18
なにしてるの、と声が聞こえる。
誰の声かも、誰に問いかけているのかも分からずただ佇んでいたけれど、再度なにしてるの、と聞こえてきた。声のする方に顔を向ける。目線を下げると、男の子がいた。その子は俺をじっと見ている。
「……子ども?」
「何言ってんの?お前も子どもだろ」
そう言われて、ああ、そうだったと自覚した。俺とその子の目線はおんなじ位置だった。
その子は腕にうさぎを1匹抱えている。何故だろうと思い足元を見下ろすと、他にもうさぎが複数匹いた。掃除された後なのか、餌だけが撒かれていて地面は綺麗だった。
「こいつ、弱ってんだ」
その子に抱えられているうさぎを見ると、じっとしていて大人しく、弱々しく呼吸をしていた。
「元気ないの?」
「エサ、全然食べない」
うさぎの頭をそっと撫でる。でも、特に反応はなかった。口元にエサを持っていっても食べようとはしなかった。
「可哀想だね」
俺がそう言っても、その子はなにも答えなかった。
「前からずっと元気なかった。大人しくて、ずっと端っこの方でじっとしてた。俺らと一緒だよ」
最後の言葉が気になり、撫でる手を止める。その子は目を伏せ、そしてうさぎを床に下ろした。
「どうしたの?腕の、それ」
俺は指を指してその腕の内側に滲んでいる赤くて黄色い痣を見た。その子はそれを隠すように、急いで袖を伸ばした。
「別に、なんでもない」
なんでもないことはないだろう。俺だって、その色の怪我は時々する。クラスの子につねられたり、転ばされたり、物を当てられたりしたらそうなるんだ。きっと、じくじくと痛むはずだ。
「まいごもどうしたの?」
「え?」
まるで話題をそらすように、今度はその子が俺に問いかけた。ああそうか、俺はまいごだった。
なにが、と言う前にその子は俺から距離をとってランドセルを背負った。
「なんでこんなところにいるの?」
「……え」
「まいごと俺は一緒にいちゃ駄目だろ」
「なんで?」
「だって、まいごは、タスクは__」
その瞬間、床がどろどろと崩れ落ちて、その子は得体の知れない泥濘に嵌っていく。必死に近づいても手を伸ばしても届かなくて、俺も何かに飲み込まれていった。
あれ、なんで俺の名前知ってるんだろう。
「__求、もう寝た?」
薄ぼんやりとした、靄がかかったような空間に俺が1人佇んでいる。いや、1人じゃない。俺は側にあった椅子に座った。目の前には四角い机がある。そして対面には、__王野が座っている。
机の上には白と黒でできた市松模様の正方形の盤が置かれていた。無造作なのか計算されてか、不規則に駒が配置されている。
「ああ、別に寝てても起きててもどっちでもいいんだ」
起きてるよ、と言おうとしたけれど、声は出なかった。目の前の王野も喋っているはずなのに、どこか不明瞭でそこにいる実感があまり無かった。
王野__らしき人物は、その盤に指を置き、トントンと爪の先で叩いた。
「チェス、やったことある?」
ううん、と言えず、首を横に振ろうと思ったけれど、それも出来ない。俺は視線を動かして、目の前の駒を見つめた。王野は俺に構わず、1人ごちる。
「俺、チェス好きなんだ。究極の心理戦と頭脳戦、かっこいいし、自分の思うようにゲームが進むと気持ちいいんだよ」
王野は手を動かし、盤の上に乗っている駒を持ち上げた。俺はチェスのルールが分からないから、それがどういう役割のものなのか知らない。じっとその駒を見ていると、ふ、と笑う声が聞こえた。
「サクリファイスって知ってる?」
手にしていた駒がまた盤の上に置かれる。指先は離さず、駒の頭に乗せたままだ。
「あえて自分の駒を犠牲にして、自分が優勢になるように場面を作る事なんだけど」
ぐ、とその駒を傾け、指を離した。バランスが取れなかった駒はカタン、と音を立てて盤の上に横たわる。周りを囲む駒たちはまるでそれを見下ろしいてるみたいだった。
「サクリファイス、直訳すると生贄だって。生々しい名前」
その横たわった駒から目が離せない。前方から引き摺るような音が聞こえ、俺は顔を上げた。王野は椅子から立ち上がり、そして俺を見つめていた。
王野はいつから、こんな寂しそうな顔をするようになったんだろう。
「俺も求もさ、一緒だね」
空間が歪む。立ち上がり手を伸ばしても、やっぱり掴めない。近くにいるのに空を切るだけだ。何かを伝えようと必死に口を動かしたけど、出たのは荒く息を吐く音のみだった。
王野はそんな俺を見て哀切に笑った。俺が手を伸ばしても、王野は掴み返してくれなかった。
「求は俺から逃げたいのかもしれないけど、俺は求を逃したくないよ。どうすればいいかな」
暗闇に落ちていく。どこまでも深くて、底が見当たらない。落ちて、もがいて、その先の王野の顔は、もう見えないところまで深く落ちて、落ちて、落ちて、
「__ッぁ!」
跳ね起き、周りを見渡した。カーテンから薄く黎明の光が射す。ドクドクと心臓が脈打ち、皮膚からはじわっと汗が吹き出た。暫くしてあの不思議な体験は全て夢だったと気付き、深く息を吐いた。
ベッドの横を見る。そこには王野の姿は無かった。昨夜俺は王野に傷付けられたのに、今まさに俺の横に彼の体温がないという事実は、漠然とした不安を煽った。シーツを撫でても冷たいだけだった。
そのまま顔を持ち上げ、部屋のクローゼットを見る。僅かに隙間が開いていて、暗闇の線一本が縦に引かれている。どく、どくと音を立てる鼓動の速度は一向に落ち着かない。
俺は、何か大事な事を忘れている気がする。
19
あれから1週間が経った。
王野はあの日の事に対して何も言及せず、ただいつも通りの生活に戻った。俺も王野に何も言えなかったし、何も聞けなかった。いつも通り、というのは形だけで、どことなく歯車が合わないような、動いているのにぎこちないような、そんな日々が続いている。
「もうすぐ誕生日だね」
「え?」
「求の誕生日」
そう言われるまで全く頭に無かった。俺の誕生日は12月1日だ。今日は11月28日なので、あと数日だった。昔はあんなに楽しみにしていたのに、今は何も思わない。
「何か欲しいものある?」
仕事に向かう車の中で、王野は運転をしながら俺に聞いた。
「ううん、なにも」
「そっか」
本当に、欲しいものなんて無かった。ただ俺を解放してほしいだけだ。でも、もうきっとそんな事は一生言えないし、だんだんとそんな気持ちも薄れていってる。
「やりたい事とかは?」
「やりたい事……」
それも思いつかず、小さく首を横に振った。王野はもう一度そっか、と言った。車の窓は閉まったままだった。
オフィスに入るなり、王野は自分の机に向かう事なく課長と談話室に入って行った。最近王野主任よく面談してるよね、と女性社員が口にしているのが聞こえた。
今日は朝礼が無い日だ。ホワイトボードにマグネットを貼ったり出先を書き込んだりして、出社した社員がどんどん席を離れていく。俺も今日は外回りに行かなければいけない日だった。昼からの予定なので時間はまだあるけれど、何をやる気にもなれず、屋上へと向かっていた。しんどい時も辛い時も何度もあったが、こんなに堂々とサボってみようと思ったのは初めてだった。
屋上のフェンスにもたれ掛かり、手にしていた缶のプルタブを開けた。自動販売機からはアイスココアが消え、温かいココアしかなかった。もうすぐ12月を控える風はやっぱり冷たく、ぶるっと体を震わせた。寒さを紛らわせるように、ちまちまとココアを喉に流し込む。
「堂々とサボってるんすか?」
「!」
いきなり背後から声をかけられ、驚いて缶を手から離してしまった。バシャ!と派手な音を立てて、青白い床にココアがぶちまけられる。背後から、ははは!と笑う声が聞こえた。
「あー、ごめんなさい。後でおんなじやつ買うんで」
「……高見くん」
顔を上げて息を呑む。缶を拾おうとしていた手が止まった。俺は何も言えず、辺りをキョロキョロと見回した。
「大丈夫だよ、王野主任の面談多分長いから」
「……」
目を見開いた。きっと高見くんは、俺と王野の関係を知っているんだ。
「めちゃくちゃ寒いじゃないっすか!求さん、ペラいからすぐ風邪ひいちゃいそう」
「そ、そんなこと無いよ。俺、冬生まれだし……」
「関係ないでしょ」
高見くんはそう言って笑いながら俺の横に移動し、落ちた缶を拾った。
こうして高見くんと喋るのは久しぶりなので、妙に緊張した。でも、高見くんは普段通り喋っていた。
「俺、もうすぐ昇進するんです」
「えっ!じゃあ、主任になれるの?」
「はい」
驚いて高見くんを見ると、得意げにピースサインをしていた。それが可愛らしくて、思わずふっと笑った。
「凄いね、おめでとう」
「うん、ありがとうございます」
「いっぱい頑張ってたもんね、1人でもチームでも結果上げて、夜も遅くまで残って……。ちゃんと評価されてよかったね。俺も嬉しいよ。本当に凄いね」
「……はは、あざす……」
唯一仲良くしてくれる後輩の昇進が嬉しくて、俺は手放しに高見くんを褒めた。高見くんは気恥かしそうにはにかんだ。
「これ、まだ誰にもおろすなって言われてるから、オフレコで」
「え、いいの、そんな話……」
「うん。求さんに一番に言いたかったし」
「……? なんで?」
「分かんない?」
うん、と頷くと、高見くんは更に恥ずかしそうに、改まって口を開いた。
「一番最初に、求さんに褒めてほしかったから」
「……え」
「最近はね、もうなんかヤケになって仕事してた。求さんいつ仕事辞めるか分かんないし、全然喋れないし、だからもう褒められたいって感情だけで、仕事頑張ってた」
「え、えっ、……え」
「……求さん、いっつも俺が欲しい言葉くれるから」
「え、あの、あの、あ……」
「……あー!はず!!」
と、大きく叫んで、高見くんは首をぶるぶると振った。俺もじわじわと恥ずかしくなっきて、口を開けて高見くんを見ていた。まさか、そんな事を思っていたなんて。
すると高見くんははあ、と息をつき、今度は落ち着いて淡々と語り始めた。
「俺、中途半端なのって嫌いなんです」
「……うん」
「中途半端に動いてんのは、動いてないのと変わらない。動いた気になってるだけだから」
まるで槍のように、俺の心に刺さる。高見くんはいつだって真っ直ぐで、ぶれる事なんて無かった。俺とは大違いだ。
「求さんが今の状況で納得してるんならいいんです。それだったら俺も何も言わない」
高見くんは前を見ている。でも、言葉は俺を向いていた。体が震えた気がする。きっと、寒さなんかじゃない。
「でも、そうじゃないんなら、ちゃんと決めなきゃ。自分で」
その言葉を聞いて、ぐ、と拳を握った。
決めるって、何を、どうやって。
「……どうすればいいのかな、俺。自分がどうしたいか、どうすればいいか分からない。自分の事を自分で決めるのが怖いんだ」
自然と言葉にしていた。言うつもりなんてなかったから、俺はハッとして口に手を当てた。
それでも前を見ていた高見くんはじゃあ、と俺の方を向いて、そして至極簡単そうに答えた。
「自分がどうしたいか分かんないなら、誰に何をしたいかを考えればいいんじゃない?」
俺は脱力して、腕を下ろした。
そんな事、考えた事もなかった。
俺が何も言えずにいると、高見くんは既に入り口に向かって足を運んでいた。途中、くるっと振り向いて俺を見つめる。
「本当は俺を選んでほしいけど、多分今の求さんはそうじゃないんでしょ」
「!」
「俺を言葉で救ってくれたみたいに、俺以外の誰かにもきっと同じ事が出来るよ」
20
翌日、休日だからと何もせずにぼーっとテレビを見ていたら、王野が俺の横に座った。既に外出用の私服に着替えていたので、1人でどこかに行くのかなと思ったら、意外な誘いだった。
「求、お出かけしよっか」
「え、俺と?どこに行くの?」
「うん。前言ったでしょ、俺が海に行きたいって」
「海に行くの?」
王野は微かに笑って頷いた。
この数ヶ月間、仕事での外出以外で外に出してもらえなかったから、俺も嬉しくなって同じように頷いた。
俺はすぐに着替えようと立ち上がったけど、よく考えれば自分の服を持っていない。スーツと、王野が用意してくれた部屋着しかこの家になかった。どうしようかと固まっていると、王野はそれに気付いたようで、ああ、と呟いた。
「寒いだろうから、あったかい格好にしよう」
王野はリビングから出ていき、数分後大量の私服を抱えて戻って来た。
「どれでもいいよ。好きなの選んで」
「え」
「俺のだからちょっと大きいかも」
そう言って服をカーペットの上にどさりと置き、見やすいように並べていった。これはどこのブランドだとか、これはちょっと薄手だからやめといた方がいいかもとか、いろいろ言っていたが、俺はただその手の動きを目で追うばかりだった。
「どれにする?」
「あの……俺、そういうのあんまり分かんないから、なんでもいいよ」
「……俺が選んでいいの?」
「うん」
俺がそう言うと、王野はぴたっと固まり、そして真剣に服を選び出した。じっくりと10分くらい悩まれ、俺はやっと着替える事が出来た。選んでもらった服に着替えて王野の前に立つと、嬉しそうな残念そうな、なんとも言えない表情をしていた。
「これなら、もっといっぱい出かければよかった」
「え?」
最後に王野は俺の首周りにマフラーを巻き、俺の手をとって玄関に向かった。
「由比ヶ浜、行った事ある?」
「ううん。全然外出とかしなかったから」
「そっか。俺も初めて行くんだ」
そのまま引っ張られ、駐車場まで移動する。助手席に座るまで、王野はずっと俺の手首を掴んでいた。
シートベルトを装着すると車は動き出した。
今日は天気が良い。高速道路に流れる、枯れ木ばかりの景色を目で追っていた。惰性で流していたラジオはだんだんと砂嵐に変わり、どの局に切り替えても何も聞こえなくなったところで王野はラジオを止めた。俺は自分から話す方じゃないし、王野もそこまで口数が多い方ではない。よく考えれば、数年間一緒に働いてきて会話という会話はあまりしてこなかった。
「求は車運転したいとか思わないの?」
沈黙が流れた事に気を遣ってか、王野が話題を振ってくれた。前までの自分なら、やりたいと言ってもどうせさせてくれないだろうとか、軟禁させてるくせになにを聞いてるんだとか、いろいろ考えたのだろうけど、そんな感情も全く無くなっていた。
「俺、免許持ってないよ」
「あれ、そうだっけ」
「うん。俺みたいなのが運転なんて、絶対無理でしょ……」
「そう?やってみたら意外と適正あるかもしれないのに」
「無いよ。だって俺、仮免落ちて嫌になって、教習所退校したもん」
「あはは!」
王野は目を細めて心底おかしそうに笑った。なんだか、久しぶりに王野のちゃんと笑った顔を見た気がする。
「諦めたんだ」
「逃げたんだよ……教官怖かったし」
「逃げられるだけの行動力があるのはいいと思うよ」
なんと返していいか分からず、そうかな、とだけ呟いた。ふと窓の外を見ると、海が広がっていて、俺は釘付けになった。
「じゃあこれからずっと車は乗ろうと思わないの?」
「……うん。都会だから今までも必要なかったし」
「前に住んでた所に帰りたいとか思わない?」
「はは……」
俺は笑って首を横に振った。昔住んでいた田舎町にはいい思い出がないし、そもそも後遺症のせいであまり思い出せない。戻る気なんて少しもなかった。
「王野は?」
「え?」
「ここが出身じゃないんでしょ。戻りたい?」
「……」
王野はハンドルを握って真っ直ぐ前を向いたまま、黙り込んでしまった。不自然に思い何か声を掛けようとしたけれど、いろいろと考えているように見えて、そのまま口を閉じた。暫くして王野は表情を変えずに答えた。
「戻りたくないな」
「……」
「……戻りたくないけど、でも、もうどこでもいいや」
「__え?」
その意味を聞く前に、王野はラジオのスイッチを入れた。ちょうど高速道路を抜け、ラジオDJの声が車内に流れた。
「もうすぐだよ」
カーナビを見ると、目的地まであと十数分だった。
本当はもっと聞きたい事がある。俺をどう思っているかとか、お父さんの事とか、王野の過去の事とか、たくさん聞きたいのに、本当に聞きたい事は結局聞けず終いだった。
車は海の近くの駐車場に停め、そこからは歩いて海岸まで向かった。想像してた通り海風は強く、海に向かって歩いている人はほとんどいなかった。
「潮の匂いがする」
「そうだね」
「やっぱり寒いね。もっと厚着の方がよかった?」
「ううん、大丈夫。十分だよ」
石垣から砂浜に続く階段を降りると、一面に太平洋が広がっていた。太陽に反射した水面が眩しくて、それがとても綺麗だった。
「空気が美味しい気がする」
王野はすうっと息を吸った。俺も真似するように、深呼吸をする。隣から小さく笑う声が聞こえた。こうやって王野が自然に笑っている間だけは、なんだか俺達の関係を忘れられる気がした。
「俺、海に来たの本当に久しぶりかも」
「そうなんだ」
「引っ越しで東京に来るまでに、家族と地元の海に行ったのが最後の記憶な気がする」
俺の昔住んでた所は車で簡単に行ける距離に海があったらしい。俺は事故で歩けなかったから、母親に車椅子を押してもらって遠くから海を眺めた。引っ越ししたら今よりは見れなくなるだろうからと、町を離れる直前に家族で海に寄ったらしい。
「……そうなんだ。俺も久々だよ」
王野は水際に向かって歩いて行った。歩くたびに細かい砂がサクサクと音を鳴らす。俺も後を追うように王野の背中に着いて行った。
「俺が昔住んでたところは、日本海側の海が近かったから、ここから見える海とちょっと違うんだ。特に冬は」
ザザン、と波がひいては押し寄せる。靴が海水に濡れるのも厭わず、王野はどんどん先を歩いて行く。
「いっつもどんよりしてた。晴れの日も空に靄がかかってるみたいで。今日みたいに晴れて澄み切ってる日の方が珍しかった」
ふと、空を見上げた。今日は本当に晴れ渡っていて、水平線がよく見える。俺が昔見ていた海はどうだったっけ。
「でも、俺はそれが好きだった」
「どうして?」
「空が真っ青だと、なんだか嫌になる」
「なんで?」
王野は波打ち際に沿って歩いて行く。時々強い風が吹いて、喋る言葉が聞き取りづらい。
「そういう色が、似合うような生活じゃなかったから。真っ青な空を見ると、否定されてる感じがする。ここは俺の居場所じゃないって言われてるみたいで」
「……否定?」
「うん」
王野は足を止め、ゆっくりと振り返った。王野の少し長い前髪が風に揺れている。目線が交差し、淡々と言葉を口にする。
「俺の居場所じゃないって思うと、体と中身が乖離するんだ。体だけそこにあって、中身だけ違うところに置き去りにされる。そう思うのが気持ち悪くて、青い空は好きじゃない」
「……? 分かんない。難しい……」
「分かんなくていいよ」
高い波が打ち寄せられ、靴底が海水に沈む。風が強く吹き抜け、思わず身をよじった。
「求、俺____」
ざん、ざん、ざん。
波音は止まない。
王野は小さく口を動かしている。つん、と鼻の奥が痛くなった。
「__ごめん、なんて?」
俺は聞き返した。王野はそれに薄く笑ってかぶりを振る。
「ううん」
そう言った王野の顔が寂しそうで酷く不安になり、俺は焦るように王野の側に駆け寄った。
21
『おはようございます。12月1日月曜日、モーニングコールのお時間です。まずは昨日入ってきた大きなニュースからお伝えします__』
朝の支度をしている最中、テレビから聞こえてきたキャスターの声を聞いて顔を上げる。12月1日、あっという間に俺の誕生日当日になっていた。
「求、誕生日おめでとう」
はい、と王野に小さな紙袋を渡され受け取った。中身を取り出すと、小さなキーホルダーが入っていた。
「犬?」
「うん。顔がちょっと求に似てる」
「そう?」
チェーンの先を摘んでその犬のぬいぐるみをじっくり見た。目が黒く丸くて、可愛らしいフォルムをしていた。
「ありがとう、可愛いね。王野の誕生日はいつだっけ?」
「8月だよ」
「8月か……。とっくに過ぎちゃったね。来年は何かお返し出来るといいけど」
俺がそう言うと、王野は微笑んだ。
「ありがとう」
通勤用の鞄を取り出し、中を開いて内ポケットにキーホルダーを差し込んだ。顔だけ外に出ていて、それが可愛かった。
その犬を見ていると、なんだか懐かしい気持ちになった。
「今日は観測的に例年より寒いんだって」
「そうなんだ」
王野は車内の暖房のスイッチをつけた。ぼう、という機械的な音が響く。スピーカーから流れるラジオは、クリスマスシーズンも到来し、視聴者から募集したクリスマスのエピソードを紹介していた。
『ラジオネーム、Kさんからのお便りです。私の家は毎年クリスマスにはホームパーティーをするのですが、それがとにかく盛大で__』
ぶち、と、いきなり声が途切れた。それに反応して前を見ると、王野が意図的にラジオを消した事が分かった。王野の顔を見る。いつも通り、何を考えているか分からない表情をしていた。
「求、疲れた?」
「__え?」
「今の生活」
目を大きく開き、ぎこちなく姿勢を正した。急激に心臓が冷たくなった気がする。なんで、今そんな事を聞くんだ。
「……わ、っ、分からない……」
「分からないの」
「違う……。それは、俺になんて答えてほしい?」
「……」
「何を言っても……」
その先は口に出せず、俺はスーツの裾をぎゅつと握りしめた。上手く言葉が出ない。
「ごめん、意地悪な質問だったね」
王野も俺が言いたい事を分かっていた。
俺を束縛するのなら、俺の意思なんか無関係にやればいい。今までもずっとそうだった。どうにもならないのなら、そんな事聞かないでほしい。
「お、王野、最近変だよ」
「……そうかな」
「俺の事どうしたいの……。どうすれば、王野は納得するの」
「今も納得してるよ」
「じゃあなんで、」
思わず声量が増した。分からない。よく分からないけれど、妙な焦燥感に駆られていた。最近の王野を見ていると、不安になってくる。
「そんな顔してるの」
赤信号になり、車が停まる。王野はゆっくりと顔をこちらに向け、ぎこちなく笑った。
「俺、どんな顔してる」
笑っているのか悲しんでいるのか、俺は王野と同じように曖昧な表情を返す。
「寂しそう」
そう言うと王野は、はは、と力無く笑った。信号は青に変わり、気が付けばもう会社の駐車場に着いてしまっていた。
結局王野とはその後会話もないままだった。不安でどこかふわふわしているような感覚は残ったまま、自分の席に着いた。
30分ほど経ち、課長が全員を呼んで号令を掛けた。今日は月に数回の朝礼がある日だった。課長はみんなを見渡して嬉しそうに口を開いた。
「えー、今日はみんなにおろす事が2つあります」
なんだなんだ、と周りが少し賑やかになる。こうやって課長が嬉しそうに改まる時は、大体良い報告が多い。
「まず1つ目に、今日から高見が主任になります!」
社内の全員が一気に高見くんの方を向いて拍手をし、各所からお祝いの言葉が聞こえてくる。高見くんは照れくさそうに笑っていた。課長から一言どうぞと場を用意され、椅子から立ち上がった。
「みなさんのおかげです。これからもっと頑張ります!主任になっても先輩方にはご飯奢ってほしいです!」
そう言うと、周りにいた人達が一斉に笑った。俺もくすりと笑う。がやがやとした空気が残ったまま、課長は次の話題を出した。本当に自然だった。だから俺は、全く心積もりをしていなかった。
「そしてもう1つ。えー……。王野主任が、本社に異動になります。かなり急だけど、再来週にはそっちに行く事になりました」
先程までの空気は一変して、みんなが唖然としていた。急すぎるだろ、絶対に嫌だ、と混乱している声が聞こえる。本社はここからずっと離れた場所、九州にある。
俺はすぐ隣にいる王野を見つめたまま、思考を放棄して固まってしまった。
そんな事、今まで1回も相談されなかった。
「かなり寂しいし、正直王野がいなくなるのは痛い!でも、本社に異動するという事は栄転でもあるし、うちの支社から抜擢されたという事は支社が評価された証でもあるし、俺としては鼻が高いです」
課長がそれらしい事を言って、周りの人も納得したように頷いているけれど、俺は全く違う事をぐるぐると考えていた。
じゃあ俺はどうなるんだろう。
「では王野主任、一言」
課長に催促されて王野は立ち上がった。全員に目線を配れるよう、斜めの方向を向いた。俺はその死角に入り、王野の顔がよく見えない。
「みなさん、今までお世話になりました。ここまで育ててくださった全員に感謝の気持ちでいっぱいです。本社でもここでの経験を活かして頑張ります」
長くは喋らず、最後に1つお辞儀をして座った。
「まあ急だけど、異動するまで少し時間はあるから、それまでこのメンバーで頑張りましょう。じゃあ切り替えて、先月の結果報告から__」
課長がテンポ良く次の話題に移行した。ざわざわしていた社内も、徐々に落ち着きを取り戻していく。俺だけは未だ、同じ話を脳内で反芻したままだった。
王野がここからいなくなる。
じゃあ俺は、一体どうなるんだ。
22
その日はそれ以降、驚くほど単調に、何事もなく過ぎていった。王野は普段通り外回りに行くし、俺も普段通り雑用を押し付けられた。でも何も集中出来なかった。
俺はこの先どうなるんだ。流石に王野でも俺を本社に連れて行って一緒に仕事させるのは困難だろう。きっと上もそれは了承しない。自分のお父さん、会長に掛け合って俺も連れて行けるようにした可能性__はあるのだろうか。だとしたら、俺は今よりもっと厳しい環境で働かないといけなくなる。それかここでの仕事を辞めさせて俺を連れて行き、その後の事はその時考えるのだろうか。
俺も混乱していた。混乱していたし、異動について何も言ってくれなかった事に酷く腹を立てた。自分の感情が良く分からない。もう俺なんて勝手に扱えばいいと諦めながら、まだ王野に対して怒りという感情が沸く事を不思議に思った。何故こんなにも俺は焦っているのだろう。
気が付けばもう定時になっていて、残業する気にもなれない俺は持ち主のいない王野の席をぼーっと眺めていた。どこか遠くで、異動する前にご飯誘いたいね、と会話する女性社員の声が聞こえた気がした。
「求、帰ろっか」
「__あ……うん」
いつの間にか王野が外から帰って来て俺の側にいた。いつもと同じ顔だ。俺はなんだかその顔をまともに見る事が出来ず、ふと視線を逸らした。
いつも通りオフィスを出て、いつも通り王野の車に乗り込み、いつも通りシートベルトを着けると車は発進した。王野と俺の会話は意外と少ない。だから、俺は王野について深く知る事が無かった。
今もそうだ。俺は勇気が出ず、一番聞きたい事を王野に聞けていない。車内は暖房を付け忘れたせいか、冷え切っていた。自然と体が震える。歯がカタカタと鳴った。
「求」
「……なに?」
だからだろう。俺には王野の言葉が上手く聞き取れなかった。
「今までごめん。これで最後にしよう」
は、と口を開けて王野を見た。
今、なんて。
「最後って、なに」
自分でも驚くほど低い声が出た。その先の言葉をずっと望んで聞きたかったはずなのに、その先の言葉を聞くのが怖くてしょうがなかった。
12月のこの時刻はもうとっくに日が落ちていて、王野の顔は暗くてよく見えない。
「そのままの意味だよ。もうこの生活は終わり。家にも帰すし、あの写真も消す」
「!」
「会社も辞めればいい。明日から自由だよ、求」
「いきなり、なんで……」
ばく、ばく、と心音が加速する。
嬉しいはずなのに、なんで。
「……」
王野は俺の質問に何も答えなかった。ずっとそうだった。その代わり、場違いなほど優しい声で、
「最後のご飯はとびっきり美味しいの作ってあげる」
と、言ってくれた。
23
汚いから触るな、と言われた記憶がある。多分本当に悲しいと感じたから、その言葉は覚えていたんだと思う。誰か1人がそう言って俺をばい菌みたいに扱って、周りの人も伝染するかのように俺を汚いものとして、近寄るのを嫌がった。
俺には、自分のどこが汚いのかが分からなかった。理由なんて特になかったのだろう。
でも、それから俺はずっと、自分に自信が持てない。幼少期に受けたトラウマや心に突き刺さった言葉というのは余りにも尾を引き、その後も自分自身に深く影響を与える事がある。
俺はどこが汚いの?
「どこが汚いんだよ」
俺が思った全く同じ事を口にし、その子は__あいちゃんは、俺の手を掴んだ。
「別に汚くなさそうだけど。どうせそいつらの方が汚いだろ」
手のひらを表に向け、じっと見つめて至極真面目そうにそう言った。それがおかしくて、でも嬉しくて、俺はその手を握り返して泣きながら笑った。
気付いた時にはクラスの友達はいなくなっていた。みんな、俺の周りを線で囲った外側に逃げてしまった。だから、あいちゃんは唯一だった。
「なんで俺らは一緒の学校じゃないんだろう」
一緒の学校だったら、もう少し違う未来だったかな。
「なんで俺の家族ってヘンなんだろう」
あいちゃんの家族が普通だったら、もう少し違う未来だったかな。
「早く大人になって、悪いの全部倒せるくらい強くなりたいな」
でも俺は、囲った線の中に入って俺を救ってくれた君の事を、ヒーローみたいだと思ってたよ。
24
このままリビングにいる?と聞かれ、首を横に振った。
家に着くなり、王野は早速料理に取り掛かった。俺は、なんだか王野と一緒の空間にいるのが嫌だった。意味も無く泣いてしまいそうだったから。何故悲しいのかも良く分からない。出来たら呼ぶね、と王野に言われ、俺は王野の自室へと向かった。
ベッドの上に静かに寝そべり、取り留めのないいろんな事を考えた。それも全部、王野の事だった。
王野はなんでいきなりこんな選択をしたのだろう。俺はどうすればよかったのだろう。王野は俺をどうしたいのだろう。__俺は、王野をどうしたいのだろう。
寝そべり、顔を横に向けた。視線の先にはクローゼットがあり、扉には隙間が開いていた。俺はそれに吸い込まれるように近寄った。取っ手に手を伸ばし少し動かすと、中からカシャン!と音がする。驚いて扉を開けて中を確認すると、この前見たブリキ缶が落ちてきた。そうだ、この中には王野の小さい頃の日記が入っている。
本能的に手が伸びた。俺は缶のフタを開け、その色あせた日記を再度手にしていた。
字の練習のために日記を書くと書いてあった。確かに、乱雑で読みにくい字だ。でも俺は、今度はひとつひとつ、字をそっと撫でるように大事に読み進めた。
_____
7月1日(月)
字がへたって言われました。
だから練習で日記を書きます。
字がきれいに書けたらお父さんもほめてくれるかな。
7月2日(火)
今日はきゅう食でカレーが出ました。
家のカレーは少しからいので苦手です。
学校のはあまくておいしいです。
7月3日(水)
この日記は持って帰れないから、じゅ業がおわってから学校で書いてます。
教科書とノートは学校においていったらおこられるけど、日記はだいじょうぶかな。
7月4日(木)
きのうの夜の事を書こうと思ったけど、わすれました。
今日は理科の実けんで、虫めがねを使って紙をもやしました。
おれのまわりが虫めがねだらけじゃなくてよかったです。
7月5日(金)
きのうの夜の事またわすれた。
うでのいたい所、ナナがなめてきました。
ナナはビーグルの女の子です。
かしこくて、ビーグルの中では小さいです。
かわいいから、ずっと生きてほしいです。
7月6日(土)
きのうの夜の事ちゃんとおぼえていました。
お母さんがおこって、おれがあやまったら、お母さんもあやまってくれました。
ときどきこわいけど、おれはお母さんがすきです。
今日は土曜日なので、この日記は学校から持って帰って公園で書いてます。
ランドセルのポケットの中に入れたらばれないかな。
7月9日(火)
きのうの夜はこわかったです。
夜の前にナナをさん歩につれて行きました。
遠くはこわいけど、近くの海はだいじょうぶです。
ナナといっしょに行く海がおれは大すきです。
7月13日(土)
もうちょっとで夏休みです。
ゆううつだな。
ゆううつって、テレビでおぼえました。
おれはかしこいかもしれないです。
7月14日(火)
プール入れません。
おれもプール入りたいのに。
7月15日(水)
ペアになってって先生が言うと、おれのとなりの子はいやがります。
おれはペアになるじゅ業がきらいです。
7月19日(日)
今日はお母さんいないです。
今、日記を公園で書いています。
帰りたくないな。
ゆううつだな。
7月20日(月)
学校はすきだけど、クラスの人はすきじゃないです。
先生もすきじゃない。
7月22日(水)
もうすぐ夏休みです。
となりの子は家族で東京に行くって言ってました。
おれも東京行ってみたい。
7月24(金)
今日で学校終わりです。
明日から夏休みです。
ゆううつだけど、図書室で本をいっぱいかりました。
いっぱい読んで、ナナと海に行って、夏休みはすごします。
夏休みになったら、あんまり日記書けないかも。
おれは夏休みより学校のほうがすきです。
7月27(月)
日曜日きらい
7月31日(金)
金曜日の夜と日曜日の夜がいちばんきらい
8月4日(火)
早く夏休み終わらないかな。
8月5日(水)
もう8月だ!
日記を始めていっかげつたった。
字うまくなってるかな。
8月6日(木)
へたくそって言われました。
8月8日(土)
かみのけひっぱられていたかった。
でもお母さんが頭なでてくれました。
8月15日(土)
今日はおれのたんじょう日でした。
9さいになりました。
お母さんがないしょでケーキを買ってくれました。
あまくておいしかったです。
お母さんすきです。
お父さんも、パチンコでけいひんをもらったそうです。
おれはおかしもらえました。
うれしかったです。
今日はお父さんもすきです。
ナナは今日もかわいいです。
ナナはずっとすきです。
8月17日(月)
外出られなくて、こっそり家で書いてます。
右目いたいです。
こわかったです。
ぼやぼやして変なかんじします。
明日なおってるといいな。
8月19日(水)
右目いたいのなおりました。
今日はナナと海に行きました。
ナナはつめたい水すきです。
いっしょにナナと海を歩きました。
ナナのブルブルの水がいっぱいかかって楽しかったです。
8月24日(月)
早く夏休み終わらないかな。
8月29日(土)
夜こっそり書いてます。
お父さんこわかったです。
お母さんいない。
8月30日(日)
明日から学校。
よかったです。
早く家出たいです。
8月31日(月)
今日から2学期です。
みんな黒くなってて、おれだけ白くて変でした。
となりの子は家族と東京に行ったそうです。
おみやげを友達にあげていました。
あんなの、先生に見つかってぼっしゅうされればいいのに。
ひさしぶりのきゅう食はおいしかったです。
9月2日(水)
きのうはナナのたんじょう日でした。
4さいです。
おれが1年生のときにナナは家にきました。
本当のたんじょう日は知らないけど、家につれて帰った日をたんじょう日にしました。
ナナはすて犬でした。
その日はお父さんもお母さんもやさしくて、かっていいって言ってくれました。
ナナは一番の友達です。
ナナはかわいいしかしこいので、ずっと生きてほしいです。
ナナにプレゼントをあげました。
お母さんからもらうおこづかいをためて、くびわを買いました。
青色です。
ナナににあっていてかわいかったです。
ナナ 長生きしてね。
9月3日(木)
きのうナナを公園につれて行ったら、ほかの学校の子がいました。
おにごっこで走ってたらまいごになったそうです。
おれと同じ3年生なのに泣いていました。
かわいそうだったから2つとなりの町につれて行きました。
ナナの事かわいいって言ってたからいい人です。
9月4日(金)
今日のじゅ業楽しくなかった。
お父さんはこわいけど、おれはこわくない。
おれはこわくないのに、みんなこわがるのなんで?
ナナに会いたいから帰ります。
9月6日(日)
おなかいたい。
けられて、かってになみだ出ました。
家いたくなくて、公園に行ったら前のまいごがいました。
そいつもないていて、なんか自分のなみだきえました。
またまいごになったそうです。
なんでって聞いたら、かくれんぼでおにをやってたらみんないなくなって、さがしてたらここに来たって言ってました。
いじめられてるそうです。
かくれんぼやめて家に帰ればいいのに。
ばかなのかな。
しかたないからまた送ってあげました。
9月10日(木)
しいくごやのうさぎ ちょっとこわい。
ナナはかわいいけど、ナナい外はあんまりかわいくないです。
みんなうさぎのしいく係いやって言ってます。
大変だし変なにおいするからって言ってます。
2学期の係、おれはしいく係です。
みんなやらないからおれがやってます。
うさぎって死んだらどうなるの?
9月12日(土)
きのう学校終わってナナと公園に行ったらまいごがいました。
きのうは泣いてなかったです。
またまいごになったか聞いたら、ちがうって言ってたけど、なんで公園に来たか言ってくれませんでした。
ナナの頭なでてわらってた。
いっしょに砂あそびしました。
ちょっと楽しかった。
9月13日(日)
今日もまいごいました。
もう道おぼえたからまいごにならないって言ってました。
おれと遊びたいのかな。
9月15日(火)
きのう学校いけませんでした。
いっぱいけがしました。
日曜日帰るのおそくなったらいっぱいおこられてたたかれました。
なんでおそくなったらだめなの?
お母さんは遠い所でないてていやでした。
今日のきゅう食はレーズンのパンでおいしかったです。
9月17日(木)
きのう公園にまいごがいました。
ひまなのかな。
遊ぶ人いないのかな。
まいごは学校楽しくないって言ってました。
クラスの人きらいらしいです。
おれもクラスの人きらいだからいっしょです。
また砂遊びしました。
砂遊びっていがいと楽しい。
9月20日(日)
今日は楽しかったです。
明日校外学習だからお母さんがおやつを買ってくれました。
300円っていっぱい買えます。
おれと二人でいるときのお母さんはすきです。
まいごの話したらうれしそうでした。
まいごの名前分からないって言ったらおどろいていました。
次会ったら聞いてみようかな。
9月24日(木)
図書室はすきです。
図書室の先生もすきだけど、もうすぐ赤ちゃんがうまれるから、さんきゅうにはいるって言ってました。
ちょっと悲しいです。
おれも本当は妹がいたかもしれないです。
昔、お母さんがだめだったって言ってないていました。
お父さんとお母さんは多分その時からちょっと変です。
9月26日(土)
公園に行ったらまいごがいました。
まいごの家族はやさしそうでうらやましいです。
でもおれより学校楽しくなさそうだから、おれといっしょくらいかわいそうです。
おれはナナがいるけど、まいごは友達がいないって言ってました。
おにごっことかかくれんぼしてたやつは友達じゃないらしいです。
いじめてくるって言ってました。
かわいそうだからおれが友達になってあげました。
9月27日(日)
公園行ったけどまいごいなかったです。
名前聞くのわすれた!
10月5日(日)
公園に行ったらまいごがいました。
月曜日がいやって言ってて楽しくなさそうだから、うさぎのしいくごやつれてってあげました。
休みの日に学校入るのだめだけど、ないしょです。
うさぎを見せたらうれしそうにしてました。
おれはうさぎそんなにすきじゃないけど、ちょっとすきになりました。
まいごは学校がきらいで、おれは家がきらいだから、いっしょにしていいとこだけ取り出せたらいいのになって話しました。
10月6日(月)
この日記クラスのやつにばれたから返せって言ったらなかれました。
なんでおまえがなくの?
おれ返せって言っただけなのに。
先生もきらい。
10月11日(土)
公園行ったらまいごがいました。
さみしかったって言ってたから、もうちょっとだけたくさん会いにいってあげます。
ナナをいっぱいなでてて、ナナもしっぽいっぱいふってました。
10月12日(日)
まいごまたいた。
おれもまいごも友達いない。
なんかおかしくれました。
高そうなクッキーだった。
カンカンの中に入ってるやつ。
カンカンごとくれました。
すげー。たから物入れにします。
お返しあげたほうがいい?
10月18日(土)
まいごがうさぎを見たいって言ってたから、しいくごやつれて行きました。
かわいいって言ってました。
ナナのほうがかわいい。
1ぴきだけごはん食べないうさぎがいてちょっとかわいそうでした。
元気なさそう。
まいごの学校にはしいくごやがないって言ってました。
おれがしいく係って言ったら、いいなって言ってました。
よくないのに。
まいごはおれといっしょの学校がよかったって言ってました。
そしたら二人でしいく係できるのにな。
おれはまいごをいじめるやつたおすし、そしたらまいごはおれのお父さんたおしてくれるかな。
そうなったらいいな。
10月19日(日)
今日はひとりでした。
ナナと海に行ったら寒くて風が強くてびっくりしました。
でもナナは楽しそうでした。
10月20日(月)
まわりのやつらうるさい。
10月22日(水)
きのう公園行ったらまいごがいた。
ないてたからなんでか聞いたら、帰るときえんぴつおられたって言ってた。
そんなんでなくなよ。
やりかえせばいいのに。
かわいそうだからおれのやつ2本あげました。
なきやむまでいっしょにいてあげました。
10月23日(木)
きゅう食のソフトめんおいしかったです。
さいきん夜ごはんパンばっか。
お母さんないてばっかでいやです。
10月24日(金)
朝お父さんのキゲンわるかったから帰りたくないな
10月25日(土)
まいごとナナとさん歩しました。
まいごは歩くのおそいから、ナナが速くてつかれたって言ってました。
海の近くで休けいしてたら、まいごがおれのお腹見てびっくりしてました。
変な色のけがばっかりでおどろいていました。
見せないほうがよかったかな。
10月26日(日)
土曜日と日曜日はまいごと遊んだ後に日記を書くようにしています。
きのうの夜の事とか、お父さんが怖かったこととかはいっつも書こうとしてもぼやぼやしてあんまりちゃんと書けなくなります。
だから楽しい事ははやめに書きます。
今日は雨がふったから、かさをさしながらどんぐりをひろいました。
まいごは楽しそうでした。
まいごの服べちゃべちゃになってておもしろかった。
11月2日(日)
しいくごやにつれて行きました。
まいごにうさぎが1番好きなのか聞いたらわからないって言われました。
わからないってなに?
11月4日(火)
クラスのやつ、おれのこときらいなくせにおれがむしするとすぐわるぐち言う。
おれもおまえらきらい。
ナナと、やさしいときのお母さんと、まいごだけすき。
11月5日(水)
きのう、しいくごやのうさぎが1ぴき死んだ。
弱かったから死んだのに、おれがころしたんだろって言われた。
おこってそいつたたいたら、先生におこられた。
帰ったらお母さんにもおこられたしお母さんないた。
お父さんみたいって言われてすごくいやで、いやだけどおれもいっぱいなきました。
なんでみんないやな事言うんだろう。
みんなナナみたいにしゃべれなくなればいいのに。
11月6日(木)
きのう公園に行ったらまいごがいました。
まいごにうさぎが1ぴき死んだって言ったらさみしいねって言ってました。
おれはべつにさみしくないけど、まいごはみんなみたいにいやな事言わなかった。
もしも世界の人がナナみたいにワンワンしか言わなくなったら、まいごだけはちゃんとしゃべれるようにしてあげます。
お母さんよりまいごのほうがすきです。
11月10日(月)
お父さんきのうこわかったです。
ほっぺはれて赤くて学校休んでます。
今家にお父さんもお母さんもいないので、日記こっそり書いてます。
ナナと二人だけだからうれしいです。
あとまいごもいればよかったな。
11月11日(火)
今日も休みました。
口動かすのいたいです。
まいごが前くれたクッキーもったいなくてまだ食べていないです。
いつ食べようかな。
ナナに見つからないようにこっそり食べます。
11月12日(水)
今日も休みました。
お母さんはごめんって言って仕事に行きました。
ひまだからナナとさん歩に行きました。
学校ある日にないしょで外に出るの、楽しかったです。
俺とナナとあとふうけいみたいな人しかいなくて、すごくよかったです。
ナナがほっぺの赤い所なめました。
ちょっといたかったけど、ナナはやさしいです。
11月13日(木)
学校行きました。
クラスのやつらはなんにも言わないです。
でもおれはそれがよかったです。
この後公園行ってみます。
まいごがいたらまた明日日記に書きます。
11月14日(金)
まいごいました!
おれに会えて嬉しそうでした。
ちょっとないていました。
もう会えないかと思ったって言ってました。
おおげさです。
まいごが土日で家族と出かけたって言ってました。
おみやげもらいました。
水族館のペンギンのキーホルダーです。
なんでペンギンか聞いたらかわいいからって言ってました。
ペンギンってかわいいの?
ナナが一番かわいいです。
でもおみやげは嬉しかったので筆箱につけてあげます。
おれもなにかあげたいな。
11月15日(土)
もう外で遊ぶの寒くなってきたねって言ってました。
でもおれの家はだめだし、お母さんとお父さんに他人の家に行くなって言われてるから外で遊ぶしかないです。
もうちょっとだけがまんします。
11月16日(日)
まいごが、かぜひいたらだめだから外で遊ぶときは早く帰ってきてって言われたそうです。
これからいつもより遊ぶ時間短くなります。
いやだな。
11月18日(火)
まいごがまたないていました。
クラスのやつに、きたないからさわるなって言われたらしいです。
どこがきたないんだろう?
きたなくなさそうなので、まいごの手をにぎってあげたらうれしそうにしていました。
そいつらの方がきたないって言ってあげたらわらってました。
なんでまいごはそっちの学校にいるんだろう。
なんでおれはお父さんこわいんだろう。
まいごといっしょにすごせたらいいのに。
11月23日(日)
そういえば、おれはまいごの事まいごって言ってるけどいいのって聞いたら、自分の名前すきじゃないからそれでいいって言っていました。
おれも自分の名前きらいです。
だから、まいごにはみょうじのあだ名でよばせてます。
女の子みたいだけど、名前も女みたいだから、あだ名のほうがべつじんみたいで、そっちのほうがましです。
おれはまいごの名前ちゃんと知らないけど、まあいいや。
11月28(金)
もうすぐ12月だって言ったらうれしそうにしてました。
まいごは12月すきって言ってました。
クリスマスとたんじょう日があるからすきって言ってました。
たんじょう日は12月1日らしい。
もうすぐだ!
なにあげようかな。
そんなにおこづかいないから、どうしようかな。
11月29日(土)
朝お母さんと買い物に出かけました。
今日は体調がいいみたいです。
まいごのたんじょう日プレゼント買ってあげました。
お昼からはまいごと遊びました。
ナナにお手させてました。
またクッキーもらいました。
まだ前の食べてないのに!
12月2日(火)
きのう、プレゼントあげました。
犬のキーホルダーです。
おれとおそろい。
ペンギンのキーホルダーもおそろいだから、2つとも筆箱につけます。
まいごはすごくよろこんでいました。
おれもうれしかったです。
おれのたんじょう日聞かれたから、8月って言ったらショックがってました。
次はまいごがおれにプレゼントくれるそうです。
じゃあおれも来年まいごにプレゼントあげる。
12月3日(水)
まいごとナナの顔 ちょっとにてる
12月4日(木)
寒いとまいごと遊ぶ時間へるから、早く春になってほしい。
12月5日(金)
しょう来のゆめを発表するじゅ業でした。
ゆめなんてないです。
だから中学生って言いました。
それはゆめじゃないって言われました。
はやく中学生になりたいって思うのはゆめじゃないのかな。
中学生になったら、まいごと同じ所行けるかな。
まいごといっしょの学校で、いっしょのクラスになれたらうれしいです。
そしたらちょっとは家でもがんばれます。
まいごがもしもいじめられたらおれが助けます。
まいご 今どうしてるかな。
今日も公園行ってみます。
12月11日(木)
きのうまいごいたけど、ゴホゴホしててかわいそうだった。
マフラーぐるぐるまきだった。
あんまりしゃべらなかったけど、まいごの家まで着いて行った。
まいごのお母さんが家から出てきておれにおかしくれた。
かぜなおったら家遊びにおいでって言われた。
まいごのお母さんやさしかった。
おれのお母さんよりたぶんやさしい。
遊びに行ってもおこられないかな。
こっそり行ってみよう。
12月12日(金)
今日の体育のじゅ業、なわとびだった。
だれともしゃべらなくていいからすきです。
7月に日記始めたのにもう12月です。
7月はセミが鳴いていたのに今はなんにも聞こえないです。
さいきんまたお父さんずっとキゲンわるい。
お父さんのキゲンがわるいとお母さんもキゲンわるいからいやです。
まいごの家のお母さんとかえっこしてほしいです。
そしたらおれもまいごといっしょにすごせるかな。
まいごと、まいごのお母さんと、ナナと、たぶんまいごのお父さんもやさしいからまいごのお父さんと、おれと5人ですごしてみたい。
12月14日(日)
お父さんぐっすりねたから、日記こっそり書いてます。
お父さんこわかったです。
お酒飲んだお父さんはこわいです。
おれのことたたくしけるしきらいです。
クラスのやつらよりきらいです。
世界で一番きらいです。
その後お母さんがないておれにだきついていました。
ないてたけどなんでもいいです。
早く家出たい。
寒い外のほうがましです。
まいごに会いたいです。
12月16日(火)
きのう公園にまいごいました。
よかったです。
もう元気って言ってました。
でも早く帰れって言われてるそうです。
まいごの家行ってみようかな
12月19日(金)
今日で学校終わりです。
明日遊びに行ってみる。
まいごの家です。
お父さんとお母さんにはないしょです。
12月20日(土)
今日は楽しかったです。
まいごの家はマンションじゃないふつうの家でした。
まいごのお母さんがおかしいっぱい出してくれました。
味のこいオレンジジュースおいしかったです。
人生ゲームっていうのをやりました。
まいごはやくそくてがた?いっぱいになってておもしろかったです。
おれのほうが早くゴールしました。
楽しかったです。
おれの人生もこのゲームみたいにうまくいけばいいのにな。
また次もまいごの家で遊ぶやくそくをしました。
24日はまいごは家でクリスマスパーティーをするらしい。
うらやましいな。
いいなって言ったら、25日はいっしょにパーティーしようって言ってくれた。
25日はまいごといっしょにクリスマスパーティーをします。
プレゼントあげたほうがいい?
12月21日(日)
今日はまいごにあげるクリスマスプレゼントを作りました。
作った?書きました。
手紙です。
なにがほしいかわかんなかったし、ほしいのはたぶんサンタさんがくれるから、いっぱい考えたけど手紙にします。
おれは5か月くらい日記を書いたので、字がちょっときれいになったと思います。
だから手紙もきれいに書きました。
きれいだねってほめてくれるといいな。
12月22日(月)
まいごは今日遊べないので、ナナとずっといっしょにいました。
ナナは寒いの平気みたい。
ナナはすごくあったかいです。
ナナがうでのいたい所なめてくれました。
ずっとわらったみたいな顔してて、ナナはかわいいです。
ずっといっしょにいたいし、おれが一人ぐらしをしてもナナはつれて行きたいです。
サンタさんにはナナの新しいおもちゃくださいってお願いしました。
ナナがうれしかったらおれもうれしいです。
明日はまいごと遊びます。
ナナに会いたいって言ってたから、ちょっとだけ会わせてあげます。
ナナの顔、やっぱりまいごに似てます。
クリスマスパーティーの日、プレゼントいらないから、まいごの名前ちゃんと聞こうと思ってます。
早く明日になってほしいし、早く25日になってほしいです。
12月23日(火)
12月24日(水)
12月25日(木)
12月26日(金)
12月27日(土)
12月28日(日)
ナナ
ナナにあいたい
12月29日(月)
12月30日(火)
思い出したくないけど
忘れたくないから、ちゃんと全部書きます。
ナナがお父さんにころされました。
クリスマスイブの前の日です。
まいごの家から帰るのがすごくおそくなって、帰ったらお父さんがすごくおこっていました。
顔が赤くてよっぱらっていました。
お母さんはリビングでたおれていました。
テーブルのまわりにはビールのかんかんがいっぱい落ちていました。
お父さんはグーの手でおれをいっぱいなぐってきました。
すごくいたかったけど、あんまりおぼえていません。
いやだなって思ってたら、ナナが大きな声でほえました。
いつもはほえないけど、いっぱいほえていてびっくりしました。
ナナがお父さんの体をかんでいてお父さんもいたそうでした。
そしたらお父さんがいっぱいどなって、グーの手で、ナナをいっぱい
字きれいに書けません。
ナナに会いたいです。
ナナはとてもあったかいのに、だんだん冷たくなっていました。
サンタさんはナナのおもちゃをくれました。
冷たいナナと新しいおもちゃは、海の近くのまつの木の近くにうめました。
ほんとうはうめるのいやでした。
ナナとずっといっしょにいたかったです。
土の中でちゃんと遊んでるといいな。
25日の日はまいごとクリスマスパーティーのやくそくしてたけど、行けませんでした。
かってにやくそくやぶってごめんなさい。
ほんとはまいごのプレゼントの手紙わたしたかったけど、けいさつの人が来ていそがしくて会えなかったです。
お父さんはもういないです。
今はお母さんとあんまり知らないしんせきのおじいちゃんの家にいます。
しばらくここでくらすって言ってました。
お母さんはずっとごめんっておれに言ってました。
今まですんでた所よりもずっと遠い所におじいちゃんの家があるので、学校がかわるそうです。
前の町にはもどるのってお母さんに聞いたらもどらないって言ってました。
だからもうまいごに会えないです。
ここからどうやって行けるのかもわかりません。
クリスマスパーティーできなかったし、バイバイって言えなかったのにここに来ました。
まいごはずっとあの公園に行くのかな。
もうおれ行けないのに。
ごめんなさい。
もっと遊びたかったです。
名前も聞けませんでした。
おれの友達二人もいなくなりました。
もう日記書くのやめます。
なんで日記書いてたのかわからなくなりました。
_____
震える手で、俺は最後のページに挟んであった手紙を持ち上げた。4つに折りたたまれていて、細いボールペンで『まいごへ』と書かれている。息を止めながらゆっくりと開いて、それに目を落とした。
_____
メリークリスマス
おれと友達になってくれてありがとう。
これからもずっとなかよくしてください。
だいすきです。
_____
ぼた、ぼた、とインクの文字の上に大粒の涙が落ちていく。止まらなかった。俺は嗚咽をあげ、その手紙を力強く握っていた。
ガチャ、と扉が開く。俺は顔を上げてその人物を見た。
「求、ご飯出来た、よ__」
王野は俺の顔と手にしている物を凝視して、表情を変えた。
言わないと。俺は、王野にちゃんと伝えたい事がある。
「王野」
「……読んだの、それ」
「うん」
ごめん、と言うと、王野は泣きそうに顔を歪めた。体にたくさんの痣があったあの頃も、こんな顔をしていたのだろうか。
「……俺、昔いじめられてたんだ。でも、1人だけ大切な友達がいたんだよ」
涙を拭って王野に向き合った。
俺は、こんなにも大事な事を忘れていた。
「字、綺麗だね。あいちゃん__愛原みなもくん」
王野はその目に涙を浮かべた。
25
日記が入っていたブリキ缶の中にはいろいろなガラクタが入っていて、よく見ると犬のキーホルダーとペンギンのキーホルダーもあった。随分と汚れている。俺が捨ててしまってもずっと大事にしまっていたのだと思うと、胸が締め付けられた。
「久しぶりだね、あいちゃん」
「……やめてよ」
「俺は君の事をなんて呼べばいいのかな」
王野は俯いて黙った。微かに手が震えていた。
「俺、本当はずっとあいちゃんに会いたかったよ」
「嘘だ、会いたくないって言ってた……。約束を放り出した俺の事なんか許せないだろ」
「ううん」
首を横に振ると、王野は恐る恐る顔を上げた。
「本当だよ。本当は会いたくてしょうがなかった」
こんなに近くにいたのに、俺はずっと気付けなかった。目の前の存在が一気に健気なものに思えてきた。
「今まで思い出せなくてごめん。気付いてあげられなくてごめん」
「……そんな事言うなよ……」
王野は苦しそうに顔をしかめた。もしかしたら王野はこんな結末望んでなかったのかもしれない。
「言いたい事、たくさんあるんだ」
「いい、別に何も言わなくていい……。聞きたくない」
「王野」
かぶりを振って嫌がる王野に近寄り、俺は優しく抱き締めた。あんなに恐ろしい思いをさせられても、王野からはどこか安心する匂いがしていた。きっと、昔覚えていたものと同じだからだ。
「あの時、俺と友達になってくれてありがとう」
「!」
「出会えてよかった」
「……っ、ぅ……」
深く、息を吐く音がする。萎縮して固まっていた王野は、やっと俺に体重を預けて、肩に顔を埋めた。シャツにじんわりと涙が広がるのを感じる。
「俺があの時の子だって分かってたのに、なんで言ってくれなかったの?」
「……怖かった」
王野の声は震えていた。こんな弱々しい姿は今まで見た事なかったけど、漸くこんな弱々しい姿を見れた事に安心した。
「俺のせいで、俺があの時の約束破ったせいで求が事故に合って、後遺症も出て、その時の記憶もなくなったって……嫌われるのが怖かった。俺が、求の嫌な記憶の一部だったかもしれないって考えると、消えたくなった。だから……」
「……だから、言えなかったの?」
何も言わなかった。鼻をすする音だけが聞こえる。俺はどうしようもない気持ちでいっぱいになって、王野の背中を優しく撫でた。
「ナナがいなくなって、母親も今の父親の言いなりみたいになって、俺も父親の奴隷になって、もう俺、求しか大事なものがないんだ」
きっと、日記に書いていたお父さんは今のお父さんとは違う人なのだろう。愛原という旧姓は、今はもういない人のものだ。
「今の仕事、嫌なの?」
「俺の意志じゃない。俺は、出来損ないだったから」
「出来損ない……?」
「今の父親から認めて貰うために大手企業をたくさん受けたけど、全然駄目だった。あの時の俺は、とにかく必死で余裕がなかった。見かねた父親が、これ以上顔に泥を塗るなって、傘下のここに入れたんだ。……人と喋る事なんて、一番嫌いだ」
「そうなんだ……」
それでも王野の成績は常にトップクラスだった。気持ちを押し殺して必死にやっていたんだろうか。
「辞めようと思わなかったの?」
「何回も思った。でも、言い出せなかった。あの人、俺に恥をかかせるような事をしたら縁を切るって。それを本当にやるような男だよ。好きじゃないけど、でも、もう家族に見放されるのは嫌だった。アイツは捕まったし、母親は新しい父親にも抵抗出来ないから俺の事は眼中にないし、だから……。俺が"王野"でいるのは、家族を無理やり繋ぎ止めておくための最後の手段だった」
淡々と語る王野が悲しかった。数年間一緒に仕事をしていても、その気持ちの薄皮一枚だって読み取る事が出来なかった。王野は完璧な人間に見えたけど、本当はこんなにも脆くて不安定だったんだ。
「……だから、求があの場所にいる事が、俺が頑張れる理由だった。それだけだった。求がいないあの場所なんて、ただの父親の支配下だから。いなくなったら、俺はきっと__また出来損ないになる」
「……それが、俺を辞めさせなかった理由?」
しん、と静かになり、王野はまた声を震わせた。
「……それだけじゃない……。本当は、ほ、本当は……。求がいると、毎日楽しかった。そこにいてくれるだけでよかった」
「うん」
「求しか気付けない小さい仕事をやってたり、やらなくてもいい事までやってたり、文句も口にせず夜遅くまで働いてたり、俺が喋りかけるといっつも褒めてくれたり、全部が愛おしかった。あの小学生の時の感情が戻った気がした」
「……うん」
「辞めてほしくない。ずっと一緒にいてほしい。でも、俺……」
俺の体から冷たい温度が離れていく。王野は後ずさり、震える右手を眺めていた。
「__このままだったら、アイツと……最初の父親と同じ道を辿るような気がした。世界で一番嫌いな人に近付いている感覚がするんだ。このまま求といたら、俺は求をどうしてしまうか分からない。怒鳴ったり、叩いたり、殴ったり、な、ナナみたいに、殺したら……」
その手は王野の顔を覆った。指の隙間から、くぐもった吐息が漏れる。もう、どちらの泣き声か分からない。
言いたい事はたくさんあったはずなのに、王野から離れられて嬉しいはずなのに、今はこの目の前で小さく泣いている男をみすみすと離してやれそうにもなかった。
「王野が今、本当にやりたい事はなに?」
顔を伏せたまま、王野はふるふると首を振った。
「分からない」
「やりたい事、ない?」
「……もう分からない。なにやりたいんだろう。いっぱい諦めてきたから、分からないや」
「きっとまだ出来る事もたくさんあるよ」
「なにも出来ないよ、それが俺の人生だったから」
冷たい声だった。王野はきっと昔も今も、家族が変わっても、環境が変わっても、ずっと縛られてきたのだろう。選択肢はたくさんあったのになにも選んでこなかった自分が情けなくなる。俺達はきっと、正反対で同じ形をしている。
「じゃあ、やりたくない事は?」
王野は言葉を詰まらせた。言いたくても言えなかった事なのだろう。ずっと黙ったままだったけど、俺が大丈夫、と言うと、ぽつりと呟いた。
「……もう、家族の言いなりになりたくない」
「うん……」
「本当は、全部捨てて、2人で一緒にいたい。求と、海の近くで……」
ざん、ざん、と波が引いては寄せる音が頭をよぎった。潮騒に遮られながら、王野はあの時、きっと俺にちゃんと伝えてくれたいた。
「やりたい事あるんだね」
俺は手にしていた手紙をもう一度眺めた。俺に渡すために、時間をかけて丁寧に書いたのだろう。1ページ目の日記と比べると、字の違いは一目瞭然だった。この、たった4行にどれだけの思いを込めたのだろうか。
「俺はやりたい事なんてなかったよ。何やってもうまくいかないし、ただひたすらに仕事辞めたいって思ってた。でも、どうせこの先も上手に生きていけないだろうからって、辞める勇気すらなかなか持てなかった」
王野はぴくりと反応し、少しだけ顔を持ち上げた。目元が赤い。そんな王野を見て湧き上がるこの感情に名前をつけられない。俺達はきっと、人一倍不器用だ。
「でも今、やりたい事が出来たよ」
1歩前に進み、震える王野の手を取った。汚くないと言って手を握ってくれたあの時と同じ、ひんやりとしていた。王野はまるで何も知らない子どものような澄んだ目で俺を見つめた。
「俺、王野の事救いたいんだ」
「! ……あ、ぅ……」
王野の顔がぐしゃっと歪む。本当に昔に戻ったみたいだ。今の王野も、あの時の王野も、そして過去の俺も、全部救ってあげたい。
「王野、どうしたい?」
はく、と声にならない声が溢れる。ぽろぽろと涙を流して、必死に声を張り上げていた。
「俺、もうこんなの嫌だ」
「うん」
「求のこと、ちゃんと、大事にしたい」
「うん」
「助けて、求……」
「……うん」
ぎゅっと強く手を握り直した。俺は、ずっとこの言葉を待っていた気がする。
「辞めよう。辞めて、遠くに逃げよう」
「……逃げてもいいの?」
「逃げてもいいよ。2人でなら、きっと大丈夫」
自分で決める事が怖くて選べない人生だった。王野は、選択肢が無いから逃げられない人生だった。
『お前学校嫌いだろ?』
『うん』
『俺は学校はまあまあ好きだけど家は嫌い。お前、家は好き?』
『うん、お家は好きだよ』
『じゃあ、俺達いっしょになって、いいとこだけ取り出せたらいいのにな。そしたら俺達ずっといっしょにいられるし、ずっと楽しいよ』
『そうだね。いつかそうなったらいいな』
昔公園でそんなやり取りをした事を思い出した。
「そうなったらいいな……」
呟き、小さく笑うと自然と涙が零れた。
もう一度王野の手を握り締めると、王野は同じ強さで握り返してくれた。
26
視線を絶えず上から下に、窓の外を眺めていた。
雪が降ってきた。東京の空には珍しい。ホワイトクリスマスになる見込みだと天気予報が伝えていた情報は、間違いではなかった。去年はほとんど雪が降らなかったので、タイミングの良さに余計感心してしまう。
もうこの座席で待つのも30分以上が経過した。そわそわとしてラジオを聞く気にもなれず、暖房の音だけを耳にしていた。
王野は今、実家で親と決着をつけている。着いてきてほしいと言われ、王野の実家の近くに停めた車の助手席で俺はじっと待っていた。落ち着いていられないが、王野はきっと俺の比にならないだろう。逃げてもいいと言ったけれど、結局王野が選んだのは逃げも隠れもしない、親との対峙だった。
俺はあの日以降、仕事をちゃんと辞める事が出来た。次いで王野も俺を追うように辞職表を提出した。栄転が決まってたこともあり、上からは止められさんざん揉めに揉めたらしいけど、ほぼ強制的に退職を決めたらしい。きっとその情報は上層部__王野のお父さんのところまで伝わっているだろうから、それを考えるだけでもゾッとした。今頃どんな話し合いをしているのだろうか。
職場を発つ前に高見くんと話をした。これからどうするか、自分は何をしたいか。高見くんは複雑そうに笑いながら、元気でいてくださいと言ってくれた。そしてその後斜森にも会ったけれど、まるで幽霊でも見たかのような顔をされた。デコピンを1発くらい、今まであった事を聞いてくれた。斜森は王野の事があまり好きではないのでどんな反応をするのかと怯えていたら、笑いながら青筋を立てていて、言わない方がよかったのではないかと思った。そして、新調した自分のスマホに斜森の連絡先を追加され、なんかあったらすぐに言え、と念を押された。斜森と別れる前にぼそっと「今度アイツと腹割って話す」と呟いていて、絶対に触れないでおこうと決意した。
いろいろな事が起きたが、結局俺は王野と一緒にいる人生を選択した。時々、本当にこれでよかったのだろうかと思い返す日もある。王野と俺の関係に名前は無い。俺達が一緒にいる理由なんて、傍目からすれば余りにも馬鹿らしいだろう。
と、物思いに耽っていると家から王野が出てきた。王野は家を見上げて立ち止まり、そしてゆっくりとこちらに向かって歩き出した。それをじっと見ていると、後から慌てて追いかけるようにもう1人姿を現した。女の人だ。きっと、王野のお母さんだろう。暫く2人はその場で話していた。そして最後に女の人が頭を下げ、王野が何かを言って、今度こそ車の方に歩き出した。
俺は姿勢を直して王野を待った。ドアを開けて運転席に座り込んだ王野は、努めて平静を装っていた。装っていたのか、本当に何も思っていないのか分からない。そのまま何も言わず発信し、高速道路の方へ向かった。
なんと言って切り出せばいいか分からず、窓の外の雪を眺めていると、王野の方から口を開いた。
「__勘当されてきた」
「……そっか」
「あんなにしがみついていたのに、今ではほっとしてる」
そう言う王野の顔はどこかすっきりしていて、憑き物が落ちたような表情をしている。
「母親が最後に、今までごめんって頭を下げてきたけど、俺、それ見てなにも思わなかった」
「……」
「……俺を産んでくれた人なのに。俺がおかしいのかな」
悲しくなって、俺は首を横に振った。
「ううん、おかしくないよ」
王野は小さくうん、と呟いた。
「もうあの人達とは二度と会わない」
「そっか」
「求、ありがとう」
「なにが?」
「……一緒に逃げてくれて、ありがとう。クリスマスを一緒に過ごしてくれてありがとう」
俺からすれば王野は逃げてなんかいない。それでも、王野の中に逃げるという選択肢を与える事が出来たのだろうか。
「どういたしまして。メリークリスマス!」
ふ、と笑うと王野もつられて笑った。
「メリークリスマス」
俺達は車に荷物を積んで高速道路を走っていた。ずっと遠く、海に向かって。
27
新しい2LDKの部屋には積み立てられたダンボールと、大きい家具しか置いてない。お互い持っていく物が少なかったので荷解きはすぐ終りそうだ。
それでも長旅で疲れた王野は敷いたばかりのカーペットに寝そべり、ぐったりとしていた。それもそうだ。親と話して気疲れもしただろうし、長い間ずっと運転をしてくれたのだ。前までの生活で、割とこんな自堕落な王野の姿を見た事がなかった。それがなんだか嬉しくなって、王野の横に一緒になって寝転がった。王野の顔が目の前にくる。王野はきょとんとした目をしていた。最近、今まで見た事のない姿ばかり発見する。
「みなもって、どんな漢字なの?」
「え?」
「王野の名前」
「ああ、えっと、水に、数字の百」
「へえ。なんかぴったりだね、王野に」
「そう?」
王野には海がよく似合う。引いては寄せる波の動き、月明かりに反射する水面の光は王野にぴったりだ。
横たわっている王野の目に、前髪が被っていてよく見えない。その目をよく見たくなって、そっと前髪を梳いた。視線が交差する。色素の薄い瞳の色が綺麗だ。この色をやっと見れた気がする。王野は俺を見て目を細め、ふにゃっと笑った。
「俺、自分の名前って嫌いだった。水百は、俺の前の父親が付けた名前だったから。でも、求に呼ばれるんなら悪くないね」
「そう?そうかな」
「うん。俺の名前呼んで」
「……水百」
王野は俺の頬に手を当てて、ゆっくり顔を近付けた。唇に王野の熱が伝わる。数秒間は、とても長く感じた。なんだか初めてやったような気がして、顔が熱くなった。
「俺も呼んでいい?」
「俺の?」
「うん」
「恥ずかしいな……」
俺も、自分の名前は好きではなかった。誰に求められる訳でもないし、誰かを助けることも出来なかったから。
「……[[rb:丞 > たすく]]」
王野はとろけたような声で俺の名前を呟いた。それがむず痒くなり、もう一度王野の唇に触れて小さく笑った。
「求より、そっちのがいいかも」
へらっと笑うと、王野は俺に抱き着いた。これはかなり恥ずかしいかもしれない。抱き着く力は緩まらず、されるがままだった。それを続けられると、王野の体温でなんだか眠くなってきた。うとうとしていたら、この先の事がふと頭をよぎった。
「落ち着いたら就活しなきゃ……。今のスーツもう汚いし、新しいの買わないと」
「俺が買ってあげるよ」
「ふ……、いいよ。そこまでしなくて」
「ううん、ネクタイくらい買わせて」
「なんで?」
「前買ってあげるって言ったから」
そういえば、そんな事言ってたな。なんだかもうずっと前の話なような気がする。
俺達はこれからどうなるんだろう。この先の事なんて分からないけど、俺は王野を選んだ。俺達は何があっても一緒に生きていくんだ。
王野は俺の頭を優しく撫でた。弓なり細められた瞳に俺の顔がゆらゆらと映る。まるでその目に支配されているみたいだ。どこか遠くで、チェスの駒がカタンと横たわる音が聞こえたような気がした。
「ネクタイ、何色がいい?」
日記全文↓
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