこれって熱中症なんすか?」

「え……多分ね」

「ふうん」


 高見くんは俺があげたスポーツドリンクを飲んで、一息ついた。自覚症状なかったんだ。余計に危ないな。しっかりしてる子だと思ったけど、案外そうじゃない部分もあるのかもしれない。

 俺が改札に向かって歩くと、高見くんもちゃんと着いてきてくれた。言ったはいいものの、自分の部屋に誰かを入れたことなんて、親か斜森くらいしかない。しかも高見くん。狭いとかセンスないとか嫌味の1つでも言われるかもしれないと思ったけど、高見くんの顔を見るとかなり気分が悪そうだったので、そんな事も悩んでいられなかった。


 自分の部屋に到着し、有無も言わさず高見くんをベッドに寝かせた。氷嚢なんて気の利いたものがないので、保冷剤をタオルで包んで要所に当ててあげた。高見くんも自分が熱中症であることを自覚したようで、大人しくしていた。


「ごめんね、友達と遊ぶ予定だったんだよね」

「なんで求さんが謝るんですか……。いいんです、自分が原因なんで」


 高見くんはしんどそうに呟いて、暫くすると目を瞑った。寝息が聞こえる。もし気絶だったらどうしようかと思ったけど、火照りはだいぶ冷めたようで、顔色もさっきよりは良くなっていて、胸をなでおろした。




 1時間ほどすると、高見くんは目を覚ました。スミマセン、とバツが悪そうに俺に言って、帰る準備をし始めた。


「あっ、えっと、急いで出て行かなくていいよ。もっと休んでもいいと思う」

「いや、俺も求さんも居心地悪いでしょ」

「高見くんはそうかもしれないけど……俺は全然いいよ。無理してまた体調悪くなっても嫌だし」

「……ほんとお節介」

「……ごめん」


 高見くんはため息をつき、再びベッドに腰を下ろした。


「そんなに長いこと外にいたの?」

「いや、そんなことはないですけど……」

「飲み物飲んでた? ご飯は、ちゃんと食べてた?」

「……あー、そういえば今日まだ何も食べてない」

「絶対それが原因だよ。今から何か食べよう」

「いいですって。帰ってから食べるんで」

「いいから、高見くんは休んでて」


 と言いつつも、何か食べさせてあげられそうな料理はこの部屋にない。まず食材がない。俺は料理ができないので、冷蔵庫の中はほとんど空と言っていいほどだ。いまからコンビニに行って何か買ってくるのも高見くんになにか言われそうだし、仕方ないので買い置きしていたカップ麺を2つ取り出した。食べないよりマシだろう。カップ麺にお湯を注いでそれをリビングまで持って行き、机の上に置いた。


「……カップ麺」

「ごめん……俺料理できないんだ……」

「……はは、そんなんならここまでしなくていいのに」


 高見くんはくつくつと笑った。お節介と言われても仕方ない。なんだか恥ずかしくなって、俺は俯いた。


「まー、カップ麺久しぶりなんで。ちょっと嬉しいかも。3分経ちました?」

「あ、うん、多分……」

「じゃ、遠慮なくいただきます」


 高見くんがちゃんと食べ始めたのに安心して、俺も一緒に麺を啜った。会話は特に無かったけど、今まで怖いと感じていた高見くんと少しだけ打ち解けられたような気がして、それは嬉しかった。






5


 連休明けの仕事ほど憂鬱なものはない。重たい体を引きずって出社すると、俺と同じような顔をした人がたくさんいて安心した。どれだけ仕事ができる人でも労働の億劫さは変わらないようだ。

 上司に軽く挨拶をして自分のデスクに向かうと、先に来ていた高見くんが俺に気付いて俺の元にやって来た。いつもは滅多にこんなことしないので、少し驚いてしまう。


「求さん、おはようございます」

「あ、お、おはよう……」

「なんですかその顔。……昨日はありがとうございました。これ、貰ってください」


 高見くんは持っていた小さな紙袋を俺に渡した。オシャレな筆記体でお店の名前のようなものが書いてあり、俺にはあまり馴染みがない。


「これなに?」

「マカロンです」

「マ……え?」

「……好きじゃないなら俺が食います」

「いや、好きだよ! ありがとう、わざわざ用意してくれたんだよね」

「わざわざってか、別に、自分が買いたかったから、ついでだし……」

「そっか。ありがとうね」


 高見くんは気恥ずかしそうにしていた。……なんだか高見くんが可愛い。こんなことを言ってるけど、昨日俺の家を出てからわざわさ買いに行ってくれたのだろう。それも、マカロンなんて可愛いものを。怖くて今まで避けてきたけど、ちゃんと話してみれば仲良くなれるかもしれない。


「体調はもう大丈夫?」

「はい。大丈夫なんで、自分の食生活気にかけてください」

「はは、うん、そうだね」

「昼飯もコンビニとかカップ麺とかばっかでしょ」

「それはそうだけど……」

「……社食、一緒に食いに行ってもいいっすよ」

「え?」

「だから……、1人で体に悪そうなもんばっか食べるんじゃなくて、俺が一緒に行ってあげるんで、社員食堂で食ったほうがいいんじゃないんですかってこと!」


 高見くんは仄かに顔を赤くしていた。……なんだそれ! どうしよう、凄く可愛い。意地を張ってるように見えるけど、高見くんがあまりにも可愛かったので俺は思わず笑ってしまった。


「うん、ありがとう」

「ちょっと、笑うなよ!」

「うん、ふふ……ごめん。じゃあ、今日のお昼どうかな」

「……ハイ」


 高見くんはぼそっと小さく呟いて、俺と目を合わせずそそくさと自分の席に戻って行った。

 



 この時、俺はちゃんと気付くべきだったのかもしれない。

 遠くの方で王野が俺達をじっと眺めていた事を。






6


 俺は食にあまり興味がない。だから飢えを凌ぐだけの食事になるし、何も考えずに食べるから不摂生だとよく言われてしまう。入社当時は今よりもっと不健康な体つきだった。ただ、最近は少しずつ体重が増えていってる。多分、王野がよく俺をご飯に誘ってくれるからだ。それも、食べられないというほどいろんな種類を。俺が食べれば食べるほど、王野は俺を見て満足そうにする。その絡みつくような視線は、正直に言って苦手だった。


「求、今日の夜一緒にご飯食べない?」


 高見くんとお昼を一緒に食べたその日。珍しく仕事が早く片付いたのでさっさと帰ろうと支度をしていると、王野が俺を誘ってくれた。


「うん。今日はどこに行く?」

「俺の家は?」

「え、王野の家?」

「うん。俺がご飯作ってあげる」


 この誘いは初めてだった。数年間一緒に働いていたきたけど、王野の自宅に行ったことはない。プライベートで会う時は、いつもどこかの飲食店だった。

 たまにはいいかもしれないと王野の提案に乗ろうと思ったが、先日会った斜森の言葉がふと頭をよぎった。王野とはなるべく関わるのをやめたほうがいい、と。一瞬考えてしまった。安易に王野の家に行ってもいいのかどうか。斜森は考え無しに俺に人間関係に対する忠告をしない。きっと、斜森の言うとおりにした方がいいのだろう。

 それでも、王野のあの噂は噂に過ぎない。斜森も言ったように、根拠はあっても確信的な証拠はない。それに、ここで断る方が不自然だし、せっかくの王野の好意を無下にできない。


「行ってもいいの?」

「うん。来てほしいな」

「じゃあ、お願いしてもいい?」


 遠慮気味に言うと、王野はにこっと笑った。人好きのする、いつもの顔だ。そうだ、王野はいつだって俺に優しい。どんな噂があっても、この数年間ずっと俺を支えてくれた。俺達には過去の繋がりもある。俺が王野を疑ってはいけない。




 そう、疑ってはいけない。中途半端に疑うくらいなら、最初から猜疑心を抱くべきじゃなかった。






7


 王野の家に向う車中で、俺は妙な焦燥感に駆られていた。うまく言葉には出来ない。ただ、いつも以上に緊張している気がした。


「どうしたの?」


 車を運転する王野がそう言った。俺は何も言ってないけど、俺がいつもと様子が違うのを察したのかもしれない。俺はただ前を向いて座っていただけなのに。なんだか心のうちを見透かされたような気がして、小さく拳を握りしめた。


「どうしたのって、なにが」

「不思議な匂いがする」

「え?」


 匂い、というのは。

 自分では分からないけれど、王野にはそう感じるようだ。心当たりがまるでない。

 俺のぎこちない表情に気付いたのか、王野はくすりと笑った。


「そんなに畏まらなくていいよ」


 笑い返せていただろうか。頷いたけれど、上手く喋れない。 


 窓の外をぼーっと眺めていると、いつの間にか王野の自宅に到着していた。セキュリティがしっかりしていて、見るからに高級そうな外観のマンションだった。エントランスはしんと静まり返っていて、なんだか会話するのも野暮なくらいだった。俺は黙って王野に着いて行った。


「あんまり片付いてないけど、どうぞ」


 王野が部屋の扉を開けて中に招いてくれた。片付いていないというのは王野のハードルが高い主観であって、俺からしてみれば全くそう思えなかった。


「全然綺麗だよ」

「そう? 本当は今日呼ぶ予定じゃなかったから、掃除できてないんだ」

「え、俺ここにいていいの?」

「うん。やっぱり今日がいいなって思って」

「今日思ったの?」

「うん」


 王野は思いつきで動くタイプだとは思っていなかったから、少し意外だ。急に部屋に客を呼んでもこの清潔さなので、普段から綺麗にしているのだろう。


 王野に案内された部屋は、ダイニングだった。そもそも王野が住んでる部屋自体が大きいけれど、このダイニングは独り暮らしには有り余るくらいだった。1人で食事をするには十分すぎるダイニングテーブルと、来客を想定しているのか、4つの椅子が置かれている。机の向こうには片付けられたキッチンがある。冷蔵庫も大きい。王野は良く料理をする人なのだろう。


「座ってていいよ。1から作るからちょっと時間かかると思うけど、よかったら寛いでて」

「うん。わざわざありがとう」

「ふふ、他人に料理を振る舞ったことないから、緊張するね」


 王野は照れながらキッチンに向かって行った。

 意外だ。冷蔵庫の大きさやキッチンに並んでいる器具を見る限り、王野は料理が得意そうだから、家族や恋人のために作っていてもおかしくないのに。


 シンクから水が流れる音が聞こえ、俺は席に着いた。胸のあたりがざわざわするのは、極端にシンプルなこの部屋のせいだろうか。それに、テレビもなにもついていなくて、料理をする音しか聞こえてこない。ここで何もせず落ち着けという方が難しい。

 そんな俺に気を遣ってくれたのか、王野はキッチンから俺に会話を振ってくれた。


「求はさ、昔のことどれくらい覚えてる?」

「……昔って言うのは、俺達が会ってた時期のこと?」

「うん、そうだね」


 お皿を取り出す音が聞こえる。もうすぐ1品目が出てくるのだろうか。手際の良さには舌を巻くばかりだ。


「正直言うと、最近まで忘れたんだ」

「……そっか」

「でも、王野が車の鍵につけてたキーホルダーで思い出したよ。全部……。俺が迷子になってたこととか、公園で遊んだこととか、王野の学校のうさぎの飼育小屋に連れてってもらったこととか」

「ああ、そんなこともあったね」

「懐かしいね。うさぎにエサあげたのも思い出したよ。意外とちょっと怖くてびっくりしたんだよね。俺動物を触る機会なんてなかったから」

「はは、求のランドセル、ちょっと齧られてた」

「そうそう。思ってたうさぎのイメージと違った。……でも1匹だけ弱ったうさぎがいた……気がする」

「……そうだっけ?」

「うん。次に行った時にはもういなかったから、悲しかったんだよね」


 あの時、王野に聞いた覚えがある。あのうさぎはどうしたの、と。……王野はそれになんて言ったっけ。確か、おかしいことを言っていた気がするけれど、思い出せない。


「はい、まず1品目。どうぞ」


 記憶を辿っていると、目の前に皿が置かれた。海老と、アボカドと、緑色の葉っぱ。皿に乗っている小さな器には見たことのないソースが入っている。オシャレすぎて驚いてしまった。


「凄い! これ王野が作ったの?」

「うん。これは食材を盛り付けただけだよ。前菜だから軽めにね」

「前菜、って……。コース料理みたいになるの?」 「そのつもり」

「えぇ、凄いね……」

「どうぞ、遠慮なく食べて」


 手を付けるのも勿体無いほどに綺麗だったけど、そう言われてしまったら食べるしかない。用意されたフォークに具材を刺してソースに付けて口に入れた。馴染みのない味だ。


「美味しいよ。これ本当に手作りなんだ」

「大げさだよ。まだ前菜だし」


 王野は俺を見て微笑むと、そのままキッチンに戻って行った。


「王野は食べないの?」

「うん。俺は後で」


 王野は今日も一緒のタイミングで食べ始めてくれない。今回は作る側だから仕方ないのかもしれないけれど、俺だけがもてなされるのはやっぱりそわそわしてしまう。

 料理を食べながら、俺はなんとなく王野の動きを目で追った。冷蔵庫から鍋を取り出し、それを火にかけた。予め作っていた物だろうか。王野は今日俺を呼ぶ予定では無かったと言っていた。それなのにコース料理を振る舞えるほど食材が充実しているのは、純粋に凄いと思う。


「王野は昔から良く料理してたの?」

「うん。そうかもね」

「俺達が遊んでた時から? ……流石に早すぎるか」

「うーん、どうかな。それよりは後だろうね。というか、その後かも」

「そうなんだ」


 確か、俺達が会わなくなったのは小4とか、小5とか、それくらいだった。よく考えれば俺達が会って遊んでいた期間なんてたったの数ヶ月だ。俺はあの時、唯一の友達ができたことを本当に嬉しく思っていた。俺は学校に居場所がなかったし、何度もその友達__「あいちゃん」に救われていた。

 たった数ヶ月。俺にはあいちゃんだけだったから、突然俺の前から姿を消した時はなにも信じられなかった。


「王野、」


 ぐつ、ぐつ。何かを煮込んでいるのだろうか。そういう音がする。


「なんであの時、急に会えなくなったの」


 クリスマスの日だった。一緒にクリスマスパーティーをしようと約束していた。いつものように公園で待ち合わせして、俺の家に向う予定だった。お母さんにはケーキを用意してもらって、俺もあいちゃんに渡すプレゼントを用意して、首を長くして公園で待っていた。でも、待っても待ってもあいちゃんは来てくれなかった。1人で待つ時間は悲しいくらいに寒かった。__あいちゃんは、突然消えてしまった。


「ごめん」


 沸騰する音にかき消されそうな小さな声だった。


「家の都合で引っ越すことになったんだ」

「……急、だったの?」

「……ごめんね」


 王野はそれ以上なにも言わない。過去の王野を責めるわけじゃない。でも、俺の疑問は晴れなかった。あの時王野に何があったのだろう。


「はい、次はスープね」


 俺の目の前に、次の皿が置かれた。そのスープには、細かく切り揃えられた彩りのいい具材が浮かんでいる。野菜と、ベーコンだろうか。


「作り置きしてたの?」

「うん。たまたまね」

「俺、こんなに具材が入ったスープ見たことない」

「いちいち大げさだって。まあ作り甲斐あるけど」


 王野は俺が食べて感想を言うまでキッチンに戻らないようで、俺が美味しいと言うと安心したように次の料理に取り掛かった。

 普段料理をしない俺からしたら上手く感想を言えないくらいに美味しい。あまり見ない食材も多い。ただ、俺の味覚があまりにも乏しいのか、経験したことのない味が多い気がする。少し癖があるような。普段食べない野菜。なんだろう、セロリ、グリーンピース、柔らかくて透明なものは蕪とかだろうか。あと、これは、ベーコン。……ベーコンって、こんな味だったっけ。


「求、今日のお昼は何食べたの?」


 食べるのに夢中になっていて、急な質問に少し動揺してしまった。一瞬考え、そういえば、と思い出す。初めて高見くんとご飯を食べたのだった。


「えっと、社食の……ハンバーグ定食」

「高見と?」

「え、うん……」


 あれ、俺王野に高見くんとご飯を食べること言ったっけ。もしかしたら俺達の会話を聞いてたのかもしれない。

 

「美味しかった?」

「う、うん」

「……そう」


 じゅう、という音が響いた。少ししてから、まろやかないい匂いが広がった。甘い匂い。バターだろうか。


「高見のこと、どう思う」

「どう、って」

「求に失礼なことたくさん言ってたでしょ」

「……そうだね。でも言われても仕方ないと思う。俺、こんなんだし」

「求は優しすぎるよ。礼儀知らずの後輩に求が優しくする必要なんてない」

「俺は優しくないよ。気が弱いだけで……。でも、高見くんは案外仲良くなれそう」

「……仲良くしなくてもいいよ」

「え?」

「最初から求のことを大事にしてくれる人を大事にしてほしい」

「……高見くんと仲良くなっても、そういう人のことを蔑ろにするわけじゃないよ」

「そうだとしても、俺は仲良くしてほしくない」

「どうしてそう思うの?」

「俺の方がずっと長く求を大事にしてきたのに、って。……不平等じゃない?」

「え……。王野も、高見くんも、平等に接してるよ」

「平等にしてることが俺にとっては不平等だよ」

「……差をつけてほしい、ってこと?」

「……はは、そうだね」


 いつの間にか料理は完成していたようで、目の前には魚料理が置かれていた。これは、ムニエルだろうか。一口食べると、バターと淡白な魚の味が口の中に広がった。

 王野は俺の感想を聞かず、今度は俺の目の前の席に座った。


「一生のうちに他人に向けられる愛情の量って決まってると思うんだ。俺は、求からその内のどれだけ貰えるかな。……俺の方が高見より求の愛情を貰う権利はあるよね。俺達、昔はお互いが唯一だったんだよ」

「……王野、なんの話?」

「俺は、他者に向ける優しさも笑顔も全部愛情の1つだと思ってる。求が俺に優しくしてくれるのは愛情だし、俺に笑いかけるのも愛情だと思ってる。……求、高見と喋って笑ってた。あんな顔で笑ってほしくない。俺にも見せないような顔だった」

「え、え……?」

「なんで、って思った。そうじゃないでしょ。その愛情は、たかが数日で求のことを知った気になってる人間に向けるべきものじゃない。高見だけじゃないよ。さっさと求の側から離れた斜森にも向けてほしくない。おかしいよ。ずっと側にいるのは俺なのに。勿体無いでしょ。一生のうちに分配できる愛情の量は決まってるのに、そんな人たちに求の愛情はあげなくていい。俺にちょうだい」

「……」

「っていうのが、高見と仲良くしてほしくない理由。ついでに言うと、斜森とも仲良くしてほしくない。……仲良くしてほしくないというか、関わってほしくない。喋ってほしくないし、会ってほしくない。何も思わないでほしい。俺だけでいいんじゃないかな、求の全部」


 絶句した。なにも言い返せない。

 長らく一緒に仕事していても気付けなかった。王野がここまで歪んだ価値観を持っていたことを。俺と高見くんが仲良くしているように見えたのがトリガーになったのだろうか。王野はなんて言った。愛情を全て自分に向けろ、誰とも仲良くするな、関わるな、と。


「……王野、ごめん。それはできない」

「……」

「王野のことは勿論大事だよ。過去のこともあるし、特別だと思ってる。でもだからって、これから先俺と関わろうとしてくれる人に無感情になることなんてできない」


 王野は何を考えているのか分からない。ただじっと俺を見つめて、すん、と鼻で呼吸をした。


「……不思議な匂いだね」

「……へ?」


 拍子抜けした。支離滅裂だ。そのフレーズは、王野が車の中でも言っていたものだ。料理のことだろうか。それとも、俺?


「求はそう言うと思ったよ」


 王野は何事もなかったかのように立ち上がり、キッチンに戻って行った。


 未だに心臓がバクバクと音を立てている。王野の知らない部分を知るたびに、怖さを感じる自分がいる。目の前のムニエルを食べ進めたけど、食べた気がしなかった。あと何品出てくるのだろう。どれくらい、この空間で過ごすことになるのだろう。


 王野は冷凍庫から容器を取り出し、蓋を開けた。ざり、となにか削るような音がする。暫くすると、すぐに次の料理が運ばれて来た。机の上に置かれたのは、透明なグラスに入った赤い氷菓子のようなものだった。


「ソルベだよ」

「シャーベット? これで最後?」

「ソルベは口直しのためのものだよ。肉料理が残ってるからね」


 スプーンで一口掬って食べると、仄かな酸味と甘みを感じた。赤かったので苺のような味だと思っていたけど、違うようだ。


「美味しい?」

「うん。美味しいけど、これは何味?」

「分からない? トマトだよ」

「トマトってこういうのにできるんだ」


 意識して食べると、確かにトマトの味を感じた。と同時に、やっぱり不思議に思う。何かが味覚に引っかかる。味わったことのない味がある気がする。甘さと酸っぱさと、あと微かな苦味。やっぱり、普段こういうものを食べないから慣れていないのかもしれない。


「これって、すぐに作れないよね。もともと作ってたの?」

「ああ、まあ、うん」

「凄いね。俺だったらわざわざ自分で作ろうと思わないよ」

「そうかもしれないね。でも俺が食べたいものってあんまりお店で売ってないから、自分で作るしかないんだ」

「……あ、だからいっつもお店選ぶ時、あんな決め方してるの?」

「うん、そうだね。正直、求がちゃんと食べてくれるんなら俺はどこでもいいんだ。自分が食べたいものは自分で作れるし」


 どこか、王野の言葉がひっかかる。それの正体は分からないけど、何かがもやもやする。


「そこまでして、なんで俺をご飯に誘ってくれるの」

「自己満足みたいなものだよ」

「……俺がいいご飯をたくさん食べてたら、王野は満足するの?」

「うん。……前に求が言ったよね、こんなことしてたら俺が損だって。俺、本当にそんなこと思ってないよ。俺は満足してるし、これは俺のためでもあるんだ」

「王野のため、って」

「……」


 手を止め、王野を見た。いつも通りの顔だ。それが妙に俺を不安にさせた。


「まだ食べられる?」

「どうだろう、いろんなの食べさせて貰ったから、結構お腹いっぱいかも……」

「そっか。でも肉料理が残ってるんだ。ちょっとは食べてほしいな」

「……うん」


 そう答えるしかなかった。王野はキッチンに向かい、冷蔵庫から具材を取り出した。


 さっきから気が落ち着かない。自分の呼吸が浅い気がする。王野のことを深く知ってしまったからだろうか。

 多分、王野の感性や価値観は普通ではない。人生経験から人格が作り上げられるんだとしたら、王野は過去になにかあったのだろうか。俺が知ってる昔の王野__あいちゃんは、気が強くて大人が嫌いな、友達とペット思いの子だった。今の王野みたいに、貼り付けた笑顔を向けるような人ではなかった気がする。俺達が別れてから、王野に何かあったのかもしれない。


『王野とはなるべく関わるのをやめたほうがいい』


 斜森の言葉が頭をよぎる。

 王野のことを信じていないわけじゃない。あの時孤独だった俺と友達になってくれたのは王野だし、職場が一緒になってからも、たくさん助けてくれたのは王野だった。__疑ってはいけない。王野が、倫理を逸脱した行為をしているなんて。



 ピーーーーーッ


 

 高く、機械的な音が響いた。思わず肩が揺れる。

 早い段階から王野はオーブンで料理を焼いていたらしく、終了を知らせるタイマーが鳴ったようだ。キッチンからは湯気が立ち上っている。香草の匂いだろうか。とてもいい匂いがする。


「ああ、デザートの材料がないから、これで最後だ」


 王野が包丁を持ち肉を削いでいる。この位置からだと作業している様子はあまり見えない。


「あとで一緒にコンビニ行ってアイスでも買おうか」


 王野は俺の方を振り返り、子どもみたいに笑った。

 俺は胸をなでおろした。こんなことを言う人が、俺に何か恐ろしいことをするはずがない。


 暫くすると、王野が大きめの皿を運んできた。

 目の前に置かれたのは、こんがりと焼けた肉。形良く綺麗に切り取られていて、上には緑色の液体がかかっている。


「これは?」

「ハーブを混ぜて作ったソースだよ」

「そうなんだ。これは? なんて__」


 俺が王野に尋ねている途中、電話の着信音が鳴った。俺のではない。王野のスマホだった。王野は画面を見て顔を顰めた。


「課長だ」

「早く出てあげて」


 王野は役職があるので、仕事終わりでも時々電話がかかってくるようだ。王野は電話に出て、部屋から出て行った。


 今、この空間には俺しかいない。王野を待たずに先に食べててもいいのか考えたけれど、電話が終わるのを待って料理が冷めるのもいけないと思い、食べることにした。

 フォークを肉に通して、ソースに絡める。嗅いだことのない匂いがする。このソースだろうか。

 口に入れると確かにハーブの味がした。そして、後からくる肉の風味。なんだか、酸っぱいような気がする。これは、何肉なんだろう。


 __これは、何肉なんだ?


「……」


 自然と、噛む速度がゆっくりになった。

 鳥、豚、牛、どれも違う。そんな、分かりやすい味じゃない。羊、とも違う。あとは何がある、鴨、馬、熊、鹿。あとは。あとは……。


 ごくり、とそれを飲み込んだ。飲み込んでしまった。喉を通っても、やっぱり何かは分からない。

 皿の上を見る。まるで、肉を隠すかのように緑のソースがかけられている。肉をもう一枚フォークで刺し、じっくりと見た。これは、一体なんなんだ。

 俺の悪い癖だ。一度考えると止まらない。


 俺はゆっくりと席を立ち、キッチンの方に向かっていた。台所には食材は置かれていない。流しには、俺が食べ終えた皿が重ねて置いてあるだけだった。

 やけに大きなステンレス製の冷蔵庫が際立っている。独り暮らしの部屋には、大きすぎる冷蔵庫。伸ばした手は、震えが止まらなかった。


 疑ってはいけない。

 駄目な行為だということも分かっている。

 でも、でも……。


 俺は生唾を飲み、冷蔵庫の扉を開けた。

 

 棚の上には、真空パックにされた赤身のブロック肉がいくつか置かれていた。タイトルは書いてない。これだけでは、なんの肉かは分からなかった。他に食材は少なく、不自然なほど綺麗に片付けられていた。

 冷蔵室の扉を閉め、次は冷凍室の扉に手を伸ばした。手汗が止まらない。鼓動が早く、浅い呼吸を何度も繰り返している。王野の噂、斜森の忠告、俺達の過去。疑ってはいけない。


 俺は勢い良く冷凍室の扉を開けた。




「え……」 


 俺はその場で尻もちをついた。

 もう一度確認しようと思っても、脚が震えて上手く立てない。


 俺は、何を見た?


「え、え、ぁ……」


 床に手を付いて、ズルズルと後方に下がった。すぐにここから逃げたかった。


 逃げるなんて出来るはずがないのに。

 ここは、王野の城だ。






8



「あーあ」


 息が止まった。

 俺の体に影が差す。

 すぐ後ろ、高い位置から声が聞こえる。


「人の家の冷蔵庫の中を見るなんて、求は悪い子だね」


 王野が俺の側で屈んだ気配がした。俺は未だに王野の顔を見られない。呼吸が苦しい。


「まあでも、見られてもいいやって思ったから家に呼んだしいいよ。本当に見るとは思わなかったけど……。求、意外と度胸あるよね」

「ぇ、え……」

「見たんでしょ? 俺のこと、どう思った?」


 そう、俺はこの目でしっかり見てしまった。


 手、足、耳、鼻、舌。

 おびただしいくらいの量が一面に広がっていた。

 冷凍保存されていたそれらは、確実に人間のパーツだった。


 目にした瞬間の光景を思い出し、体がガタガタと震えた。


「あっ、あれっ、なん、なんで、どこ、どこで……」

「綺麗に保存されてるでしょ。日本にもちょっとはいるんだよね、人の肉を好んで食べる人。俺はお金を払って人の肉を買ってる」

「……ほ、本当、なの」

「偽物だと思う?」


 王野は立ち上がって冷蔵庫まで歩き、開けっ放しにしていた冷凍室から冷凍された片腕を取り出した。


「ヒッ……」

「美味しくないんだよね、手とか足とかって。美味しくないから、後で食べようって思って冷凍してるうちに、美味しくないとこだけ溜まっちゃった」

「……お、おれが、たべ、たべたの、って」

「……」


 パタン、と扉を閉めた。

 王野は俺をじっと見つめ、ゆっくりと近寄ってきた。


「知ってる? 人間の肉って酸っぱいんだよ」

「__!」

「だから美味しくないって言う人は多いみたい。犬よりは美味しいって言った人もいるみたいだけど、どうかな。俺は同じくらいだと思った。肉が薄いところは、調理に迷うくらい特に美味しくないんだよね。だから、なるべく柔らかくて食べやすいところにしたんだ。あと、血も混ぜてみた。どうだった?」

「、ぉ、ぇ」


 俺はその場で嘔吐き、必死に胃の中に入れたものを吐き出した。でも、出てこない。口からは唾液と酸っぱい胃液しか出てこなかった。王野は正面から俺を見下ろし、薄気味悪く笑った。

 

「すっごいゾクゾクした。求が、人間の肉を食べてるって。俺と一緒だ。ねぇ、求」

「違う!! 一緒じゃない、俺っ、俺は違う!!」

「美味しいって言ってくれたの、あれは嘘なの?」

「……違う、違う……」


 さして間のない距離をゆっくりと詰め寄られる。震えが止まらない。この先の最悪な展開を考えて、歯がガチガチと鳴った。ただいつも通り笑みを浮かべている王野が怖かった。


「おっ、お、お、おれ……俺のこと、た、食べ、るの」

「うん。そうだね」

「っ、は、ハァッ……だ、だめ……そんな、だって、け、警察に、つか、捕まるよ」

「あはははっ! 俺の心配するんだ。可愛いな、求は!」


 王野は心底おかしそうに腹を抱えて笑った。俺はぼろぼろと涙を流しながら、震える手を付いて後方に這たっけれど、壁に当たってしまった。みっともなく立ち上がろうと藻掻く俺の正面に、王野はしゃがみ込み、そして俺の頬に手を当てた。王野の瞳は黒々としていて、弱者の俺が歪んで映っている。


「求を食べられるんなら別にどうなったっていいや」 

「__!」


 咄嗟に逃げようとしたが、脚が縺れて上手く立てない。逃げたいのに、脚が言うことを聞いてくれない。こんな時に限って!


「求、脚あんまり良くないもんね。どうせ逃げられないから逃げようとしなくていいよ」


 王野はそんな俺を見て未だに笑っている。

 なんの抵抗もできず、俺はその場で王野に押し倒された。あまりの恐怖に、意味のない叫びが口から飛び出す。王野はそんな雑音なんか気にも止めず、手を俺の腹に伸ばした。ワイシャツの上、手のひらに圧力がかかり、皮膚がぎゅっとへこんだ。俺はただ体を震わせることしかできなかった。


「お腹柔らかいね。昔はもっと細かったから、嬉しい」

「あ、あ、いぃ、い……」

「人の肉ってね、薄くて硬いところは美味しくないんだよ。求のお腹は美味しそうだね」

「ヒッ」


 王野はそっと俺のワイシャツの裾を引き上げ、素肌に触れた。手つきは優しいのに、この手は俺を食べようとしている。


「なっ、なんでっ、い、おれっ、いまたべるの」

「なんでって、そうだなあ。今日、どうしても食べたくなったから。イライラすると食欲が増える人いるでしょ、俺も同じだよ。イライラしたから求を食べたくなった」

「なんで! いや、やだ、や、ごめっ、ごめんなさっ、いやだっ!!」


 俺を押さえつける力は弱まらなかった。半狂乱になって暴れたけど、王野はぴくりともしなかった。王野の顔が手を滑らせていた俺のお腹に近付く。


「やあ! やだ、やだ!! いやだ、あ、あぁ!!」


 生ぬるい吐息がかかる。ただ叫ぶことしかできなかった。怖い、気持ち悪い、酷い。全てが叫び声に変わり、抵抗らしい抵抗なんてろくにできなかった。

 王野の口がぱかりと開き、歯が皮膚に食い込む。俺は、王野に捕食されてしまう。ぼろぼろと涙を流した。


「いやあああぁぁぁぁ!!!!」


 熱い。皮膚が、焼けるように熱い。次の瞬間、感じたことの無いほどの痛みが電撃のように体に走った。王野が、俺のお腹を噛んでいる。噛みちぎろうとしている。血が、血が!


「ん……、ふふ……」


 王野は口周りを血で汚しながら、噛み口から流れ出た血を舌で執拗に舐め取っていた。俺はその痛みに絶えず悲鳴を漏らしながら、呼吸を荒げていた。

 王野と目が合う。顔を紅潮させ、うっとりとした顔で俺を見ていた。


「美味しい人って、汗とか血とかだけでも分かるんだ。求は不思議な汗の匂いだったから美味しそうだなって思ってたんだけど……」

「ぃぎっ……」


 もう一度、王野は俺のお腹から流れる血を舐めた。傷口に唾液が染みて痛い。もう、まともに声を発することもできなかった。


「求、すっごく美味しいね」

「あ、あ……」


 そうやって微笑む王野の顔が綺麗で、そして何よりも恐ろしかった。俺は、このまま王野に食べられてしまうんだろうか。

 そう思うと、頭が真っ白になった。虚脱し、体の震えすらない。ああ俺、王野に殺されるんだ。怖い、怖い、怖い、俺、殺されるんだ。殺されるんだ……。


「ぁ……」


 しょわ……と、俺の体から小さい音がした。下腹部から漏れ出したそれは綺麗なフローリングの床に広がっていき、特有の鼻につく匂いがする。王野はそんな俺を見て間の抜けた顔をしていた。


「……失禁しちゃったの?」


 どうしよう、俺の粗相のせいで王野を怒らせたら。もっと酷い殺され方をされるかもしれない。俺はどうすることもできず、泣きながら王野に謝っていた。


「ひ、ひ、ごっ、ごえ、ごえんなさっ、あ、ごめん、なさ、た、た、たべないで……」


 無様に泣いて縋る俺が面白かったのか、王野は俺を見て声を上げて笑っていた。そして服が汚れるのもいとわず、俺の体を起こして抱きしめ、俺の首元に顔をやり大きく息を吸った。どんな行動であっても、今の俺にとっては恐怖でしかない。王野の熱を感じて、悲鳴を漏らしてしまった。


「求、可愛いねぇ」

「あ、ご、めんなさい、いや、いやだ……」

「求のことずっと食べたいって思ってた。ずっとだよ? 俺達が小さい頃から。食べるのは一瞬だから、食べきったらもう求はいなくなっちゃうから、ちゃんと育ててから食べようと思ってたんだよ。ずっと、ずっ……と、求はどんな味かなって想像してたんだ。酸っぱいかな、甘いかな、不味いかな、硬いかな、柔らかいかなって。だから今日、求のこと食べれると思って、凄い興奮してたんだ」

「やだ、やだ、やだ……」

「うん、やだよね。やっぱりね、食べるのやめとく。もったいないや」


 そう言って、王野は俺の血が付いた口で俺にキスをした。なんで、とか、おかしい、とか。そんなことを考える余裕も、口を挟む気力もなかった。


「食べたら死ぬけど、死ななかったら求のこと一生味わえるもんね」


 溶けそうな笑みを浮かべ、王野は最後にもう一度血が流れている俺のお腹を甘く噛んだ。びくり、と大きく体が跳ねたのを見て、王野はまた声を出して笑った。

 口周りに付着した血を舐めながら、王野は涙に塗れた俺の顔を見た。怖いのに、視線を逸らせない。赤く光る舌をぺろっと出し、そして未だに止まらない俺の涙を舐め上げた。


「ごめんね、体綺麗にしてあげるよ。お風呂行こっか」


 王野は俺の体を持ち上げ、ダイニングを出て行った。抵抗する力なんてもうとっくに残っていない。泣きはらした目で、視線の先にある脱衣場の扉をぼうっと眺めていた。


「あ、そうだ。今日のこととか、俺のこととかみんなに言ったら駄目だよ。そんなことしたら、次は本当に食べるから」


 なんだろう、王野がなにか言っている気がする。上手く聞き取れない。俺を抱え上げて移動する王野の腕の中で、俺の意識は遠のいていった。






9


 最初は兎、次は犬、次は人間。

 さっきまで生きてた命を食べるのは、不思議な感覚だった。

 

 小学生の頃に学校で飼育していた兎がいた。俺は飼育係だった。誰もやりたがらなかったから、俺がやった。誰もやりたがらなかったから、俺がどう飼育したっていいはずだ。

 昼見に行った時はまだ小さく呼吸をしていたけど、放課後見に行ったら冷たくて動かなくなった兎がいた。初めて、毛がある動物の死を間近に見た。寂しいとか、悲しいとか、そういう感情はなかった。ただ純粋に、お腹が空いていた。当時、俺の家は崩壊していた。父親は母子に平気で暴力を振るうクズだった。母親も、精神を病んでネグレクト気味だった。その時食べていたご飯もあまり思い出せない。俺は、お腹が空いていた。


 だから食べてみた。生肉は美味しくなかった。


 当時、唯一友達だった男を飼育小屋に連れて行ったら「あのうさぎはどうしたの」と聞かれた。「死んだから食べた」と言ったら、信じられないような顔で俺を見ていた。だからすぐに、嘘だよ、と嘘をついた。

 初めて、自分の感性がおかしいことに気付いた。死んだ命でも、食べたら駄目なものはあるみたいだ。じゃあどうして牛や豚や鳥は食べていいんだろう。なにが違うんだろう。


 兎の生肉は美味しくなかった。それでも、食べたことのない味を知るのは楽しかった。他にもたくさん食べてみたくなった。

 飼育小屋で兎を撫でる男__求の横顔を見て、ふと「こいつを食べたらどんな味がするんだろう」と思った。求の隣は居心地がよかった。俺には求しかいなかったし、求にも俺しかいなかった。まろいほっぺたが釣り上がるのを見るたび、食べたいと思う感情は大きくなっていった。


 死んだ兎はもう二度と会えない。じゃあこいつも、食べちゃったら二度と会えないんだ。


 なんて、単純な答えを出して、俺はこの普通ではない感情を誰にも言わず隠していた。






 ナナが死んで、父も死んだ。


 クリスマスの前の日。父が俺の愛犬のナナを殴って、ナナは死んでしまった。父は興奮状態のまま、俺と母に手を上げた。死ぬかと思ったけど、まあ別にどうでもいいやとも思えた。1回死んで生まれ変われるんなら、そっちのほうがいいかもしれない。

 父の暴行を耐えていたら、母が近くにあった花瓶で父の頭を殴りつけた。血を流して倒れている間、母はキッチンから包丁を取り出して、そのまま父を。


 覚えているのは、生臭くて酸っぱくて腐ったような匂い、赤がどんどん黒くなっていく液体の色、泣きながらパニック状態に陥って部屋中を忙しなく歩き回る母の姿だった。


 俺はやっぱり、気が触れていたのかもしれない。父を刺した包丁を手に取り、刺された傷口の肉を切り取った。そして、ナナのお腹の肉も。

 ナナの体に傷をつけるのは流石に少し躊躇ったけど、どうせなら、俺の体の一部になってほしい。ただ埋葬するなんてもったいないと思った。


 その日、俺は初めて台所に立った。

 警察が来るまでの間、俺はフライパンの上に肉を並べて焼いていた。生の兎の肉は美味しくなかった。だから、焼いてしまおうと思った。

 母親はもう心神喪失状態にあり、俺に見向きもしなかった。横たわる死体と焦点が合わない母。そんな中で犬と人の肉を焼いていた俺が、一番狂っていたかもしれない。


 焼き上がった肉を食べた。違う動物だから、違う味がした。でも、どっちも美味しくなかった。パサパサしていて、美味しい肉の味はしなかった。

 そして、食べながら俺は泣いていた。父はどうでも良かった。ナナともう会えないんだ、遊べないんだとようやく実感し、途轍もなく悲しくなって涙を流した。同時に、俺はもうここにはいられないことを悟っていた。頭に浮かんだのは、唯一の友達の顔だった。父の肉を食べている時、求の顔を思い出して、また泣いた。


 暫くして警察が来て、母親は留置所に入れられた。正当防衛ですぐに釈放されたらしいけど、どっちにしろあの街にはいられなかった。俺は、少しの間精神病棟に入れられた。倫理観の欠如のせいらしい。どうして駄目なのかは分からなかった。とにかく、人や犬の肉は食べたらいけないということを教えられた。反論しても職員はいい反応をしなかったので、普通の人間の振りをした。病院から出るためには、普通の人間の振りをしなければいけなかった。


 気が付いたら俺は全然知らない土地に来ていて、友達も失っていた。俺は求のことを思い出しながら、普通の振りをして生きていた。






 すぅ、と安らかな寝息を立てながら、無防備に布団に横たわる求を見下ろす。


「求」


 ゆっくりと首筋に口づけをし、唇を鎖骨に滑らせた。求は不思議な匂いがする。無条件に安心して身を委ねたくなるような、そんな匂い。感じ取れるのは俺だけでいい。


 一番食べたいけど、一番死んでほしくない。


「俺と求、ひとつになれたらいいのにな」


 そしたら一緒に生きて、求の美味しいとこ、全部愛してあげられるのに。


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