1
慶(けい)の弟、風賀(ふうが)は「弟子を連れてきた」と言って帰ってきた。
平日の放課後。慶はあまりの睡魔に、夜ご飯まで仮眠しようとリビングのソファーに寝そべっていた時だった。
今弟子って言ったか。小三にして弟子。またお友達のことをそんなふうに呼んで。風賀は周りの人のことを駒だと思ってる節があるからな、と慶は半目で扉の方を見た。
「お友達でしょ。そんな呼び方しちゃいけないよ……」
ソファの肘掛けに頭を乗せたまま、可能な限り首を後方に逸らす。慶は反転した視線の先にとんでもないものを見た気がした。数秒固まって瞬きを数回繰り返し、コンタクトがずれていないことを確認する。慌てて上体を起こし、次はしっかりと扉の方に体を向けた。
風賀が扉を開けてそこに立っている。それは問題ないんだけど、その奥。風賀の後ろに立っていたその人は、感覚で言うと風賀の倍くらいの背丈があった。
「……文口(ふみくち)?」
「ひ、平岡くん……?」
慶は心底驚いたけど、何故か向こうの彼も驚いていた。
「え、マブ?」
見つめ合う二人を見て、風賀だけが能天気に呟く。慶は場違いにも頭の隅でどこでそんな言葉覚えてきたんだ、と思った。しかも二人は全然マブでもなかった。
平岡寿太郎(じゅたろう)。高校一年生。慶と同い年だ。
もっと言うと、平岡寿太郎は慶と同じ学校の、同じクラスの、更に言うと慶の前の席にいる、背中の大きな一匹狼だった。
2
弟子、僕の部屋は二階だよ。と、風賀が寿太郎を自室に案内して軽く一時間が経った。あの平岡寿太郎を弟子呼ばわり。慶は勿論眠れなかった。気が動転して、柄にもなく宿題を広げてみたりした。頭が良くないのでなにも解けなかった。
何故平岡くんが我が家に。何故風賀と知り合いに。何故弟子に。弟子ってなんだ?
慶は宿題を中断して、一旦弟子の意味を調べてみた。『先生から教えを受ける人。門人。門弟。また、職人の親方や技芸の師匠について修業する者』らしい。
教えとは。果たして風賀から教わることなんてあるのだろうか。あのみんなから恐れられている平岡寿太郎が。
考えていると、階段を降りる音が廊下から聞こえた。暫くして、「じゃあまたね!」と、元気な風賀の声が。玄関の扉が閉まり、今度は風賀がリビングに入ってくる。
「にいちゃん、なにしてんの」
「……すごい眉毛の犬がいる」
「え、どこ」
慶は窓ガラスに張り付いていた。言わずもがな、外に出た寿太郎を確認するためだった。風賀は慶の言うことを真に受けて同じように窓ガラスに張り付いていみたけど、案の定すごい眉毛の犬はいなかった。
「いないじゃん」
「平岡くんをどうやって連れてきたの?」
「マブ?」
「俺はマブじゃない」
慶と寿太郎は同じクラス、前後の席同士であっても、友達ではなかった。友達なんてとんでもない。怖くて喋りかけもできない。慶や他のクラスメイトはみんな寿太郎のことを恐れていた。
「僕は寿太郎とマブになったよ」
「じゅっ……呼び捨て!? 殺されるよ!?」
「なんで? 寿太郎は僕の弟子だし、弟子は師匠を殺さないよ」
「その弟子ってなんなの?」
「んーとね……あ、秘密にしろって」
「え?」
「秘密ー」
そう言って、風賀は鼻歌を歌いながらまた自室に戻って行ってしまった。あの鼻歌はなんだっけ。たしか、日曜朝にやってる戦う変身ヒロイン系アニメのオープニング曲だ。風賀が毎週見るので慶も覚えてしまった。
一人になったリビングで、慶は平岡寿太郎のことを考えていた。慶はただ雰囲気だけで寿太郎のことを怖がっているわけではなかった。とある理由がある。
寿太郎には、「ぬいぐるみ破り」という肩書きがあった。他人が持っていたぬいぐるみを突然破いて捨てたという噂からついた名前。そういう過去があるから、慶にとって寿太郎は恐怖の対象だったし、慶にとってぬいぐるみは大切なものだった。
3
右利きで、横書きにノートを取っているのに、なんで俺の手の小指側の側面は黒く汚れるんだ。
慶がそれに気付いたのは、今の風賀と同じくらいの年齢の時だった。それだけじゃない。油性ペンを使えば必ず手のどこかを汚すし、クーピーを削るときは止めるタイミングが分からず、人の倍くらいのスピードで消費してしまった。マーカーはまっすぐ引けない、シャーペンの芯は替えるときにばら撒く、消しゴムは何故か途中で折れる。
「赤点回避」とカバー下に書いた消しゴムが今回も途中でぽっきりと割れ、慶は眉をひそめながら欠片をペンケースにしまった。
「はい、じゃあここテストに出すからしっかり復習するようにー」
数学教師がクラスメイトに伝えて授業は終わった。慶の頭にはなにも入ってこなかったけど、とりあえずノートには付箋を貼っておいた。恐らく数日経って見返すとき、なんの付箋だったか忘れているだろう。
この数学の授業で今日は最後だった。今日は九月四日。毎月四の付く日は近所の手芸屋さんがポイント二倍になる日だ。キリ悪くなぜか四。一応寄っておくかと慶は荷物をまとめて席を立った。
「オイ」
「ヒッ」
慶が一歩歩き出すと、前の席の男──寿太郎も席を立ち、そして慶の肩を掴んだ。慶の驚きが大げさなものだったので、クラス中の視線が二人に集中する。寿太郎はばつが悪くなり、ついてこい、と小声で言い、教室を出て行った。
(なにか、弟がとんだ粗相を……)
慶は怯えながら寿太郎に着いて行った。心中大騒ぎどころではなかった。
風賀が昨日なにかをしでかしたんだ。絶対。風賀は自己肯定の塊なあまり、他人に対してかなり失礼な態度をとるときがある。なにでお詫びをすればいいんだ。土下座で済めばまだ安いもんだ。お金……は、カスの経済力だから無理だ。ジュースを奢るくらいしかできない。暴力をふるわれたら……この防御耐性の全く無い体で大丈夫だろうか。鼻を殴れば戦意喪失するだろうか。それはサメと遭遇したときの対処法だった。
寿太郎は誰もいない玄関の片隅で歩みを止めた。慶は寿太郎が振り返って拳を握っているのが見えたら、咄嗟に鼻を狙おうと心構えをしていた。が、寿太郎は殴るどころか後ろを向いたまま意を決したかのように呟いた。
「なにも聞いてないか……師匠から……」
「し……」
師匠。先生から教えを受ける人。門人。門弟。また、職人の親方や技芸の師匠について修業する者。この男は、風賀のことを本気で師匠と呼んでいるのだろうか。
「師匠って、風賀のこと?」
寿太郎は慶に背中を向けたまま頷いた。昨日風賀が言った、「寿太郎は僕の弟子だし、弟子は師匠を殺さないよ」という言葉が蘇った。じゃあ師匠の兄も殺さないでいてくれるか。
「し、師匠が、俺について、なにか言ってなかったかって聞いてんだ」
慶は自分を疑い、寿太郎を凝視した。震えている……? あの一匹狼が?
「い、いや、特になにも言ってなかったよ。平岡くんが帰った後、すぐ自分の部屋に戻ってたし」
「その後は」
「ご飯のときは見てたテレビのことしか話してないし、食べ終わったらすぐお風呂入ってまた部屋に戻ってたよ」
「じゃあ、師匠は本当になにも話さなかったのか」
「う、うん」
寿太郎はそうか、と慶の方を振り返り、ほっとした表情を見せた。慶はいつも、口をまっすぐに閉じて眉間に皺を寄せる寿太郎の表情しか見たことがなかったから、こんな顔もするんだと驚いた。
「やっぱり、師匠は信頼できる。確信した」
「えぇ……そうかな……。気分で俺のプリン勝手に食べるよ」
年が離れているから許す気になれるけど、あれで年が近かったらちょっと嫌かもと慶は想像した。風賀は文口家の小さなお姫様のようだった。寿太郎は慶の話を聞いて、むず、と口を緩めた。これで精一杯笑っているらしい。
「仲がいいんだな」
「仲いいのかな」
「文口は、師匠のことどう思ってるんだ」
「? どうって?」
「その……。師匠は、一般的には、男の趣味とは違う」
「ああ」
その一言だけで慶は納得した。
文口風賀は正真正銘男だ。だけど、ランドセルは真っピンクだし、ハートが大きくプリントされているTシャツを着るし、女児向けデザインの靴を履く。好きなものはドールハウスで、嫌いなものは戦いごっこ。風賀はそんな自分の趣味を隠しもせず、今の今まで生きてきた。慶はそんな風賀の兄だ。
「別になんとも思ってないかな」
「……なんで」
「うーん……。深い意味なんてないよ。風賀の趣味は、風賀が俺の弟だってくらい当たり前のことだったから、それについて考えたこともなかった」
「それは、師匠が大きくなって大人になっても、なんとも思わないか」
「思わないよ」
あれ、俺ってもしかして弟に対してめちゃくちゃ興味がないのでは。そうとも捉えることができる。師匠のことをもっと考えろ! なんて怒られたらどうしよう、と慶は一瞬身構えた。
しかし、寿太郎は怒るどころか少し目を輝かせていた。慶は目を丸くする。この数分だけで、見たこともない寿太郎の表情をたくさん見た気がする。
「師匠があんなに立派なのは、文口がそういう感じだからか」
「立派……?」
立派とは。確かに年の割に口が回る子ではあるが、わがままさや空気の読めなさは年相応だ。この人は弟を過大評価しすぎでは、と慶は苦笑いを溢した。
「平岡くんはなんで俺の弟を師匠って呼んでるの? どうやって知り合ったの?」
肝心な問いを後回しにしていた。昨日風賀から秘密と言われたことだった。なんの考えもなしに本人に聞いてしまったけど、聞いてよかったのかな、と慶が寿太郎を見ると、寿太郎は凄みながらツカツカ! と慶に歩み寄ってきた。
「ヒィッ!」
「……こっ、これっをっ、くれたっ……」
寿太郎は鞄からとあるキーホルダーを取り出した。慶に見覚えのある物だった。
「あっ、きらガルのガチャガチャだ」
きらガルとは、日曜朝に放送される戦う変身ヒロイン系アニメ『きららガールズ』のことだ。先日慶は風賀に連れられて、ショッピングモールでこのきらガルのガチャガチャをしたばかりだった。ヒロイン達の変身アイテムのミニチュアで、なかなか精巧に作られている。寿太郎が手にしているキーホルダーは、被ったと風賀が嘆いていたものだった。慶はそれを思い出して顔を青くさせた。
「もしかして、あの子平岡くんにごみ処理みたいなことさせてた!?」
「違う!!」
「ヒィッ!」
「……し、師匠は、毎朝通学路ですれ違っていたから、存在は知っていた。昨日の放課後、初めて俺から喋りかけた」
「な、なんで?」
「……かっこよかったから」
「えぇ……?」
立派の次はかっこいいときた。慶は混乱した。寿太郎はなにやら喋りづらいことがあるようで、慶の顔を伺うように言葉を選んで話した。
「師匠が、近所の公園で、その……。揶揄われていた。多分、同級生の男から……着ていたTシャツのことで」
慶は頑張って昨日風賀が着ていたTシャツを思い出してみた。でも思い浮かばなかった。慶にとって風賀のTシャツは気に留める対象ですらなかった。
「そしたら師匠がその男に向かって、『お前の着てるその服は自分で選んで買ってもらったのか』『お母さんが選んで買ってくれたやつだろ』『僕は自分でこれがいいって選んで買って貰った』『服すら自分で選べない人に僕の服のことギャーギャー言われても、うるさいなーって思うだけだよ』……って」
「……風賀、そんなこと言ってたの?」
寿太郎は頷いた。慶は半分呆れたが、それと同時になんて強い子だと感心もした。同じ血が流れているとは思えない。自分が風賀の立場だったら、まず言い返せる気がしないから。
寿太郎はそのときのことを思い出して、目元を赤くした。
「師匠、本当にかっこよかった……。だから話しかけてみた。師匠なら、俺のことを分かってくれると思った」
「平岡くんのこと?」
「……おっ、俺、は……」
声を震わせて、寿太郎は手にしていたきらガルのキーホルダーに視線を落とした。あんなに大きな寿太郎がやけに小さく見える。慶はぽかんとしながら寿太郎を見上げた。
「俺、も、師匠と同じ、なんだ。……ピンクが好きだし、ハートの柄が好きだし、……かっ、可愛いものが、す、好きだ」
「え」
「……それを言ったら、師匠がこれをくれた。俺はきらガルを見たことないけど、憧れてたから、嬉しかった」
きらガルのキーホルダーは、寿太郎の手にはあまりに小さかった。それを、寿太郎は大事そうに両手で握りしめた。
「やっぱり、俺は変か」
寿太郎はちらっと慶を見た。不安が瞳に滲み出ていた。どれほどの覚悟を持って打ち明けたのか。慶は何度も首を横に振った。
「変じゃない。全然、変じゃないよ。風賀のことをなんとも思ってないみたいに、平岡くんのこともなんとも思ってないよ」
「!」
「……そっか。昨日風賀がやけに機嫌よかったのは、お友達ができたからだったんだ」
風賀は性格に難アリなため、友達という友達がいない。仲間が見つかって、それも師匠と慕うような人ができて、相当嬉しかったのだろう。慶は昨日の風賀の様子を思い出して一人で笑った。兄として、風賀に友達ができたことが嬉しかったのだ。
寿太郎はそんな慶を見て体が熱くなった。ただ単純に、凄く嬉しかった。否定せず、自分を認めてくれた。たった一人でも、自分に向けられた凝り固まった偏見が無くなった。それだけで一気に肩が軽くなった気がした。
「友達なんて恐れ多い。師匠は師匠だ」
「平岡くんは真面目だ」
「……寿太郎でいい」
「え」
「じゅ、寿太郎で、いいって、言った」
「……! あ、じゃあ、俺も慶でいいよ」
寿太郎は慶、と呟いて顔を赤くしたので、慶は思わず笑った。あんなに怖いと思っていた寿太郎が、もう全然怖くない。なんだか不思議な気分だった。
「寿太郎、寿太郎」
「な、なんだよ」
「呼んでみただけ!」
「……そういうの、鬱陶しいからやめろ……」
照れ隠しか、寿太郎は体の向きを変えて帰ってしまった。慶は寿太郎の耳が真っ赤だったのを見落とさなかった。
4
慶と寿太郎のクラスの担任は、今臨時で副担任が代わりを務めている。担任は先日交通事故に巻き込まれてしまい、脚の治療のため数週間入院しなければいけないからだ。だから、担任になにかお見舞いの品を用意しようと副担任が提案した。
「千羽鶴なんて実際貰ったら迷惑だろ」
「だから三十四羽鶴なんでしょうよ」
寄せ書きは似たりよったりなメッセージになるだろうし、高い物を買っても困るだろうし、じゃあ千羽鶴をプレゼントしようということになった。ただ、千羽は作る方も貰う方もマイナスでしかないので、一人一羽の三十四羽鶴になった。
副担任がかなり緩い人だったので、担当の国語の授業を早く切り上げて、クラスのみんなで鶴を折っていた。
「鶴ってさ、何故か定期的に作る機会あるのに毎回作り方忘れるよな」
それは本当にそう。どこかから聞こえてきた言葉に、慶は心の中で勝手に頷いた。小学生の頃も、折り紙やあやとりは一つも習得できなかった。勿論鶴も折れない。前の席の寿太郎は腕を動かしているのが見えた。もしかしたら寿太郎は自分で鶴を折れる稀有な存在なのかもしれない。
寿太郎が慶に自分の趣味を打ち明けてからまだ一日しか経っていない。友達になったとはいえ、朝挨拶をしたり休み時間に会話をするような発展は遂げていなかった。もしかして昨日のアレは夢だったのだろうか。少し信じ難い気もする。寿太郎、俺に折り方教えてくれないかなと、慶はつい体を伸ばした。
「じゅ──」
「文口、鶴折れないだろ?」
「あ、うん」
近くの席の男子生徒が慶に声をかけた。クラスの中心的な人物で、ことあるごとに慶の反応や作品を伺う男だった。
「どこまでできる?」
「あの、一番最初の、四角に折るとこだけ」
「一番最初は三角に折るんだよ」
「あ、そうなの」
「フフッ……」
その男子生徒は慶の机にやって来て、折り方を甲斐甲斐しく教えた。ありがとう、と言う暇もなくレクチャーが始まり、なんとか男子生徒の真似をしてみた。が、慶の特徴がそれに表れる。
「ふはっ……ハハハ! お前やっぱ流石だな〜」
男子生徒は堪えきれず笑った。慶の作った折り鶴が、あまりにも下手くそだったから。
「鶴って難しいんだ」
「いや初級だよ!」
慶自身もこうなるだろうなとは予想していた。
慶は生まれてから今まで、ずっとずっと手先が不器用だった。ただの不器用ではない。ちょっとおかしいくらいに不器用だった。折り紙のように丁寧に角を合わせれば綺麗に作れるようなものでも、何故かとんでもない作品になってしまう。折り紙だけではない。自分が手がける作品全てが凄まじい出来になってしまうのだ。
慶は、ドがつくほどの不器用だった。
「勉強も苦手だし、鶴も折れないし、何ならできるんだよ!」
「えー、俺なにができるんだろ」
慶は笑った。男子生徒の笑い声につられて、他の生徒も慶の折り鶴を覗きに来た。そしてまたみんなが笑う。慶は結局折り直さず、そのままの鶴を提出した。
寿太郎は慶の方を見向きもしなかったが、その広い背中でじっと感じ取っていた。
5
その日の放課後、風賀がまた「弟子を連れてきた」と言って帰ってきた。弟子とは、勿論寿太郎のことだった。一旦家に帰ったにしては装備が学校にいたときと変わらなさすぎるので、どうせ直で俺の家に来るんなら俺と一緒に帰ればいいのに、と慶は思ったけど、それはわざわざ言わなかった。寿太郎の中では慶、小なり風賀なんだろう、と自分を納得させた。
昨日少しは仲良くなれたと思ったのに、文口家に入ってきた寿太郎は借りてきた猫のようで、慶に「おじゃまします……」と小さく伝え、風賀と一緒に二階に上がって行った。寿太郎はだいぶ恥ずかしがりやなようだ。
「風賀ー、ジュースいるー?」
階下から慶は声を張った。風賀の部屋からいるー! と元気な声が返ってきた。
慶は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、コップを二つ用意してそれに注いだ。風賀が友達を家に招くことなんて滅多にないから、お節介にもいろいろしてあげたくなる。しかも相手は自分の同級生だ。おもてなしをしてあげないと。
トレーにコップとお菓子を置いて風賀に届けようとすると、丁度のタイミングで風賀がリビングに入ってきた。
「ん? お菓子選ぶ?」
「んーん。にいちゃんも一緒に遊ぼうよ」
「え、俺邪魔じゃない?」
「今日はにいちゃんとも遊びたい気分だから。寿太郎もいいって」
「あ、そうなの」
なんだかんだ慶にとって可愛い弟だ。もう一つコップにオレンジジュースを注いで、慶は風賀と一緒に二階に上がった。
風賀の部屋を開けると、寿太郎はちらっとこちらを見た。寿太郎の体の先には、きらガルのアニメを流したテレビがある。風賀は文口家の小さなお姫様なので、自室にサブスク対応のテレビが置いてあるのだ。
「寿太郎、にいちゃんを連れてきたよ」
「どうもー……」
ぺこりと慶が会釈をすると、寿太郎もぺこりと返した。慶は真ん中にトレーを置いて、風賀に指示されるまま寿太郎の横に座った。寿太郎は慶のことは気にせず、きらガルに集中していた。
「にいちゃん、釣り○ピしよ」
「三人で遊ぶんじゃないの?」
「寿太郎にきらガル見せてあげようよ」
なるほど。風賀は弟子という存在に案外優しいところがあるみたいだ。風賀はゲーム機を持ち出して釣りのゲームを起動した。女の子らしいものが好きな割に、釣りが好きらしい。ちなみに風賀にゲーム一緒にしよ、と言われても文口家にはゲーム機とコントローラーが一台しかないので、大抵は風賀がプレイしているところを慶が眺める図になる。プレイ権は一切譲渡されない。風賀はこうしてのびのびと甘やかされて成長している。
「この前ねー、図工で迷路作ったんだー」
「ああ、なんか空き箱たくさん持って行ってたね」
「僕のが一番うまかったよ」
「誰評価?」
「僕」
「おー。それはそれは」
「見る?」
「うん、見たい」
見たくないと言っても見せてくるんだろう。慶はいつものごとく兄らしい反応をした。風賀はやり始めたばかりのゲームを秒で放棄して、慌ただしく一階に降りて行った。そういえば風賀が帰ってきたとき、大きな箱を抱えていた。また変なもの拾ってきて、とそのときは思っていたが、もしかしたらアレが図工で作ったものなのかもしれない。慶は少しばかり反省した。
一人でずっと喋っていた風賀がいなくなった途端、部屋に流れるのはきらガルのアニメの音だけになった。寿太郎は慶の横で、クッションを抱えながらじっと見ていた。こんな子ども部屋に、大きな男が背を丸めて女児向けアニメを真剣に見ている。慶は笑ってしまった。寿太郎はそんな慶を横目で眺めた。思うところがあるようで、抱えたクッションを握ったり離したりしていた。
「……お前、あんなこと言われて嫌じゃないのか」
まさか話しかけられるとは思わず、慶は肩をビクつかせた。口に含んだばかりのポテトチップスをゆっくりと咀嚼し、寿太郎の方に顔を向けた。
「どれだろう」
「……」
「いや、ごめん、分かってるよ」
寿太郎が言ってるのは、鶴を折ったときのことだろう。思い当たる節はあるものの、慶にとっては散々言われてきたことであり日常の断片なので、具体的に言われた言葉は思い出せなかった。
「事実だしなぁ」
慶は自分がとんでもなく不器用なのを自覚しているし、「そういうもの」だと受け入れている。誰かに揶揄われて当然だと思っている。寿太郎はそれにいい思いをしていないのだろう。いつものように顔を凄めた。
「怒っていい。正当な理由がある」
「怒らないよ。コラーッて思わないし」
「調子に乗らせたら駄目だ。怒ったほうがいい」
「えー、怒るってどうやって」
「……………………コラーッて……」
寿太郎はほんのり頬を赤くして片方の拳を控えめに振り上げた。寿太郎はこう見えて喧嘩慣れしていない。寿太郎も怒り方が分からなかった。慶は意表を突かれ、声を上げて笑った。
「え、寿太郎可愛いね」
「かっ、かわいくない!」
「そんなこと言ってー、嬉しいくせに」
ちょい、と慶が肘で寿太郎を突くと、寿太郎は顔を赤くさせてムキになってクッションを慶の方に軽く投げた。知れば知るほど、寿太郎は慶の思っていたような人物ではなかったと知らされる。寿太郎にならなんでも話せるかもしれないと思った。
「事実だし受け入れてるけど、ちょっと見返したいとは思ってるよ。俺、こんなんだけど本当はぬいぐるみを作って売る人になりたいんだ」
「ぬいぐるみ……」
慶は寿太郎に待ってて、と行って自室からとあるぬいぐるみを持ち出してきた。かなりくたびれている狼だった。
「この子、俺と同い年の十六歳。俺が産まれた月に買って貰ったんだ」
「年季が違うな」
「言葉選んでくれてありがとう」
一般的に見れば薄汚れていてボロボロと評価できる。寿太郎は配慮できる男だった。
「俺が生まれたての頃はこのぬいぐるみとほとんど同じくらいの大きさだったんだよ。お母さんが『体の成長が良く分かるように』って理由で買ったらしいんだけど、ずっと一緒だから離れられなくて。……俺、保育園に通ってた頃喘息が酷くて長いこと入院してたんだよね。今となってはあの辛さは思い出せないけど、特に夜とかは息ができなくて本当に苦しくってさ」
「……俺も昔喘息だった。入院はしなかったから、慶に比べれば軽い方だと思うけど」
「あ、ほんと? あれ寝る頃くらいになると特にしんどくなるよね」
寿太郎は頷いた。体の大きさに関係なく発症するようだ。寿太郎は一見病を患っていたようには見えない。
「あんまり明るくない病室でさ、吸入器を口につけて呼吸してるとなんか怖くなったんだよね。液体が無くなるまで長いこと吸入しなきゃいけないし、終わりが見えないし、吸ってる間は楽になる感じもあんまりしないし」
「俺はあれやってるとき、早く終われってずって思ってた」
「そうそう! しんどい体からしたらあの時間ってめちゃくちゃ長く感じるんだよね。で、そんな苦しい時間俺はずっとこの狼のぬいぐるみを側に置いてた」
慶は狼のぬいぐるみを抱えてぱたぱたと腕を動かした。思わず寿太郎の口が緩む。これでも笑っているらしい。
「今はもう喘息は完治したし、この子ももうボロボロだし、一回お母さんにぬいぐるみの供養に出すかって聞かれたんだけど、どうしても捨てられなかった。もう高校生になったのに、まだずっと手元に置いてる。風賀も同じように自分の生まれた時に貰ったぬいぐるみがあるんだけど、俺と一緒で、そのぬいぐるみはまだずっと残ってる。なんかさ、そういうの良くない?」
「……うん」
「だから、そういうぬいぐるみを俺も作ってみたいって思うんだよね。めちゃくちゃ不器用だけど」
寿太郎は狼のぬいぐるみに視線を落とした。確かに、かなりくたびれているけど十六年ものにしては色が綺麗だった。きっと大事に手入れをしているんだろうと想像した。寿太郎はなんとなく、なんとなく慶の力になりたいと思った。
「時間はたくさんある。今から練習すればいい」
「そうだよね。俺もそう思うんだけどね……。昔一回自分の力でぬいぐるみを作ってみて、風賀にあげたら全然喜んでくれなくてさ。風賀は正直者だからなー。それからモチベーションが上がらなくて……」
「そ、それは、多分、師匠の好みじゃなかっただけだろ」
「寿太郎、めっちゃ優しいじゃん……あっ」
慶は寿太郎の優しさを感じで閃いた。
「寿太郎、俺の作ったぬいぐるみを貰ってくれる係になってよ」
「え」
「もし誰かに見つかっても、貰ったって言えば家に置きやすいでしょ。俺も人にあげるものを作るって思えばやる気出るし! ……あ、寿太郎、ぬいぐるみは好きじゃない?」
寿太郎はぶんぶんと首を横に振った。自室にはなにも置いていないけど、寿太郎はぬいぐるみも大好きだった。ゲームセンターの横を通るたび、大きいぬいぐるみの景品を羨望しながら見ていた。
「……好きだ。うさぎも猫も犬も……カワウソもかわいい」
「ンフ!」
どうやら動物が好きみたいだ。慶はさっそくなんのぬいぐるみを作ろうか考えた。するとドタドタと階段を駆け上がる音が聞こえ、部屋の扉が空いた。風賀が自作の迷路を片手に、目を輝かせている。
「もっといいアイデア思いついた! これ改造して明日先生に見せたら、成績上がらないかな!?」
「それ多分、違法な点の稼ぎ方だよ」
風賀は慶の忠告をお構いなしに迷路をいじり出した。パッと見で良く出来た作品だった。同じ兄弟でこうも違う。慶はつくづく風賀と歳が離れていて本当に良かったと思った。
「師匠、きららエンジェルが仲間になった」
「あ、僕が寿太郎にあげたガチャガチャのキャラだよ! どう?」
「一番好きだ。きららエンジェルが一番かっこいい」
「寿太郎、それ推しって言うんだよ」
「これが推し……」
そんな中でも寿太郎はちゃんとアニメを見ていた。
6
ところで、慶にはいつも一緒にいる友達というものがいない。何故かみんなと会話の波長が合わない。クラスのみんなは慶を「良いキャラ」と称してことあるごとに話しかけはするけど、輪の中に入ることはしない。入ってもついていけないと慶は理解している。先生や用務員さんと話しているときの方がよっぽど楽に話せる。風賀は友達が少ないけど、慶も大概だった。
その日の体育の時間、慶のクラスは少しざわついていた。いつも堂々とサボるか、授業後半になってしれっと参加する寿太郎が最初からいたからだ。
更衣室でちゃんと着替える寿太郎がいる。出欠確認のときにみんなに混じって並ぶ寿太郎がいる。準備体操をする寿太郎がいる。バトミントンのネットを張る寿太郎がいる。それだけでクラスのみんなは驚いていたし、慶も不思議だなと思っていた。
競技がバトミントンだったので、授業の最初はペアになって打ち合いをしなければいけなかった。慶はこういうとき、だいたいが慶のことを気に入っているクラスメイトに声をかけてもらっている。慶は運動が苦手ではないけど、高確率で珍プレーをするから彼らはそれが面白いらしい。慶自身はこだわりが全く無いので、流れに任せて誰かとペアを組んでいた。
というのが、いつもの流れ。
「慶」
「うんっ?」
慶は驚いた。寿太郎に話しかけられたからだ。
寿太郎と友達になって以降、初めて学校で話しかけられた。慶は最初、「学校で話しかけてくれるかな」と期待していたけど、寿太郎は全く話しかけてくれなかったので、「あ、そういうものなのね」と気持ちを切り替えていたところだった。
「その……相手は、いるのか」
「ペアの?」
寿太郎は小さく頷いた。無言だったので、慶も同じように一切喋らず横に首を振った。返したはいいものの、更に無言の時間が続く。なんだこの時間、と慶が呆けていると、寿太郎が眉をつり上げて顔を赤くした。
「分かるだろ、なんでなにも言わないんだよ」
「え、寿太郎がちゃんと喋ってよ」
「文脈を読み取れ」
「えぇ〜……俺現文苦手だもん」
「っ……、お、俺、と、ペアを、組め、……組もう」
「ンフフ……。ごめん分かってた。いいよ」
慶の言葉を聞いて寿太郎は更に顔を赤くして、慶の背中をばしっと叩いた。普通に痛かったので、慶はぎゃあ! と声を上げた。
「ありえない。性格が悪い」
「ごめんって。寿太郎可愛いから」
「か……」
寿太郎は目を丸くして固まってしまった。寿太郎が慶以外にその言葉を向けられたのは、きっと小学校低学年くらいの頃までだ。あまりにも言われなさすぎる言葉を二度も掛けられ、正しい反応が分からない。
「かわいくない……」
寿太郎の表情を見て、慶は満足気に笑った。
そのやり取りを見ていたクラスメイトは、更にざわついた。
「寿太郎、多分クレープが食べたいんだと思う」
「そうなの?」
その日の風賀の帰宅時間は遅めだった。どうやら放課後に寿太郎と二人で遊んでいたようで、内容は商業施設に行ってファンシー雑貨を眺める、だったらしい。
俺とは二人で遊んだことないのに……と慶は少しばかりもやもやした。なんせ本日初めて学校で寿太郎に話しかけられたくらいだ。
「一階にクレープ屋さんあるじゃん。あそこの前通ったら、期間限定のやつのチラシずっと見てた」
「期間限定ってどんなのだっけ」
「お花の形に切ったフルーツが乗ってるやつ」
「ああ、前風賀が食べてたね」
「うん。あれ可愛いから」
可愛いから、寿太郎が食べたがってそうだと。
「買えばいいのにね」
「買いたくても買えない理由があるからチラシ眺めるんだよ」
ごもっともだ。慶は時々人生を何周したらこの年でこの答えを出せるんだろう、と風賀に対して思ったりする。
「にいちゃん、寿太郎と二人でクレープ食べに行ったら?」
「俺が? 風賀は?」
「水入らずでどうぞ」
「どこでそういう言葉覚えてくるの?」
「寿太郎ねー、体育でにいちゃんとペア組めたって僕に自慢してたよ」
「……んっ、自慢!?」
「あれは自慢だね。僕は師匠だから分かる」
へー、ふーん、そうなんだ。それはクレープ一緒に食べてやらんこともないね。慶は無自覚に口元をニヤつかせた。
その日の夜、慶は早速寿太郎にメッセージを送ってみた。連絡先は交換していたものの、やり取りはほぼしていなかった。慶も普段メッセージのやり取りなんて親としかしないから、フランクに遊びに誘う方法が分からない。
『文口 慶:土曜日暇ですか?』
『平岡 寿太郎:いつのですか』
『文口 慶:ごめんなさい、今週です』
『平岡 寿太郎:何時から何時ですか』
『文口 慶︰決めてないです』
『平岡 寿太郎︰決めてください』
「どうしようこのままいくと一生敬語だ」
自室で慶は思わずひとりごちた。
失礼のないように、と考えて敬語で送ったけど、よくよく考えれば普段タメ口なんだから同じように送ればよかったのか、と気付いたけどもう遅かった。それに、確かに土曜日って来週の可能性も再来週の可能性もあるな、と高校一年生にしてやっと学びを得た。
『文口 慶:いつがいいですか』
『平岡 寿太郎:分からないです。決めてください』
『文口 慶:じゃあお昼から夕方まではどうですか』
『平岡 寿太郎:空いています』
『文口 慶:よろしくお願いします』
『平岡 寿太郎:なにをですか?』
ここで慶はやっと、「もしかして自分って会話下手くそか?」と自覚した。現文が苦手な理由がこの一端に表れているかもしれない。
『文口 慶:一緒に遊びませんか』
慶がこのメッセージを送って十分以上経った。が、返信は一向にこない。それまで送ってすぐに返ってきていたのに。なにか不都合なことや嫌なことがあったんだろうかと慶は不安になった。不都合なことならまだいい。俺と遊ぶのが嫌な方の理由だったら……と考えると気が気ではなく、慶は自室の狭い空間を行ったり来たりした。
そして十五分後に、やっと返信がきた。
『平岡 寿太郎:はい』
たった二文字。
なんだよ、早く返せよ! と慶は少し怒った。怒ったのはたった一瞬で、すぐにまた顔をニヤつかせ、横になったベッドの上で足をバタバタさせた。そのトーク履歴を暫く眺めた後、慶は鼻歌を歌いながら裁縫道具が散乱した学習机に向き合った。
7
学校で会ったときに「土曜日二人で遊ぶね、楽しみだね」なんてわざわざ言うのも気恥ずかしい。でももし話しかけられたら堂々と会話しよう。慶はそう思っていたけど、案の定寿太郎は学校で慶に話しかなかった。前後の席同士なのに。プライベートで二人で会うのに、教室にいる間はほとんど喋らないなんて、なんか変なカンジだ。寿太郎なにか話してくれないかなと、慶は寿太郎の背中を見つめた。
プリントが前から回ってくる。寿太郎は後ろを確認しない。危ないな、一体誰から教育を受けたのかしらと思うと、少しいたずらをしたくなった。慶は右手で寿太郎から回されたプリントを引き抜き、咄嗟に左手で空いた寿太郎の手と握手をしてみた。ぎゅっと握った瞬間、寿太郎はビクッ! と大きく肩を震わせた。あまりにも大げさだったので、慶もつられて驚く。
手の力が緩んだ隙に寿太郎は手を引っ込めて、暫く固まっていた。寿太郎の首と形のいい耳がどんどん赤くなっていくのを、慶は真後ろからリアルタイムで見届けた。ニヤけるのを抑えるのに必死だ。プリントに記入する文口慶という名前も心なしか跳ね気味だったり。
一方寿太郎は何度かシャーペンの芯を折りながら名前を記入した。
土曜日のお昼時、慶は家を出る前にもう一度風賀に確認した。
「ほんとに風賀も一緒じゃなくていいの?」
「いいって。僕ママと水族館行ってくるから」
「お父さんは?」
「知らなーい」
父、哀れなり。昨日の夜風賀は父と喧嘩をした。父が風賀の牛乳プリンを勝手に食べたからだ。自分は勝手に兄のプリンを食べるくせに、食べられるのは訳が違うらしい。それから風賀は父に一言も口をきいてくれない。文口父は風賀ラブなので、それはもう面白いくらいにご機嫌取りをしていたけど、風賀はまだ許していないそうだ。
「じゃあ行ってきます」
「バイバーイ! 楽しんでねー!」
風賀は玄関でぶんぶんと手を振って慶を見送った。生意気だけど可愛い弟だ。ちなみに今日の慶の服装は風賀が選んだ。勝負服、と言っていた。着衣した当の本人は勝負服の意味をいまいち理解していなかった。
慶は昨日徹夜して作業をしていた。どうしても今日までに完成させたいものがあったからだ。あくびを噛み殺しながらショッピングモールに向かった。
慶が集合場所に到着した頃には寿太郎は既に待機していた。体が大きくて、とにかく表情が怖い。そしてオーラというか、圧があるので物凄く目立つ。周りにいた親子や若い女性が静かに寿太郎を避けながら通行している。これから入口前集合はやめておこうと慶は心の中で誓った。
「お待たせ、待った?」
駆け寄ると、寿太郎はいや、と言って首を横に振った。嘘である。本当は三十分ほど前から待機していた。寿太郎の方は緊張で昨夜眠れず、だから尚更表情が険しかった。というのは慶にはわざわざ言わないけども。
慶はこの日の目的を寿太郎に伝えていない。どうやら寿太郎はお昼をたくさん食べてきたらしい。今クレープを食べさせるのは違うかと思い、とりあえずショッピングモール内を回ることにした。
「風賀と遊んだときはなにしたの?」
「師匠が行きたいって言ったところに着いて行った」
「うちの弟がごめん……」
「いや、師匠が行きたいところは俺が行きたいところだから」
完全に風賀の保護者でしかないが、寿太郎はそれで満足らしい。申し分ない舎弟の態度だ。
「その時に行かなかったけど行きたかったところはある?」
「……ゲームセンター」
「あ、いいじゃん! 行こうよ」
寿太郎はクレーンゲームをやったことがない。小中学生の頃は親同伴でないとゲームセンターに行ってはいけないという校則があった。寿太郎の両親は休日に息子をゲームセンターに連れて行くようなタイプではなかったので、本格的に足を踏み入れるのは今日が初めてだと。
このショッピングモールは大型のため、一階からゲームセンターまでまあまあの距離を歩く。喧騒に任せて無言の時間を埋めるという手もあったが、慶は頑張って寿太郎と会話をしてみたかった。
「そういえば、なんで体育ちゃんと出るようになったの?」
「……」
あ、黙った。寿太郎は都合が悪くなったり答え辛い質問に当たるとすぐに口を閉ざすようだ。慶はだんだん寿太郎のことが分かってきた。
「先生にそろそろヤバイって言われた?」
「言われてない」
「そういう気分だったの?」
「……そういう気分だった」
「そういう気分だったのかあ。俺もそういう気分になったら体育休もうかな」
「え」
「え?」
寿太郎はまた黙った。凄い顔をしている。流石に慶も怖くなった。
「ご、ごめん。俺体育くらいでしか点数稼げないね。ちゃんと受けるよ」
「ちがっ……そうじゃなくて……、お、俺が困るから……」
「え、なんで?」
「だって、ペアが……」
「ペアが?」
「……男子の人数、偶数だろ。割り切れるから、二人ペアだと誰かが俺と組まないといけない」
「そうだね」
「だから、だ」
「だから……?」
「……だからだって……!!」
「分かんないよ! 俺現文の成績2だよ!」
「だからっ……! 慶だったら俺とペアになってくれるんだろ!!」
真横で「うわあびっくりしたぁ!」と叫ぶ子どもの声が聞こえた。慶と寿太郎の方を向いていたが、寿太郎と目が合うと咄嗟に逃げてしまった。寿太郎の声に驚いたらしい。
少年は驚いたが、慶はもっと驚いた。寿太郎は勢いで言ってしまったが後悔先に立たず。顔をじわじわと紅潮させ、目を瞑って特大のため息を吐いた。
「違う……。深い意味はない。俺とペアを組む物好きはいないだろ。お前は多分物好きの方の類だから……」
寿太郎がなにかゴニョゴニョと口ごもっている。土曜日のショッピングモールの中じゃとても聞き取れない。
そして慶はと言うと。得体のしれない感情で心がいっぱいになり、叫びそうになる口を正常に呼吸させるので必死だった。
「なるよ! ペア、なるよ、ずっとなろう!」
「……」
「俺、寿太郎に誘ってもらったの嬉しかった! 今までの体育で一番楽しかったよ!」
寿太郎は慶の方を向かず、俯いたまま小さく頷いた。子どものようだ。実際子どもなんだけれど。
寿太郎は言葉足らずだし、慶は読解力がないし。それでも二人は、それぞれの穴を埋める形をしているようだ。
8
さて、なんとも甘ったるい絶妙な空気になったところで二人はゲームセンターに着いた。慶はご機嫌だし、寿太郎はもう羞恥でいっぱいだった。再三、寿太郎は恥ずかしがりやなのだ。
「細かいの持ってる?」
寿太郎の財布の中にはお札か十円玉しかなかった。慶は甲斐甲斐しく両替機まで寿太郎を案内し、百円玉に崩させた。ゲームセンターの通路は狭いので、ここに辿り着くまでにも寿太郎は何度か他の客とぶつかっていた。数人の客は寿太郎に大仰に謝っていた。寿太郎の表情は傍から見れば変化がないが、慶にはあせあせと申し訳なさそうにしている様子が伺えた。強そうに見えるのも考えものだ。
とりあえず施設内をぐるりと一周すると、寿太郎はとある筐体の前で止まった。うさぎのような、猫のようなよく分からない宇宙人のキャラクターの小さなぬいぐるみが景品だった。
「ほしいの?」
寿太郎は答えなかったけど、どうせほしいのだろう。そろそろ俺の前くらい素直になってもいいのにと慶は思った。慶が百円を入れると筐体から音が鳴り、寿太郎はあっと声を上げた。
「はい、やってみなよ」
「いや、でも」
「大丈夫大丈夫! ここで動かしてこのボタンで下ろすだけ。俺たちみたいな素人はどうせ一発で取れないから、失敗しても大丈夫!」
慶に背中を押され、寿太郎はレバーを操作した。勝手が分からないうえ、寿太郎の性格上適当にやってみるということができないので、ミリ単位で慎重に何度もアームの位置を調整していた。そしてアームはぬいぐるみを掴み、ホールの手前で力が緩まってぬいぐるみが落下する。初期の位置より取りにくそうな場所に移動してしまった。
「なんだこれは……こんなのズルいだろ……」
「こういうもんだよ。ちょっとずつ落とし穴に近付けていこ」
さっきまで躊躇っていたのに、次は躍起になってもう一度プレイした。顔つきは真剣そのもの。命がかかっていると言われても納得するくらいの剣幕だった。もっと気楽にやればいいのに、と慶は思いつつも面白いので言わない。
寿太郎が本格的に夢中になってしまった。失敗しては無言で硬貨を入れてプレイする、の繰り返し。そんな寿太郎を眺めていると、改めて気付くこともある。表情はアレだが、寿太郎はかなり整った顔をしている。見れば見るほど全てのパーツが綺麗な形をしているということに慶は気付き、クレーンゲームそっちのけで寿太郎を見つめた。寿太郎を見ていると、なんだかむずむずする。風賀が自分のプリンの一口目を慶にくれたときのような、手芸屋さんでいい買い物をしたときのような、特別な形のお菓子を引き当てたときのような、でもそれとはちょっと違う気分。寿太郎をただ怖がっていたときは全然気が付かなかった。じゃあ他のみんなも寿太郎のかっこよさにはまだ気が付いていないんだろうか。
「あっ」
寿太郎が声を上げ、慶はハッとした。景品を獲得できたらしい。寿太郎は急いで取り出し口から景品を取り、慶に見せつけた。
「取れた!」
あまりにも純粋に、寿太郎は笑っていた。慶は寿太郎がちゃんと笑った顔を初めて見た。一瞬見惚れ、すぐに喜びを分かちかあった。
「寿太郎凄いじゃん!」
ハイタッチをしようと慶が手のひらを寿太郎に向けると、寿太郎は途端に我に返って大人しくなった。いつもの顔に戻って、控えめにハイタッチを交わす。フム、駄目だったか。
「次はなにする? 大きいの取る?」
「いや、大きいぬいぐるみは……その、流石にバレるから」
「あ、そっか」
家族にバレるから、大きすぎるものは部屋に置けない。慶は、別にバレても良くない? とは思ったが、それぞれの事情があるのだろう。風賀のようになんでも包み隠さず好きなことができる人がいる一方で、寿太郎のように自分の好きなぬいぐるみすら部屋に置けない人もいる。
「……でもやってみたい、気もする」
「やろうよ。景品を部屋に置けないんならうちに置いてあげる」
「師匠は受け取ってくれるか」
「……あ、風賀ね」
慶はてっきり自分が預かるものだと思っていたので、当たり前のように出てきた風賀の名前を聞いて己を恥じた。なに勘違いしてるんだ。そりゃそうだ。寿太郎の中では慶、小なり風賀という差があることを忘れていた、と。
「風賀は秋刀魚の抱き枕がほしいって言ってたよ」
「秋刀魚……」
「魚が好きなんだよ」
以前慶が風賀とゲームセンターに行って、所持金があまりなくて諦めた景品だった。寿太郎はやってみたいと言ったので、その筐体まで案内した。
俺はあっちの狼のぬいぐるみが欲しいな、と慶は言えなかった。
9
寿太郎にはクレーンゲームの才能があった。
風賀にあげる秋刀魚の抱き枕が驚くほどすんなり獲得でき、じゃあこれは、とその後ろにあったチョコのタワーをやらせてみたら、それも軽々と倒して大量の板チョコを手に入れた。
俺にこんな力が……と戦慄いていた寿太郎が面白く、慶はケタケタと笑った。慶と対照的に、寿太郎はかなり容量がいいらしい。慶はクレーンゲームは楽しいからやるけど、隅々まで不器用なので勿論クレーンゲームも下手だ。風賀の方がよっぽど上手い。
という訳で、慶は狼のぬいぐるみは貰えなかったけど板チョコは流石に数枚貰えた。記念品にしようかなと言うと早く食べろと返ってきた。なんだか食べるのがもったいない気がする。
寿太郎にクレーンゲームをやらせているうちに、気付けばだいぶ時間が過ぎていた。そろそろ慶の頭の中に「出禁」という言葉がよぎった頃、寿太郎に行きたい所があると伝えた。
一階に降りると慶はまっすぐにクレープ屋さんに向かった。看板が見え、寿太郎は目を丸くした。
「俺チョコバナナにしようかな。寿太郎も食べる?」
「え、俺は……」
「クレープ嫌い?」
「嫌いじゃない、けど」
寿太郎はメニュー表から少し離れた場所で立ち止まった。でも視線は期間限定のチラシの方を向いている。
「あの期間限定のやつ可愛いね」
「……」
「風賀も食べてたよ」
寿太郎の体は列に並ぼうとしなかったけど、立ち去ることもせず。慶に食べてみる? と優しく伺われ、漸く小さく頷いた。
「でも、俺がそういうの食べてたら変だろ」
「なんで? 変じゃないよ」
「俺があんなかわいいの頼んだら、店員さんに引かれる」
「そんなことないよ」
食べてみたいけど、やっぱり並ぼうとしない。慶は寿太郎に待ってて、と伝え、チョコバナナクレープと期間限定のクレープをひとつずつ頼んだ。数分後、両手にクレープを持った慶は遠くで見守っていた寿太郎のところに駆け寄った。
「はい!」
にっこりと笑ってクレープを渡され、寿太郎は嬉しいやら恥ずかしいやら情けないやらで情緒がぐちゃぐちゃになった。
「ありがとう、ございます」
「敬語?」
心の中では口に出したものとは比にならないほどの感謝を伝えていたけど、いかんせん寿太郎は恥ずかしがりやで言葉足らずだ。ありがとうございますと言うので精一杯。考えれば考えるほど、そんな自分が嫌になる。
「……悪い」
「え、なにが」
「俺が買うべきものなのに、慶に並ばせた」
「そんなこと思わないよ。俺も自分の分買ってるし、ついでだよ」
「……二つ持たせた」
「ちょっとの距離だよ」
慶は本当になんとも思っていないようで、呑気にクレープを食べている。だからだろうか、寿太郎はふと自分のことを話したくなった。
「この距離すら近寄れない。ただ並んで買うだけなのに、それができない。慶や師匠がいないと人目が気になって行きたい店に入れない。見たいのに、家族に知られたくなくてきらガルも見れない。……俺が本当にやりたいことは怖いことだらけだ。俺は弱い人間だ」
以前寿太郎は慶に「あんなこと言われて嫌じゃないのか」「怒っていい」と諭した。でも自分のことになると違う。途端に自信がなくなってしまう。一度固めてしまった自分を崩すのは怖い。でも可愛いものを諦めきれない。雁字搦めになっている自分のことを、寿太郎は嫌っていた。
「慶に俺の分まで持ってもらうところじゃない」
寿太郎は手にしたクレープに視線を落とした。花型に切り取られたフルーツがバランス良く散りばめられている。ふと、小さい頃に花の飾りが付いたサンダルを両親に強請って、やめておきなと言われたことを思い出した。
「俺今一つしか持ってないよ」
慶は呑気に食べ進めながら、呑気に言う。思い悩んでいる寿太郎に対して、慶はただクレープを食べるのに必死だった。
「そういうことじゃ……」
「俺はクレープを二つ買うのが簡単だったから、二つ買って一つ寿太郎に渡しただけ。寿太郎はクレーンゲーム上手だったから、俺と風賀が諦めた秋刀魚の抱き枕を取ってくれただけ。俺も寿太郎もできることをやっただけだよ」
「……」
「俺だけだったらコレ取れてなかったね。寿太郎、ありがとう」
慶は腕に通していた大きいショッパーを顎で指した。中には秋刀魚の抱き枕と板チョコが入っている。両手はクレープで塞がっているので離すことができない。
「一人が怖いんなら、二人でやればいいよ。今まで行けなかったところも一緒に行こ。クレープもパフェも一緒に食べよ。怖いのって、二人で分けると半分より少なくなる気がするし。怖いけどやりたいことは、克服したらきっと凄く楽しいことに変わるよ」
「!」
そんな言葉、寿太郎は物心ついたときから掛けられたことがない。昔から体が大きくて力も強くて強張った表情しかできなかった。寿太郎自身が「怖い」と言われる対象だった。二人でやろうだなんてこれまで誰か言ってくれただろうか。
「そもそも俺はあんまり怖い経験をしたことがないんだけど……一回かな。中学生のときに初めて手芸屋さんに行ったんだけど、それが怖かったかなー。なんの経験も実績もない男一人じゃ入りづらかったんだよね。で、一人じゃ怖いから風賀を連れて行ったら、俺が入り口の前で立ち止まってるのに先にすたすた中入ってくんだよ。そうなったらもう俺も入るしかないから、勢いで入ったらなんてことなかったよね。普通のお店だった。文房具屋さんとか本屋さんとかと変わんない。拍子抜けしたな。でも今思えば風賀がいなかったら一生手芸屋さんに行けてなかったかも」
「……師匠は昔からそういう人なんだな」
「だね。風賀が怖がるところには一緒に行ってあげたいんだけど、今のところまだ見つからない」
どっちが兄だか分からないな、と慶は笑った。
「フ……フフ……」
すると寿太郎も慶の顔を見て笑った。また笑った。寿太郎がちゃんと笑ってる。慶は呆けた。間抜けに見つめる慶の顔に、寿太郎の手が伸びた。ゆっくりと親指が口角に触れ、ぐいっと拭われる。
「ずっと付いてた」
寿太郎の指には白いクリームが付いていた。驚くほど優しく笑い、ごく自然にそれを舐めとる。
慶は自分が何をされたか自覚した瞬間、火が出るほど顔が熱くなった。
「お、俺、クレープ食べるのも下手なんだよ。寿太郎もクリーム溶けないうちに早く食べな」
「ああ、そうする」
慶は考えた。
アレは天然なのか。寿太郎はそういうことをするようなタイプの人間なのか。一言付いてるって言えばいいだけじゃん。わざわざあんなことする? あれが普通? だとしたら、どうか他の人にやりませんように。
と、なにかに願ってしまった理由はまだ本人も知らなかった。
クレープを食べ、汚れた手を洗い、今時の子ども服は大人と同じくらいオシャレだねとオリジナルブランドのアパレルコーナーを眺め……。特になにもしてなくても、緩やかに時間は過ぎていった。
寿太郎の家の門限は厳しいらしい。日も傾きかけ、そろそろお開きの時間だった。
お互い口には出さないけど、名残惜しいような。明後日また学校で会えると分かっていても、今日という日はこれで終わりだ。
慶は徒歩、寿太郎は自転車で来たので、慶は駐輪場まで一緒に着いて行った。歩いている間ずっと、なにか大事なことを忘れているような……とモヤモヤしていたが、本当に大事なことを忘れていてたと思い出して、慌てて鞄の中からある物を取り出した。
「寿太郎! これあげる!」
寿太郎に渡した剥き出しのそれは、やっと完成した手作りの小さいぬいぐるみだった。寿太郎は驚きつつもそれを受け取って、いろんな角度からじろじろ眺めた。
「これは、なんだ」
「犬だよ」
「犬……」
これが、犬……? とは、寿太郎は口に出さなかった。どう見ても妖怪にしか見えなかった。それでも味があると言えなくもない。なんだか見れば見るほど可愛らしく思えてきた。
「……絶対おかしいよね? 俺もお手本の写真と見比べて笑ったんだけど」
「いや、うん、……かわいいと思う。ありがとう」
寿太郎は犬のぬいぐるみの頭を優しく撫でた。慶は咄嗟に心臓を手で抑えた。
「不整脈が……」
「え、なに、ど、どっちだ」
「どっちって!?」
「頻脈か徐脈か」
「ヒン……ジョ……?」
「は、速いか遅いかだ」
「速い、多分速い」
「そうか、落ち着け、深呼吸してストレッチが効く」
慶は言われるがまま深呼吸をし、何故か寿太郎にストレッチを教えてもらって解散した。帰ってから入浴中にクレープを食べたときのことを思い出しまた心臓がバクバク鳴ったので、教えてもらったストレッチをした。あまり効果はなかった。
10
一方その頃、寿太郎はというと。
ベッドに寝転がって、慶から貰った犬のぬいぐるみをまじまじと見ていた。何故そうなったか分からないが、例えるなら園児が描いた犬の絵をそのままぬいぐるみにしたような。教え通りやって、仮に間違った工程を挟んでもこうはならないだろうというビジュアルだ。
それでも寿太郎は慶が作ったこのぬいぐるみを大事そうに抱えた。
「はぁ……」
大切な物がどんどん増えていく。師匠から貰ったきらガルのガチャガチャ、初めて自分で取ったクレーンゲームの景品、お花のクレープ、そして犬のぬいぐるみ。今までこんなに幸せな経験をしたことがないから、一人になったときにふと不安になる。師匠と慶に出会ってからのことは全部嘘で、平岡寿太郎らしくないこの思い出は没収、なんてことにならないのだろうか、と。
ぬいぐるみを抱えて目を瞑ると、昔のことが思い出される。
平岡家はごく一般的な家庭、とは言えないかもしれない。父は柔道の師範で、教室を開いている。国体選手を多く輩出している有名な道場だ。母は絵に描いたような淑やかな人。規律と男としての立ち振舞いに厳しい父と、それを見守る優しい母に育てられて生きてきた。寿太郎も昔は父から柔道を習っていた。父は寿太郎を柔道家にさせるために、本気で指導をしていた。でも寿太郎は柔道をやりたくなかった。寿太郎がやりたかったのはピアノ。小学生のとき、学年別の音楽発表会でピアノを弾いていたクラスの女の子を羨ましいと思っていた。でもそんなことも言えず。
お花の飾りが付いたサンダルを買ってもらえなかった。ハンバーガーのセットに付いているおもちゃは戦隊物の方に勝手に選ばれた。ピンクのランドセルを否定された。小学生に上がる頃には、寿太郎はもう十分自分が他の男の子と違うということを実感していた。母には強制的に選択肢を変更されるくらいなのに、自分の本音なんて厳しくて男らしい父に言えない。ピアノがやりたいなんてとても言い出せなかった。
ただ、一度。小学生の頃、どうしても欲しいものがあった。そのとき隣の席だった女の子が、動物園で買って貰ったという小さな犬のぬいぐるみを教室に持ってきていた。本来は教室におもちゃの類を持ち込んではいけない。ただその女の子は自慢したがりというか、自分の気に入った物をすぐに他の子に披露したがる子で、先生に秘密でこっそり持ってきていた。
寿太郎にはそのぬいぐるみが魅力的に映った。小さくてふわふわで舌が出ていて、とても可愛い。休み時間に女の子が他の生徒に見せつけるたびに、寿太郎はその犬のぬいぐるみをこっそり隠れて見ていた。ただ、女の子は聡く寿太郎が熱心にぬいぐるみを見ていたことに気付き、授業中にこっそり寿太郎の席にメモを回した。寿太郎がそのメモを開くと、「ほしかったらぬいぐるみあげる」と書かれていた。何故そんなメモを送ったかというと、女の子は寿太郎のことが好きだったから。寿太郎はメモの空いたところに「ほしいです」とだけ書いて、女の子の席に戻した。すると放課後に渡すとの内容が返ってきたので、寿太郎はそれはもうルンルン気分になって授業を最後まで受けた。
そして放課後。女の子は犬のぬいぐるみを取り出して、寿太郎に渡そうとした。
が、直前になってやっぱり心変わりをした。渡すとなった途端女の子は犬のぬいぐるみを離し難くなり、渡す寸前で手を引っ込めた。
寿太郎は貰えるものだとばかり思っていたので、裏切られたような気分になってそのぬいぐるみに手を伸ばした。腕の部分を掴むと余計欲しくなり、力任せに引っ張った。すると引っ張ったところが千切れ、中から白い綿が飛び出してしまった。引っ張った反動で千切れた腕がぽとりと床に落ちる。寿太郎も女の子も、落ちた腕を目で追った。数秒後、女の子はわんわんと泣き出し、周りにいた生徒はなにごとかと二人を取り囲んだ。
「平岡くんが、破いたの、あたしのぬいぐるみ」
女の子は泣いて訴えた。非難の視線が寿太郎に注がれ、寿太郎も泣いてしまいそうだった。でも泣けない。父から「男なら泣くな、みっともない」と教えられてきた。だから寿太郎は泣けなかった。
騒ぎを聞いた担任が教室に駆けつけ、この事件は学年ぐるみで問題になった。おもちゃの持ち込み、親を介さない生徒間での物の譲渡、物の破損。
寿太郎の両親は学校に頭を下げ、女の子と女の子の両親にも頭を下げ、そして寿太郎をこっぴどく叱った。それでも寿太郎は泣かなかった。言い訳もしなかった。そういうふうに教えられたから。
それ以降「寿太郎が他人のぬいぐるみを破いた」という噂は尾ひれが付いてどんどん拡散していき、その噂が払拭されることなく高校生になってしまった。
寿太郎はその件以来柔道は辞めた。力があっても傷付けたり壊したりするだけだと思ったから。そして、可愛いものを求めるのも辞めた。
なのに今、寿太郎の腕の中には歪な形の犬のぬいぐるみがいる。ほつれないようにと糸でガチガチに固めた手足が、寿太郎にとってどれだけ愛おしいか。見るだけで昔の自分が少し報われたような気持ちになってしまう。慶が思う以上に、寿太郎はこの犬のぬいぐるみを大切に思っていた。
11
俺が赤点を取ってしまったのは、やっぱり願掛けをしたのに途中でぽっきり折れてしまったこの消しゴムのせいだろうか、と慶は責任転嫁をした。責任転嫁をしたくなるくらい、今回のテストはまあまあ成績が悪かった。
全ての教科が返ってきて、平均点を計算してみたら四十二点だった。慶の学校の赤点は三十九点以下である。ギリギリ赤点の教科の方が少ないというレベル。ああ嫌だな、お母さんに見せたくないなと頭を抱えていたら、周りの男子が慶のテストの結果を覗き見して笑った。
「回答欄ズレてた?」
「そんなとこまで不器用じゃないよ」
寧ろそれで点数が低いのならまだ良かった。普通に、実力で赤点を取っている。周りの男子は「慶がいるとテスト返しのとき元気出る」と言っていた。
「赤点だった教科は再テストするからなー。今日から放課後補習のプリントもあるし、予定空けとけよー」
その担任の一言で、ヘラヘラと笑っていた生徒たちが一斉に無言になった。かく言う慶もその内の一人だ。
とりあえず配られるプリントはノルマのようで、それは提出さえすれば大丈夫。問題なのは再テストだ。八十点以上じゃないと再再テストになるそうで。慶は同じシステムで再再再再再テストまでやった過去がある。気が狂ってしまうかと思った。あのときは同じような学力の人と一緒に勉強していたのがいけなかった。じゃあ今回はどうしようか。
「寿太郎」
控えめに前の席に声を掛けると、寿太郎が振り返った。必要があれば学校内で会話をするくらいには、二人の関係は進歩していた。
「寿太郎何位だった?」
「いち」
「一位!?」
三十四人いるうちの、一位。寿太郎は頭が良かった。慶がそっと自分の順位表を見せると、寿太郎は怪訝な顔をした。
「今回は大丈夫な気がするって言ってただろ」
「自信って大事だよね。この自信すらなくなったら多分もっと低いよ」
寿太郎は渋い顔をした。八十点台前半があっただけで焦って落ち込むような寿太郎は、楽観的な慶が理解できない。
「寿太郎、放課後俺に勉強教えてくれない?」
「なんでそれをテスト前に言わないんだ」
「だから、今回は大丈夫な気がしたんだよぉ」
みっともなく泣きつくと、寿太郎は仕方なさそうに分かった、と言った。
そして放課後、二人は図書室に移動した。教室だと他の居残りの生徒が多い理由で、寿太郎が図書室を選んだ。
「別に俺教室でも良かったよ」
「俺は嫌だった」
「なんで?」
「……慶と喋ってるところを他の人に見られたくない」
「エ”、俺と喋ってると馬鹿っぽく見られるからとか!?」
「あ、いや、ちがっ……、そうじゃなくて……。……そうじゃなくて、……ああ、クソ、俺の問題だ」
「言語化を諦めないでよ! 言ってよ!」
「う、うるさい」
「うるさくない!」
結局寿太郎はその理由を話さなかった。寿太郎が学校内で慶とあまり話そうとしない理由もここにあるのかもしれない。
「どの教科が赤点だったんだ」
「国語と英語」
「同じ内容しか出ないんだろ。丸暗記でどうにかなる」
「確かにね。別に寿太郎に教えて貰うまでもないか」
「……出せよ、テスト。解き方教える」
「ふはは」
慶もそろそろ寿太郎の扱いに慣れてきた。意外と負けず嫌いで頑固だ。もう怖さなど微塵も感じない。
テストの問題分を開くと、寿太郎は一から丁寧に解説してくれた。
「そもそも、ここは複数の理由を上げないといけないだろ。だから一つしか書いてないのが間違ってる」
「あ、そっか」
「こういうのは大体近くに書いてある。どこか分かるか?」
「じゃあこの文章?」
「勘か」
「勘だよ」
「……はぁ。まあ、合ってるんだけど」
「フフン。自信自信」
「慶の言う自信って勘のことか……」
寿太郎は殆どの日々を一人きりで過ごしてきたので、思考回路がまるで違う慶と話していると驚くこともある。特に勉強なんかはそうだ。
「寿太郎って頭いいんだねぇ」
「帰ってから勉強しかすることがないからな」
「勉強しろって親に言われるの?」
「いや、勉強に関してはなにも……。俺が暇だからやってるだけだ」
「暇で勉強する人って実在するんだ」
「慶、ここ漢字間違ってる」
寿太郎は指を差して指摘した。確か、同じ間違いで減点したところだ。慶はどうも漢字が苦手だ。
「そういえば寿太郎って漢字も得意だよね。読書感想文がなんかの賞入ってたやつ、原文見たけど難しい漢字いっぱいだった。あれ全部いちいち辞書とかで調べてるの?」
「特に調べてないな」
「え、凄……漢検保有者?」
「あ、ああ」
「何級?」
「……一級」
「いっ……、え、マジ? え? 一級だよ? 俺達高校一年生だよ?」
「……そうやって突っ込まれると面倒だから言わなかったんだよ」
「えーーー! 知らなかったんだけど! じゃあさじゃあさ!」
慶はノートの空いているスペースに「吝」と書いた。
「これなんて読むか分かる?」
「……やぶさか、か」
「うわ、凄い。俺以外に知ってる人初めて見た」
「なんで慶は知ってるんだ」
「だってさ、俺の苗字縦書きで書くと『吝』になるでしょ?」
「ああ、確かに」
「昔、クイズ番組かなにかでこの文字が出たんだよね。『ヤバイ、一文字で俺の名前だ!』って嬉しくなって、急いで意味を調べたんだよ。そしたら『ケチ』って意味でさー……。割とショックだったよね」
「フフ……」
勝手に失望する幼い慶の姿を想像して、寿太郎は笑った。寿太郎は前よりよく笑うようになった。この顔を見せる人は限られているが。
寿太郎の笑顔を見て、慶は心の中でガッツポーズをした。三日に一回くらいは笑わせたいと思っている。理由は解明できていないが、寿太郎が笑うと心が浮き立つ感覚がする。慶はそれを味わいたい。浮き立つ心の虜になっていた。
学校の図書室は夕方六時半には閉まってしまう。気が付けばもう追い出されるくらいの時刻になっていて、二人は急いで図書室を出た。
「俺再テストいける気がする」
「だからその自信どこからくるんだよ」
賢い人から勉強を教えて貰ったら、それだけで自分も賢くなった気がする。慶は単純だった。
「寿太郎、手出して」
「?」
「じゃーん」
慶は寿太郎の手のひらに新作のぬいぐるみを置いた。
「テスト期間中に作ったよ」
「お前そんなんだから赤点取るんだ!」
「そんなこと言うんならあげない!」
「ム……」
子どもを黙らせる魔法の言葉のようだ。寿太郎は怒るのを辞めた。
「これは、なんだ」
「猫だよ」
「猫……」
猫……。鬼ではなく猫。角ではなく耳だった。
「綿の量と質に改良を重ね、手触りを良くしてみました」
「あ、そこ」
改良するとこそこなんだ。とは寿太郎は言わなかった。
「何猫か分かる?」
「エッ…………………………ロシアンブルー……?」
「正解!」
正解だった。奇跡か。寿太郎は胸を撫で下ろした。頑張って作ったんだろうから、なるべく期待する答えを出してあげたい。
「前より上手になったと思わない?」
「ああ……そうだな」
寿太郎もそれは思っていた。前回より縫製が上手な気がする。慶はスマホを操作し、前回の犬のぬいぐるみの写真を寿太郎に見せ、やっぱりこれ我ながら酷い! とケタケタ笑った。
寿太郎は画面ではなく、慶を眺めて笑った。
幸せだと思っている。
慶の笑顔を見ると、全部が愛おしく思えてくる。
こんななんでもない日のなんでもない時間に、「出会えて良かった」と言いたくなるような、そんな感覚。
「風賀に見せたら、鬼? って言われた。流石に酷くない?」
「フフ……うん」
慶はそんな寿太郎を見て、今日はよく笑うなとご機嫌だった。
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