【きれいに咲きますように】

1
「枯れちゃったんだ、俺のやつ。……どうしよう」
「えっ」

 じりじりと強い日差しが俺達を照りつけていた。まだ午前だというのに、とっくに夏の陽気がこの街を覆っていた。
 俺は手にじょうろを持ったまま、小学校で貰う定番の青い植木鉢を背に、焦っている千晶の顔を見た。

「最初は水やってたんだよ!でも、1日忘れると、それからずっと忘れちゃって、……気付いたら、全部小さくて茶色くなってて」

 初めての夏休み。学校からは、朝顔の観察日記の宿題が出た。朝顔が開花するまでは必ず書きましょう、と先生から言われていたので、元々植物が好きな俺は生真面目に水やりを朝夕やって毎日日記をつけていた。きっと、もうすぐ最初の花が咲く頃だろう。
 どうやら、千晶の方は順調にいかなかったようだが。

「……どうにかできないかな。俺、もう一回水やってるんだけど、全然なおんなくて」

 千晶が不安げな声色で俺に聞いてきた。いつもは俺の方から千晶に頼る事が多いから、少し上に立ったような気分だった。

「枯れた花ってね、水やってもなおんないんだよ。だから、もうダメかもね」
「ええ〜!どうしよ、どうしよう旭!」

 当時の俺にしては、割と冷たい言い方だったかもしれない。いくら千晶相手にも、植物をすぐ駄目にしてしまった事が嫌だと感じたのだと思う。
 そうとは関係なしに、千晶は俺に縋ってきた。花の観察とは不可逆なもので、それを宿題として提出しなければいけないのだから、当たり前な反応だろう。
 なんだかんだ千晶からの頼みを無下にできない俺は、ある提案をした。

「俺の朝顔、一緒に育てよ」
「え、いいの?」
「うん。だって、どうせ毎日一緒に遊ぶでしょ?」
「よかったー!ありがと、旭!」

 すっかり調子を取り戻した千晶は、俺に抱きついてきた。やっぱり千晶は何があっても憎めないヤツなのだ。

「次は水やりちゃんとやってね」
「うん、まかせて!」

 千晶は俺が持っていた水の入ったじょうろを手に取り、俺の朝顔に水をやり出した。

「さっきやったよ!あと、上からかけちゃダメ!」
「え?だめなの?」
「根っこが水を吸うから、土の方に水をやるの。でも水のやり過ぎはお花が苦しくなっちゃうから気をつけないと」
「そうなんだ」

 一応授業で教えてもらったはずだけど、千晶はあまり覚えていないみたいだ。千晶は少しつまらなさそうな顔をしながら、じょうろを地面に置いた。

「水やらなくてもだめだし、水やりすぎてもだめだし、難しいんだ」
「そういうもんなんだよ。だからね」

 微かに風が吹いた。生ぬるくて、でも少し火照った体には気持ちがいい。蕾が咲き始めたばかりの朝顔はふるっと揺れた。

「大切にしてあげてね」


2
「進路希望調査の紙、貰った?」
「うん。貰ったよ」

 夏休みが終わって、早くも2年目の文化祭が目前に迫ってきた。文化祭の準備が優先なようで、陸上部の練習も今日は無く、千晶と俺は一緒に帰っていた。

「こんな時期に決められないよなー。しかも文化祭あるのに」
「そうだよね。もうちょっと後にしてほしいかも」
「だよな。旭はいろいろ考えてる?国公立とか私立とか」
「ううん。全然決めてない」
「うーん、俺も」

 薄ぼんやりとしかやりたい事が決まっていない。だって、まだ十数年しか生きていないのに、高校に入ってからは1年半しか経っていないのに、将来の大きな事を考えるなんて難しい話だった。焦らないといけないという気持ちはあるものの、この時点で意思を固めている人の方が少なかったりするので、まだ受験生になるという覚悟が出来ていない。

 そういえば、千晶はどうなんだろう。

「千晶は……進学するの?」
「あー、うん。母さんにも言われてるし」
「ああ、そういえばそう言ってたね。部活も2年までって」
「そうそう。俺の部活もあと半年なんだな」

 千晶くらい才能がある人が最後まで部活を続けられないのは勿体無いとは思うが、家との約束だから仕方ない。
 ともすると、千晶は普通に部活を続ける人よりも早い段階で受験勉強に手を付けるのだろう。千晶は飲み込みが早いので、ちゃんと勉強すればきっといい大学に入れると思う。

 本当は、千晶と一緒の大学に行きたいな、と思う。進路の話をする度に、一緒の大学に行きたいと言いたくなる。
 けど、未だに湊くんと小野田くんに先日言われた事が胸に突っかかってしまっていた。

『ねぇ、二人は本当に仲直りしたって言えるの?』

『千晶くんって、お前の事どう思ってるんだろうねぇ』

 あまり考えてはいけないと思いつつも、最近は千晶と関わっていると嫌でも思い出してしまう。
 千晶はいつも俺に優しくて親切にしてくれるのに、こんな事思ってはいけないのに。千晶に踏み込んだ事を聞くのは、怖いと感じてしまう。

 怖い?なんで?自分でもよく分からない。
 せっかく千晶と仲直りできたのに、と思うけど、そもそも湊くんが言っていたように、もしかしたら俺達は"本当の意味で"仲直り出来ていないのかもしれない。
 ただ曖昧な関係の中で、荒波を立てずにいろんな事を無視してきた結果が、今の状態だった。

「あの、千晶は、その」

 俺と一緒の大学行くのとか、興味無いかな。
 なんて言えるはずもなく、俺は口をまごつかせた。
 千晶は俺の顔をみてその言葉の続きを待っていた。千晶は絶対、口下手な俺の言葉をこうやって待ってくれる。でも、結局口から出た言葉は全く関係のないものだった。

「文化祭……」

 千晶はああ、と納得して笑った。

「ばっちり空けてる。今年はちゃんと一緒にまわろ」

 本当は言いたい事は違うんだけど。まあでも、いいや。


3
 今年は俺は文化祭の実行委員にはならなかった。何故かというと、役員決めの時に瀬戸くんがいの一番に手を上げて立候補し、まあ瀬戸くんがやるのなら俺もやろうかな、と思ったらすぐさま瀬戸くんが「林もやります!」と宣言したからだ。林くんは瀬戸くんの顔を見ながら「聞いていないんだが!?」という表情をしていたが、林くんの文句を挟む隙も無くとんとん拍子に事が進んでいったので、結局実行委員は瀬戸くんと林くんの2人になった。
 後になんであんな事をしたのか瀬戸くんに聞けば、

「今年はちゃんと大月くんと文化祭まわるんだよね!実行委員は俺達に任せて!」

 と、なんの根拠も無しにそう答えていた。それはそうなんだけど……。

 何故瀬戸くんは俺と千晶の事になるとこんなにも躍起になるのか分からない。そして、それを聞いて林くんも瀬戸くんとお互い顔を見合わせて妙に納得していた。訳が分からない。

 クラスの出し物は無難に焼きそばを作って売る事になった。去年変な役をやるよりマシ、と思い文化祭実行委員になった俺としてはありがたかった。
 屋台なので、準備期間に準備するものもそれほどなかったので、俺は瀬戸くんと林くんと一緒になって表に出す看板に色を塗っていた。

「黒川くん、絵の具ついてる」
「え、どこ?」
「右頬のとこ」

 林くんに指摘され、俺は手で右頬をぬぐった。

「いや……、その手でやったら駄目じゃない?」
「え?……あ」
「あははは!!黒川くん民族みたいになってる!」

 どうやら拭った手は絵の具が乾いていないついていたらしく、更に右頬を汚してしまった。
 恥ずかしくなって手洗い場に駆け込もうとしたが、丁度なタイミングで千晶がやって来てしまった。

「ふはははっ!なにそれ、写真映え?」
「違う!もう、なんでこのタイミングで来るの」
「大月くんじゃん!今休憩中?」
「うん、そうそう。みんなのクラスの様子見てる」

 瀬戸くんと林くんが千晶と歓談し始めた。千晶とこの二人は、いつのまにかちゃっかり仲良くなったらしい。
 俺はその様子を眺めながら、先程汚したばかりの頬を拭おうとして、ああ危ないと手を下ろした。

「俺、顔洗ってくる」
「うん、行ってらっしゃーい」
「俺も一緒に行くわ」

 何故か千晶も一緒に付いてくるそうなので、なんでと思い後ろを振り返ると千晶の肩越しに2人がニヤニヤと笑いながらこちらを見ていた。

「なんであの2人あんなに笑ってるの?そんなに俺変?」
「……いやー、はは。まあ、いいじゃん」

 いいじゃんとは?と思いつつも、俺達は足を進めた。
 手洗い場に着き、蛇口を捻って急いで汚れを落とした。

「取れてる?」
「うん。跡残らなくてよかったな」

 俺は色を塗る単純作業は好きだけど、どうやら器用に塗る事は出来ないみたいだ。千晶の方を見ると、手には汚れ一つ無かったので、何を準備していたのか気になった。そういえば、千晶のクラスが何をするか知らない。

「千晶のクラスって何やるの?」
「え、知らない?」
「うん。そういう話題無かったし」
「あ〜……」

 と、千晶は非常に顔を歪ませて言い淀んだ。

「執事喫茶……」
「え……」
「はぁ、だから言いたくなかったんだけど」

 千晶はまるで嫌なものを思い出したかのようだった。もしかして乗り気じゃないのだろうか。でも他人事な俺は大賛成だった。

「え、え!やろう、やろうよ!!」
「いや、やるんだよ……もう決定してんだよ……。はあ……」

 そう言って、千晶は肩を落とした。

「なんで?嫌なの?」
「嫌だろ!恥ずかしい!」

 他のクラスだからこう言えるが、確かに自分のクラスがやるとなると俺は絶対嫌だ。きっと学校行事をちゃんと楽しむタイプの人が多いクラスだからそうなったのだろう。
 千晶は嫌だと項垂れていたが、俺は珍しく乗り気だった。

「お、俺は見たい!千晶、絶対かっこいいよ!やろうよ!」

 と、千晶を励ました。だって普通に凄くかっこいい人が、普段はしないような格好をするのだ。見たくない訳がない。俺は興奮気味に千晶を説得した。
 すると、千晶の顔がみるみると赤く染まっていった。

「……ウン」

 まあ、俺がこんな事言っても言わなくても千晶は無理矢理にでも正装させられるのだろう。きっとクラスの名物になるに違いないから。
 そうなると、恐らく千晶が話題になって出ずっぱりになりそうだ。

「あの、千晶が人気で忙しくなっちゃったら、俺じゃなくてそっちの方優先していいからね」

 よく考えれば、そんな千晶の時間を俺なんかが奪うなんて烏滸がましい事な気がする。千晶は、俺と文化祭をまわって大丈夫なのだろうか。
 すると千晶がおもむろに水で濡れた俺の頬を指で抓ってきた。

「いひゃいっ!」
「何言ってんの!1年前からの約束だろ!旭が何よりも優先に決まってんじゃん」

 千晶はちょっと怒っていた。なんでそこまで俺との約束に拘ってくれるのかが分からない。

「う、うん」
「今年は逃げたら駄目だからな」

 ……去年は、逃げられたと思ったのだろうか。
 そうだとすると、流石に今年は千晶を裏切る事はできない。
 俺は千晶の顔を見てぶんぶんと首を立てに振った。千晶は俺を見て困ったように笑った。


4
 文化祭当日になった。天気は快晴で、学校の敷地内は賑わいを見せていた。
 俺は屋台の後ろの方で材料を切っていた。お昼時なのもあり、すぐに材料が無くなっていく。一息ついたところで、実行委員の仕事で離れていた瀬戸くんと林くんが様子を見に来てくれた。

「大盛況じゃん!頑張ってるね」
「飲み物はこまめに飲んどけよ」

 俺は2人のために取っておいた焼きそばを渡した。

「ありがとう。はい、2人のぶんだよ」
「ありがとー!黒川くんはお昼ご飯食べた?」
「もうすぐ自由時間貰えるから、その時食べるよ」
「いいなあ。俺達まだ見回りしなきゃいけないんだよ」
「大変だね。ちゃんと休憩してね」

 去年実行委員だった身としては、その忙しさは手に取るように分かるが、俺は応援するしかなかった。
 瀬戸くんは態とらしく俺に肩をまわして嘆いていた。

「ごめんね〜。俺達実行委員の仕事あるから黒川くん一人にさせちゃうなあ。不安だな……あっ、でも今年は大月くんと一緒にまわるんだったね!忘れてた!よかったねえ」

 と、いやらしく笑った。林くんはそれを見てやれやれと苦笑いした。瀬戸くんは本当に俺を揶揄うのが好きなようだ。

「ねぇ!もう、声大きいから……!」

 千晶と俺が一緒に過ごすのを周りに知られたら、いろいろ探りを入れられるに決まっている。瀬戸くんはそれすらも面白がっているようだが。
 林くんに目を向けると、彼も彼で何かを考えているようだった。そんな林くんは俺の肩に手を置いて、一言呟いた。

「かっこよかったぞ、大月くん」

 わあ、それは楽しみだねぇ!と、揶揄いながら瀬戸くんも便乗してきた。俺はいたたまれなくなり、2人に少しばかりの悪態をつきながらその場を後にした。

 千晶のクラスの出し物は教室で行われていた。想像したとおり、教室の周りには人がたくさん集まっていて、多分どのクラスよりも覇権を握っている。俺はその中に入っていく勇気などとても沸かず、少し遠くから教室の中を見ていた。
 千晶と同じ部活の友達や、小野田くんの姿が見えた。とても様になっている。きっとこういう人達が盛り上げているから、大盛況なのだろう。
 離れたところでじっと待っていると、女子の声が更に大きく聞こえてきた。

「え!今から注文しようと思ったのに!」
「いや、俺今から自由時間だし!」
「え〜。じゃあそのまま私達とまわろうよ!」

 体がぴくっと反応した。千晶の声が聞こえた。
 わらわらと動く群衆の中から、まさに話題の人物が出てきた。

 ……めちゃくちゃかっこいい。服はもちろん、髪型までちゃんとセットされていた。こんな事を言ってはなんだが、本当に、誰よりも抜きん出てかっこいい。俺はこんな男と幼馴染なんだ。と、俺は一人だけ異彩を放っている千晶をぼーっと眺めていた。
 千晶はそんな俺を見つけはっとして、そして、人の塊から抜け出し俺の手を取って走り出した。

「ごめん!また後で!!」
「ちょっ……」

 俺は颯爽と走る千晶に連れられて、去年俺達が腰を下ろした用務員室の勝手口の所まで来ていた。


5
「はあ、疲れたー……」
「た、大変だったね」

 かなり俺に配慮して走ってくれたのだろうが、流石に陸上部の脚力に対して帰宅部の俺の体力では無理があった。俺ははぁ、と呼吸を整えた。

「あっ、ごめん!」

 千晶がずっと繋いだままの俺の手を勢い良く離した。
 俺はそのまま千晶をじっと眺めた。あまりのかっこよさに、一度見たら目を反らせなかった。

「変……?そんなに見られると恥ずかしいな……」

 千晶は居心地悪そうに呟いた。

「ご、ごめん!あの、変じゃない!めっちゃかっこいい、想像以上だよ!えっと、あの、執事なのに、王子様みたいで、本当にかっこいい!……あ」

 こんな事を口走るつもりはなかったのに!思いの外メルヘンな感想を言ってしまい、恥ずかしくなってしまった。そして、それを聞いて目をぱちくりさせた千晶は顔を真っ赤にさせた。俺もじわじわと顔に熱が溜まっていくのを感じた。お互い赤面しながら顔を見合わせた。

「あ、ありがと。めちゃくちゃ恥ずかしかったけど、着た甲斐あったかもな」

 そう言って、千晶は勝手口の前に腰を下ろした。手招きをされて、俺も隣に座った。

 暫く静寂が続いた。
 2人でいる時の無言、慣れたはずなのに。千晶がこんな格好をしているからか、それとも俺の千晶に対する意識が変に変わってしまったからなのか、少し気まずいと感じてしまう。また昔にみたいに逆戻りしてしまった。
 一生懸命俺が話題を考えていると、千晶が先に口を開いた。

「去年、ここで仲直りしたよな」

 俺は息を呑んだ。
 どくどく音を立ててと鼓動が早くなったような気がした。

「う、うん」

 今一番触れてほしくないような、でも一番話したいような話題だった。膝の上で結んだ手のひらからじわっと汗が吹き出すのを感じた。

「だからさ、去年は無理だった夏祭りも、文化祭も、今年は旭と一緒にいれてすげー嬉しい」
「……」
「……旭は、いや?」
「!う、ううん!俺も、嬉しい……」

 千晶は満足そうに笑った。
 俺は、ぎゅっと手に力を込めた。

 千晶は、本当は中学の時俺の事どう思ってたの?あの3年間の事って、無かった事になってるの?__今は、俺の事、どう思ってるの?

 なんて、聞けるはずがなかった。
 俺は取り留めもない事を考えては捨て、せっかくの高揚とした雰囲気も既に忘れてしまっていた。
 千晶はそんな俺を見て、目ざとく質問してきた。

「……旭、最近ちょっと変?」
「え?」
「うん、やっぱなんかおかしい。もしかして、小野田になんか言われたとか?」

 俺は必死に否定したが、あまりにも図星でしどろもどろに答えてしまった。

「え、や、ちがう……」
「……絶対そうだろ」

 千晶ははあ、とため息を溢した。

「あいつの言う事なんか、全部気にしなくていいからな」
「う……うん」
「なんかあったらすぐ言えよ」

 そう言って、千晶はよく俺にするように優しく頭を撫でてきた。
 そのままゆっくりと手が降りてきて、俺の髪の毛を掬って耳にかけた。千晶の指が触れた耳が熱をもった。こめかみから、たらりと汗が滴る。まるで永遠みたいな時間だった。

 千晶は薄く笑っていた。千晶には珍しい表情だ。何か言いたげな瞳が俺を見据える。でも、千晶の口は動かなかった。

 俺も、千晶も、きっと本当に言いたい事はずっと言えないままなんだ。
 風が俺達の間を吹き抜け、それをきっかけに千晶が静寂を破った。

「……さ、せっかくだし店まわろうよ。6組の店見た?俺結構気になってたんだよな」

 千晶は立ち上がり、ぐっと伸びをした。
 俺はそんな千晶の裾を弱い力で引っ張った。

「あの、俺、もうちょっとここにいたい」

 千晶は俺を見下ろして目を見開いていた。無言が怖くなり、俺は裾を摘んだ指に力を込めた。すると、千晶がそのまま腰を下ろした。

「……うん、いいよ」

 その後は、会話らしい会話なんてなかった。
 聞きたい事、何も聞けなかった。
 でも、俺はこの穏やかな時間を無性に大事にしたくなったんだ。


6
 2年目の文化祭が終わった。直後にあったテスト期間も終わり、漸く花壇に手を付けられると浮かれながら花壇周りの雑草を抜いていた。花壇は更地になっており、丁度植え替えのタイミングのようだった。俺が作業を進めていると、用務員室から用務員の佐藤さんが出てきた。

「その花壇、何も植えていないでしょう。新しい種を植えようと思うのですが、何がいいと思いますか?」

 佐藤さんはカタログを取り出して、俺に見せてきた。どれも捨てがたく、うんうんと唸っていると、佐藤さんは俺にある事を提案してくれた。

「自分で選んで、自分だけで育ててみますか?」
「え!」
「黒川くん、いつも頑張ってるから。黒川くんなら、安心して任せられますから」
「いいんですか……?え、どうしよう、どうしよう」

 植物は家でもちょくちょく育てているが、これだけ大きな面積を自分一人の力で育てた事はなかったから、とても嬉しかった。俺は、カタログとにらめっこしてどれにしようか悩んでいた。そして、ぺらぺらと捲っているとある花が目にとまった。

「カレンデュラ……」
「おっ、いいですねえ。和名だとキンセンカ、ですか」
「俺、昔家で育ててたんですよ。中学の時、写真部の作品展でこの花を作品に出したんです」
「そうなんですね。思い出の花なんですね」

 お母さんと一緒にいろんな花を育てていたけど、俺はキンセンカが一等好きだった。開花すると、色鮮やかな花びらがたくさん咲いて、本当にきれいな花だ。

「キンセンカ、育てたいです」

 佐藤さんは笑って俺を激励してくれた。

 俺の、一番の挑戦かもしれない。
 夏休みに入ったばかりの時に、千晶の陸上の試合を見に行って、俺も何か新しい事がしたいと思っていた所だった。丁度いいかもしれない。
 俺は作業に早く着手出来るのを心待ちにした。


7
 数日後、キンセンカの種が届いた。俺は届いたその日にすぐ種を植えた。もう気分はウキウキだった。佐藤さんは最初だけ顔を出し、俺が夢中で作業している様子を見てニコニコしながら帰って行った。
 黙々と種まきをしていると、部活の休憩中に千晶が様子を見に来てくれた。

「新しいやつ?」
「うん、キンセンカだよ」
「……あ、あの旭が撮った写真の!」
「はは……よく覚えてるね」

 千晶は俺の横にしゃがんで種をまく俺の手を眺めた。
 こうして部活の合間に必ず俺が植物をいじっている様子を見に来てくれるが、あと数カ月で千晶は部活を引退してしまう。そうなると、この時間も無くなってしまうのだろう。

「……俺がこれ植えたいって決めたんだ。初めて、自分一人でお世話する」
「え、そうなの!?すげー!」

 千晶は目をキラキラと輝かせて俺を見た。俺以上に喜んでいて、歯がゆくなる。

「俺もやりたい」
「え……手汚れちゃうよ」
「いいよ。洗えばいいし」

 等間隔に空けた穴の中に、千晶が一緒にキンセンカの種をまいてくれた。

「いっこ?」
「えっと、1つの穴に種は2〜3個くらいで」
「へー。1個ずつじゃないんだ」

 とても楽しそうだった。俺の好きな事に興味を持って取り組んでくれる。あまり経験が無い事なので、とても嬉しかった。

「俺、中3の時に旭が撮ったこの花の写真見てから、ずっと本物見たいと思ってた」

 あの花は、中1の今くらいの時期に種をまいたものだった。いろんな事に悲しんで、諦めて、学校に行く事が嫌になってしまったから、せめて家に帰ったら楽しい事が待ってるようにと思いながら育てていた花だ。綺麗に咲いた花は俺や家族以外の目にとまることなく枯れてしまったと思っていたけど、まさか千晶の記憶にずっと残っているなんて思いもしなかった。

「……本物、見れるね。ちゃんと咲いたら、一番に千晶に見てほしいな」
「!」
「頑張るから、千晶も部活頑張ってね」
「……うん!」

 千晶が部活を引退してしまったら、きっとこうやって話す事も少なくなってしまうだろう。のんきに過ごしている間に、俺達はすぐ受験生になってしまう。だから、俺も最後を感じながら頑張らないといけない。

 数日が経ち、花壇にも芽が出始めた。綺麗に咲かせるには、これから間引きや液肥を与えたりして管理していかなければいけない。俺は花壇に水をやりながら、これからの事を考えていた。

「何してんの?」

 心臓が止まるかと思った。
 背後から声が聞こえたのだ。その声は、俺が会いたくなくて夏休み以降避け続けていた人のものだった。
 俺は確信をしながらも、頼むから違う人であってくれと願いながら後ろを振り返った。

「小野田くん……」

 嫌な予感が当たってしまった。
 小野田くんは俺と花壇を交互にジロジロと見て、口元をニヤつかせた。

「なに、お花育ててんの?」

 千晶や湊くんは俺の趣味を肯定してくれたが、きっと小野田くんは俺の事を良く思っていないので、この様子を揶揄ってくるのだろう。俺は小さくうん、と呟いてそのまま固まってしまった。

「へぇ……」

 小野田くんは何を考えているか分からない真っ黒な瞳で俺を見た。

「いいよね。そうやってお気楽に夢中になれるものがあるって」
「へ……」

 言葉はそのまま地に沈んで行ってしまった。皮肉なのかもしれない。それでも、俺を揶揄うにはあまりにも重さと冷たさを感じた。小野田くんはそのまま視線を下げ、小さく芽を出しているキンセンカを見た。

「……ヨワヨワくんってどうせ頭いいし、家族との悩みとかも無いんでしょ」
「……」
「千晶くんとも仲いいしさ」

 コツン、と花壇のレンガを軽く足で叩いた。

「いいな。全部持ってるよ、お前は」

 そう言って、小野田くんは立ち去って行った。
 一人取り残された俺は、その言葉の意味を噛み締めていた。


8
「旭って、なんで植物好きなの?」

 朝顔の水やりは朝と夕方に2回と決めているので、夕方にもう一度水をやりに俺の家に集まった。そこで、千晶からそんな事を聞かれて俺は長らく考え込んでしまった。

「考えた事なかった……」

 気付いたら好きだった。もっと小さい頃からお母さんと花のお世話をしていたからなのはあるのだろうけれど、何故好きかと言われるとうまく言葉にできなかった。

「じゃあ、いいところは?」
「いいところかあ」

 俺は初めてお母さんと一緒に育てた花を思い出した。

「お花って、水やりとか光に当てるのとかは大事なんだけど、きれいに咲きますようにって思ったら、ほんとにきれいに咲くんだよ」

 お母さんと育てた花は、毎日のようにお願い事をした。満開に咲いたその花は、幼い頃の俺にとってはなによりもきれいに写った。

「……俺、千晶以外の前だとうまく話せないから、いっぱいいっぱい考えても俺が本当に言いたい事、言えないんだ。でも、お花は分かってくれるから……だから、好きかな」

 子どもだましかもしれないが、実際大切に思って育てた花は本当にきれいに育つ。俺は、昔から植物のそういうところが好きなのかもしれない。
 朝顔に水をやっていた千晶は俺の言葉を聞いて、いつものおひさまみたいな顔で笑った。

「言いたい事言えないのは、旭が優しいから、いっぱい心の中で言葉を考えてるからだよ。優しいから、多分花も分かるんだよな」

 と、まるで朝顔に問いかけるように言った。俺はそれがおかしくて少し笑った。

「でも、俺は旭の思ってる事全部知りたいし、ちゃんと聞きたい。俺には何でも話してよ。俺達、おさななじみだし」
「おさななじみ?」
「うん。お母さんが言ってた。俺達みたいに昔から仲いいのって、おさななじみって言うんだよ」
「そうなんだ」

 おさななじみ。ちょっと、特別な言葉みたいだ。俺はなんだか嬉しくなって千晶の手を取り、手を繋いだ。

「千晶なら、俺なんでも言えるよ。千晶も、俺になんでも言ってほしいな」
「うん、分かった。約束な!」

 俺の手に、ぎゅっと力が加わった。

「きれいに咲きますように!」

 千晶はまた朝顔に向かって優しい言葉をかけた。
 蔦に滴る雫がぽたりと土に吸い込まれていった。

0コメント

  • 1000 / 1000