陰キャども

1

「カノジョをつくってみたい」

「エ〜〜〜ッ」

「お前そういう感情あったん?」


 まあそうだよな、だって俺ら高校2年生の男だし。そりゃあ彼女の1人2人は欲しくなるはずだ。そう理解は出来たけど、それを発言した人物が意外すぎて、俺はぽかんと口を開けたままそいつを見た。


「カノジョを、つくってみたい」

「聞こえてるよ」

「お前が言うとアレだな、彼女を『創造』しそう」

「恋愛が出来るんならそれでもいい」


 この話題の中心人物、漆千佳(うるしちか)はいつも通りの真っ黒な瞳を真っ直ぐ前に向けたままそう言った。真っ直ぐ前、つまり俺のいる場所。意外すぎて動揺はしたけど、俺はお弁当を食べる手は止めなかった。


「正しくは、俺は恋愛をしてみたいんだ」

「……恋愛ねぇ」


 ああなるほど合点がいったと漆の隣にいた男、木闇凪 (きやみなぎ)は特別端正な顔を顰めた。俺も納得した。漆の原動力はいつでも未知を探求する楽しさにある。


「恋愛なんてロクなもんじゃねえぞ。盛ってるサルどもがやるくだらねーやつだ」

「それは、俺らの両親にも言えることか? お前の両親にも当てはまるか?」

「……マジでこいつウゼー!」


 木闇は隣の漆の肩を殴った。顔はいいけど、そんな見た目は関係無しに馬鹿なのですぐに暴力にはしる。漆も馬鹿なので一切痛みを感じていなさそう。


「そうだよ! 彼女なんてやめときな! 女の子なんて奴隷にされるだけだよ……」


 そして俺の横にいる男、夜差奈之(よさなの)は何故か分からないが泣きそうな顔をしながら漆に訴えた。喋るたびにぴょこぴょことふわふわの天然パーマな髪の毛が動く。大きい男界でこの泣き顔が許されるのは夜差だけだ。


「何故だ? そう思うのは個人の自由だけど、そのイメージを俺に押し付けないでくれ」

「クソ、こいつ国語毎回赤点のくせになんでこんなに口が回るんだよ」

「木闇、口が回るなんて難しい言葉使えるんだな」

「マジでお前なんなんだよ! ぶっとばすぞ!」

「あーあーあー、黒野(くろの)くん止めてよぉ」

「あーあーあー」


 そう言われ、夜差と一緒に「あ」の口の形をしながら、漆に掴みかかろうとしている木闇を止めに入り、どうどうと宥めた。木闇は目が合った人間のほとんどと喧嘩をしたことがあるらしい。こんなやつシャバに生かしておくなよ。

 対する漆は普段通りの涼しそうな__いっそロボットに近い表情をしていた。


「どう思ったら恋愛的な好きなんだ?」


 この会話は終わっていなかったらしい。木闇は漆に対して完全に拗ねてしまったので、代わりに夜差が律儀にうーん、と考えてくれた。


「えー、難しいなぁ。カワイーとか、抱きしめたいとか」

「それなら俺は既に犬猫と恋愛をしている」

「屁理屈ばっか言わないでよぉ」


 こいつ、動物を可愛いと思う人間らしさは持ってるんだ。


「去年の体育祭のリレーで、なんとなくチームプレイの楽しさは分かった。ジェットコースターも乗ってみたら、恐怖が興奮に変わってそれが楽しさに変わる仕組みが分かった。でも恋愛だけは何も分からないんだ。だから、恋愛がしてみたい。何かアイデアをくれ」

「アイデアって?」

「俺が恋愛をするアイデア」


 こう言い始めたら、漆はきっと本当に恋愛が出来るまで止まらないだろう。漆は馬鹿だけど、興味がある事はとことん研究しないと気が済まない性分だった。


 漆と一悶着してヤケクソモードのもう一人の馬鹿、木闇は揶揄うように漆にこう言った。


「性欲は正直だから、体の関係から始めればそのうち好きになるんじゃねぇの?」

「あっもう一人の馬鹿! 漆にそんな事言うなよ! マジでやりかねないだろうが!」


 まずいと思って木闇の発言を止めようと思ったけど、時すでに遅しだった。冷や汗をかきながら目の前の漆を見上げると、真面目そうな顔でほう、と1人で納得していた。納得するな。


「んだよ馬鹿だと!? 調子乗んなチビ!」

「チ……」

「あーん、木闇くん怖いねぇ、よしよし……」


 木闇の口から出る言葉は水素レベルで重みが無いと分かりつつも、今の言葉はダメージが大きい。周りがデカいだけで俺は小さくはない。無駄にショックを受けていると、横にいた夜差が肩を叩いて慰めてくれた。


 チラ、と壁にかけてある時計を見ると、もう昼休み終了は迫っていた。いけないと思い、俺は急いで食べる手を動かした。他のみんなはジュースを飲んだりケータイをいじったりプリントの裏に落書きをしていた。漸く漆が何も言わなくなった。ほっとしつつも、もうこれ以上何も言わないでほしいと思っていたら、やっぱりこの話は終わっていなかった。


「黒野は?」

「はい?」

「恋愛のアイデアを教えてくれ」


 早く食べないといけないのに、ぴたっと箸が止まる。この質問が嫌でなるべく発言しないようにしていたのに。


「……俺がなにかアドバイス出来ると思う?」

「なにか問題が?」

「……」


 あるよ、問題。

 だって俺も生まれて17年間、恋愛という恋愛をした事ないもん。





2

 俺達4人は教室のすみっこ族だった。

 なんなら朝登校して教室に入った時とか、休み時間トイレに行って帰ってきた時とかに自分の席を誰かに奪われていて、それを「どいてくれ」と言えないような人種である。木闇は除く。クラスでの立場が弱く、大きな輪に入れず、教室のすみっこに追いやられる運命にある。俺、漆、夜差は小学校の頃からそうだったらしい。木闇は除く。俺達は生まれながら陰のキャラクターという使命を背負ってしまった。業が深い。これは生涯全うするしかない。


「俺らみたいなモンが恥を晒す、一番嫌いな授業が何故週3回もあるのかが分からない」


 体育館にはスニーカーが床と擦れる音と、ボールのドリブルされる音と、男達の声が響いていた。


「体育がなくなったらもっと学校も楽しくなるのにねぇ」

「それは本当にそう。あ、でもその分他の教科が増えるのか……嫌だな、英語とか歴史とか増えたら」

「なんで?じっと座って聞いてればいいだけじゃん」

「夜差は俺らとは頭のつくりが違うからそう言えるんだよ」


 俺と夜差は体育館の壁に背を預けてバスケの試合を眺めていた。コートの中では漆のいるチームと木闇のいるチームが戦っている。


「ドッヂボールとかだったら……最初のうちにボールに当たっちゃえば早く外野に行けるんだけどな。バスケって形だけでもボールについていくフリしないと体育ガチ勢から睨まれちゃうし。嫌だなぁ」

「ドッヂボールでもどうせ結局変にボールから逃げ回って、最後の方の嫌なとこまで残るだろ」

「絶対そうだねー。よく考えればボールを人に当て合うなんて気が狂ったスポーツだね、アレ」

「最初に開発した人、絶対人間に対して殺意高いだろ。人をぶちのめしたくて仕方なかったんだきっと」

「俺がその時ドッヂボール開発者の隣にいたら『やめときな、もっと楽しい事見つけようよ』ってカウンセリングしてあげたのになぁ」

「お前がその時代に生まれていればな」


 俺達は陰キャで卑屈なので、情けない姿を晒す前はこうして小声で鬱憤を垂れ流す。気分が楽しくないから、こういう会話しか出来ない。


「アイツはいいな……得意科目体育で」


 そう言いながら、コートの中で華麗にゴールを決める木闇を見た。ちなみに木闇以外喜んでいない。凄まじい独りよがりプレイだったからな。


「木闇くん……本当に脳味噌が小さいから運動能力にステータス全振りしちゃったんだよ」


 夜差は顔や雰囲気に似合わず人を煽るのが上手い。


 木闇は夜差の言う通り、勉強が出来ない代わりに運動は恐ろしいほど出来てしまう男だった。性格も最悪なので、他にいい所と言ったら顔しか残らない。


「木闇、バスケ部の勧誘凄かったもんな」

「絶対チームプレイ出来ないけどねぇ。でも俺も入学した時はバスケ部からの誘い凄かったよ」

「ああ、お前デカいもんな」


 夜差は身長が高い。多分190近くある。


「どうやって断ったん?」

「断ってはないよ! でも俺、バスケ部の先輩達に囲まれたのが怖くて泣いちゃったから、勝手に逃げてくれた」

「……」


 身長は高いが、こいつは足元にある花を踏んだだけで泣きそうになるよわよわ人間だった。


「漆くん、ほぼ動いてないよ。バオバブの木?」


 木闇が顎で指している方を見ると、ボールを追う群れからひとりぽつんと離れて目線だけを動かしていた。その場にボールが来た時だけ微々たる動きをしている。逆に上手いのかもしれない。いや、全然そんな事ないけど。周りのやつらからしたら、こんなのがチームにいたら絶対嫌だろうな。でも漆はこういう人間だって周りも認識してるから、こいつはこいつで認められている感はある。


「あ、漆がボール拾った」


 気まぐれにコロコロ…と転がったボールを漆が拾った。制限時間はもう殆ど無い。同じチームの生徒が遠くから、どうでもいいから投げろ!と叫ぶ声が聞こえた。漆はそれに反応し、人間初心者?というくらいぎこちない動きでリングに向かってボールを投げた。


「あ」

「え」


 ゴールのネットにボールが吸い込まれていく。パスッと気持ちのいい音が響いた。試合終了のブザーが鳴り、コート内は雄叫びに包まれた。漆は自分の両手を見てわなわなと震えている。なんで入るんだよ。


「……ああいうところで入るのが漆くんだねぇ」


 漆も馬鹿だけど、こいつはラックにステータスを振っている気がする。望んでないからこそ、転がり込んでくる運もある。


「ねぇ、次の試合出るの嫌だよぉ」

「俺も嫌だよ……」


 夜差がはあ、と特大のため息を吐いた。俺も同じ気持ちだ。


「黒野くん、一緒にお腹痛くなって保健室行こうよ」

「揃いも揃って同じ仮病使ったらバレるだろ」


 俺達のような人間に、無断で授業をサボる勇気なんてなかった。サボるにはちゃんとした口実と本気に見える演技力が必要だ。


「うー……イヤだ…………あっ、ちょっと……、考えてたら本当に痛くなってきたかも……」

「え、大丈夫?」

「知恵熱じゃなくて……知恵腹痛……ふふ、俺ってそんな器用な事も出来るんだ……俺、保健室行ってくる!」

「おい、めちゃくちゃ元気じゃん!」


 夜差はこれみよがしにお腹に手を当てて体育教師の元に向かった。暫く会話した後、夜差はぺこりと頭を下げて体育館を出て行った。

 クソ、あいつ! 許せない。俺を置いて一抜けするなんて。


「あれ、夜差は?」


 試合が終わり帰ってきた木闇がきょろきょろと辺りを見回した。


「仮病、保健室」

「はっ!」


 木闇は馬鹿にしたように鼻で笑った。遅れて、漆が目をキラキラと輝かせながら俺の元に来た。


「分かった。バスケは楽しい。シュートした時、シンデレラフィットで梱包出来た時と同じ快感がある」

「よかったね……」


 ……なんか、こいつらはいいな、馬鹿で。


「木闇、俺の分まで試合出てよ」

「は? 嫌だね、俺はステージの上からお前のダサい姿を見ないといけない」

「馬鹿は高いところ好きだもんな」

「あ”ぁ?」


 危ない危ない、木闇に本当に保健室送りにされる。俺は重すぎる腰を上げてコート内に向かった。勿論、終始無様にボールを追いかけただけだった。





3

 放課後になり、帰る用意をしていると嬉しそうに夜差が俺の席にやって来た。


「黒野くん、今日一緒にドンハンやる?」

「おー、いいね」

「木闇くんもいるけど」


 俺ら4人は帰宅部なので、放課後は大体この4人で遊んでいる。ドンハンとは、モンスターをドンしたりハントしたりするゲームだ。


「なんで俺ついでみたいなんだよ。俺がお前らに付き合ってやってんの」


 木闇は隣にいた夜差に牙を向いた。木闇はオタク文化にほとんど触れた事がなかったが、俺達とつるむようになってから文句を垂れつつも徐々にこちら側に染まっていってる。多分自分だけ分からない世界が気に食わないのだろう。

 いつも通りの誘いに、いいよと返事をしようとしたら、帰る準備万端の漆がそれを遮った。


「だめ、黒野はこの後俺と用事がある」

「は? ないが?」

「ある。だからドンハンはまた今度」


 ない、本当に心当たりがない。でも漆はとっても真面目な顔をしている。俺はジト目で漆を見上げた。漆はノーと言わない。夜差はそんな俺達を見て、えー、と不満気な声を上げた。


「じゃあ俺、木闇くんと2人でやらなきゃいけないのぉ……?」

「んだテメェ、文句あんのか」

「ヒィん、睨まないでよお」


 夜差がぴえ、と泣き始め、木闇は夜差を引き摺って教室を出て行った。俺は未だ意味有りげな視線で漆を見つめている。


「ないけど」

「ある。俺はある」

「強引なんだよ。そういうのは相手の予定聞いてから決めるもんなの」

「どうせ予定なんてないだろ」

「腹立つな。もっと社交性を持てよ」


 漆に友達がいない理由がよく分かる。俺も人の事言えないけど。


「今日は俺の家に行く。着いてこい」

「だから、強引なんだよな」


 俺の肯定的な返事を待たず、漆はそそくさと教室を出て行った。仕方がないのでそれに合わせて着いていく。漆は歩くのが異常に早い。きっとやりたい事がたくさんあって、時間を無駄にしたくないのだろう。


 俺達はよく一緒に遊ぶが、大体学校の近くにある夜差の家で遊ぶ事が多い。なので、漆の家にはあまり行ったことがない。俺らの中でも一番遠い、辺鄙な所に住んでいる。ほぼ山奥と言っていい。バスで30分、降りてそこから歩いて30分はかかる。俺はすっかりこのルートを忘れていて、山道を歩きながら恨みがましく漆の背中を睨んでいた。


「お前……凄いとこに住んでるよな……」

「そうか?」

「もっと近くの学校あっただろ」

「あそこが最寄りだ」

「マジで言ってんの?」

「俺からすれば空気が汚い所で暮らす方が凄いと思う」

「どうせ分かんないだろ、空気の綺麗さとか」

「分かる。俺には分かる」


 まあ、確かにこれだけ自然に囲まれていたら神聖な場所な気はする。とても健やかに育ちそうだ。実際漆は陰キャのくせに体力バカだし、無駄に体つきがいい。鍛えてるのかと思うくらいだ。関係ないけれど漆は「賢く見せたいから」という理由だけで髪の毛を漫画みたいな七三分けにしている。こいつからは本当に一般的な人間味が感じられない。


「電波届く?」

「時々届かない。そういう時は諦めてる」

「だから死んだかってくらい返事帰ってこない時あんのか……」


 去年の夏休み、3日間くらい既読すらつかない時があった。心配しつつも、まあ漆の事だから何かに熱中してるんだろうなと思ってあまり気にしていなかった。物理的にやり取りが不可能だったみたいだ。


「もうすぐ家に着く。もう少し頑張れ」

「はひ……」


 正直クタクタだ。バスケも頑張ったし。なんて言ったって俺は女子にも劣るほど貧弱だから、俺を全く顧みない漆に着いていくので精一杯だった。


 歩き続けて漸く坂道を抜け、拓けた場所に出た。そこには小さい集落があった。漆に案内されるがまま歩き、大きな平屋の一軒家の前で止まった。昔ながらの、という感じだ。おじいちゃんの家を思い出す。そうそう、漆の家はこんな感じだった。

 漆がただいま、と言いながら扉を開けた。後ろを振り返り、俺に入れと目で訴える。おじゃましますと言って玄関の中に入ったが返事はなく、家の中に誰もいないようだった。少し線香の匂いがした。


「おじいちゃんとか住んでないっけ」

「そう。両親は仕事に出かけている」

「もう6時だけど……いつも両親帰ってくるの遅い?」

「8時くらい」

「遅! ご飯どうしてんの?」

「俺が用意してる」

「へー……偉いな」


 つまりこの広い家には今俺と漆の2人だけということだ。

 若干ギシギシと音がなる廊下を進み、奥の方にある漆の自室へと向かった。

 漆が扉を開け、俺も部屋の中に入った。高校生の1人部屋にしては広すぎる。でも物が乱雑に置かれすぎて、どこかの研究室のようだ。本棚があるのに床のいたる所にも積まれている。木製の大きな机の上には何かの実験の途中のような工作物と、何本かピンが刺さつた地球儀が置いてある。これはなんのピンだ?漆に海外渡航歴は一切無い。

 壁にはよく分からない昔の映画のポスターと、いくつかの昆虫標本が飾ってある。剥製の下にその虫の名前が書いてあるが、拙い字だ。小学生の頃の自由研究にでも作ったのだろうか。

 窓は遮光性の低そうなレースのカーテンで閉められていて、部屋は薄暗い。でも電気を付ける気はなさそうだ。

 漆は本棚の横に配置されている一人がけのソファに座って俺を見た。


「そこら辺でくつろいで」

「くつろげないよ」

「大丈夫だ、これでも掃除機はかけてる」

「そういう問題じゃないの。ていうか何? 俺はお前と何をすればいいの?」


 要件を聞かずホイホイ着いてきた俺も俺だけど、漆が俺単体を誘った意味が分からない。俺は勿論くつろぐ事も出来ず、その場で佇んだままだった。漆はそんな俺を見上げてああ、と呟いた。


「昼休みの話の続きだ」

「どれ? 漆が新しい数式を発見した話? 近所に墜落したオーパーツの話?」

「違う、恋愛の話だ」

「……だから俺専門外だって」

「そもそも黒野に専門分野は無い。得意な事なんてないだろう」

「お前友達大事にした方がいいよホント」


 俺の友達、3人とも別ベクトルで性格が悪い。類は友を呼んでしまうんだ。この理論でいくと俺も性格が悪い事になってしまうけど、俺はそんな事はない。俺は招かれざる客だ。違うな、あいつら3人の方が招かれざる客なのだ。


「いや、続きも何も、俺を漆んちまでわざわざ呼んで話すような事ないだろ」

「分かった。話はしない。行動に移せばいいか?」

「だから何を……」

「木闇が言ってた」

「アイツ何言ってたっけ……水素(のような内容)だからなんも思い出せない」

「黒野、こっち来て」


 そう言って、漆は俺を手招いた。漆は本当にいつも説明不足だ。仕方なく、ソファに座っている漆に近寄る。すると、漆の目の前に立った瞬間、手首をガシッ!と強い力で握られた。


「え?」

「木闇の話にしてはなるほどと思ったんだ。性欲から恋愛に発展するっていうのは」

「……………………あっ」


 数秒考え、間抜けに声を上げた。嫌な予感がした。


「一番手っ取り早いだろう」

「待って、なんでよりにもよってそれを……いや、漆、つまりどういう事か分かってんの?」

「うん」

「うんじゃねえよ! クソッ、マジで木闇! アイツ馬鹿のくせになんで余計な事しか言わないんだよ! 馬鹿だからか!?」

「余計な事は成長に繋がる」

「それらしい事言ってんなよ!」


 今の漆は完全に研究モードに入っているので、外野が何を言ってもこいつの心に響かないという事は分かっているが、なんだか嫌な予感がして抵抗せずにはいられなかった。頼むから間違っていてくれと思うけど、こういう嫌な時に限って俺の勘は当たる物である。しかしどれだけ腕を引っ張っても、この漆・馬鹿力・千佳から逃げられない。豊かな自然が作り上げた身体は、陰キャであっても恐ろしく強靭だった。暮らしやすい街で不自由なく育ったヒョロい小枝では到底太刀打ち出来るはずもなかった。俺はダラダラと冷や汗をかいた。


「分かった! 分かったから、そういう関係から付き合うのも悪くないと思う! でも俺は漆の恋愛には全く関係がないし関わろうとも思わないから離せ!」

「関係あるようになる。だから離さないし、黒野を呼んだ」


 俺、絶対関係ない!


「黒野、」

「アーーー」


 うるさいな、名前呼ぶなよ!


「黒野、くろの」

「アーーーーー」


 いや頼むから、ほんと、何も言うなよ!何もさァ!


「俺とキスをしよう」

「ア”ーーーーーーーーー!」


 言うんだよ、そういう事!漆はそういう男だ。知ってたけど、知ってたけど、今回の研究課題はあまりにも……。


「あまりにもだろ!」

「?」

「そんなキョトン顔すんなよ!俺がおかしいみたいな雰囲気じゃん!」

「何をそんなに戸惑う事がある?」

「なに、何って、え!? 説明しなくても分かるだろ!」

「?」

「だからそのキョトン顔やめろ!」

「喋り終えたか? してもいい?」

「マジでコミュニケーション取れねぇ! いや、待って、分かった! 五百歩くらいは譲ろう」

「それは、してもいいって事か?」

「話の空気感を読み取れよ! まだ続きあるから! あのな、五百歩譲って、その……友達……それも、男とキスするのはいいとする。これは俺がとやかく言う話じゃないし」

「で、してもいいって事か?」

「なんで最後まで話聞けないの? どうせお前、傾聴しろって毎年通知表に書かれてるだろ! この後! 大事だから聞いて。友達とキスするとして、なんで俺なの!?」

「消去法で」

「消去法でキスされてたまるかよ! 俺の気持ち考えろ! 俺以外に頼めばいいじゃん! 夜差は脅せばしてくれそうだし、顔もよく見たら可愛いし、木闇も黙らせれば顔は綺麗だし、絶対そっちのが良くない!?」

「夜差は俺よりデカいから無理だ。デカいやつとキスしようと思わない。木闇は論外だ。キスの前に先に拳が出るだろ。だから黒野で」

「クソッ……! 何も言い返せねぇ……!」

「もういいか?」

「えっ、ぅ、わっ!」


 勢いに乗りまくっている漆を論破出来ず狼狽えていると、漆は掴んでいた俺の腕を引っ張って、そしてどういう訳か漆の膝に俺を座らせた。は?と思った時にはもう遅く、その逞しい腕でガッチリ俺の腰をホールドされ、身動きが取れなくなっていた。目と鼻の先に漆の顔が来てしまい、俺はすぐさま顔を背けた。すると漆は俺の頬を手で挟んでぐぐぐ、と無理やり顔を正面に向けようとしてきた。コイツ本当にありえない。


「っオイ!」

「おいはこっちのセリフだ。正面を向け」

「嫌ですが〜〜〜!? あのなあ! お前はこれでいいのかもしれないけど、俺は絶対に嫌だからな!」

「黒野うるさい」

「アーーーッちょっと待って、本当にムカつく」

「お前にもいい事はあるだろ」

「ないよ!」

「ある。だってどうせ、黒野は今まで1回もキスした事がない」

「は……」

「多分一生出来ない。このままだとキスを経験せずに黒野は死んでいく。それでもいいのか?」


 はい、完全にキレました。なんで漆にそんな事言われなければいけないのか。何故決めつけられなければいけないのか。漆には凡そ人の心というものか無い。もう流石にガツンと言ってやろうと思った。


「__あのなあ、俺ずっと言ってるけど、漆はもっと人の気持ち考えろって、っあ、」


 怒りで油断していたのがいけなかった。ふと漆を見た隙に、漆は俺の顔を両手で挟んですぐさま唇を寄せた。一瞬すぎて、文句も言えなかった。


「んぶっ、むっ!!」

「んー……」


 タイミンも悪かった。喋っている途中だったので、開いている口の中に躊躇なく漆の舌が侵入してきた。咥内を確かめるかのように、その舌がぐにゃぐにゃと動き回る。


「ん”ーーー! ん”ーーーッ!!」


 最初はもう無我夢中で抵抗した。かぶりを振りたかったが、漆に顔を抑えつけられていてそれも出来ない。キスとも呼べない行為が数分続き、お互い呼吸が怪しくなってきた所で漆がぱっと顔を離した。


「ふぅ……どうだ?」

「……ッはあ、はあ……。殴っていい……?」

「ム……」


 漆は俺の反応を見て不満げに口を尖らせた。俺が必死に呼吸を整えているのに、それに構わず漆はまた俺に迫ってきた。


「ちょ、まっ! ん、んむぅ」


 最悪! なんで俺はこいつにニ度もキスされなきゃいけないんだよ! ファーストキスだけでなく、セカンドキスまでも。悔しすぎる!

 またしても強い力で顔を固定されているのでこの猛攻からにげることが出来ない。せめてもの訴えで、んー! と声を張り上げるが、それも全部漆の口の中に吸収されていく。そんな事をしていたら勿論体内に取り込んた酸素がなくなってくるわけで、本能的にフガフガと鼻で息をした。身をよじりながら思いっきり漆の胸板を叩いたが、漆は片手でもう一度俺を抱き寄せ、さっきより距離が近くなってしまった。漆のもう片方の手は、今度は俺の頭をガッチリホールドしている。ああもう、こんなの絶対逃げられないじゃん。


「んッ! うるっ、ん! んーーーッ! ふっ!」

「んぅ、ふ……」


 ヤバイ、意識がぼーっとしてきた。なんか、初回よりも舌の動きを敏感に感じてしまう。漆は好奇心からか舌をおもむろに動かすだけではなく、俺の上顎や内頬、舌の裏を確かめるようになぞってきた。未知の感覚にビクついてしまった。


「ン!!」


 今までの抵抗する声とは違う、甲高い声が出てしまった。俺も自分でびっくりしたけど、漆もびっくりしたようで、口を離してくれた。黒い目を大きく開いている漆と目が合う。恥ずかしすぎて、俺は顔を赤くさせた。


「……あの……もうやめてくれ……」

「……どうだ?」

「や、だからどうって……怒りしかないけど……」

「……」

「えっ、あっ、待って、待って、もういいって……ぁン」


 ニ度も許しただけでなく、三度目にも突入してしまった。ここまでくると抵抗するのも馬鹿らしくなってくる。どうしたってこいつから逃げられないのは分かってしまったから、もうされるがままだった。

 しかも厄介なのが、回数を重ねる毎に漆がスキルアップしていっている事だ。多分だけど、じっくりと、執拗に、俺が大きく反応する箇所を舌が何度も往復している。意識とは関係なく体がビクビクと反応する。こんな自分嫌すぎて泣きそうだった。目を細めながら目の前を見ると、漆も瞳を煌々とさせながら俺を見ていてなんだか怖くなった。


「はっ、は、ン……う、う、ぅし、ア、んんぅっ……」


 駄目だ、まともに言葉を発せないし、考える事も出来ない。何かを言おうとする度に漆は角度を変えて口を塞いでくる。くらくらとしてきた。極めつけに、舌をくすぐるかのように絶妙な力加減で舐められて無理だった。腰からビクン! と大きく震える。すると漆はふ、と笑い口を離した。


「どうだ?」

「っはぁ、っ……、も……勘弁して……」

「……意にそぐわない」

「は……。ぇあ、ん、んぅ……」


 今度は慣れたように再び俺の口を塞ぐ。何回目? 何回目だ、多分4回目。もうなんかいろいろどうでもよくなってきた。意にそぐわないってなに?どうすればこいつは満足してくれんの?


「フーーーッ……、ン、ぅ……フーーーッ……」

「……」


 鼻で呼吸をするので精一杯だ。それ以外の体力がもう残っていない。確実に、意識がどこかへ行きそうになるスパンが短くなっている。きっと俺の目は虚ろとなっているだろう。漆はそんな俺を見て目を弧に歪ませた。こいつ、そんな笑い方するの。俺の意識なんて関係無く漆は俺の咥内を弄り続ける。もうどっちの唾液か分からない。なんだか俺の口の中に漆の舌が存在する事が当然のようになってきた。次に漆が口を離した瞬間、反射的に、その舌を追いかけるように自分の舌を伸ばしてしまって更に顔を赤くした。


「は、……ぅ……」

「どうだ?」

「……………………」


 なんだか舌がぴりぴりして全く喋れないので、俺は弱々しく首を横に振った。意味わかんねえよ、の意で。すると漆はまたム、と顔を顰めて、またまた俺の口にかぶりついてきた。なんだコイツ! もうしんどい! やめて! いつまで続くんだこれ! そんな感情を表す元気もなく、もう完全に行動を漆に委ねてしまっていた。漆が俺を支える腕の力が強くなっている気がする。多分この支えがなかったら俺はとっくに倒れていたと思う。


「__ッ__ッは、ン、……ぅ、____」


 何十分経っただろうか。時々気休めに漆が口を離してくれるが、その瞬間に息をするだけで他には何もできない。絶えず漆の舌は俺の咥内をかき混ぜている。ぐちゅぐちゅ、と考えたくないような音が薄暗くて広い部屋に響く。体が不規則に跳ね、酸素も少なく頭がくらくらしてきた。俺達なにやってんだっけ。どうすればこれ終わるんだろう。漆は何をほしがってるんだ。

 そしてお互いの唾液が外に溢れて、俺の口の端を伝った所でまた顔が離れていく。俺は肩で息をしながら、虚ろな目で漆を見るしか出来なかった。

 

「は、……はぁ……」

「……どうだ?」

「……だ、だから、それ、なに……」


 未だ俺の体を離す気がない漆が怖い。きっと満足のいく回答がもらえなかったらまた機嫌を損ねて同じ事の繰り返しになるだろう。現に、漆は俺を見てまたも不満気な顔をしていた。そして俺をじっと見つめながら漆は呟く。


「__気持ちいいか?」

「……は、え……」

「……」


 漆の問いかけが思ってもみないもので、俺はぽかんと思考を放棄させた。え? なに、そう言ってほしいの?


「そ、……え……あの、いや……」

「……努力が必要か?」

「うおっ……や、待って待って!!」


 漆が目をギンギンにさせながら、両手で俺の後頭部と腰を力強く固定し直した。漆の妙に迫力のある顔が俺に近付く。あ、まずいまずい! これは本当に一生続けられるやつだ!理性を失った漆ほど怖いものはない。漆は自分より立場の低い人を蹂躙させるのに躊躇がない。俺と漆の唇が重なるまで、もうあと数センチ。


「だから待って!!」


 顔と顔の隙間にすかさず手を挟み、思いきって漆の口を塞いだ。パチン! と乾いた音が鳴る。漆は一瞬びっくりしたような顔をして、俺になにをされたか理解すると、俺の手のひらをぺろぺろと舐め出した。ヒィ! コイツほんとになんだよ!


「漆っ! 分かったから!」

「ン?」

「き、気持ちよかった、から……」


 言ってる途中、俺は何故こんな辱めを受けなければいけなのだと猛烈に恥ずかしくなり、弱々しく尻すぼみになった。

 すると、漆は俺の言葉を聞いた途端俺の手から顔を離し、俺を見てなんともご満悦気ににっこりと笑った。コイツは……バケモンか?


「お前……怖えよ……」

「分かった」

「は?」


 漆は俺の言葉なんか聞く耳も持たず、嬉しそうに話した。とりあえず俺を漆の膝の上から降ろしてほしい。


「分かったって、なにが」

「性欲から恋愛的な好きが生まれるの」

「……………………それ、」


 __問題あるくない? その発言。

 つまりそれって、今の一連の流れで、俺に……え?


「バスケより楽しい」

「……」


 漆は初めて遊園地に来た子のように目を輝かせていた。

 いや、もう何も考えないでおこう。どうせ漆も大した事考えていない。俺も漆の実験に無理やり巻き込まれただけで、今回のキスはノーカウントでいこう。


「漆は……もっと他にもいろいろ学ぶべき事があると思う」

「黒野、今日は泊まっていくか?」

「聞けよ」


 人の話を聞かない界において右に出るものがいない。というかあんな事をされた後に泊まるわけないだろ。


「もう降ろせよ。俺は帰る」

「バス停まで1人で帰れるか? もう暗いぞ」

「……帰れない!」

「送ってく」


 漆はやっと俺を降ろして、そして何故か俺の手を握って玄関まで連れて行かれた。


「お前、絶対今日の事みんなに言うなよ!」

「ん」


 顔もこちらに向けず、軽く返事をされる。本当に大丈夫なのか。


「また頼む」

「は?」

「キス」


 握られていた手をべしっと引き剥がし、漆に怒りをぶつけた。


「絶対やらないからな!」

「何故?何回やっても一緒だ」

「人の尊厳を踏みにじりやがって……」


 ふと、先程の咥内を弄られている感覚を思い出してゾクッとした。もう絶対やらないしやらせない。というか、あれだけやって許してくれる俺に、漆はもっと感謝するべきだ。


 漆は上機嫌に俺の前を歩いていた。

 ずっと、漆はロボットみたいだと思っていたけど、この瞬間だけは何故か今までで一番人間らしく感じた。





4

 そして、翌日の昼休み。


「俺、昨日黒野とキスした」

「ブーーーーーーーーッ」

「は?」

「え?」


 飲んでいたパックのオレンジジュースが呼吸器官に入り、ゴホゴホとむせ返った。木闇と夜差はぽかんと口を開けたまま、俺と漆の顔を見比べていた。


「……どこからどこまでが本当だ?」

「俺、昨日、黒野と、キスした」

「全部本当かよ……」

「なんでそんな事したの!?」

「昨日木闇がアドバイスくれたから」

「……は?」


 咳き込みながら、俺は漆に怒りをぶつけた。


「なんで言うの!? 俺みんなに言うなって言ったよな!? シャレになんねえよ!!」

「みんなに言ったほうがシャレになるんじゃないのか?」

「あっ!? それもそうか……え!?」


 じゃあこいつは良かれと思って暴露したのか!? こいつ、人の話を聞かない・人の言う事を聞かないだけでなく、人の秘密も守れないのかよ! もう絶対漆の事なんか信じねえ! なんで俺はこいつの友達やってんだよ!


「……は?じゃあお前……お前と漆が……キス、した事、隠そうとしてたのか……?」 

「内緒でなにやってんのぉ!?」

「いやっ、そうじゃなくて……そうだけど……クソッ!! マジでこいつ(漆)なんなんだよ!!!!」


 木闇と夜差が目をかっぴらいて俺を凝視してる。俺じゃない! 俺じゃないんだよ! そんな顔で俺を見るなよ! 漆が我関せずみたいな顔をしているのもムカつくな!!


「え!? じゃあ昨日黒野くんが俺達と遊ばなかったのは……漆くんといやらしい事してたからなの!? しかも俺達に内緒で!?」

「ちが、違うって! 違うから違うから! 全部嘘だから! ホント、漆のジョークだ!」

「黒野、気持ちいいって言ってた」

「お前さーーーーーーーーッ」

「やっ……やっぱそうなんだ!! 黒野くん、漆くんと2人でやらしい事してたんだ……ッ! 俺達に内緒で……う、うう、うぇ、ううぇぇぇ……」

「お前ら……なにしてんの、マジでキモいんだけど……ハァ?」

「あ”あ”あ”あ”あ”漆ィィ」


 地獄絵図か。夜差は号泣してるし木闇には侮蔑の眼差しを向けられるし、漆は涼し気な顔でご飯食べてるし。なんでお前はそんなに関係無くいられるんだよ。


「な、正直に話した方がいいだろ」

「……どの口が言ってんのそれ? 何を見て?」





5

 さて、もう漆千佳の話題は口に出したくもないので、夜差の話でもしよう。今俺の目の前を歩く男、夜差奈之を。


「あだっ」

「それ、何回目?」

「痛いよぉ」


 美術室の入り口で頭をぶつけた夜差は、頭を撫でながら涙を浮かべた。去年まではスレスレで通れていたのに。夜差の成長はとどまるところを知らない。


「今日先生が代理だから、好きな絵を描けって。俺、黒野くんの似顔絵描こうかな」

「じゃあ俺は夜差の顔描こうかな」


 夜差はえへへ、と笑って席についた。ちなみに選択授業なので、漆と木闇は音楽の授業を受けている。

 俺達はすみっこ族なので、例に漏れず教室の角に座りながら絵を描いていた。夜差はその大きな背中をぐにゃっと曲げて画板に向っている。


「黒野くん」

「ん?」


 呼びかけられ、顔を上げると夜差はへらっと笑った。


「はへ、黒野くんのそばかす何個か数えるね」

「律儀に数合わせて描かなくてもいいだろ……」


 夜差は変に几帳面だ。几帳面だし、潔癖の気がある。変なところでそれが出る。たまに、一種の病気じゃないかというくらい何かに拘る時がある。いち、に、と数え出した夜差を止める事はしなかった。遮ると怒るかもしれないので。それは、じゅうご、と数えたあたりから数えるスピードが遅くなって、さんじゅうと数えてとうとうぴたっと止めた。数え終わったというよりは、数えるのを止めたらしい。不自然に思い顔を上げると、夜差はなんともいえない不安そうな顔をして俺を見ていた。


「ん?」

「黒野くん、」

「はい」

「黒野くん、あの、さっきの……」


 眉をへにょっと下げ、口を開けたまま止まった。でも夜差は数秒間そのまま黙って、仕方なく、何かを諦めたかのように呟いた。


「……さっきの現国の、俺泣いちゃいそうだった」

「いや、泣いてただろ」

「だってさぁ、愛犬が死ぬのはずるくない?」


 夜差は本当にすぐ泣く。これでもマシになった方らしい。昔は天パと言われただけで泣いていたとか。こんなのがよく木闇みたいに粗暴なやつと仲良く出来るな。仲良く出来てるのか?


「木闇なんかあのページ破って飛行機にしてたぞ」

「ええ、よくそんな事出来るね!? 木闇くんって本当に性格ヤバイ……」

「夜差はさ、木闇は怖くないの?」

「うーん……」


 夜差は鉛筆を動かしながら、取るに足らないと言わんばかりに口を開いた。


「最初は怖かったけど……木闇くんはバカだから……。口に出す以上の事は考えられないでしょ。バカだから大丈夫」

「……」


 夜差は無自覚煽りスキルが高い。夜差は頭がいいので、木闇レベルで頭が弱い人間は怖くないらしい。ちなみに俺がこの世で最も恐れている3つが、理性を失った漆と、頭がキレてる時の夜差と、仲間外れにしてしまった時の木闇だ。本当に、なんで俺はこいつらの友達をやっているのだろうか。


「夜差、夜差」

「ん〜?」

「見て、夜差の髪の毛うまく描けた」


 描き途中の似顔絵を夜差に見せた。だいぶふわふわに描いた。夜差はこの髪の毛を嫌ってるけど、俺は夜差に似合ってていいなと思う。

 夜差は俺の描いた似顔絵を見てなんとも言えないような顔をした。


「あっ、いや、揶揄ってるとかじゃないから!」

「いや……あは! 俺こんなに巣みたいな髪の毛じゃないよぉ」

「ごめん……」

「ううん、黒野くんが描いてくれるんならいいよ。俺ねえ、黒野くんに髪の毛褒められてから自分の髪の毛あんまり嫌いじゃなくなったんだよ」

「そうなの?」


 夜差はうん、と笑ってまた絵を描き始めた。確かに、俺達の初めての会話は夜差の身長と髪の毛を褒める話だった気がする。


「黒野くん、見て〜」


 次は夜差が描いた俺の似顔絵を見せてくれた。顔の中心にいくつもの点々がある。


「86個」

「……数えたの?」

「見えたやつだけ!」


 緻密に描かれている。寧ろ目や口などの他のパーツは全く描かれていなかった。夜差、もしかして俺の事そばかすとして認識している?


「あ、チャイム鳴っちゃった」

「それで出すの?」

「うん!」


 夜差は右下に黒野文くん、とだけ書いた。これはこれで、一種のアートなのかもしれない。多分だけど、夜差はちょっと変わってる。いや、俺の周りに変わってないやつなんていないけど。





6

「黒野、バス停まで一緒に帰ろう」

「断る! 俺お前の事許したわけじゃないからな!」


 許しもしてないし、信用もしてない。じりじりと詰め寄って来る漆から逃げると、背中にどん、と何かが当たった。


「あうっ」

「あ、ごめん」

「んーん、平気」


 たまたま後ろにいた夜差にぶつかってしまい、俺はそうだ、とひらめいた。


「ていうか、俺今日は夜差と勉強する予定だから」

「え?」


 後ろを振り返り、「うんって言え」とアイコンタクトで必死にアピールをする。夜差は分かってくれたようで、長い腕を俺の体に巻きつけた。いる? その動作。


「うん、漢検の勉強。漆くんもする?」

「……いや、いい」


 漆は数学と物理と科学以外てんで駄目だ。国語なんてどんなジャンルでもかなり嫌っている。漆が嫌そうな顔をしたのを見て、心の中でガッツポーズをした。夜差、空気の読める良い子だ。そして、一応誘わないと拗ねるので、本当に一応、遠くにいた木闇にも聞いてみる。


「木闇ー、一緒に勉強会するー?」

「なんでそんな無駄な事しなきゃいけねえんだよ! こっちは忙しいんだよ!」


 勉強を無駄な事と言い切る馬鹿は、部活やバイトもしていないので勿論忙しいわけがない。木闇はこういう言い方しか出来ないから仕方ない。


「夜差、帰ろう」

「……うん」


 なるべく漆の顔を見ないようにして、夜差をひっぱって教室を出た。そして口実を作った手前、なんとなく流れで夜差の家に遊びに行く事にした。学校から夜差の家まで徒歩5分という好立地なのでありがたい。帰る道中、夜差はなんだかそわそわとしていて落ち着きがなかった。信号待ちの間に、おろ、と口を開く。


「……あの、黒野くん」

「ん?」

「えっと……、あの、漆くんと喧嘩したの?」

「ああ、えっと……」


 心配そうな顔をしている夜差を見て、少し申し訳なく思った。夜差は空気を読むのが上手で、上手すぎて雰囲気が悪い中にいるとストレスを感じる質だ。


「いや、俺が一方的に漆を避けただけで……、いや、というか俺のせいじゃなくて漆のせいなんだけど……。喧嘩とかじゃないから。なんかごめんな」

「ううん」


 夜差の視線はまだ落ち着き無く泳いでいる。欲しかった回答、これじゃなかったのだろうか。


「あの、あの……黒野くんが怒ったの、その、昨日漆くんと……あの……」

「あ〜……」


 どうにか漆の爆弾発言を記憶から抹消してほしいと思っていたけど、そうもいかず、どうやら夜差は今日その事でずっと頭を悩ませていたらしい。なんか、可哀想だ。身近にいる男2人の聞きたくもないキス報告を聞かされて。夜差と木闇だってある種被害者かもしれない。


「漆の、いつものやつだよ。俺は体のいい実験体にされた。無理やりだぞ? 夜差はそういうのは同意の上でやれよ。あと夜差も漆の事はやすやすと信じない方がいい。自己欲求のために人を平気で裏切る」

「う、うん。……」


 なんだか腑に落ちていなさそうだ。夜差の家に着き、夜差は鞄から鍵を取り出して鍵穴に挿そうとした。慌てているのか立て付けが悪いのか、なかなか挿さらない。1人で小さい鍵相手にあうあうと鳴いている大男が面白かった。


「そっち、裏口の方の鍵じゃない?」

「あっ、ホントだ。ありがと〜」


 夜差はへへっと笑った。さっきから様子がおかしい。今度こそ玄関の鍵を開け、俺達は夜差の部屋に入った。いつも通りベッドフレームにもたれかかってスマホを触っていると、夜差は飲み物取ってくるね、と言ってリビングに降りていった。


 夜差の部屋は漆の部屋とは違い、ザ・実家の子ども部屋という感じだ。いつも遊びに行っているので、安心感まである。部屋の壁に沿って配置されている勉強机は、夜差がここまで成長する事を考えていなかったのだろう。ここに座るのをあまり見た事がないが、きっと凄く窮屈だと思う。

 そういえば、夜差と2人で遊んだ事があまりないな。俺達は去年高校に入学してから出会ったが、意外と誰か個人とプライベートで遊ぶ機会がなかった。

 1年の最初の頃、俺達は完全にバラバラで、集団に馴染めずにいたのが、段々自然と集まるようになった。まあ、はみ出ている者がグループ学習とか班決めとかで仕方なく固められるのは当然なので、それもあるのかもしれない。ちなみに初期の頃はまだ木闇も別の世界……カーストトップの方にいた。あいつその者が異端児すぎて、カーストなんてものの枠の中に入っていたのかは微妙だけど。


 と、過去を振り返っていると部屋のドアが開き、トレーを持った夜差が中に入ってきた。


「お待たせー」

「ごめん、わざわざ」

「ううん」


 家に遊びに行くたびにこうして何かを用意してくれている。夜差家の食糧に寄生しているようで罪悪感がないわけでもないが、たまに出くわす夜差のお母さんは、これでもかと言わんばかりにお菓子やジュースを勧めてくる。特に俺なんかはちゃんと食べているのか、毎回と言っていいほど心配される。ちなみに夜差のお母さんもデカい。俺よりもデカいので、夜差の家にいると空間が歪んだように感じる。


「はい、ごめんちょっと熱いけど」

「ありがとう……何これ? ココア?」

「ホットチョコレートだよ」

「……この時期に?」

「美味しいよ」


 夜差はテーブルの上にマグカップを置いた。湯気と、甘い匂いが漂う。

 変だな。いつもは分かりやすい定番の飲み物を用意してくれるのに。まあ、他の人がいる時にこんなの面倒くさくて用意してられないのかもしれない。今日が特別かも。

 一口飲むと口の中に甘くて思い感覚が広がった。美味しいけど、これはこういう時に飲むものか?

 ほっと一息つき、マグカップを置いて妙に縮こまって体育座りをしている夜差見た。


「夜差、何する? 話合わせてもらったけど、俺漢検の勉強なんかしたくない」

「……えっとぉ、あのね、あの……俺、黒野くんに聞きたい事あって……」

「え、なになに」

「……」


 すると夜差は突然、目に涙を浮かべながらぷるぷると震えた。怖い。夜差が突拍子もなく泣く時はなにが起きるか分からない。

 そして夜差は、蚊の鳴くようなか細い声で俺に尋ねた。


「黒野くん、なんで漆くんとチューしたの……?」

「ン”ン”」


 咽た。何も飲んでないのに。よかった、ホットチョコ飲んでなくて。

 俺はぶんぶんとかぶりを振って必死に否定した。


「だから! 無理やりだって! 昨日漆が恋愛したいとかトチ狂った事言って、あの馬鹿(木闇)がトチ狂ったアドバイスしたから、俺は巻き込まれたの!」

「でも気持ちよかったんでしょ?」

「あーーーも〜〜〜曲解しないで! 言葉の綾! アレは漆に言わされたんだよ!」

「ううん、黒野くんそんなに嫌がってないでしょ、俺分かるもん」

「は……」

「分かるもん……」


 夜差は座ったまま、膝に顔を埋めた。なんだか猛烈に恥ずかしい事を言われた気がする。俺が1人で顔を赤くさせていると、夜差は少しだけ顔を上げて、ぽつりと呟いた。


「……俺、女の子って嫌いなんだ」

「お、おう」

「女の子怖いし。俺は、このまま生きていくと多分誰ともチュー出来ないよ」

「……そんな事ないって。きっと夜差に合う優しい子もたくさんいるから……」

「ううん、そんな人いないよ。男の人ですら意味分かんない人いっぱいいるのに、性別の違う女の子なんて、分かり合えるわけがなくない?」

「そ……………………、そうかな」


 ……夜差の思想が強い。夜差は弱々しく見えるが、その実頑固で自分の意志はあまり曲げないので、これに関しては俺が何を言っても聞かないし効かないだろう。で、結局夜差が俺に言いたい事はなんだろう。


「黒野くん、ホットチョコ飲みなよ」

「え、あ……うん、ありがとう……?」


 勧められるがまま、目の前に置いたホットチョコを飲んだ。まだ熱くて舌が痛い。ちょっとずつ飲めばいいんだろうけど、なんだか飲み干さないといけない気がした。理由も分からぬまま空になったマグカップを机の上に置くと、前髪と腕の隙間から覗かせた夜差の目がとろっと垂れ下がった。


「チョコレートって媚薬効果があるんだって」

「びや……え?」


 俺はぎしっと固まった。なんか、夜差がとんでもない事言わなかったか? 夜差は体勢を変え、猫のように四足歩行になってじりじりと俺に近付いてきた。嫌な時の勘が働く。俺は冷や汗をかきながら後ずさった。


「女の子って怖いし、俺は、俺より弱い人じゃないとチュー出来ない」

「いっ、……いろいろ問題ある発言だけど、夜差は体も大きいし、力では絶対女の子より上だから、大丈夫じゃない……?」

「ううん、力とかじゃなくて、精神的に。女の子は頭がいいし、心の中でいっぱいいろいろ考えてそうだから、駄目だよ」


 ゆっくりと逃げると、ゆっくりと詰め寄って来る。ドン、と壁に背があたり、俺は身動きが取れなくなってしまった。目の前の夜差はいつも通り情けない顔をしているのに、なんだか別人みたいで怖かった。


「俺もチューしたい」

「……おっと、俺用事があんの忘れてた」

「黒野くん」

「女が嫌なら適当に男捕まえな。嫌かもしんないけど、木闇とか……漆でもいいんじゃない? winwinの関係じゃん。じゃ、そういう事で……」

「ふみくん!」


 俺がダッシュしたのに機敏に反応し、夜差は俺をみしっと抱きしめた。体がデカイので拘束されているみたいだ。反射神経悪い癖に、なんでこういう時には動けるんだよ。


「うー、やだやだ、帰らないで、俺とチューしてよぉ!」

「……嫌だ!! なんで! なんでそうなんの!? お前も漆と一緒かよ!!」

「違うもん! 漆くんは無理やりだったんでしょ? 俺はちゃんとふみくんに許可取ってるもん!」


 先程俺が夜差に「こういうのは同意の上でやれ」と言った事を思い出した。訂正、無理やり同意させるのは違反だ。


「いーやーだー!! 帰る! 帰る!! 何が悲しくて男と連日キスしなきゃいけないんだよ!!」

「う、うう、うううぅぅぅ……」

「うおっ!」


 必死に抵抗していたが、夜差は唸りながら俺を床に押し倒して、俺に体重を預けてきた。本当に重い。逃げる隙なんて勿論なかった。


「うううう、うええええ、うああぁぁぁん」

「ちょ……」

「ふみくん、俺の事っ、嫌いなんだぁ……」

「待って! なんでそうなんの!」

「うわああああっ」


 とめどなく、俺の顔にぼたぼたと大粒の涙が落ちてきた。おい、おい、ここで泣くのは卑怯だろ!

 

「嫌いじゃないから! 嫌いじゃないぞ! ほら、ほら、よしよし!」

「んむぅ」


 慌てて制服の袖で涙を拭って、もう片方の手で夜差の頭を撫でた。赤ちゃんなら別として、16、17にもなった大男の涙を止める術が分からない。


「ひっ、う……ふみくん、お、俺の事嫌いじゃない?」

「嫌いじゃないよ」

「じゃあ、俺の事好き?」

「す……まあ、好きか嫌いかの2択だったら、好きだけど……」

「え、へへ、えへへ」


 夜差は目尻に涙をためながらにこぉっと笑った。コイツはこれでいいのか?


「じゃあ、俺とチューしよ」

「そうはならんだろ」


 そうはならんだろ!

 涙を拭っていた手を、今度は夜差の顔全体を覆ってぐいっと離れさせた。すると夜差はまたぴえ、と泣き始めて、俺はもう大混乱だった。


「うーーーーーっ!! ふみっ、ふみくん! やっぱり俺の事嫌いなんだ! う、う、漆くんはいいのに、俺は駄目なんだ!!」

「あーーーその言い方語弊が」

「ふみくん、漆くんのが大事なんだああぁぁぁ」


 なんて厄介な男だ! やっぱり夜差もとんでもねえ人間だった。泣き落としがまずズルいし、漆を比較対象にするのもズルい。あと俺の事文くんって呼んでくるのもズルい! 

 俺は半ばヤケクソになりながら夜差の頬を両手で挟んだ。そして、


「んっ」


 勢いよく夜差の唇にキスをした。


「……これでいいか!」


 すぐさま顔を離し、夜差を睨んだ。顔が熱い。

 夜差はきょとんとした顔をして、唇に指を当ててへにょ〜っと笑った。


「えへ、もう1回……」

「はぁ!?」

「……ダメ?」

「う……」


 だから、泣きそうな目で見ないでほしい。ここで断っても泣き喚いて俺を拘束する気だろう。俺は仕方なく、本当に仕方なく、渋々と頷いた。


「んへへ、ふみくんありがとう」


 夜差はそう言ってすかさず俺にキスをした。早、と思ったのも束の間、口の隙間に躊躇なくにゅるっと舌を差込んできたので、驚いて目をぱちくりと開いた。俺の舌の平をゆっくりなぞって、咥内をぐるりと一周し、上顎をざらざらと舐めた。


「んっ、ふっ、ん、ん!!」


 昨日あれだけされたのに、まだ慣れない。というか、人が違うとこうも違うのか。夜差は舌までデカい。こんな事されると、食べられているみたいだ。


「んんーッ、よ、ん、むぅ、んッ……」

「ん〜〜〜……」

「ンッ!」


 舌の先端を甘噛みされて、思わず体が跳ねた。本当に食べられた。押し倒してきてる夜差の肩に両手を置いて、なんとか押し返そうとするが、やっぱりびくともしない。その間もあむあむと舌を食まれ続け、また思い出したかのように上顎を舐められ、俺は一切抵抗する事もなくされるがままだった。


「はっ、んっ、よ、よぁ、は、よさ! ストップ!」

「んむっ」

「はぁーーーっ、はぁーーー……」


 口の角度が変わった隙に、なんとか顔を離して夜差の顔を固定した。口の周りがすーすーする。多分唾液でベタベタだろう。夜差は途中で止められて不機嫌そうに俺を見た。ていうか、コイツ。


「……………………なんか、上手くね?」

「え、そう? えへへ」

「絶対はじめての動きじゃない……」

「俺はじめてじゃないもん」

「え?」

「はじめてじゃないよ」

「……待って、は? なぞなぞ?」

「ん?」


 夜差が至っていつも通りの情けない表情をしているのが逆に不気味だ。


「だって、誰ともチューできないって……」

「チューしたことないとは言ってないよ」

「は?」


 は?だ。嘘だろオイ、夜差は俺らの仲間だと思ってたのに。


「……キスしたことあんの? いつ?」

「中学の時……」

「……クラスの子?」

「ううん、親戚のお姉さん」

「え? え? え? お前から?」

「ううん、お姉さんから……」

「エーーーーー」


 何という事だ! こいつは年上のお姉さんに、既に食われていたと言うわけか!

 目の前の情けない顔を見て、俺はなんだか悔しくてたまらなくなった。これ以上聞きたくないのに、俺は好奇心の方が勝ってしまった。


「……キスだけ?」

「ううん」

「……………………スゥーーー……」


 どうしよう、いきなり夜差がめちゃくちゃ大人な人間に見えてきた。それってさあ、つまり……。


「その先も……え……もしかして、夜差は、その……童貞ではない、と……」

「うん」

「……ハア〜〜〜〜〜、マジか……ちょっと……」


 ショックだ。だって夜差は周りの人間に引けを取らないくらい性格に難アリで、正直俺ら__もっと言うと俺がいないと、学校という小さい社会ですら生き延びるのが困難な人間だと思っていた。そんなんだから、勝手に俺らと同じ立場、もとい、童貞だと信じて疑わなかった。というか、そんなのを考える隙さえなかった。出会った瞬間から決定事項だった。

 だというのに!


「お前……ちゃんと全部食われてんのかよ〜……」

「でもでも! 俺怖かったんだよぉ! だから女の人嫌いだし!」

「いいじゃん! お姉さんに童貞奪われるなんて、しかも中学でって、夢ありすぎんだろ!?」

「えっちな漫画読みすぎだよ! 俺本当に怖かったんだから! 何も知らなかったのに、いつのまにか裸になってて……うう、ううぅ……」

「っ、お、おい……」

「うわあああっ……やだよぉ、俺、このままじゃ誰とも恋愛できないし、結婚もできないし、一生一人だよぉ! うわあああんっ……」

「あー……」


 夜差が俺に覆いかぶさりながら、わんわんと泣き出した。こうなったらもう夜差を止められない。夜差の気が済むまで泣かせないと、これは終わらない。制服のワイシャツの肩口が勢い良く涙で濡れていくのが感じられる。仕方がないので、夜差の背中をさすりながら頭を撫でたり、ふわふわの髪の毛を梳いてあげたりした。


「なんかゴメンな……」

「うーーーーーっ……」


 一瞬でも羨ましいと思って。夜差の中では全然良い思い出なんかじゃないんだよな。自分の浅はかさを惨めに感じた。いやでも、やっぱりどう考えてもちょっと羨ましいだろ。


「ううっ、ひっ、うっ……」

「夜差、よさぁ、ごめんってぇ……」

「ん、む、んん……」

「ウヒっ!?」


 そのまま慰め続けていたら、耳の裏と項の間あたりにふにふにとした感触を感じた。直後、べろ、と舐められて一気に騙されたような気分になった。


「ッおい!」

「ふみくんのここ、ホクロある」

「ひ、……な、舐めんな! やめろ!」

「ん、ん……。んへぇ、ふみくんホクロ多いの? 数えていい?」

「嫌だ!」

「ここにホクロあるの知ってる?」

「し、知らない……そんなの、誰にも言われたことないし……」

「んふ、ふふ、じゃあ俺だけ?」

「え……? あ、うん……?」

「ふへっ、えへへ!」


 さっきまでわんわん泣いてたのに、今は急に笑い出した。めちゃくちゃ怖い。なんだよこいつ。


「夜差……あの……、漢検の勉強しよう」

「ふみくんは俺と一緒にいてくれる?」

「え?」


 夜差はそう言って俺を見下ろした。顔の両横には夜差の手が置かれていて、囲まれているみたいだ。チョコレートの香りが仄かに漂ってきて、背筋が凍った。


「ふみくんは俺と一緒だよね?」

「え?」

「ふみくんも俺と一緒で、恋愛とかしないよね?」

「……え」


 ……いや、しないとかじゃなくて、したくてもモテないからできないだけであって、したくないわけでは……。


「ね?」

「……ウン」


 夜差のくせに、何故か気圧されて、俺はノーを言う前に頷いていた。夜差は俺の答えを聞いて満足そうに笑って、俺に抱きついてきた。


「うおっ」

「俺、ふみくんが誰かと付き合ったりしたら、どうにかなっちゃうかも」

「え……?」

「ふみくん、ちゅー……」


 その口の形で、目を閉じて俺に顔を向けた。190近くの大男のキス待ち顔が目の前にあるの、嬉しくない。それでも、これを断ればきっとまた泣かれるに違いないし、1度トラウマを思い出させて泣かせてしまった手前、夜差を拒否できない。仕方なく、夜差の唇にキスをした。ちゅ、と可愛くリップ音が鳴る。


 あれ、俺ってこんなにチョロくて大丈夫?


「へへ、やっぱりふみくんが一番いいや」

「……ああ、そうですか……」


 結局この日、夜差は俺の門限が危なくなるまで俺を離してくれなかった。何故か夜差は雑に扱えない。俺は夜差奈之の事をみくびっていたかもしれない。間違いなく彼も厄介な陰キャだった。





7

 そしてまた、翌日のお昼休み。


「俺、昨日黒野くんとチューしちゃった」

「カーーーーーッ」


 変な声出た。慌てて隣にいる夜差の口を手のひらで塞いだけど、効果なし。漆はとんでもなくジト目で俺を見ているし、木闇は汚いものを見るかのような目で俺を見ている。勘弁してくれ。


「夜差くん、夜差くん、そんな事、してないよネ? ネ……?」

「なんで? 漆くんとチューした事はみんなに言ったのに、俺とチューした事はみんなに言えないの?」

「アッアッアッアッ、どうしようどうしよう、俺が悪?」

「……黒野」


 目の前にいる漆はいつも通り、読めない表情をしていた。絶対とんでもない事言うだろ。


「じゃあ俺ともう一度やっても良くないか?」

「とんでもねえな」


 ほら言った!


「えぇ、漆くんばっかずるいよぉ。じゃあ俺もいいでしょ?」

「こんなにモラルのない陰キャども初めて見たよ」


 ああもう、こんなんなら夜差も口止めしとけばよかった。したところでちゃんと秘密にしてくれるかは分からんけど。

 俺を置いて妙な小競り合いをしている漆と夜差をよそに、残りの木闇は大丈夫か? というくらいタンタンタンタンと貧乏ゆすりをしていた。俺達3人を見て、ぷるぷると震えている。怖い。今にも人を殴ってしまいそうだ。


「……マジでうぜえ、キモいし、お前らなんなの……? 内々でホモるのやめろや……」

「……」


 ……それは、俺もそう思うけど。


 木闇は小さく呟いて、それっきり黙ったままだった。木闇が完全に拗ねてしまった。これは面倒くさいやつだ。またか、と俺ら3人は密かにため息をついた。

 いや、漆と夜差のせいでこうなったんだから、お前らまでそんな態度を取るのはおかしい。





8

 木闇凪という男は、俺らの中では少し特殊だった。

 見た目や言動からも分かる通り、俺らとは対角にいるような男だし、俺達が勝手に毛嫌いしている人種でもあった。それが何故今俺達といるのかというと、答えは単純で、前いた陽キャグループからハブられたからだ。


「__じゃあこの解を、出席番号9番。えー、木闇」

「……」

「木闇ー?」

「……分かんないっす」

「途中まで解説しただろ! 簡単だし絶対分かるから!」

「だから、分かんねえっすって!」

「もー……。あとで個別で教えるから。今はとにかくちゃんと板書して」

「はぁー! めんどくさ!」

「面倒くさいの先生の方だからね!」


 いつものやり取りだ。木闇を当てても無駄だ。「分からない」以外の回答が出来ない。よく普通科に入れたなと思うし、なんなら俺は、こいつは裏口入学なんじゃないかと考えてる。

 窓際の席で頬杖をついている木闇を見た。窓が開いていて、色素の薄い髪の毛がゆらゆらと揺れている。黙っていれば、本当に画になる。高い鼻、色の薄い瞳、長いまつげ。日本人離れした顔立ちをしているけど、なんでもクオーターらしい。木闇は外国語が一切できない(そもそも日本語もできないけど)ので、勿体無い感じはある。木闇はつまらなさそうに窓の外のグラウンドを眺め、あくびをひとつして机に伏せた。


 数学の授業が終わり、次の授業の準備をしているとこのクラスの委員長が俺の席にやってきた。


「黒野くん、ごめん」

「はい?」

「えっとね、今日の午前にあった古文のノート、木闇くんだけ出してないみたいで……伝えておいてくれない?」

「ああ、うん」

「ごめんね、ありがとう!」


 委員長はほっと安心したように笑った。分かるよ、絶対出してくれない上に、めちゃくちゃ怖いもんな。言うだけ無駄だし。俺が委員長だったら絶対関わりたくないと思う。

 俺は大胆に寝ている木闇の席まで行き、ゆさゆさと肩を揺すった。


「木闇、起きろ」

「……起きてる、うるせえ」

「うおっ、なんだよ……。古文のノート出してないだろ? 出せって言われてるぞ」

「……ん」


 木闇はごそごそと机の中を漁り、ほぼ新品に近いノートを取り出した。


「ん」

「……え」

「は?んだよその態度。ありがとうございますだろ」

「いや……出してくれるんだと思って」

「……」


 木闇は俺を見てムッとした表情をし、ノートの背で俺の体を叩いた。


「いてっ!」

「調子のんなグズ」

「暴力反対!」

「うるせえな、お前もうあっち行けよ!」

「な、なんだよ!いい加減機嫌直せよ!」

「……ッ」


 木闇は勢い良く椅子から立ち上がり、俺に掴みかかろうとした。あ、ヤバイ。俺は目を固く瞑ったが、なんの衝撃もこなかった。目を開けると、酷く顔を顰めて俺を見ている木闇がいた。


「うぜぇ……」


 そう言って、鞄を持って堂々と教室を抜け出した。木闇が授業をサボるのなんて今更だけど、なんとなく今回は放っておかない方がいいんだろうなと思った。





9

 俺はサボるなんて高度な技はできず、授業を最後までしっかり受け、そして放課後、木闇の家に向かっていた。担任に渡してくれと頼まれたプリントもあったし、だから、ちゃんとした理由もある。

 木闇の家は夜差の家ほどではないけれど、学校から近いところにある。新築の高級そうな家が立ち並ぶ一角にあり、その中でも木闇の家は際立っていた。めちゃくちゃオシャレなのだ。なんせ、お父さんが建築デザイナーらしい。


 木闇家のチャイムを鳴らし、数秒待つと、中から通りのいい声が聞こえてきた。


「はあーい」


 インターホンは確認しない派らしい。ガチャ、と扉が開いて、とびっきり美しい女の人が出てきた。


「あらー! 黒野くん!」

「お久しぶりです。あの、きや……凪くんに、プリント届けに来ました」

「アイツ、またサボったの!?」


 木闇のお母さんは多分ハーフだろう。その端正な顔を一気に鬼の形相に変え、そして背後の階段に向かって大声で叫んだ。


「このドラ息子がァ! 降りてこい凪ィ!!」

「ヒ……」


 木闇の性格って、もしかして血筋か?

 俺には笑顔で出迎えてくれた人と、今目の前にいる人が同一人物に思えない。


「んだようっせえなババア! 大声出すんじゃねえよ!」

「クソ息子が! 早く降りてこい! 黒野くん来てるから!」

「ハァ!? 黒野ォ!?」

「……ごめんね、いつもうちの息子が……」

「アッ、いえ、そんなっ……」

「仲良くしてあげてね、あの子本当に友達いないの」


 怖すぎて萎縮していると、木闇のお母さんはまるで絵文字のようにきゅるんとした悲しい表情をした。俺がこの世で恐れているもの、もう1つあったわ。木闇のお母さん。


 暫く玄関の中で待っていると、荒々しく足音をたてながら階段を降りてくる音が聞こえた。木闇は俺を目視してげ、と顔を歪ませた。失礼だな。


「おいババア! 勝手に家ん中入れんなよ!」

「テメェ誰に向かって口聞いてんだよ、あ”あ? 黒野くんに失礼だろうが! 謝れ! 土下座で謝れ!」

「ああ、ああ、ああ!! いいんです、いいんです! 俺プリント届けに来ただけなんで……はいコレ……」


 この会話が日常的にあると思うと震える。俺はプリントを木闇に手渡し、今日はもうさっさと帰ろうと後ずさった。すると、木闇のお母さんが俺の腕をがしっと掴んだ。


「黒野くん! 凪が失礼で本当にごめんねぇ……。私さっきまでケーキ作ってたし、よかったら食べて帰って!」

「え……」

「はぁ!?何勝手な事言ってんだよババア! 帰れ!」

「オ”イ凪! それ以上口答えするとお前のメシ用意しねえぞ!! 黒野くん部屋に連れてってあげろ!」

「あ”〜〜〜〜〜っ!もうなんだようぜぇな!!」


 なんだよこれ、居心地が悪すぎる。木闇はイライラしながら俺に着いてこい! と言って階段を上った。いいんかい。

 木闇は自室の前に立つと、荒々しく扉を開けて中に入った。続いて俺も部屋に入る。シンプルなトーンで家具はまとまっていて、とてもオシャレでちゃんと片付いている。どこで買ったんだというくらいデカいルームフレグランスが床に置いてある。それもあってか、部屋の隅々までいい匂いがした。そうなんだよな、こいつ、めちゃくちゃいい匂いなんだよ。


「ほんと、意外に綺麗好きよな……」

「あ?」

「褒めてんだよ!」


 今日の木闇はとことん機嫌が悪い。何を言っても睨まれそうだ。間もなくすると木闇のお母さんが、それはそれは美味しそうな手作りケーキを持ってきてくれた。まず俺の家にはケーキを手作りする文化がないのでそこに驚いた。


「凄い、めちゃくちゃ美味しそう! ありがとうございます!」

「ヤダー、ふふ、ゆっくりしてってね。黒野くんなら泊まってってもいいよ」

「おいババア! だから余計な事言うなよクソが!」

「あー、はは、それはまた今度で……」


 最後に木闇のお母さんは木闇を一睨みして、親指で首を切る動作をして出て行った。怖すぎんだろ。実の息子にそれやる?


 それはそうと、ケーキはめちゃくちゃ美味しかった。あのお母さんがこんな繊細な味のものを作っていると思うと感慨深くなる。


「お前のお母さんマジですげえな」

「ヤベェヤツだろ。女じゃねえよ」

「すっげー綺麗だけどな。木闇によく似てる」

「……」


 俺の正面でケーキを食べている木闇と目があったが、すぐに逸らされた。無言の時間が続き、流石に気まずくなる。というかそもそも、今木闇はとても機嫌が悪いのだ。それを解消したくて木闇の家に来た。


「木闇、ごめん」

「は? なんの謝罪」

「なんか、いろいろと」


 木闇は俺を見て手を止め、フォークを皿の上に置いた。


「……マジで気色悪い」

「……ハイ……ごもっとも……」

「なんなの? お前、男が好きなん?」

「いや、全然……あいつらが……」

「あいつらのせいで、自分は巻き込まれただけの人間って言いたいのか?」

「……」


 ちくちくと言葉が刺さる。なんも言えねえ。確かに、確かに、俺もあれが自分の最大級の抵抗だったとは思っていない。本気で嫌だったら殴るなり突き放すなりしていたはずなのに、俺はなんだかんだ、まあいっかで見過ごしていた。


「ごめんって……その、もう、木闇の言う気色悪い事が起きないように努めますので……」

「……………………チッ!」


 舌打ちされた! なんで!? 何が気に食わない!?


「なあ、機嫌直せよ! あいつらも女子と関わんなさすぎておかしくなっただけだから! 明日からちょっとずつ女子と話す練習させるから! 明日から元通り、これでいいだろ!」

「……クソが」

「はあ???」


 木闇は立ち上がり、そして何故か俺の体を担いですぐ側にあった質の良さそうなベッドに放り投げた。俺が混乱していると、木闇は俺の胸ぐらを掴みながら馬乗りになってきた。木闇の顔からは、イライラが良く伝わってくる。そして、俺の嫌な勘がここでも発動してしまった。もう、本当、勘弁してくれ。


「……俺が世界で一番嫌いな事知ってるか?」

「……え、……あ」


 そうだ。こいつが最も嫌っている事。


「俺を差し置いて、俺の周りだけで騒いでんの」


 ぐい、と胸ぐらを持ち上げられ、その粗暴さとは裏腹に、驚くほど丁寧に、俺の唇に柔らかい感触が伝わった。その熱はゆっくりと離れていき、俺は唖然としながら目の前の木闇を見た。


「……」

「ア? んだよその顔」

「いや、木闇の事だから、もっと激しいのくるかと思ってたけど……」

「ハ?」

「あ、そうか、木闇も童貞だしな……」

「ハ”ァ”!?」

「あぶっ」


 今のは俺が煽ったから完全に俺が悪い。木闇は胸ぐらを掴んでいた腕を勢い良く離し、そして片手で俺の頬を挟んだ。


「……お前、つまりあいつらには、それなりにヤベェやつされたって事か?」

「いっ、イヤーーー、ぜんぜん、そんな事……」

「……マジでムカつく、うぜえ」

「き、木闇……ハブったとかそういうアレは一切無いから……というか、あまりこちらの気色悪いサイドに寄らない方がいいと思う……」

「……うるせえよ、マジモンの童貞がよォ……しゃしゃんなクソ童貞」

「あっ、おいっ! ごめんって! ッんんん!」


 木闇はもう一度俺の唇に自分の唇を寄せ、ぺろんと舐めた。くすぐったい! ペットに舐められているような気がする。堪らず口を少し開くと、歯列を確かめるように歯を舌でなぞってきた。そしてナメクジくらいのゆっくりとした動きで、じっとりと俺の口の中を隅々まで舐め回した。変、なんか変! 変っていうのは、丁寧すぎて!


「んむぃっ……う、うぅ! ンンッ! ぃあ、や、やぇ!」

「んっ、はッ……うるせぇ……ん……」

「んんーーーッ!!」


 なんでそんな、お前まで顔を赤くするんだよ! お前みたいなやつはいつもみたいに傍若無人であれよ! 変に意識しちゃうじゃん!! 一瞬息継ぎで木闇が口を離したのに合わせて、俺はストップをかけた。これ以上は、なんか、本当に駄目な気がする。今まで以上に。


「ッはぁ、きやみっ、もういいだろ、な? は、ハァッ、んんっ!」

「ん、ん……」

「ンーーーッ! ふ、ふ……、ウッ!?」


 あ、あ、あ! 木闇の手が、俺の、俺のお腹、素肌に! さわさわと撫でられて、その手はワイシャツの中をゆっくりと這い上がっていく。だめだめ、これ絶対だめだろ! あ、指、指が、探すようにどんどんのぼって、くるくるって、あ、そこ、胸の周りを…… え、 あ、


「ン”ッ!!」

「ふ……」


 カリッ! と形の整えられた爪が俺の乳首を引っかいた。瞬間、びく! っと腰が跳ね上がった。いや、普通に痛いんだけど!?


「んッ!! ぅアッ!ぅ!」

「……ハハハッ!」

「う〜〜〜〜〜ッ!!」


 カリ、カリ、カリ、と断続的に何度も引っかかれる。痛いはずなのに、引っかかれるたびにビリビリと熱が溜まる。木闇はそんな俺の反応をお気に入り召したのか、キスの合間に声を出して笑っていた。コイツマジで性悪! なのに手つきとキスの仕方は優しくて頭おかしくなりそう!!

 童貞を脱する前にこれ以上気色の悪い人間になりたくなかったので、俺は次に木闇の口が離れたタイミングで顔を逸らして、木闇の説得を試みた。


「きっ、木闇っ、いッ……う……も、も、これっこれは……違うだろッ……」

「……はー、お前みたいなザコを組み敷いて遊ぶの、気分いいわ」

「はっ、はっ……」

「すげーな、女みたいに立ってるけど」

「ンぐっ!!」


 カリカリと引っかかれていた乳首が、今度はギュッ! と強く摘まれた。情けなくて涙が出てきた。俺は、木闇のご機嫌取りのためになんで乳首を弄られなければいけないんだ。


「うっ……グッ……もうやめろって……ぐすっ……」

「……なあ、これ、下どうなってんの?」

「……え」

「……」

「……ちょ、お、おい、おい、……え」


 ぷち、ぷち、と片手で器用に、俺のワイシャツのボタンを外していく。__これは、笑えないだろ。


「なあ! 待って待って! 本当に、え!? なんでこんな事すんの!?」

「お前の反応が面白いから」

「これっ……強姦だぞ!?」

「うるせえな、お前の上裸なんて着替えの時散々見てんだよ。つーか、素肌に直接シャツ着てるやつになんも言われたくねえよ」

「ッ……」


 横暴すぎて言葉が出ない。ボタンを外す手は止まらないし、もう片方の手は俺の乳首を摘んでるし、俺はせめてもの抵抗でボタンを外している方の腕を押し退けようとしたけど、全然無理だった。そうだ、木闇は目があった全ての人間と喧嘩した事があるような男だった。俺が力で勝てるわけがない。


「なに? 抵抗してんの? 蚊かと思った」

「クソッ、クソッ……!」

「アハハッ! 黒野、カワイー」

「は……」


 今のは、本当に木闇の口から出た言葉だろうか。ただの揶揄い? 皮肉? それとも。

 なんて、うだうだと考えてる場合じゃなかった。木闇は最後のボタンを外し終わり、そして前立ての部分を持ち上げて、ゆっくりと開帳した。木闇は俺に馬乗りになりながら、じっくりと見下ろした。

 確かに、体育の着替えの時に俺の裸は見られてる。でも、こんな状況で、こんな恥ずかしい事をされてる最中にまじまじと見られるなんて、羞恥で死んでしまいそうだった。


「すげー、鎖骨まで赤い」

「っ、」

「……なんだ、触ってるよりちっさいな」

「ヒッ」


 ぴん、と乳首を弾かれた。今度は、直接木闇に見られてる状況で。恥ずかしすぎて、俺はもう己のプライドとか一切関係無くぼろぼろと泣いていた。


「ううーっ、うう……最悪……、木闇なんて嫌いだ……クソ強姦魔め……」

「あ? うっせえな、泣いてまでちっせえ悪口言うなよ」

「ひっ、うう、マジで嫌い……絶交だ……」

「……」


 聞いてない。コイツ、俺の乳首を見つめながら楽しそうにずっと弄っている。泣いたらもうどうでも良くなってきたし、痛みとか溜まってた熱とかも感じなくなってきた。されるがままだった。というか、抵抗できないし。


「う、うう……いつまで続くの……」

「なあ、これ噛んでもいい」

「……………………え」

「んぁ、」


 恐ろしい宣言をされて1秒後、木闇は口をパカッと開けて俺の乳首に顔を寄せた。は、と生ぬるい吐息が胸元にかかる。

 え、ちょっと、これは流石に、は、はぁっ??


「待ってーーー! これ以上は18禁になっちゃうーーー!!」

「黒野くーん! ケーキおかわりいらな……い……」

「「あ」」


 閑静な住宅街に、よく通る地獄みたいな声が響き渡った。






「クソ息子がァ!!! 弱い人間をプロレスに巻き込むの辞めろっつってんだろうが!!!」

「いてぇ!! おい! クソババア!! 死ぬ!!」

「はわわ……」


 はわわとか言っちゃったよ。目の前の光景が衝撃映像すぎる。木闇のお母さんが木闇にマジのプロレス技をかけている。木闇は酸素不足で顔を真っ赤にしていた。木闇のお母さんはあの光景を見て、どうやらプロレスをしてると思ったらしい。そんな事ある?


「ごめんねぇ! ほんと、どうしようもない息子で! ちゃんと躾けるから、これからも仲良くしてあげてね!」

「……は、はい……」

「死ぬ……」


 技をかけながら、俺の方を向いて木闇のお母さんはにっこり笑った。綺麗すぎる顔が今は恐怖でしかなかった。もう木闇の家には近寄らないでおこう。絶対的悪魔が住んでいる。おじゃましましたと言い、すぐさま家の外に出た。


 とぼとぼと舗装された道を歩きながら、さっきまでの事を振り返っていた。

 ……いろんな事を経験してしまった。シャツに擦れる乳首がヒリヒリする。木闇、俺の事ザコって言ってた。昨日の夜差だって、俺の事遠回しに自分より弱い人って。一昨日の漆だって……。クソ、みんなして俺を都合のいいひ弱な存在として扱いやがって。クソ、クソ!


「世界一悪質な陰キャどもだ!」

「うっせえよ、独り言は独り言の音量で言え」

「ヒョッ!?」

「ひょて」


 声がし、後ろを振り向くと木闇がいた。いつの間にか追いかけ来てたらしい。俺は咄嗟に身構えた。もうプロレスやらせてやんねえ。


「なんもしねえよ」

「……」

「駅まで送る」

「……別にいい」

「お前が俺に拒否するなんてなァ。何様だよ」

「お前こそ何だよ! ……あでっ!」


 べこ! と俺の額にデコピンをしてきた。こいつレベルになるとデコピンだって立派な暴力になる。痛くて必死に額を撫でていると、隣にいる木闇がふっと笑った気がした。


「俺は別にお前の事嫌いじゃないけど」

「……なんの話」

「……分かんねえならいいよ!」


 自分から話振っといて、いきなりキレだす。木闇もよく分かんねー。

 そのまま会話も少なく歩いていると、駅の前で木闇が俺を呼び止めた。


「なあ、お前、明日からは下になんか着といた方がいい」

「……」


 そう言って、俺の着ているワイシャツを指差した。

 それはその通りなので、木闇に正論を言われてしまった事とか、あとさっきまでの事とか、いろいろ考えて大変恥ずかしくなった。


「……ウン」


 バツが悪くなり、俯いて小さく呟いた。するとそれを見た木闇は突然俺の頬をむぎゅ! と指で挟んだ。


「んぐっ」


 咄嗟に顔を上げると、木闇は見たこと無いくらい優しく笑っていた。


「ハハ、カワイー」

「……んぇ……」

「……………………は? 俺今なんて言った?」

「……カワイー、と」

「……」

「お前それさっきも言ってたからな、俺に」

「……」

「……いてえ!!」


 木闇に勢い良く蹴られた。マジで痛い。痛いし、理不尽すぎる。なんなんだよコイツ、二重人格かよ。


「さっさと帰れ!!」

「言われなくても帰るよ馬鹿!!」

「あ”あ!? 調子のんなチビ!!」


 腹立つ、何なんだコイツ!

 俺は1度も振り向くことなく、改札までダッシュした。あいつは救いようのない馬鹿で、救いようのない人格破綻者だ。


 ああでも、殴る時以外の手つきは優しかった。





10

 そして、そして、翌日の昼休み。


「俺、昨日黒野とキスしたから」

「ハハハハハハハハッ!!」


 木闇は昨日のような不貞腐れた態度は取らず、堂々としながらみんなに告白した。

 開き直った。笑うしかない。俺はこの3日間で、たった3人しかいない男友達全員とキスをしてしまった。イカれてんな。


 漆と夜差はやっぱりか、みたいな表情をしながら俺を見ている。開き直ったとはいえ、俺はなんて操の弱い男なのだろうと改めて自覚し、恥ずかしくなって手で顔を覆った。


「つまり、俺らキス兄弟になってしまったな」

「穴兄弟みたいに言うなよ」

「穴兄弟ってなあに?」

「……夜差は知らなくていいよ」

 

 ああ、俺を介してこの3人に何かしらの絆が生まれている。全然健全なんかじゃない。本当に嬉しくない。

 こんな事が何回もあったらたまったもんじゃない。こいつらとの付き合い方をちゃんと考えないと。人間関係を築くのが苦手な陰キャは、度を超えるとこんなに狭い世界で自分の欲求を満たそうとするらしい。……というのは多分、ごく一部、こいつらにしか当てはまらないんだろうけど。


 この先の事を思案してはあ、とため息をつくと、目の前にいた漆が俺をじっと見つめた。今日も七三に分けた髪の毛がキマっている。俺は再度嫌な予感がして、すっと目を逸らした。でもやっぱり、俺の勘は当たってしまう。それはまるで今日ドンハンしよう、くらいの軽い口振りだった。


「なあ、俺達付き合わないか?」

「は?」


 ……ああ。


「嫌だよ〜! 漆くんなんて!」

「オエエエ、冗談も大概にしろよ」

「……」


 違う、多分、漆が言いたいのはそういう事じゃない。


「違う、お前らじゃない。俺と黒野だ」

「え?」

「は?」

「………………」


 ひくり、と口を戦慄かせた。冷や汗が流れる。


「なんで、なんで! 黒野くん誰とも付き合わないって言ったのに! そんなんなら俺が付き合う!」

「ハ? 俺は二股は許さない」

「そんなん俺もだよ!俺と黒野くんだけで付き合うの!」


 ああー! もう、夜差も加わって面倒くさい事になった。こうなったらもう1人、仲間外れを徹底的に嫌うあいつも加勢してくるだろう。


「お前らマジでキモい、なんでお前らレベルの人間が誰かと付き合えると思ってんの?俺だろ」


 木闇、ほらな! こうなるんだよ!

 俺は頭を抱えた。ほんと、なんで、こうなっちゃたんだろう。頼むから、4日前の俺達に戻してほしい。もう二度と前のような関係には戻れないだろう。なんか、なんとなく、そんな気がする。


「黒野、誰と付き合う?」

「俺だよね!」

「発言によっては容赦しねえ」


 全員の視線が俺に刺さる。いらない、こんなモテ期。まさか男だけに求められるとは思わないじゃん。しかもみんな動機が不純だし。神様の優しさにデバフがかかりすぎている。


「黒野」

「黒野くん」

「おい、黒野」


 3人が俺の言葉を待っている。

 もう、そんなの、答えなんて1つしかない。


「いや……全員嫌ですが……」


 漆の目は真っ黒に染まり、夜差は泣き出し、木闇は俺を殴った。


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