関係とかなんでもいっか


1


 ずっと一緒に暮らすって。ずっとって、いつまでだろう。




「あっ、ましゅうくん!」


 偶然廊下ですれ違うことができた俺の可愛い弟に声を掛けた。両隣には真秀くんのお友達がいる。大学生になってもちゃんと交友関係を築けているようで、兄としては安心する。


「あの、実習で作ったんだ、これ」


 バッグからクッキーを取り出した。栄養学部なので、授業に調理実習もある。今日はカロリーや糖質を抑えたクッキーを作った。調理実習で作った物は、大体真秀くんにあげることにしている。真秀くんはじっと立ち止まったまま、両隣にいるお友達がうまそう、いいなと感想を溢していた。


「俺今日バイトで帰り遅いから、今のうちに渡したくて、えっと……、夜ご飯は作り置きしたやつ冷蔵庫にあるし、チンして食べてて」

「……ん」


 真秀くんは乱雑にクッキーを掴み、足早にこの場を去ってしまった。お友達2人はそれを見て慌てて俺に頭を下げ、真秀くんの後を追って行った。


 俺、最近嫌われてるのかな。

 真秀くんはせっかく俺と同じ大学に入ったのに、構内ではかなり冷たい。今はたまたま出会えたけど、遠くから俺の姿を確認すると逆方向に行き先を変えることだってある。

 真秀くんは高校生の時、お友達なんて呼べるものはほぼゼロに近かった。だから、こうして普通の大学生みたいに誰かと喋っているところを見ると俺もちゃんと嬉しいと思える。でも、その分俺は避けられているようで、それはかなり精神にくる。こんなの、高校までは普通だったのにな。


「え、もしかしてあれが例の弟?」

「うん、そうだよ」


 一緒の学部の俺の友達、小田くんが漸く発言した。今まで存在感を消していたらしい。


「デカ……え、こわ……いや、ごめん、失礼だった。かっこいいな」

「いいよ。ましゅうくん初対面だと怖いしね」

「山口くんの弟が一緒の大学にいるって知ってたけど、まさかアレとは……」

「俺と全然違うよね」

「うん。弟と二人で暮らしてるんだっけ」

「そうだよ」

「すげえな……。怖くないの?」

「怖くないよー。ずっと一緒にいるから」

「いつから?」

「えっと、俺が中3の時だから……。5年前かな」

「凄いな。俺も弟いるけど、俺だったら弟と二人で暮らすとか絶対無理だわ。独り暮らしの方がいいとか思わないの?」

「え、うん。全然」

「へえ……」


 小田くんは弟とそこまで仲が良くないのだろう。顔を顰めていた。


「むしろ、俺一人で暮らすことの方が無理かもしれない。寂しすぎて生活できないと思う」

「それは、弟出てった時大変だな」

「え?」

「まあ彼女と同棲とかするか」

「え?」


 きょとんとして小田くんを見た。あまりにも俺が目を見開き固まるので、小田くんもぽかんとしながら俺を見ていた。


「え、ましゅうくん出ていかないよ。俺も彼女いないし、作らないし」

「いや、ずっと弟と二人で一緒に住めないだろ。将来を考えると」

「将来って?」

「え? 本気で言ってる?」

「だってましゅうくん、ずっと俺と暮らすって言ってたよ」

「そのずっとって、特定の期間のずっとだろ。じゃなかったら山口くんか弟が結婚したとき、よく分からんことになるぞ」

「……俺、多分結婚願望ないよ」

「山口くんがそうだとしても弟はあるかもしれないだろ」

「え、そうなの?」

「いや、知らないよ」

「え、ましゅうくんって結婚したいのかな」

「知らないよ」

「え、え、ましゅうくん結婚したら家出ちゃうかな」

「知らないって」

「でも、でもでも、ましゅうくんずっと俺にご飯作ってって言った。俺がいないと生きて行けないって言ってたよ。俺、ましゅうくんとずっと一緒にいないと駄目だよ」

「それ……」


 小田くんは何かを言いたそうに口を開いたが、逡巡してなんとも微妙そうな顔をした。


「え、なに」

「いや、他人の家に口を挟むことはできないけど」

「できないけど……?」

「ちょっと変かも」

「え? 俺が、ましゅうくんが?」

「どっちも」

「どっちも、」


 変? 変って、何が?

 おかしいのかな。だって俺らは家族だし、一緒に暮らしたかったら一緒に暮らすのは当たり前じゃないの?


「……ごめん、凄く仲がいいねって言った方がよかった?」

「そっちでいいじゃん」


 あまり気にしてない素振りを見せたけど、どうやら素振れてなかったようで、小田くんはその後俺と真秀くんについて詮索することはなかった。


 真秀くん、これから結婚したりするのかな。





2


「疲れた……」


 人通りの少ない夜道をとぼとぼと歩く。金曜夜はいつだって大変だ。

 大学生になってすぐに俺が始めたバイトは、やっぱり料理だった。居酒屋の厨房で働いている。お母さんと父さんには「家のことをいろいろとやってくれてるからバイトは無理しなくていい」と言われたけど、料理をしてお金を稼いでみたかった。

 居酒屋のバイトを始め、最初は覚えることがたくさんあったし、いろんな料理やいろんな味を経験できることが楽しいと感じていたけど、最近は忙しさと慣れで楽しさを感じる心すらない。

 俺は料理が好きで、自分でそういう道を選んだのに、義務になると楽しいこともなんで楽しくなくなるんだろう。大学の勉強も、好きで始めたことなのに、楽しいより難しいや面倒くさいが勝ってしまう。


(家でやる料理は楽しいのにな……) 

 

 なんでこうも違うんだろうな。

 最初は自分が美味しいと思えるご飯を作れればそれでよかった。でも、真秀くんが俺のご飯を食べてくれるようになってからは献立を考えるのも楽しくなったし、美味しいって言ってもらえるようにたくさん頑張った。真秀くんが俺の生き方を決めてくれたと言っても過言ではない。

 バイト先は家から近いところを選んだので、もうすぐで家に着く。賄いを食べて帰ろうかと思ったけど、なんとなく早く帰りたくて今日は辞めた。

 真秀くんちゃんと夜ご飯食べてくれたかな。ご飯ちゃんと足りたかな。


「ただいまー」


 返事は返ってこない。もしかしたらおかえりと言ってくれてるのかもしれないけど、俺が玄関でちゃんと聞き取れたことはない。

 リビングの扉を開けると、真秀くんはソファで寝そべりながらテレビを流し見していた。いつもの光景だ。さて俺はこのへとへとな体にご飯を流し込もう。

 キッチンに向かい冷蔵庫を開けると、俺が学校に行く前に作ったご飯が、ラップがかかったままの状態で2セット置いてあった。


「あれ、真秀くんまだ食べてないの?」

「ん」


 真秀くんは体を起こしてのそのそと歩き、冷蔵庫からご飯を取り出した。慣れたようにレンジに突っ込み温め直しをしたので、これから食べようとしているのだろう。

 あ、もしかして俺と一緒に食べるために待っててくれたのかな。


「俺も一緒に食べていい?」


 真秀くんは無言で頷いた。嬉しい、嬉しい!

 俺と真秀くんが出会った頃なんて、俺が作ったご飯に手を付けることすらなかったのに。お腹が空いているだろうに、今は俺の帰りをわざわざ待っていてくれるんだ。

 嬉しくなって真秀くんに笑いかけると、真秀くんは照れくさそうに視線をそらした。ううん、可愛い。昔はあんなに俺のこと睨んでたのに、丸くなったもんだ。


 お互い席につき、俺がいただきますと言うと被せるように真秀くんも小さい声でいただきますと言った。今日の夜ご飯は豚汁と炊き込みご飯と卵焼き。豚汁が面白いくらいに具だくさんのなので、メインは作らなかった。冷蔵庫にあった中途半端な具材を無くすことができたので、大満足である。

 真秀くんが大きな口で炊き込みご飯をパクリと食べた。気持ちのいい食べっぷりだ。


「おいし?」

「……ん」


 食べながらこくりと頷く。真秀くんは素直じゃないので、褒めるときはそっけない。箸の進み方がとても早いので、嘘ではないのだろう。まあ、いつもぺろりと平らげてくれるので、多分何を出してもいい気がする。真秀くんがこうやって食べてくれるから、俺も毎日のご飯が楽しい。


「……」


 楽しい、けど。

 この毎日って、いつまでだろう。


「ましゅうくん」


 呼び止めると、真秀くんは箸を止めてこちらを見た。喧嘩をしなくなったから、顔には傷一つない。いつ見ても綺麗な顔をしている。


「真秀くんって、結婚願望ある?」

「ん”っ」


 ゴホゴホ! と凄い勢いで咳き込んだ。真秀くんが。珍しいものを見た。真秀くんは口に手を当てながら、目をまんまるにしていた。


「は……」

「あ、いや、学校でそういう話題になって、ましゅうくんはどうかなって」

「……兄ちゃんは、どうなの」

「え、俺ぇ?」

「ん」

「俺は、うーん、あんまり今は……」

「え」

「え?」


 まんまるい目がぎょろりと俺を見ている。なんでそんな反応を。


「……兄ちゃん、あの夢やめたの」

「え? ど、どれ?」

「……」


 真秀くんは顔をそらし、黙ってしまった。俺、何か悪いこと言っただろうか。


「俺じゃなくて、えっと、ましゅうくんは?」


 そう言うと、真秀くんは何故かいじけたかのように口を少し尖らせた。え、可愛い。じゃなくて、さっきからなんでそんな反応をしているんだろう。やっぱり俺には分からなかった。真秀くんの気持ちの何もかもを。


「……あるけど」

「へ……」


 真秀くんは立ち上がり、食器を持って流しに移動した。一口が大きいから食べるのも早い。強制的に俺達の会話はここで終わってしまった。

 俺は真秀くんがリビングからいなくなっても、その場で座ったまま呆然としていた。


 真秀くん、結婚願望あるんだ。

 え、じゃあ、ずっと俺と一緒って、絶対無理だ。

 俺なに呑気に真秀くんとずっと一緒にいられるって思ってたんだろう。

 俺、いつかは真秀くんと離れなきゃいけないんだ。





3


 ところで、真秀くんはとてもかっこいい。雰囲気は怖いかもしれないけど、モデル業をしていない方が不思議なくらい全てが整っている。高校時代はかなりやんちゃだったので、ほとんどの人が真秀くんのことを恐れて近寄らなかったけど、でもやっぱり真秀くんのことが好きな女の子はたくさんいたと思う。真秀くんの両隣が女の子で固められている現場も目撃したことがある。真秀くんに彼女がいたとかそういう話は本人からなにも聞いたことがないけど、でもあれだけモテてたら何人かはいたかもしれない。

 だから、大学で彼女ができたとしてもなにもおかしいことはないのだ。


「今年の学祭のミスコンで優勝してた先輩……安藤先輩っているじゃん」

「うん」

「その人、山口くんの弟と付き合ってるんだろ?」

「え?」

「わっ」


 水の入ったコップが手から滑り落ちた。学食の乗ったトレーの上、唐揚げの上にまで水がかかってしまい最悪だ。小田くんは悲惨な俺のお昼ご飯を見て哀れんでいた。慌てて手持ちのティッシュで拭き取ったけど、俺の手元なんてどうでもよかった。


「なん、え、そうなの?」

「え、知らないの?」

「知らないよ」


 小田くんはスマホを操作し、俺に1枚の画像を見せた。


「ましゅうくんだ」

「隣は安藤先輩だな」


 キャンパス内だろう。二人が会話している、のか、は微妙だけど、とにかく二人が並んでいる写真だった。びっくりするくらい画になる。映画のワンシーンかと思った。


「これが学祭以降出回ってて」

「なんで?」

「安藤先輩の顔見てみろよ。こんなデレデレな顔見たことないぞ」

「もともとこんな顔じゃないの?」

「山口くん、もしかして安藤先輩のことあんまり知らない?」

「うん、だって知らない人だし」

「こんなに可愛いのに」

「んー、そうだね」


 可愛い、可愛いのか。俺って女の子を見る目がないのかな。みんな一緒に見える。


「でも真秀くんの方が可愛いよ」

「え?」

「え?」

「これが?」

「え? うん」

「あ、そう……」


 小田くんは写真に写る真秀くんと俺を交互に見て、苦笑いをした。なに、俺おかしいこと言ったのだろうか。


「この写真と、ましゅうくんが安藤先輩と付き合ってるっていうのは関係あるの?」

「いや、こんなお似合いだったら付き合ってるんじゃないの?」

「お、お似合い?」

「それに、安藤先輩も時間見つけては山口くんの弟に会いに行ってるって噂も聞くし」

「え、そんなの、片思いじゃないの?」

「山口くんの弟が女子と喋ってるところなんてあんまり見たことないけど、安藤先輩とはよく喋るみたいな情報も」

「違うよ、話しかけられたからその分返してるだけだよ」

「……ふ、」


 突然小田くんが静かに笑い出した。なになに、やっぱり俺のなにかがおかしいのだろうか。


「山口くん、やっぱりブラコンすぎ」

「え、え?」

「ごめん。まあ、本当に二人が付き合ってたら気を落とすなよ。学食くらいは奢ってやるよ」

「え、え、え?」


 小田くんはその後話題を変えて、明日のテストがとか、課題がどうとか、そういうことを言っていた気がするけど、なにも頭に入ってこなかった。水を浴びた唐揚げも味がしない。


 そうか。あの二人ってお似合いなんだ。そうだよな、美男美女で二人とも綺麗で。真秀くん、あんな人と結婚するのかな。





4


 今日はバイトが休みなので、帰宅してからはのんびり家事をしていた。のんびりというか、ぼけー、という音の方が正しい。洗濯物を取り込み、ただ流れているだけのテレビをBGMにゆっくりと服を畳んでいた。

 真秀くんはまだ帰ってこない。今日は水曜日。いつもだと真秀くんはこの時間には家に帰っているはずだ。『帰るの遅くなる』というメッセージだけ送られていた。真秀くんなにしてるんだろう。……いや、別になにしててもよくない? もう喧嘩はしてないし、危ないことはしないって約束したし、真秀くんももう大人なんだから、そこまで心配しなくても大丈夫だ。いや、そこは問題じゃないでしょ。そうじゃなくてもっと気になることがあるんじゃない? うるさいな、別に真秀くんの好きなようにさせればいいじゃん。なんて、脳内で自分同士が会話している。そうだよ、真秀は真秀くんなんだから、真秀くんがやりたいことをやればいい。


 うだうだ考えていると、いつの間にか夜も遅くなっていた。なんか、全然ご飯を作る気になれない。ごめん真秀くん、今日はレトルトのパスタで許してくれ。

 鍋に水をたっぷり入れて火にかける。IHってなんで沸騰まで凄く時間がかかるんだろう。この時間で何かを作ろうという気持ちも起きなかったので、もう一度リビングに戻ってソファに寝そべった。

 あ、真秀くんいつ帰ってくるか分からないなら、今パスタ茹でないほうがいいんじゃない? 今作って、もし帰りがすごーく遅くなったらパスタ冷めちゃうな。チンしてもらおうかな。いや、美味しくなくなるかな。まあいっか。もしかしたらなにか食べて帰ってくるかもしれないし。誰と? 誰と、誰と……。


 ……あー。






「おい!」


 大きい声が聞こえ、意識が浮上した。どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい。真秀くんが俺の目の前で鬼の形相をして立っている。こういう顔、久しぶりに見た。


「お湯!」

「……あ」


 あ、そういえば、お湯沸かしてたんだった。

 真秀くんは早足でキッチンに向かい、火を止めた。ピーっとIHの音がする。壁に掛けてある時計を見ると、水を火にかけてから30分ほど経っていた。IHといえど、ゾッとしてしまった。俺、なにやってんだろう。

 真秀くんは大きく足音を立て、また俺の目の前にやって来た。先ほどと変わらず、酷く怒ったような顔をしている。何も言わなくても真秀くんの言いたいことが伝わってくる。


「ごめんなさい」


 ごめんなさいなんて、真秀くんに初めて言った。今まで真秀くんを怖いと思ったことはあんまりないのに、今は何故かとても怖かった。

 

「……いつもはこんなことしないだろ」


 真秀くんは小さく呟いた。その通り。でも今日は「いつも」の俺じゃない。


「うん、ごめんなさい」


 顔を合わせられない。俯いたまま、俺も小さく呟いた。頭上からため息が聞こえる。ヤダな、そんなの聞きたくない。


「具合悪い?」


 真秀くんも頑張って優しくしようとしてくれているのだろう。俺はふるふると首を横に振った。ため息は聞きたくないけど、そんな優しい言葉も言わないでほしい。そんなんじゃなくて、俺がただ単にぐるぐる考えてしまっただけなのに。恥ずかしい、申し訳ない、こんなみっともない自分見られたくない。


「ぅ……」


 そんなつもり全然なかったのに、勝手に目から大粒の涙が溢れてきた。鼻をすするとジーンズにぽたりと涙が落ちて染みができた。顔を上げなかったけど、真秀くんは色が変わっていくジーンズを見て俺が泣いていることに気付いたようで、慌てて俺の肩を掴んだ。


「誰に、なにやられた」

「は、ぇ」

「言えよ、俺が片付けてくる」


 真秀くんの目が本気だった。喧嘩はやめても、性根は変わっていなかった。違うよ、誰にとかじゃないよ。


「ましゅうくん」

「は」

「……ましゅうくんが」

「はっ、え、お、俺?」

「結婚したらいなくなる……」

「え?」

「ましゅうくんと安藤先輩が結婚したら、俺どこ行けばいい?」

「ハァッ!?」

「うぅーーーっ」

「ちょ……」


 もうみっともないとか恥ずかしいとかどうでもいい。こうなったら泣くだけ泣いてしまえとヤケクソになって馬鹿みたいに思いっきり泣いた。細くなった視界から見事にうろたえる真秀くんの姿が見える。


「兄ちゃん、兄ちゃん」

「なんで、俺に話してよぉ! なんで今までずっと隠してたの、俺、せ、せめて、一番最初に聞きたかった!」

「どの話!?」

「安藤先輩と付き合ってる!」

「誰が!!」

「ましゅうくんが!!」

「なんだよそれ!!」


 ぱん! と気持ちのいい音が鳴った。俺の頬から。真秀くんの両手に勢い良く挟まれてしまい、俺はなにも喋れなくなってしゃくりながらただ真秀くんと目を合わせた。凄く必死な顔をしていた。


「なんの噂だ、それ」

「う……?」

「兄ちゃん勘違いしてる」

「うぇ……」

「俺、誰とも付き合ってない」

「ぇえ!?」


 潰れた口でほんと、と聞くと真秀くんは大きく頷いた。放心していると、真秀くんの手が頬から離れていった。


「じゃ、じゃあ、ましゅうくん、安藤先輩と付き合ってないの?」

「誰だよそれ」

「ええ……? ミスコンの……なんか、凄い人」

「誰だよ。知らねえよそんな人」


 真秀くんは眉をひそめていたので、本当に安藤先輩のことを知らないようだ。まあ、俺もそんなに知らなかったけど。


「ましゅうくんがよく喋ってるらしい女の先輩だよ」

「だから誰だって。そんなの覚えてねえよ」


 真秀くん、そういえば人を覚えるのがとんでもなく苦手だったな。俺と真秀くんはそういうところが似ている。


「え、じゃあ、今日帰るの遅かったのって、デートしてたからじゃないの?」

「誰となにするんだよ。教授に課題の相談してたんだけど」

「ま、まじめ……」


 なんて真っ当な男の子に育ったんだ。あんなに荒れくれてたのに、課題の相談だなんて……。


「はぁ、なんだ……。俺てっきり、ましゅうくんが安藤先輩と結婚するのかと思った……」

「だから、それなんなんだよ! 飛躍しすぎだ!」

「だって、真秀くん結婚願望あるって言った!」

「言ったけど! なんでそこでそのアンドウって女になるんだよ!」


 真秀くんは髪をがしゃがしゃと掻き、恥ずかしそうに、苦しそうにまごついた。


「俺、前に兄ちゃんが石油王と結婚したいって言ったから、俺が石油王になるって言った!」

「えっ」

「……わ、分かれよ、意味。大学生にもなったんだから……」


 尻すぼみで言葉が消えていく。真秀くんは俯いている。髪の毛の隙間から覗く耳が真っ赤だった。

 俺は漸くその意味を理解し、俺までつられて顔から火が出た。それって、つまり。


「あ、あんなの、可愛い弟の冗談だって思うじゃん!」

「俺は今まで冗談なんて言ったことねえ!」

「なんでっ……、じゃあ、俺が大学で話かけるときなんでいっつも嫌がるの!」

「嫌がってねえよ!」

「嫌がってるもん! 俺のこと避けてる!」

「違う、あれは……」


 真秀くんは俯いたままだった。今の真秀くんの顔を見れたらどんなに良かっただろうか。


「俺が兄ちゃんと話してたら、いろんな人が兄ちゃんと俺を見るから、それが嫌だった」

「は、はえ……」


 口から意味のない言葉が出てきた。心臓から変な音が聞こえてくる。静まれ、静まれ……。


「俺、兄ちゃんと喋ると顔変になるから、そしたら絶対みんな俺のことからかうから、だから、……ごめん」

「なっ……んだよ、それぇ……」


 静まらない。どうして俺の弟はこんなに可愛いんだ。真秀くんはずっと下を向いている。ぎこちなく手を開いたり閉じたりしている。この子が怖いだなんて、誰が言ったんだろう。


「顔変って、こういうこと?」


 俺がさっきされたみたいに、真秀くんの両頬に手を添えて顔を上げさせた。見たことがないくらい顔が真っ赤だ。真秀くんは、俺と喋ってるとこうなっちゃうの?


「変じゃないよ。俺はたくさん見たいな。ほんとは、大学でももっとましゅうくんと喋りたい」

「……わかった」


 真秀くんはこくりと頷いた。5年も経つと、こんなに素直になるもんだ。

 仲直りのハグ。両手を広げると、真秀くんが優しく飛び込んできた。二人でソファに雪崩れる。密着している真秀くんの体が酷く熱い。それは俺も同じかもしれない。

 真秀くんは俺の首元に顔をやり、すうっと息を吸った。鼻息がかかりくすぐったくて、身をよじるとお腹のあたりに手のひらが這った。動きを制御されてるみたいだ。


「兄ちゃん、いい匂いする」

「そっ、そう、かな、ましゅうくんも、俺とおんなじにおい……ひっ」


 顔を埋められている首元がぞわっとした。ぴちゃ、ぴちゃと水音が聞こえる。舐められている。


「ましゅうくん、俺、お、おいしくないよ」

「俺、兄ちゃんと結婚したい」

「え」


 くぐもった声。でも耳に近いせいで、よく聞こえてしまった。服の上から這っていた手は服の裾の下に潜り、指の腹が俺の皮膚に食い込んだ。声帯が震える。


「こ、これ、」

「兄ちゃん、俺本当に兄ちゃんと結婚したい」

「ン、ましゅうくん、それはできないよ、俺達家族だし……あっ」


 ぐり、と臍を指で強く押された。そんなとこ、やめてくれ。変な声が出て慌てて口を手で抑えると、真秀くんは俺の手のひらに自分の手を絡め、ソファに縫い付けた。指の間の神経すらじんじんする。


「そういうのどうでもいい。俺らどうせ血繋がってねえんだよ」

「あ、っ、だめ、それ」


 体を這う手がいったりきたり、時々胸を掠めるたびに体が震えた。真秀くんは俺の首元を舐めては甘噛みしてを繰り返した。おかしい。肉を、骨を噛まれるたびにじんじんする。


「でも、お、俺は、家族だって思ってる……から、だっ……ん、ぅ、駄目、だよ」

「 じゃあ、家族とかカンケーなかったら俺と結婚してもいいって思ってんの」

「ひっ!」


 縫い付けられた手のひらから真秀くんの手が離れていき、そしてその手は俺の耳を擽った。指が縁をなぞり、柔らかいところを揉まれ、入り口を優しく掻かれた。未知の感覚に体が縮まる。あ、俺、これ駄目かもしれない。


「っ、ま、っ……あっ、や、これ、ん、んっ!」

「兄ちゃん」

「ふぁ、ああっ」

「俺が弟だからできないの?」


 ふっと耳に息が吹きかけられる。ぞわぞわする。自分の口から嫌な声が漏れ、泣きそうになった。真秀くんの低い声がゼロ距離で鼓膜に届き、体がぶるぶると震えた。


「問題はそれだけ?」

「あ、」


 耳から顔が離れ、脱力しきった俺の腕が持ち上げられた。真秀くんはそのまま俺の腕に顔を近付け、ぱかっと口を開けた。いつものだ。真秀くんの、形のいい歯が皮膚に刺さる。柔く、皮膚の感触を確かめるように腕を噛まれる。


 それだけ、って。それが全てでしょう。

 俺は兄で、真秀くんは弟で、血の繋がりは無くても俺達は家族だ。


「言えない?」

「ま、ましゅうくん、か、噛まないで」

「兄ちゃん、」

「いっ」


 ぎゅ、と力を込めて強めに噛まれた。腕にはくっきりと歯型が残る。唾液のせいで、歯型の窪みがてらっと光っていた。いけないものを見たような気がして、心臓が大きく鳴る。真秀くんは顔を上げた。


「好き」

「ま、待って、」

「好き、兄ちゃん」

「あ、ぅ」


 もう一度歯型に沿って俺の腕に噛み付き、執拗に甘噛みされた。なんだかいつもと感覚が違う。神経ごと食べられているようで、体の震えが止まらない。

 真秀くん、好きって。今までのこの腕を噛むのって、そういう、意味の……。


「好き」

「ん、っ、ま、待って、俺、もういっぱいいっぱいで」

「好き、好き」

「ひぃ」


 次は腕から口が離れ、耳元で甘く囁かれた。これはいけない。反射的に目を固く閉じたけど、もっといけなかった。


「兄ちゃん、大好き」

「ああっ、あ! あ……」


 真秀くんの舌が耳の中に入ってきて、ぐぽぐぽと音を立てた。耳の中、脳みそのなかが全部真秀くんの感覚でいっぱいになる。噛まれ、舐められて、また好きと言われ、頭がおかしくなりそう。


「んぅっ」


 ビリッと明確な快感が背筋を走った。真秀くんの指が俺の乳首をぎゅっと摘んだ。じんじんする。かと思えば次は優しく先っぽを撫でられ、予測できない感覚に翻弄された。耳は真秀くんの舌でいじめられたまま、胸はこんなことをされて、耐えられるはずもなかった。下半身がじんじんと重くなる。やめてって言いたいのに、言えない。


「ましゅうく、」

「兄ちゃんも、俺のこと好きだろ」

「あ、え……」


 真秀くんが俺をまっすぐ見た。魔法がかかったみたいに、真秀くんから目を逸らせない。顔がゆっくりと近付く。鼻と鼻がぶつかり、真秀くんの吐息が口にかかった。火照って熱が顔をぐるぐる回っている感覚がする。


「俺と一緒にいたい?」


 そんな、ずるい。

 もう分かってるくせに。


「……うん」


 お互いの唇がゆっくりと触れ合い、すぐにすっと離れていった。真秀くんの顔が優しくて、意味も無く泣きそうになる。


「兄ちゃん、好きって言って」


 そう言うと、またキスをされた。心臓が痛いくらい動いている。くらくらして、耳鳴りすら鳴ってい気がした。


「す、すき……」

「誰を?」

「ましゅうくん……」

「ふ、」


 真秀くんが小さく笑った。滅多に笑わないのに、溶けそうなほど柔らかく笑っている。溶けそうなのは俺の方かもしれない。


「俺も、兄ちゃんが好き」


 もう一度唇が重なり、次は小さく開いた隙間から舌が潜り込んできた。分からない。俺、これが初めてのキスだから、どうすればいいか全然分からない。固まっていると、真秀くんの舌が俺の舌の表面を撫で上げた。


「ン、ン、ぅ……」


 ざり、ぴちゃ、ぐちゅ。なんて、こんな音聞いたことがない。粘膜同士が擦れて、真秀くんの唾液と俺の唾液が混ざって、口の中の気持ちいいところを全部撫でられて、オレの意思とは関係無しにびくんと腰が痙攣した。頭がぼーっとする。このまま続けられたら、自分が自分じゃなくなるような気がした。なんとか腕を動かし、真秀くんの胸元を叩いた。


「ましゅ、く、もうむり、ぃ」

「ん、駄目、まだ」

「お、俺、トイレ行かないと」


 下着の中の不快感が凄いので、もう既に大惨事な気がするけど、このままでは非常にまずい。

 真秀くんの腕から抜け出そうとすると、体を倒され、また仰向けになって体を固定されてしまった。どうやっても真秀くんに力で敵わない。


「いいよ、ここでイって」

「へ」


 真秀くんは俺の履いていたジーンズに手を伸ばし、器用に下着ごと下ろした。なにも抵抗できなかった。完全に勃ってしまった性器はドロドロに濡れていて、火を吹きそうなほど恥ずかしくなった。慌てて手で隠そうとするも、真秀くんに手を取られてしまう。真秀くんは俺の下半身を見て喉を鳴らした。


「ましゅうくん、むっ、無理、恥ずかしい」

「じゃあ、俺も脱ぐから」


 そんなの、もっと恥ずかしいじゃん。

 ジジ、と真秀くんが履いているパンツのチャックがゆっくりと下ろされた。見ちゃいけないと思ってても、視線を動かせない。真秀くんはゆっくりと身に着けていたものを下ろし、下着の中からは大きくて強そうなものが出てきた。俺のと全然違う。自分のが恥ずかしいくらいだ。


「たっ、勃ってる」

「兄ちゃんもだろ」


 真秀くんは俺のと自分の性器をぴたっと合わせ、手で握り込んだ。熱い。触れただけで達してしまいそうだった。


「ぁ、これ、だめ……」

「だめって顔してない」


 そんなことを言われたから恥ずかしくなって顔を横に向けると、無防備になった耳に息を吹きかけられた。思わず声が漏れる。真秀くんを見ると、意地が悪そうな顔をしていて、心臓がぎゅうっと締め付けられた。


「ぅ、ぁ、あ、あ!」


 真秀くんの手がゆっくりと動いた。ぞりぞりと裏筋が擦れ合って、直接的な快感が俺を襲った。お互いの先走りが混ざり合って、ぐちゅぐちゅと音を鳴らしいている。もう既にイきかけていたのに、こんなのされたらたまったもんじゃない。


「ああっ、まっ、ましゅうく、だめ! で、出るっ」

「だめ、もうちょっと我慢して……」

「ん、ふっ、ふぅ……」


 我慢、我慢って、どうすればいいんだ。そんなのできないよ。真秀くんも一緒にイきたいのだろうか。じゃあ、と俺は手を伸ばした。


「ッ、あ」


 真秀くんの、てらてらと光っている先っぽに指を這わせて優しく撫でた。真秀くんは表情を崩し、気持ちよさそうに声を上げた。あ、そんな顔されたら、俺、無理かもしれない。


「兄ちゃん、はっ……、もっと、強く……」

「ん、んっ、ましゅうくん、もっ、むりっ……」


 俺が強めに真秀くんの先っぽを磨くと、真秀くんは歯ぎしりをして腰の動きを早めた。


「ましゅうくんっ、い、イくっ……」

「兄ちゃん、兄ちゃん……」

「は、ン、む、ぅ……」


 無我夢中で口を合わせた。口からも合わさった性器からもひどくいやらしい音がして、もうなにがなんだか分からなかった。とにかく気持ちよくて頭が馬鹿になって、真秀くんのことしか考えられない。酸欠気味でチカチカと目の前が光る。弾け、精液がだくだくと腹を伝った。快感の強さに思わず真秀くんの性器を握り込むと、真秀くんも吐息を漏らして射精した。終わってからもまだ体の震えが止まらない。不規則にビクビクと跳ねていると、真秀くんはぎゅっと俺に抱きついた。


「あ、あ……」

「兄ちゃん、好き……」

「んっ……」


 神経が敏感になって、抱きしめられただけでぞくぞくと快感が走る。真秀くんは俺の左手を持ち上げ、薬指を口に含んだ。強めに噛み、角度を変えて何度も食んだ。それすら気持ちよくてどうにかなりそうだった。


「兄ちゃん、結婚しような」

「は、ぁ、あ……」


 薬指を噛み続けられ、くっきりと歯型のリングができた。俺はそれを眺め、ゆっくりと瞼を落とした。


「絶対結婚しよう、な」

「うん……」





5


 いや、うん、じゃないよねーーー!?


 ガバッと体を起こした。壁の時計は朝の6時を指している。カーテンの隙間から射す朝日が眩しい。鳥が囀っている。これが、朝チュンというやつ……。

 いつの間にかベッドに運ばれていたようで、横には真秀くんがすやすやと寝ている。あどけない寝顔に癒やされかけたけど、昨日の痴態を思い出して一人で悶た。

 あんなこと、あんな、まぐわいを……。え、俺、パジャマ着てる。真秀くんが着替えさせえくれたんだろうか。お、俺の、汚れた体を拭いて、着替えまで……。


「あ、あああー……」


 俺、正気じゃなかった! あのとき正気じゃなかった!

 真秀くんがあまりにも可愛くてかっこよくて流されたけど、全部おかしいよね!?


「兄ちゃん」

「!」


 赤くなったり青くなったりして悶ている俺の腰に手が周り、ぎゅっと締め付けられた。


「あっ」


 昨日の感覚がまだ残っている。少しの触れ合いでも昨日を思い出してしまい、変な声が出た。咄嗟に手で口を抑える。

 見下ろすと、真秀くんが俺を見てくすくすと笑っていた。


「兄ちゃん、可愛い」

「かわっ……」


 真秀くんが、可愛いと言った。

 口を開けばおい、とか、クソババア、とかしか言わなかった真秀くんが。大学で俺を見かけるとそそくさと逃げて行く真秀くんが。真秀くん、三重人格くらいあるかもしれない。


「わっ」


 真秀くんは俺の体に顔を擦りつけ、力を込めてぎゅうっと抱きついた。猫みたいだ。


「ましゅうくん、俺、あの」


 何かを言わなきゃいけない。何を?

 好き、結婚、ずっと一緒、でも俺達……。


「ん」


 顔を上げ、真秀くんは朝日みたいに柔らかく笑った。

 なんだ、その顔。そんな顔、俺、初めて見た。

 そんな顔で……そんな、そんな可愛い顔、なんて愛おしいんだ。


「ましゅうくん」


 なんかもう、なんでもよくなってきた。

 俺が兄だとか真秀くんが弟だとか血の繋がりがないだとか家族だとか、もうなんだっていいや。こんなに愛おしい存在とずっと一緒にいられるなら。


「ホットケーキ焼いたら食べる?」

「ん」


 メープルシロップとバターたっぷりの、甘くてふわふわのホットケーキ。

 頭を撫でると、真秀くんは目を細めて笑った。




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